【但馬の城ものがたり】 山名氏(10) 村岡陣屋(美方郡香美町村岡区御殿山)

七美(ひつみ・美方郡東部)で城というと、やはり村岡陣屋です。
  

村岡陣屋・御殿山公園(美方郡香美町HPより)

八代義方が文化3年(1806)に陣屋を尾白山(今の御殿山公園)に築いて、代々この場所を本拠として七美五郷を治めました。

明治4年に村岡藩は豊岡県と合併し、明治7年には陣屋も取り壊され、跡地の一部は御殿山公園または桜山と呼ばれて町民の憩いの場となっていました。

昭和33年に、県立村岡高等学校が公園内に建築されましたが、昭和57年の校舎新築移転により、陣屋や高校跡地を再整備し現在の御殿山公園となりました。
公園内には、山名氏の陣屋跡、歴代藩主の墓所などが整備され、幕末に建てられた奥方部屋も現存しています。春の桜、秋の紅葉などの景色も見事です。

清和源氏の名門新田一族。新田氏の祖である新田義重の長男、三郎義範(または太郎とも)が本宗を継承せずに上野国多胡郡(八幡荘)山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)に住して山名三郎と名乗ったことから、山名氏を称して山名氏の祖(山名氏初代)となったとされます。

それから六代(八代とも)を経て時氏となりました。時氏は因幡国・伯耆国・丹波国・丹後国・美作国の五カ国の守護となりました。時氏死去のあと五男はさらに領土を広げ、全国六十余州のうち、十一ヶ国の守護をかね世に「六分一殿」と呼ばれました。
時氏の第三子氏冬は因幡守護となり、六代目の豊国は守護館・布勢天神山城にいましたが、若狭国の守護大名を務めた若狭武田氏の庶流とされた武田高信の父・武田豊前守国信は、因幡山名氏のもとにあって客将として優遇されていました。山名誠通の時に自ら申し出て鳥取城番となり、一国一城の主への野心を秘める国信は鳥取城の大改築を行います。

父のあとを継いだ高信は鵯尾城(鳥取市玉津)にあったが、引き続き因幡山名氏への叛意を露わにし、鳥取城の奪取に成功します。高信は安芸国の毛利氏と結び、永禄6年(1563年)に鹿野城にいた山名豊成(旧守護・山名誠通の子)を毒殺し、次いで湯所口の戦いで山名氏の重臣・中村伊豆守豊重を敗死させる。さらに守護館・布勢天神山城を攻撃して因幡守護・山名豊数を鹿野城に逐い、同じ山名一族の山名豊弘を擁立して因幡国での優位を決定的にする。

布施城を襲って豊国を攻めようとしていました。豊国は芦屋城主塩冶周防守とはかり、これを討とうとしましたが、高信は反対に芦屋城を攻め、これを倒してしまいました。

その後豊国は山中鹿之助の助けを借り、高信は山名氏に属していた但馬国芦屋城の塩冶高清を攻めて大敗。ついに居城・鳥取城を山名豊国に明け渡すこととなりました。豊国は鳥取城に移り、出雲の尼子氏と結んで勢力を張っていきました。中国の毛利氏が攻めてきますと和睦しましたが、天正元年(1573年)、毛利氏の武将・吉川元春に攻められて降伏して毛利氏の軍門に下りました。

天正6年(1578年)から織田信長と誼を通じたものの、天正8年(1580年)に織田氏の武将・羽柴秀吉が山陰に攻めてきますと、とうてい羽柴の敵ではないとみて軍門に下ろうとしましたが、家臣たちは毛利氏に対する義理を重んじて命に従いません。そこでひとまず生野(兵庫県朝来市)に逃れました。

秀吉の軍と共に吉川経家が籠もる鳥取城を囲みました。豊国はこれに従い大いに活躍し、兵糧攻めにより数ヶ月ののち鳥取城は落ちました。

天下統一後は秀吉の御伽衆となり、天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では肥前名護屋城に在陣。秀吉の没後は徳川家康に属し、関ヶ原の戦いの戦功により、慶長七(1601)年、但馬七美郡一円をたまわり、6千7百石を治めることとなったのです。ここに村岡藩が生まれたのです。

豊国は家臣の三上縫殿源豊直にいいつけて、八木、田結庄などを率いて兎束に陣屋を造りました。
豊直は、江戸詰め執事中村十兵衛の意見を聞いて、鉱山をI掘って財政を固めようとして、射添荘山田村に鉱業所ををつくり、これに力を入れました。そのため財政は割合豊かでした。

豊国は連歌の名手で教養人、かつ名門の出身ということで家康から厚遇され、零落した但馬山名氏の旗本への取立を願うなど山名氏再興に尽力した。豊国は京都の花園妙心寺境内のなかに、東林院を建てて仏道に帰依しました。寛永三(1626)年十月七日、79歳の高齢で京都の地で亡くなりました。藩祖として廟を村岡町と美方町の境、十二峠につくり、領内の人々から大変尊敬されました。

1642年、第3代矩豊が黒野村に陣屋を移して地名を村岡と改めた。さらに1806年、第8代義方が陣屋を尾白山に移し、家格にふさわしい体裁を整えた。

「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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【但馬の城ものがたり】 七美(ひつみ・美方郡東部)の古城ものがたり(美方郡香美町)

高堂(たかどう)城

香美町村岡区総合庁舎の裏山、観音山に大谷城主田公氏の一族の支城、高堂城がありました。天正五(1577)年十月、但馬征伐で羽柴秀吉の家臣宮部善祥房が攻略に向かいましたが、その後高堂城は落城しました。

祖岡(けびおか)城

祖岡村(けびおかむら)に鎌倉時代温泉庄の奈良宗光の弟の正員(まさかず)が築城したと伝えられる祖岡城があります。建久のころ(1190~1198)には養父郡八木氏の一族高茂の城となり、八木氏のあと康永年間(1342~1344)以後は中村氏の城となって、大谷城主田公氏の支城となりました。天正八年(1580)六月十八日、秀吉(実勢部隊は秀長)が因幡(鳥取県)に攻め込んだ時に、この城に休憩し、道案内までしたのですが、天正十年八月十五日夜、入浴しているところを刺され、その後絶えたといわれています。

長板(ながいた)城

祖岡城から川に沿って東に三キロほど行ったところ(国道9号線春来峠付近)、長板村に祖岡城の支城、長板城があり、これも田公氏の城です。天正五年(1577)十月、羽柴秀吉の家臣、藤堂孝虎が大谷城を攻めたとき、長板城を捨て大谷城とともに秀吉方に戦いをいどみましたが力つきて敗れ、それ以後廃城となりました。

丸味(まるみ)城

丸味は春来峠の長城近くの村ですが、延徳年間(1489~1491)、板倉兵庫源周利(みなもとのかねとし)が丸味城にいました。のちに中国地方の大内義弘が山陰攻めをし、但馬にも攻めてきました。そのとき丸味と、春来の境の生姜谷で戦いましたが、多勢に無勢、ついに討たれてしまい城も落ちました。丸味にある鎧神社は板倉兵庫源周利の人徳を讃えて、村人によって祭られたのだということです。

中山城

国号9号線但馬トンネルを出て左(南)に、頂上が平になった山が見えます。大谷川と大野川にはさまれたこの山に中山城のあとがあります。本丸、二の丸、三の丸を堀切で区切り、石垣を積み規模は小さいですが整った城で、堀切も十メートルに及ぶものが数カ所も残っています。

鎌倉時代は菟束(うづか)氏が、南北朝のころは上野氏の城になり、のち八木氏(養父市)の支城となり、天正五(1577)年、羽柴秀吉の家臣宮部善祥房の但馬攻めのよって落城し、因幡の国に逃げたのですが用瀬(鳥取県鳥取市)の戦いで滅んだそうです。立派な城にしては残っている話が少ないのです。

「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

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【たじま昔ばなし】 竹田城にまつわる昔ばなし

千石の米を食べた千石岩

竹田城は三百㍍もある山上に築かれています。こんな高いところにどうして城をつくったのでしょうか。今のように機械の力があっても並大抵のことではないのに、人の肩と手と足をただ一つの頼りとした五百年も昔では、考えることもできない大変なことだったのでしょう。

竹田の町はいうまでもなく、但馬の国中から、遠いところでは鳥取や岡山あたりからも、築城のために多くの町人や百姓が駆り出されて十三年もの間、明けても暮れても労役として使われました。あまりの苦しさにこの十三年間に、村中みんな夜逃げをするところも多く、驚いた築城奉行は、「夜逃げをする者は一家一族死罪にする。」というふれ札を立てました。このふれ札は今でも残っています。この話一つでも、城を築くために町人や百姓がどんな苦労をしたかわかるようです。

また竹田の町でも広くてよく米がとれるので、加都千石と呼ばれましたが、加都の畑に松の木が生えて田は荒れてしまうという、想像もできないような話も残っていて、築城の大変な有様が目に見えるようです。

ところで、竹田城の北側の門をつくるために、とても大きな石がいることになり、竹田河原に手頃な石が見つかったので、これを山に上に引き上げることになりました。
ろくろをはじめ、その時代にあったありとあらゆる道具を利用し、大変な数の人が毎日毎日汗を流して死にものぐるいで引き上げましたが、ようやく中腹まで運んだものの、それからは一ミリも動かなくなってしまいました。

ありとあらゆる力を振りしぼっても、全くだめでした。さすがの築城奉行も思いあまって、この石をその場にうち捨ててしまいました。そして、この石を河原から山の中ほどまで運ぶのに千石のお米を食べてしまったということです。いつしか人々はこの石を千石岩と名づけて、築城の苦しさをかたる話の種にしたよいうことです。

水源とみつばうつぎ

人間が生きていくためには、水はなくてはならない者ですが、300mもの山上に築かれた山城の竹田城に入る水は、どこからどうして求めたのでしょうか。

竹田城の西裏にある大路山の滝谷といいうところから、約2kmもの長い間を銅管を引いて城に水を送りました。ところが合戦のあった時、敵にこの水源を見つけられると、城は一日ももたないで落城してしまいます。水源を隠さなければなりません。城主は考えに考えたあげく、この滝谷に寺を建ててごまかしました。これを香華院千眼寺といいます。はじめは水源の無事を祈って千人の願いを封じこめたので千願寺と書いていましたが、いつの間にか千眼寺となりました。今でもここに寺があったあとがはっきり残っています。

もうひとつの謎が残されています。

「黄金千両 銀千両 城のまわりを七まわり また七まわり七もどり 三つ葉うつぎのその下の六三がやどの下にある。」

という不思議な歌が伝えられていますが、これはおそらく水源や銅管のあり場所を、暗号に伝えたものでしょう。のちの時代に欲の深い男が、これは城が落ちる時に、城の金や宝を隠した場所をいったものであろうというので、本気になって山の中をあちこち掘りまわって物笑いになったという話しもあります。しかし、城にとっては、黄金千両、銀千両に代えることのできない水源であり、銅管であったことは間違いありません。

雨乞いの神様三谷神社の由来

竹田城主太田垣宗寿(むねひさ)の時代のことです。
ある日突然、太田垣氏の主君である出石の山名氏から使いが竹田城にやってきました。上使をもてなすために、数々のご馳走が出され、城中の多くの女の人が給仕をしました。その中に絹巻という十七才になる美しくてかしこくやさしい娘がいました。上使は絹巻の様子を見込んで、出石の本城に連れて帰りたいと宗寿に頼みました。宗寿は絹巻を手放すことをかわいそうに思いましたが、主人に当たる出石城の使いの頼みであるので、仕方なく絹巻をいいふくめて出石に行くようにすすめました。

さて、その夜は大へんな嵐となり、夜が明けた城山の麓の三谷ヶ淵は昨夜の大雨に水かさを増し、ものすごい有様でした。そのにごり水の中に、絹巻の死体が浮かんでいるのを村の人が見つけました。かわいそうに絹巻は、永年住み慣れた竹田城を離れたくはなかったのですが、主人宗寿の命令にそむくわけにもいかず、考えにあまってこの淵に身を投げたのでした。これを聞いた人々は絹巻きを憐れんで、小さいほこらを造りその霊をとむらいました。そして、いつしかこのほこらを三谷神社と呼ぶようになったのです。

さてその後、この淵に時おり白い蛇が姿を見せるようになりました。ところがある夏のこと、近年にない大日照りで百姓たちは困り果て、この三谷ヶ淵に水を取りに集まりました。水を取ろうとすると、どうしたことか、かんかんでりの青空は急に黒雲となったかと思うと、立ってもいられないほどの大雨となり、村人たちは、これは絹巻の変身である白蛇様が、滝壺の水がなくなって自分の姿を見られると恥ずかしく思い、大雨を降らしたのだと喜ぶとともに、さらに絹巻の霊を厚くとむらったということです。

それからは、この三谷神社は雨乞いの神様として、村人から信心され、大切にされたのです。

武士の恩がえしとつくし

天正九年(1581)のことです。播磨赤松氏の律師光影が二人の家来を連れて竹田城に乗り込んできました。

城主は五代目太田垣朝延でした。軍使は朝延に、ただちに赤松氏に降参し城を明け渡すようにと迫りました。これを聞いた朝延は怒って、軍使三人を大路山滝谷ヶ原で切り捨ててしまったのです。ここで、赤松氏と太田垣氏の戦いの火蓋が切られたのです。

その後何年か経ったとき、村人たちはこの切られた三人の侍の霊を慰めるために、三体の石地蔵をつくって、手厚く祭りました。ところが妙なことに、この滝谷ヶ原付近は、昔からつくしが一本も生えない土地であったのに、このことがあったあくる春からこの地蔵堂の付近だけ、つくしがたくさん生え、村人たちを驚かせました。

これは地蔵様のお陰であるとともに、霊をとむらった武士の恩がえしであろうと、それからのち、毎年春の一日を村人たちは、つくし取りに楽しむようになりました。

庵主を救った人食い地蔵

城が落ちた時、裏山づたいに密かに逃れ出た一人の若い女がありました。

敵の目をかすめてようやく辿り着いたのは、城からさして遠くもない久留引の村でした。助けを求められた村人たちは哀れに思い、かくまうとともに、小さい庵を建てて堂守にしました。この庵主となった女は、明けても暮れても、戦死した竹田城の勇士の霊をとむらって仏に仕えていました。また、何くれと村人たちの世話をするので、立派な尼さんだと大へん大事にされました。

ある夜、賊がこの庵を襲った時のことです。庵主に斬りつけた賊の刀が、門前にまつられていた石地蔵に当たり、庵主は危ないところを逃れることができました。そしてその拍子に倒れた地蔵様の下敷きになって、賊はついに死んでしまったのです。まさに仏ばちがあったわけです。その後、村人たちはこの地蔵様を人食い地蔵と呼ぶようになりました。

どういうわけかと土地の物知りに聞くと、庵主が一生懸命に仏様に仕えたので、地蔵様が身代わりになられたことをある名高い坊さんが聞かれて、施徳地蔵といわれたのを、いつしか人食い地蔵となまっていうようになったのだとのことでした。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

【但馬の城ものがたり】 明智光秀と水生(みずのお)城


豊岡市日高町上石

『但馬の城ものがたり』という書物によれば、昭和50年現在において確認されている但馬の城の数は、215だそうです。この中には徳川時代の陣屋も加えられていますが、まだ未確認の山城もまだあるだろうといわれています。日高町内では20で、但馬の中では数は少ないというものの、但馬史に関係する重要な城がいくつか含まれています。

散り椿で有名な水生山長楽寺の裏から山頂に至る間に、数カ所の平坦地があり、頂上近くや頂上に伸びる尾根に堀割があります。南北朝のころ、長左右衛門尉が居城したと伝え、戦国期には初め榊原式部大輔政忠が居し、ついで西村丹後守の居城となったようです。

水生城は、標高百六十メートルの山頂に至る間に構築された城で、東は険しく、北は切り立つ岩、西の尾根づたいには深い堀割が作られていて、まさに要害の地でした。眼下には広々とした高生平野(たこうへいや)が広がり、その昔、政治の中心地として、但馬一円の政務を執り行った国府の庁や国分寺の当たりもここから一望できます。

円山川の本流は、当時は土居の付近から水生山麓にかけて一直線に北流していた時期があったらしく、北へ流れる円山川のはるか彼方には、山名の本城出石の有子山の城を見ることができ、当時の戦争の仕方から考えて、たいへん大事な城であったことがうかがわれます。

この城は、遠く南北朝のころ造られたもので、南朝に味方した長左衛門尉がいた城として知られています。

その後約二百年あまりは、残念ながら誰の居城であったのか明らかではありません。

ところが、大永年中、丹波福知山の城主、明智日向守光成(後の光秀)が、出石の此隅山(こぬすみやま)の城が虚城(山名氏は有子山城に移っていた)であることを聞いて登尾峠(丹波・但馬境)を経て、有子城(出石城)を攻撃しようと考えました。そこで陣代として大野統康・伊藤次織・伊藤加助の三名を軍勢を添えて出石表へ差し出しました。やがて但馬に進入した彼らは、進美寺山(しんめいじざん・八鹿町側)に「掻上の城(かきあのげじろ)」を築いて居城し陣を布きました。

その頃の出石の山名氏の勢力は日に日に衰えていく有様でした。しかも中央では、織田信長が天下の実権を握り、その上家来の羽柴秀吉が近々に但馬にせめて来るという噂も高くなったので、山名氏の四天王といわれた垣屋等の武将も、さすがに気が気でありませんでした。

一方、進美山掻上の城に陣取った大野・伊藤の両勢は、軍を揃え、出石・気多の郷士たちを競い合わせ準備を整えました。そして、永禄二年(1559)八月二十四日、西村丹後守の居城水生城を攻撃してきました。この城には前後に沼(円山川から満潮時には潮が差す)があって、自然の楯となり、左側は通れないほど険しい天然の構えとなり、攻め落とせそうにもないので、ひとまず善応寺野に陣取って遠攻めの策をとりました。この時伊藤勢の中に河本新八郎正俊(気多郡伊福(鶴岡)の郷士であり、この家は今も続いている)という豪傑がいました。陣頭に出て大声で敵の大将をさそったので、城中からもこれに応え、服部助右衛門という武者が名乗りを上げて出てきました。ふたりは違いに槍を交えてしばらく争っていましたが、新八郎の方が強く、ついに服部を倒し首級(しるし)をあげました。

明けて二十五日、伊藤勢はふたたび城近く攻め寄せていきました。城中にあった兄の服部左右衛門は、弟を無念に思い、攻めてくる敵軍を後目に城中から躍り出て大音声に、「新八郎出てこい。きょうは助右衛門の兄左近右衛門が相手になってやる、ひるむか新八郎!」とののしりました。新八郎は「心得たり。」と、これに応じて出てきました。ふたりは間合いを見計らって、ともに弓に矢をつがえました。新八郎はもともと弓の名人でもあったので、ねらいを定めて「ヒョー」と放つ矢は見事に左近右衛門を射止めました。この三度の戦いの活躍に対して新八郎は明智光成から感状(感謝状)をもらいました。この感状は今も河本家に残っています。

八月二十八日には、丹波勢が攻め寄せましたが、城の正面大手門の方には大きな沼になっていてなかなかの難攻でした。城中はしーんと静まりかえり、沼を渡って攻めてきたならと待ちかまえています。攻めての大野勢の中で伊藤七之助という者は搦め手から攻めようとして竹貫から尾根づたいにわざと小勢を引き連れ迂回作戦に出ました。
ところが城内の武将「宿院・田中」という家来で、竹貫・藤井などから来ている兵士の中に、中野清助という人がいました。清助は伊藤七之助を遠矢で見事に射ました。この怪力に恐れをなした丹波勢は慌てふためき、この日の城攻めは中止にしました。

大野統康・伊藤加助は無念の歯ぎしりをし、城攻めにあせりを見せ総攻撃をはかり、竹や木を切らせ、沼に投げ入れて沼を渡ろうとしました。しかし、城内から見すましていた城兵は「すは、この時ぞ。」とばかりに、木戸を開けて討って出ました。大沼を渡ろうとしている大野・伊藤勢をここぞとばかりに射かけたので進退きわまり、たまたま沼を渡りきった者たちは山が険しくて登ることができず、逆に退こうとしても沼が深くて思うに任せず、城内からはさらに新手を繰り出し寄手をしゃにむに攻め、櫓からは鏑(かぶら)を構えて、射たてているところに「ころはよし。」と、大将西村丹後守みずから討って出たので、寄せ手は這々(ほうほう)の体で敗走してしまいました。

秀吉の第二次但馬平定

水生城の攻防戦は、毛利党の轟城主、垣屋豊続が打った一大決戦でした。秀吉の勢力が延びると共にいくつかの小競り合いが行われました。天正八年(1580)4月18日には、秀吉勢と竹野衆とが水生城で交戦し、この時竹野衆が勝ったといいます。その後、天正八年(1580)、秀吉の武将、宮部善祥房らの強襲を受けて廃城となります。

掻き揚げ城(かきあのげじろ)…掻上げ城とも書く。堀を掘ったとき、その土を盛りあげて土居を築いた堀と土居だけで成る臨時の小規模な城郭。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

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【但馬の城ものがたり】 篠部氏と志馬比城(美方郡香美町香住区香住)

[catlist categorypage=”yes”] 昭和42年五月二十日の各新聞の但馬地方版は「香住町月岡公園で、有馬(有間)皇子の墓が発見された。」と報じています。

有馬皇子とは、日本書紀に、斉明天皇の四年十一月五日に謀反が発覚し、捕らえられて、同年十五日には紀伊国藤白坂(和歌山県)で処刑されたと書かれておりますが、孝徳天皇第一の宮、有馬皇子のことです。

この事件は、有馬皇子が十九才のとき、大化改新の立て役者であった中大兄皇子ら改新派によって、天皇の位につけられた孝徳天皇のたた一人の遺児、有間皇子が、父天皇と同じように改新派の計略にもてあそばれ、非業の最期をとげられたことに同情してか、香住町には有間皇子の変の後日談を、次のように伝えているのです。

日本書紀では、このとき討たれたことになっているのですが、実は皇子の家来が身代わりとなって処刑され、皇子は追討に向かった者の好意によって、ひそかに丹波まで逃げのびたのです。ところが、皇子の弟宮である表米王[*1]が但馬の国に住んでいるのを聞き、ふたたび舟で但馬をめざしました。

香住に浜に上陸した皇子は、志馬比山(しまひやま:香住駅の裏山)のあたりに隠れ住み、海部の比佐を妻にして、平和な日々を過ごしていたのです。その後も表米王と会う機会もなくこの地で亡くなり、入江大向こうの岡の上(月岡)に手厚く葬られました。

ところで、二人の間に男の子が生まれ、志乃武王と名づけました。やがて成人した志乃武王は、出石小坂の美しい娘を妻にし、天武天皇七年(678)志馬比山の山頂を切り開いて城塞を造りました。

やがて、幾年かの時が流れ、志乃武王の子孫、志乃武有徳が領主のとき、有徳は姓を篠部と改め、山頂にあった屋敷を山のふもと東方の台地に移したのです。そして、対岸の矢谷に川港を開いて、物資交易の設備を整え、中心地としたのです。

そればかりか、篠部氏の菩提寺として長見寺を建立し、要害の地としましたが、交通の便はともかくいろいろと不便なことが多かったので、当時としては前代未聞の大事業である、河川改修や耕地拡張の大工事を計画しました。

二十九年という長い年月を経て、ようやく完成しました。
この大工事によって、一日市の柳池をはじめ湿地は全部埋め立てられ、約70㌶という新しい耕地ができたのです。

このようにして、有間皇子在住以来、約五百年という長い間徳政を施し、領地内の人々から尊敬されてきた篠部氏ですが、延元元年(1336)に、篠部有信公が、祖先の法要のために長見寺に参詣されていたところを、かねてから領地のことで不和であった長井庄の釣鐘尾城主・野石源太が、この時とばかりにあらかじめ示し合わせてあった一日市の塔の尾城に合図し、一手は長見寺に、他の一手は留守で手勢の少ない館へと攻め寄せました。

この不意打ちに驚いた篠部方は、必死になって防いだのですが、何分にも敵は多勢の上に充分な戦備を整えて攻めてきたのですから、そのうち寺に火を放たれたのを見て、もはやこれまでと、有信公をはじめ主従ことごとく火の中に身を投じ、悲痛な最期をとげたのです。

留守館でも寺に火がかかったのを見て、形勢は味方に不利であることを知り、一族の北村七郎は若君を、そして日下部新九郎は姫を連れて兵火の中を脱出したのですが、姫は逃亡の途中、姫路山のふもとで敵の矢に当たって倒れ、若君もまた、乱戦の内に行方不明となり、さすが名門を誇った篠部氏もついにその力を失いました。その後、行方不明であった若君は首尾良く落ちのび、奈佐(豊岡市)宮井城主・篠部伊賀守のところに身を寄せていたのですが、お家再興の望みもうまくいかず、のちに京都に移り住んだと伝えられています。

[*1] 表米王…但馬国の古豪族、日下部氏の祖とされている。

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【但馬の城ものがたり】 長(ちょう)氏と林甫城(美方郡香美町香住区訓谷)

[catlist categorypage=”yes”] むかし、山名右衛門督祐豊(うえもんのかみすけとよ)が但馬国の守護として、出石城にいたとき、古い記録によると、天文九年(1540)、訓谷林甫城(りんぽうじょう)の城主は長越前守信行でした。香住郷の無南垣(むながい)のお城に、塩冶左右衛門尉(やんやさえもんのじょう)がいました。無南垣の殿様はとっても欲が深くて、いつも訓谷のお殿さんと領地のことで争っていたのですが、無南垣のお殿さんは出石のお殿様に、正月の御祝いの挨拶に行ったときに、訓谷のお殿さんは、山名殿に弓を引くようなことをたくらんでいると告げ口したのです。ところが、いっしょにいた太田垣とか田結庄というお殿さんは、無南垣のお殿さんの仲間だったので、祐豊公に

「ただいま、無南垣城主・塩冶左衛門尉殿が申し上げたことは、誠でございます。みな大殿の家来として忠誠を励んでおりますのに、訓谷林甫城主・長越前守信行だけが、何やらよからぬたくらみをいたしております。私どもの手の者を使わしまして探らせましたところ、塩冶殿の申されたとおりでございます。」

と。誠しやかに申したので、祐豊公は、まさかと思ったものの、重臣である太田垣や田結庄までがよもや嘘をつくまいと思い、

「その方までもが申すのなら、間違いあるまいが、越前守にも、言い分があるやも知しれん。まず越前守を呼べ、もし呼んでも来ないようなら、その時は、その方たちが申したように、野心ありと見て、軍兵を使わして討ち取れ。」

と申したのです。

そんなこととは少しも知らない訓谷のお殿さんは、今ごろ急のお呼び出しとは何事だろうと思いながらも、何の備えもせずに出石へと急ぎました。そして、出石城を目の前にした鳥居村まで来たところ、塩冶の軍勢が出迎えだといって現れたので、訓谷のお殿さんが礼を言おうとしたところ、

「越前守殿、上意討ちでござる。覚悟めされ!」

といって、多数の軍勢が斬りかかり、越前守は刀を抜く暇もなく斬り殺されたのです。このとき、お殿さんのそばについていた家臣の宿院雅楽之介(しゅくいんうたのすけ)は、なんとかしてお殿さんを助けようと思い、刀をふりまわし奮戦したのですが、多勢に無勢ではどうすることもできず、力つきて討ち死にしたのです。

ところで、越前守には二人の男の子がいました。兄は亀若(七才)、弟は亀石で五才になっていましたが、不意打ちで越前守を殺した塩冶勢は、その足で林甫城へ攻め寄せ城を奪い取り、二人の若君までも殺してしまったのです。

ところがこの時、越前守の奥方は身ごもっておられたのですが、家臣の滝本三郎兵衛という者が奥方を連れだし力戦し、敵兵四、五人をたたき斬って囲みを破り、奥方を無事因幡の国へ送ったのです。塩冶の手から無事逃げ延びた奥方は、追っ手の心配のない因幡で、やがて元気な男の子を産みました。塩冶の不意打ちによって、一度に二人の若君を亡くされていた奥方は、ようやく喜びを取り戻しこの若君を弥次郎と名づけました。

弥次郎様は、塩冶に見つけられないようにということで、出雲の国(島根県)まで逃げのび、そこで成長したのですが、十三才の時ひそかに但馬に帰って、宵田城(豊岡市日高町)の垣屋筑後守に会い、父の長越前守信行が、塩冶の陰謀によって非業の最期をとげた一部始終を涙ながらに話しました。筑後守は、あまりにもむごい塩冶のやり口にびっくりされ、さっそく弥次郎様を連れて出石城へ行き、祐豊公に事の次第を弥次郎様が話されたとおり申し上げたのです。 ところで、この時すでに塩冶左衛門尉は死んでしまっており、豊岡市奈佐にあった宮井城の城主である篠部伊賀守の弟が左衛門の養子となり、塩冶周防守と名乗って林甫城の城主になっていたのです。やがて、元服を済まされ、今はもうすっかり立派な若武者になられた弥次郎様は、左衛門尉はもうこの世にはいないものの、周防守が父のかたきの養子として林甫城城主であり、なんとかして周防守を討って父の恨みを晴らすとともに、長氏代々の城である林甫城を取り返したいと考えていました。そして、このことを竹野町の轟の城主・垣屋駿河守に話し助けを頼んでみました。

駿河守は塩冶とは領地問題などで、常日頃から腹の立つことが積み重なっていたので、「弥次郎殿のいわれることは、いちいちごもっともでござる。それがしも塩冶の汚いやり方には、腹が煮えくり返る思いでござる。弥次郎殿にお味方いたそう。」と、これ幸いと弥次郎様の味方になってくれたのです。

こうして塩冶を討つ機会をうかがっていたところ、永禄十一年(1568)七月十三日、塩冶周防守がお盆法要を無南垣の長谷寺(ちょうこくじ)で営み、それに参詣するために城を留守にするという知らせが届きました。そこで、弥次郎様はすぐに垣屋のお殿さんにお願いして、富森一本之助という家臣とその軍兵を借りて林甫城へ攻め込みました。

塩冶周防守は、長谷寺で法要の真っ最中でしたが、弥次郎様の急襲を聞くと、わずかの家臣を連れて奈佐谷に逃げ、兄篠部伊賀守に援軍を頼みました。伊賀守は、これは一大事と大軍を率いて林甫城を取り囲みました。しかし、城中に攻め入ろうとすると、城から矢を射かけられ、容易に近づくことができず、伊賀守は、

「弥次郎ごとき小童(こわっぱ)に、何をぐずぐずしているのだ。いっきに攻め落としてしまえ!」

と、鬼のような顔をして兵どもを叱りつけたので、西村丹後守が、

「敵は死にものぐるいで城を守ろうとしていますので、今攻めても味方の軍兵を数多く失うばかりでございます。幸いそれがしは、城のようすについてはよく存じておりますので、それがしの手勢を引き連れて、搦め手から城中に攻め入り、弥次郎殿の首(しるし)を討ってまいりましょうほどに、なにとぞ、それがしにお任せくだされ。」

といったところ、

「ええい!だれでもよい、早よう弥次郎を討ち取れ!」

との伊賀守の下知なので、西村丹後守はさっそく城に攻め入りました。

ところで、西村丹後守は、かねてから伊賀守や今は亡き塩冶左衛門のあくどいやり方にいや気がさし、弥次郎殿に万一の時はお味方すると約束していましたので、やすやすと城内に入り、弥次郎殿に、

「せっかく取り返されたお城ですが、相手は何分にも大軍でございます。このまま戦われましては、味方の全滅は火を見るより明らかでございます。この場はなにとぞ、それがしのいうようにしてくだされ。」

といって、赤絹に物を包み、伊賀守の軍勢に向かって、

「弥次郎が首は、今この西村丹後守が討ち取ったぞ!」

と、赤絹の包みを、高々と差し上げて見せたので、周防守は喜びいさんで城に入ってきました。この時、丹後守と示し合わせて草むらに隠れていた弥次郎殿がおどり出て、

「周防守見参!われこそは、先の長越前守信行の忘れ形見、弥次郎なるぞ。今こそ父のご無念をお晴らし申さん。覚悟めされ!」

と名乗りをあげ、周防守に斬りかかって行きました。弥次郎殿を討ち取ったとばかり信じて、城に入ってきた周防守ですから、刀を抜く間もなく弥次郎殿に討ち取られてしまいました。

「伊賀守、よーく聞け、その方が弟周防守は、このとおり長弥次郎が討ち取ったぞ!」

と大音声で、伊賀守の軍勢めがけて、弥次郎殿が叫んだので、伊賀守の軍勢は、急に浮き足立って戦意を失い、ワァーとばかりに城からおどり出た垣屋の軍勢に蹴散らされ、命からがら宮井の城へと逃げ帰ったのでした。

激しい攻防戦の末、父の仇を討って、林甫城を取り返した弥次郎殿は、父と同じように越前守を名乗り林甫城の城主となりました。

一方篠部伊賀守は、なんとしても弥次郎殿を滅ぼさんものと考え、田結庄の殿さんに援軍を求めたのですが、田結庄は、垣屋駿河守が弥次郎殿の味方をしているのを知って、伊賀守の頼みを断ったため、再び林甫城を攻めることができなかったとのことです。

天正八年(1580)、秀吉が但馬に攻め入ったとき、山名の家臣は、水生城(豊岡市日高町)に集まって軍議を開いたのですが、篠部伊賀守の寝返りによって計略が秀吉方にもれ、山名の家臣の城は次々に攻め落とされ、弥次郎殿もこの戦いで討ち死にされたということです。

長(ちょう)弥次郎 但馬山名氏家臣。長信行の男。官途は越前守。但馬美方郡林甫城主(美方郡香美町香住区訓谷)。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

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【但馬の城ものがたり】 丹生氏(にゅうし)と上計養山城(美方郡香美町香住区上計)

[catlist categorypage=”yes”]「上計(あげ)のお殿さんは、四十二の祝いの餅をのどにつめて死んだのだそうな。」
この話は、柴山地区の人ならみんな物心がついたころから聞かされる話です。日本海有数の避難港であり、カニ漁港としても知られる柴山港を、朝に夕に見下ろしている上計の城山にはこんな話が残されています。

丹生美作守長近は、養山城の城主でした。養山城は上計・浦上の二つの村を望み、北には柴山港から日本海を望む景色の美しい土地です。城主長近は、出石城山名誠豊の家老の一人であり、慈悲深い人でもありました。領地は、丹生地・浦上・上計・沖の浦・境の五つの村で、村民たちも長近の人徳になびき、戦国争乱の時代にもかかわらず、平和な明け暮れを楽しんでいました。

ところが、隣の無南垣の館山城主・塩冶左衛門尉秀国は、同じ山名家の家老の一人でしたが、野心満々たる人物であり、恵まれた漁獲と、避難する大小の舟で賑わう柴山を、なんとかして領地にしたいと考え、主君山名公に養山城主長近は避難にことよせて入港する他国の船と密輸して、私腹を肥やしているばかりか、ひそかに武器弾薬を蓄えつつあると報告し、みずから長近討伐の大将を引き受けました。

享禄二年(1529)十一月二十三日は、長近初老祝賀の日でありました。養山城内は、めでたい延寿を祝う声に満ちあふれていました。ところが、この機会を狙っていた塩冶左衛門尉は、日もとっぷり暮れたころ、数十人の手勢を引き連れて、沖の浦から山伝いに攻め込んできました。

これより少し前に、丹生地の大江田五郎兵衛という人が、たまたま用事があって無南垣に出たところ、塩冶勢が養山城を攻める準備をしている最中と聞いて、用事はそっちのけで取るものも取らず、大急ぎで養山城のこのことを知らせてきました。
急を聞いた養山城では、祝賀の席は一瞬にして上を下への大騒ぎとなり、油断して不意を付かれた酔いどれ兵士どもは物の役に立たず、城は火を吹き、美作守もついに自刃して果てました。

そうこうしているうちに、天下は織田氏から豊臣氏へと移り、秀吉の但馬征伐によって、山名氏の勢力も次第に衰えていきました。

鳥取城攻撃に勝ち誇った軍勢が、引き上げていく中で、海岸づたいに帰っていく軍の一隊が、無南垣の塩冶秀国の城をめざして、ときの声を上げつつ攻撃し始めました。いまは丹生三左衛門長宗と名を改めて旗頭となった熊之丞が、主君秀吉の許しを得て父の仇を討ったのです。戦いに慣れきった熊之丞にとっては、塩冶勢など物の数ではなく、一時間も経たない間に塩冶の城を攻め落とし、見事に父の敵を討ったのでした。

このときから、柴山地区では、かつての城主・丹生美作守長近の仁徳を慕い、四十二の歳を厄年として、初老を祝うことをやめ、八月二十四日の地蔵盆には、かつての城跡に建てられたお堂に集まって、供養回向をしているということです。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

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【但馬の城ものがたり】 塩冶(えんや)氏と芦屋城(美方郡新温泉町芦屋)

塩冶(えんや)周防守

但馬山名氏家臣。但馬美方郡(浜坂町)芦屋城主。

播磨屋さんの武家家伝によりますと、

近江源氏佐々木氏の一族で、鎌倉・南北朝時代の守護大名。宇多源氏の成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に住み、子孫は佐々木氏を称しました。成頼の玄孫秀義は源頼朝を援けて活躍。長男重綱は坂田郡大原庄を、次男高信は高島郡田中郷を、三男泰綱が愛智川以南の近江六郡を与えられて佐々木氏の嫡流として六角氏となり、四男?氏信は京極氏の祖となりました。

秀義の五男が義清で、出雲・隠岐の守護に補せられて、子孫は同地方に繁栄しました。  義清の孫出雲守護頼泰は、惣領として塩冶郡を根拠とし、塩冶左衛門尉と称しました。これが塩冶氏の祖であるとされています。貞清を経て、南北朝初期に名をあらわしたのが塩冶判官高貞です。

高貞は、父のあとを継いで出雲守護となり、元弘三年(1333)閏二月、後醍醐天皇が隠岐を逃れて伯耆国船上山に挙兵すると、その召しに応じて千余騎の兵を率いて馳せ参じ、六月には供奉して入京。建武政権成立ののち、高貞は千里の天馬を献上し、その吉凶について洞院公賢・万里小路藤房らが議論したといいます。

建武二年十一月、足利尊氏が鎌倉に叛すると、高貞は新田義貞軍に属して足利軍と箱根竹ノ下に戦いましたが、敗れて尊氏に降り、やがて出雲・隠岐守護に補任されました。

暦応四年(1341)三月、高貞は京都を出奔、幕府は高貞に陰謀ありとして、山名時氏・桃井直常らに命じて追跡させ、数日後高貞は播磨国影山において自害しました。一説には、出雲国宍道郷において自害したともいわれています。

高貞の妻は後醍醐天皇より賜った女官で、美人の聞こえが高かったため、尊氏の執事高師直が想いを寄せ、叶わず尊氏、直義に高貞の謀叛を告げ口したので、高貞は本国の出雲に帰って挙兵しようとしたのであるといわれています。

高貞没後、弟時綱の子孫から室町幕府近習衆が出ています。また京極・山名氏の被官人となったものもあるらしいです。この一族が塩冶周防守ではないかと思われます。尼子時代に尼子経久の三男興久が塩冶氏を継ぎましたが、父に背いて自刃しました。

但馬国の塩冶氏は高貞の甥・塩冶通清の四男・周防守の子・某を祖とします。但馬塩冶氏は山名氏に仕え、各文献・古文書にも「塩冶周防守」「塩冶左衛門尉」「塩冶肥前守」「塩冶前野州太守」「塩冶彦五郎」などの名が散見します。戦国時代に登場する芦屋城主・塩冶高清はその末裔であるとされます。

高清は、もと出雲発祥の塩冶氏の一族で、のち但馬に移り芦屋城(新温泉町)を本拠地とし、山陰の複雑な山岳の地形を熟知し神出鬼没に兵を動かしたため、海賊の将と呼ばれた奈佐日本之介に対比して「山賊衆」と羽柴秀吉に言わしめましたが、もちろん山賊ではありません。

永禄12年(1569年)、但馬に侵攻した尼子党と織田氏の前に帰順の意を示します。 同年8月、山名豊国と通じたことに激怒した武田高信らの軍勢によって攻撃されるもこれを撃退、その後は毛利氏の傘下に入ります。

天正2年(1574年)~4年(1576年)にかけてはかつて自身を攻撃した武田高信を保護し、高信の復権と助命を毛利氏に嘆願していました。しかし、高清らの願いもむなしく武田高信は山名豊国によって謀殺されます。 後には高清自身も織田氏の侵攻には抗すべくもなく芦屋城を追われ、ついに天正9年(1581年)に吉川経家率いる毛利勢と結んで、因幡国鳥取城において織田氏の中国攻めを担当していた羽柴秀吉と対峙することになります。高清は鳥取城の北方に位置する雁金山に雁金山城を築き、奈佐日本之介の守る丸山城とともに鳥取城の兵站線を担当しました。

鳥取城に対する兵糧攻めを行っていた羽柴秀吉は、鳥取城-雁金山城-丸山城のラインを遮断することが鳥取城の落城を早めることに気づき、宮部継潤に命じて雁金山城を攻撃させました。塩冶高清は宮部の手勢をよく防ぎましたが、兵糧の欠乏による兵の消耗はいかんともし難く、雁金山城は織田方の手に落ち、高清は奈佐の守る丸山城に逃れました。

天正9年(1581年)10月、鳥取城中の飢餓地獄を見かねた吉川経家は、自らの命と引き替えに城兵の命を救うことを条件として、秀吉に降伏を申し出ます。これに対し秀吉は、経家の武勇を惜しんで助命しようとする一方、高清および奈佐の海賊行為を責め、二人の切腹を主張して譲りませんでした。結局、経家の自刃に先立つ天正9年10月24日、高清は奈佐とともに陣所で切腹して果てました。法名は節叟廣忠居士。

丸山城の西麓に、塩冶高清と奈佐日本之介それに佐々木三郎左衛門の3名の供養塔があります。
高清の子の塩冶安芸守やその弟の塩冶高久は、吉川氏の家臣となり防州岩国の地に移りました。

芦屋城

北は日本海、東に浜坂の平野、西は諸寄(もろよせ)の港、南から幾重にも重なって迫る山脈の端、海抜200mのこんもりとした山の頂に築かれたのが芦屋城です。

築城年代はわかりませんが、南北朝のころ、因幡(鳥取県)の守護職として布施城にいた山名勝豊(宗全の第三子)から、塩冶周防守が二方郡をもらい受けたと伝えられています。城は、本丸と二の丸からなり、典型的な山城でした。

いつ果てるとも知れぬ争乱に明け暮れていた元亀三年八月(1572)、鳥取城にいた山名の家来、武田又五郎高信が、布施城の山名豊国を攻めようとしました。それを知った豊国は、井土城主・河越大和守、温泉(ゆの)城主・奈良左近、七釜城主・田公氏、芦屋城主・塩冶周防守らに早馬を出し、戦いにそなえました。兵八百騎をもってまず芦屋城に攻め込んだ武田又五郎高信は、急を知ってかけつけた付近の大名、豪族のことごとくを敵に回す結果となり、庭中(ばんなか)での戦いで戦死、因幡武田氏の滅びる原因となりました。

天正八年(1580)、羽柴秀吉(実働隊は秀長)が但馬を平定しようとしたとき、宮部善祥房を大将として芦屋城攻めがあり、大軍を持って押し寄せましたが、塩冶周防守の守りはかたく城はなかなか落ちませんでした。その話を、芦屋の方が話してくださいました。

芦屋の城はむかし亀が城といって、とても立派な城だったそうだ。
元亀年間に因幡の武田が攻めてきた時は、近くの大名もいっしょになって戦い、武田の軍勢を破ったそうだ。

塩冶の殿さんに近くの大名が味方したのは、よい大名だったからでしょう。
天正年間、秀吉の部下によって攻め落とされたが、秀吉の軍も芦屋攻めには苦労したそうだ。

大勢で城を取り囲み、いろいろの方法で攻めたが、城の中の何本もの旗が浜風になびき、それに夏だったそうで、日の光は強いし、秀吉軍は木の影や、民家の軒先に攻めるのをあきらめて、三人、四人集まり長期戦の構えをし出す有様、何回となく作戦も考えてみたがどうにもならない。本当に困り果てたそうだ。  そういう日が続いたある日のこと、何人かのお侍が坂の茶屋で相談していると、奥で聞いていたおばあさんが、「おさむらいさん、この城は亀が城といって亀が主だから、何年かかっても、どうしてもこの城を落とすことは無理ですよ。」それを聞いた何人かの侍は、この茶屋のおばあさんが城を落とす急所を知っているな、と感ずきました。それから毎日、おばあさんに聞きに来ますが話してくれません。そんな日が続いたある日、あまりにも気の毒に思ったのでしょうか、

「おさむらいさん、この城を落とすのに急所が一つだけあるのですよ。」

と、話してくれましたが、それ以上どうしても話してくれない。また何日もおばあさんにお願いして、侍の熱心さに負けたのでしょう。

「この話はしてよいものか、悪いことか、わからなくなりました。その急所は、『亀の首を刀で切らなければ落ちない』」

と話してくれました。その亀の首は『坂の上』とも教えてくれました。そのおばあさんの話で秀吉の軍は、芦屋城を落とすことができたそうだ。

そのたたりでか、それ以後その茶店には男の子が生まれなくなり、そしてとうとう家も絶えてしもうたそうな。

たぶん、おばあさんが亀の首といった坂の上を通って、今でいうサイホンのようにして南の山から水を取っており、その水源を切られて水攻めにあったのでしょう。

そして宮部善祥房の手に落ちてしまいました。城主塩冶は城を捨てて因幡に逃れました。あくる天正九年、秀吉が鳥取城を攻めたとき、芦屋城主塩冶は丸山の出城で自害して果てました。

宮部善祥房が鳥取城主となってからは、芦屋城には但州(但馬)奉行がおかれましたが、関ヶ原で宮部氏が自害し、山崎家盛が摂津三田から因幡若狭に入り、弟の宮城右京進頼久に二方郡六千石を分け、芦屋城に住まわせました。それから二十年あまり宮城氏による支配が行われました。寛永四年、三代宮城主膳正豊嗣のとき、陣屋を清富に移しています。そのため芦屋城は廃城となってしまいました。

現在城下には、殿町・やかた・馬場などの小字名が残っており、芦屋の松原には塩冶周防守の碑も建っています。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

  

塩冶周防守の碑 城山東方の旅館入り口にある。(撮影:2011.8.8)

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【但馬の城ものがたり】 八木氏族 宿南(しゅくなみ)氏と宿南城(養父市八鹿町宿南)

宿南氏の祖という三郎左衛門能直は、八木新大夫安高の孫にあたり、養父郡宿南庄(養父市八鹿町宿南)に宿南三郎左衛門能直(初代?)の長男重直を宿南庄に置いていましたが、康永年間頃(1342-45)、宿南太郎佐衛門信直によって築城し、地頭館を山に移したといわれ、田中神社附近に居館址が残る。宿南城に拠って中世の但馬を生きた。

宿南氏は朝倉氏、八木氏、太田垣氏らと同じく、古代豪族日下部氏の一族です。日下部氏は孝徳天皇の皇子表米親王を祖として朝倉・宿南氏をはじめ八木、太田垣、奈佐、三方、田公の諸氏が分出、一族は但馬地方に繁衍しました。

嫡流は朝倉氏でしたが、承久の乱(1221)において朝倉信高は京方に味方して勢力を失い、代わって鎌倉方に味方した八木氏が勢力を拡大しました。すなわち、信高の兄弟である八木新大夫安高、小佐(おざ)次郎太郎、土田(はんだ)三郎大夫らが新補地頭や公文に任じられ、それぞれ地名を名字として但馬各地に割拠したのです。宿南氏の祖という三郎左衛門能直は、新大夫安高の孫にあたり、養父郡宿南庄に館を構えたといいます。いまも宿南野の一角に「土居の内」と呼ばれる字があり、周辺にはかつて地頭館があったことをうかがわせる地名が残っています。

宿南氏は八木一族のなかにあって、ただひとり関東御家人でした。

宿南氏の軌跡

重直の孫知直の代に元弘の変(1321)に遭遇、知直は小佐郷の伊達氏とともに千種忠顕に属して転戦したことが知られます。やがて、鎌倉幕府が滅び建武の新政が成りましたが、足利尊氏の謀叛によって南北朝の動乱時代となりました。知直は宮方に属して、建武二年(1335)新田義貞を大将とする尊氏討伐軍に加わって東下しました。そして、箱根山における足利勢との戦いで、あえなく討死しました。

その後、南北朝の内乱は半世紀にわたって続き、但馬でも両軍の戦いが展開されました。宿南氏は南朝方として行動し、北朝方の討伐戦によって北朝方の手に落ちた宿南庄は、矢野右京亮が地頭に任じられました。所領を失った宿南氏は知直に代わって父の信直が一族を指揮し、やがて北朝方に転じて活躍、失った宿南庄の地頭職を回復しました。

尊氏と弟直義が争った観応の擾乱に際しては尊氏方として行動、観応の擾乱が終熄したあとは、但馬守護となった山名時氏に従ったようです。時氏ははじめ尊氏方でっしたが、その後、直義の子直冬に味方して南朝方に転じました。宿南氏もこれに従ったため、延文元年(1356)、尊氏方の伊達氏の攻撃を受けました。ときの宿南氏の当主は、知直の子実直であったようで、よく伊達勢の攻撃を防戦しています。

その後の南北朝の動乱のなかで、宿南氏がどのように行動したかは、必ずしも明確ではありません。宿南氏系図を見ると、氏実─朝栄─忠実と続き、宿南城に拠ってよく時代を生き抜いたようです。宿南氏の名がふたたび記録にあらわれるのは、応仁の乱において、山名宗全の催促に応じて上洛した山名家臣団のなかにみえる宿南左京です。左京は忠実の嫡男左京亮続弘と思われ、続弘は八木氏から入って宿南氏を継いだ人物とされています。忠実には実子持実がいましたが、一族で山名氏の重臣である八木氏から養子を迎えることで宿南氏の安泰を図ったものでしょう。

ちなみに、宿南氏は八木氏とは代々密接な関係をもっていたことが「八木氏系図」からも伺われます。八木氏の系図のなかに宿南氏の系図が併記されており、しかも、兄弟の少ない八木氏とは対照的に、それぞれの代ごとの兄弟も書き込まれているのです。おそらく、一族の少ない八木氏を支えるかたちで宿南氏が存在し、それゆえに八木氏の系図に同族的扱いとして記されたものと思われます。

但馬征伐と宿南城

天正五年(1577)秋、羽柴秀吉は竹田城をおとしいれた時、秀吉は播州一揆の起こったことを聞きました。直ちに弟の秀長に養父・出石・気多・美含・城崎の郡を、藤堂孝虎に朝来・七美・二方の郡を攻略するように命じ、自分は播州へ引き上げました。このあと、秀長は勢いに乗って養父郡の多くの城を落とし、出石城をめざして進んでいきました。先陣はもう養父郡小田村に着いていました。

これより先、代々山名氏に仕えてきた但馬の小城主たちは気多郡水生城で会議を開き、「山名氏は衰えたといっても、二百年余りの間、但馬の太守であったではないか、たとえ羽柴勢が大軍をもって攻めてこようとも、なんで手をむなしゅうして国を渡してなるものか。おのおの今こそ一命を投げ打って恩に報いようぞ。」と約束しあい、 合戦のときを今か今かと待ち受けていました。そして、防衛戦のひとつを伊佐野の西、すなわち現在の養父市八鹿町下小田の野に布陣する作戦計画を立てていました。

このころの宿南城主は、宿南修理太夫輝俊でした。羽柴勢が小田に着いたという知らせを聞き、ただちに出陣しようとしましたが、にわかに病気となり、やむを得ず嫡子重郎左衛門輝直と、その弟主馬助直政に出陣させました。これに加わったほかの城主は、上郷城主 赤木丹後守、朝倉城主 朝倉大炊(おおい)、国分寺城主 大坪又四郎、三方城主三方左馬之助らで、総勢五百騎余り、川向こうの伊佐河原には、浅間城主佐々木近江守、坂本城主 橋本兵庫、同権之助ら二百騎余りが陣をとりました。

戦いの機は熟し、羽柴勢二千騎は、ときの声を上げて下小田側の陣へ打ちかかってきました。この防衛戦を突破されたら宿南城が危ない。必死の防戦が始まりました。これを助けるため伊佐河原の味方から鉄砲が火を噴き、弓矢が飛んで羽柴勢へ降り注ぎました。しかし、羽柴勢は大軍です。射たれても、射たれても、ものともせず、新手を繰り出して攻め立ててきます。防衛戦の一角がくずれました。輝直兄弟とその家臣、大嶋勘解由、池田、池口、片山など血気の勇士二十四人は馬の頭をたてなおし、太刀を振りかざして、攻め手の中へ斬り込んでいきました。朝倉・大坪・赤木・三方ら二百人余りもこれに続き、血煙上げて攻め込んでいったので、戦いはまったくの白兵戦となりました。

いっとき、小田野はすさまじい阿修羅の巷となりました。しばらくたって気がついたとき、但馬勢の敗北は決定的でした。赤木丹後守、大坪又四郎はじめ大半が討ち死、川向こうの味方も、二隊に分かれた羽柴勢一隊に襲われ間もなく退却、佐々木近江守、橋本兵庫らは城に籠もり、城門を閉ざしてしまいました。

もはやこれまで、と、輝直兄弟、朝倉大炊らは生き残った五十騎ばかりを集め「浅倉ほうき」へ引き上げました。この岩山の円山川に面したところは、切り立った絶壁になっており、そのすそを川が流れ、その間の狭い土地を削って道がこしらえてありました。羽柴勢は必ずこの道を通るだろう。輝直らはそのとき躍り出て敵を挟み撃ちにし、河へ追い落とそうと図ったのです。

一方、宿南城で戦いの首尾を心配していた輝俊は、敗北の知らせを聞き、歯ぎしりをして悔しがりました。そして病気ではあったが鎧をつけ、わずかに残っていた城兵をして城を守ろうとしました。しかし、体は思うにまかせず、敵兵はすぐ近くにまで来て、ときの声を上げていました。とてもかなわぬと観念し、輝俊は館に火をかけ、城の麓の光明寺へ駆け込みました。そして片山五郎右衛門の父の兵右衛門を呼び、「戦場へ向かったふたりの兄は、おそらく討死したことであろう。おまえはこの幼いふたりの子どもを連れてどこへなりと身を隠し、無事に育ててくれ。」と頼みました。このとき兄の豊若は十二才、弟の国若は八才でありました。三人は山伝いに奥三谷に逃れました。

このあと、輝俊は本堂の本尊の前に座り、仏名をとなえ、腹かき切って自害しました。彼に従って果てた男女は二十名余りでした。輝俊自害の知らせはすぐに輝直に伝えられました。「それっ!敵兵はこちらに来るぞ。」一同は色めき立って待ちかまえました。ところが案に相違して羽柴勢はこちらへ来ず、浅間城を尻目に出石へ攻め込んでいきました。

はかりごとは成功せず、敗戦の責めを負って父が自害し、城もなくなった今となっては、輝直兄弟も生きる望みを失い、傍らの林に入り、切腹して果てました。残りの兵は水生城へこもる味方へ合流しました。

ここに宿南城は寺社ともども絶えてしまったのです。

「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家列伝

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