神子畑選鉱場跡とムーセ旧居

[catlist categorypage=”yes”] 兵庫県朝来市佐嚢(神子畑)

東洋一の生産高を誇った 神子畑選鉱場跡 800年頃に鉱山として開拓された神子畑は15世紀頃から採鉱が盛んになり、その後、明治政府の管理から一時は皇室財産として宮内省の管轄にもなりました。


明治29(1896)年に三菱へ払い下げられ、大正8(1919)年には大規模な選鉱場が建設されました。

山を隔て6キロメートル離れた明延鉱山(養父市大屋町)から運ばれてきた鉱石をその比重や浮力を利用して亜鉛、銅、錫に選鉱。
東洋一の生産高を誇りました。
山の斜面を活かした巨大な建物がありましたが、現在は一部取り壊されています。

明治時代は神子畑鉱山として栄えていたが、枯渇により採掘は明延鉱山に移り、選鉱所だけが残った。明延からは明神電車(通称、一円電車)で鉱石が搬送された。神子畑から生野までは、初期は馬車道、その後は馬車鉄道・電気鉄道・トラックなどで精鉱が輸送された。

神子畑選鉱所は、明延鉱山で採掘された鉱石を選り分けたのち、生野製錬所へ送る役割を担っていました。明延鉱山からは、明神電車(通称、一円電車)という軌道で鉱石が搬送されていました。
生野鉱山にあった明治期の洋館「ムーセ旧居」(県指定文化財)も、選鉱設備の近くに移築されました。

ムーセ旧居

日曜なのに閉館で入ることはできなかった。

ムーセ旧居は、明治4年12月ごろから翌年以降にかけて生野鉱山に建設されたであろう五棟の外国人宿舎のひとつであり、そのうちの一番館(二階建て)と二番館(平屋建て)は、生野鉱山から少し離れた白口にあったものである。後に神子畑に移築されたのが二番館であり、現在のムーセ旧居である。

鉱山開発に携わったフランス人技師たちのうち、ムーセやコワニエたち幹部妻帯者の居住宿舎として使用されていたとのことである。

神子畑鉱山の開発にともない、明治20年にこの地に移設され、事務舎、診療所として利用され、これまで、ムーセ旧居の名称で親しまれてきた。平成4年に県指定重要有形文化財(建築物)の登録を受けた。

その後、建物の老朽化が進み、また国道429号バイパス計画により、県補助を受け当初位置より北西側に移築復元したものである。

コロニアルスタイル(植民地様式)と呼ばれる特徴を持ち、七間四方の四周には、ベランダをめぐらし、外壁の四隅には石を積み上げたように見せるコーナー・ストーンの技法が使われている。

今回の修復では、神子畑に移設後のスタイルに復元したが、付属の管理棟は、生野鉱山時代の写真を元に復元整備をしたものである。

暖炉が発見された炉石を元に、3箇所を復元したが、暖炉飾りには明治時代後半の神戸の異人館の形状を参考にして復元整備をしたところである。

設計者は、明治政府が招聘したお雇い外国人技師のJ・レスカスであったという記録も残っており、明治初年の建築文化を知る上で貴重な遺産となっている。

なお、建築年度は、明治5年頃とされているが、コワニエの来日、生野鉱山入りが慶応4年、ムーセの生野鉱山入りが明治4年12月であり、生野町の西福寺、金蔵寺に入居し生活をしていたが、より快適な生活を保障する必要から、明治5年以後の比較的早い時期に建築されたものと思われる。また、屋根瓦に菊花のご紋章があり、明治22年から7年間、宮内省財産(御料局生野支庁)となったことの名残でもある。

いずれにしても、明治初年の建物であり、神戸の異人館等と比較しても、より早い時期に建てられたものであり、その意味からも貴重な建物といえる。

-朝来市-

 

かつての神子畑選鉱場

日本最古の鋳鉄橋 神子畑鋳鉄橋

[catlist categorypage=”yes”] 兵庫県朝来市佐嚢(神子畑)

国指定重要文化財
鋳鉄一連アーチ橋

他に4箇所架けられていたが現存するのは羽淵鋳鉄橋(L=18mの2連のアーチ橋・兵庫県朝来市羽淵)と神子畑鋳鉄橋の2つだけとなっている。 近代の橋梁として初めて1977年6月27日に重要文化財に指定されている。老朽化のため1982年には一年かけて永久保存を目的として修繕が行われた。2007年に近代化産業遺産に認定された。

本橋は、日本に現存している鉄製の橋としては3番目に古い。ただ、最も古い大阪の心斎橋は錬鉄製、東京の弾正橋は鋳鉄と錬鉄の混成であり、全鋳鉄製としては最も古い。橋の近くには駐車場があり、橋や鉱山の説明板も整備されている。近くには、遊歩道もあり橋の上を歩くこともできる。

諸元

施工年 1883年4月-1885年3月
橋長 上流側15.969m、下流側15.997m
最大支間 14.2m
幅員 3.727m
高さ 3.81m
構造形式:鋳鉄製単径間アーチ橋

全国的に有名な山城 竹田城


兵庫県朝来市竹田 国史蹟(昭和18年)

JR播但線竹田駅の西方、古城山(標高353.7m)の山頂部
中世山城で全国的にも有名な竹田城は、山陰道と播但道が分岐する交通の要所にそびえ立ち三方が見渡せる。

竹田城門

【竹田城趾の概要】

縄張りが虎が臥せているように見えることから別名「虎臥城(とらふすじょう・こがじょう)」と呼ばれる。
また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもつ。

天守台と高見殿(本丸)

標高353.7メートルの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは、南北約400メートル、東西約100メートル。
春は東に立雲峡の紅葉を望み、夏は天空に輝く幾千の星を眺め、秋は雲海に浮かび上がる舟の上で、冬は一面雪景色の中で、古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。


南千畳

竹田城の縄張りは、中央の最高峰を天守台とし、周囲に高見殿(本丸)、平殿、奥殿、天守台北西部に花殿を配し、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、さらに鳥が両翼を広げたように、その南北の端をそれぞれ南千畳、北千畳が置かれている。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。


北千畳

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(56番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
天と地と(1990年公開の映画)- 城をセットとして春日山城を再現した上、ロケ地として使われた。
魔界転生(2003年公開の映画)- 城をセットとして原城再現した上、ロケ地として使われた。

歴史・沿革


二の丸

但馬国守護大名山名持豊(宗全)によって、出石此隅山城の出城として、播磨、丹波と但馬の国境が近く、街道が交わる地に侵攻を防ぐ目的で建設された。 築城は1431年(永享3年)、完成は嘉吉年間(1441 – 43年)と伝えられる。当初は土塁造りの城郭であったが、羽柴秀長から赤松広秀(斎村政広)の城主時代における改修工事により、総石垣造りの近世城郭として生まれ変わり、廃城間近に現在の壮大な姿となった。

修復には13年の年月を要し、賦役のため農民は「田に松が生えた」ほどの困窮に陥ったり、村中が夜逃げするところもあったと伝えられる。石垣には織田信長がしばしば採用した穴太流(あのうりゅう)石積みの技法(野面積み技法)が用いられている。

山名氏のもとでは山名四天王の太田垣氏が配された。応仁の乱によって東軍の丹波国細川氏の軍勢の侵略を受けるが、太田垣氏らの軍勢が国境の夜久野が原に撃退した。しかし、羽柴秀吉による、1569年(永禄12年)および1577年(天正5年)の但馬征伐により落城。1580年(天正8年)、山名氏の後ろ盾となっていた毛利氏が但馬から撤退し、太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえた。

その後、秀吉の弟羽柴小一郎長秀(秀長)が城代となるが、のちに秀長は出石の有子山城主になったため、秀長の武将である桑山重晴が竹田城主となった。その後、桑山重晴は和歌山城に転封となり、替わって秀吉に投降した龍野城主赤松広秀(斎村政広)が城主となる。

最後の城主である赤松広秀(斎村政広)は関ヶ原の戦いでは西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めるも、西軍は敗戦。徳川方の亀井茲矩の誘いで鳥取城攻めに加わって落城させるが、城下の大火の責めを負い家康の命によって、慶長5年10月28日(1600年12月3日)鳥取真教寺にて切腹。竹田城は廃城となった。


三の丸と櫓
安土城、姫路城と同じ穴太流(あのうりゅう)石積み
石垣は、織田信長がしばしば採である用した安土城と同じ技術穴太流(あのうりゅう)石積みの技法(野面積み技法)が用いられている。山城としての美しさとともに、その縄張り(平面構成)の見事さは全国でも屈指の城郭といえるでしょう。

歴代城主
太田垣光景(1443年(嘉吉3年)~1465年(寛正6年))
太田垣景近(1465年(寛正6年)~1479年(文明11年))
太田垣宗朝(1479年(文明11年)~1521年(大永元年))
太田垣宗寿(1521年(大永元年)~1538年(天文7年))
太田垣朝延(1538年(天文7年)~1570年(元亀元年))
太田垣輝延(1570年(元亀元年)~1577年(天正5年)?)
城代・羽柴小一郎長秀(秀長)(1578年(天正6年)~1580年(天正8年))
桑山重晴(1580年(天正8年)~1585年(天正13年))
赤松広秀(斎村政広)(1585年(天正13年)~1600年(慶長5年))

【斎村 政広(さいむら まさひろ)】

永禄5年(1562年)- 慶長5年10月28日(1600年12月3日)

安土桃山時代の武将。父は赤松政秀、母は赤松晴政の娘。はじめ赤松姓を名乗り、初名を赤松広通・広秀・広英といった。播磨国龍野城、のち但馬国竹田城を居城とした。通称を弥三郎。官名は従五位下左兵衛佐。室は宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の妹)。子に次郎右衛門、善右衛門。

1570年に父、その後、兄赤松広貞も相次いで早逝したため家督を継承した。政広の家系の赤松氏は、血統上は本家である赤松義祐の家系(七条流)よりも、むしろ本流の赤松氏であった。織田信長の命を受けた羽柴秀吉による中国征伐では、はじめ抵抗するも後に降伏。秀吉に従って蜂須賀正勝の配下となった。その後、小牧・長久手の戦いなどに参戦して武功を挙げ、但馬竹田城2万2000石を与えられた。その後、小牧・長久手の戦いなどに参戦して武功を挙げ、また、儒学者藤原惺窩に教えを受けるなど、文学人としての一面もあった。姜沆とも交友を持ち、彼の帰国も支援している。
不運な最後

1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に味方し、細川藤孝の居城である丹後田辺城を攻めた(田辺城の戦い)。しかし、関ヶ原で西軍が敗れると東軍に寝返って、西軍に与した宮部長房の居城・因幡鳥取城を攻めた。しかし、このときの城下焼き討ちが後に問題となり、戦後、徳川家康から切腹を命じられ、鳥取の真教寺で自刃した。ただし、この焼き討ちは政広に寝返り促し、鳥取城攻めの指揮を執っていた亀井茲矩の策(焦土戦術)であり、実行した政広一人に罪を擦り付けたとする説が強い。また西軍から東軍に寝返った大名では唯一の死亡者である。

因みに斎村姓は、父の政秀の死後、一時避難をしていた才村(又は佐江村)に由来する。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
水嶋 元 『残月―竹田城最後の城主、赤松広英』東洋出版(拙者の小学校の恩師です)
火坂 雅志『壮心の夢 』(文春文庫)
和田山町観光協会

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【たじま昔ばなし】 粟鹿山 「大山」の地名伝説(朝来市山東町粟鹿)

遠い昔のことです。

但馬(たじま)の山東(さんとう)や和田山(わだやま)のあたりは、向こう岸が見えないほど広い湖でした。粟鹿山(あわがやま)や、まわりの高い山々も、その湖の上に頭を出した島でした。人々は、粟鹿山のことを、大山(おおやま)と呼んでいたそうです。

ある日のこと、アマツヒダカヒコホホデミノミコトという神様が、天から粟鹿山の頂上に降りてきました。そして山の上からあたりを見回して、「この広い湖の水を海へ流し出して、広い土地を造ったならば、人々が住みやすくなるだろう」と考えました。

ここで、この長い名前の神様のことを、少しだけお話ししておきましょう。

アマツヒダカヒコホホデミノミコトは、天の上にある、高天原(たかまがはら)という神様の国から下ってきたニニギノミコトが、地上でコノハナサクヤヒメと結婚(けっこん)して生まれた三人の子(ホデリノミコト・ホスセリノミコト・ホオリノミコト)の一人、ホオリノミコトの別名だということです。

ホオリノミコトにはもう一つ名前があって、山幸彦(やまさちひこ)とも呼ばれていました。お兄さんのホデリノミコトは、海幸彦(うみさちひこ)と呼ばれています。『古事記』という本には、山幸彦が兄の海幸彦との争いに勝って、海の神のむすめ、豊玉姫(とよたまひめ)と結婚し、ウガヤフキアヘズノミコトという子供が生まれたと記されています。そしてこのウガヤフキアヘズノミコトの子供が、日本で最初の天皇である、神武天皇(じんむてんのう)になったという神話へと続いてゆくのです。

さて、粟鹿山の頂上から下りると、アマツヒダカヒコホホデミノミコトは、水をせき止めていた山をけりくずしました。水はごうごうと音を立てて、みんな日本海へと流れ出してしまいました。そのあとには広い土地ができましたが、まだ水気が多くてぬかるんでいたところもありましたので、そこには大きな石のお地蔵様をうめこんで、土地を固めたそうです。

それからというもの、この土地にはたくさんの人が住み着いて、あちこちに豊かな村ができました。人々は、アマツヒダカヒコホホデミノミコトが国を見わたした山を、見国岳(みくにだけ)と呼んで毎日拝んでおりました。

ある日のこと、アマツヒダカヒコホホデミノミコトが見国岳で休んでおりますと、一頭の美しい牝鹿(めじか)が、三本の粟(あわ)の穂(ほ)を角の上にのせてやって来て、うやうやしくささげました。これが粟鹿山という名の始まりになったのです。その後人々は、山のふもとに粟鹿神社(あわがじんじゃ)を建てて、アマツヒダカヒコホホデミノミコトをお祭りするようになったということです。


粟鹿神社

兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行-妖怪・自然の世界-

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【たじま昔ばなし】 難儀にあったお大師様(朝来市山東町楽音寺)

何百年か昔、楽音寺(がくおんじ)というお寺にどろぼうが入りました。「何か金目のものはないか」と探しているうちに、お祭りしてあった一尺二寸(四十センチほど)ばかりの金のお薬師様が目につきました。お薬師様は、病気を治してくれる仏様で、手には薬が入った小さな壺(つぼ)を持っています。

「よしよし、こいつは金になるぞ」

どろぼうはそう言うと、お薬師様をつかんでそのままにげてしまいました。

どろぼうは、遠くまでにげると、お薬師様を鍛冶屋(かじや)に持っていって売り飛ばしました。この鍛冶屋も悪い人だったので、買い取ったお薬師様をとかして、金のかたまりにしてしまおうと考えました。

さっそく火をおこしましたが、どんなに火をたいてあぶっても、お薬師様は少しもとけません。おこった鍛冶屋は、それなら金づちでたたいてつぶしてやろうと、大きな金づちを持ち出しました。そして大金づちをふりあげると、力いっぱいお薬師様をたたきました。ところがお薬師様は少しもへこんだりしません。「ええい、このやろう」と、たたくと、こんどはたたくたびに、お薬師様が「がっこんじ、がっこんじ」とおっしゃるではありませんか。

鍛冶屋はびっくりしてこしをぬかしました。

「こんな仏様をつぶしたりしたら、ひどいばちがあたるかもしれん」

こわくなった鍛冶屋は、日が暮れるのを待って、お薬師様をかかえるとこっそり楽音寺までやってきました。そして、お堂のそばにあった弁天池に、お薬師さまを放りこんでにげてしまいました。

それから何日か後のことです。ちょうど日暮れ時に遠坂峠(とおざかとうげ)を歩いていた旅人が、楽音寺のあたりをながめていると、何かぴかぴかと光るものが見えます。「いったい何だろう」と思いながら、その光るものを目指して歩いていると、弁天池に行き当たりました。
光は、池の中からさしています。

旅人はおどろいて、お寺のお坊(ぼう)さんのところへ飛んでゆきました。話を聞いたお坊さんが、村人にたのんで池の底をさらってみると、なんと先日ぬすまれたお薬師様が見つかったではありませんか。

お坊さんはさっそく、お薬師様のために新しいお堂をたてて、ていねいにお祭りしました。

火で焼かれたり、金づちでたたかれたり、たいへんな難儀(なんぎ)にあったのに、無事にもどってきたお薬師様です。きっとどんな病気でも、けがでも助けてくださるだろうという話が、遠くまで伝わりました。それからというもの、近所だけでなくずっと遠い村からも、お参りする人が絶えなくなったということです。

兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行 - 神と仏 ‐

http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/legend2/html/002/st04.html
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【たじま昔ばなし】 青倉さんの不思議な水(朝来市山内)

むかし、朝来(あさご)の伊由谷(いゆうだに)に、たいそう心の優しい、親孝行な息子が、年老いた父親といっしょに住んでいました。二人で小さな畑を耕すほかに、山に入って山菜や川魚をとって暮らしをたてていました。

ある春のことです。お天気がよい日を選んで、父親は近くの山へ入っていました。うどをとろうと思ったのです。うどが思いのほかたくさんとれるので夢中になってしまい、気がつくと遠く青倉山(あおくらさん)まで来ていました。

「あまりおそくなると、息子が心配するだろう」

父親は、うどを束ねて背負いましたが、立ち上がろうとしたとたんに足がもつれて、よろよろとたおれてしまいました。すると運悪く、さきほど自分がかり取ったうどの株の上にたおれこんで、切り株で右目をさしてしまったのです。

右目からは血があふれてきます。ひどい痛さをがまんしながら、父親はけんめいに歩いて、ようやく家まで帰り着きました。

息子は、父親が血だらけの顔で帰ってきたので、おどろきました。小さな山の村ですから、もちろんお医者さんなどいるはずがありません。井戸(いど)の水で手ぬぐいをしぼって、傷口を冷やしたり、いろいろと手をつくしましたが傷の痛みはひどくなる一方です。  とほうに暮れた息子は、必死になって神仏にいのりました。

そのうちに息子は、昼間のつかれもあってうとうととねむりこみました。

「高い山の滝(たき)まで行って、その水を取ってきてつけなさい」

真っ白な衣を着た老人が、息子の夢の中に現れてそう言ったところで、息子ははっと目を覚ましました。

「何ともふしぎな夢だ。けれど、もしかすると神様のお告げだろうか」

そう思った息子は、ねむっている父親を近所の人にたのみ、山へ入って滝をさがしました。

ところが滝はなかなか見つかりません。必死になって山という山を探しまわり、つかれきった時、小さな祠(ほこら)をみつけました。

「ああ、もう一度神様にお願いしてみよう」

息子が祠の前で手を合わせようと近づいてみると、水音が聞こえます。ふと見上げると、祠の上に滝があるではありませんか。

「これが、お告げにあった滝にちがいない」

大喜びした息子は、その水をくむと飛ぶように走って家まで帰り、父親の目を洗ってやりました。  するとおどろいたことに、あれほどの痛みがすうっと消えてゆき、父親の目は元通り見えるようになったのです。

この話を伝え聞いて、目の病気で困っている人たちが、山へ登って滝の水を求めるようになりました。そしてたくさんの人が、ふしぎな滝の水で目を治し、喜んで帰ってゆきました。こうして青倉山の水は、目によい水として知られるようになったのです。

それ以来、青倉神社の氏子(うじこ)たちは、うどを食べなくなったということです。


青倉神社

兵庫県朝来市山内権現谷82-1
祭神 和久産果神、倉荷魂神の二説がある

青倉神社(あおくらじんじゃ)は兵庫県朝来市の青倉山(811m)の中腹にある神社であり、善隆寺(納座地区)の奥の院とされている。

「目の神様」として知られている。巨岩の裏よりわき出る水は御霊水とされ、目の病気に効くと言われている。実際、微量のホウ酸が含まれているようである。巨岩をご神体とし、神社はそれに張り付くように建築されている。

国道312号沿いに参道の入口となる巨大な石造りの大鳥居がある(神社はこの地点より約7km先)。

引用:兵庫県立歴史博物館「ひょうご歴史ステーション」

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【たじま昔ばなし】 竹田城にまつわる昔ばなし

千石の米を食べた千石岩

竹田城は三百㍍もある山上に築かれています。こんな高いところにどうして城をつくったのでしょうか。今のように機械の力があっても並大抵のことではないのに、人の肩と手と足をただ一つの頼りとした五百年も昔では、考えることもできない大変なことだったのでしょう。

竹田の町はいうまでもなく、但馬の国中から、遠いところでは鳥取や岡山あたりからも、築城のために多くの町人や百姓が駆り出されて十三年もの間、明けても暮れても労役として使われました。あまりの苦しさにこの十三年間に、村中みんな夜逃げをするところも多く、驚いた築城奉行は、「夜逃げをする者は一家一族死罪にする。」というふれ札を立てました。このふれ札は今でも残っています。この話一つでも、城を築くために町人や百姓がどんな苦労をしたかわかるようです。

また竹田の町でも広くてよく米がとれるので、加都千石と呼ばれましたが、加都の畑に松の木が生えて田は荒れてしまうという、想像もできないような話も残っていて、築城の大変な有様が目に見えるようです。

ところで、竹田城の北側の門をつくるために、とても大きな石がいることになり、竹田河原に手頃な石が見つかったので、これを山に上に引き上げることになりました。
ろくろをはじめ、その時代にあったありとあらゆる道具を利用し、大変な数の人が毎日毎日汗を流して死にものぐるいで引き上げましたが、ようやく中腹まで運んだものの、それからは一ミリも動かなくなってしまいました。

ありとあらゆる力を振りしぼっても、全くだめでした。さすがの築城奉行も思いあまって、この石をその場にうち捨ててしまいました。そして、この石を河原から山の中ほどまで運ぶのに千石のお米を食べてしまったということです。いつしか人々はこの石を千石岩と名づけて、築城の苦しさをかたる話の種にしたよいうことです。

水源とみつばうつぎ

人間が生きていくためには、水はなくてはならない者ですが、300mもの山上に築かれた山城の竹田城に入る水は、どこからどうして求めたのでしょうか。

竹田城の西裏にある大路山の滝谷といいうところから、約2kmもの長い間を銅管を引いて城に水を送りました。ところが合戦のあった時、敵にこの水源を見つけられると、城は一日ももたないで落城してしまいます。水源を隠さなければなりません。城主は考えに考えたあげく、この滝谷に寺を建ててごまかしました。これを香華院千眼寺といいます。はじめは水源の無事を祈って千人の願いを封じこめたので千願寺と書いていましたが、いつの間にか千眼寺となりました。今でもここに寺があったあとがはっきり残っています。

もうひとつの謎が残されています。

「黄金千両 銀千両 城のまわりを七まわり また七まわり七もどり 三つ葉うつぎのその下の六三がやどの下にある。」

という不思議な歌が伝えられていますが、これはおそらく水源や銅管のあり場所を、暗号に伝えたものでしょう。のちの時代に欲の深い男が、これは城が落ちる時に、城の金や宝を隠した場所をいったものであろうというので、本気になって山の中をあちこち掘りまわって物笑いになったという話しもあります。しかし、城にとっては、黄金千両、銀千両に代えることのできない水源であり、銅管であったことは間違いありません。

雨乞いの神様三谷神社の由来

竹田城主太田垣宗寿(むねひさ)の時代のことです。
ある日突然、太田垣氏の主君である出石の山名氏から使いが竹田城にやってきました。上使をもてなすために、数々のご馳走が出され、城中の多くの女の人が給仕をしました。その中に絹巻という十七才になる美しくてかしこくやさしい娘がいました。上使は絹巻の様子を見込んで、出石の本城に連れて帰りたいと宗寿に頼みました。宗寿は絹巻を手放すことをかわいそうに思いましたが、主人に当たる出石城の使いの頼みであるので、仕方なく絹巻をいいふくめて出石に行くようにすすめました。

さて、その夜は大へんな嵐となり、夜が明けた城山の麓の三谷ヶ淵は昨夜の大雨に水かさを増し、ものすごい有様でした。そのにごり水の中に、絹巻の死体が浮かんでいるのを村の人が見つけました。かわいそうに絹巻は、永年住み慣れた竹田城を離れたくはなかったのですが、主人宗寿の命令にそむくわけにもいかず、考えにあまってこの淵に身を投げたのでした。これを聞いた人々は絹巻きを憐れんで、小さいほこらを造りその霊をとむらいました。そして、いつしかこのほこらを三谷神社と呼ぶようになったのです。

さてその後、この淵に時おり白い蛇が姿を見せるようになりました。ところがある夏のこと、近年にない大日照りで百姓たちは困り果て、この三谷ヶ淵に水を取りに集まりました。水を取ろうとすると、どうしたことか、かんかんでりの青空は急に黒雲となったかと思うと、立ってもいられないほどの大雨となり、村人たちは、これは絹巻の変身である白蛇様が、滝壺の水がなくなって自分の姿を見られると恥ずかしく思い、大雨を降らしたのだと喜ぶとともに、さらに絹巻の霊を厚くとむらったということです。

それからは、この三谷神社は雨乞いの神様として、村人から信心され、大切にされたのです。

武士の恩がえしとつくし

天正九年(1581)のことです。播磨赤松氏の律師光影が二人の家来を連れて竹田城に乗り込んできました。

城主は五代目太田垣朝延でした。軍使は朝延に、ただちに赤松氏に降参し城を明け渡すようにと迫りました。これを聞いた朝延は怒って、軍使三人を大路山滝谷ヶ原で切り捨ててしまったのです。ここで、赤松氏と太田垣氏の戦いの火蓋が切られたのです。

その後何年か経ったとき、村人たちはこの切られた三人の侍の霊を慰めるために、三体の石地蔵をつくって、手厚く祭りました。ところが妙なことに、この滝谷ヶ原付近は、昔からつくしが一本も生えない土地であったのに、このことがあったあくる春からこの地蔵堂の付近だけ、つくしがたくさん生え、村人たちを驚かせました。

これは地蔵様のお陰であるとともに、霊をとむらった武士の恩がえしであろうと、それからのち、毎年春の一日を村人たちは、つくし取りに楽しむようになりました。

庵主を救った人食い地蔵

城が落ちた時、裏山づたいに密かに逃れ出た一人の若い女がありました。

敵の目をかすめてようやく辿り着いたのは、城からさして遠くもない久留引の村でした。助けを求められた村人たちは哀れに思い、かくまうとともに、小さい庵を建てて堂守にしました。この庵主となった女は、明けても暮れても、戦死した竹田城の勇士の霊をとむらって仏に仕えていました。また、何くれと村人たちの世話をするので、立派な尼さんだと大へん大事にされました。

ある夜、賊がこの庵を襲った時のことです。庵主に斬りつけた賊の刀が、門前にまつられていた石地蔵に当たり、庵主は危ないところを逃れることができました。そしてその拍子に倒れた地蔵様の下敷きになって、賊はついに死んでしまったのです。まさに仏ばちがあったわけです。その後、村人たちはこの地蔵様を人食い地蔵と呼ぶようになりました。

どういうわけかと土地の物知りに聞くと、庵主が一生懸命に仏様に仕えたので、地蔵様が身代わりになられたことをある名高い坊さんが聞かれて、施徳地蔵といわれたのを、いつしか人食い地蔵となまっていうようになったのだとのことでした。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

【たじま昔ばなし】 本当は恐い?!「通りゃんせ」伝説(朝来市生野町)

「佐渡の金山、生野(イクノ)の銀山」として知られる銀の町として有名な兵庫県生野。生野鉱山は約1200年前に開坑されたとも伝わる古い鉱山で、操業時の坑道は地下880m・坑道の長さ延べ350kmにも及び、採掘した鉱石は、金・銀・銅・亜鉛など70種類にも及びました。山名・織田・豊臣・徳川の直轄地を経て、明治22年以降皇室財産になりましたが、明治29年には三菱に払い下げられ昭和48年にその長い歴史を閉じました。

要衝の地に有りながら、町の中央を流れる市川の度重なる氾濫や、鉱毒の為に、田畑を耕しても育たず民家も少なかったので、あまり人の住めるところでは無かった様で、「死野」とも呼ばれていたようです。「播磨国風土記」には、垂仁天皇が「死野」から「生野」にするよう言ったと言う話も伝わります。もし生野に鉱山がなければ人は住まなかっただろうとさえいわれ、鉱山とともに栄えた町です。

童謡「とおりゃんせ」は、垂仁天皇の頃の本当は恐ろしい神の伝承だというものです。

「最新 日本古代史」恵美嘉樹著によると、
自由に坂道を往来する10人の旅人の5人を殺し、残りの5人を通す。20人が通ればそのうち10人は殺す。

『播磨風土記』で、「生野というところは、むかしこの地に荒ぶる神がいて、往来する人の半分を殺した。このため死野(シニノ)と呼んだ。」とも一文である。童謡「とおりゃんせ」の原型ともいわれるが、この恐ろしい神の居場所は、但馬、丹波、播磨の3つの国の国境地帯にあり、近くには但馬一宮 栗鹿(アワガ)神社がある。祭神のアメミサリは神社の背後にある粟鹿山に鎮座します。大国主(オオクニヌシ)の子とされているが、元来はこの要地に独自の関所をもうけた氏族の神であったのだろう。そこに大和の三輪山の神官家のオオヒコハヤが颯爽と現れ、この粟鹿神を鎮めて、五穀豊穣の神にしてしまった。

神社の北側には、古代国家によって全国に張り巡らされた道路網の一つ、山陰道が通っている。近年、沿道から「駅子(エキシ)」と書いた木簡(墨で書かれた札)が発掘された(柴遺跡は朝来郡山東町)。

「駅」とは古代の緊急連絡網のために設けられた施設のこと。都までつながる道に等間隔に設置された。駅には馬が常時つながれており、緊急連絡がある場合、次の駅までリレー式に早馬で伝達していくわけだ。緊急でない場合は一役人も使っていた道でもありました。ちなみに陸上競技の駅伝の語源でもある。

この「駅子」の発見から、付近に駅があり、粟鹿神社の地が交通の要所であることがわかり、伝説の信憑性が裏付けられた山陰道など古代の道路網は飛鳥時代に整備されたといわれている。

交通の要衝で、荒ぶる神が通行人の半数を妨害し危害を加えるという伝承は、古代社会ではわりとポピュラーで、同じタイプの伝承は数多くみられる。神話学では「行路妨害」と分類されるこの伝承は、先住民が土地支配の正当性を語る思いが込められているのだという。地方豪族がまだ完全にヤマト王権に従属していなかった時代には、激しい縄張り争いから境界に見張りをつけ、場合によっては危害を加えた、といったことが日常頻繁にあったに違いない。「行路妨害」-それは地方の豪族が自らの土地を守る最大の抵抗だったのであり、境界が有名無実化した後世になって伝承として伝えられたのかも知れない。」

池田古墳(前方後円墳)や近年発見された「茶すり山古墳」(朝来市和田山町筒江)は、5世紀前半に築造された円墳で、直径は90mを測り、円墳としては近畿最大、全国でも第4位という大古墳が見つかりました。かりに朝来氏、粟鹿氏といった但馬王というべき豪族がいたことを裏付けます。

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【但馬の城ものがたり】(26) 太田垣氏(2) 応仁の乱と太田垣氏

戦国時代(1467~1568)、但馬の守護大名である山名氏の中でも、親と子、主君と家来同士の間で、血なまぐさい合戦があちこちで行われています。

応仁の乱ののち山名の勢力は急速に衰え、国内にも分裂が起こり、文明十三年(1481)九月にはいったん但馬に引き上げます。また但馬のほか備後・美作・播磨・因幡の守護を兼ねておりましたが、しだいに備後・美作・播磨から撤退していきました。

応仁の乱と太田垣氏

太田垣光景が竹田城の守備を山名持豊(宗全)から命じられて以後、但馬国の播磨・丹波からの入口に位置する竹田城が太田垣氏代々の居城となりました。

応仁元年(1467)、「応仁の乱」が勃発すると、西軍の大将となった山名持豊(宗全)に従って太田垣氏も出陣しました。応仁二年三月、竹田城の太田垣土佐守・宗朝父子は京都西陣の山名の西軍に参軍し、太田垣宗朝(むねとも)の弟新兵衛(宗近?)を留守将として竹田城を守らせていましたが、その守備は手薄でした。しかも、山名方の垣屋・八木・田結庄氏らも京都に参陣し、山名の領地である但馬国は、東軍の丹波守護細川氏や播磨の赤松氏にとって、侵攻するのに好都合な状態でした。

そして、長九郎左衛門や、細川氏の重臣で丹波守護代の内藤孫四郎を大将とする足立・芦田・夜久等の丹波勢が但馬に乱入したのです。かくして、細川方は、一品・粟鹿・磯部(いずれも朝来市山東町)へ攻め入りました。この時、竹田城留守将太田垣新兵衛は、楽音寺に陣を取っていましたが、一品に攻め入った敵は葉武者と見抜いて、これにかまわず磯部へ兵を進めました。細川方の内藤軍は東河(朝来市和田山町)を進発し、かれらが民家を焼き払った煙が山の峰から尾に立ちのぼっていました。それを見た太田垣軍は夜久野の小倉の氏神賀茂宮の山に立って眺めると、内藤軍が魚鱗の陣形に布陣しているのが見えました。

その大軍に対して、小勢の太田垣新兵衛を大将とする山名方の諸将は、一瞬、攻めかかることを躊躇しました。しかし、大将太田垣新兵衛・行木山城守らは陣頭に立って、鉾先をそろえて打ってかかりました。その勇猛果敢な突撃に内藤軍が陣を乱したところを、太田垣軍はさらに襲いかかりました。

敵将内藤孫四郎・長九郎左衛門らも踏み止まって奮戦しましたが、討死してしまいました。大将が討死したことで、夜久野の細川方の軍勢は散り散りになり、東河へ攻め入っていた者らも、我先にと敗走しました。さらに、粟鹿・一品に攻め入った者達もこれを見てたまらず逃げ失せてしまいました。山名方の大勝利でした。これを世に「夜久野の合戦」と呼ばれています。

合戦に勝利を得た太田垣新兵衛は、勝報を京都西陣の山名宗全へ注進したところ、宗全は大変感激して、身に着けていた具足に御賀丸という太刀を添えて太田垣新兵衛に与えました。この太刀は宗全が足利義満より下賜された宝刀であり、新兵衛は大いに面目をほどこしたのでした。応仁の乱以後も、太田垣氏は山名氏に仕え、垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名四天王と呼ばれる存在となり、但馬の勢力を培っていきました。

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