【たじま昔ばなし】 おりゅう柳(養父市八鹿町九鹿)

むかしむかし、今の養父市高柳(やぶしたかやなぎ)の北の山に一本の大きな柳の木がありました。もう何百年もそこに立っているような、とても大きな木でした。

山の北側にある九鹿(くろく)には、おりゅうという近所でも評判のきれいな娘がいました。おりゅうは高柳の造り酒屋へつとめに通っていて、その行き帰り、いつも決まってこの大きな柳の下でひと休みをし、長い髪(かみ)をとかしなおしていたのでした。

ある日のこと、いつものように髪をとかしていたおりゅうは、ふと人の気配を感じて顔をあげました。そこには若い侍(さむらい)が立っていて、おりゅうにほほえみかけていました。その日から、二人はこの柳の下で毎日出会うようになりました。楽しげな二人の様子は、いつしか村の人々のうわさにもなっていました。

ところがそのころ、都で三十三間(さんじゅうさんげん)のお堂を建てるために、材木を諸国から集めるとのうわさが流れ、まもなく、この柳の大木を切り出すようにとの命令が届きました。その日から柳の大木は、風もないのに枝をふりみだし、ごうごうと大きな音をたてて鳴りひびくようになりました。

やがて、国の役所から大勢の人々が村に着き、柳の切り出しをはじめました。しかし、斧(おの)を入れたはずの切り口が、次の日になるといつの間にかふさがっていて、仕事は一向にはかどりません。おかしいと思った人々が、夜通し柳を見はっていると、切りくずがひとりでに飛んでいって、切り口をもと通りにうめてしまっていたことがわかりました。

そこで人々は、次の日から夜になる前に、切りくずを焼いてしまうようにしました。それから仕事ははかどり、とうとう数日後に柳は切りたおされました。それに合わせるように、おりゅうも体調をくずしていきました。

切りたおされた柳を都まで運ぶために、また大勢の人々がやってきて、柳を引きはじめました。しかし、いくら人数を増やして引いても、柳はびくとも動きませんでした。困った人々は村の長老に相談しました。すると長老は、「おりゅうを呼んでくれば、動くかもしれない。」と言いました。

呼ばれてやってきたおりゅうは、病みつかれた姿で、そっとやさしく柳の木はだをなでました。すると柳は静かに坂を降りはじめました。おりゅうが毎日会っていた若い侍は、この大きな柳の精霊(せいれい)だったのです。

兵庫県歴史博物館「ひょうご歴史ステーション」

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【たじま昔ばなし】 粟鹿山 「大山」の地名伝説(朝来市山東町粟鹿)

遠い昔のことです。

但馬(たじま)の山東(さんとう)や和田山(わだやま)のあたりは、向こう岸が見えないほど広い湖でした。粟鹿山(あわがやま)や、まわりの高い山々も、その湖の上に頭を出した島でした。人々は、粟鹿山のことを、大山(おおやま)と呼んでいたそうです。

ある日のこと、アマツヒダカヒコホホデミノミコトという神様が、天から粟鹿山の頂上に降りてきました。そして山の上からあたりを見回して、「この広い湖の水を海へ流し出して、広い土地を造ったならば、人々が住みやすくなるだろう」と考えました。

ここで、この長い名前の神様のことを、少しだけお話ししておきましょう。

アマツヒダカヒコホホデミノミコトは、天の上にある、高天原(たかまがはら)という神様の国から下ってきたニニギノミコトが、地上でコノハナサクヤヒメと結婚(けっこん)して生まれた三人の子(ホデリノミコト・ホスセリノミコト・ホオリノミコト)の一人、ホオリノミコトの別名だということです。

ホオリノミコトにはもう一つ名前があって、山幸彦(やまさちひこ)とも呼ばれていました。お兄さんのホデリノミコトは、海幸彦(うみさちひこ)と呼ばれています。『古事記』という本には、山幸彦が兄の海幸彦との争いに勝って、海の神のむすめ、豊玉姫(とよたまひめ)と結婚し、ウガヤフキアヘズノミコトという子供が生まれたと記されています。そしてこのウガヤフキアヘズノミコトの子供が、日本で最初の天皇である、神武天皇(じんむてんのう)になったという神話へと続いてゆくのです。

さて、粟鹿山の頂上から下りると、アマツヒダカヒコホホデミノミコトは、水をせき止めていた山をけりくずしました。水はごうごうと音を立てて、みんな日本海へと流れ出してしまいました。そのあとには広い土地ができましたが、まだ水気が多くてぬかるんでいたところもありましたので、そこには大きな石のお地蔵様をうめこんで、土地を固めたそうです。

それからというもの、この土地にはたくさんの人が住み着いて、あちこちに豊かな村ができました。人々は、アマツヒダカヒコホホデミノミコトが国を見わたした山を、見国岳(みくにだけ)と呼んで毎日拝んでおりました。

ある日のこと、アマツヒダカヒコホホデミノミコトが見国岳で休んでおりますと、一頭の美しい牝鹿(めじか)が、三本の粟(あわ)の穂(ほ)を角の上にのせてやって来て、うやうやしくささげました。これが粟鹿山という名の始まりになったのです。その後人々は、山のふもとに粟鹿神社(あわがじんじゃ)を建てて、アマツヒダカヒコホホデミノミコトをお祭りするようになったということです。


粟鹿神社

兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行-妖怪・自然の世界-

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【たじま昔ばなし】 妙見の臼 (養父市八鹿町妙見)

はるかに遠い昔。八鹿(ようか)の妙見山(みょうけんさん)に、妙見菩薩(みょうけんぼさつ)がお下りになったころのことです。

網場村(なんばむら)に森木三右衛門(もりきさんえもん)という人が住んでいました。三右衛門は妻と二人暮らしでしたが、信心のあつい働き者でした。

ある夜のことです。三右衛門が仕事を終えてねようとしていたところ、とんとんと戸をたたく音が聞こえました。

「こんな夜ふけにだれだろうか」

三右衛門がふしぎに思いながら戸を開けてみると、暗やみの中に一人の少年が立っています。

「夜おそく申しわけありませんが、一晩、とめてもらえないでしょうか」

少年のつかれきったようすを見て、気の毒に思った三右衛門は、家に招き入れました。

「何のおもてなしもできんが、休んでいきなされ」

家の明かりであらためて少年を見ると、どうもただの人とは思えません。顔だちはまだ少年ですが、何とも神々しい気配がします。

少年を部屋へ案内した後も、三右衛門はどうも落ち着きませんでした。何か大切なことを忘れているような気がしてならないのです。そのうちどうしたわけか、蔵の中にしまってある木の臼(うす)のことが気にかかりはじめました。

そこで、三右衛門は妻と相談して、臼を少年の部屋まで運びこみました。すると少年は、当たり前のようにその臼に座ってこう言ったのです。
「私はこれから休ませてもらいます。けれど、私が休んでいる間、けっして部屋の中をのぞかないでください」

そう言われると、三右衛門は、ますます気になってしかたがありません。布団に入っても、なかなかねつかれないまま考えこんでいましたが、夜中をすぎるころ、とうとうがまんできなくなってしまいました。ねどこをそっとぬけ出すと、少年の部屋に近づいて、戸のすきまから中をのぞいてしまったのです。するとそこには、臼にぐるぐると巻きついてねむっている、一ぴきの大きな白い蛇(へび)の姿がありました。

あまりのことに、三右衛門は気を失うほどおどろきました。ふるえながら自分の布団にもどり、そのまま朝までねむることもできませんでした。
ようやく東の空が白みかけたころ、少年は起きてきて、三右衛門に声をかけました。

「とめていただきありがとうございました。私はこれから帰ることにいたします」

支度をととのえて、少年は出て行きました。しかしきみょうなことに、街道ではなく、道のない山の方へと向かってゆきます。神社の森がある山へ向かってまっすぐに進み、やがて、尾根(おね)をこえるところで、その姿が夜明け前の空にくっきりとうかんで見えたのでした。三右衛門はようやく気づきました。

「そうか、妙見さまのお使いだったのだ」

そこで三右衛門は、少年の姿が最後に見えた尾根の上に鳥居を建てて、妙見様をおがむ場所にしました。それからは、三右衛門の家は栄えて、お金持ちになったといいます。これを聞いた村人たちは、鳥居がある場所を、富貴が撓(ふきがたわ)と呼ぶようになりました。
しかし、言いつけに背いて部屋をのぞいたためか、その後、この家のあととりに生まれた人は、みんな生まれつき右の目が見えなかったということです。

三右衛門から何代か後、信心のない人がこの家の主になりました。妙見様を信心せず、鳥居が古くなってたおれても、知らん顔をしていたところ、だんだんと貧しくなって、とうとう家は絶えてしまったのです。

けれどもあの臼だけは、分家の三吉(さんきち)があずかっていました。
文化4(1807)年の秋、網場村に大火事がおきました。村中の家が焼けてしまいましたが、臼をしまってあった三吉の蔵だけは焼けませんでした。
「きっと、妙見様が臼を守っておられるのだろう」
そう考えた三吉は、この臼を日光院(にっこういん)へ納めて、供養してもらうようにとたのみました。
こうして、いまでもこのふしぎな臼は、日光院にお祭りされています。

兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行 - 神と仏 ‐

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【たじま昔ばなし】 難儀にあったお大師様(朝来市山東町楽音寺)

何百年か昔、楽音寺(がくおんじ)というお寺にどろぼうが入りました。「何か金目のものはないか」と探しているうちに、お祭りしてあった一尺二寸(四十センチほど)ばかりの金のお薬師様が目につきました。お薬師様は、病気を治してくれる仏様で、手には薬が入った小さな壺(つぼ)を持っています。

「よしよし、こいつは金になるぞ」

どろぼうはそう言うと、お薬師様をつかんでそのままにげてしまいました。

どろぼうは、遠くまでにげると、お薬師様を鍛冶屋(かじや)に持っていって売り飛ばしました。この鍛冶屋も悪い人だったので、買い取ったお薬師様をとかして、金のかたまりにしてしまおうと考えました。

さっそく火をおこしましたが、どんなに火をたいてあぶっても、お薬師様は少しもとけません。おこった鍛冶屋は、それなら金づちでたたいてつぶしてやろうと、大きな金づちを持ち出しました。そして大金づちをふりあげると、力いっぱいお薬師様をたたきました。ところがお薬師様は少しもへこんだりしません。「ええい、このやろう」と、たたくと、こんどはたたくたびに、お薬師様が「がっこんじ、がっこんじ」とおっしゃるではありませんか。

鍛冶屋はびっくりしてこしをぬかしました。

「こんな仏様をつぶしたりしたら、ひどいばちがあたるかもしれん」

こわくなった鍛冶屋は、日が暮れるのを待って、お薬師様をかかえるとこっそり楽音寺までやってきました。そして、お堂のそばにあった弁天池に、お薬師さまを放りこんでにげてしまいました。

それから何日か後のことです。ちょうど日暮れ時に遠坂峠(とおざかとうげ)を歩いていた旅人が、楽音寺のあたりをながめていると、何かぴかぴかと光るものが見えます。「いったい何だろう」と思いながら、その光るものを目指して歩いていると、弁天池に行き当たりました。
光は、池の中からさしています。

旅人はおどろいて、お寺のお坊(ぼう)さんのところへ飛んでゆきました。話を聞いたお坊さんが、村人にたのんで池の底をさらってみると、なんと先日ぬすまれたお薬師様が見つかったではありませんか。

お坊さんはさっそく、お薬師様のために新しいお堂をたてて、ていねいにお祭りしました。

火で焼かれたり、金づちでたたかれたり、たいへんな難儀(なんぎ)にあったのに、無事にもどってきたお薬師様です。きっとどんな病気でも、けがでも助けてくださるだろうという話が、遠くまで伝わりました。それからというもの、近所だけでなくずっと遠い村からも、お参りする人が絶えなくなったということです。

兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行 - 神と仏 ‐

http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/legend2/html/002/st04.html
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【たじま昔ばなし】 五社明神の国造り(豊岡市小田井)

大昔、まだ豊岡(とよおか)のあたりが、一面にどろの海だったころのことです。

人々は十分な土地がなくて、住むのにも耕すのにも困っていました。そのうえ悪いけものが多く、田畑をあらしたり、子供をおそったりするので、人々はたいへん苦しんでいました。この土地を治める五人の神様は、そのようすを見て、なんとかしてもっと広く、住みよい所にしたいものだと考えました。

そこで神様たちは、床尾山(とこのおさん)に登って、どろの海を見わたしてみました。すると、来日口(くるひぐち)のあたりに、ものすごく大きな岩があって水をせき止めています。

「あの大岩が、水をせき止めているのだな」
「あれを切り開けば、どろ水は海へ流れるにちがいない」
「そうすれば、もっと広い土地ができるだろう」
「それはよい考えだ。どろの海がなくなれば、たくさんの人が安心して暮らせる」

神様たちはさっそく相談して、大岩を切り開くことにしました。

大岩を断ち割り、切り開くと、どろ海の水はごうごうと音を立てて、海の方へ流れ始めました。神様たちはたいそう喜んで、そのようすを見ていました。

ところが、水が少なくなり始めたどろ海のまん中から、とつぜんおそろしい大蛇(だいじゃ)が頭を出して、ものすごいうなり声を上げながら、切り開かれた岩へ泳ぎはじめました。そして、来日口に横たわって水の流れをせき止めてしまったのです。

神様たちはおどろきました。

「この大蛇は、どろの海の主にちがいない」
「これを追いはらわねば、いつまでたっても水はなくならないぞ」

神様たちがそろって、大蛇を追いはらおうとすると、大蛇はすぐにどろにもぐってにげてしまいます。あきらめてひきあげると、大蛇はまたあらわれて、水をせき止めてしまいます。神様たちはたいそうおこりました。

すきをみて大蛇に飛びかかり、神様たちは、とうとう大蛇を岸に引きずり上げてしまいました。そして頭と尻尾(しっぽ)をつかんで、まっぷたつに引きちぎろうとしましたが、大蛇もそうはさせまいと大暴れします。それどころか、太くて長い体を神様たちに巻き付けて、しめころそうとするのでした。

五人の神様と大蛇は、上になったり下になったりしながら、長い間戦いました。大蛇が転がるたびに、地面は地震(じしん)のようにゆれます。けれども五人が力をあわせ、死にものぐるいでたたかいましたので、大蛇もしだいにつかれてきました。そこで神様たちが、大蛇の頭と尻尾にとびかかって、えいっと力をこめて引っ張りますと、さしもの大蛇も真っ二つになってしまいました。

こうして、どろの海の水は全部日本海へと流れ出し、後には豊かな広い土地が残りました。そしてどろの海のまわりにはびこっていた悪いけものたちも、みなにげ出してしまいましたので、人々はたいへん喜び、それからは安心して暮らせるようになったということです。
このできごとをお祝いして、毎年八月に、わらで大蛇の姿をした太いつなをつくり、村人みんなでひっぱってちぎるというお祭りが、行われるようになったということです。


小田井神社

兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行 - 神と仏 ‐

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【たじま昔ばなし】 鼻かけ地蔵(豊岡市楽々浦)

昔、但馬(たじま)の楽々浦(ささうら)の村に、貧しい漁師の男が住んでいました。毎日、楽々浦であみを打って働いていましたが、暮らしは少しも楽になりません。そんなある日、男の夢にお地蔵様があらわれて、こんなふうにおっしゃいました。

「私は、大水にさらわれて、楽々浦の底にしずんでいるのだよ。暗いし冷たいし、その上ここにいたのでは、人々を救うこともできない。どうかおまえの力で助けておくれ」

ふしぎな夢もあるものだ。男はそう思いましたが、翌日さっそくあみを打って水底をさぐってみました。すると、夢のとおりのお地蔵様があみにかかってあがってきたのです。男はさっそく、小さなお堂をこしらえて、お地蔵様をていねいにお祭りしました。

あくる日、男がお参りしてみると、お地蔵様の足元に白い米つぶがたくさん散らばっています。どうしたことかと思って見ていると、なんとお地蔵様の鼻の穴からぽろり、ぽろりと米つぶがこぼれ落ちているではありませんか。男はびっくりするやらうれしいやら。さっそく、おけを持ち出して、お地蔵様の鼻の下に置きました。

ぽろりぽろりとこぼれ落ちるお米は、だんだんとおけの中にたまってゆきます。
「これはありがたい。もう苦労をして働かなくても暮らしていける」

それからというもの、お地蔵様の鼻の穴からこぼれるお米で、男はだんだん豊かになりました。いつまでも止まることなく出てくるお米を、近所の人たちに分けてやるようにもなりました。

ある日、男は考えました。
「あの鼻の穴がもっと大きければ、もっとたくさんお米が出てくるんじゃないかな。そうすれば、もっといい暮らしができる」
ようしっ! 男はのみと金づちを持ち出すと、さっそくお地蔵様の鼻の穴をけずりはじめました。
トン、カン、カン・・・。
鼻の穴は少しずつ大きくなってゆきます。「よしよし」男はにっこりしました。
「もう少しだ」

ところが、あと少しというところで、手元がくるってしまったのです。
「あっ!」

しまったと言うひまもなく、次のしゅん間、お地蔵様の鼻は欠け落ちていました。そしてそれきり、お地蔵様の鼻から出ていたお米は、ぱったりと出なくなってしまいました。

男はぼう然としましたが、もう元にはもどりません。
「何とばちあたりなことをしてしまったんだろう」

男はすっかり目が覚めました。心から反省し、毎日お地蔵様にお参りしておいのりするようになりました。前にもまして、楽々浦であみを打ち、いっしょうけんめい働きました。やがて男はおよめさんをもらい、二人は幸せに暮らしたということです。

今でも、鼻の欠けたお地蔵様は、楽々浦のほとりにあるお堂の中で、村の人たちの暮らしを見守っています。どんな願い事でも、ひとつだけちゃんとかなえてくれるというお地蔵様には、毎日きれいな花が絶えることがありません。

兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行 - 神と仏 ‐

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【たじま昔ばなし】 国造りにまつわるお話

兵庫県立歴史博物館「ひょうご伝説紀行 - 語り継がれる村・人・習俗 ‐」によれば、”アメノヒボコは但馬国を得た後、豊岡(とよおか)周辺を中心とした円山川(まるやまがわ)流域を開拓したらしい。そして亡くなった後は、出石神社(いずしじんじゃ)の祭神として祭られることになった。

但馬一宮の出石神社は、出石町宮内にある。この場所は出石町の中心部よりも少し北にあたり、此隅山(このすみやま)からのびる尾根が出石川の右岸に至り、左岸にも山が迫って、懐のような地形になっている。神社はその奥の一段高い場所に建っている。

このあたりから下流は、たいへん洪水が多い場所である。2004年におきた豊岡市の大水害は記憶に新しいところだが、出石神社のあたりを発掘してみると、低湿地にたまる粘土や腐植物層と、洪水でたまった砂の層が厚く積み重なっている所が多い。

そんな場所であるから、古代、この地を開拓した人々は、非常な苦労を強いられたことだろう。『出石神社由来記』には、アメノヒボコが「瀬戸の岩戸」を切り開いて、湖だった豊岡周辺を耕地にしたと記されているという。そのアメノヒボコは、神となって今も自分が開拓した平野をにらんでいるのだ。

去年の伝説紀行に登場したアメノヒボコノミコトは、但馬の国造りをした神様(人物?)でもあった。けれども但馬地方には、ほかにも国造りにまつわるお話がいくつか伝えられている。各々の村にも、古くから語り継がれた土地造りの神様の伝説があったのだ。

太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのだろう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思える。

この出石神社から1kmほど北へ行った所に、出石古代体験館がある。出石町内で発掘されたさまざまな資料が展示され、体験もできるから、古代史に関心がある人は訪ねてみるとよいだろう。”

縄文時代の豊岡盆地 Mutsu Nakanishi さんよりお借りしました

”二つの伝説に共通しているのは、「但馬(特に円山川(まるやまがわ)流域)はかつて湖だったが、神様(たち)が水を海へ流し出して土地を造った」という点である。実はこの「かつて湖だった」というくだりは、必ずしも荒唐無稽(こうとうむけい)な話ではなさそうなのだ。  今から6000年ほど前の縄文時代前期は、現代よりもずっと暖かい時代だった。海面は現在よりも数m高く、東京湾や大阪湾は今よりも内陸まで入り込んでいたことが確かめられている(縄文海進)。
但馬の中でも円山川下流域は非常に水はけの悪い土地で、昭和以降もたびたび大洪水を起こしている。近代的な堤防が整備されていてもそうなのだから、そんなものがない古代のことは想像に難くない。実際、円山川支流の出石川周辺を発掘調査してみると、地表から何mも、砂と泥が交互に堆積した軟弱な地層が続いている。
豊岡市中谷や同長谷では、縄文時代の貝塚が見つかっている。中谷貝塚は、円山川の東500mほどの所にある縄文時代中期~晩期の貝塚だが、現在の海岸線からは十数km離れている。長谷貝塚はさらに内陸寄りにある、縄文時代後期の貝塚である。これらの貝塚は、かつて豊岡盆地の奥深くまで汽水湖が入り込んでいたことを物語っている。
縄文時代中期だとおよそ5000年前、晩期でもおよそ3000年前のことである。「神様たちが湖の水を海に流し出した」という伝説は、ひょっとするとこういった太古の記憶を伝えているのではないだろうか。
円山川をさかのぼって北から南へ。それぞれの神社(北から順に、絹巻神社、小田井縣神社、出石神社、養父神社、粟鹿神社)を訪ねて、五社明神のお話を考えてみた。途中、鼻かけ地蔵さんと、伝説に登場する来日岳(くるひだけ)に立ち寄ったのはもちろんである。”
兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行 - 神と仏 ‐

このことは、但馬五社である古社、粟鹿神社、養父神社、小田井神社にも但馬の国を切り開いた伝承が残っていることから、気が付いていた。
【たじま昔ばなし】 五社明神の国造り(豊岡市小田井)
http://koujiyama.at.webry.info/201002/article_56.html
【たじま昔ばなし】 粟鹿山 「大山」の地名伝説(朝来市山東町粟鹿)
http://koujiyama.at.webry.info/201002/article_59.html
どちらにも共通しているのはそのころ広い湖であったということだ。豊岡盆地が円山川支流出石川まで奥深くまで汽水湖が入り込んでいたことは実際に地層やハカザ遺跡から船団が描かれた木が見つかっておりうなづける。しかし山東町あたりはどうだったのだろうか。遠阪峠そばで標高差を考えても、粟鹿山から流れている粟鹿川が神社のそばでは少し川幅が広くなっており勾配がないようだ。湖とはいわないが大雨で氾濫していたのかも知れない。
また、
『播磨風土記』には、天日槍(アメノヒボコ)命と伊和大神(葦原志許乎命(あしはらのしこおのみこと)=大巳貴命(おおなむち))が、黒土の志爾嵩(藤無山)に至りおのおの黒葛を三条(みかた)を投げて支配地を決定した。 アメノヒボコ命の投げた三条は、すべて伊都志(出石)に落ちた。 葦原志許乎命の投げた黒葛は、一条が但馬の気多の郡(豊岡市日高町)に、一条は夜夫(養父)の郡に、 そして、最後の一条が御方に落ちたため、 三条(みかた:御方・御形)という地名となった。
アメノヒボコ命の投げた黒葛が出石に落ち、ヒボコ命を祭神とする出石神社があり、また、気多郡に葦原志許乎命を祀る気多神社、御方にも葦原志許乎命を祀る御方神社が鎮座する。 養父郡にも、国土開発統治の神様大己貴命(葦原志許乎命)を祀る養父神社が存在するということは、古くからこの地に有力な地方豪族がおり、四道将軍の少彦名命、谿羽道主命が平定後に、
養父神社の祭神に五座(二座 小三座)
倉稲魂命--------米麦養蚕牛馬の神様
少彦名命--------薬草、治病の神様
大巳貴命(大国主命)--国土開発統治の神様
谿羽道主命(四道将軍のひとり丹波道主命)国民生活安定の神様
船帆足尼命-------地方政治の神様
を配祀したのではないかと思われることから伺えます。
大己貴神(別名、大国主神、国作大己貴命、葦原志許男命など)を祀る但馬の神社
養父神社
小田井神社
但馬総社 気多神社
伊福部(イフクベ)神社
神門神社(かむとじんじゃ)
伊福部(イフクベ)神社
石部(いそべ)神社
安牟加(アムカ)神社
式内社 重浪神社(しきなみ)神社
式内社 韓國(からくに)神社
西刀(せと)神社
式内社 與佐伎(よさき)神社
また、粟鹿神社は
彦火々出見命(ホオリ、山幸彦、ニニギとコノハナノサクヤビメとの間の子。ウガヤフキアエズの父、神武天皇の祖父)あるいは 日子坐王(谿羽道主命の子・日下部氏の祖)

「洪水説話」と天沼矛(アメノニボコ)
天沼矛(あめのぬぼこ・あまのぬぼこ)は日本神話に登場する矛である。『古事記』では天沼矛、『日本書紀』では天之瓊矛(本文)・天瓊戈(一書第一・第二・第三)と表記される。
『古事記』によれば、伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の二柱の神は、別天つ神たちに漂っていた大地を完成させることを命じられ、天沼矛を与えられた。伊邪那岐・伊邪那美は、天浮橋(あめのうきはし)に立って、天沼矛で、渾沌とした大地をかき混ぜたところ、矛から滴り落ちたものが、積もって淤能碁呂島(おのごろじま)となった。伊邪那岐・伊邪那美は淤能碁呂島で結婚し、大八島と神々を生んだ(国産み、神産み)。
国産み(くにうみ)とは日本の国土創世譚を伝える神話である。
イザナギとイザナミが天の橋にたち矛で混沌をかき混ぜ島をつくる。また、『古事記』などではそののち2神で島を産んだというものである。この島産みは、中国南部、沖縄から東南アジアに広く分布する「洪水説話」に似た点が多いといわれる。
なお、国生みの話の後には神生み(かみうみ)が続く。
「洪水説話」とは、文明を破壊するために、天誅として神々によって起こされた大洪水(洪水神話、洪水伝説)は、世界の諸神話に共通して見られるテーマである。聖書(旧約聖書)『創世記』のノアやノアの方舟、インド神話、ヒンドゥー教のプラーナのマツヤ、ギリシャ神話のデウカリオン、および『ギルガメシュ叙事詩』のウトナピシュティムの物語は、よく知られた神話である。過去現在の世界の文化のうち大部分が、古い文明を壊滅させる「大洪水」物語を有している。
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【たじま昔ばなし】 「鴻の湯」の伝説(豊岡市城崎町)

はるか太古のむかしより、温泉の郷として親しまれている「城崎温泉」。舒明天皇(在位629年?641年)の時代に、コウノトリが傷を癒した伝説がある。コウノトリが足の傷を癒したといわれる城崎温泉最古の湯です。庭園風呂(露天風呂)もあり、山に囲まれているので自然に囲まれた森林浴風呂という楽しみ方もできます。

山の湯風をとり入れた素朴な様式の建築で町の奥深く街路から離れた閑静な湯。川べりの柳が風情ある散策をかねた七つの外湯めぐりが楽しめます。知名度と京阪神からのアクセスの良さにもかかわらず、歓楽色の少ない静かな情緒が特徴です。

夏は海水浴、冬はカニ料理に人気があります。城崎温泉駅にもさとの湯(駅舎にある温泉)や足湯、飲泉場があります。足湯や飲泉場が温泉街各所にある。外湯は、「鴻の湯」・「まんだら湯」・「御所の湯」・「一の湯」・「地蔵湯」・「柳湯」・「さとの湯」 の7箇所。

城崎では浴衣を着て下駄を履くのが正装と言われている。温泉街には「ゆかたご意見番」という掲示をした店が多く、浴衣が着崩れたりした時に対応する。浴衣の模様で旅館が分かるとその旅館の下駄を差し出す下足番もいる。色鮮やかな浴衣を貸し出す旅館も多い。

また温泉郷に設置されている7ヶ所の外湯では観光客向けに当日最初の入湯者に一番札を配布しています。
泉質:ナトリウム・カルシウム・塩化物・高温泉、効能:神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・疲労回復・慢性婦人病ほか。

歴史

舒明天皇(在位629年~641年)の時代に、コウノトリが傷を癒した伝説がある。「鴻の湯」の伝説。

養老元年717年から養老四年720年、道智上人が千日の修行を行った末に湧出したことが城崎温泉のはじまり。(現在のまんだら湯)道智上人は温泉寺開山でもある。温泉寺は以後、城崎温泉の社会的中心になる。

平安時代になり、「城崎温泉」が広く知られるようになりました。
鎌倉時代嘉禄2年(1226年) 、藤原定家が「名月記」7月2日の条に記しています。
文永4年(1267年)、「木崎湯治」、安嘉門院が入湯した湯を「御所の湯」といいました。

江戸時代の温泉番付によると西の関脇(最高位は大関)にランクされる。ライバルの有馬温泉は西の大関。江戸時代の外湯の元になった湯壷は9つあった。

幕末に桂小五郎(木戸孝允が)が新撰組に追われて出石・城崎温泉に潜伏していたことがあった。

江戸時代の城崎温泉はすでに遊技場のほか、食べ物屋は鍋焼き、ぜんざい、うどん、そばなどがある。果物、魚、鳥も各地から運ばれフグ、タコ、カモと何でも手に入った。

貸し物屋では三味線、すごろく、碁、琵琶、琴、さらに、槍や刀まで貸してくれていた。このように、客が帰るのを忘れさすほどもてなした。城崎温泉には、近郊の藩主や藩士が多数訪れたにぎわった。

大正2年(1913年)、志賀直哉が来遊し、大正6年(1917年)、「城の崎にて」を発表。

城崎を訪れた文人たち
有島武郎、泉鏡花、京極杞陽、斎藤茂吉、志賀直哉、白鳥省吾、柴野栗山、司馬遼太郎、島崎藤村、沢庵、田中冬二、徳富蘇峰、山口誓子、吉井勇、徳富蘆花、富田砕花、日野草城、藤原兼輔、前川佐美雄、向井去来、柳田國男、吉田兼好、与謝野晶子、与謝野寛など

見どころ
社寺 – 温泉寺、四所神社、極楽寺
博物館 – 城崎美術館、城崎文芸館、太田垣士郎資料館、城崎麦わら細工伝承館
日和山・城崎マリンワールド、兵庫県立円山川公苑、自然 玄武洞、来日岳、竹野浜、神鍋高原
2008年7月、木屋町通りと四所神社を結ぶ小路に木屋町小路がオープン。

ローカルキャラクター
* 松葉カニの ジョーくん(弟)、サキちゃん(姉) * コウノトリの 翔君、舞ちゃん (夫婦) * 城崎泉隊オンセンジャー
アクセス
鉄道…JR山陰本線城崎温泉駅下車すぐ。かにカニエクスプレス
バス…大阪・神戸から全但特急バス「かに王国号」で城崎温泉駅または城崎温泉下車
飛行機
羽田~(日本航空)~伊丹~(日本エアコミューター)~コウノトリ但馬空港
コウノトリ但馬行きは日本航空東京便と連絡。コウノトリ但馬空港からは空港連絡バス40分で城崎温泉。
その他…冬は山陰名物松葉ガニ(ズワイガニ)の料理を組み入れたツアーが設定されている。

引用:城崎温泉観光協会

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【たじま昔ばなし】 あいたっつあん

足の痛み治す神様  葦田神社 豊岡市中郷 (2004/08/26)

のどかな田園に囲まれた神社。拝殿の手すりには、靴や松葉づえ、ギプスなどがひもでくくりつけてある。足のけがが治った人が神様へのお礼に供えているのだという。

神様の名前は「あいたっつあん」。足痛の神様として信仰を集めてきた。
近くに住む森本幸二さん(73)は「今でこそお参りに来る人も減ったが、昔は但馬一円から集まったわらじやぞうりが柱などにいっぱいかけられていた」と言う。

その昔、天日槍(あめのひぼこ)が湖の底だった但馬を切り開いていたころの話。天日槍は、美しい田んぼが見渡せる所に屋敷を構えようと家来の神様に適当な場所を探させていた。  ところが、家来は中郷に見晴らしのいい土地を見つけたものの、自分が気に入ってしまって天日槍に隠していた。

それを知った天日槍が激怒。剣を抜いて家来に切りかかり、驚いて飛びのいた家来の足を傷つけ、そばにあった岩にまで傷をつけた。

しばらくして、天日槍は怒りすぎたことを反省し、見つけた土地を家来に与えた。家来は喜び、住人の足の痛みを癒やすことを誓ったという。

「あいたっつあん」と呼ばれるようになったのは切りつけられたとき、「あいた!」と言ったからだとされる。神社の辺りの小字名は「アイタチ」。近くにある狭間坂のわきには、刀傷のついた岩が残っている。

引用:神戸新聞「但馬の説話探訪」

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