はじめに 天日槍(あめのひぼこ)の謎

但馬国一宮出石神社本殿鰹木

 はじめに

但馬の国はどのように誕生し、我々祖先はどのように暮らしてきたのか?

キーマンとしてまずあげられるのがアメノヒボコだろう。

但馬に暮らす人々にとって、アメノヒボコを知らない人はまずいないであろう。

アメノヒボコは、『古事記』では「天之日矛」、『日本書紀』では「天日槍」と記される。
『記紀』には新羅しらぎの王子で、日本にやって来て、但馬・出石に留まり、日本に帰化して初代多遅麻国造たぢまのくにのみやつことなるとされている。

歴史にあまり関心がない人なら、この伝承をそのまま受け止めて、アメノヒボコは新羅の王子で、帰化して、初代多遅麻国造たぢまのくにのみやつことなることに、何の疑問も持たないかも知れない。

しかし年齢を重ね神社や郷土史に興味を持ち調べていくと、とんでもない矛盾と降って湧いたような登場の仕方が極めて不自然で作為的な記述であることに疑問を感じていた。アメノヒオコは、考察すればするほど謎めいた疑問が多いと気づくのである。

まだ始まったばかりの本格的な研究

『アメノヒボコ-古代但馬の交流人』(瀬戸谷晧・石原由美子・宮本範熙共著 神戸新聞総合出版センター 1997.7.10 第一刷)には、「江戸時代にも中央の学者はいうにおよばず、いままでみてきたように但馬の知識層にあってもヒボコに言及し、神社の祭神として創作してきた人たちがいた。しかし、何といっても本格的な研究は、昭和も後半期になってからはじまったといっても過言ではないだろう」と記述されている。
(中略)
この書のなかで、

ここで本格的な研究というのは、石田松蔵氏の名著『但馬史』1(1972)のなかの「天日槍」においてである。氏は、40ページをあててヒボコ問題を整理し、説明した。それは、但馬に残る伝承や説話の類を拾えるだけ拾いあげて分析・検討し、解釈し、また最新の研究成果を分かりやすく説明したものであった。単に当時の研究成果を手がたくまとめたのみではなく、いくつかの斬新な見解も提起している。

彼はまず、ヒボコと一族の活躍は古代の各史書には華々しくみえるが、その後には続かず、所縁の出石やその周辺はもちろん、但馬や日本の歴史のなかに再び現れないという事実に注目する。そして、ヒボコ関連の伝承や神社の分布が、出石川上流域から円山川流域に集中し、但馬の他の地域に広がらないという重要な指摘を続ける。

(中略)

第二の重要な指摘は、三宅吉士石床という人物とヒボコ伝承の関係である。彼は、壬申の乱に大勝し支配を確立した天武天皇に味方して活躍し、その功によって吉士から“連”に位を進めた人物である。吉士がもともと渡来系の人たちに付される姓であることからも知られるように渡来氏族である。したがって、三宅氏が古代天皇制国家で活躍していくためには、天皇の徳を慕い忠誠を尽くす渡来者集団のトップでなくてはならない必然があった。三宅氏はタヂマモリ(田道間守)をその祖と伝え、ヒボコにつなげる伝承を作為提出し、『日本書紀』編纂のなかに乱の論功行賞として収録されたのではないかとする考えである。」

しかし、ヒボコが大きくクローズアップされるきっかけとなったのは、平成6年(1994)におこなわれた「但馬・理想の都の祭典」のなかでヒボコに関わる「但馬古代文化のルーツを探る-古代但馬と日本海-」や「大但馬展」開催中に実施した黒岩重吾氏による講演会「作家のみた天日槍とタジマモリ」、いずし但馬・理想の都の祭典実行委員会が開催した環日本海歴史シンポジウム「渡来の神 天日槍」などは、きっちりと記録を残す事業となった。史発行日は1997年、いまからまだ20数年前である。ヒボコを但馬の人間が本格的に研究しようという機運が生まれた。」

また、同書は『Ⅱ 古代但馬人の交流人』第一章 文字の資料から探る 一、文字資料の限界
で「基本的立場」として、

「まず、その検討素材そのものが信頼するにたるかどうかという問題がある。新しい時代に捏造されたことが多くの研究者に指摘された『但馬故事記』という本があるが、たとえばこれに載せられた人名の扱いについてである。書かれた時代の知識人の研究は欠かせないが、古代の渡来人を探るためにはむしろ害になる資料だ。文献そのものの資料批判が大切である。」

また『校補但馬考』について、『アメノヒボコ-古代但馬の交流人』はこう記している。

『校補但馬考』

出石藩主仙石実相の名を受けて、桜井舟山がまとめた著書が『但馬考』。時に宝歴元年(1751)のことだ。但馬の歴史は言うに及ばず、制度・年代・地理・人物の四分野にわたって、文献資料を丹念に考証して述べたものであった。
その後、出石藩には弘道館という藩学が設けられ、桜井一族がこの分野で活躍を続ける。子の石門が但馬関係史料を「但州叢書」としてまとめ、さらにその子の勉が祖父の業績に大幅な増補を加えて刊行(大正十年.1921)したものが大著『校補但馬考』であった。現在においても、その引用文献の豊富さや徹底した質・資料批判という点において、但馬史研究の出発点の地位を失っていない。

優れた批判精神

桜井の優れた研究姿勢は、『校補但馬考』に明確に認められる。本論の前に629点もの引用書目を一覧して示し、わざわざ次のような断り書きを入れている。「以上の外、但馬地誌に、但馬記、但馬発言記、但州一覧集の類ありといえども、その書には誤りが極めて多し。国司文書なるものあり、分けて故事記八巻、古事大観録三巻、神社系譜伝八巻となす。しかしてその書まことに杜撰妄作に属す、ゆえにこれを引用せず」と明記してその立場を明らかにした。いかがわしい文献は信じられないし、論評することすらしないというわけである。このことは、梅谷光信氏は、出石藩以外の藩学や私学では「但馬史の系統的な研究がなされなかったから」できたことであろうが、その背景に但馬の雄を競う出石藩と豊岡藩の学問的闘争の継続といった側面があったかもしれない。

出石藩学の流れをくみ、集大成したものに桜井勉の『校補但馬考』があり、他方、『国司文書(但馬故事記など)』を信じる派の流れを受け継ぐのが、昭和13年(1937)に刊行された『兵庫県神社誌』の仕事である、としても過言ではあるまい。

つまり、桜井勉氏らが『国司文書(但馬故事記など)は捏造であると述べているから捏造なのだと述べているだけであって、新しい時代に捏造されたとする具体的な根拠といえる立証は行わず、考古学会や偉い歴史学者が述べていることは間違いないとする閉鎖的な慣習であって、それこそ弊害ではなかろうか?!

こうした始まったばかりのヒボコの研究も、ヒボコは新羅国王子である、渡来人でなければならないとする固定観念が出発点にあり、本当なのか記紀の批判検証はあまり行わず、そこからスタートしている。その頃は半島最南端は倭国の一部で倭人が多く住んでいたのであり、新羅も百済も国自体もないのに渡来人であるはないだろうに…。

しかし、2017年、20年が経過して、新しい発見や、近年そうした歴史学者とは異なり、その『国司文書 但馬故事記』を何度も精読しているが、その詳細な記述がとても創作であるとは思えないばかりか、前半は神話によるものであるが理路整然と記されている。固定観念にとらわれない歴史書、韓国朝鮮の歴史の真実を紹介する異分野の方の著作が多く出版されるようになった。

 

『アメノヒボコ、謎の真相』(関裕二)は次のように書いている。

『日本書紀』を読み進め、最新の考古学情報を照らし合わせると、あるひとつの事実が浮かび上がってくる。それは、アメノヒボコに関わりの地域のことごとくが無視され、「なかった」ことにされてしまっていることだ。ヤマト建国で最も活躍した地域(但馬を含むタニワ・大丹波国や若狭・近江などヒボコの関わる地域)が、『日本書紀』の記事からすっぽり抜け落ちているのである。アメノヒボコは歴史解明の最重要人物だからこそ、実像を消し去られた可能性はないだろうか。

(中略)『日本書紀』が歴史を書き換えていた可能性は高い。『紀』はヤマト建国の歴史を熟知していて、だからこそ真相を抹殺し、歴史を改竄してしまったのだ。(中略)『紀』よりもあとに書かれた文書の中に、『紀』と異なる記述がある場合、『紀』の記事を信じるのが「当然だ」と、史学者は考える。「事件現場に最も近くにいたお役人の証言は信頼できる」という論理だ。

 

あめのひぼこの疑問点

  1. その1 記の日矛と紀の日槍の違いは?
  2. その2 日槍、日矛というので鉄・武器に関わる神なのか?
  3. その3 神号の天日槍命の「天」は天津神(皇統)ではないのか?渡来人に天を与えるなどあり得ない!?
  4. その4 『記紀』では、天日槍命は新羅国の王子だとしているが本当に新羅(朝鮮)の人なのか?
  5. その5 なぜ新羅からやって来て、帰化すると初代国造になれたのか?
  6. その6 ヒボコの伝承はなぜ出石周辺に限られるのか?
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