第5回 姫路城の作事 

姫路城の作事

■作事(さくじ)とは

天守や櫓、門、御殿など建築工事及びその工事に付帯的な作業

・天守・櫓を上げる
・城門をつくる
・土塀を掛ける
・御殿を建てる
・土蔵、番所、馬屋を立てる

1.姫路城天守

・連立式天守
・白漆喰総塗籠
・後期望楼型天守
(大天守各層の理想的な逓減率)
・破風(はふ)と懸魚(げぎょ)の巧みな配合
・大通柱工法(大天守)

1)窓

■格子窓
・八角形の格子 漆喰塗
・土戸 外側漆喰塗・引き戸
・明障子・排水管(鉄製)
・柱を挟んで半間ごと

■華頭窓
・黒漆塗り、金属金具(乾・西小天守)

■鉄格子窓

■出格子窓

八角形の格子

2.大天守内部

■東大柱:樅の一本材 一部根継(檜)

■西大柱:3階床部分で2本継

・檜材(上部)・・・笠形神社(樹齢650年)
・檜材(下部)・・・木曽国有林(樹齢765年)


江戸時代の西大柱

3.小天守

■東小天守

3重 地上2階、地下1階
簡素な造り

■乾小天守

3重 地上4階、地下1階

■西小天守

3重 地上3階、地下2階

4.渡櫓と台所

■イ・ロ・ハの渡櫓 地上2階・地下1階
■ニの渡櫓 2重櫓門・水の御門
■渡櫓地下に籠城のための物資(塩・米)貯蔵
■台所と大天守地階、ロの渡櫓1階に出入口

5.櫓

■櫓とは

矢倉・矢蔵 弓矢を収納する倉庫、武器庫
矢の坐(くら) 弓矢を射る場所、陣地

■櫓の名称

・多聞櫓、渡櫓、付櫓
・平櫓、二重櫓、三重櫓
・鉄砲櫓、弓櫓、太鼓櫓、月見櫓など

■姫路城の櫓

27棟(重要文化財)
全国109棟現存の内、27棟

・櫓座敷(化粧櫓・帯の櫓)や武者櫓(帯郭櫓)を備える櫓
・櫓形式の井戸(ロの櫓、井郭櫓)
・長大な多聞櫓(西の丸櫓群)、二重の多聞櫓(りの一渡櫓)
・極端な変形平面を持つ櫓群(北腰曲輪櫓群)
・穴倉式(りのニ渡櫓・折廻り櫓)、半地下式(帯郭櫓)の櫓
・菱形の櫓(トの櫓)
・防御と華やかな雰囲気を合わせ持つ櫓(西の丸櫓群)

第4回 2.姫路城の普請 石垣

[catlist categorypage=”yes”] 2.姫路城の石垣

三つの異なる石積み形式

1)羽柴時代(野面積み)
2)池田時代(打込接ぎ)
3)本多時代(打込接ぎ・一部切込接ぎ)

秀吉時代の野面積み 上山里


秀吉時代(右)と池田時代の石組み(左) 二の丸
武蔵野御殿池護岸石垣


算木積み 扇の勾配(二の丸隅部)


打込接ぎ 武蔵野御殿池護岸石垣


人面石 ぬノ門前

第4回 姫路城の縄張り・普請

Ⅰ.選地

築城は四要素 選地・縄張・普請・作事

1。選地

城をどこに置くか
-城の防御と領国経営の要諦

山 城    →  平山城・平城
(防御主体)  (領国経営主体)

姫路城は、理想的な選地

・三方を山に囲まれ
・市川・夢前川が流れる平野の中央
・交通の要衝に恵まれた地

姫山と鷺山の高低差を生かした平山城

【四神相応】
中国儒書『礼記』(らいき)…都城の理想的な選地

(姫路城)  (平安京)
■東 青龍 <流水>  市川     鴨川

■南 朱雀 <窪地>  瀬戸内海   巨椋池

■西 白虎 <大道>  山陽道    山陽道

■北 玄武 <丘陵>  広嶺山系   船岡山

2.縄張

築城における曲輪や建物の配置、計画、城下町の地割すなわち築城の総合的な計画・設計

■縄張のタイプ

・輪郭式・・・大坂城、駿府城など
・梯郭式・・・岡山城、熊本城、萩城など
・連郭式・・・彦根城、水戸城など

■姫路城の縄張(全体)

・らせん状(左巻き)に三重の堀
・三つの曲輪
内曲輪(内堀内)・・・城郭と居館
中曲輪(中掘内)・・・侍屋敷
外曲輪(外堀内)・・・町家、寺町、侍、組屋敷

・総構えの縄張
城と城下町全体を土塁と堀で囲んだ縄張

■姫路城の縄張(内曲輪)

・二つのタイプの縄張が共存
姫山・・・小さな曲輪・ひな壇状に集合 迷路のように複雑に分かれた古いタイプの縄張(秀吉時代の曲輪利用)
鷺山・・・一つの大きな曲輪(西の丸)

Ⅱ.普請(ふしん)

■普請とは・・・築城における土木工事または土木工事を伴う建築工事

・石垣  石垣を築く
・堀   堀をうがつ
・土塁  土塁を盛る

第3回 姫路城の歴史と人物

[catlist categorypage=”yes”] 姫路城の歴史を人物でたどる。

1.最初の築城説

赤松貞範築城説と黒田重隆築城説がある。

■赤松貞範築城説
『赤松播磨録』(延享4年(1747))
『播磨鑑』(宝暦12年(1762))典拠
貞和2年(1346)築城の根拠…正明寺板碑

■黒田重隆・職隆(もとたか)築城説
天文24年(1555)から永禄4年(1561)の間
根拠…姫道御構(ひめじおんかまえ)の存在確認
(姫道村助太夫の畠地売券(正明寺文書))
※永禄4年(1561)12月に、姫道村助太夫が、母屋藤兵衛尉に畠地を直銭弐貫七百文で売った。土地の場所は「姫道御構東門之口、妙楽寺の西」にあったという。

2.中世の姫路城  ※「姫路城史」橋本政次著説

■1代 初代城主 赤松貞範(貞和2年(1346))
-その後、貞範が庄山城へ(1349)

■2~5代 第一次小寺氏
頼季(よりすえ)-景治ー景重-職治(もとはる)
-貞和5年(1349)~嘉吉元年(1419)

■6代 山名持豊(宗全) 嘉吉の変後赤松氏滅亡後、播磨守護職として姫路城主 嘉吉元年(1441)

■7代 赤松政則 赤松宗家を再興し、姫路城主に 応仁元年(1467)
-その後置塩城へ(文明元年(1469))

■8~10代 第2次小寺氏
小寺豊職(とよもと) 文明元年(1469) 応仁の乱に遭遇
小寺政隆     延徳三年(1491) 御着城を築く
小寺則職(のりもと) 永正16年(1519) 御着城主に転ず

■11代 八代道慶(小寺家家老)姫路城を預かる
享禄4年(1531)~天文14年(1545)

——————————————-

■12~14代 黒田氏三代(約35年間)
小寺氏家臣であった黒田重隆 小寺氏の命により、御着城から姫路城へ移る。
重隆によって居館程度の規模であった姫路城の修築がある程度行われ、姫山の地形を生かした中世城郭となったと考えられている。

12 黒田重隆 天文14年(1545)
-職隆 永禄7年(1564)
-孫の孝高(官兵衛、如水) 永禄10年

・天正8年(1580)
黒田孝高 秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言し、国府山城へ移る。

■15~17代 秀吉三代(約20年)

・天正5年(1577) 羽柴秀吉 播磨へ侵攻
天正8年(1580)秀吉 播磨平定
天正9年(1581)三重の天守完成

・天正11年(1583)羽柴秀長
・天正13年(1585)木下家定

3.近世の姫路城

■18~20代 池田氏三代(約17年)

・慶長5年(1600)
池田輝政 三河吉田15万2千石から関ヶ原の戦いの戦功により52万石に加増入封
三木、明石、平福、龍野、赤穂、高砂に支城

・慶長6年(1601)~慶長14年(1609)
白亜の姫路城築造 総構えの城下町
8年掛けた大改修で広大な城郭を築いた。
普請奉行 池田家家老伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛
作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人 – 5千万人であろうと推定されている。

・慶長5年(1600) 池田輝政
・慶長18年(1614) 池田利隆
・元和2年(1616年)池田光政 →元和3年(1617)因幡鳥取へ転封

4.譜代・親藩大名の入・転封

■21~23代 本多家三代(第一次本多氏22年間)

・元和3年(1617) 本多忠政 伊勢桑名10万石から15万石に加増され入城
・元和4年(1618) 千姫が本多忠刻に嫁いだのを機に西の丸造営、御殿群築造

本多忠政-政朝-正勝 寛永16年(1639)大和郡山へ

■24・25代 奥平松平家 忠明 寛永16年(1639)大和郡山より
忠弘 正保元年(1644)出羽山形へ

■26・27代 越前松平家(結城) 直基 慶安元年(1648)出羽山形より
直矩 慶安元年(1648)越後村上へ

■28・29代 榊原家 忠次 慶安2年(1649)陸奥白河より
政房 寛文5年(1648)

■30代 再度越前松平家 直矩 豊後日田へ

■31・32代 再度本多家 忠国 天和2年(1682)陸奥福島より
忠孝 宝永元年(1704)越後村上へ

■33~36代 再度榊原家 政邦 宝永元年(1704)越後村上より
政祐 享保11年(1726)
政岺(まさみね) 享保17年(1732)
政永 寛保元年(1735)越後高田へ

■37・38代 再々度越前松平家 明矩(あきのり) 陸奥白河より
朝矩(とものり) 上野前橋へ

■39~48代 酒井家十代

39 酒井忠恭(ただずみ) 寛延2年(1749)松平朝矩と入れ替わり前橋城より入城する。
40 酒井忠以(ただざね) 安永元年(1772)
41 酒井忠道(ただひろ) 寛政2年(1790)
42 酒井忠実(ただみつ) 文化11年(1814)
43 酒井忠学(ただのり) 天保6年(1835)
44 酒井忠宝(ただとみ) 弘化元年(1844)
45 酒井忠顕(ただてる) 嘉永6年(1853)
46 酒井忠績(ただしげ) 万延元年(1860)
47 酒井忠惇(ただとう) 慶応3年(1867)
48 酒井忠邦(ただくに) 明治元年(1868)

第2回 城郭の歴史と姫路城

姫路城築造には、赤松貞範築城説と黒田重隆築城説がある(後に記述する)。

1.戦国時代の姫路城■天文14年(1545)
黒田重隆、小寺氏の命により御着城から姫路城に移る(御着城の出城(支城)としての姫路城)■永禄4年(1561)
黒田重隆・職隆、城を改修する永禄4年12月・「姫路御構」の存在確認■天正8年(1580)
黒田孝高(官兵衛)、羽柴秀吉に姫路城を勧める
(黒田職隆・孝高父子は、妻鹿国府山城へ)2.羽柴秀吉

姫路城築城

三重の天守築造 天正9年(1581)
中国攻めの拠点としての姫路城…『豊鑑』『播磨鑑』

拙者付記 但馬征伐もおこなう

3.築城最盛期の築城(池田輝政の大改修)

■慶長6年(1601)~14年(1609)
池田輝政が白亜の姫路城を完成(播磨の国主を誇示する姫路城)
・連立式天守構造
5重7階(地上6階・地下1階)の大天守
東・乾・西小天守をイロハニの渡櫓
・総構えの城下町造営

4.姫路城・総構えの城下町

  
■らせん状に三重の堀
■三つの曲輪
・内曲輪(内堀内)…城郭と居館
・中曲輪(中掘内)…侍屋敷
・外曲輪(外堀内)…町家、寺町、侍屋敷・組屋敷

■総構え…城と城下町全体を堀と土塁で囲む
■山陽道を城下町に引き込む

5.武家諸法度下の築城

■本多忠政の御殿築造
元和4年(1618)
西国の藩鎮、西国探題職、幕府を守る姫路城
・西の丸櫓群、中書丸御殿
・御殿群構造
居城(本城)、武蔵野御殿、向屋敷、樹木屋敷(西屋敷)、東屋敷築造

「姫路侍屋敷図」姫路市立城郭研究室蔵

第1回 城郭の歴史(古代山城、中世城館、近世城郭)

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※放送大学兵庫学習センター(姫路)第2学期面接授業
「城郭の歴史と姫路城を学ぶ」

1.城郭とは?

■「城」とは、
「土に成る」
地面を掘り、土を盛って囲った区画

■「郭」とは、
「囲いのある所」
「物の外まわり」

『古事記』…「稲城(いなぎ)」、『日本書紀』…「城(き)」

2.城郭の主な系譜

■古代山城
7世紀後期(飛鳥時代末期)約30
■中世城館
13世紀~16世紀
(鎌倉・南北朝・室町時代)
約40,000
■近世城郭
16世紀後期~19世紀(桃山・江戸時代)
約200~300

3.その他の城郭

■都城…外郭ラインに城壁は築かれず、築地塀や区画溝で囲む
7世紀~8世紀はじまり
藤原京、平城京など

■城柵…古代朝廷の東北地方計略の拠点 8世紀
多賀城、秋田城、志波城など

■チャシ…物見や祭祀の場としても利用されたアイヌの砦

■グスク…琉球(沖縄)で地方領主が地域支配のために築く 14世紀
中城城、勝連城、今帰仁城など

4.古代山城 7世紀後期

■朝鮮式山城
大野城、基肄(きい)城、屋島城、高安城、金田城など6城

■神籠石系山城
城山城、鬼ノ城、大廻小廻山城、石城山城、高良山城、女山城、雷山城など

西日本中心に30ヶ所があるといわれ、現在23ヶ所確認

5.中世城館 13世紀~16世紀(鎌倉・南北朝・室町時代)

■在地領主(土豪や国人など)による私的な城
■山上には詰めの城、普段は麓の居館に居住
■居館
方形、周囲に土塁・堀
■詰城
山上の尾根伝いに段々畑状の小さな曲輪を連ね、要所に空堀や土塁を配置
堀切(尾根を切断)、堅堀(山の斜面を竪に区画)、切岸など

詰城例…浅井氏小谷城、北条氏小田原城、尼子氏月山冨田城、六角氏観音寺城、毛利氏吉田郡山城、上杉氏春日山城など
居館例…足利氏館、一乗谷朝倉氏館など

6.近世城郭 16世紀後期~19世紀(桃山・江戸時代)

■安土城築城(織田信長)天正4年(1576)
・天主を持つ城(5重7階)…熱田の宮大工、岡部友右衛門
・総石垣の城…穴太衆の存在
・瓦の使用(金箔瓦)…奈良の瓦工集団
・御殿の築造
・城下町の出現(楽市・楽座)

7.豊臣秀吉の天下統一(天正18年(1590))

■近世城郭は全国に普及
秀吉配下の大名たちが大城郭を築造
・羽柴秀長 大和郡山城 天正13年(1585)
・毛利輝元 広島城 天正17年(1589)
・宇喜多秀家 岡山城 天正18年(1590)

■秀吉による天下普請
・大坂城  天正11年(1583)
・聚楽第  天正14年(1586)
・肥前名護屋城 天正19年(1591)
・伏見城 文禄元年(1592)

8.築城ラッシュ(慶長の築城最盛期)

■関ヶ原の戦い(慶長5年(1600))の後
・大名たちの全国的な配置換え

■加増された広大な領地を与えられた外様大名たち
(中国・四国・九州中心)

・加増に見合う大城郭を新築・大改修

■一方、徳川幕府は、外様大名たちを動員して天下普請の城を築造
(豊臣包囲網・外様大名の財力消耗)

9.築城最盛期の城

■外様大名による築城
熊本城(加藤清正)、福岡城(黒田孝高・長政)
小倉城(細川忠興)、伊予松山城(加藤嘉明)
高知城(山内一豊)、萩城(毛利輝元)
松江城(堀尾吉晴)、津山城(森忠政)
姫路城(池田輝政)、伊賀上野城(藤堂高虎)
仙台城(伊達政宗)など

■徳川家康による天下普請
彦根城、江戸城、駿府城、篠山城、名古屋城
丹波亀山城(再築)、高田城、伏見城(再築)など

10.幕府による城の規制

■大坂の陣(慶長20年(1615))後の幕藩体制の強化

・一国一城令(元和元年(1615)6月)
一つの国に一つだけの城を認め他は廃止

・武家御法度(元和元年(1615)7月)
「諸国の居城、修復を為すと言えども必ず言上すべし、況んや新儀の構営、堅く停止せしむる事」
・居城修復に事前に幕府に届け、許可を受ける
・新城の築城や修復以外の新たな工事は一切禁止

11.天守代用櫓と天主がない城

■天守代用櫓(御三階櫓)…新発田城、丸亀城

■天守台はあるが天主がない城…赤穂城、篠山城

12.城の規制下での築城

■幕府の政略上
・明石城 小笠原忠真 元和3年(1617)
・福山城 水野勝成 元和6年(1620)

■幕府の天下普請
・徳川大坂城再築 元和6年、寛永元年、5年(1628)
・二条城     寛永元年(1624)

■外様大名の転封による
・赤穂城 浅野長直 慶安元年(1648)
・丸亀城再築 山崎家治 寛永19年(1642)

13.幕末の築城

■海防の強化
・新城の築城(砲台を設置)
福山(松前)城 松前崇広 嘉永2年(1849)
石田城  五島盛正 嘉永2年( 〃)

■様式築城
・五稜郭 安政4年(1857)

■砲台
・品川台場、和田岬砲台

14.明治維新後の城郭

■存城・廃城令 太政官布達 明治6年(1873)1月14日

全国の城郭に対し、「存続」と「廃城」の線引き
旧城郭の管轄の二分化

存城・・・56城(姫路城、名古屋城など)陸軍省の管轄
廃城・・・190の城・陣屋など 大蔵省の管轄

世界遺産 姫路城の歴史と見学

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12月3・4日 放送大学面接授業において、平成の大修理が行われている国宝姫路城を見学してきた。

城郭の歴史と姫路城を学ぶ
兵庫学習センター(姫路)

授業内容

長い築上の歴史の中で、現存最大、また芸術上も最高傑作と言われ世界遺産にも登録された姫路城が何故建てられたのか。その歴史的背景を探るほか、現地見学を交えながら姫路城の縄張りや普請(石垣、堀、土塁)、作事(天守、櫓、門等)、歴史や人物など姫路城の構造や歴史を学び、また、平成の大修理を踏まえ遺産を守る大切さも学ぶ。

【授業テーマ】

第1回 城郭の歴史(古代山城、中世城館、近世城郭)
第2回 城郭の歴史と姫路城
第3回 姫路城の歴史と人物
第4回 姫路城の縄張り・普請(石垣、堀、土塁など)
第5回 姫路城の作事(天守、櫓、門、御殿など)
第6回 世界遺産姫路城を守る(姫路城修理の系譜と平成の大修理の概要)
第7・8回 姫路城見学

名神大 水谷神社の元の位置をさぐる

筑紫紀行は、尾張の商人、菱屋平七(別名吉田重房)が、伯父の商家「菱屋」を継ぎ40歳で楽隠居となり江戸から九州まで広く旅を楽しんだ。この紀行は享和2年(1802)3月名古屋を出て京・大坂を経由して九州長崎を旅したときの記録である。当時の旅行記として出版され、明治にも多く読まれていたようである。但馬の江戸享和期のようすが克明に記されているので興味深い。

筑紫紀行巻之九

「大川の岸を通りて二十軒計(ほど)行けば養父の宿。(高田より是まで二十五丁)人家二百軒ほど。商家大きなる造酒屋茶屋宿屋おほし。宿もよき宿多し。町の中通に溝川有り。町をはなれるは。道の両側松の並木のあるべき所に。桑をひとし植え並べたり一丁ばかり行けば左の方に水谷大明神の宮あり。これは神名帳に但馬国養父郡水谷神社とある御社か。坂を登りて随身門のあるより入りて拝す。

門は草葺き(かやぶき)、拝殿本社は檜皮葺き(ひはだぶき)なり。左の方にお猫さまの社とて小さき宮あり。宮の下なる小石をとり帰りて家に置く時は鼠を僻といふ。又しばし行きて五社明神の御社なり。是は神名帳に但馬国養父郡夜父座神社五座とある神社なるべし。

今は藪崎大明神と申すなり。また一丁ほど奥の方に。山の口の社といふあり。是は狼を神に祭る御社なりといへり。

「玄松子の記憶」さんによれば、「昔は禰高山山頂に上社、中腹に中社、麓の現在地に下社があったらしい。禰高山は、一名、水谷山とも称し、当社も、養父水谷大明神とも、水谷大社とも呼ばれていた。ただし、当地の式内社に水谷神社という名神大社が存在しており、当社との混同も考えられる。」

江戸の当時、一町(丁)は約109.09mであるから、養父の町を離れて松並木を通り、桑畑を一丁(約109.09m)ばかり行けば、左手に水谷神社の宮あり(神名帳にある当社か)。

またしばらく歩いて五社明神、これは神名帳の夜父座神社五座である。今は藪崎大明神という。また109mほど奥に山の口社あり、とある。今も養父神社の奥に山之口神社があるから、夜父座神社五座(養父神社)は移動していない。とすれば、養父市場から水谷神社まで約109.09m、さらに水谷神社から約109.09mに養父神社があることになるから、養父市場と養父神社のちょうど真ん中に水谷神社が存在していたことになるのだ。とすれば、江戸時代のこの水谷神社は、奥米地の同名の式内社水谷神社ではなく奥米地に遷座されたのではないだろうか。時代によって神社が遷った例は多い。

この時代には養父市場から109mほど歩いて左手に水谷神社の宮があったのは間違いない。が、筆者も養父神社は断定しているのにこの水谷大明神の宮が神名帳にあるその神社かわからないがとしている。

この水谷大明神の宮の坂を登りて随身門、門は草葺き、拝殿本社は檜皮葺きなり。左の方にお猫さまの小さき社。この神社が奥米地の水谷神社の分社であれば、奥米地の同名社よりご立派な社を建てるとは考えにくい。もちろん現在のまた養父神社後方の禰高山は、一名、水谷山とも称し、養父神社も、養父水谷大明神とも、水谷大社とも呼ばれていたという。

実際に養父市場の町はずれを今の大藪口バス停とすると、養父神社がある地点までは約500m。右手は大川の円山川、左手は山の斜面が続き、坂を登るとあるが、とてもそこそこの境内をもつ神社が建てられるべき余地も痕跡もないのだ。養父市場内には三柱神社があるが、町を離れて109mほど歩いて左手に水谷神社の宮と書いてあるし、この社は式内社ではないので違う。

養父郡は「和妙抄」では、糸井、石禾(いさわ)、養父、軽部、建屋、三方、大屋、遠佐(おさ)、浅間、養耆(やぎ)の10をあげる。

ちなみに養父を知らない人でやぶと読める人はいない。『播磨国風土記』は万葉仮名で夜父(ヤフ)と書いてある。大事なのは音だ。ヤフは、今風に発音すれば「よう」なのだ。太古はヤフと発音していたから夜父をかなとして充てていた。平安にかなが使われるようになり、漢字本来の意味を充てるようになって養を充てたのであろう。遠佐郷八鹿村もヤオカと発音し、屋岡神社(八鹿町八鹿)。現代かな使いまでは「やうか」と書いてようかと発音していた。養父の岡ならヤオカで意味が通じる。養耆(八木)は養父の端の意味ではないかという気がしてくる。

養父郡は日下部系図によれば、孝徳天皇第二の皇子表米王が、異族退治の勲功により養父郡の大領をさずかったとある。江戸期までは養父(市場)は二百軒あったというから、養父郡内はもとより、大名領の豊岡、出石の城下を除けば但馬一の町だ。

延喜式神名帳では、養父郡三十座 大 三座 小二十七座。
式内社・夜夫坐神社五座のうち二座が名神大、三座が小社。
(あとの大社は水谷神社)

今の御祭神は倉稻魂命 大己貴命 少彦名命 谿羽道主命 船帆足尼命
五柱の神々を祀っているが、

『但馬考』では、
上社大己貴尊、中社倉稲魂尊・少彦名命、下社谿羽道主命・船帆足尼命
『養父郡誌』では、
上社保食神・五十猛命、中社少彦名命、下社谿羽道主命・船帆足尼命。
『特撰神名蝶』では、
大己貴命、四座不詳とあり、
『兵庫県神社誌』には、
倉稻魂命、五十猛命、少彦名命、谿羽道主命、船帆足尼命。

大己貴命(葦原志許乎命)が祭神であるとする理由は、『播磨国風土記』宍禾郡の記載にある、御方(御形)のの地名の由来の以下の記述。

天日槍命と葦原志許乎命が、黒土の志爾嵩に至り
おのおの黒葛を三条(みかた)を投げて支配地を決定した。
天日槍命の投げた三条は、すべて伊都志(出石)に落ちた。
葦原志許乎命の投げた黒葛は、
一条が但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、
そして、最後の一条が御方に落ちたため、
三条(みかた:御方・御形)という地名となった。

天日槍命の投げた黒葛が出石に落ち、天日槍命を祭神とする出石神社があるように、また、気多郡に葦原志許乎命を祀る気多神社が鎮座するように
御方にも葦原志許乎命を祀る御方神社が鎮座するように養父郡にも、大己貴命を祀る当社・養父神社が存在するという。

禰高山山頂は一名、水谷山とも称したから、上社大己貴尊が水谷神社で別の道が手前にあった、下社がさらに109mほど街道を藪崎方面に行った養父神社の位置と考える。

江戸享和2年(1802)の旅行記だから、少なくとも水谷神社は禰高山山頂近くにあった。とすれば、なにも礎石や柱後など痕跡が残らないはずはない。養父神社がある谷はこの近辺ではここだけが随分と奥深いようだ。今後とも発掘調査に期待したい。

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因幡國八上郡の式内社

延喜式神名帳には、現在の鳥取県東部である因幡國には50座が記されており、そのうち大社1、小社49である。座というのは御祭神のことで1つの神社に主祭神が2座3座祀られている社もあり神社数ではない。但馬一宮出石神社など、伊豆志坐神社8座(並名神大)(出石神社)、夜夫坐神社5座(名神大2座、小3座)養父神社)と記されている例もある。

延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)とは、延長5年(927年)にまとめられた律令や格の細則『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」とされていた平安京が定めた日本最古の社格でそれを与えられた全国の神社一覧である。

「式内社 ○○神社」と書かれているのは、延喜式神名帳の小社を表す。式内大社はとくに「名神大」と記される。

山陰道神 560座 大 37座(就中一座月次新嘗。)小 523座で、式内社の数では、出雲187座、但馬131座、丹波:71座、丹後:65座、因幡:50座、石見:34座、隠岐:16座、伯耆:6座となっている。

因幡國:50座 大1小49。その郡別は、

・巨濃郡[コノ]:9座並小 (今の岩美郡)
・法美郡[ハフミ]:9座大1小8 (今の鳥取市千代川東岸部)
八上郡[ヤカム]:19座並小 (今の八頭郡)
・邑美郡[オフミ]:1座小  (今の鳥取市南部)
・高草郡[タカクサ]:7座並小 氣多郡に併合して消滅し気高郡になった。(今の鳥取市千代川西部)
・氣多郡[ケタミ]:5座並小 高草郡と合併して気高郡になった。(旧気高郡青谷町・鹿野町・気高町今の鳥取市西部)

因幡國のうち、八上(ヤカム)郡は今の八頭郡で鳥取県南東部にあたり、19座並小となっており、因幡国式内社50座の約4割弱にあたる19座が旧八上郡にある。

八上郡とは律令制度の古代因幡國の郡名で、『和名抄』には若桜、丹比(たじひ)、刑部(おさかべ)、亘理(わたり)、日部(くさかべ)、私部(きさいべ・きさいちべ)、土師(はじ)、大江(おえ)、散岐(さぬき)、佐井、石田、曳田(ひけた)の12が記されており、因幡国内で最大規模の郡であった。

以上のように、八上郡は群を抜いて式内社が多い。

また日本海よりも内陸部の八上郡が式内社が多いと言うことは、都(朝廷)からみてそのころの勢力図がどうだったのかといえば、大国主を祀る神社の代表は出雲大社(島根県出雲市)で、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされる能登国一宮気多大社(大己貴神)や、国作大己貴神が円山川を切り開いて沼を開墾したと祀られる小田井神社(豊岡市)など、沿岸部は出雲を筆頭に石見、伯耆、因幡北部、但馬、丹後、若狭、越前、能登、越中の日本海沿岸部は出雲系のスサノオ(素戔男尊)、オオナムチ(大己貴神・大国主の若い頃の名前、『日本書紀』本文によるとスサノオの息子)、オオクニヌシ(大国主)や別称の葦原色許男神をそのまま祭神とする神社が多い。

そうした日本海沿岸一帯は出雲国家連合のような勢力圏が成立していてヤマト朝廷に併合されていったようである。

神社の特性として、勧請システム(他地域に引っ張ってくる)により、信仰エリアの拡大を図っていることから、オリジナルの神社が強いエリアというのは、逆に、他の信仰が入りにくいのではと考えることもできます。それは、神社が多い地域にも同様の事が伺え、新潟県、兵庫県、愛知県、福岡県といった米所として有名な産業地域若しくは、交易の中心地といった文化よりも産業発展が著しい地域の方がその数が多いという傾向を強めております。それは、こうした土地が、人と情報の流動性が激しいことの表れとみることも可能ではないかと考えられるのです。

ただ、これもあくまで指標のひとつに過ぎないので、先ずは、皆さんのご協力の元、神社人でも、こうした神社情報の体系化を進め、究極の日本の文化・歴史マップの完成に臨みたいと思っております。(神社人より)

八上郡といえば売沼神社の八上比売(八上姫)だ。式内社ではないが八頭郡には各所に八上比売の神社が大変多い。

オオクニヌシ(大国主)が因幡のヤガミヒメ(八上比売)を娶る、新羅の王子アメノヒボコ(天日槍)が但馬でアカルヒメ(阿加流比売神)を娶り但馬に住む、日本書紀においてはアカルヒメ(阿加流比売神)が結婚したのはアメノヒボコでなく、意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とされている若狭・越前一宮気比神宮と似た神話や日本書紀に記されているのも偶然ではないだろう。全く作り話なら同じような伝承が偶然にしても残るはずはないからだ。

大江神社三座「大己貴命、天穗日命、三穗津姫命」(八頭郡八頭町橋本)
都波只知上神社二座「素盞嗚尊、櫛名田比賣命」(鳥取市河原町佐貫)
塩野上神社二座「彦火火出見命、鹽土老翁」(八頭郡八頭町塩上)
都波奈弥神社二座「素盞嗚尊、櫛名田比賣命」(鳥取市河原町和奈見)
伊蘇乃佐只神社二座「神直毘神、大直毘神」(八頭郡八頭町安井宿)
多加牟久神社二座「大己貴神、事代主神」(鳥取市河原町本鹿)
意非神社「天饒日尊」(八頭郡若桜町屋堂羅)
売沼神社「八上比賣神」(鳥取市河原町曳田)
和多理神社「左留陀比古神」(八頭郡八頭町郡家殿)
久多美神社「伊弉諾尊、伊弉册尊 配 鹽土老翁」(鳥取市河原町谷一木)
布留多知神社「素盞嗚尊」(八頭郡八頭町重枝)
美幣沼神社「太玉命 合 瀬織津姫神、保食神」(八頭郡八頭町篠波)

平安時代末期に同郡東部が八東郡として分離し、『和名抄』にみえる土師、大江、散岐、佐井、石田、曳田の6が中世以降の八上郡を構成した。

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神社拾遺