たじまる-平安3

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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高麗の建国と文化

目 次

  1. 高麗の建国
  2. 中央行政機構の整備
  3. 郡県制と地方支配
  4. モンゴルの侵略と高麗の滅亡
    高麗が1392年まで統一政権を形成します。のち朝鮮国時代(朝鮮王朝・李氏朝鮮)が 1910年まで続きます。

高麗の建国

朝鮮半島を統一した新羅の勢力が衰えた九世紀末以降、朝鮮半島各地には、「城主」や「将軍」を自称する武装した豪族が多数出現しました。さらに、それらの豪族を糾合して、中部以北に弓裔の後高句麗、西南部に後百済が相次いで成立しました。戦乱が続くなか、頭角を表した王建は、918年に弓裔を倒して高麗を建国し、開京(現開城・ケソン)に都を置きました。さらに935年に新羅を吸収し、翌年には後百済を滅ぼして、後三国を統一しました。
高麗は中国五代王朝との外交を開始し、各王朝からは「高麗国王」に柵封されました。その後も宋・金・元・明との間に柵封関係を結びました。一方日本へも二度使者を派遣しましたが、いずれも日本側から拒否されました。以後、両国の間には民間の交流はみられましたが、正式な国交が開かれることはありませんでした。建国初期の高麗にとって、契丹との関係は大きな問題となりました。高麗は当初、契丹と国交を保ちましたが、926年に契丹が渤海を滅ぼすと警戒心を強め、渤海から数万人にのぼる亡命者を受け入れる一方、まもなく断交に踏み切りました。これに対し、中国進出に力を注いでいた契丹は、高麗が宋に冊封されると徐々に高麗を威圧するようになり、993年、ついに高麗への軍事侵攻を開始しました。契丹の侵攻は三度に及び、1011年には開京が焼き払われる惨禍を被りました。▲ページTOPへ

2.中央行政機構の整備

 契丹の脅威は、高麗に対して国王を頂点とする中央集権的な官僚国家の建設を促しました。主として宋の制度をもとに整備されました。
こうした行政機構を運営する官僚組織は東班(文臣)と西班(武臣)に分かれ、両班(ヤンバン)と総称されました。国政の運営はおもに文臣に委ねられ、彼らの多くは選抜試験である科挙によって登用されました(958~)。武臣は科挙によらず、おもに中央の正規軍である二軍・六兵のなかから抜擢されました。また官僚の官位で九品まであるなかの五品以上の文武高官の場合、子弟の一人については科挙を受験せずとも自動的に官僚に登用される制度もおこなわれました。
両班や軍人、それに末端の行政実務担当者であるしょ吏などには、官職。位階に応じて一定額の土地が国家から支給されました。また、この土地以外にも功績によって土地が支給されました。これは上級官僚の貴族的性格を示すもので、後世まで韓国の身分制度に影響を残します。

3.郡県制と地方支配

 地方に割拠する豪族勢力を統制し、安定した全国支配を実現するために、豪族集団の根拠地である邑(ユウ)を州・府・郡・県などの行政区画に編成し直し、豪族たちを邑の末端行政実務担当者である郷吏とすることで、邑の政治機構である邑司(ユウシ)へと改編しました。また、一部の邑には中央から地方官を派遣して駐在させ、周辺のいくつかの邑をその管轄下において統治させました。こうして、11世紀初めまでに高麗の支配体制に組み入れられていきました。邑になかには多種多様の小行政区画(雑所)が存在しました。
郡県制の施行と並行して、姓氏と本貫(本拠地)の制度も導入されました。10世紀末ごろまでに朴(パク・ぼく)・金(キム)・李(イ)などの中国風の姓氏が各村落単位に設定され、郷司層や一般民は、すべて特定の行政区画を本貫とする姓氏集団として国家から把握されるようになりました。やがてそれは、金海朴氏のように、本貫と姓氏を一体化して一族を表現する概念を生み出す契機となりました。
邑の上位行政区画として、朝鮮半島中部以南には五つの道が置かれ、北部の辺境地帯には東界(トンゲ)と北界(プクケ)の二つの界が設けられました。また、都である開城周辺は京畿という行政区画が設けられました。▲ページTOPへ

4.モンゴルの侵略と高麗の滅亡

 13世紀初めに世界帝国へと急成長したモンゴルは、高麗に対しても1231年から本格的な侵略を開始しました。モンゴル軍の侵略は約30年間にわたって執拗にくり返され、六度に及ぶ大規模な侵攻の結果、国土は荒廃し莫大な人命が失われました。
1259年、モンゴルに降伏しました。元のフビライは高麗を服属させたのち、1274年と81年の二度、日本へも遠征を試みました(元寇)。その過程で、高麗には軍船や食料の調達など重い負担が命じられ、また提供した兵員にも多くの死傷者を出しました。
1368年に明が建国するとすぐに外交関係を結びました。一方、高麗には13世紀末から14世紀初めにかけて元から朱子学がもたらされていましたが、やがてこれを学んだいわゆる新興儒学臣層が政界に進出するようになりました。彼らは親明政策を主張して親元派官僚と対立しましたが、王が臣元派に暗殺されたことで改革は一次挫折を余儀なくされました。
高麗末期には、南からの倭寇、北からの紅巾軍など、外部からの侵略にさらされた時期でした。1388年、親元派を追放した親明儒臣が集まり、内政改革が進められました。1392年、474年にわたって朝鮮半島に君臨した高麗王朝はついに滅亡しました。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
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たじまる-平成編

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

福 祉

社会保障制度

 第二次世界大戦後の日本は、家族や地域社会での相互扶助を重視しつつ、憲法が人権の種類の一つとして定める、国民が健康で文化的な生活をする社会権の実現を目ざした。政府は、国民の生活において最低限の福祉サービスを児童保育、学校教育、職業訓練、雇用保険(1974年(昭和49年)以前の失業保険)、障害者介護・自立支援、生活保護、国民年金といった行政サービスとして提供しつつ、企業年金制度、退職金制度といった企業福祉を充実させる政策をとってきたが、近年は企業福祉から疎外された非正規雇用者が増加する一方、アメリカ合衆国型の低福祉・低負担化が目指され、その結果として健康で文化的な生活をする必要最小限の生活が出来ない貧困層の存在が社会問題になっている。

1961年(昭和36年)以降、「国民皆保険」とされ、生活保護の受給者などの一部を除く日本国内に住所を有する全国民(および日本に1年以上在留資格のある外国人)が何らかの形で健康保険に加入するように定められている。近年、所得水準が低く保険料を支払えない人の増加が社会問題になっており、社会保障の一元化などが課題となっている。

健 康

厚生労働省 によれば、日本国民の2006年(平成18年)度の平均寿命は男性79.0歳、女性85.8歳であり、世界保健機関 (WHO) によれば世界一長寿である。また、健康寿命でも男性72.3歳、女性77.7歳(2001年(平成13年))となっており、これも世界一長寿となっている。日本人の死因は、戦後すぐでは結核などの感染症が多かったが、現在では一に悪性新生物(癌)、二に心疾患、三に脳血管疾患と、生活習慣病を中心とした慢性疾患が主である。しかし、今日でも先進工業国の中で日本人の結核死亡率の高さは突出している。

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医 療

世界最低レベルの周産期死亡率・平均余命を達成している一方、WHOの2004年度の統計値によると、人口千人あたりの医療職員数は、医師は1.98、歯科医師は0.71、看護師は7.79、助産師は0.19、薬剤師は1.21であり、経済的に豊かな国(国民一人当たりのGDPが20,000ドル以上)の中でも最低(最低グループ)であり、開発途上国と比較しても日本より上回っている国は多数あることから、人口比の医療職員数の不足が指摘されている。GDPに対する保健支出の比率は7.8%、保健支出に対する政府の負担比率は81.3%で、経済的に豊かな国の中では標準的な水準である。急速に進む出生率の低下・労働世代人口の減少・高齢化社会への対応として、国民健康保険料の増額、医療費自己負担分の増加、後期高齢者医療制度の導入など、国民の負担は増加する傾向にある。国会・政府の医療費抑制の政策により、近年医療サービス水準は低下しており、病院の70%が赤字経営で、産科の廃止や夜間救急医療の廃止など医療サービスの機能停止が各地で問題となっているが、有効な対策が提示されていない。もっとも中小企業の赤字率は2006年(平成18年)の民間推計で71.34%であり、病院経営が他の産業に突出して不振であるということは示さない。これは税制に理由があり、家族経営の中小・零細法人の場合、法人収益を計上して株主配当により分配するより給与分配したほうが税制上有利になるという事情による。日本では大学の医学教育や基礎医学研究の場における感染症や寄生虫症の扱いが、先進工業国の中でも突出して後退しており、麻疹輸出国として以前より非難されている。また海外からの病原体移入や海外旅行者の帰国後の感染症・寄生虫症発症に対する態勢に危惧が抱かれている。

育 児

現在の日本は少子高齢化が進んでいる。 明治以降、日本が近代化する過程で乳児死亡率低下、国力上昇により人口の激増がおこったほか、戦後のベビーブーム(団塊の世代)により若年者ほど多いピラミッド状の人口構成だった。しかし、高度成長期以降は少子化が進み、一人の女性が生涯に産む子供の数は世界でも最少レベルの1.3近くまで低下、人口減少に転じた。その原因として、経済的に豊かになったこと、医学と医療技術の向上により死亡率が減少したこと、教育水準が向上し教育費負担が大きくなったこと、公的な育児支援制度が不足していること、長時間労働により育児の時間が不足するとともに仕事と育児の両立が困難なこと、核家族化によって祖父母の助けが減ったこと、地域社会の助け合いが薄れたことなどが複合的な要因として指摘されている。政府は出生率の低下を深刻な問題と認識し、現在の人口を維持できる2.0?2.1前後まで増加させようと考えているが、政府や社会として有効な対策がなされず、出生率が著しく低い状況を解消できる見通しはたっていない。▲ページTOPへ

介 護

経済的に豊かになったことと、医学と医療技術の向上により、日本は平均寿命と平均健康寿命が世界で最も高い国になったが、それは高齢期の生活に介護が必要な人口の増加をもたらした。日本では要介護者の介護は伝統的には家族が行なっていたが、長時間労働により介護の時間が不足するとともに仕事と介護の両立が困難なこと、祖父母・父母・孫子の複数世代同居家族から父母と子の家庭に変化したこと、高齢者が夫婦二人や一人住まいの状況がよくあること、地域社会の助け合いが薄れたことなどが複合的な要因となって、家族による介護が困難になり、2000年(平成12年)に介護保険制度が創設され、介護を家族と行政と地域社会の協力で行う政策に転換した。しかし、制度や運用の経験が不十分なこと、介護の仕事は激務であるが介護報酬が低額で介護事業者や介護労働者が十分な収入を得られないこと、行政の予算不足により福祉に必要十分な予算が無いことなどの複合的な要因により、要介護者やその家族からの様々な需要に対して、必要で十分なサービスは提供できていない。

自 殺

警察庁の統計によると、1978年(昭和53年)- 2006年(平成18年)の期間で、自殺者数と人口10万人あたりの自殺率の推移を見ると、自殺率が最も高かった年度の(自殺件数と)自殺率は、2003年(平成15年)の(34,427)27.0、男性は(24,963)40.1 女性は(9,464)14.5である。自殺率が最も低かった年度の(自殺件数と)自殺率は、1991年(平成3年)の(21,084)17.0、男性は(13,242)21.7、女性は(7,842)12.4である。2006年(平成18年)は(32,155)25.2、男性は(22,813)36.6、女性は(9,342)14.3である。1978年(昭和53年)- 1997年(平成9年)は(20,788 – 25,202)17.3 – 21.1だったが、1998年(平成10年)- 2006年(平成18年)は(31,042 – 34,427)24.4 – 27.0である。厚生労働省の統計によると、1955年(昭和30年)- 2006年(平成18年)の期間で、自殺者数と人口10万人あたりの自殺率の推移を見ると、自殺率が最も高かった年度の(自殺件数と)自殺率は、1998年(平成10年)の(32,122)25.4である。自殺率が最も低かった年度の(自殺件数と)自殺率は、1967年(昭和42年)の(14,268)14.2である。1961年(昭和36年)- 1974年(昭和49年)は(14,268 – 19,283)14.2 – 17.4だったが、1998年(平成10年)0- 2006年(平成18年)は(29,671 – 32,414)23.3 – 25.4である。WHOの2007年(平成19年)の統計によると、WHOに自殺統計を報告している101か国の中で、日本の自殺率は高い順に11位であり、人口一人当たりのGDPが20,000ドル以上の経済的に豊かな国の中では高い順に1位である。政府は自殺問題を重要な課題と認識し、日本が先進国の中で最も自殺率が高い原因について、宗教的要因・日本人の死生観など様々な原因が仮説として提示されているが、現時点では原因は明確に解明されていない。ただし、諸外国と比較して、社会全体で自殺を包括的に予防する対策の不備が指摘され、包括的予防対策の整備を求められている。2006年(平成18年)に自殺対策基本法[80]が制定されたが、自殺予防に関する基本的な考え方を規定しているが、具体的な政策・制度は規定していないので、自殺率減少は実現できず、政府や社会として有効な対策は実施されていない。出典: 外務省、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
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地方分権薄桜(うすざくら)#fdeff2最初のページ戻る次へ

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たじまる-平安1 王朝国家体制

平安時代

目次

  1. 概 要
  2. 王朝国家体制
  3. 長岡京遷都
  4. 平安京遷都
  5. 摂関政治
  6. 蝦夷戦争

平安時代(へいあんじだい、794年-1185年/1192年頃)とは、794年に桓武(かんむ)天皇が平安京(京都)に都(首都)を移してから、鎌倉幕府の成立までの約390年間を指す日本の歴史の時代区分の一つ。 王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられるが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されています(日本文学史研究においては「中古」という表現も用いられています)。

794年、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上の唯一の中心だったことから平安時代と称します。平氏政権が成立した11世紀後期からは、中世に移行したと考えてよいようです。

平安の初期から中期は、先進文化たる中国の文化政治体制の模倣から、次第に日本の固有なものへの関心が芽生えてくる時代でした。大化改新以来の律令制も、形式的には維持されましたが、土地の私有がさらに進み、徐々に荘園を基盤とする藤原氏など中心とする摂関体制というあらたな政治的枠組みへと組み替えられていきました。なかでも醍醐天皇(在位897~930)・村上天皇(在位946~967)の治世は「延喜・天暦の治」と称される政治上・文化上の画期となり、国風化もすすみました。

また、平仮名・片仮名の発明により、日本語の表記が容易になったことによる、和歌・日記・物語文学の隆盛、官衣束帯の登場(官服の国風化)、寝殿造の登場などがあります。

王朝国家体制

律令制による中央集権国家を形成した大和朝廷ですが、と現実の乖離(かいり)が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換しきました。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制といいます。

王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられますが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されています。この時代は奈良末期の宝亀元年(770年)の女帝の称徳天皇は、皇太子を生めないまま崩御し、奈良時代を通じて続いてきた天武天皇系の皇統に代わって、継承順で繰り上がっ天智天皇系の孫である白壁王(光仁天皇)が、60歳前後という高齢ながら即位しました。未だ天武系の皇族の影響があるなか、新しい皇統の権威は安定したものではありませんでした。773(宝亀四)年、光仁天皇と渡来系氏族出身の女性高野新笠との間に生まれた山部親王(桓武天皇)が皇太子となりました。

781(天応元)年、病が重くなった光仁天皇は、皇位を皇太子山部親王に譲り、桓武天皇が即位しました。桓武天皇は新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていきました。桓武の改革は律令制の再編成を企図したものであり、その一つは新都の造営であり、もう一つは東北の対蝦夷戦争でした。また、母方につながる渡来系氏族の重視や、親近の有力貴族の娘を多く後宮に迎える環として桓武は平城京から長岡京、さらには平安京への遷都(794年)を断行しました。以後、時の権力者となった桓武天皇の影響により、現在まで天武系の皇族は皇位に即いていないのです。奈良時代は天武系の、平安時代は桓武天皇に続く天智系の時代であったといえます。王朝国家体制の下では、国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主)層の成長が見られ、彼らの統制の必要からこの権限委譲と並行して、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層もまた、武士として成長していきました。国家権限の委譲とこれによる中央集権の過大な負担の軽減により、中央政界では政治が安定し、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進み、貴族の最上位では摂関家が確立し、中流貴族に固定した階層は中央においては家業の専門技能によって公務を担う技能官人として行政実務を、地方においては受領となって地方行政を担った(平安貴族)。この時期は摂関家による摂関政治が展開し、特定の権門が独占的に徴税権を得る荘園が、時代の節目ごとに段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢力を二分していきました。

11世紀後期からは上皇が治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。院政の開始をもって中世の開始とする見解が有力であります。院政期には荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。12世紀中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員された武士の地位が急速に上昇した。こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場しますが、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまいます。平氏政権の崩壊とともに、中央政府である朝廷とは別個に、内乱を収拾して東国の支配権を得た鎌倉幕府が登場し、平安時代は幕を下ろしました。

長岡京遷都

784(延暦三)年、桓武天皇は大和国(奈良県)の平城京から淀川に面して水陸交通の恵まれた山背国(京都府)の長岡京へ都を遷しました。奈良時代後期に皇位継承をめぐって起きた政治的混乱を乗り越え、天武系から天智系にかわった新しい皇統の基盤を築くとともに、南都平城京で大きかった寺院の勢力を排除することが大きな理由として挙げられています。また、奈良時代に首都平城京と副都難波京の二つの都を維持してきたこれまでの複都体制を削減して一本化するという意味も認められています。
具体的には、

  • 新王朝創設を中国思想によって位置づける
  • 天武系の皇統の都平城京を拠点とする反桓武天皇勢力を排除する
  • 平城京に根強い仏教勢力を排除する
  • 平城京と難波京の複都制を一本化して緊縮政策をとる
  • 平城京よりも水陸交通の便に恵まれた要衝の地を選択する-平城京は大きな川から離れている為、大量輸送できる大きな船が使えず、食料など効率的に運ぶことが困難であった
  • 山城国の秦氏など渡来系有力氏族の経済力と血縁関係に依存する
  • 光仁天皇の没(781年)による平城京のけがれを忌避するなどのことが挙げられますが、やはりこれまでの天武系皇統の都平城京から移ることによって新王朝の基盤を確立しようとする桓武天皇の目論見と、それを支えた藤原種継ら貴族層の意向という政治的契機といえるでしょう。

平安京遷都

しかしそれから僅か10年後の延暦13年(794年)、桓武天皇は改めて山背(やましろ)国北部に遷都し平安京が成立しました。新京はそれまでの都の名称は全てその場所の地名を採っていたのに比べると、「平安京」という名称には桓武天皇の深い想いがこめられているといわなければなりません。天皇のみならず万民にとって、平安京は永遠の平和を願う都であるという願いが込められていました。

また、その様式には強く唐風の物があり、奈良とは異なっていました。平安京は後世においては音読みの「へいあんきょう」と読みますが、当初は「たいらのみやこ」と訓読みしました。「山背(やましろ)」の国名は「山城」の字に改められましました。この再遷都は、長岡京で興った藤原種継暗殺から早良親王廃太子、皇太后(高野新笠)・皇后(藤原乙牟漏)ら一連の騒動を忌避するためや、長岡京の造営がなかなか進まなかったことが影響しているとみられていますが、平安遷都は、前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高め、国家の安定を図ろうとする政治的意図が大きかったと考えられています。平安京は、現在の京都市中心部にあたる、山背国葛野(かどの)・愛宕(あたご)両郡にまたがる地に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城でした。都の北端中央に大内裏(だいだいり)を設け、そこから市街の中心に朱雀大路(すざくおおじ)を通して左右に左京・右京(東側が左京、西側が右京である)を置くという平面プランは基本的に平城京を踏襲し、隋・唐の長安城に倣うものですが、城壁は存在しませんでした。この地の選定は中国から伝わった風水に基づく北に玄武(げんぶ)(山)、南に朱雀(すざく)(水)、東に青龍(せいりゅう)(河)、西に白虎(びゃっこ)(道)を配するという「四神相応」の考え方を元に行われたといわれています。この四神としては、北の船岡山、南の巨椋池、東の鴨川、西の山陰道が擬せられていたといわれています。都の傍の川沿いには、淀津や大井津などの港を整備しました。これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込びました。運ばれた物資は都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々に供給されます。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにしました。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にぞれぞれ、水量の調整ができる人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)をつくり、水の供給を確保しながら洪水を抑えようとしました。そして長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を認めます。仏教の知識と能力に優れ、政治権力とは無縁の僧である空海たちを迎え、東寺と西寺の力で災害や疫病から都を守ろうと考えました。

しかし、平安京は、東を鴨川、西を桂川(葛野川(かどのがわ))という二本の大河に挟まれていたため、両者の合流点付近には「鳥羽(とば)の津」が設けられ、平安京の水の玄関口としての役割を果たしていました。一方、この両河川は大雨の際にはしばしば氾濫(はんらん)し、都の人々を悩ませました。

現在の京都御所は、平安宮の内裏(だいり)とはまったく場所が異なっており、鎌倉時代末期の光厳天皇(北朝初代)が里内裏とした土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)(土御門内裏)が、現在の京都御所の前身です。その後、室町時代・戦国時代の天皇は火災などによる一時的な避難を除き、土御門内裏から離れることはなくなりました。やがて、土御門内裏は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちによって拡張され、その周囲には公家町が形成されて、独自の宮廷空間が創出され、近世の京都御所ができあがったのです。平安京の範囲は、現在の京都市街より小さく、朱雀大路は現在の千本通にあたり、JR山陰本線(嵯峨野線)二条駅と梅小路機関車館の南北に通るラインです。北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅のやや南の九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたり、西限の西京極大路の推定地は現在のJR嵯峨野線太秦(うずまさ)駅と阪急京都線西京極駅を南北に結んだ葛野大路ラインです。

京内は東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120m)四方の「町」に分けられていました。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていました。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれました。

道路の幅は小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)以上ありました。現存する京都市内の道路は、ほとんどの場所でこれよりずっと狭くなっています。朱雀大路に至っては28丈(約84m)もの幅がありました。また、堀川小路と西堀川小路には並行して川(堀川、西堀川)が流れていました。

摂関政治

摂関政治とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、代々摂政や関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、又は天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態であります。平安時代初期、礼的な秩序を大切にした嵯峨天皇・太上天皇の時代には、皇位継承をめぐる皇族間の争いやそれと結びついた貴族間の勢力争いは影を潜めて、平和が続き文化の華が開きました。しかし、嵯峨天皇が没するとすぐに承和の変が起こり、菅原道真左遷事件などの出来事、再び皇位継承をめぐる争いとともに藤原北家による他氏排斥時間が相次ぐようになり、藤原良房・元経たちによって、摂関政治への道が開かれていきました。

九世紀の藤原北家台頭への道は、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が、810年、平城天皇の筆頭秘書官(又は官房長官)と言うべき蔵人頭(新設官庁である蔵人所の長官)に就任し、一大法令群である『弘仁格式』『内裏式』『日本後記』などの編纂にあたるなどし、この功績により左大臣にまで昇りました。これで次世代における藤原北家台頭の足がかりができた。その後を受けて藤原北家には藤原良房・基経といった有能な政治家が相次いで輩出し、天皇の外戚としての立場をかてとして摂政あるいは関白となって政治の実権を握り、藤原北家が正解において絶対的な地位を築くことに成功し、摂関政治への道を開いたのです。

冬嗣の子藤原良房は、857年に太政大臣へ、866年には摂政へと、いずれも人臣として初めて就任した。良房の採った政治手法は大きく二つあります。一つは、他の有力貴族を失脚させることで、藤原北家への対抗心を削ぐこと(他氏排斥)。二つ目は、天皇家に娘を嫁がせ子を産ませ、天皇の外祖父として権力を握ることでした。前者の他氏排斥としては、842年の承和の変において伴・橘両氏及び藤原式家を、次いで866年の応天門の変において伴・紀両氏を失脚させている。後者としては、文徳天皇に娘を嫁がせ、その結果清和天皇が誕生し、天皇の外祖父として確固たる政治基盤を築いている。

この、娘を天皇家に嫁がせる手法は、藤原北家の伝統となり、天皇の代理者・補佐者としての地位の源泉ともなっていきました。良房の死後、養子の藤原基経はすぐに摂政へ就任し、884年に急遽年配の光孝天皇が即位した際には、事実上の関白に就任した。それまでは幼少の天皇の代理者たる摂政として権限を行使してきたが、ついに成人の天皇の補佐者(事実上の権限代行者)たる関白の地位も手中にしたことになる。ただし、良房・基経の時代には太政大臣と摂政・関白の間に明確な職掌の差があったわけではなく(藤原良房の摂政就任は清和天皇の成人後である)、基経は関白に相当する権限を太政大臣あるいは摂政の立場で行使していた可能性もあります。藤原基経が没すると、後継者の時平がまだ若かったこともあり、宇多天皇はようやく制約を受けずに政治に取り組めるようになります。やがて左大臣藤原時平と右大臣菅原道真との二頭立てによる政治体制を築きますが、901年に道真は、醍醐天皇によって太宰府へ左遷へ陥れた(昌泰の変)。時平が背後にあって、道真が娘婿のとき世親王の即位を図ったという名目で彼を排斥したと考えられています。

菅原道真は、宇多天皇の信任を得て学者としては異例の昇進を遂げていたから、その出世を快く思わない貴族や学者たちも多く、政治的基盤はそう強くありませんでした。宇多太上天皇はこの左遷を聞いて醍醐天皇を諫めようとしたところ、固く門を閉ざされてしまい、結局道真を救うことはできませんでした。藤原時平は非常に有能な政治家として手腕を発揮していったが、摂政・関白に就任する前に39歳の若さで没し、のちその子孫も多く若死したので、道真の怨霊の仕業とする説話が生まれました。時平の後を継いだ弟の忠平は、政治に優れた手腕を発揮し、924(延長二)年に摂政、936(承平六)年には太政大臣、941(天慶四)年、関白になりました。 こうして外戚化を進める藤原北家に対抗できる氏族はいなくなり、摂関家を中心とした貴族の家格が形成され、平安貴族社会が成熟していきました。冷泉天皇が即位して実頼が関白に就いてからは、恒常的に摂政・関白が置かれるようになり、本格的な摂関政治が実現し、忠平の子孫が摂関家になっていきました。

こうした中央政界における動向の一方で、地方社会においては、各地に土着したもと国司や在地で成長した領主たちの武士化が起こりつつありました。939(天慶二)に起こった平将門の乱では、常陸・下野・上野などの国府を攻め落として関東をほぼ制圧し、新皇と称して東国国家の形成を図り、同時期に、伊予国司であった藤原純友も瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、伊予国府や太宰府を攻め落として大きな衝撃を与えました。承平・天慶の乱とも呼ばれる東西の乱は、中央から派遣された武士や地方武士たちの軍事力で制圧されましたが、武士たちが摂関家とも結びつきながら治安をめぐって政治的・社会的に進出していく方向を示す事件でもあったといえます。

蝦夷(えみし)戦争

平安京遷都と並んで、東北の蝦夷(えみし)と呼ばれた東北地方に住む内民化していない人々を服属させるための軍事的な征東政策が進められました。

古代において東北地方は、七世紀半ば以降着々と律令国家の勢力下がすすめられました。出羽では秋田城を中心としながら、太平洋側では、神亀元(724)年、多賀城(宮城県多賀城市)を造営し、陸奥国府が置かれました。各地に行政拠点として城柵を配置して、東国(関東)から移住させた柵戸によって開拓が進められていました。古代国家の蝦夷対策は、決して軍事一辺倒ではなく、一方で帰順した蝦夷に対しては禄を給うなどの優遇策をとりながら、他方で帰順しない蝦夷に対しては軍事的制裁を行うという「アメとムチ」の二面をもっていました。すでに光仁天皇の時代から、東北地方には不穏な状況があり軍勢が派遣されていましたが、多賀城陥落による軍事的制圧など38年間にわたって戦争が続いていました。桓武天皇は、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、延暦21(802)年、立派な胆沢城(岩手県水沢市)を築き、ついに蝦夷の族長 阿弖流為(あてるい)は五百余人を率いて坂上田村麻呂に帰順しました。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

平安1 王朝国家体制

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

平安時代

概要

目次

  1. 概 要
  2. 王朝国家体制
  3. 長岡京遷都
  4. 平安京遷都
  5. 摂関政治
  6. 蝦夷戦争
 平安時代(へいあんじだい、794年-1185年/1192年頃)とは、794年に桓武(かんむ)天皇が平安京(京都)に都(首都)を移してから、鎌倉幕府の成立までの約390年間を指す日本の歴史の時代区分の一つ。 王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられるが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されています(日本文学史研究においては「中古」という表現も用いられています)。

794年、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上の唯一の中心だったことから平安時代と称します。平氏政権が成立した11世紀後期からは、中世に移行したと考えてよいようです。
平安の初期から中期は、先進文化たる中国の文化政治体制の模倣から、次第に日本の固有なものへの関心が芽生えてくる時代でした。大化改新以来の律令制も、形式的には維持されましたが、土地の私有がさらに進み、徐々に荘園を基盤とする藤原氏など中心とする摂関体制というあらたな政治的枠組みへと組み替えられていきました。なかでも醍醐天皇(在位897~930)・村上天皇(在位946~967)の治世は「延喜・天暦の治」と称される政治上・文化上の画期となり、国風化もすすみました。

また、平仮名・片仮名の発明により、日本語の表記が容易になったことによる、和歌・日記・物語文学の隆盛、官衣束帯の登場(官服の国風化)、寝殿造の登場などがあります。

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王朝国家体制

 律令制による中央集権国家を形成した大和朝廷ですが、と現実の乖離(かいり)が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換しきました。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制といいます。
王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられますが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されています。この時代は奈良末期の宝亀元年(770年)の女帝の称徳天皇は、皇太子を生めないまま崩御し、奈良時代を通じて続いてきた天武天皇系の皇統に代わって、継承順で繰り上がっ天智天皇系の孫である白壁王(光仁天皇)が、60歳前後という高齢ながら即位しました。未だ天武系の皇族の影響があるなか、新しい皇統の権威は安定したものではありませんでした。773(宝亀四)年、光仁天皇と渡来系氏族出身の女性高野新笠との間に生まれた山部親王(桓武天皇)が皇太子となりました。781(天応元)年、病が重くなった光仁天皇は、皇位を皇太子山部親王に譲り、桓武天皇が即位しました。桓武天皇は新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていきました。桓武の改革は律令制の再編成を企図したものであり、その一つは新都の造営であり、もう一つは東北の対蝦夷戦争でした。また、母方につながる渡来系氏族の重視や、親近の有力貴族の娘を多く後宮に迎える環として桓武は平城京から長岡京、さらには平安京への遷都(794年)を断行しました。以後、時の権力者となった桓武天皇の影響により、現在まで天武系の皇族は皇位に即いていないのです。奈良時代は天武系の、平安時代は桓武天皇に続く天智系の時代であったといえます。王朝国家体制の下では、国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主)層の成長が見られ、彼らの統制の必要からこの権限委譲と並行して、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層もまた、武士として成長していきました。国家権限の委譲とこれによる中央集権の過大な負担の軽減により、中央政界では政治が安定し、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進み、貴族の最上位では摂関家が確立し、中流貴族に固定した階層は中央においては家業の専門技能によって公務を担う技能官人として行政実務を、地方においては受領となって地方行政を担った(平安貴族)。この時期は摂関家による摂関政治が展開し、特定の権門が独占的に徴税権を得る荘園が、時代の節目ごとに段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢力を二分していきました。

11世紀後期からは上皇が治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。院政の開始をもって中世の開始とする見解が有力であります。院政期には荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。12世紀中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員された武士の地位が急速に上昇した。こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場しますが、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまいます。平氏政権の崩壊とともに、中央政府である朝廷とは別個に、内乱を収拾して東国の支配権を得た鎌倉幕府が登場し、平安時代は幕を下ろしました。

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長岡京遷都

 784(延暦三)年、桓武天皇は大和国(奈良県)の平城京から淀川に面して水陸交通の恵まれた山背国(京都府)の長岡京へ都を遷しました。奈良時代後期に皇位継承をめぐって起きた政治的混乱を乗り越え、天武系から天智系にかわった新しい皇統の基盤を築くとともに、南都平城京で大きかった寺院の勢力を排除することが大きな理由として挙げられています。また、奈良時代に首都平城京と副都難波京の二つの都を維持してきたこれまでの複都体制を削減して一本化するという意味も認められています。
具体的には、

  • 新王朝創設を中国思想によって位置づける
  • 天武系の皇統の都平城京を拠点とする反桓武天皇勢力を排除する
  • 平城京に根強い仏教勢力を排除する
  • 平城京と難波京の複都制を一本化して緊縮政策をとる
  • 平城京よりも水陸交通の便に恵まれた要衝の地を選択する-平城京は大きな川から離れている為、大量輸送できる大きな船が使えず、食料など効率的に運ぶことが困難であった
  • 山城国の秦氏など渡来系有力氏族の経済力と血縁関係に依存する
  • 光仁天皇の没(781年)による平城京のけがれを忌避するなどのことが挙げられますが、やはりこれまでの天武系皇統の都平城京から移ることによって新王朝の基盤を確立しようとする桓武天皇の目論見と、それを支えた藤原種継ら貴族層の意向という政治的契機といえるでしょう。

平安京遷都

 しかしそれから僅か10年後の延暦13年(794年)、桓武天皇は改めて山背(やましろ)国北部に遷都し平安京が成立しました。新京はそれまでの都の名称は全てその場所の地名を採っていたのに比べると、「平安京」という名称には桓武天皇の深い想いがこめられているといわなければなりません。天皇のみならず万民にとって、平安京は永遠の平和を願う都であるという願いが込められていました。
また、その様式には強く唐風の物があり、奈良とは異なっていました。平安京は後世においては音読みの「へいあんきょう」と読みますが、当初は「たいらのみやこ」と訓読みしました。「山背(やましろ)」の国名は「山城」の字に改められましました。この再遷都は、長岡京で興った藤原種継暗殺から早良親王廃太子、皇太后(高野新笠)・皇后(藤原乙牟漏)ら一連の騒動を忌避するためや、長岡京の造営がなかなか進まなかったことが影響しているとみられていますが、平安遷都は、前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高め、国家の安定を図ろうとする政治的意図が大きかったと考えられています。平安京は、現在の京都市中心部にあたる、山背国葛野(かどの)・愛宕(あたご)両郡にまたがる地に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城でした。都の北端中央に大内裏(だいだいり)を設け、そこから市街の中心に朱雀大路(すざくおおじ)を通して左右に左京・右京(東側が左京、西側が右京である)を置くという平面プランは基本的に平城京を踏襲し、隋・唐の長安城に倣うものですが、城壁は存在しませんでした。この地の選定は中国から伝わった風水に基づく北に玄武(げんぶ)(山)、南に朱雀(すざく)(水)、東に青龍(せいりゅう)(河)、西に白虎(びゃっこ)(道)を配するという「四神相応」の考え方を元に行われたといわれています。この四神としては、北の船岡山、南の巨椋池、東の鴨川、西の山陰道が擬せられていたといわれています。都の傍の川沿いには、淀津や大井津などの港を整備しました。これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込びました。運ばれた物資は都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々に供給されます。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにしました。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にぞれぞれ、水量の調整ができる人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)をつくり、水の供給を確保しながら洪水を抑えようとしました。そして長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を認めます。仏教の知識と能力に優れ、政治権力とは無縁の僧である空海たちを迎え、東寺と西寺の力で災害や疫病から都を守ろうと考えました。
しかし、平安京は、東を鴨川、西を桂川(葛野川(かどのがわ))という二本の大河に挟まれていたため、両者の合流点付近には「鳥羽(とば)の津」が設けられ、平安京の水の玄関口としての役割を果たしていました。一方、この両河川は大雨の際にはしばしば氾濫(はんらん)し、都の人々を悩ませました。
現在の京都御所は、平安宮の内裏(だいり)とはまったく場所が異なっており、鎌倉時代末期の光厳天皇(北朝初代)が里内裏とした土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)(土御門内裏)が、現在の京都御所の前身です。その後、室町時代・戦国時代の天皇は火災などによる一時的な避難を除き、土御門内裏から離れることはなくなりました。やがて、土御門内裏は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちによって拡張され、その周囲には公家町が形成されて、独自の宮廷空間が創出され、近世の京都御所ができあがったのです。平安京の範囲は、現在の京都市街より小さく、朱雀大路は現在の千本通にあたり、JR山陰本線(嵯峨野線)二条駅と梅小路機関車館の南北に通るラインです。北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅のやや南の九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたり、西限の西京極大路の推定地は現在のJR嵯峨野線太秦(うずまさ)駅と阪急京都線西京極駅を南北に結んだ葛野大路ラインです。

京内は東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120m)四方の「町」に分けられていました。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていました。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれました。

道路の幅は小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)以上ありました。現存する京都市内の道路は、ほとんどの場所でこれよりずっと狭くなっています。朱雀大路に至っては28丈(約84m)もの幅がありました。また、堀川小路と西堀川小路には並行して川(堀川、西堀川)が流れていました。

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摂関政治

 摂関政治とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、代々摂政や関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、又は天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態であります。平安時代初期、礼的な秩序を大切にした嵯峨天皇・太上天皇の時代には、皇位継承をめぐる皇族間の争いやそれと結びついた貴族間の勢力争いは影を潜めて、平和が続き文化の華が開きました。しかし、嵯峨天皇が没するとすぐに承和の変が起こり、菅原道真左遷事件などの出来事、再び皇位継承をめぐる争いとともに藤原北家による他氏排斥時間が相次ぐようになり、藤原良房・元経たちによって、摂関政治への道が開かれていきました。
九世紀の藤原北家台頭への道は、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が、810年、平城天皇の筆頭秘書官(又は官房長官)と言うべき蔵人頭(新設官庁である蔵人所の長官)に就任し、一大法令群である『弘仁格式』『内裏式』『日本後記』などの編纂にあたるなどし、この功績により左大臣にまで昇りました。これで次世代における藤原北家台頭の足がかりができた。その後を受けて藤原北家には藤原良房・基経といった有能な政治家が相次いで輩出し、天皇の外戚としての立場をかてとして摂政あるいは関白となって政治の実権を握り、藤原北家が正解において絶対的な地位を築くことに成功し、摂関政治への道を開いたのです。
冬嗣の子藤原良房は、857年に太政大臣へ、866年には摂政へと、いずれも人臣として初めて就任した。良房の採った政治手法は大きく二つあります。一つは、他の有力貴族を失脚させることで、藤原北家への対抗心を削ぐこと(他氏排斥)。二つ目は、天皇家に娘を嫁がせ子を産ませ、天皇の外祖父として権力を握ることでした。前者の他氏排斥としては、842年の承和の変において伴・橘両氏及び藤原式家を、次いで866年の応天門の変において伴・紀両氏を失脚させている。後者としては、文徳天皇に娘を嫁がせ、その結果清和天皇が誕生し、天皇の外祖父として確固たる政治基盤を築いている。
この、娘を天皇家に嫁がせる手法は、藤原北家の伝統となり、天皇の代理者・補佐者としての地位の源泉ともなっていきました。良房の死後、養子の藤原基経はすぐに摂政へ就任し、884年に急遽年配の光孝天皇が即位した際には、事実上の関白に就任した。それまでは幼少の天皇の代理者たる摂政として権限を行使してきたが、ついに成人の天皇の補佐者(事実上の権限代行者)たる関白の地位も手中にしたことになる。ただし、良房・基経の時代には太政大臣と摂政・関白の間に明確な職掌の差があったわけではなく(藤原良房の摂政就任は清和天皇の成人後である)、基経は関白に相当する権限を太政大臣あるいは摂政の立場で行使していた可能性もあります。藤原基経が没すると、後継者の時平がまだ若かったこともあり、宇多天皇はようやく制約を受けずに政治に取り組めるようになります。やがて左大臣藤原時平と右大臣菅原道真との二頭立てによる政治体制を築きますが、901年に道真は、醍醐天皇によって太宰府へ左遷へ陥れた(昌泰の変)。時平が背後にあって、道真が娘婿のとき世親王の即位を図ったという名目で彼を排斥したと考えられています。菅原道真は、宇多天皇の信任を得て学者としては異例の昇進を遂げていたから、その出世を快く思わない貴族や学者たちも多く、政治的基盤はそう強くありませんでした。宇多太上天皇はこの左遷を聞いて醍醐天皇を諫めようとしたところ、固く門を閉ざされてしまい、結局道真を救うことはできませんでした。藤原時平は非常に有能な政治家として手腕を発揮していったが、摂政・関白に就任する前に39歳の若さで没し、のちその子孫も多く若死したので、道真の怨霊の仕業とする説話が生まれました。時平の後を継いだ弟の忠平は、政治に優れた手腕を発揮し、924(延長二)年に摂政、936(承平六)年には太政大臣、941(天慶四)年、関白になりました。 こうして外戚化を進める藤原北家に対抗できる氏族はいなくなり、摂関家を中心とした貴族の家格が形成され、平安貴族社会が成熟していきました。冷泉天皇が即位して実頼が関白に就いてからは、恒常的に摂政・関白が置かれるようになり、本格的な摂関政治が実現し、忠平の子孫が摂関家になっていきました。

こうした中央政界における動向の一方で、地方社会においては、各地に土着したもと国司や在地で成長した領主たちの武士化が起こりつつありました。939(天慶二)に起こった平将門の乱では、常陸・下野・上野などの国府を攻め落として関東をほぼ制圧し、新皇と称して東国国家の形成を図り、同時期に、伊予国司であった藤原純友も瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、伊予国府や太宰府を攻め落として大きな衝撃を与えました。承平・天慶の乱とも呼ばれる東西の乱は、中央から派遣された武士や地方武士たちの軍事力で制圧されましたが、武士たちが摂関家とも結びつきながら治安をめぐって政治的・社会的に進出していく方向を示す事件でもあったといえます。

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蝦夷(えみし)戦争

 平安京遷都と並んで、東北の蝦夷(えみし)と呼ばれた東北地方に住む内民化していない人々を服属させるための軍事的な征東政策が進められました。
古代において東北地方は、七世紀半ば以降着々と律令国家の勢力下がすすめられました。出羽では秋田城を中心としながら、太平洋側では、神亀元(724)年、多賀城(宮城県多賀城市)を造営し、陸奥国府が置かれました。各地に行政拠点として城柵を配置して、東国(関東)から移住させた柵戸によって開拓が進められていました。古代国家の蝦夷対策は、決して軍事一辺倒ではなく、一方で帰順した蝦夷に対しては禄を給うなどの優遇策をとりながら、他方で帰順しない蝦夷に対しては軍事的制裁を行うという「アメとムチ」の二面をもっていました。すでに光仁天皇の時代から、東北地方には不穏な状況があり軍勢が派遣されていましたが、多賀城陥落による軍事的制圧など38年間にわたって戦争が続いていました。桓武天皇は、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、延暦21(802)年、立派な胆沢城(岩手県水沢市)を築き、ついに蝦夷の族長 阿弖流為(あてるい)は五百余人を率いて坂上田村麻呂に帰順しました。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
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たじまる 現代-3 領土問題

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領土問題

概 要

目 次
戦後いまだ解決されていない外交問題に領土問題がある。

  1. 北方領土
  2. 竹島問題
  3. 尖閣諸島

以下は、戦後、日本に復帰した領土。

  • トカラ列島 1952年(昭和27年)2月10日復帰。
  • 奄美群島  1953年(昭和28年)12月25日復帰。
  • 小笠原諸島 1968年(昭和43年)6月26日復帰。
  • 沖縄県   1972年(昭和47年)5月15日復帰。
    にもかかわらず、北方領土、竹島問題、尖閣諸島においては、国際法によって、日本固有の領土であるにもかかわらず、主張している国とによって解決していない。領土問題は、植民地問題と並んで戦争やテロのきっかけになりやすく、過去に日本を初め世界各国で領土問題を発端に戦争が起きたこともある(ノモンハン事件、印パ戦争など)。これら領土問題を戦争に発展させないために、国連は国際法によって、一国が他国の領土を武力によって占有することを禁じている。

1.北方領土


『日本人の歴史教科書』自由社

主にウルップ島以北を北千島、択捉島以南を南千島と呼ぶ。北方領土問題(ほっぽうりょうどもんだい)とは、北海道根室半島の沖合にある島々で現在ロシア連邦が実効支配している、択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞群島(はぼまいぐんとう)に対して、日本が返還を求めている領土問題。この島を、北方四島とも言うことがある。日本政府は、歯舞群島と色丹島は千島列島に属さないとしている。

地理

千島列島は環太平洋火山帯の一部をなす火山列島であり、今でも多くの島が活発に火山活動を起こしている。これらの島々は北アメリカプレートの下に太平洋プレートがもぐりこんだ結果生じた成層火山の頂上にあたる。

プレートのもぐりこみにより、列島の200km東方沖に千島海溝ができている。地震も頻繁に起こり、2006年(平成18年)11月15日、近海でマグニチュード7.9の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2006年))また、2007年(平成19年)1月13日にも、近海でマグニチュード8.2の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2007年))

千島列島の気候は厳しく、風が強く非常に寒い冬が長く続く。夏は短く、霧がしばしば発生し、山には雪が残ることがある。年平均降水量は760mmから1000mmと多めで、ほとんどは雪である。温帯と亜寒帯にまたがる列島内では植生も異なり、北部ではツンドラ様の植生が、南部では深い針葉樹の森が見られる。境目は択捉島と得撫島(うるっぷとう)の間で、宮部金吾が唱えた分布境界線(宮部線)となる。

列島内の最高峰は最北端の島、阿頼度島の阿頼度山(親子場山、または阿頼度富士、ロシア名アライト山)で海抜は 2,339m。列島南部の国後島東端にある爺爺岳も 1,822mの高さを誇る。島々の風景は、砂浜、岩の多い海岸、断崖絶壁、流れの速い渓谷と下流では広くなる川、森林と草原、山頂部の荒野やツンドラ、泥炭地、カルデラ湖などが形成されており、手付かずの自然が残る島が多い。土壌は一般的に肥沃で、火山灰などが周期的に流入することや、海岸部での鳥の糞の堆積などによるものである。しかし険しく不安定な斜面は頻繁に土砂崩れを起こし、新たな火山活動によって裸地が広がっている。

生態系列島周囲の海水は北太平洋でも最も魚の繁殖に適している。このため、動植物などあらゆる種の海洋生物からなる豊かな生態系が千島列島付近に存在できる。

千島列島の島のほとんどの沖合いは巨大な昆布の森に取り囲まれ、イカなど軟体生物やそれを捕食する魚、それを狙う海鳥など多くの生き物の暮らしの舞台になっている。さらに沖合いにはマス、タラ、カレイ、その他商業的価値の高い魚が多く泳いでいる。明治前後から日本の漁民の活動の場となってきたが、1980年代まではイワシが夏には山のように獲れていた。その後イワシは激減し、1993年を最後に水揚げされておらず、千島列島の漁村に打撃を与えている。またサケ類が千島列島の大きな島々で産卵し、周囲で捕獲される。

魚を求める哺乳類の巨大な生息地もある。アシカ、トド、オットセイがいくつかの小島に集まり、ロシアでも最大の生息地となっている。19世紀に1万頭いたオットセイは19世紀末には絶滅した。これと対照的に、アシカやトドは商業的狩猟の対象とならなかった。1960年代以来これらの狩猟の報告はなく、アシカやトドの生息は順調で、場所によっては増えている。クジラ類も多く、特にイシイルカ、シャチ、アカボウクジラ、ツチクジラ、マッコウクジラ、ミンククジラ、ナガスクジラなどが多く観測されている。ラッコも毛皮貿易のため19世紀に乱獲され、ラッコは急速に減少し、20世紀半ば以降ほとんど狩猟が禁止され、徐々に千島列島内での生息地が復活している。千島列島にはその他、数多くの種の海鳥が生息する。外敵のいない小島では、断崖の上などで多くの鳥が巣をつくり子育てを行っている。歴史歴史をさかのぼれば、樺太(サハリン)および千島列島はアイヌ民族が住んでいました。

日本政府は、「日本はロシアより早くから北方領土の統治を行っており、ロシアが得撫島より南を支配したことは、太平洋戦争以前は一度もない」と主張しているが、実際には、1760年代にロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録が残されている。また、最上徳内が和人探検家として最初に択捉島を訪れた1780年代には、択捉島には3名のロシア人が居住し、アイヌの中にロシア正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、既にロシア人の足跡があったことも知られている。

江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれていた。のちに明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称、日本語に樺太の地名が定着した。
全島をロシア連邦が実効支配しているものの旧ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本は択捉島以南(いわゆる北方領土)の領有権を主張するとともに、他の全島も国際法上領有権は未定と主張している。現在も北方四島はもちろん、得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡についても札幌国税局管内の根室税務署の管轄とされており、法制的には存続している。

  • 1700年(元禄13年) – 松前藩は千島列島に居住するアイヌの戸籍(松前島郷帳)を作成し、幕府に提出
    この郷帳には北海道からカムチャツカ半島までが記載されている。
  • 1711年 – ロシアの囚人兵らがカムチャツカ半島から千島列島に侵攻
    占守島ではアイヌとの交戦があったが、やがて降伏した。1713年には幌筵島が占領された。
  • 1750年代 – ロシア人が得撫島に度々現れ、さらには北海道・霧多布にまで現れ交易を求める
    ロシア人の所持していた地図には国後島までがロシアの色で塗られ、これに対し松前藩の役人は抗議している。
  • 1754年(宝暦4年) – 松前藩は国後場所を開き、国後島を直轄した
  • 1766年(明和3年) – ロシア人が得撫島に居住を始め、現地のアイヌを使役しラッコ猟を行うようになる
  • 1770年(明和7年) – 択捉島のアイヌがロシア人の目を避けて得撫島沖でラッコ猟を行っていたところをロシア人に発見され、逃亡したアイヌが襲撃される事件が起きる
  • 1771年(明和8年) – アイヌが得撫島のロシア人を襲撃し、同島から追い出す
    同年にはハンガリー人のアウリツィウス・アウグスト・ベニヨフスキーがロシア帝国による千島列島南下(南下政策)を警告、次第に幕府や学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる
  • 1786年(天明6年) – 幕府が最上徳内を派遣し、調査を実施
  • 1798年(寛政10年) – 幕府による北方視察が大規模に実施された
  • 1801年(享和元年) – 富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣し、領有宣言を意味する「天長地久大日本属島」の標柱を建てる
    この頃、蝦夷地の経営を強化していた日本とロシアの間で、樺太とともに国境画定が問題化してくる。得撫島には既に17人のロシア人が居住していたが、幕府は積極的な退去政策を行わなかった。
  • 1855(安政元)年、日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされた。
  • 1856(安政2)年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、ウルップ島からオネコタン島までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすることを建言した。幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、
  • 1867年石川利政・小出秀実をペテルブルグに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太は是迄通りとされた(日露間樺太島仮規則)。
  • 1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし五郡を置いた。国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北であるからである。
  • 1874(明治7)年3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりにウルップ島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴いた。榎本とスツレモーホフ(Stremoukhohttps://kojiyama.net/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められた。
  • 1875(明治8)年5月7日に日本とロシア帝国との間で「樺太・千島交換条約」を結び、国境を確定した。
    その結果、樺太での日本の権益を放棄するかわりに、得撫島(ウルップ島)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた。
  • 1945(昭和20)年2月、ソ連のヤルタで米・英・ソ首脳が会談(ヤルタ会談)。ここで、戦勝国間で、いずれ敗戦する戦勝権益の分割が話し合われた。日本を早期に敗北に追い込むため、ドイツ降伏の2ないし3か月後にソ連が対日参戦する見返りとして、日本の敗北後、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すべきとした。(ヤルタ協定)。
  • 8月8日、ヤルタ協定通り、ソ連は日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告。8月14日、御前会議にて、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定、連合国にポツダム宣言受諾を通告。9月2日、日本は連合国が作成した降伏文書(ソ連も当然、当事国として署名した)に調印した。同時に一般命令第一号(陸、海軍)では、満洲、北緯38度線以北の朝鮮、南樺太・千島諸島に在る日本国先任指揮官ならびに一切の陸上、海上、航空及補助部隊は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏すべきこととした。
  • 8月11日に国境を侵犯し南樺太に侵攻したソ連第二極東軍部隊は、8月25日に南樺太を占領。すでに、千島列島をソ連が占領することを、トルーマンと合意が取れていたので、8月28日から9月1日までに、北方領土の択捉・国後・色丹島を占領、9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領した。なお、8月18日にカムチャツカ半島方面より千島列島に侵入した第一極東軍部隊は、8月31日までに得撫島以北の北千島を占領している。9月2日に日本が降伏文書に署名し、戦争が正式に終結するまでにソ連軍は満州国(中国東北部)や朝鮮半島北部、南樺太(サハリン南部)や千島列島全域、北方領土を占領した。日本は、この侵攻が日ソ中立条約の残存期間中に行われたと主張した。一方ソ連は、1941年7月7日の関東軍特種演習により日ソ中立条約は事実上失効しており、法的には問題ないと主張した。
  • 1946(昭和21)年1月29日、GHQ指令第677号により、沖縄や小笠原・竹島・南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が中止された。国後、択捉両島は千島の中に含まれるものとして、日本政府の政治上、行政上の権力行使の外におかれることになった。2月2日、ソ連は南樺太・千島を自国領に編入した。
    しかし、国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北である。ソ連は国後島・択捉島など4島も千島列島に含まれると主張している。
    北方領土には日本国民は約1万7千人住んでいたが、占領当初は、日本国民の本国帰還は認められなかった。
  • 1946年12月、GHQとソ連との間で日本国民全員の引き上げが合意されると、1949年7月までにほぼ全員の日本国民が帰国した。しかし、GHQ指令によって日本国籍を離脱していた朝鮮人はその後も帰還することができず、多くはサハリン(樺太)に移住した。
  • 1948年に日ソ間の民間貿易協定が結ばれて、ソ連が併合を宣言した樺太(サハリン)や千島(クリル)列島などの日本人島民や、満州や朝鮮半島に取り残された居留民、さらにシベリア抑留をされた日本軍将兵を日本に送還する事業は続けられたが、両国間の継続的な外交関係は築かれないままだった。 政治的混乱が一応収束し、日本と連合国との間の平和条約締結が政治的課題になると、日本国内ではアメリカを中心とする資本主義諸国との単独講和か、ソ連などの社会主義諸国も含んだ全面講和かという論争が起こったが、親米路線の吉田茂首相は単独講和路線を採用した。一方、ソ連は1950年2月14日に、国共内戦に勝利して中国大陸を新たに支配した中華人民共和国との間に中ソ友好同盟相互援助条約を締結したが、この中で日本軍国主義復活への反対を明記した事で、日本政府の対ソ感情はますます悪化した。これは同年6月25日勃発の朝鮮戦争で日本がアメリカ軍(国連軍)の後方支援基地となり、ソ連が中国を通じて間接的に参戦した(全面的な軍事援助、空軍兵士の参戦)事でさらにこじれた。
    また、ソ連がシベリア抑留者の一部を戦争犯罪者として裁き、ソ連国内で服役させた事や、日本政府とアメリカ占領当局がレッドパージにより日本共産党を弾圧し、事実上非合法化したというそれぞれの国内事情も、関係正常化の阻害要因となった。
  • 1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約が締結され、日本と連合国との戦争状態は正式に終結したが、講和会議に中国の代表として中華人民共和国を招請しなかった事に反発するソ連は、会議には出席したものの、条約調印は拒否した。そのため、1952年4月28日の条約発効とともに対日理事会が消滅した後は、日ソ両国の接点は失われた。
  • 1956年10月12日、鳩山首相は河野農相などの随行団と共にモスクワを訪問し、フルシチョフ第一書記などとの首脳会談が続けられた。焦点の北方領土問題は、まず国交回復を先行させ、平和条約締結後にソ連が歯舞群島と色丹島を引き渡すという前提で、改めて平和条約の交渉を行うという合意がなされた。
    同年10月19日に日本とソビエト連邦がモスクワにおいて鳩山首相とソ連のブルガーニン首相が共同宣言に署名し、国会承認をへて、同年12月12日に「日ソ共同宣言」を発効した。外交文書(条約)。これにより両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされた。日ソ国交回復共同宣言ともいわれる。
    しかし、平和条約の締結交渉は、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島返還で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、開始が延期された。
  • 1957(昭和32)年、ソ連国境警備隊が貝殻島に上陸。日本は日米安保条約下にあったが、このとき米軍は一切出動しなかった。
  • 1960(昭和35)年、岸信介内閣が日米安全保障条約改定を行った事に対してソビエトが反発。ソ連は、歯舞群島と色丹島の引き渡しは「両国間の友好関係に基づいた、本来ソビエト領である同地域の引き渡し」とし、引き渡しに条件(外国軍隊の日本からの撤退)を付けることを主張する。日本政府は、共同宣言調印時には既に日米安保があったとして反論。
  • 1973(昭和48)年、田中・ブレジネフ会談。日ソ間の諸問題を解決した後、平和条約を締結することが合意された。(日ソ共同声明)いわゆる北方領土問題では、この条約での「千島列島」の範囲が争点の一つになることがある。
    1855(安政元)年、日本とロシア帝国は、「日露和親条約(下田条約)」で日本は千島列島を放棄したが、放棄した千島列島に北方四島は含まれないと説明される。その根拠に、のちの1869(明治2)年、「樺太・千島交換条約」第二款では、千島列島(クリル列島)とカムチャッカ半島南のシュムシュ島からウルップ島18島とされていることがあげられる。
    フランス語正文では、『現在自ら(ロシア)所有するところのクリル諸島のグループ』と書かれているが、日本語訳文では『現今所領「クリル」群島』と訳されており、『グループ』に対応する語が欠落している。そして、日本語誤訳には、フランス語正文に無い『而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ』の句が挿入されている。これは、条約として効力の無い日本語訳文の誤訳をもとにしており、フランス語正文からはこのような解釈は成り立たないとしている。しかし、千島18島に4島は含まれないのは樺太・千島交換条約で明白である。現在、日本の国会に議席を持っている政党の中で日本共産党はこの樺太・千島交換条約を根拠にしてウルップ島以北を含めた全千島の返還をソビエト連邦および現在のロシア連邦に要求している。ロシア(ソ連)側から見れば、大戦当時ソ連・アメリカ・イギリス・中国は連合国であり、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国とは敵対していた。枢軸国のイタリアやドイツが降伏した後、ソ連は連合国の求めに応じて対日参戦した。ヤルタ会談で千島・南樺太の割譲は米英ソの三者で合意されているし、ソ連も参加しているポツダム宣言を日本は無条件で受け入れている。平和条約の締結こそしていないがロシアは占領地区を既に自国へ編入している。そもそもサンフランシスコ条約で日本はクリル列島を放棄しており、クリル列島には、択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島が含まれる(色丹・歯舞を合わせて小クリル列島といい、占守島から国後島までを大クリル列島と言う。小クリル列島と大クリル列島を合わせてクリル列島と言う)。ロシア側が北方領土の日本返還を認めない理由としてはいくつか考えられるが、まず大きなものとして、ロシア側から見た場合、北方領土問題が解決されていない現在でも日ロ間の経済的交流は進んでおり、わざわざ国民の不評を買うであろう領土の引渡しを行ってまで日本サイドに譲歩する必要性を感じていないということが挙げられる。また、地政学的に見れば、宗谷海峡(ラペルーズ海峡)、根室海峡(クナシルスキー海峡)をふくめ、ソ連はオホーツク海への出入り口をすべて監視下に置いており、事実上そこから米軍を締め出すことに成功しているが、国後・択捉両島を返還してしまえば、国後・択捉間の国後水道(エカチェリーナ海峡)の統括権を失い、オホーツク海に米軍を自由に出入りさせられるようになってしまう。国後水道は、ロシア海軍が冬季に安全に太平洋に出る上での極めて重要なルートでもあり、これが米国(の同盟国である日本)の影響下に入ることは安全保障上の大きな損失となる。

2.竹島問題

竹島(たけしま)は、北緯37度15分、東経131度52分の日本海にある島。日本領・隠岐と竹島の距離は両島の一番近いところで約157km、韓国領・鬱陵島と竹島の距離は両島の一番近いところで約87kmである。

竹島が発見された正確な年月は不明ですが、遅くとも江戸時代初期には日本人に知られていました。その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)に鬱陵島(当時の竹島)への渡航を禁じましたが、松島(こんにちの竹島・韓国名・独島)については渡航を禁じませんでした。その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)に鬱陵島への渡航を禁じましたが、松島(こんにちの竹島)については渡航を禁じませんでした。天保年間(1836年)に浜田の今津屋八右衛門という人が禁令を破って鬱陵島へ行った廉で処罰されましたが、その裁判記録中には、松島へ行く名目で渡海したとあります。松島の知見は、書物や地図に記録され江戸時代を通じて維持されました。明治時代に入り、日本人による鬱陵島への渡航が再び始まりました。多くの漁民が鬱陵島に行くようになり、その途中竹島に寄港していました。明治20年代の終わりごろからは隠岐の島民たちが竹島でアワビ、アシカ等の漁猟に従事していました。明治37年(1904年)隠岐島の住人中井養三郎という人が、竹島においてアシカ猟を行うため政府に竹島の領土編入及び貸与を願い出ました。これに対して政府は明治38年(1905年)1月28日の閣議において同島を正式に竹島と命名し、本邦所属、島根県隠岐島司の所管とする旨決定しました。これに基づいて、島根県知事は同年2月22日付けの島根県告示第40号をもってその内容を公示しました。さらに、同年には隠岐国四郡の官有地台帳への登録、漁業取締規則によるアシカ漁業の許可、仮設望楼の設置、知事の視察、また翌39年には島根県第3部長らの現地実態調査が行われ、その後も漁業者への官有地の貸付と使用料の徴収など、行政権の行使が継続して行われました。国際法上領土取得の要件は、国家による当該土地の実効的な占有です。日本は竹島に対して歴史的な権原をもっていましたが、20世紀以降の措置によって近代国際法上の要件も完全に充足されました。

島根県竹島資料室によると、「朝鮮国江御渡」という記述を含む触書は、幕府や諸藩の記録に残っており、韓国メディアが現在の竹島(韓国名・独島)と取り違えて報道するケースがあるという。
竹島は、国際法に照らしてもわが国固有の領土であることは明らかです。


(島根県)

1952年、当時の大韓民国(以下、韓国)大統領李承晩が自国の支配下にあると一方的に宣言し、現在も韓国側が武力による占有をしているため、日本との間で領土問題が起きている。

日本の行政区画は島根県隠岐郡隠岐の島町(郵便番号は685-0000)。韓国、北朝鮮側では独島(獨島、ドクド、Dokdo)と呼称し、その行政区画は、慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑獨島里となっている。現在、韓国海洋警察庁を傘下にもつ大韓民国海洋水産部の管理下にあり、韓国・北朝鮮は自国の最東端の領土であるとしているが、日本は国際法上適法な日本固有の領土であるとしている。

経 緯

  • 1618(元和4)年:伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛ら幕府から許可を得て竹島(当時は「松島」と呼ばれていた)に渡航。
  • 1692(元禄5)年:鬱陵島(当時日本では「竹島」と呼ばれていた)に出漁した大谷・村川の一行が朝鮮人と遭遇。翌年にも遭遇し、安龍福と朴於屯の2名を米子に連行したのを契機に、日本と朝鮮との間に紛争が発生(竹島一件)。
  • 1696(元禄9)年:江戸幕府が鬱陵島(当時の竹島)への渡航を禁止。朝鮮の漁民安龍福が鬱陵島・于山島(韓国では于山島を独島と解釈している)は朝鮮領であると訴えるため、伯耆国へやって来た。
  • 1849(嘉永2)年:フランスの捕鯨船 Liancourt 号が竹島を発見し、リアンクール島と名付けた(以後、日本では、りゃんこ島、リアンクール岩とも呼ばれる)。
  • 1877(明治10)年3月29日:「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とする太政官の指令が内務省に伝達された。
  • 1900(明治33)年10月25日:大韓帝国勅令41号で鬱陵島を江原道の郡に昇格、同時に石島(韓国では石島を独島と解釈している)も韓国領とした。
  • 1904(明治37)年2月6日:日露戦争が勃発。
  • 1904年8月23日:第一次日韓協約が締結。
  • 1904年9月29日:島根県の中井養三郎が、内務省・外務省・農商務省に「りゃんこ島領土編入並に貸下願」を提出。
  • 1905(明治38)年1月28日:本項で詳述されている島について、日本政府が閣議で竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管とした。
  • 1905年5月27日-5月28日:日露間で日本海海戦が行われた。
  • 1905年11月17日:第二次日韓協約が締結(事実上、韓国が日本の保護国となった)。
  • 1910(明治43)年8月22日:韓国併合ニ関スル条約に基づき、日本が大韓帝国を併合(韓国併合)。
  • 1914(明治47)年:鬱陵島が江原道から慶尚北道へと移管。
  • 1940(昭和15)年8月17日:海軍用地として、竹島が島根県から海軍省(舞鶴鎮守府)へと移管。
  • 1945(昭和20)年9月2日:日本政府がポツダム宣言を受諾。
  • 1945年11月1日:海軍省廃止により、竹島が大蔵省へと移管。
  • 1946(昭和21)年1月29日:連合国軍最高司令官総司令部覚書(SCAPIN(SCAP Institutions)677号「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」)により、竹島に対する日本政府の施政権が暫定的に停止された。
  • 1946年6月22日:連合国軍最高司令官総司令部覚書(SCAPIN1033号「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」)によりマッカーサー・ラインが制定され、竹島周辺海域での漁業活動に制限が加えられた。
  • 1948(昭和23)年8月13日:大韓民国建国。初代大統領に李承晩就任。
  • 1951(昭和26)年8月10日:ラスク書簡により「竹島は日本の領土」という米国政府の意向が韓国政府に示された。
  • 1952(昭和27)年1月18日:韓国政府が李承晩ラインを一方的に宣言。
  • 1952年4月28日午後10時30分(日本時間):サンフランシスコ平和条約が発効
  • 1953(昭和28)年1月12日:韓国政府が「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示。以後、日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぎ、日本の漁業従事者に死傷者が多数出る事態となった。
  • 1953年2月4日:第一大邦丸事件。済州島付近で同船の漁労長が韓国側に銃撃を受け死亡。この竹島問題によって、日本人漁師の瀬戸重次郎が殺害されている。
  • 1953年4月20日:韓国の独島義勇守備隊が、竹島に初めて駐屯した。
  • 1953年6月27日:日本国海上保安庁と島根県が竹島の調査を行い、「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建てる。難破後、竹島に住み着いていた韓国の漁民6名を退去させた。
  • 1953年7月12日:竹島に上陸していた韓国の獨島守備隊が日本の海上保安庁巡視船に発砲。以後、韓国は竹島の武装化を進め、日本の艦船の接近を認めていない。日本政府はこの韓国による竹島を武装化する動きに抗議しているが、韓国側は「内政干渉」として退けている。
  • 1954(昭和29)年8月15日:朝鮮戦争を共に戦ったジェームズ・ヴァン・フリートが大統領特命大使として使節団を率いて極東各国を歴訪し、ヴァン・フリート特命報告書を作成。竹島問題は国際司法裁判所を通じて解決されることが望まれるというアメリカの意向を、非公式に韓国に伝達した等の事を大統領に報告した。
  • 1954年9月25日:日本政府は領有問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案したが、韓国政府はこれに応じず。
  • 1954年11月30日:韓国側が竹島に近づいた日本警備艇に砲撃をくわえる。
  • 1956(昭和31)年4月:韓国警察鬱陵警察署警官8名が島に常駐。
  • 1956年12月25日:独島義勇守備隊解散
  • 1965(昭和40)年:日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約が調印され、李承晩ラインが廃止された。竹島問題は紛争処理事項であるとされたが、その後韓国は竹島の領有問題は紛争処理事項でないとの立場を取り、交渉のテーブルに着いていない。
  • 1977(昭和52)年2月5日:福田赳夫首相が「竹島は一点疑う余地のない日本固有の領土」と発言。
  • 1982(昭和62)年11月16日:韓国、竹島を天然保護区域に指定(独島天然保護区域)。
  • 1997(平成9)年11月:韓国、500トン級船舶が利用できる接岸施設設置。日本政府は抗議。
  • 1998(平成10)年12月:韓国、有人灯台設置。日本政府は抗議。
  • 2004(平成16)年1月:韓国、竹島を図柄にした切手を発行。日本政府は抗議。
  • 2004年2月17日:日本郵政公社、竹島の写真付き切手の発行を拒否。
  • 2004年3月1日:「我が国最東端の領土」と韓国側がテレビ中継を実施。
  • 2005(平成17)年3月16日:島根県議会が、竹島の日条例を可決。
  • 2005年6月9日:慶尚北道議会が島根県に対抗して10月を独島の月とし、日本との交流を制限する条例を制定。
  • 2006年4月6日:ヨルリン・ウリ党の金元雄(キム・ウォヌン)議員がラジオ放送にて国際法上で領土紛争地域化する戦略を発表。
    日本国外務省
    サンフランシスコ講話条約における竹島の扱い1.1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しました。2.この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、同年7月、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡を提出しました。その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものでした。3.この韓国側の意見書に対し、米国は、同年8月、ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡をもって以下のとおり回答し、韓国側の主張を明確に否定しました。「合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」これらのやり取りを踏まえれば、竹島は我が国の領土であるということが肯定されていることは明らかです。4.また、ヴァン・フリート大使の帰国報告にも、竹島は日本の領土であり、サンフランシスコ平和条約で放棄した島々には含まれていないというのが米国の結論であると記されています。
    以上

3.尖閣諸島

尖閣(せんかく)諸島は、1885(明治18)年以降、政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものである。

同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、1895(明治28)年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。

従って、サン・フランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、同条約第2条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、1971(昭和46)年6月17日、署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還された地域の中に含まれている。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明瞭に示すものだ。

なお、中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し従来何等異議を唱えなかったことからも明らかであり、中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものだ。

また、従来中華人民共和国政府及び台湾当局がいわゆる歴史的、地理的ないし地質的根拠等として挙げている諸点はいずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とはいえない。

出典: 外務省、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

現代-3 領土問題

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

領土問題

概 要

以下は、戦後、日本に復帰した領土。

  • トカラ列島 1952年(昭和27年)2月10日復帰。
  • 奄美群島  1953年(昭和28年)12月25日復帰。
  • 小笠原諸島 1968年(昭和43年)6月26日復帰。
  • 沖縄県   1972年(昭和47年)5月15日復帰。
    北方領土、竹島問題、尖閣諸島においては、国際法によって、日本固有の領土であるにもかかわらず、主張している国とによって解決していない。領土問題は、植民地問題と並んで戦争やテロのきっかけになりやすく、過去に日本を初め世界各国で領土問題を発端に戦争が起きたこともある(ノモンハン事件、印パ戦争など)。これら領土問題を戦争に発展させないために、国連は国際法によって、一国が他国の領土を武力によって占有することを禁じている。


『日本人の歴史教科書』自由社

主にウルップ島以北を北千島、択捉島以南を南千島と呼ぶ。北方領土問題(ほっぽうりょうどもんだい)とは、北海道根室半島の沖合にある島々で現在ロシア連邦が実効支配している、択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞群島(はぼまいぐんとう)に対して、日本が返還を求めている領土問題。この島を、北方四島とも言うことがある。日本政府は、歯舞群島と色丹島は千島列島に属さないとしている。

地理

千島列島は環太平洋火山帯の一部をなす火山列島であり、今でも多くの島が活発に火山活動を起こしている。これらの島々は北アメリカプレートの下に太平洋プレートがもぐりこんだ結果生じた成層火山の頂上にあたる。

プレートのもぐりこみにより、列島の200km東方沖に千島海溝ができている。地震も頻繁に起こり、2006年(平成18年)11月15日、近海でマグニチュード7.9の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2006年))また、2007年(平成19年)1月13日にも、近海でマグニチュード8.2の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2007年))

千島列島の気候は厳しく、風が強く非常に寒い冬が長く続く。夏は短く、霧がしばしば発生し、山には雪が残ることがある。年平均降水量は760mmから1000mmと多めで、ほとんどは雪である。温帯と亜寒帯にまたがる列島内では植生も異なり、北部ではツンドラ様の植生が、南部では深い針葉樹の森が見られる。境目は択捉島と得撫島(うるっぷとう)の間で、宮部金吾が唱えた分布境界線(宮部線)となる。
列島内の最高峰は最北端の島、阿頼度島の阿頼度山(親子場山、または阿頼度富士、ロシア名アライト山)で海抜は 2,339m。列島南部の国後島東端にある爺爺岳も 1,822mの高さを誇る。島々の風景は、砂浜、岩の多い海岸、断崖絶壁、流れの速い渓谷と下流では広くなる川、森林と草原、山頂部の荒野やツンドラ、泥炭地、カルデラ湖などが形成されており、手付かずの自然が残る島が多い。土壌は一般的に肥沃で、火山灰などが周期的に流入することや、海岸部での鳥の糞の堆積などによるものである。しかし険しく不安定な斜面は頻繁に土砂崩れを起こし、新たな火山活動によって裸地が広がっている。
生態系列島周囲の海水は北太平洋でも最も魚の繁殖に適している。このため、動植物などあらゆる種の海洋生物からなる豊かな生態系が千島列島付近に存在できる。

千島列島の島のほとんどの沖合いは巨大な昆布の森に取り囲まれ、イカなど軟体生物やそれを捕食する魚、それを狙う海鳥など多くの生き物の暮らしの舞台になっている。さらに沖合いにはマス、タラ、カレイ、その他商業的価値の高い魚が多く泳いでいる。明治前後から日本の漁民の活動の場となってきたが、1980年代まではイワシが夏には山のように獲れていた。その後イワシは激減し、1993年を最後に水揚げされておらず、千島列島の漁村に打撃を与えている。またサケ類が千島列島の大きな島々で産卵し、周囲で捕獲される。

魚を求める哺乳類の巨大な生息地もある。アシカ、トド、オットセイがいくつかの小島に集まり、ロシアでも最大の生息地となっている。19世紀に1万頭いたオットセイは19世紀末には絶滅した。これと対照的に、アシカやトドは商業的狩猟の対象とならなかった。1960年代以来これらの狩猟の報告はなく、アシカやトドの生息は順調で、場所によっては増えている。クジラ類も多く、特にイシイルカ、シャチ、アカボウクジラ、ツチクジラ、マッコウクジラ、ミンククジラ、ナガスクジラなどが多く観測されている。ラッコも毛皮貿易のため19世紀に乱獲され、ラッコは急速に減少し、20世紀半ば以降ほとんど狩猟が禁止され、徐々に千島列島内での生息地が復活している。千島列島にはその他、数多くの種の海鳥が生息する。外敵のいない小島では、断崖の上などで多くの鳥が巣をつくり子育てを行っている。歴史歴史をさかのぼれば、樺太(サハリン)および千島列島はアイヌ民族が住んでいました。
日本政府は、「日本はロシアより早くから北方領土の統治を行っており、ロシアが得撫島より南を支配したことは、太平洋戦争以前は一度もない」と主張しているが、実際には、1760年代にロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録が残されている。また、最上徳内が和人探検家として最初に択捉島を訪れた1780年代には、択捉島には3名のロシア人が居住し、アイヌの中にロシア正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、既にロシア人の足跡があったことも知られている。

江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれていた。のちに明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称、日本語に樺太の地名が定着した。
全島をロシア連邦が実効支配しているものの旧ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本は択捉島以南(いわゆる北方領土)の領有権を主張するとともに、他の全島も国際法上領有権は未定と主張している。現在も北方四島はもちろん、得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡についても札幌国税局管内の根室税務署の管轄とされており、法制的には存続している。

  • 1700年(元禄13年) – 松前藩は千島列島に居住するアイヌの戸籍(松前島郷帳)を作成し、幕府に提出
    この郷帳には北海道からカムチャツカ半島までが記載されている。
  • 1711年 – ロシアの囚人兵らがカムチャツカ半島から千島列島に侵攻
    占守島ではアイヌとの交戦があったが、やがて降伏した。1713年には幌筵島が占領された。
  • 1750年代 – ロシア人が得撫島に度々現れ、さらには北海道・霧多布にまで現れ交易を求める
    ロシア人の所持していた地図には国後島までがロシアの色で塗られ、これに対し松前藩の役人は抗議している。
  • 1754年(宝暦4年) – 松前藩は国後場所を開き、国後島を直轄した
  • 1766年(明和3年) – ロシア人が得撫島に居住を始め、現地のアイヌを使役しラッコ猟を行うようになる
  • 1770年(明和7年) – 択捉島のアイヌがロシア人の目を避けて得撫島沖でラッコ猟を行っていたところをロシア人に発見され、逃亡したアイヌが襲撃される事件が起きる
  • 1771年(明和8年) – アイヌが得撫島のロシア人を襲撃し、同島から追い出す
    同年にはハンガリー人のアウリツィウス・アウグスト・ベニヨフスキーがロシア帝国による千島列島南下(南下政策)を警告、次第に幕府や学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる
  • 1786年(天明6年) – 幕府が最上徳内を派遣し、調査を実施
  • 1798年(寛政10年) – 幕府による北方視察が大規模に実施された
  • 1801年(享和元年) – 富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣し、領有宣言を意味する「天長地久大日本属島」の標柱を建てる
    この頃、蝦夷地の経営を強化していた日本とロシアの間で、樺太とともに国境画定が問題化してくる。得撫島には既に17人のロシア人が居住していたが、幕府は積極的な退去政策を行わなかった。
  • 1855(安政元)年、日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされた。
  • 1856(安政2)年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、ウルップ島からオネコタン島までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすることを建言した。幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、
  • 1867年石川利政・小出秀実をペテルブルグに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太は是迄通りとされた(日露間樺太島仮規則)。
  • 1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし五郡を置いた。国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北であるからである。
  • 1874(明治7)年3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりにウルップ島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴いた。榎本とスツレモーホフ(Stremoukhohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められた。
  • 1875(明治8)年5月7日に日本とロシア帝国との間で「樺太・千島交換条約」を結び、国境を確定した。
    その結果、樺太での日本の権益を放棄するかわりに、得撫島(ウルップ島)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた。
  • 1945(昭和20)年2月、ソ連のヤルタで米・英・ソ首脳が会談(ヤルタ会談)。ここで、戦勝国間で、いずれ敗戦する戦勝権益の分割が話し合われた。日本を早期に敗北に追い込むため、ドイツ降伏の2ないし3か月後にソ連が対日参戦する見返りとして、日本の敗北後、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すべきとした。(ヤルタ協定)。
  • 8月8日、ヤルタ協定通り、ソ連は日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告。8月14日、御前会議にて、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定、連合国にポツダム宣言受諾を通告。9月2日、日本は連合国が作成した降伏文書(ソ連も当然、当事国として署名した)に調印した。同時に一般命令第一号(陸、海軍)では、満洲、北緯38度線以北の朝鮮、南樺太・千島諸島に在る日本国先任指揮官ならびに一切の陸上、海上、航空及補助部隊は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏すべきこととした。
  • 8月11日に国境を侵犯し南樺太に侵攻したソ連第二極東軍部隊は、8月25日に南樺太を占領。すでに、千島列島をソ連が占領することを、トルーマンと合意が取れていたので、8月28日から9月1日までに、北方領土の択捉・国後・色丹島を占領、9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領した。なお、8月18日にカムチャツカ半島方面より千島列島に侵入した第一極東軍部隊は、8月31日までに得撫島以北の北千島を占領している。9月2日に日本が降伏文書に署名し、戦争が正式に終結するまでにソ連軍は満州国(中国東北部)や朝鮮半島北部、南樺太(サハリン南部)や千島列島全域、北方領土を占領した。日本は、この侵攻が日ソ中立条約の残存期間中に行われたと主張した。一方ソ連は、1941年7月7日の関東軍特種演習により日ソ中立条約は事実上失効しており、法的には問題ないと主張した。
  • 1946(昭和21)年1月29日、GHQ指令第677号により、沖縄や小笠原・竹島・南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が中止された。国後、択捉両島は千島の中に含まれるものとして、日本政府の政治上、行政上の権力行使の外におかれることになった。2月2日、ソ連は南樺太・千島を自国領に編入した。
    しかし、国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北である。ソ連は国後島・択捉島など4島も千島列島に含まれると主張している。
    北方領土には日本国民は約1万7千人住んでいたが、占領当初は、日本国民の本国帰還は認められなかった。
  • 1946年12月、GHQとソ連との間で日本国民全員の引き上げが合意されると、1949年7月までにほぼ全員の日本国民が帰国した。しかし、GHQ指令によって日本国籍を離脱していた朝鮮人はその後も帰還することができず、多くはサハリン(樺太)に移住した。
  • 1948年に日ソ間の民間貿易協定が結ばれて、ソ連が併合を宣言した樺太(サハリン)や千島(クリル)列島などの日本人島民や、満州や朝鮮半島に取り残された居留民、さらにシベリア抑留をされた日本軍将兵を日本に送還する事業は続けられたが、両国間の継続的な外交関係は築かれないままだった。 政治的混乱が一応収束し、日本と連合国との間の平和条約締結が政治的課題になると、日本国内ではアメリカを中心とする資本主義諸国との単独講和か、ソ連などの社会主義諸国も含んだ全面講和かという論争が起こったが、親米路線の吉田茂首相は単独講和路線を採用した。一方、ソ連は1950年2月14日に、国共内戦に勝利して中国大陸を新たに支配した中華人民共和国との間に中ソ友好同盟相互援助条約を締結したが、この中で日本軍国主義復活への反対を明記した事で、日本政府の対ソ感情はますます悪化した。これは同年6月25日勃発の朝鮮戦争で日本がアメリカ軍(国連軍)の後方支援基地となり、ソ連が中国を通じて間接的に参戦した(全面的な軍事援助、空軍兵士の参戦)事でさらにこじれた。

    また、ソ連がシベリア抑留者の一部を戦争犯罪者として裁き、ソ連国内で服役させた事や、日本政府とアメリカ占領当局がレッドパージにより日本共産党を弾圧し、事実上非合法化したというそれぞれの国内事情も、関係正常化の阻害要因となった。

  • 1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約が締結され、日本と連合国との戦争状態は正式に終結したが、講和会議に中国の代表として中華人民共和国を招請しなかった事に反発するソ連は、会議には出席したものの、条約調印は拒否した。そのため、1952年4月28日の条約発効とともに対日理事会が消滅した後は、日ソ両国の接点は失われた。
  • 1956年10月12日、鳩山首相は河野農相などの随行団と共にモスクワを訪問し、フルシチョフ第一書記などとの首脳会談が続けられた。焦点の北方領土問題は、まず国交回復を先行させ、平和条約締結後にソ連が歯舞群島と色丹島を引き渡すという前提で、改めて平和条約の交渉を行うという合意がなされた。
    同年10月19日に日本とソビエト連邦がモスクワにおいて鳩山首相とソ連のブルガーニン首相が共同宣言に署名し、国会承認をへて、同年12月12日に「日ソ共同宣言」を発効した。外交文書(条約)。これにより両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされた。日ソ国交回復共同宣言ともいわれる。
    しかし、平和条約の締結交渉は、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島返還で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、開始が延期された。
  • 1957(昭和32)年、ソ連国境警備隊が貝殻島に上陸。日本は日米安保条約下にあったが、このとき米軍は一切出動しなかった。
  • 1960(昭和35)年、岸信介内閣が日米安全保障条約改定を行った事に対してソビエトが反発。ソ連は、歯舞群島と色丹島の引き渡しは「両国間の友好関係に基づいた、本来ソビエト領である同地域の引き渡し」とし、引き渡しに条件(外国軍隊の日本からの撤退)を付けることを主張する。日本政府は、共同宣言調印時には既に日米安保があったとして反論。
  • 1973(昭和48)年、田中・ブレジネフ会談。日ソ間の諸問題を解決した後、平和条約を締結することが合意された。(日ソ共同声明)いわゆる北方領土問題では、この条約での「千島列島」の範囲が争点の一つになることがある。

    1855(安政元)年、日本とロシア帝国は、「日露和親条約(下田条約)」で日本は千島列島を放棄したが、放棄した千島列島に北方四島は含まれないと説明される。その根拠に、のちの1869(明治2)年、「樺太・千島交換条約」第二款では、千島列島(クリル列島)とカムチャッカ半島南のシュムシュ島からウルップ島18島とされていることがあげられる。

    フランス語正文では、『現在自ら(ロシア)所有するところのクリル諸島のグループ』と書かれているが、日本語訳文では『現今所領「クリル」群島』と訳されており、『グループ』に対応する語が欠落している。そして、日本語誤訳には、フランス語正文に無い『而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ』の句が挿入されている。これは、条約として効力の無い日本語訳文の誤訳をもとにしており、フランス語正文からはこのような解釈は成り立たないとしている。しかし、千島18島に4島は含まれないのは樺太・千島交換条約で明白である。現在、日本の国会に議席を持っている政党の中で日本共産党はこの樺太・千島交換条約を根拠にしてウルップ島以北を含めた全千島の返還をソビエト連邦および現在のロシア連邦に要求している。

    ロシア(ソ連)側から見れば、大戦当時ソ連・アメリカ・イギリス・中国は連合国であり、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国とは敵対していた。枢軸国のイタリアやドイツが降伏した後、ソ連は連合国の求めに応じて対日参戦した。ヤルタ会談で千島・南樺太の割譲は米英ソの三者で合意されているし、ソ連も参加しているポツダム宣言を日本は無条件で受け入れている。平和条約の締結こそしていないがロシアは占領地区を既に自国へ編入している。そもそもサンフランシスコ条約で日本はクリル列島を放棄しており、クリル列島には、択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島が含まれる(色丹・歯舞を合わせて小クリル列島といい、占守島から国後島までを大クリル列島と言う。小クリル列島と大クリル列島を合わせてクリル列島と言う)。ロシア側が北方領土の日本返還を認めない理由としてはいくつか考えられるが、まず大きなものとして、ロシア側から見た場合、北方領土問題が解決されていない現在でも日ロ間の経済的交流は進んでおり、わざわざ国民の不評を買うであろう領土の引渡しを行ってまで日本サイドに譲歩する必要性を感じていないということが挙げられる。また、地政学的に見れば、宗谷海峡(ラペルーズ海峡)、根室海峡(クナシルスキー海峡)をふくめ、ソ連はオホーツク海への出入り口をすべて監視下に置いており、事実上そこから米軍を締め出すことに成功しているが、国後・択捉両島を返還してしまえば、国後・択捉間の国後水道(エカチェリーナ海峡)の統括権を失い、オホーツク海に米軍を自由に出入りさせられるようになってしまう。国後水道は、ロシア海軍が冬季に安全に太平洋に出る上での極めて重要なルートでもあり、これが米国(の同盟国である日本)の影響下に入ることは安全保障上の大きな損失となる。

    2.竹島問題

    竹島(たけしま)は、北緯37度15分、東経131度52分の日本海にある島。日本領・隠岐と竹島の距離は両島の一番近いところで約157km、韓国領・鬱陵島と竹島の距離は両島の一番近いところで約87kmである。

    竹島が発見された正確な年月は不明ですが、遅くとも江戸時代初期には日本人に知られていました。その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)に鬱陵島(当時の竹島)への渡航を禁じましたが、松島(こんにちの竹島・韓国名・独島)については渡航を禁じませんでした。その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)に鬱陵島への渡航を禁じましたが、松島(こんにちの竹島)については渡航を禁じませんでした。天保年間(1836年)に浜田の今津屋八右衛門という人が禁令を破って鬱陵島へ行った廉で処罰されましたが、その裁判記録中には、松島へ行く名目で渡海したとあります。松島の知見は、書物や地図に記録され江戸時代を通じて維持されました。明治時代に入り、日本人による鬱陵島への渡航が再び始まりました。多くの漁民が鬱陵島に行くようになり、その途中竹島に寄港していました。明治20年代の終わりごろからは隠岐の島民たちが竹島でアワビ、アシカ等の漁猟に従事していました。

    明治37年(1904年)隠岐島の住人中井養三郎という人が、竹島においてアシカ猟を行うため政府に竹島の領土編入及び貸与を願い出ました。これに対して政府は明治38年(1905年)1月28日の閣議において同島を正式に竹島と命名し、本邦所属、島根県隠岐島司の所管とする旨決定しました。これに基づいて、島根県知事は同年2月22日付けの島根県告示第40号をもってその内容を公示しました。さらに、同年には隠岐国四郡の官有地台帳への登録、漁業取締規則によるアシカ漁業の許可、仮設望楼の設置、知事の視察、また翌39年には島根県第3部長らの現地実態調査が行われ、その後も漁業者への官有地の貸付と使用料の徴収など、行政権の行使が継続して行われました。国際法上領土取得の要件は、国家による当該土地の実効的な占有です。日本は竹島に対して歴史的な権原をもっていましたが、20世紀以降の措置によって近代国際法上の要件も完全に充足されました。

    島根県竹島資料室によると、「朝鮮国江御渡」という記述を含む触書は、幕府や諸藩の記録に残っており、韓国メディアが現在の竹島(韓国名・独島)と取り違えて報道するケースがあるという。
    竹島は、国際法に照らしてもわが国固有の領土であることは明らかです。


    (島根県)

    1952年、当時の大韓民国(以下、韓国)大統領李承晩が自国の支配下にあると一方的に宣言し、現在も韓国側が武力による占有をしているため、日本との間で領土問題が起きている。
    日本の行政区画は島根県隠岐郡隠岐の島町(郵便番号は685-0000)。韓国、北朝鮮側では独島(獨島、ドクド、Dokdo)と呼称し、その行政区画は、慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑獨島里となっている。現在、韓国海洋警察庁を傘下にもつ大韓民国海洋水産部の管理下にあり、韓国・北朝鮮は自国の最東端の領土であるとしているが、日本は国際法上適法な日本固有の領土であるとしている。

    経 緯

    • 1618(元和4)年:伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛ら幕府から許可を得て竹島(当時は「松島」と呼ばれていた)に渡航。
    • 1692(元禄5)年:鬱陵島(当時日本では「竹島」と呼ばれていた)に出漁した大谷・村川の一行が朝鮮人と遭遇。翌年にも遭遇し、安龍福と朴於屯の2名を米子に連行したのを契機に、日本と朝鮮との間に紛争が発生(竹島一件)。
    • 1696(元禄9)年:江戸幕府が鬱陵島(当時の竹島)への渡航を禁止。朝鮮の漁民安龍福が鬱陵島・于山島(韓国では于山島を独島と解釈している)は朝鮮領であると訴えるため、伯耆国へやって来た。
    • 1849(嘉永2)年:フランスの捕鯨船 Liancourt 号が竹島を発見し、リアンクール島と名付けた(以後、日本では、りゃんこ島、リアンクール岩とも呼ばれる)。
    • 1877(明治10)年3月29日:「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とする太政官の指令が内務省に伝達された。
    • 1900(明治33)年10月25日:大韓帝国勅令41号で鬱陵島を江原道の郡に昇格、同時に石島(韓国では石島を独島と解釈している)も韓国領とした。
    • 1904(明治37)年2月6日:日露戦争が勃発。
    • 1904年8月23日:第一次日韓協約が締結。
    • 1904年9月29日:島根県の中井養三郎が、内務省・外務省・農商務省に「りゃんこ島領土編入並に貸下願」を提出。
    • 1905(明治38)年1月28日:本項で詳述されている島について、日本政府が閣議で竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管とした。
    • 1905年5月27日-5月28日:日露間で日本海海戦が行われた。
    • 1905年11月17日:第二次日韓協約が締結(事実上、韓国が日本の保護国となった)。
    • 1910(明治43)年8月22日:韓国併合ニ関スル条約に基づき、日本が大韓帝国を併合(韓国併合)。
    • 1914(明治47)年:鬱陵島が江原道から慶尚北道へと移管。
    • 1940(昭和15)年8月17日:海軍用地として、竹島が島根県から海軍省(舞鶴鎮守府)へと移管。
    • 1945(昭和20)年9月2日:日本政府がポツダム宣言を受諾。
    • 1945年11月1日:海軍省廃止により、竹島が大蔵省へと移管。
    • 1946(昭和21)年1月29日:連合国軍最高司令官総司令部覚書(SCAPIN(SCAP Institutions)677号「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」)により、竹島に対する日本政府の施政権が暫定的に停止された。
    • 1946年6月22日:連合国軍最高司令官総司令部覚書(SCAPIN1033号「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」)によりマッカーサー・ラインが制定され、竹島周辺海域での漁業活動に制限が加えられた。
    • 1948(昭和23)年8月13日:大韓民国建国。初代大統領に李承晩就任。
    • 1951(昭和26)年8月10日:ラスク書簡により「竹島は日本の領土」という米国政府の意向が韓国政府に示された。
    • 1952(昭和27)年1月18日:韓国政府が李承晩ラインを一方的に宣言。
    • 1952年4月28日午後10時30分(日本時間):サンフランシスコ平和条約が発効
    • 1953(昭和28)年1月12日:韓国政府が「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示。以後、日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぎ、日本の漁業従事者に死傷者が多数出る事態となった。
    • 1953年2月4日:第一大邦丸事件。済州島付近で同船の漁労長が韓国側に銃撃を受け死亡。この竹島問題によって、日本人漁師の瀬戸重次郎が殺害されている。
    • 1953年4月20日:韓国の独島義勇守備隊が、竹島に初めて駐屯した。
    • 1953年6月27日:日本国海上保安庁と島根県が竹島の調査を行い、「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建てる。難破後、竹島に住み着いていた韓国の漁民6名を退去させた。
    • 1953年7月12日:竹島に上陸していた韓国の獨島守備隊が日本の海上保安庁巡視船に発砲。以後、韓国は竹島の武装化を進め、日本の艦船の接近を認めていない。日本政府はこの韓国による竹島を武装化する動きに抗議しているが、韓国側は「内政干渉」として退けている。
    • 1954(昭和29)年8月15日:朝鮮戦争を共に戦ったジェームズ・ヴァン・フリートが大統領特命大使として使節団を率いて極東各国を歴訪し、ヴァン・フリート特命報告書を作成。竹島問題は国際司法裁判所を通じて解決されることが望まれるというアメリカの意向を、非公式に韓国に伝達した等の事を大統領に報告した。
    • 1954年9月25日:日本政府は領有問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案したが、韓国政府はこれに応じず。
    • 1954年11月30日:韓国側が竹島に近づいた日本警備艇に砲撃をくわえる。
    • 1956(昭和31)年4月:韓国警察鬱陵警察署警官8名が島に常駐。
    • 1956年12月25日:独島義勇守備隊解散
    • 1965(昭和40)年:日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約が調印され、李承晩ラインが廃止された。竹島問題は紛争処理事項であるとされたが、その後韓国は竹島の領有問題は紛争処理事項でないとの立場を取り、交渉のテーブルに着いていない。
    • 1977(昭和52)年2月5日:福田赳夫首相が「竹島は一点疑う余地のない日本固有の領土」と発言。
    • 1982(昭和62)年11月16日:韓国、竹島を天然保護区域に指定(独島天然保護区域)。
    • 1997(平成9)年11月:韓国、500トン級船舶が利用できる接岸施設設置。日本政府は抗議。
    • 1998(平成10)年12月:韓国、有人灯台設置。日本政府は抗議。
    • 2004(平成16)年1月:韓国、竹島を図柄にした切手を発行。日本政府は抗議。
    • 2004年2月17日:日本郵政公社、竹島の写真付き切手の発行を拒否。
    • 2004年3月1日:「我が国最東端の領土」と韓国側がテレビ中継を実施。
    • 2005(平成17)年3月16日:島根県議会が、竹島の日条例を可決。
    • 2005年6月9日:慶尚北道議会が島根県に対抗して10月を独島の月とし、日本との交流を制限する条例を制定。
    • 2006年4月6日:ヨルリン・ウリ党の金元雄(キム・ウォヌン)議員がラジオ放送にて国際法上で領土紛争地域化する戦略を発表。

      日本国外務省
      サンフランシスコ講話条約における竹島の扱い1.1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しました。2.この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、同年7月、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡を提出しました。その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものでした。3.この韓国側の意見書に対し、米国は、同年8月、ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡をもって以下のとおり回答し、韓国側の主張を明確に否定しました。「合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」これらのやり取りを踏まえれば、竹島は我が国の領土であるということが肯定されていることは明らかです。4.また、ヴァン・フリート大使の帰国報告にも、竹島は日本の領土であり、サンフランシスコ平和条約で放棄した島々には含まれていないというのが米国の結論であると記されています。
      以上

    3.尖閣諸島

    尖閣(せんかく)諸島は、1885(明治18)年以降、政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものである。

    同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、1895(明治28)年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。

    従って、サン・フランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、同条約第2条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、1971(昭和46)年6月17日、署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還された地域の中に含まれている。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明瞭に示すものだ。

    なお、中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し従来何等異議を唱えなかったことからも明らかであり、中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものだ。

    また、従来中華人民共和国政府及び台湾当局がいわゆる歴史的、地理的ないし地質的根拠等として挙げている諸点はいずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とはいえない。

    出典: 外務省、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

たじまる 現代-2

 


概 要

目次

  1. 内乱が連続する中国史と日本
  2. 排日運動と中国政府の思惑
  3. 親日から反日へ急転した中国
  4. 韓国が克服すべき問題とは

2.排日運動と中国政府の思惑

第二次大戦が終わり、中国共産党が国共内戦に勝利し、中華人民共和国を樹立した初期は、現在の反日、仇日とは違い、かつての中国人はジャパン・バッシングをする必要がなかったのです。むしろ、ジャパン・ナッシングの時代でした。黄文雄氏は「無日時代」と呼んでいます。
その「無日」は、韓国人のような「恨(ハン)」から出てきた「日本はない」ものと見なすとは違います。また、李鵬元首相が、オーストラリアの首相に、「日本は二十年後に消えゆく国家であり、取るに足らない国だ」と言ったように、呪いの気持ちから「日本はない」と言っているのでもありません。要するに、中国の「無日」時代は、ただ単に日本が眼中になかっただけです。

革命後の中国は、「世界革命、人類開放」、そして「国家死滅」を目指して、中国人が最も自信に満ち溢れた時代でした。みずから「開放」された人間という自家を持つ、はつらつとした時代だったのです。「15年以内にイギリスに追いつき、二十世紀以内にアメリカに追いつく」と、中国自身が言っていたことからも、自信のほどが分かるでしょう。日本の進歩的文化人や、エリートといわれる人々もこれを信じ、中国をあこがれの国、理想の国として、「蚊もハエもネズミも泥棒もいない地上の楽園」だと思っていました。

しかし実際、この頃の中国は、チベットに対しては「農奴解放」、朝鮮戦争では義勇軍の派遣、ベトナム戦争にもカンボジア内戦にも支援し、世界各国に革命を輸出するために狂奔していた時代でした。こうした自信溢れる時代の中国人は、反日どころか、「搾取されている日本人」に同情し、共通の敵としての米帝や、その走狗たる日本の自民党反動派の打倒に闘志を燃やし、やがて日本の「圧迫された人々を解放する」と意気込んでいました。

しかし、その予想に反して、日本は敗戦の廃墟から這い上がりました。日本は知らず知らずのうちに、いつしか世界有数の経済大国になってしまいました。それは中国人にとっては、想像を超えたことでした。そして、中国にとって日本の成長を脅威と感じるようになっていきました。
それどころか、中国は日本に「眼紅病(エンホンビン)」といわれるような、嫉妬の対象でしかなくなったのです。改革開放までずっと「無日」だった中国が、一変して日本を嫉妬し脅威と感じ、憎悪の対象としてみるようになったのです。

3.親日から反日へ急転した中国

戦後の中華人民共和国からしばらくは、中国は夢と希望に燃えた時代であり、中華思想が完全燃焼する時代でした。人々は「世界革命、人類開放、国家死滅」の「歴史的使命感」に燃え、「東風が西風を圧倒する」と信じて疑いませんでした。しかし、社会主義、ことに大躍進(1958~毛沢東の高度経済成長政策)は失敗し、文化大革命(1966~1977年)も単なる「十年動乱」でしかなかったという惨めな結果に終わりました。

1970年代末から改革開放路線に転換すると、社会主義のイデオロギーに代わって愛国主義と大中華民族主義の運動が共産党の一党独裁を支えました。これが今日の「反日」の時代的背景です。しかし、胡耀邦総書記によって類例を見ない時代もありました。胡耀邦は中国共産党の指導者のなかではきわめて稀な明るい性格で、陰険にして風見鶏の周恩来とは対照的なもっとも互恵的、真摯で夢に溢れた時代でした。

この頃の中国は「四つの近代化」(農業、工業、国防、科学技術の現代化)を推し進めるため、どうしても日本からの投資や借款などの援助が必要でした。また、1979年1月に日中の国交が樹立され、日中友好は日米友好とアジア太平洋地域における国際関係の機軸の一環として捉えられていました。

1983年、訪日した胡耀邦はNHKテレビで「未来は日中青年の友好にかかっている」として、三千人の日本青年を中国に招待する意向を表明しました。翌年この案は実行に移され、北京では日中青年大交流の儀式が盛大に行われたのでした。
そうしたなか、中曽根元首相の靖国参拝問題をめぐって、1985年に中国各地で反日学生デモが起こりました。このときの「親日派」批判は、明らかに胡耀邦へ向けたものでした。

1989年の天安門事件以降の社会主義体制の危機と、江沢民政権の登場によって、中国は「反日」「敵日」「侮日」ムードへと急転直下していきました。天安門事件は、中国の指導者たちにとって改革開放以来最大の危機でした。世界のメディアが注目するなか、無防備な民主派の学生や民衆に対し、あえて人民解放軍を出動させ弾圧させたのも、彼らの危機意識の表れでした。

江沢民は毛沢東や鄧小平などの第一、第二世代とは違い、革命指導者としての権威はありませんでした。
そこで彼が開始したのが、反日政策でした。彼は新たな「抗日」の指導者になる道を選んだのです。
2002年末、第四世代国家指導者の胡錦濤が選ばれました。しかし、世代交代によって、これまでの「反日政策」が今後どう修正されていくかのかは、まだ不明確です。現在の中国はすでに「反日」から「仇日」へと質的変化を遂げています。胡錦濤はチベット人を弾圧し、「殺人魔王」とまでいわれている権力者です。そのため、仇日政策の執行者として、その動向が注目されます。

5.日本に対して優越性を主張したい韓国

中国人が日本についてよく言うのは、中国人は南から北から、あるいは半島を経由して日本に渡り、にほんを建国したのは徐福だということです。それを裏付けるために、さまざまな古典まで引用して、そう主張する中国人は少なくありません。

文化についても、日本には文化がなかったが、中国が文化を教えてやったといったという話をよく聞きます。

しかし実際はどうでしょうか。中国人だけでなく、韓国人もこの手の話は大好きですが、日本の文化が中国文化やその亜流といわれる韓国文化から、日本が多大な影響を受けたのはたしかです。古代から百済、新羅、高句麗、伽耶などから日本に伝わったものは、半島で熟成されて土着化したものであり、日本はそれでは満足できませんでした。日本人は大陸から受容し、独自の工夫を施しされに独自の文化として発展させてきました。
そのため、遣隋使や遣唐使を中国に送り、中国から産地直送の文物を輸入しようとしたのです。朝鮮半島は、中華帝国の属国であり中華帝国と同じく、日本に対しては「蔑日」の思想が長かったのです。しかし倭国(日本)は中国の属国という位置ではありませんでした。

それは白村江の戦いの時代、百済から日本の救援を受けた頃から、半島はすでに海の向こうに強い倭人がいることは知られていました。
そのため、半島では日本を恐れ、その恐日の心理から、高麗朝は宗主国のモンゴルに「征日」として日本遠征を勧めたのでしょう。しかし、「元寇」は失敗し、逆に「倭寇」の来襲に恐れおののくこととなりました。なかには日本列島以外のニセ物の倭寇が登場し、彼らは倭寇以上に半島を荒らしまくりました。

朝鮮半島は中国と日本を脅威に感じてきた「恐日」の歴史であるため、日本を文化的に蔑視する「蔑日」をしなければ、優越感が維持できないのです。

朝鮮の事大主義(小国が礼をもって大国に仕える)がもっとも動揺した時代は、日本の開国維新からです。清国への忠誠心があまりにも強かったがゆえに、時代の変化に乗り遅れてしまい、余計に鎖国と事大主義路線を放棄することができなかったのです。
しかし世界の潮流には逆らえず、近代に入ってからは、列強各国の動きと連動しなければなりませんでした。宗主国(中国)の決断に従う以外には何もできず、列強への対応も、親清、親露、親米、親日というように右往左往したものでした。

李光洙は、この漢民族の族性を、「空理空論、阿諛迎合(あゆげいごう)、面従後背(めんじゅうこうげん)、大勢従応」と表現しました。また、朴正煕元大統領も「事大主義」は、後世の子々孫々に至るまで悪影響を及ぼす民族的罪悪史だと指摘したことがあります。
多くの韓国人は、事大主義を踏襲してきたのは両班(ヤンバン)や李成桂一派だけであり、大多数の民衆はそうではないといいます。あるいは、開き直って「韓国人の事大は平和主義を愛好する民族の証明」だとか、「漢民族の素晴らしい知恵」と自画自賛することもあります。

6.韓国が克服すべき問題とは

日帝36年以後は、南北がそれぞれ米ソに事大を合わせました。しかし、米ソの支えがなかったら、韓国も北朝鮮も国をつくることができなかったのでしょうか。

朴正煕元大統領は、自著『漢民族の進むべき道』(1970)のなかで、韓国人の「自立精神の欠如」「民族愛の欠如」「開拓精神の欠如」「退廃した国民道徳」を指摘、自己批判をしました。
さらに、「民族の悪い遺産の反省」として、これから韓国が克服すべき次のような問題を挙げています。

  1. 事大主義
  2. 怠惰と不労働所得概念
  3. 開拓精神の欠如
  4. 企業心の不足
  5. 悪政利己主義
  6. 健全な批判精神の欠如
  7. 党派意識
  8. 特権・エリート集団意識

彼は、今のハングル世代の韓国人が持つ唯我独尊とは違い、リーダーとしての立派な人物です。彼の独裁者に似合わず社会・政治の改革者としての存在は、韓国史上のモデルとなるでしょう。しかし、韓国では売国奴として糾弾されたまま、今日に至っています。事大主義は、韓国人の宿命であり生き方である以上、韓国人はそれをきよく認めるべきだと言っているに過ぎません。一千年の事大という史実を、恫喝によって否定すべきではないということを、論証したいだけです。独善的な史観を、誰彼構わず押しつけて、謝罪や反省を強要するなど、そうした事大主義はもってのほかだからです。

韓国人が「主体(チュチュ)思想」を強調し、いくら古事記や日本書紀に記された半島の記録などから歴史の自律性を新しい史書や教科書などで吹聴しても、せいぜい半島内でしか通用しないのです。

征明(朝鮮征伐)の英雄李舜臣や伊藤博文暗殺での安重根は、朝鮮半島で最も尊敬されている民族英雄といわれますが、彼らの思想は単に「反日」「抵抗」のみで、他律的で朝鮮の創造とはほど遠いのです。歴史を創出するアジアに名を残す英雄が一人くらい語られてもいいものです。

北朝鮮のように「チュチュ」の強調が、独立自尊、主体性を強調すればするほど思想は硬直化し、融通がきかなくなり、結果として国際的に孤立すろのです。中国とロシア・東は日本とアメリカに挟まれた半島は、脅威(コンプレックス)と事大(プライド)から逃れる日こそ、世界に誇れる国家となれる時です。

8.慰安婦問題と南京事件の真実を検証する

1927年、蒋介石の北伐軍による南京占領にともなって発生した、外国領事館と居留民に対する暴虐事件。城内に英・米両軍の砲撃事件を誘発した(「南京暴動」、「第一次南京事件(扶桑社発行の教科書)」と記述される)。南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)は、日中戦争(当時は日本側は支那事変と呼んだ)初期の1937年(昭和12年)に日中間で行われた南京攻略戦後、日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間 – 2ヶ月にわたって多数の中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵(民間人に扮したゲリラ兵)及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件。日本では南京攻略戦といいます。

1971年まで、「南京大虐殺」は、東京裁判において日本と世界に大きな衝撃を与えたが、それ以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではなかった。再び注目を集めるきっかけとなったのは、日中国交樹立直前の1971年(昭和46年)8月末より朝日新聞紙上に掲載された本多勝一記者の『中国の旅』という連載記事である。南京を含む中国各地での日本軍の残虐行為が精細に描写された記事であったが、この記事で当時「百人斬り競争」が大々的に報道されていたことが取り上げられた時、“百人斬りは虚構である”という主張から論争は始まった。

虐殺の根拠とする史料には、埋葬記録が水増しされているなど捏造の疑いがある。政治宣伝でしかないものがある。矛盾した被・加害者証言や写真記録などがあり、またその史料解釈が恣意的であるとしている。実際、朝日新聞(S59年8月4日大阪版夕刊)が「南京大虐殺の証拠写真」として掲載した生首写真が、中国軍が馬賊の首を切り落とした写真であることが判明して謝罪記事を書いたり、南京市にある南京大虐殺記念館が南京事件と無関係であると指摘された写真3枚をH20になって撤去するなど、確かに信憑性の疑わしい資料があり、そもそも南京大虐殺が史実であるのならば、なぜ捏造資料が必要なのかという声もある。

否定説は、東中野氏は、南京大虐殺を肯定する立場から記述されている書物等で掲載されている写真が捏造されたものであったと主張する。その上で、”南京大虐殺の証拠写真はすべて捏造である”と主張している。これについては南京大虐殺関連の写真を検証してきた「プロパガンダ写真研究所」も数多くの証拠写真を捏造写真と指摘している。

東京裁判における「ベイツ博士」の証言を見ると良く分かります。ベイツ博士は、1937年12月の南京陥落時は南京大学(金陵大学)歴史学の教授でした。当初から国際安全区委員会の設立に係わり、1938年の3月からはスマイス博士とともに戦争被害調査を行っています。ベイツ教授は1938年に「戦争とはなにか-日本軍の暴虐」という反日宣伝本を作成するのですが、その態度は公平なものではなく「日本叩きを目的」としたものだったようです。同書の編集者である「テインパレー」に対し上海方面での日本軍の行った残虐事件を取材するように指示を出していることからもその思想が判明します。

当時の資料からベイツ博士は「南京事件の規模を約4万」と認識していたことは明らかになっていますが、東京裁判では検察側主張に合わせて少し妙な発言をしています。国民政府が、ティンパーリーやベイツなど外国人に依頼し、大虐殺を捏造したと主張する。その根拠として、台湾で発見したとする『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(1941年)やアメリカのイェール大学で発見したとする新聞記事の切り抜きを挙げる。「当時南京に進軍した日本軍の武器弾薬の質・量などを検討すると、虐殺を実行するには極めて困難になる」「大虐殺に要する時間、労力。虐殺が市外に及ぶならその範囲を考えると、大虐殺を行う合理性はおろか余力もないし、日本軍の利益になることはない」と主張する。また「30万人もの虐殺があったとして、およそ18,000トンにおよぶ膨大な量の遺体はどこに消えてしまったのか」との疑問にも肯定説は答えていないとする。

肯定説は、南京に進軍した日本軍が総勢20万人近くいること、各兵士が銃剣や銃弾を持っていることを考えるならば、大量の殺害は可能である。また、たとえ計画性が無くても、竹やりや素手でも大量虐殺は可能だと主張している。遺体については、遺体を揚子江に流すという手段を指摘している。東京裁判では遺体15万以上が慈善団体により埋葬されたとなっているので矛盾する。「中国はプロパガンダが巧みであり、欧米の国際世論を味方につけようと暗躍していた」としており、「南京事件は南京陥落後に中国政府が国際連盟で「南京で2万人の虐殺と数千の暴行があった」と演説したのが最初だが国際社会からは真剣に受け止められず非難決議もなかった。それが東京裁判で30万という数字に一気に飛躍したため一時注目を浴びたが、日中友好ムードであった1970 – 1980年代は全く沈静化していた。しかし、六四天安門事件以降の江沢民政権で大々的に再び宣伝活動に利用され、対日批判プロパガンダのネタとして日本政府から外交上譲歩を引き出すカードとして利用され続けている。」と主張している。また、反日愛国教育により一次資料の公開や検証のないまま大々的に南京大虐殺が喧伝されるようになり、現に南京に建設された大屠殺記念館では30万であるが現在では中国の主張する犠牲者数は40万人以上と10万人も増加しており、年を追うごとに増加する事は異常であり、一次資料の未公開や未検証、写真の捏造問題とも相まって南京大虐殺の信憑性を疑問視する傾向にさらに拍車をかけていると主張している。

虐殺否定論というのは、南京で日本軍兵士の犯罪が一件もなかったとか、中国兵の処刑が一件もなかったという主張ではなく、中国側主張の”軍事行動とは無関係に数十万市民を殺害した”という事件の存在を否定しているのです。それが「虐殺か、合法か」という議論があることは否定するものではありません。戦争状態において中国兵に対する処刑が行われたことについては事実ですから、否定派(まぼろし派~中間派・4-5万説)でこれらをまったくなかった、と否定している研究者はいません。東京裁判での弁護側の主張も、犯罪がまったく無かったという主張ではなく、中国側の主張は過大であり、大部分の事件は中国側の敗残兵が行なったものではないか? という主張をしています。

「慰安婦問題と南京事件の真実を検証する会」は、民主党内の保守系議員連盟。2007年3月に設立。
アメリカ連邦議会の下院で、戦前の慰安婦に対する日本政府の謝罪を求める決議案(アメリカ合衆国下院121号決議”United States House of Representatihttps://kojiyama.net/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifes proposed House Resolution 121″)が議論されていることに対し、強制連行について「旧日本軍・政府の関与はなかった」という立場から、いわゆる河野官房長官談話の見直しを内閣総理大臣に提言する議員連盟として立ち上げられている。2007年米国ワシントンポストに慰安婦に関する意見広告が掲載されたが、賛同者としてこの会からかなりの人が賛同している。

また、慰安婦問題と共に南京事件に関しても真実の検証を呼びかけており、定期的に勉強会を開いている。南京事件(南京大虐殺)に関するドキュメンタリー映画「南京の真実」にもこの会から多くの賛同者が出ている。

8.占領支配が消し去った歴史

西尾幹二氏は、私は高校生の頃までに受けた教育で、満州事変以後の日本の暴走という観念を植え付けられてきました。今の子どもたちにも学校の歴史教育でずっと同じ植え付けが行われています。一般読書で読まれている昭和史の類もやはり、戦争の原因を短い時間尺度の中に閉じこめるこの観念で書かれています。

これは明らかに政治的意図がある、と私は考えます。占領政策には日本を二度とアメリカに立ち向かえない国にするという目的がありました。一方的に日本に戦争の罪を着せようとするならば、歴史を短く区切って教えた方がいいに決まっています。なぜならば、遠く長い歴史の繋がりを持ち出すと、欧米諸国が四、五百年前から地球上で起こしてきたさまざまな侵略の考慮に入れなければならくなるからです。
1936年、大東亜戦争が始まる前には、イギリスが支配していた地表面積は27%、ソ連が16%、フランスが9%、アメリカが6.7%で、合わせて58.7%、すなわち地球表面の六割近くもが四ヶ国で占められていました。江戸時代からほとんど変わらない世界情勢が第二次世界大戦まで続いていたのが実態です。

現代-2 内乱が連続する中国史と日本

 


概 要

目次

  1. 内乱が連続する中国史と日本
  2. 排日運動と中国政府の思惑
  3. 親日から反日へ急転した中国
  4. 韓国が克服すべき問題とは

2.排日運動と中国政府の思惑

第二次大戦が終わり、中国共産党が国共内戦に勝利し、中華人民共和国を樹立した初期は、現在の反日、仇日とは違い、かつての中国人はジャパン・バッシングをする必要がなかったのです。むしろ、ジャパン・ナッシングの時代でした。黄文雄氏は「無日時代」と呼んでいます。

その「無日」は、韓国人のような「恨(ハン)」から出てきた「日本はない」ものと見なすとは違います。また、李鵬元首相が、オーストラリアの首相に、「日本は二十年後に消えゆく国家であり、取るに足らない国だ」と言ったように、呪いの気持ちから「日本はない」と言っているのでもありません。要するに、中国の「無日」時代は、ただ単に日本が眼中になかっただけです。

革命後の中国は、「世界革命、人類開放」、そして「国家死滅」を目指して、中国人が最も自信に満ち溢れた時代でした。みずから「開放」された人間という自家を持つ、はつらつとした時代だったのです。「15年以内にイギリスに追いつき、二十世紀以内にアメリカに追いつく」と、中国自身が言っていたことからも、自信のほどが分かるでしょう。日本の進歩的文化人や、エリートといわれる人々もこれを信じ、中国をあこがれの国、理想の国として、「蚊もハエもネズミも泥棒もいない地上の楽園」だと思っていました。

しかし実際、この頃の中国は、チベットに対しては「農奴解放」、朝鮮戦争では義勇軍の派遣、ベトナム戦争にもカンボジア内戦にも支援し、世界各国に革命を輸出するために狂奔していた時代でした。こうした自信溢れる時代の中国人は、反日どころか、「搾取されている日本人」に同情し、共通の敵としての米帝や、その走狗たる日本の自民党反動派の打倒に闘志を燃やし、やがて日本の「圧迫された人々を解放する」と意気込んでいました。

しかし、その予想に反して、日本は敗戦の廃墟から這い上がりました。日本は知らず知らずのうちに、いつしか世界有数の経済大国になってしまいました。それは中国人にとっては、想像を超えたことでした。そして、中国にとって日本の成長を脅威と感じるようになっていきました。
それどころか、中国は日本に「眼紅病(エンホンビン)」といわれるような、嫉妬の対象でしかなくなったのです。改革開放までずっと「無日」だった中国が、一変して日本を嫉妬し脅威と感じ、憎悪の対象としてみるようになったのです。▲ページTOPへ


3.親日から反日へ急転した中国

戦後の中華人民共和国からしばらくは、中国は夢と希望に燃えた時代であり、中華思想が完全燃焼する時代でした。人々は「世界革命、人類開放、国家死滅」の「歴史的使命感」に燃え、「東風が西風を圧倒する」と信じて疑いませんでした。しかし、社会主義、ことに大躍進(1958~毛沢東の高度経済成長政策)は失敗し、文化大革命(1966~1977年)も単なる「十年動乱」でしかなかったという惨めな結果に終わりました。
1970年代末から改革開放路線に転換すると、社会主義のイデオロギーに代わって愛国主義と大中華民族主義の運動が共産党の一党独裁を支えました。これが今日の「反日」の時代的背景です。しかし、胡耀邦総書記によって類例を見ない時代もありました。胡耀邦は中国共産党の指導者のなかではきわめて稀な明るい性格で、陰険にして風見鶏の周恩来とは対照的なもっとも互恵的、真摯で夢に溢れた時代でした。

この頃の中国は「四つの近代化」(農業、工業、国防、科学技術の現代化)を推し進めるため、どうしても日本からの投資や借款などの援助が必要でした。また、1979年1月に日中の国交が樹立され、日中友好は日米友好とアジア太平洋地域における国際関係の機軸の一環として捉えられていました。

1983年、訪日した胡耀邦はNHKテレビで「未来は日中青年の友好にかかっている」として、三千人の日本青年を中国に招待する意向を表明しました。翌年この案は実行に移され、北京では日中青年大交流の儀式が盛大に行われたのでした。

そうしたなか、中曽根元首相の靖国参拝問題をめぐって、1985年に中国各地で反日学生デモが起こりました。このときの「親日派」批判は、明らかに胡耀邦へ向けたものでした。

1989年の天安門事件以降の社会主義体制の危機と、江沢民政権の登場によって、中国は「反日」「敵日」「侮日」ムードへと急転直下していきました。天安門事件は、中国の指導者たちにとって改革開放以来最大の危機でした。世界のメディアが注目するなか、無防備な民主派の学生や民衆に対し、あえて人民解放軍を出動させ弾圧させたのも、彼らの危機意識の表れでした。

江沢民は毛沢東や鄧小平などの第一、第二世代とは違い、革命指導者としての権威はありませんでした。
そこで彼が開始したのが、反日政策でした。彼は新たな「抗日」の指導者になる道を選んだのです。
2002年末、第四世代国家指導者の胡錦濤が選ばれました。しかし、世代交代によって、これまでの「反日政策」が今後どう修正されていくかのかは、まだ不明確です。現在の中国はすでに「反日」から「仇日」へと質的変化を遂げています。胡錦濤はチベット人を弾圧し、「殺人魔王」とまでいわれている権力者です。そのため、仇日政策の執行者として、その動向が注目されます。▲ページTOPへ


5.日本に対して優越性を主張したい韓国

中国人が日本についてよく言うのは、中国人は南から北から、あるいは半島を経由して日本に渡り、にほんを建国したのは徐福だということです。それを裏付けるために、さまざまな古典まで引用して、そう主張する中国人は少なくありません。

文化についても、日本には文化がなかったが、中国が文化を教えてやったといったという話をよく聞きます。
しかし実際はどうでしょうか。中国人だけでなく、韓国人もこの手の話は大好きですが、日本の文化が中国文化やその亜流といわれる韓国文化から、日本が多大な影響を受けたのはたしかです。古代から百済、新羅、高句麗、伽耶などから日本に伝わったものは、半島で熟成されて土着化したものであり、日本はそれでは満足できませんでした。日本人は大陸から受容し、独自の工夫を施しされに独自の文化として発展させてきました。
そのため、遣隋使や遣唐使を中国に送り、中国から産地直送の文物を輸入しようとしたのです。朝鮮半島は、中華帝国の属国であり中華帝国と同じく、日本に対しては「蔑日」の思想が長かったのです。しかし倭国(日本)は中国の属国という位置ではありませんでした。

それは白村江の戦いの時代、百済から日本の救援を受けた頃から、半島はすでに海の向こうに強い倭人がいることは知られていました。

そのため、半島では日本を恐れ、その恐日の心理から、高麗朝は宗主国のモンゴルに「征日」として日本遠征を勧めたのでしょう。しかし、「元寇」は失敗し、逆に「倭寇」の来襲に恐れおののくこととなりました。なかには日本列島以外のニセ物の倭寇が登場し、彼らは倭寇以上に半島を荒らしまくりました。

朝鮮半島は中国と日本を脅威に感じてきた「恐日」の歴史であるため、日本を文化的に蔑視する「蔑日」をしなければ、優越感が維持できないのです。

朝鮮の事大主義(小国が礼をもって大国に仕える)がもっとも動揺した時代は、日本の開国維新からです。清国への忠誠心があまりにも強かったがゆえに、時代の変化に乗り遅れてしまい、余計に鎖国と事大主義路線を放棄することができなかったのです。

しかし世界の潮流には逆らえず、近代に入ってからは、列強各国の動きと連動しなければなりませんでした。宗主国(中国)の決断に従う以外には何もできず、列強への対応も、親清、親露、親米、親日というように右往左往したものでした。

李光洙は、この漢民族の族性を、「空理空論、阿諛迎合(あゆげいごう)、面従後背(めんじゅうこうげん)、大勢従応」と表現しました。また、朴正煕元大統領も「事大主義」は、後世の子々孫々に至るまで悪影響を及ぼす民族的罪悪史だと指摘したことがあります。

多くの韓国人は、事大主義を踏襲してきたのは両班(ヤンバン)や李成桂一派だけであり、大多数の民衆はそうではないといいます。あるいは、開き直って「韓国人の事大は平和主義を愛好する民族の証明」だとか、「漢民族の素晴らしい知恵」と自画自賛することもあります。▲ページTOPへ


6.韓国が克服すべき問題とは

 日帝36年以後は、南北がそれぞれ米ソに事大を合わせました。しかし、米ソの支えがなかったら、韓国も北朝鮮も国をつくることができなかったのでしょうか。
朴正煕元大統領は、自著『漢民族の進むべき道』(1970)のなかで、韓国人の「自立精神の欠如」「民族愛の欠如」「開拓精神の欠如」「退廃した国民道徳」を指摘、自己批判をしました。
さらに、「民族の悪い遺産の反省」として、これから韓国が克服すべき次のような問題を挙げています。

  1. 事大主義
  2. 怠惰と不労働所得概念
  3. 開拓精神の欠如
  4. 企業心の不足
  5. 悪政利己主義
  6. 健全な批判精神の欠如
  7. 党派意識
  8. 特権・エリート集団意識

彼は、今のハングル世代の韓国人が持つ唯我独尊とは違い、リーダーとしての立派な人物です。彼の独裁者に似合わず社会・政治の改革者としての存在は、韓国史上のモデルとなるでしょう。しかし、韓国では売国奴として糾弾されたまま、今日に至っています。事大主義は、韓国人の宿命であり生き方である以上、韓国人はそれをきよく認めるべきだと言っているに過ぎません。一千年の事大という史実を、恫喝によって否定すべきではないということを、論証したいだけです。独善的な史観を、誰彼構わず押しつけて、謝罪や反省を強要するなど、そうした事大主義はもってのほかだからです。

韓国人が「主体(チュチュ)思想」を強調し、いくら古事記や日本書紀に記された半島の記録などから歴史の自律性を新しい史書や教科書などで吹聴しても、せいぜい半島内でしか通用しないのです。

征明(朝鮮征伐)の英雄李舜臣や伊藤博文暗殺での安重根は、朝鮮半島で最も尊敬されている民族英雄といわれますが、彼らの思想は単に「反日」「抵抗」のみで、他律的で朝鮮の創造とはほど遠いのです。歴史を創出するアジアに名を残す英雄が一人くらい語られてもいいものです。

北朝鮮のように「チュチュ」の強調が、独立自尊、主体性を強調すればするほど思想は硬直化し、融通がきかなくなり、結果として国際的に孤立すろのです。中国とロシア・東は日本とアメリカに挟まれた半島は、脅威(コンプレックス)と事大(プライド)から逃れる日こそ、世界に誇れる国家となれる時です。

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8.慰安婦問題と南京事件の真実を検証する

1927年、蒋介石の北伐軍による南京占領にともなって発生した、外国領事館と居留民に対する暴虐事件。城内に英・米両軍の砲撃事件を誘発した(「南京暴動」、「第一次南京事件(扶桑社発行の教科書)」と記述される)。南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)は、日中戦争(当時は日本側は支那事変と呼んだ)初期の1937年(昭和12年)に日中間で行われた南京攻略戦後、日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間 – 2ヶ月にわたって多数の中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵(民間人に扮したゲリラ兵)及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件。日本では南京攻略戦といいます。

1971年まで、「南京大虐殺」は、東京裁判において日本と世界に大きな衝撃を与えたが、それ以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではなかった。再び注目を集めるきっかけとなったのは、日中国交樹立直前の1971年(昭和46年)8月末より朝日新聞紙上に掲載された本多勝一記者の『中国の旅』という連載記事である。南京を含む中国各地での日本軍の残虐行為が精細に描写された記事であったが、この記事で当時「百人斬り競争」が大々的に報道されていたことが取り上げられた時、“百人斬りは虚構である”という主張から論争は始まった。

虐殺の根拠とする史料には、埋葬記録が水増しされているなど捏造の疑いがある。政治宣伝でしかないものがある。矛盾した被・加害者証言や写真記録などがあり、またその史料解釈が恣意的であるとしている。実際、朝日新聞(S59年8月4日大阪版夕刊)が「南京大虐殺の証拠写真」として掲載した生首写真が、中国軍が馬賊の首を切り落とした写真であることが判明して謝罪記事を書いたり、南京市にある南京大虐殺記念館が南京事件と無関係であると指摘された写真3枚をH20になって撤去するなど、確かに信憑性の疑わしい資料があり、そもそも南京大虐殺が史実であるのならば、なぜ捏造資料が必要なのかという声もある。

否定説は、東中野氏は、南京大虐殺を肯定する立場から記述されている書物等で掲載されている写真が捏造されたものであったと主張する。その上で、”南京大虐殺の証拠写真はすべて捏造である”と主張している。これについては南京大虐殺関連の写真を検証してきた「プロパガンダ写真研究所」も数多くの証拠写真を捏造写真と指摘している。

東京裁判における「ベイツ博士」の証言を見ると良く分かります。ベイツ博士は、1937年12月の南京陥落時は南京大学(金陵大学)歴史学の教授でした。当初から国際安全区委員会の設立に係わり、1938年の3月からはスマイス博士とともに戦争被害調査を行っています。ベイツ教授は1938年に「戦争とはなにか-日本軍の暴虐」という反日宣伝本を作成するのですが、その態度は公平なものではなく「日本叩きを目的」としたものだったようです。同書の編集者である「テインパレー」に対し上海方面での日本軍の行った残虐事件を取材するように指示を出していることからもその思想が判明します。

当時の資料からベイツ博士は「南京事件の規模を約4万」と認識していたことは明らかになっていますが、東京裁判では検察側主張に合わせて少し妙な発言をしています。国民政府が、ティンパーリーやベイツなど外国人に依頼し、大虐殺を捏造したと主張する。その根拠として、台湾で発見したとする『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(1941年)やアメリカのイェール大学で発見したとする新聞記事の切り抜きを挙げる。「当時南京に進軍した日本軍の武器弾薬の質・量などを検討すると、虐殺を実行するには極めて困難になる」「大虐殺に要する時間、労力。虐殺が市外に及ぶならその範囲を考えると、大虐殺を行う合理性はおろか余力もないし、日本軍の利益になることはない」と主張する。また「30万人もの虐殺があったとして、およそ18,000トンにおよぶ膨大な量の遺体はどこに消えてしまったのか」との疑問にも肯定説は答えていないとする。

肯定説は、南京に進軍した日本軍が総勢20万人近くいること、各兵士が銃剣や銃弾を持っていることを考えるならば、大量の殺害は可能である。また、たとえ計画性が無くても、竹やりや素手でも大量虐殺は可能だと主張している。遺体については、遺体を揚子江に流すという手段を指摘している。東京裁判では遺体15万以上が慈善団体により埋葬されたとなっているので矛盾する。「中国はプロパガンダが巧みであり、欧米の国際世論を味方につけようと暗躍していた」としており、「南京事件は南京陥落後に中国政府が国際連盟で「南京で2万人の虐殺と数千の暴行があった」と演説したのが最初だが国際社会からは真剣に受け止められず非難決議もなかった。それが東京裁判で30万という数字に一気に飛躍したため一時注目を浴びたが、日中友好ムードであった1970 – 1980年代は全く沈静化していた。しかし、六四天安門事件以降の江沢民政権で大々的に再び宣伝活動に利用され、対日批判プロパガンダのネタとして日本政府から外交上譲歩を引き出すカードとして利用され続けている。」と主張している。また、反日愛国教育により一次資料の公開や検証のないまま大々的に南京大虐殺が喧伝されるようになり、現に南京に建設された大屠殺記念館では30万であるが現在では中国の主張する犠牲者数は40万人以上と10万人も増加しており、年を追うごとに増加する事は異常であり、一次資料の未公開や未検証、写真の捏造問題とも相まって南京大虐殺の信憑性を疑問視する傾向にさらに拍車をかけていると主張している。

虐殺否定論というのは、南京で日本軍兵士の犯罪が一件もなかったとか、中国兵の処刑が一件もなかったという主張ではなく、中国側主張の”軍事行動とは無関係に数十万市民を殺害した”という事件の存在を否定しているのです。それが「虐殺か、合法か」という議論があることは否定するものではありません。戦争状態において中国兵に対する処刑が行われたことについては事実ですから、否定派(まぼろし派~中間派・4-5万説)でこれらをまったくなかった、と否定している研究者はいません。東京裁判での弁護側の主張も、犯罪がまったく無かったという主張ではなく、中国側の主張は過大であり、大部分の事件は中国側の敗残兵が行なったものではないか? という主張をしています。

「慰安婦問題と南京事件の真実を検証する会」は、民主党内の保守系議員連盟。2007年3月に設立。
アメリカ連邦議会の下院で、戦前の慰安婦に対する日本政府の謝罪を求める決議案(アメリカ合衆国下院121号決議”United States House of Representatihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifes proposed House Resolution 121″)が議論されていることに対し、強制連行について「旧日本軍・政府の関与はなかった」という立場から、いわゆる河野官房長官談話の見直しを内閣総理大臣に提言する議員連盟として立ち上げられている。2007年米国ワシントンポストに慰安婦に関する意見広告が掲載されたが、賛同者としてこの会からかなりの人が賛同している。
また、慰安婦問題と共に南京事件に関しても真実の検証を呼びかけており、定期的に勉強会を開いている。南京事件(南京大虐殺)に関するドキュメンタリー映画「南京の真実」にもこの会から多くの賛同者が出ている。

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8.占領支配が消し去った歴史

西尾幹二氏は、私は高校生の頃までに受けた教育で、満州事変以後の日本の暴走という観念を植え付けられてきました。今の子どもたちにも学校の歴史教育でずっと同じ植え付けが行われています。一般読書で読まれている昭和史の類もやはり、戦争の原因を短い時間尺度の中に閉じこめるこの観念で書かれています。

これは明らかに政治的意図がある、と私は考えます。占領政策には日本を二度とアメリカに立ち向かえない国にするという目的がありました。一方的に日本に戦争の罪を着せようとするならば、歴史を短く区切って教えた方がいいに決まっています。なぜならば、遠く長い歴史の繋がりを持ち出すと、欧米諸国が四、五百年前から地球上で起こしてきたさまざまな侵略の考慮に入れなければならくなるからです。
1936年、大東亜戦争が始まる前には、イギリスが支配していた地表面積は27%、ソ連が16%、フランスが9%、アメリカが6.7%で、合わせて58.7%、すなわち地球表面の六割近くもが四ヶ国で占められていました。江戸時代からほとんど変わらない世界情勢が第二次世界大戦まで続いていたのが実態です。

たじまる 現代-1 戦時国際法と戦争犯罪

今ようやく本当の近現代史が生まれつつある

>目次

  1. 戦時国際法と戦争犯罪
  2. 戦勝国は不利な公文書を秘匿する
  3. 欧米のアジア植民地支配
  4. 対日戦に触れるな
  5. 皇国史観という言葉はなかった
  6. 自虐史観と自由主義史観
  7. 侵略国家にされた日本
  8. 補 足

日本においていちばん近い国は、中国・韓国・北朝鮮。同じアジアで漢字を使用し、古来から深く関わりを持ってきた国家ですが、それぞれ歴史感の問題などまだまだ多くの問題があります。

1.戦時国際法と戦争犯罪

人間は長い歴史の中で、国家や民族の利害の衝突から、絶え間なく戦争を繰り返してきました。そこで、戦争のやり方を国際的に取り決めたルールの制約のもとに置こうとする知恵が生まれました。このルールを戦時国際法といいます。1907年にオランダのハーグで締結されたハーグ陸戦法規は、その代表例です。

戦時国際法では、戦闘員以外の民間人を殺傷したり、捕虜となった敵国の兵士を虐待することは、戦争犯罪として禁止されました。一方、軍服を着ていない者に武器を持たせたり戦闘に参加させることは禁じられ、それを捕らえた側にはスパイやゲリラとして処刑することも認められていました。しかし、二つの世界大戦を通じて、これらのルールはしばしば破られました。実際には、戦争で、非武装の人々だけに対する殺害や虐待を一切しなかった国はありませんでした。日本軍も、戦争中に侵攻した地域で、捕虜となった敵国の兵士や非武装の民間人に対しての不当な殺害や虐待をおこなって多大な惨禍を残しています

1.戦勝国は不利な公文書を秘匿する

国際政治学、国際関係史、文明史の中西輝政氏はこのように書いています。
かつて留学した西欧の大学で、指導教官から「現代史というような学問は本当はないのですよ。最低50~60年経たないと大切な資料は出てこないからです。つまりそれは、本当の歴史ではないのです。」と言われたことがあると。とくに、このことは二十世紀の世界大戦や冷戦といった世界史的な出来事についてあてはまると思います。

良く近代史の書き換えということが言われますが、そもそも、まだ本当の意味で「書かれた歴史」というものはないのです。従って「書き換え」ということもあり得ないわけです。少なくとも、二十世紀の戦争や第二次大戦をめぐる歴史は、本当は今ようやく書かれ始めている時期を迎えているのです。

歴史は資料によって書かれるものです。「近現代史」といわれるものについては、その重要な資料は各国の政府が作成した公文書ということになります。しかしどの交戦国の政府も、戦争ではみな当事者ですから、自国に不利になるような文書の公開は可能な限り先に延ばそうとします。先の戦間期のフランスや日本、ドイツのように外国部隊に占領され押収されない限り、容易には自国の国益んい大きなマイナスとなる資料の公開はしないものなのです。

戦勝国というのは、自国に有利な戦後の国際秩序(その中には当然、歴史観も含まれる)を、どれほど必死になって守ろうとするのか、そのためには、いかに手の込んだ工作やトリックを使うものであるか、ということが如実にわかるのです。空爆・原子爆弾投下とシベリア抑留一方、第二次世界大戦末期には、アメリカが東京大空襲をはじめとする日本やドイツの多数の都市への無差別爆撃を行い、広島と長崎には原爆を投下し民間人を無差別に殺しました。また、ソ連は日本の降伏後、日ソ中立条約を破って満州や南樺太および千島列島に侵入し、日本の民間人に対する略奪、暴行、殺害を繰り返しました。そして、日本兵の捕虜を含む約60万人の日本人をシベリアに連行して、苛酷な労働に従事させ、およそ1割を死亡させました。

二つの全体主義の犠牲者

ナチスドイツは、第二次世界大戦中、ユダヤ人の大量虐殺を行いました。これはナチスドイツが国家として計画的に実行した犯罪で、戦争にともなう殺傷ではありません。ナチスはまた、自国の障害者や病人を注射などで薬殺し、ジプシーと呼ばれた移動生活者も大量に殺害しました。しかし、戦前からヨーロッパのどの国でもユダヤ人を迫害していました。日本は日露戦争の際にユダヤ人が高額の戦争資金を調達してくれたこともありますが、ポーランドやシベリアのユダヤ難民を助けています。

共産党の一党独裁体制が確立したスターリン支配下のソ連では、富農撲滅の名のもとに、多数の農民が処刑され、また餓死させられました。共産党の幹部の粛清も繰り返され、多くの政治犯とその家族が強制収容所に送られましたが、ほとんどは生きて戻りませんでした。

二つの世界大戦は各国に大きな被害をもたらしましたが、そればかりでなく、ファシズムと共産主義が、戦争とは異なる国家の犯罪として、膨大な犠牲者を出したことも忘れてはなりません。

3.欧米のアジア植民地支配

高山正之氏(元産経新聞ロサンゼルス支局長など)は、欧米のアジア植民地支配のポイントは愚民化政策だったといいます。知恵は白人のもので植民地の民のものではありませんでした。近代化の目覚めを奪うために、ただ伝統と文化を重んじさせました。インドを支配していたイギリスは、衰退気味だったヒンズー教を復興させ、イスラム系やさらに別シーク派の人たちを同じ政治区分に住まわせることで、四億の民が宗教で対立して争っている限り、団結して宗主国イギリスに抵抗する事態を避けさせました。

しかしヒンズー教の復活はこの宗教が内包するカーストも甦らせてしまいました。李氏朝鮮は両班(ヤンバン)以下四つの身分を据えただけで深刻な停滞を招いた事を考えれば、一口に130といわれるカーストがどれほどインド社会を縛ってきたかは想像に難くありません。同じように地方言語も尊重させた結果、現在の紙幣に16種の言葉が書かれているように、インドは共通の母国語を持つ機会を完全に失ってしまいました。

共通語がなければ国家意識も連帯感も希薄になります。宗教と言語。この二つの分団の結果、イギリスはたった二千人の文官だけで四億人のインドを支配できたのです。オランダが350年支配したインドネシアも共通語を持っていませんでしたが、趣旨は同じです。

しかしインドネシアからオランダを追った日本はジャワ語を共通語に採用し、学校を作ってたった三年で定着させました。共通語が連帯意識と祖国愛を育むことは、終戦後帰ってきた宗主国オランダと四年間も戦い抜き独立を果たした事実によって見事に証明されます。

インドに次いでビルマ(ミャンマー)を支配したイギリスは、単一宗教単一民族の国を国王をインドに追い出して、インド人、華僑を送り込み、山岳民族をキリスト教化して軍、警察など治安機関に据えました。一瞬にして他民族他宗教国に変貌し、この国のビルマ族は農奴にまで落とされました。

フランスの仏領インドシナ(ベトナム)もビルマ式に倣っています。まず皇帝をアルジェリアに流して国民の心の支えを抜き、次ぐに華僑を大量に入れて代理支配させました。イギリスのアヘン貿易をうらやましく感じていたのでアヘン専売公社を設立。ハーグ条約で売買が禁止されても販売を続けました。コーヒーの強制栽培も収益を上げましたが、最大の収入源は徴税でした。人頭税、葬式税、結婚税など思いつく限りの税が課せられ、滞納すれば即刑務所行きでした。そのために「学校よりも多くの刑務所が建てられた」という仏女性記者A・ビオリスの報告書にあります。

アメリカ軍がハワイを占領する際に多くのハワイ国王や原住民を迫害し、日本との戦争が勃発すると強制的に併合しました。アメリカのフィリピン植民地化は経済的搾取を基本とする欧州諸国とは違ってアジア進出の足掛かりという戦略的政治的意図からでした。反対するフィリピン民族軍を徹底的に叩き、拠点であったパタンガスは焼き払われ数万人が餓死しました。米兵が殺された報復にレイテ、サマール両島の住民は皆殺しにされました。イギリスが印度で捕虜でありながら大砲の前に吊して吹き飛ばして見せました。それらは白人に逆らえば残忍な報復があることを植民地の民に刷り込み、恐怖で押さえ込む植民地統治法のひとつです。

そんなアジア諸国の民に大きな衝撃を与えたのが日露戦争だったと、ミャンマーのヤンゴン大タット・タン教授はいいます。

4.対日戦に触れるな

中西輝政氏は、こう記しています。

第二次大戦については戦勝国側の重要資料が、未だ十分に公開されているとはいえません。ソ連崩壊によってこの十年、大戦期のソ連に関する公文書資料がほんの少しですが公開されました。その中からいくつもの驚くべき新事実が明らかになりました。

たとえば1938(昭和13)年の日ソ間で起こった「張鼓峰事件」については明らかにソ連側が仕掛けた戦いで、日本は純然たる被害者だったことが新たに分かったのです。しかし東京裁判では、これも「日本の侵略」として断罪されており関係者の処罰も行われました。また数年前に公開された旧ソ連軍の資料からは、戦後ずっと「日本側の一方的敗北」とされてきたノモンハン事件では、実はソ連側の方がはるかに大きな損害を被っていたことも明らかになりました。

そして言うまでもありませんが、現在の中国はほとんどといってよいほど資料公開をしていません。もし旧ソ連のように中国共産党体制が崩壊したときは、日中戦争についてどれほどの新事実が出てくるか、まだまだ闇の中と言わねばなりません。

情報公開に熱心なはずのアメリカやイギリスについても、ドイツの場合と比べ、なぜか日本が関わる戦争についての資料を、長く秘匿しています。たとえば、1928年の張作霖爆殺事件について、当時のイギリスの資料の中に、ソ連の関与の可能性に触れたものがあるのですが、それさえも2007年まで非公開とされてきました。1979年から90年まで足かけ12年をかけてイギリス政府の特別許可を得て、膨大な非公開文書をもとに書かれた『第二次大戦におけるイギリスの諜報活動』(全五巻)は、ドイツと米英の戦いについては、きわめて多くの新事実を明らかにしていますが、日本に関わるものについてはほとんど触れていません。同書の編集代表であったケンブリッジ大学のヒンズリー教授は、何度も「対日戦については触れてはならない、とアメリカ強く申し入れてきている。アメリカはどうして日本をもっと信用しないのか、私にはわからない」と語っています。

おそらく真珠湾関係の秘密やその他、多くの対日諜報活動が明らかになるのを恐れたのでしょう。しかしなぜ日本に対してだけ、それほど恐れるのか不可解というしかありません。またアメリカ政府は対日占領政策についても未だに大量の文書を非公開扱いにしると言われています。

いずれにしても、今後、日本の近現代史について、戦勝国側の資料公開について日本人はもっと強い関心を向けなければなりません。今ようやく初めて本来の歴史が書かれる時代を迎えており、しかもこの機会を逃すと、永遠に闇に葬られることがずい分多いと思われるからです。

5.皇国史観という言葉はなかった

皇国史観とは、日本の歴史を天皇中心に捉え、万世一系の天皇家が日本に君臨することは神勅に基づく永遠の正義であり、天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値であるとする価値判断を伴った歴史観そうした天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値だとする歴史観。

南北朝時代に南朝の北畠親房の『神皇正統記』がその先駆例とされ、江戸時代の水戸学や国学、幕末の尊王攘夷運動によって思想的・政治的影響力が強まり、明治維新後、政治体制によって正統な歴史観として確立した(現実の天皇家は北朝の流れであり、北朝の天皇の祭祀も行っていた)。

しかし、当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。

しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。このような変化は、神道内においては伊勢派が出雲派を放逐したことと軌を一にする。その後大正デモクラシーの高まりを受けて歴史学にも再び自由な言論が活発になり、マルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版されたが、社会主義運動の高まりと共に統制も強化された。世界恐慌を経て軍国主義が台頭するに及び、昭和10年(1935年)、憲法学者美濃部達吉の天皇機関説が学会では主流であったにも拘らず問題視されて発禁処分となり、昭和15年(1940年)には歴史学者津田左右吉の記紀神話への批判が問題となり著作が発禁処分となった。一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。19世紀末から1945年の終戦まで、学校で用いる歴史教科書は日本神話に始まり天皇家を中心にした出来事を述べ、歴史上の人物や民衆を、皇室に対する順逆によって賞賛あるいは筆誅を加える史観によって記述していた。(国定教科書)戦後は、思想、信条の自由が保障されると、戦前は取り締まりの対象であったマルクス主義の唯物史観が興隆する。これにより、皇国史観下ではタブー視されていた古代史や考古学の研究が大いに進展した。これら戦後の歴史学は一般的に「戦後史学」と呼ばれ、こうした戦後民主主義の流れの中で、皇国史観も衰退することとなった。

ところが、『産経新聞』紙上で連載された「教科書が教えない歴史」の反響から執筆者達によって作られた新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)は戦後民主主義教育について、近代の戦争と植民地支配への反省を過度に強調する歴史教科書は歴史認識を誤認させ、敗戦を節目として神話時代から続いている日本の伝統ある歴史を貶める「自虐史観」(東京裁判史観)または「暗黒史観」であるとして、つくる会による『新しい歴史教科書』が作られた。2001年に文部科学省の教科用図書検定に合格し、2002年から一部の中学校などで使用されている。これは戦時体制下で過度に利用されたが、皇国史観それ自体は極度に否定されるものではなく、長い日本の歴史の歩みの中で国民に継承されてきた伝統、文化的な価値観として肯定的に評価するものである。

6.自虐史観と自由主義史観

自虐史観(じぎゃくしかん)とは、第二次世界大戦後の日本の歴史学界において主流であった歴史観を「自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価する歴史観」であるとの評価を持たせて表現する場合に用いられる呼称である。自由主義史観研究会を主宰した藤岡信勝によって唱えられた。

第二次世界大戦敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による統制の下で、歴史学界や教育界(学校教育の現場、日本教職員組合(日教組)に入っている教師ほか)などでは「なぜ敗戦に至ったのか」という視点から過去への反省がなされ、戦前の日本国民の価値観は徹底的に覆される事になった。アメリカに比べて日本の近代化の遅れ、民主主義の未成熟などが問題とされることが多かった。また、皇国史観が歴史学研究に影響を及ぼし、その発展が阻害されたという反省からマルクス主義の影響を強く受けた歴史研究が主流となった。
しかしその反動が行き過ぎたため、日本の伝統・文化などの世界に誇るべき歴史の再評価の気運が生じ、「新しい歴史教科書をつくる会」などの運動が活発となった。「つくる会」は、日本の誇るべき歴史を貶める歴史認識を「自虐史観」とし、「戦後の歴史教育は日本の歴史の負の面ばかりを強調し過ぎ、あまりにも偏った歴史観を自国民に植え付ける結果となった。」と主張する。「自虐史観教育を受けた結果、自分の国の歴史に誇りを持てない」、「昔の日本は最悪だった」、「日本は反省と謝罪を」という意識を植え付けられ、「いわゆる戦後民主主義教育によって誤った歴史観(自虐史観)が蔓延した」として、「暗黒史観」「土下座教育」の改善を主張している。

これに対して、自由主義史観は、藤岡信勝・東大教授(当時)の唱えた歴史検証法。歴史を動かす要因として「人物」を重視し、「『偉大な人物』が歴史を切り開く」との歴史観に立っている。

7.侵略国家にされた日本

欧米諸国が西から津波のように押し寄せ、アメリカが太平洋を東南から駆け上がってきます。北からはソ連が迫ってきます。そういう直接的な脅威を感じ、断固日本人のサムライの気風が立ち向かったのがわが国の近現代史で、中国大陸との関係も満州事変以後というような短い時間尺度で見るべきではないでしょう。清朝の時代は、中国史の中でも比較的に良い時代なのですが、それでも内乱と疫病、森の消滅と巨大水害、いなごの害など数千万単位の餓死者を出し続けた不幸な国土でした。強盗団がはびこる無法社会で、幕府治世下の法治国家を生きていた日本人が明治になっていきなり接触するにはあまりに放埒すぎました。人類史上最大の内乱といわれる太平天国の乱は十~十五年も続き、人口四億のうち五千万から八千万もの死者が出ました。中華民国になってからも内乱はやみません。中国はそのころまだ国家ではないのです。

中国の内乱に介入すべきではありませんでした。清朝末期から国民党と中国共産党の殺し合いを経て、文化大革命に至るまで内乱の連続で、皇帝や政権が代わるたびに何百万人を虐殺してきた歴史があり、最近でもチベット、ウイグル、内モンゴルなど、統一といって侵略によって民族を抹殺してきた歴史があり、天安門事件や農村での土地問題によって自国民でさえも民主化運動や共産党の意に添わない者は虐殺を繰り返しています。日本の文明とは異質な大陸の長い歴史に、過去のほんの一時期巻き込まれたに過ぎないのです。

ちょうど同時期に、ドイツとの戦争を始めたソ連とイギリスはそれぞれ異なる動機から、大陸に介入した日本の戦火の拡大を期待し、謀略の限りを尽くします。ソ連は日本の北進を防ぐ必要がありました。イギリスは欧州戦線にアメリカを引き込むために、中国に好意と野心を持つアメリカの反日感情を可能な限り刺激する必要がありました。イギリスとアメリカは連合して蒋介石を支援し、ソ連はルーズベルト政権の中枢にコミンテルンのスパイを送り込むことに成功しました。それらに対して日本の政治と外交の受け身の弱さでした。国際政治の修羅場で国益を守るため粘り腰でしたたかに自己主張する強さの欠如です。

満州事変以後、日本が大陸で展開したとされる国家悪など、世界史的に見れば何ほどのことでもありませんが、戦前に「侵略」という文字は欧米にのみ与えられていました。例えば『英国の世界侵略史』『白人の南洋侵略史』『米国東亜侵略史』『露西亜帝国満州侵略史』『米英東亜侵略史』『印度侵略非史』『西洋文化の支那侵略史』など数え切れぬ本がGHQによって没収、廃棄処分(焚書)されてしまいましたが、これらを見れば欧米諸国が「侵略」した側であって、それ以外ではありません。ところがいつのまにか侵略したのは日本だということにされてしまっています。

「侵略」や「天皇制」「皇国史観」も戦前は使われていません。「天皇制」はコミンテルンの指令書に出てくる「君主制」の訳語で、打倒のための革命用語が戦後に流布したものだそうです。戦前の日本人はこんな冷たく無礼な言葉を用いるはずがなく、「皇室」といっていました。戦後の占領支配は戦前まであった日本人の世界史を長い時間で計る目を消し去りました。日露戦争後に日本が取り込まれた英米の金融資本主義の罠、ユダヤ人の暗躍、コミンテルンの陰謀など。これらすべてを歴史として描くべきです。近現代史を、日本の軍部の行動と国内政治だけを描くような歴史なら子どもたちにむしろ教えない方がよいと思います。一方の資料だけを見て、本当の意味が分かるはずはないのです。

8.補 足

アジア圏は欧米諸国に植民地化されていた歴史を持ち、日本がこの体制を解放する立場なのか、それとも新たな支配者として居座ることを目差したものかという、相反する見方があるのは当然です。

たとえば、台湾現総督の馬英九氏は、国民党主席就任後の2005年8月には、「南京大虐殺や尖閣諸島での日本の言動は、大陸、台湾双方の人々の心を逆なでする」、「国民党は将来、尖閣諸島の問題解決に注力する。私は尖閣諸島についての専門的知識を持っている」 と発言し、また、日本の植民地統治にも厳しい態度をとっています。
しかし、総統候補になってからは、「許せるが、歴史は忘れない」、日本を訪問した2007年11月21日、同志社大学での講演では「19世紀、20世紀の亡霊はもう過去のことだ」、「過去は白と黒以外にグレーもある」などと述べるなど、日台関係を強化する必要を強調しました。また、2006年には一度否定的な意見を述べた日米安保条約も支持すると立場を転換させました。

われわれは、歴史のなかで過去を葬り消すことはできないし、客観的な史実と研究を行いつつ、国家のために政治的に利用するのではなく、学びながら相互の発展につなげていかなければならないと思います。引用:『靖国問題と中国』岡崎久彦引用:『中国・韓国反日歴史教育の暴走』黄文雄(台湾出身。早稲田大学商学部卒、明治大学大学院卒、拓殖大学日本文化研究所客員教授、評論家)

参考:『日本人の歴史教科書』自由社出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』