新羅の基礎は倭種が造った

『日韓がタブーにする半島の歴史』室屋克実氏に、

「第一章 新羅の基礎は倭種が造った」

朝鮮半島には新羅(滅亡は935年)、高句麗(同668年)、百済(同660年)の3つの国があった時期を「三国時代」と呼ぶ。やがて新羅が半島を統一して「統一新羅時代」に入る。しかし、新羅の腐敗による統治能力の低下に伴い、半島内では2つの勢力(後百済、後高句麗)が台頭して抗争が激化する。「後三国時代」と呼ぶ。

その中から“山賊が建てた国だった後高句麗”を受け継いだ高麗(918~1392年)が、新羅国を挙げての帰伏により半島を再統一する。そこまでが『三国史記』の記述対象だ。(中略)高麗で最高の功臣かつ実力者であり、儒家としても名高かった金富軾キムプシクが現役を退いた後に、17代王である仁宗インジョン(在位1123~46年)の命令を受けて1143年頃に編纂を開始し、1145年に完成した。

(中略)

『三国史記』とは書き下ろしの史書ではない。当時あった多数の古史書を点検し、かつ中国史書を参考にして、“半島史に関する高麗王国の統一見解”としてまとめられた正史だ。そうした経緯からして、日本でいえば『日本書紀』に相当する。

「日本海側の地から来た賢者」

『三国史記』の第一巻(新羅本紀)に、列島から流れてきた賢者が、二代王の長女を娶り、義理の兄弟に当たる三代目の王の死後、四代目の王に即く話が載っている。その賢者の姓は「昔(ソク)」、名は「脱解だっかい・タレ」だ。

三国史記の記す脱解と瓠公のルート 『韓国人は何処から来たか』長浜浩明

「新羅本紀」は脱解だっかい・タレ王初年(57年)の条で述べている。

脱解本多婆那国所生也。其国在倭国東北一千里

(脱解はそもそも多婆那タバナ国の生まれだ。その国は倭国の東北一千里にある。)

その生誕説話も載せている。そこには、新羅の初代王である朴赫居世パクヒョッコセの生誕説話の倍以上の文字数が費やされている。

(中略)

「新羅本紀」を要約すると、

女国(『三国遺事』では積女国)から嫁いできた多婆那国の王妃は、妊娠して七年経って大きな卵を生んだ。王は「人が卵を生むというのは不祥である」として捨てるように命じた。そのため、王妃は宝物とともに櫃に入れて海に流した。

櫃は最初、金官国(金海市)では、誰も怪しんで取り上げようとせず、次に辰韓(慶尚道)の海岸に流れ着いた。
海辺に住んでいた老婆が櫃を開けてみると少年がいた。一人の少年が出てきた。
その時、櫃に従うようにカササギが飛んでいた(鵲は、半島では吉鳥とされる)。そこで「鵲」の字の一部を採って、「昔」姓とした。櫃を開けて取り出したので名を「脱解」とした。

「『三国史記』で用いられている「里」は、隋里( 一里=約四百五十)か、 朝鮮里( 一里=約四百)か、あるいは両者を混同して使っているとも考えられる。概ね、一里 = 四百強と見てよい。

としている。それに従うと一千里=400kmとする。

当時の倭国の首都が博多湾周辺にあったのか、近畿地方にあったのか-日本史研究者に見解は2つに割れているが、博多湾から東北400~450キロ、近畿王朝論者は、大阪湾あたりから東北に400~450キロの地点を見ればいい。
鳥取県東部から但馬地方あたりか、あるいは新潟県あたりになる。

(中略)
脱解は一応、紀元1世紀の人物として記されている。これに対して『三国志』は3世紀後半に成立した。その間に、女国も多婆那国も滅亡して倭国の一部に吸収されていたと想像する人もいよう。
しかし、私は2つの国は、滅亡していたかどうかは解らないが、そもそも倭国の支配権の外にあったのだと考える。(実際に1世紀ごろはまだヤマト政権化に入っていない)

『新羅本紀』の記述からは、多婆那国 が「 ここにあった」とは特定できない。しかし、日本列島の日本海側、 因幡地方から新潟県あたりまでの海沿いの地にあったことは 確実に読み取れるのだ。

(中略)

『三国遺事』では、漂着した場所は慶尚道の同じ海岸(阿珍浦)だが、櫃そのものではなく「船に載せられた櫃」になっている。しかも、それを見つけたのは、ただの老女ではなく、新羅王のために魚介類を獲る役にあった海女だった。
この海女も倭種(『三国志』は、倭国の支配圏外の倭人を「倭種」と表現している)だったに違いない。この時代は「海女」という職種そのものが、倭人・倭種ならではの独特の技であり、倭人・倭種であることを示したのではないのか。

『新羅本紀』は、脱解は漂着後しばらくの間、魚を釣って、自分を見つけてくれた老婆を養ったとしている。半島は三方を海に囲まれているのに、新羅の「朴」「昔」「金」の三王室、高句麗王室、百済王室の始祖建国神話の中で、海が舞台になっているのは「昔」王室=脱解だけだ。

二代王の前半から倭種が実権

『新羅本紀』によれば、辰韓(新羅の古名)の二代王である南解は、長女を賢者である脱解に嫁がせ、その二年後には脱解を大輔(に任じる。南解王七年(西暦10年)のことだ。大輔とは当時の最高官職で、脱解の場合は総理大臣兼軍司令官に該当した。

二代目の南解王が没すると、二代目の長男であった儒理は、脱解に王位を譲ろうとする。脱解は儒理の妹を娶っていたから、二人は義理の兄弟だ。しかし、いくら義理の兄弟にあたるとはいえ、列島から流れてきた異民族の男に譲位を申し出るとは尋常ではない。脱解は固辞し、儒理を説得する。それにより儒理が三代目の王に即く。

しかし譲位の申し出をした「徳のある人物」に、逆に説得されて王位に即いた三代目とは“飾り物”以上の存在ではあり得ただろうか。

二代目の南解王、三代目の儒理王の治績として記されていることー当時の小さな村連合のような国での基礎づくりの大部分は、「南解王」「儒理王」の名の下で、実は倭種の「脱解政権」により実行されたのだ。

新羅最初の外交団の首席代表は倭人だった

三代目の王には息子が二人いた。しかし、脱解を四代王に即けるよう遺言して没する(57年)。脱解は王位に即くと翌年には瓠公ホゴンを大輔に任命する。

この瓠公は倭人だ。瓠公は辰韓の全権大使を務め、それなりの権力を有していたはずです。「瓠公はその出身の氏族名を明らかにしていない。彼はもともと倭人で、むかしひさごを腰に下げて海を渡って新羅に来た。そこで瓠公と称したのである」(『三国史記』)

脱解による瓠公の大輔起用の結果、出来上がった体制は、王は倭種、ナンバー2は倭人となった。新羅に《倭・倭体制》が出来上がったのだ。

瓠公が海を渡ってきたのは、辰韓(新羅)の初代王である朴赫居世の治世のことで、彼は王室で重用されていた。

何故なら、瓠公は前20年、辰韓(新羅)の使者として馬韓に赴き、馬韓王と交渉する。馬韓は地域名・民族名であり、「馬韓国」は存在しなかった。ここに出てくる馬韓王とは、中国や楽浪郡から逃亡して半島東部に住み着いた住民から年貢を取り立てていた月支国王を指すと思われる。

『新羅本紀』には、「馬韓王は、新羅の朝貢が途絶えていることを起こって質した」とある。東アジアの古代国家(集落かいくつかの村落連合程度のクニ)にとって、朝貢は絶対的な重大事だった。朝貢するかしないかで戦争になる。これが『新羅本紀』が記す最初の外交であり、新興国家の命運を左右する重大な外交交渉だったことは明らかだ。その首席代表が、何と正真正銘の倭人だったのだ。

新羅は「辰韓と弁韓を合わせて24カ国」の一つとして、「斯廬サロ」の名前が出てくる(中国史書の中で、国号「新羅」の初出は『太平御覧』に引用された『秦書』377年の記事とされる)。馬韓50数カ国を列挙する中に、百済も「伯済ペクチェ」として出てくる。卑弥呼が君臨したのと、ほぼ同じ時代であるが、どちらの国も『倭人伝』のような詳細な説明はない。

地域としての馬韓と辰韓・弁韓の構成国を列挙する中に名前だけ載っている。三韓には、それぞれの地域を統括するような大国がなかったからだ。

多婆那国と倭国

ここで多くの研究者が、多婆那国とは但馬ではないかとされる点について、その但馬の住人である拙者の推察を述べたい。と大層にいうほど立派な歴史研究家ではない一素人なのだが…。

「新羅本紀」脱解だっかい・タレ王初年(57年)の条「脱解はそもそも多婆那タバナ国の生まれだ。その国は倭国の東北一千里にある。」

西暦57年というと、日本は弥生時代後期にあたる。弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の3期に分けられていたが、近年では従来縄文時代晩期後半とされてきた段階にすでに水稲農耕技術が採用されており、この段階を農耕社会としてよいという考えが提出され、近年では縄文時代晩期後半を弥生時代早期と呼ぶようになりつつあり、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつある。早期は紀元前5世紀半ば頃から、前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世紀半ば頃から3世紀の半ば頃まで続いたと考えられている。したがって、西暦57年はその後期の最初の頃であるが、

倭国の東北一千里の多婆那タバナ国は、当時はまだヤマト政権に発展する倭国に統一されない別の国家があったことを意味している」という。

室谷氏はまた、「中国史書に出てくる「倭奴」国は倭人の自称に対する表音(当て字)だろう」という。倭人が「ワナクニ」あるいは「ワノクニ」と発音しているのを奴と字を当てたのである。同様に、多婆那国の多婆那に似た国名・地名が思い浮かばないので、多婆「那」国も那は表音(当て字)で倭人の発音に忠実に那という表音を加えたものとすれば、多婆那ではなく、多婆(那=ノ)国とも読める。または、多婆を但馬・丹後を含めた古タニハ(丹波)であると考えてそのうちの那国というクニ(集落国家)があり、それが但馬のことかとも考えられる。

ただし、上図のように日本海を丸木舟で直接、金官伽耶(釜山)付近まで漕ぐなんてまして日本海を東北へ流れる対馬海流に逆らうことになるので不可能だし、あり得ない。おそらく日本海の海岸つたいに何日もかけてたどり着いたのだろう。

『日韓がタブーにする半島の歴史』

新羅の四代目の王は、列島から流れていった人間だー実は、これは日本で近代的な朝鮮史研究が始まるや、すぐに唱えられた説だ。(中略)しかし、どの研究者も、多婆那国を熊本県玉名市、但馬国、あるいは丹波国に比定した程度で深入りしなかった。脱解以降の倭種王については、考察された形跡が殆ど無い(ただし、岩本義文は、「多婆那国とは但馬国の訛音」であり、「脱解は天日槍の子供」として、独自の推理を展開した)。

倭が391年に新羅や百済や加羅を臣民としたことがあらためて確認された。高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

これをみると、天日槍が出石にやって来たのはそのような背景だったかもしれないので、長浜浩明氏が算定した実際の在位年代の西暦60~110年よりももっと後かも知れないが、安羅・加羅というクニはすでにあったのかもしれない。欠史八代の次、10代崇神天皇は3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王とされ、6代孝安天皇は4代前なので、少なく見ても2世紀頃かその前後であろう。

新羅の王、天日槍とした「記紀」が編纂されたのは、古事記が712年、日本書紀が720年であるということである。したがって、当時の国号として新羅としたのもわかるが、その伝承の時代は朝鮮半島南部にあった三韓の一つ「辰韓」であった。縄文時代から半島南部から対馬・壱岐・北部九州を含む国々で、倭人が定住し始め、三韓ともに倭国の属国であった。その子孫が王になっているので、日本海に接し、後の任那・加羅と重なる場所にあった南の弁韓を後に新羅が滅ぼす。加羅もすでに新羅であり、辰韓の王は倭人で、すでに加羅(伽倻)は消滅しており、天日槍=新羅の王としても時代的には合っていることになる。

まして韓国最古の国史である『三国史記』は、1145年である。その頃の日本は平安末期、千年以上も後世の書でそれまでの歴史書は現存していないのであるから信ぴょう性に欠ける。(日本書紀は百済の百済記・百済新撰・百済本紀を援用している)


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