第6章 3.ヒボコは日本人だった。天皇の皇胤

終章、まとめとしてこのタイトルの結論に。

縄文時代からヒボこの頃まで、今の韓国に当たる半島の南部湾岸部はワ・やまと国の一部である

『古事記』応神天皇記(712年)では、その昔に新羅の国王の子の天之日矛が渡来したとし、『日本書紀』(720年)では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記されている。

当時の新羅は、金海市周辺の任那伽耶諸国であって、記紀のころ(712・720)の「新羅国」と「倭国」の関係では、新羅国は存在したが、ヒボコの時代には、半島南部には百済・新羅もまだ存在していないし、その前の馬韓・弁韓・辰韓三国より倭国統一がずっと古い。そして新羅としてまとめていった母体の王は倭人によるものであって、その子孫がヒボコなのだ。その証拠に日本列島の前方後円墳よりも後に当たる前方後円墳が、そうした半島の西南端から5世紀後半から6世紀前半14基は確認されているのだ。それは、縄文から当時まで、朝鮮半島はまったく未開地に等しく、対馬に近い半島南部は倭国の一部であった。いない最盛期に都を置いた半島東部の慶尚南道の慶州とは無縁である。その後の南端中央部が弁韓となるのが、任那伽耶諸国である。

天日槍(ヒボコ)は、天皇の皇統である=倭(大和)の天皇の血統

『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記には、「人皇六代孝安天皇53年、新羅王子天日槍命帰化す。」とあるが、さらに「天日槍命は(神武天皇の父にあたる)鵜草葺不合ウガヤフキアエズ命の御子、稲飯命五世の孫なり。鵜草葺不合命は海神豊玉命の娘、玉依姫命を娶り、五瀬命・稲飯命・豊御食沼命・狭野命を生み給う。」

そして稲飯命と豊御食沼命は海路を紀の国へ出ようとしたところ強く激しい風に遭い、漂流して稲飯命は新羅に上がり国王となりとどまられたと記している。このように新羅の皇子が帰化、または渡来したとされるが、当時の百済、新羅は倭国の属国であり、国王稲飯命は神武天皇の父にあたる鵜草葺不合命の二番目の子であり、天日槍命はその五世孫であるから神武天皇とは同じ系統である。

『三国史記(新羅本紀)』(1145年)には、

57年 4代王「脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。」(注:中国の1里は約400mであるので、一千里は400kmとなる。)この多婆那国は但馬あるいは丹波ではないかとする説がかなりある。

しかし、私はこの「但馬あるいは丹波」の分類が時代的に間違っているように思う。この時代には但馬も丹波(丹後)もまだなく、丹波の中心は今の丹後で、のちに丹波は丹波と丹後・但馬三国に分国されたのだから、今の但馬だとか丹波・丹後だというのはあまり意味はない。多婆那国は但馬も丹波・丹後も含まれるからである。

多婆那国の那は奴とも書き、隋書東夷伝には「倭奴国」とあり、倭も奴も中国や朝鮮における派生的な蔑称であるので多婆国とした方が正しいと思う。多婆と丹波は発音が似ている。

当時日本の文献では田庭とも記され、但馬は元は多遅麻や谿間と記された。それらの漢字に意味はなく、タニワ、タンバ、タニマ、タヂマ等同じことを指すように思える。

伽倻・新羅建国の王は倭人

(斜線部分は伽耶諸国)

なお、アメノヒボコは新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もある。また、秦(中国)の秦氏ではないかという説もある。新羅王族であった昔氏は、日本(倭)の多婆那国から新羅に渡り王となったとする。金という姓が最大だが、金氏も地方に異なるようだ。その中でも金海金氏が韓国では最も高貴で由緒があるとされるらしい。

しかし、金海とは任那伽耶である。その金氏のルーツは日本人であると知れば、益々何もかもデタラメな朝鮮半島の歴史は、崩壊しかねない。

(新羅王族の王子であるヒボコは、但馬・出石に定着した。ただし、昔氏のもともといた場所についてはこの他に日本の東北、丹波等が上げられている)。

日本書紀の意富加羅国とは、朝鮮半島南西部の伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)であり、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。

任那は伽耶諸国の中の大伽耶・安羅・多羅など(3世紀から6世紀中頃・現在の慶尚南道)を指すものとする説が多い。これは大駕洛という国の名前が伝わる際にその音を取って、新羅では伽耶・加耶、百済や中国では伽耶カヤ、あるいは加羅カラと表記されていたためだと言われ、日本(倭)では任那(みまな)とも表記され、南部の金官郡(金官伽耶)だけは任那は日本府の領域として一線を画していたが、562年に新羅の圧力により滅亡した。

 

朝鮮半島から伝わったのではなく、日本人の祖先は二度朝鮮の基盤をつくった

今日の研究では未開地だった半島に弥生土器や稲作も北部九州から半島南部へ伝わったようで、モンゴル系統の高句麗、南は縄文人から倭人によって土器や稲作が伝わり、やがて村に近いクニを形成していった。中央部にはワイ族という先住民がいた。

イギリスのかつて大英帝国として植民地があったように、百済・新羅は外国というより倭国の属国あるいは朝貢国であった。但馬国の国と新羅の小国の加羅・安羅・任那などの国は同じ倭国の中の小国(くに)といった方が正しいだろう。同じ大英帝国であったインド領や今でも英連邦のオーストラリア、ニュージーランド、カナダなどから本国イギリスに戻ったからといって国籍は違っても帰化したとは言わないだろう。

紀元前150年頃は、中国の『漢書』に記された前漢代、日本の弥生時代中期にあたる。『漢書地理志』によ倭、倭人が登場する。1世紀中葉の建武中元2年(57年)になると、北部九州(博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国(ここで云う国とは、中国で云う国家というよりクニすなわち囲まれたムラの規模)の首長が、後漢の光武帝から倭奴国王に冊封されて、金印(委奴国王印)の賜与を受けている。

倭人は北部九州をはじめ壱岐、朝鮮半島南部やに当たる。の百済の前進である馬韓、や任那日本府、加羅、安羅などのクニがあった弁韓、東部の新羅の元となる辰韓はその倭国107年の文献に名を残す日本史上最古の人物である帥升は、史料上、倭国王を称した最初の人物でもある。さらに「倭国」という語もこの時初めて現れている。これらのことから、この時期に、対外的に倭・倭人を代表する倭国と呼ばれる政治勢力が形成されたと考えられる。

 天日槍の出自と倭韓一国説

最後に、『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記の巻末に以下の文が注解として著者、吾郷清彦氏も、天日槍の出自で倭韓一国説として付記しています。

天日槍来朝の叙述や、その子孫の記録は、他書を抜いて最も詳しく、まことに貴重な資料である。ことに、神功皇后すなわちお息長帯姫命の母系先祖との関係、および稲飯命の子孫と称せられる新羅王の系譜についても、相当詳しい叙述を行なっている。

依って今、ここに天日槍命の帰化と新羅王が稲飯命の子孫であるか否かについていささか触れてみよう。

天日槍は、勅使(三輪君の祖大友主命、倭直の祖長尾市命)の問いに対し、

「僕は新羅王の子、我が祖は秋津州(日本列島)の王子稲飯命。しかして僕に至り五世におよぶ。只今秋津州に帰らんと欲して、吾国を弟の知古に譲りこの国に来る。願わくば一畝の田を賜りて御国の民と為らん」(本郡記・孝安天皇五十三年の条)

いま『日本古代史』(久米邦武)を見るに、天日槍命の帰化を孝元朝と考定し、この命が但馬および伊[者見]の主となった事由を次のごとく述べる。

「孝元帝の時は倭国大乱の最中なるに、天日槍命の但馬および伊[者見]の主となりたるは、伊[者見]県は儺県に近接し、伊[者見]津は女王卑弥呼の時に漢韓より亭館を設けて、交通の要衝となしたれば、その接近の地を占領せしたるは、伊[者見]県に去りがたき縁由のありての帰化なるべし」

(中略)

この命が但馬に定住するに至った左の一文は、記紀・ホツマおよび本巻によって肯定することができる。
「丹波主家は、息長宿祢に至って、但馬日高の娘・高貫姫を娶り、息長帯姫皇后(神功)の新羅遠征など、但馬氏・息長氏と丹波主家とは浅からぬ縁故のありて、新羅と気脈を相通するに似たり。また日本書紀に天日槍は但馬出島人太耳の娘・麻多鳥を娶り、但馬諸助を生むとある。太耳は以前よりの県主にて、天日槍を迎えたるものにあるべし」

息長帯姫(神功皇后)は天日槍の七世孫・高貫姫を御母とするので、新羅王の血が混じっていることになる。けれども、この新羅王が新羅国の祖、朴赫居世干ザツキョセカンすなわち稲飯命いないのみことの子孫と伝える記録を事実とすれば、神功皇后の血統は本来皇胤こういんであることとなる。

従って、これは血族の里帰りと云うべきだろう。

(*1 長尾氏は代々出石神社の宮司(神官)家)

久米邦武は自著『国史八面歓』で、
「元来新羅は神代より出雲の兼領地で、周漢寄りの半島をカラと称し、筑紫(いまの北部九州)・中国・四国等の連島を倭と称したが、その頃においては、倭・韓は一国であって云々」と論じ、韓史に基づき倭韓一国説を主張する。


[註] 新羅(しらぎ/しんら、紀元356年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。「新羅」という国号は、503年に正式の国号となった。天日槍が任那・加羅の王子であったことは充分考えられるが、新羅(半島東部)は新しい国家で、倭や古墳時代には縁がない事。
記紀を編纂した当時にはすでに新羅あったが、天日槍の伝承の頃には半島に国家はないのだ。ずっと以前にあった事を聞きながらまとめあげたのだから、(いまの)新羅の皇子と記したとも考えられる。

以上、『国司文書 但馬故事記』解説 吾郷清彦
、他から拙者が加筆した。

新羅王族は日本語を話していた

『韓国人は何処から来たか』長浜浩明氏

最初に朝鮮半島へ移り住んだのが縄文人ですから、最初に話された言葉は縄文語であることは容易に想像できます。そして三国時代から任那滅亡までは半島南部は倭人の地であり、当然日本語が話されていました。

その北は韓人が住んでいましたが、彼らは倭人との交渉もあり、日本語と相通ずる言語が話されていた状況証拠はいくらでもあります。

記紀には天日槍は新羅の王子とあるが、「今の新羅にあたる半島南端部は、かつては伽倻・任那といって倭国の分国であったが…」この補足が欠けているのである。天日槍がいたクニとは、九州北部と同じく倭人の国・加羅・任那であると考える。

その理由として、

  • 日本には1万ともいわれる旧石器遺跡が発見されているが、朝鮮半島はわずか50ヶ所程度で無人地帯に近かった。
  • 前5,000年から紀元前後まで、5千年の長きに渡り、縄文人(日本人)が半島へ進出していた
  • 新羅王族は日本語を話していた
  • 辰韓人と弁辰人(伽倻)は習俗が、風俗や言語は似通っていたが、辰韓(のちの新羅)は異なっていたこと。
  • 加羅国、安羅国は紀元前2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部に存在した三韓の一つ弁韓の少国であること。
  • 倭の前方後円墳は北はソウルから西は栄三江流域から釜山までつくられている。

天日槍がいたクニとは、おそらく馬韓(のちの百済)の東、辰韓(のちの新羅)の南で、日本海に接し、後の任那・駕洛(伽耶)と重なる場所にあった地域である。

九州北部・対馬・壱岐・済州島などの島々・半島南部は縄文人から倭人が開発した地域であった。

『日本人ルーツの謎を解く』長浜浩明氏は、

当時の九州の人たちは、縄文時代から半島南部に根を張り、日本と半島、場合によっては大陸を含む交易に従事していた。(中略)

今まで「大勢の渡来人が日本へやって来た」とされた時代、逆にかなりの日本人が半島へ進出していた。半島南部から発見された多くの遺跡や縄文土器、弥生土器がこのことを証明している。(中略)平成十年(1998)、青森県の太平山遺跡から1万6千年前の土器が出土した。それまで世界最古の土器は約8千年前というから、エジプトやメソポタミアは勿論、「偉大なる中国民族」より何千年も前から、日本列島の人々は土器を作っていた。世界四大文明より数千年も早い9千6百年前の九州の上野原遺跡からは、弥生土器と見間違う約7千5百年前の土器も発掘されている。つまり縄文時代の人たちは世界最先端であり、世界最古の文明は日本列島だったのだ。縄文晩期の水田稲作や尺で図った精巧な木組みの高床式建築の遺構が多く見つかり、技術力はその頃から巧みであったのだ。

天日槍は神功皇后の血統、本来皇胤こういんである

かつて学校で、「弥生時代に大量に渡来人がやって来て弥生土器と水田稲作を伝えた」と習った人もいるであろう。縄文人はお酒(山葡萄酒)もたしなんでいた痕跡も見つかり、コメ以外に麦・粟・稗・豆の五穀も栽培し栗の木を植え栃の実からもちを作り食べていた。また野山の果実や山菜、海の幸はアサリ、ハマグリ、サザエから魚介類は取り放題。そういう意味では現代人よりグルメだった。

弥生人は渡来人だとの固定観念に縛られた考古学者などの執筆者の固定概念が新しい発見により違っていたことが分かってきたのだ。日本は半島や中国からやって来た人が稲作や文化を教えられたなどでは自虐的な教科書がなら日本史が楽しいはずがない。

また、弥生時代の稲作は朝鮮半島ではなく、中国大陸の江南(長江以南)から日本列島及び半島南部にもたらされたとされたという説も根強い。しかし、大陸からわたって来た人は年に2、3家族程度だったようである。今の日本の方が中国永住者は圧倒的な数だ。

半島南部に稲作が伝播したのはおそらく縄文人・弥生人であり、また日韓併合により全土に稲作を広めたのは植林・農地改革によるものである。

倭(日本)人と朝鮮半島の人とくに女性のDNAに同じD系統を持つ人がいるのは、元々倭人の子孫だからであり、日本人のルーツが半島にあるのではなく、逆で半島が倭人のDNAが混在しているからなのである。


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