但馬の中世武家社会の台頭と但馬守護

奈良時代の律令制からにおける地方行政組織である国司・郡司などは、平安時代末期の平治政権から、武家政権(幕府)である鎌倉時代には無実化し、地頭が設置された。平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。
守護は、国司に代わり国ごとに国内の治安維持などのために任命した武士。当初は、国内の兵粮徴発や兵士動員などを主な任務として有力な在地武士を国守護人に任命したのが守護の起源と考えられている。

日下部一族の武士化

10世紀になると、日下部一族は郡司のほか但馬国衙のさまざまの官衙に進出…朝来郡・養父郡
但馬介・但馬大目・但馬目など。また但馬検非違使・健児所判官代・執官兼行判官代などの在庁官人

11世紀・12世紀
日下部系図 分立する家系が増加する…在地名を姓として郡司から在地領主に成長し武士化していった

室町時代

足利尊氏・直義兄弟が大軍を率いて上洛を開始。京都の室町に幕府が置かれていたので室町幕府とよばれている。
狭義では建武新政を含む最初の約60年間を南北朝時代、応仁の乱(1467年)または明応の政変(1493年)以後の時代を戦国時代と区分している。

山名氏までの但馬守護

1336年 – 今川頼貞

今川頼貞 但馬の天皇方掃討作戦を進める。
建武三年(1336)3月 播磨に入り、4月には但馬に進む

1336年~1338年 – 桃井盛義

桃井氏は下野の足利氏の支族で、上野国群馬郡桃井(現在の群馬県榛東村)を苗字の地とする。
桃井盛義の軍勢が各地に転戦して討伐に乗り出したものの、南党勢力の拠点的存在であった三開山城、進美寺山城は依然として健在。
このため、北朝軍はさらに応援の軍勢を但馬へ差し向けた

守護として足利直義が小俣来全を派遣

小俣来全はまもなく帰京し、代わって桃井盛義
(この間の先に但馬入りしていた桃井盛義との関係は明らかではない)
進美寺山城が南党勢力奪回後、強固な補強を行う
守護に交代があり、守護不在のまま進美寺山城攻撃が行われていたとみられる
養父郡小佐郷地頭伊達義綱などが当たっていた

1338年~? – 吉良貞家
建武5年・南朝延元3年 11月15日 幕府奉行所へ義綱の窮状を取り次いでいる
この吹挙状によって、但馬守護が桃井盛義から吉良貞家に代わっていることがわかるが、この時点に貞家はまだ京都にいたことがわかる。
『日高町史』資料編の『垣谷文書』
守護代左衛門尉家則とは誰なのか?

1340年~1351年 – 今川頼貞
1349年4月11日 正式に但馬守護に補任(『今川家古文書』

但馬南党の拠点、進美寺山城は陥落したが、もう一つの三開山城が残っていた

宿南保氏はこれを「新田義宗は建武4年(1337)以来、三開山城主であったとされるが、これは疑わしい。(中略)

山名氏は上野国緑野郡山名荘(群馬県高崎市)を本貫地とする新田氏庶流の武士である。山名氏は足利氏・新田氏の一門ではあるが、山名荘時代は農民的な小領主に過ぎなかった。時氏の代になって一代で頭角を現す。

(中略)

時氏は、尊氏の九州下向にも随従し、建武4年(南朝延元2年=1337)7月までには尊氏から伯耆守護に任じられた。その後、丹波・若狭お守護職も与えられ、貞和元年(1345)には幕府侍所所司にも任じられた。この間に但馬守護も僭称していた。

武家方二分裂の時代(観応の騒乱)

足利武家政権にまもなく動揺が起こる。その最初ともいうべき事件は、出雲・隠岐の守護塩冶判官高貞(佐々木近江守)の出奔であった。暦応4年(南朝興国2年、1341)3月、越前国で南朝方の動きが活発化してきた。これを討つため北朝方では高師春を大将に、六角(佐々木)氏頼、その一族塩冶高貞らを加えて越前へ攻め入る手はずを整え、それぞれ兵を領国から徴していた。その矢先、塩冶高貞が京都から出奔したのだ。

本国出雲へ逃げ帰った高貞の追討を命じられたのは、伯耆守山名時氏と若狭守桃井直常であった。高貞は自害し事件は落着した。この功によって時氏は出雲守護に補任された。武家政権内でひとかどの大将が仲間討ちされたことは事実である。

それから二年後の康永2年(1343)12月、丹波守護代荻野彦六朝忠が高山寺城(氷上市氷上)で反乱。伯耆ほうき守護山名時氏、丹波守護に任じられる)
高山寺城攻略の余勢を駆って時氏は但馬に攻め入り、南党と所々で戦った。
「此の年、山名時氏武家方となり、但州の所々において合戦、官軍(山名時氏方)、(但馬国衆の)長なが・太田・八木・三宅・田結庄ら武家に降りる。」(『南朝編年記略』)
三開山城は時氏によって陥落。以後、時氏はこの城を居所にしたと考えられる。

宿南保氏は、「進美寺山城に手こずり、その攻略後も手出ししていなかった三開山城を、時氏はあっけなく征服してしまった。そんな印象すら抱かせられる経過である。以後、時氏は三開山城を居所に但馬守護を僭称した*といわれる。これは但馬国衆ががおしなべて時氏に圧倒された結果によるといえよう。」と記している。この時期の但馬守護は今川頼貞である。頼貞は京都にいて、実権は守護代であっただろうが、その守護代は不明である。丹波守護同様に南北朝期、幕府の守護として機能していなかったようだ。

*僭称…称号を勝手に名乗ること

正平8年(北朝文和2年、1353)、南朝軍の巻き返しは積極的になった。尼崎方面から楠木正儀、伊勢からは北畠顕房が上洛を狙い、本国伯耆にあった山名時氏・師義父子が南朝に帰順し、京都進撃を企てた。時氏は5月6日伯耆を出発し、6月2日、但馬三開山城に着く。ついで丹波路の須知(京都府船井郡京丹波町須知)を経て、京都西郊の嵯峨に達した。(山陰道=今の国道9号)この軍に「但馬・丹後ノ勢ヲ印具シテ」と『太平記』にあるように、但馬勢もこれに加わっていた。

6月9日、南朝軍は一挙に洛中へ攻め入った。大使は権中納言四条隆俊、大将は山名時氏であった。これから一ヶ月余に渡り京都を占領し、正平の年号が用いられたのであるが、この間の南朝軍の狼藉は未曾有のものであったという。やがて美濃へ走っていた足利義詮が巻き返しをはかって、後光厳天皇を奉じて上洛する。同天皇が鎌倉にいる尊氏に上洛を命じた、加えて西からは赤松勢が進軍してくる、などの情報が飛び交い、狼藉に対する不人気に、兵糧不足が重なって士気が衰え、南朝軍は浮足立ち、四条隆俊は吉野へ、山名時氏父子は丹波に逃走した。入れ替わりに義詮が7月26日に入京し、年号もまた文和に復した。

丹波に逃れた時氏はついで但馬に入り、ここで但馬国衆の再掌握につとめたようだ。彼はしばらく但馬にとどまり、彼に従って京都へ上洛した者たちへ感謝の状を発給して伯耆へ帰っただろう。しかし、南但馬(養父・朝来)の国人たちの信頼を取り戻し、再び時氏党になびかせることは容易ではなかったようだ。

正平9年(1354)12月13日、山名時氏は、ふたたび京都進攻。足利直冬を擁して伯耆を出発した。伯耆を出るときには5,000人であった直冬軍は、但馬で先遣隊の石塔頼房軍や但馬国衆を加えて7,600人となっていた。『太平記』には、そのときに、越中の桃井直常、越前の斯波高経から、尊氏を離反し直冬軍に呼応して上洛の軍を起こし、同時入京をしめし合わす旨の密使を送ってきたとある。
朝来郡に入り、与布土谷から黒川街道を分け上がって黒川に達し、三国峠を越す。そして山寄上(多可郡多可町)に達し、舟坂峠を越えて三方(丹波市氷上町)に達し、高見城下(丹波市柏原町)へと進んだと推定する。この城は尊氏方の丹波守護仁木頼章が拠っていたからであろう。

仁木氏 足利氏嫡流の義氏が承久の乱の功で三河国の守護に任ぜられると、義清の孫実国は三河国額田郡仁木郷(現在の愛知県岡崎市仁木町周辺)に移り住み、仁木太郎を称した。仁木頼勝は室町幕府初代将軍足利尊氏の執事で丹波守護 後醍醐天皇の建武の新政に反旗を翻した尊氏が敗れて九州へ落ちると、頼章は丹波国に留まり、久下、長沢、荻野、波々伯部など丹波の諸豪族を統率、更に播磨、美作、備前、備中の与党らも糾合し、追撃してくる南朝勢に対する防波堤となった。

尊氏が室町幕府を開くと、頼章は弟義長らとともに北朝・武家方の武将として越前金ヶ崎城攻めや河内四条畷の戦いなど各地を転戦し、また丹波の守護に任ぜられた。

尊氏の執事(後の管領)高師直と尊氏の弟直義の確執が尊氏派・直義派の抗争に発展すると(観応の擾乱)、頼章は一貫して尊氏派に属して直義派との戦いに活躍し、侍所頭人に任ぜられている。観応2年(南朝:正平6年、1351年)正月には尊氏の子の義詮とともに京を脱出している。同年2月に師直は直義派の上杉能憲に謀殺される。その後、同年10月に頼章が執事に任ぜられ翌年の尊氏と直義の和睦の際には尊氏側の使者を務めている。この間、丹波・丹後・武蔵・下野の守護職を兼帯し、義長と合わせて仁木氏は一時9ヶ国を帯有し、室町幕府草創期の基盤固めに貢献した。

仁木頼勝(1361年~1365年)

仁木頼章・義長の弟
1349年「観応の擾乱」に尊氏派。1353~1360年丹後守護。1359年足利義詮に従い南朝方攻撃、摂津出陣。1362~1365年但馬守護。
長九郎左衛門ら南党勢 三開山城奪回作戦開始

唯一の但馬国人守護 長氏

1366年~1372年 – 長氏(ちょうし)
能登の国人領主長氏(ながうじ、おさうじ)とは無関係。長氏については不明。長(ちょう)弥次郎 但馬山名氏家臣。長信行の男。官途は越前守。但馬美方郡林甫城主(美方郡香美町香住区訓谷)。

高校時代に垣谷先生、長先生がおられ、垣谷先生は垣屋氏の子孫と自らおっしゃておられたのだが、長先生は自ら何も聞いていないのであるが、長で「ちょう」と音読みで読むのが珍しいと思ったと記憶している。長氏の子孫だと思われるが、長氏(ちょうし)は、資料が乏しく、謎だらけの二方郡の豪族である。能登の国人領主長氏のように「なが・おさ」と読むべきなのに、中国からの渡来人のように一文字で音読みである。もともと浜坂の村主などで、長「おさ」が「ちょう」と呼ばれるようになったようなものなのか、とにかく地名を二文字に改めた令にそぐわず、中世まで一文字のまま、しかも音読みのまま続いている。

宿南保氏『但馬の中世史』には、こう記されている。

長氏が但馬守護に任じられた背景には、長氏と山名時氏とが強い関係で結ばれていたことが考えられる。その仲介者としての役割を果たしたのは楞厳寺りょうごんじ(新温泉町田井)とみられる。楞厳寺は正平15年(北朝延文5年=1360)に、南溟禅師昌運(春屋和尚)が小庵(常楽院)を開いたのに始まる。この前々年11月に三開山城が陥落して、北但馬の南党は拠点城を失うが、城主だったとみられる長九郎左衛門は二方郡に退いて、奪回の機会到来を待っていたものと思われる。長氏が支配していたとみられる浜坂の地に、楞厳寺は開創されたのであった。

翌年の正平16年(1361)7月、山名時氏は三たび上洛の軍を起こして美作へ攻め入った。そして守護赤松世貞を追い出し、播磨進出をはかった。赤松軍から寝返り者の安保信善が現れ、但馬に走ってきた。これに勢いづいた長九郎左衛門は、安保とともに北但馬の三開山城奪回の軍を起こす。8月には奪回に成功しているようである。

このような但馬の情勢変化に驚いた南朝軍は、守護不在であった但馬の守護に仁木頼勝が任じられ、彼は三開山城に近い安良十郎左衛門が拠る安良城に入る。厳寒期を前に、美作にいた時氏軍はひとまず伯耆へ引き上げる。
翌正平17年(1361)6月、山名勢は再び軍を起こして備前・備中へと兵を進めた。これに呼応して、但馬から生野越えに播磨へ攻め入るよう但馬の南党国人衆に進軍を促すが、安良城に籠もる仁木頼勝を置いたまま出征することはできないとこれを拒んだ。

楞厳寺が開創されて、山名時氏は南溟禅師昌運に帰依するところがあったのだろう。同寺には同寺宛に時氏が発した書状四通と、開創当初の十数点の文書が残されていた。北但馬国人衆らが時氏といかに関わりあっていたかがわかる。楞厳寺がこれほどの働きができたのは、浜坂の領主、長氏の後ろ盾があったからだと思う。(中略)

正平17年には長九郎左衛門の息子で、のちの駿河守道全は、但馬守護二木頼勝が籠もる安良城を攻めている。これは山名時氏の命によって起こされている。

山名時氏は足利直冬を見限って貞治2年(南朝正平18年=1363)9月、将軍家に帰参した。帰参にあたって時氏は、実力で切り従えた国々の守護職を要望し、因幡・伯耆のほか丹波・丹後・美作を加えて五カ国が宛行われた。しかし但馬の拝領は阻まれた。まだ但馬の南半分は反山名の国人らによって固められている。

但馬の守護はもとのまま仁木頼勝に安堵された。しかし貞治5年12月14日、将軍家御教書は、長駿河守道全に、それから4年後の応安3年10月10日付の同書には、長伊豆守入道に宛てて施行されている。

但馬守護が仁木氏から長氏に替わったことにより、その被官となっていた国人領主らに影響を与えた。但馬守護に長氏が任じられたということは、その時点で実質的には山名時氏がそれに任じられたものとみてよいだろう。

織豊しょくほう(安土桃山)時代まで続いた山名氏

1372年~1376年 山名師義もろよし 山名時氏の嫡男。丹後・伯耆・但馬守護
1376年~1389年 山名時義 時氏の五男。美作・伯耆・但馬・備後守護
1389年~1390年 山名時熙ときひろ 時義の長男。但馬・備後・安芸・伊賀守護
1390年~1391年 山名氏清 時氏の四男。丹波・和泉・山城・但馬守護
1392年~1433年 山名時熙 時義の長男。但馬・備後・安芸・伊賀守護
1433年~1454年 山名持豊(宗全) 時熙の三男。但馬・備後・安芸・伊賀守護。室町幕府の四職。幕府侍所頭人兼山城守護
1454年~1458年 山名教豊 宗全(持豊)の嫡男。但馬・播磨・備後・安芸守護
1458年~1472年 山名持豊 但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。応仁の乱の西軍の総大将。宗全は出家後の法名。
1472年~1499年 山名政豊 教豊または宗全の子で教豊の養子ともされる。山城・安芸・但馬・備後守護
1499年~1536年 山名致豊 政豊の子。但馬・備後守護。
山名誠豊     但馬守護。致豊の弟。
山名祐豊     但馬守護。誠豊の養子、致豊の次男。1580年秀吉率いる織田軍に包囲される中、死去。
山名堯熙     但馬・備後守護。祐豊の三男。のち秀吉に所領を与えられ豊臣家の家臣となり秀吉に仕える。

山名氏と九日市城・正法寺城

宿南保氏『但馬の中世史』「山名氏にとって九日市ここのかいち城とは」の項で、九日市の居館を九日市城と呼んでいる。豊岡盆地の中心部の近い場所だけでも城といわれるものは正法寺城・木崎きのさき(城崎、のち豊岡)城・妙楽寺城・九日市城がある。

正法寺城は山王山で、今は日吉神社となっている。文献に初めて登場するのは、『伊達文書』で、延元元年(1366)六月、北朝方の伊達真信らが南朝方のひとつの拠点「木崎性法寺」を攻撃している。この性法寺は正法寺のことであろうとされる。

また『蔭涼軒日録』によると、長享二年(1489)九月、「但馬のこと、一国ことごとく垣屋に依る」とありながら、「垣屋衆およそ三千員ばかりあり、総衆は又次郎(山名俊豊)をもって主となす、垣屋孫四郎(続成つぐなり)いまだ定まらず」、また「朝来郡(太田垣)衆は又四郎殿を主と為すを欲する也。垣屋いまだこれに与せず」とある。
播磨攻めに失敗した山名政豊が居住していた所が「正法寺」であり、木崎城から18町余り隔たるところに所在するという(木崎城から18町というが、実際は日吉神社から神武山山頂までは約600m。1町は109.09091メートルなので×18町は1,963mだから合わないが、神武山で間違ってはいないだろう)。

寛永年間(1624~44)に著されたと思われる『豊岡細見抄』には、、山王権現宮(日吉神社)について、「今、領主京極家の産宮とす。往古はこの山真言宗性法寺という小寺あり。天正年間、社領没収の後、寺坊荒廃して退転せり。寛文年中、京極家丹後田辺(今の西舞鶴)より御入国の後、この寺跡の鎮守を尊敬ありて(中略)、今豊岡町の本居神とす。」と記されている。

拙者は、山王権現宮を祀ったとされる京極氏が治めていた丹後の宮津にも日吉山王宮があり、京極氏が日吉神社を信奉していたのは間違いないと思うし、天正年間に正法寺は消滅したので、寺跡のあとに日吉神社を建立し京極氏も守護神として大切に祀ったのだが、日本は長い間神仏習合であったから、それ以前の山名氏の頃からすでに正法寺の境内に、現在より小規模で山王権現宮も祀られていたとしても考えられなくもないと思っている。現在地名として残っている正法寺区はこの神武山にあった正法寺の寺領であろう。

但馬山名氏は、本州の6分の1を領する六分一殿と称された。その中心は山名宗全であり、出石であった。その権力はのちに京都を焼き尽くす応仁の乱の西方大将になってしまう。

因幡山名氏が鳥取城へ移るまでの本城があった鳥取市布施の布勢天神山城にも日吉神社(布勢の山王さん)があり、時氏が近江(日枝神社)から勧請したとされる。政豊は時氏の未子で但馬・伯耆守護時義から4代あと、持豊(宗全)の孫であるが、山名氏も守護である各国の城に日吉神社(山王権現)を祀っていたのではないだろうか。京極氏が丹後から豊岡へ入国するよりも以前から正法寺と共に祀られていたのではないかと思うし、今はJR山陰線で分断されているが線路以西も正法寺であり、かつてはこの寺領は広大であったように思われる。

京極氏入国以前の山名氏の頃から正法寺に現在より小規模で山王権現宮も祀られていたのではないかと思っていたら、宿南保氏『但馬の中世史』にこのように記されている。

「木崎性法寺」は、現在の日吉神社鎮座の丘である。同神社はもと山王権現と称され、その地にあった正法寺の寺域内鎮守であった。承応年中(1652~55)に同寺が退転したことにより、跡地全域が社地となったものである。

(中略)

標高40m余のこの丘には、南北朝期の特色を示す尾根郭跡が残っている。それは神社本殿の裏側、豊岡駅方向に面する斜面である。(中略)

当時から正法寺伽藍は城郭を兼ねていたものであったことがわかろう。この位置は(奈佐方面から)九日市へ通じる道を抑えるに重要な場所である。

天正8年(1580)、豊臣秀吉の家臣、宮部継潤が山名氏討伐後に城主として入城し、木崎(城崎きのさき)(城)を豊岡(城)と改めた。木崎城はのちの豊岡城で神武山にあった。しかし神武山と呼ばれるようになったのはまだ新しく、明治五年(1873)に神武天皇遥拝所が設置されたことに由来する。明治五年までは神武山は豊岡と呼ばれていたのか、天正8年以降は豊岡城となり、豊岡は町名であると同時に城山も豊岡なのか分からないが、城崎から豊岡という町名となり、その城は豊岡城となったのである。木崎という地名は往古も存在しない。古語は黄沼前キノサキと書いたが城崎きのさきとは読めないので城崎と書かず、間違ってか故意か木崎とも書いたのだろう。

『豊岡市史』によると、山名氏は「戦時には此隅山このすみやま城を本城としつつ、平時には九日市の居館を守護の在所と定めて政務の中心とした」としている。九日市の詰城は妙楽寺城なのか、木崎城なのか、三開山城なのか、あるいは此隅山城なのか?また、正法寺城は単独の城だったのか?

西尾孝昌氏『豊岡市の城郭形成Ⅰ』には、こう記されている。
この城崎庄域に木崎城がいつごろ築城されたのかは明らかではない。「木崎城」の文献的初見は、長享二年(1489)九月の『蔭涼軒日録』に、但馬守護山名政豊が播磨攻めに失敗して帰但した際、あくまで播磨進攻を主張する垣屋氏を筆頭とする26人の国人らが政豊を廃し、備後守俊豊を擁立しようとして、政豊・田公たぎみ肥後守の立てこもる木崎城を包囲している。また「木崎城は田公新左衛門が築城した」とも記されている。木崎城の所在については不明とされてきたが、『豊岡市史・上巻』では「神武山から正法寺のあった山王山一帯」に所在したといい、『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』では豊岡城と木崎城を別扱いしている。

西尾孝昌氏『豊岡市の城郭形成Ⅰ』でも、山王山の正法寺城跡と神武山の豊岡(木崎)城跡は別々に記されている。今では山王山と神武山の間に道が通り分断されているが、ゆるい坂が上下しており、両山は同じ丘陵地の西と東にある同じ城域だったのではないか?と考えられるのである。

妙楽寺城は標高70mの見手山丘陵で妙楽寺から但馬文教府にかけて、東西約400m、南北約600mの大規模な城郭であった。

さて、最後の九日市城は、城というよりは山名氏の在所で、守護所と考えられている。所在地は不明確であるが、九日市上ノ町に「御屋敷」「丁崎」という字名がある。円山川左岸の堤防上を通る国道312号線から豊岡駅へ通じる交差点から九日市中ノ町にかかるあたりで、「御屋敷」は山名時義の居所と伝え、「丁崎」は「庁先」のことで但馬守護が事務を執った居館跡に関係する場所ではないかとされている。

しかし、宿南保氏は『但馬の中世史』で、「筆者は、あくまで山名氏の本拠地は此隅山城であったと考えている。(中略)『大乗院寺社雑事記』に、政豊の動静について、「九日市ト云在所ニ在之」と記している。「在所」とは城下町に対して村部を指す対比語である。この表現から当時本城ではないところに居住していたことを表現していると解釈しているのである。

山名持豊(宗全)は、室町幕府の四職のひとりとしてほとんどが京都に居住していたので但馬守護代に垣屋氏、太田垣氏らが任ぜられているため、実際に木崎城の城主は垣屋氏であった。木崎(豊岡)城と旧円山川に挟まれた街道を南北に宵田町・京町という。京町いうのは何であろう?京極氏から京町と呼ばれるようになったのだろうが、ひょっとして四職として幕府の侍所頭人を任じられた持豊(宗全)は幕府のある京都に住んでいたから、京殿などと呼ばれていたのではなかろうか?!但馬に引責後、京から家来や文化を連れて京風にしたからなのか?宵田町は山名家の筆頭家老、遠江入道(熙忠ひろただ)(豊岡市の「垣屋系図」では隆国)の次男で宵田城主となった垣屋越中守熙知ひろともが但馬守護代として実質的に但馬を掌握していたのだろう。宵田殿の居館があったことによるものだろうし、応仁の乱以降、山名氏は出石へ追いやられ(権威はあった)、但馬の中央部である木崎城(豊岡城)周辺を制圧して但馬の戦国大名となったのである。

これまでの資料からは、明徳二年の山梨の内紛において時熈らが妙楽寺城に立て籠もっている。また長享二年には政豊が木崎城に立て籠もっていることを考えると、木崎城もその候補となろう。また九日市の対岸であるが、かつて南北朝期に立て籠もった三開山城も詰城かもしれない。出石の此隅山城は、垣屋氏が山名氏との対立で楽々前城から垣屋氏起源の鶴ヶ峰城へ移したように、但馬山名氏の起源の本城であり、出石神社の祭祀権を掌握して地域支配を図るためには不可欠の城であろう。

とにかく、祇園祭が台風の影響で心配されたが、小雨の中無事に巡行が行われた。かつて祇園祭が最初に中止となったのは応仁の乱だというからすごい話であるが、ふと西の総大将で西陣の地名ともなった山名宗全について思い出してみた。

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鶴ヶ峰城と殿区とは


国道482号線久田谷付近と鶴ヶ峰(三方富士)

子供の頃から何か周りと違い神秘性を感じていた三角おにぎりみたいな山

国道482号線を神鍋かんなべ方面へ久田谷くただに付近まで進むと、前方にきれいな三角形の山がぽっかりと現れてくる。通称「三方富士みかたふじ」と呼ばれるが、これが鶴ヶ峰つるがみねである。標高は405m。周囲のなだらかな山々とは別に、美しい山だが傾斜がきつそうである。

山名四天王のひとりで気多郡を治めていた垣屋氏の主君、山名時氏やまなときうじが但馬に攻め入り、進美寺山城とともに南党勢力の拠点となっていた三開山城(豊岡市)を陥れ、この城を但馬の居所としたいわれている。三開山も但馬富士ともいわれるよく目立つ三角形の美しい山だ。ふと気づくのだが、山名氏が三開山を拠点とした時、垣屋氏は気多郡代に任じられ三方庄に入った際に、その三開山によく似た鶴ヶ峰(三方富士)を居所にしたいと思ったのではなかろうかと想像するのである。

垣屋氏の聖地鶴ヶ峰城

  
南から眺める鶴ヶ峰 左から鶴ヶ峰城Ⅰ(西城)、Ⅱ(東城)、亀ヶ崎城(栗山城)

西尾孝昌氏『豊岡市の城郭集成Ⅱ』によれば、

永正9年(1512)、山名致豊いたとよは弟誠豊まさとよに守護職を譲るが、同じ年、楽々前城主垣屋続成つぐなりが鶴ヶ峰城を築き本拠にしたという(因幡垣屋系図)。

現在の所在地は豊岡市日高町観音寺字城山となっていて、同じ尾根にあり西城と東城に別れる。西城は観音寺集落西側、標高405mの山頂に位置し、集落との標高差は約300m。また東城は観音寺集落北側、標高301mの山頂に位置し、集落との標高差は約200mである。文化財観音寺仁王門や馬止神社の裏手である。

楽々前城ささのくまじょうは、神鍋までの西気谷にしのげだにや気多谷けただにが見渡せる三方平野の東、円山川支流の稲葉川右岸、佐田から道場にかけてそびえていた垣屋氏の本城である。城域は広大で、東西約250m、南北約1000mもある。『因幡垣屋系図』では、垣屋隆国が応永年間(1394~1427)で、その子満成が跡を継いだというが、史料上は隆国も満成も確認できないが、垣屋氏の楽前庄入部は、但馬の南北朝争乱が事実上集結した貞治2年(1363)以降であろう。

他に詳しく述べているので簡単に垣屋氏について触れておくと、垣屋氏(重教)は関東から山名時氏に従って但馬に来往し、城崎郡奈佐の亀ヶ崎城主となったという(『因幡垣屋系図』)。しかし史料上確認できる最初は、明徳の乱(1391)の時、京都二条大宮の合戦で山名時煕の危急を救出して討ち死にした垣屋弾正(頼忠)である(『明徳記』)。

鶴ヶ峰城は楽々前城に比べれば細長く小さな山城である。小曲輪を飛び飛びに配置するような縄張りは南北朝期の特徴であり、堀切・竪堀は戦国期特有の普請である。永正9年(1512)に築城したといわれるが、それ以前の南北朝~室町期に城砦じょうさい化していたと考えられ、南北朝期に観音寺が城砦としていた可能性がある。続成は既にあった古い城を利用したのではないだろうか。

なお、観音寺区の西端には、字殿屋敷があり、居館跡と伝承されている。しかし石垣は戦国期のものではなく、江戸から明治期のもので、続成の居館跡とは考えにくい。また城の北側山麓には「殿」という集落があり、家臣団屋敷の存在が想定されているが、定かなことは不明である
と記されている。

まず、かんたんに垣屋氏について触れておきたい。

垣屋氏(重教)は関東から山名時氏に従って但馬に来往し、城崎郡奈佐の亀ヶ崎城主となったという『因幡垣屋系図』。元は土屋姓であったが、気多郡代になり三方庄に本拠を構えるようになって垣屋(または柿屋・垣谷)と名乗ったようである。土屋一族は垣屋氏だけではなく山名氏とともに50数名が従って但馬に来往してきたようである。

『因幡垣屋系図』の記述では、城崎郡奈佐の亀ヶ崎城主となったとある。福田から今は但馬卸売市場があるカーブの西側である。ここにも亀ヶ崎城跡とされる遺構があるが、これは垣屋氏が但馬で最初に居た城というに合っているかは疑問に思っていた。何故なら、最初に城崎郡のしかも気多郡から遠い城崎郡内の奈佐庄(郷)と大浜庄との境に在したとすると、気多郡代垣屋氏の三方・楽々前と城崎郡奈佐が繋がらないからである。しかも、すでに奈佐庄(郷)を治めていたのは、但馬国人の但馬日下部氏の一族で朝倉氏、八木氏の子孫が、但馬国城崎郡奈佐谷を本貫とし奈佐氏を称しており、奈佐氏は戦国期や江戸期まで代々続いている。細長い狭い谷であるのに、同じ奈佐庄内に国人ではない垣屋氏が城を持つなどまずあり得ないであろう。

気多郡の三方庄(今の豊岡市日高町三方地区)は、垣屋氏が但馬に来て気多郡代として最初に与えられた所領である。いわば垣屋氏発祥の地であるから、最初に城を築いた場所は少なくとも気多郡内でないとおかしいのである。

山名氏家紋

垣屋氏の台頭

3代将軍に就任した足利義満が有力守護大名の弱体化を図っての山名氏の内紛である明徳の乱(1392)で、十一ヶ国を有し六分一殿と称された山名氏の所領は分解し、山名氏は但馬たじま・因幡いなば・伯耆ほうきの三ヵ国を残すのみとなる。この乱を機に、山名時熙ときひろの分国が但馬一国となったということは、かえって従来以上に緊密に但馬を掌握することになった。山名宗家は時熙ときひろの系に固定し、笹葉の下に「○二」を配した家紋を、宗家を誇示する標識とした。この明徳の乱にあたって、大部分は山名氏清うじきよ・山名満幸みつゆきに属したのに対し、山名時熙ときひろ方に属したのは垣屋氏だけだったことが垣屋氏が頭角をなした発端である。山名氏家中の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていた。山名氏の建て直しを急務とする時熈にすれば、優秀な人材を求める気持は強かった。さらに、氏清方に味方した土屋氏、長氏、奈佐氏らは勢力を失い、山名氏家中に大きな逆転現象が起こった。そのような状況にあって、急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏であった。
その結果、明徳の乱を契機として垣屋氏は躍進を遂げることになった。 このとき、垣屋家は10万石以上を手にしたとされており、これを垣屋氏の最盛期であると判定する。

明徳三(1393)年正月に評議があり、山名時熙は但馬国を賜って出石有子山(子有山とも書く)に住み、山名時熈ときひろは垣屋弾正時忠の忠節に感銘し、その子の幸福丸(のち隆国)を気多けた郡代(現在の浅倉・赤崎を除く豊岡市日高町全域・佐野、円山川右岸中筋地区、竹野町轟以南)に任じ亀ヶ崎城を同時期に築いた。

明徳の乱以来着々と力を蓄えていた垣屋氏は山名家の筆頭家老の座につき、以後山名氏を陰で支えることとなる。幸福丸は垣屋播磨守隆国と名を改め、応永年間(1394~1427)に佐田知見連山の高峰に楽々前城ささのくまじょうを築き、自らはここに移り住み、平野部に近い宵田城には隆国の次男垣屋隠岐守国重を城主に置いた。このころから垣屋氏は 垣屋弾正(重教)・時忠・隆国の三代百年に渡る間に、発展の基礎を打ち立てた。隆国の子である越前守熙続ひろつぐ(長男満成)は三方地区楽々前に、 越中守熙知(次男国重)は宵田城に、駿河守豊茂(三男国時)は気多郡と背中合わせの美含郡竹野轟城を本拠とするようになる。

その後、時熙が備後守護に補任されると大田垣氏が守護代に任じられ、但馬守護代には垣屋氏が任じられた。こうして、垣屋氏・大田垣氏が山名氏の家中に重きをなし、さらに八木氏、田結庄氏を加えて山名四天王と称されるようになるのである。

主君山名氏との対立

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播磨の赤松氏と但馬の山名氏との坂本の戦いで多くの一族を失った垣屋氏と政豊の間には深刻な対立が生じていた。山名氏との対立、抗争は、垣屋氏にとってその存続を揺るがす脅威であり、 ひとつ誤れば滅亡にすらつながりかねないものであった。 明応8年(1499)、山名政豊が死去。致豊が家督を継承したが、すでに守護としての実力もなく、垣屋続成は山名氏をしのぐ勢力を築いていた。

明応3年(1494)に垣屋氏と抗争を起こして以来、山名政豊は九日市城を引き払い、出石の此隅山城このすみやまじょうに居所を移していたようだ。明応4年(1495)の和談成立以後も、山名氏と垣屋氏との対立は、折にふれて火を吹いていたようである。

永正元年(1505)、山名致豊は、垣屋続成にもうひとつの居城此隅山を攻められる。翌年、将軍足利義澄は致豊と垣屋氏との和与を勧告、永正五年、山名氏と垣屋氏の間に和議が成立した。この間の混乱によって、山名氏は衰退、戦国大名への道を閉ざすことになった。以後、但馬は山名四天王と呼ばれた垣屋光成(気多郡・美含郡)・太田垣輝延(朝来郡)・八木豊信(養父郡)・田結庄是義(城崎郡)等四頭が割拠し、但馬を四分割した。

なぜ楽々前城から鶴ヶ峰城へ移った(戻った)のか?

鶴ヶ峰は、稲葉いなんば川支流観音寺かんのんじ川と阿瀬あせ川に挟まれ東西に長く伸びる丘陵にあった。のちの垣屋氏の本城は、ここから約4.5km東にある日高町佐田の楽々前城ささのくまじょうだが、それより奥にあるにも関わらず鶴ヶ峰城は、楽々前城よりあとに再度改築されている。普通、城と本拠は、高い山城から城下町や田畑が形成しやすく、生活・交通の便利な平野部に移っていくのが一般的なのに、永正9年(1512)、楽々前城からさらに谷深い鶴ヶ峰の高い場所をあえて再利用して本拠を移す必要があったか?その謎にせまるにはその頃に何が起きたのかである。

垣屋氏と阿瀬鉱山

垣屋氏所領の気多郡三方荘阿瀬谷から金や銀が発見された。その時期については、異説があって一定しない。垣屋氏が本拠としたのは偶然なのか、鉱山があったから本拠としたのかは分からないが、永禄五年(1562)、阿瀬谷のクワザコから銀が産出したといい、金の発見は文禄四年(1595)、川底に光る砂金の輝きを見つけたのが機となったとも伝えている。しかし、それより約二百年前の応永五年(1398)に既に発見されていたとも言われている。この応永五年説が本当だとすると、これは垣屋にとって重大で幸運な事件であった。この地域を領有することになり、幸運にも金銀山を支配下に治めたということで、計り知れない財源を提供することとなった。

のちに、但馬守護の山名氏や家臣太田垣氏が、生野銀山の経営に手を染めるのは、記録では、天文十一年(1542)とされるから、それに先立つ130年前に、垣屋は銀山経営に乗り出していたことになるのである。何はともあれこの鉱山資源を背景にして、垣屋は山名の最高家臣の地位を得るし、金山の地に、布金山隆国寺を移建することができた。天文十一年(1542)に朝来郡代太田垣輝延の生野銀山が、天正元年(1573)に養父郡代八木豊信所領の中瀬金山のことが記録されているが、金山の発展に目をつけたのが垣屋弾正満成だんじょうみつしげだと記録の通りに考えると、百年余りの差がある。金がぼつぼつ出ていたので、ここに寺(布金山隆国寺)を建立したことも考えられる。この時代には、将軍をはじめ大名、小名がそれぞれ寺院を建てているが、時代の風潮であったと考えられる。

隆国寺りゅうこくじ

三男駿河守豊茂(国時)が気多郡と背中合わせの美含郡椒荘みくみぐんはじかみのしょうに竹野とどろき城を本拠とするようになったのも、これは神鍋山を背に北部但馬に対する防衛拠点であると同時に、椒に段金山鉱山、金原鉱山が見つかったことにも関係あるのではないだろうかと容易に想像することができる。

殿屋敷と殿区

鶴ヶ峰を挟んで南の山麓にある観音寺区と反対側の北麓、阿瀬川沿いの谷に殿区がある。上記西尾孝昌氏の著書に、「観音寺区の西端には、字殿屋敷があり、居館跡と伝承されている。しかし石垣は戦国期のものではなく、江戸から明治期のもので、続成の居館跡とは考えにくい。また城の北側山麓には「殿」という集落があり、家臣団屋敷の存在が想定されているが、定かなことは不明である。」

殿の殿屋敷は不明であるが、家臣団屋敷だと伝承さてれいるとある。しかし、城の麓によく残る殿屋敷という小字の殿とは城主をさすものであると考えるのが妥当だから、家臣団の屋敷を殿屋敷とは呼ばないだろう。上述の通り観音寺の字殿屋敷は江戸から明治期のものであり、観音寺側ではまずないのは、阿瀬鉱山に通じる阿瀬川は鶴ヶ峰城をはさんで観音寺の反対側であるからだ。阿瀬鉱山と鶴ヶ峰城を死守したいがために阿瀬川沿いの殿に屋敷を移したと考えるのが自然だと思うのである。

『兵庫県の小字辞典』に殿と西隣りの羽尻にも小字に「越前こしまえ」がある。ふりがなは「こしまえ」だが、「えちぜん」と読めば、総領である楽々前城主は、代々垣屋越前守家といわれていたことに結びつく。殿と羽尻にまたがる広大な殿屋敷があったことを裏付けるものではないかと思うのである。また、小字に「東門とうもん」「城山しろやま」とあり、これは鶴ヶ峰城のことだろう。

鶴ヶ峰は地勢上最適な要塞

阿瀬鉱山防衛とは別に、もうひとつ考えられるのは、楽々前城よりも標高が高く、山名氏の本城(出石・此隅山城)をはじめ神鍋方面まで四方が見渡せるからである。

宿南保氏は、著書『但馬の中世史』の中で、山名時氏に従って但馬に来た垣屋氏の祖継遠が最初に落ち着いたところは、豊岡市日高町栗山にある城跡と推定している。ここは三方富士と称されている鶴ヶ峰から、東方向に順に低くなっている3つの峰の東端の峰である。垣屋氏の祖が最初に築城したのは、この連峰の第三の峰であったと筆者は推定している。この山並みを三方盆地の野に立って仰ぎ見るとき、翼を休めてそびえる鶴ヶ峰を背景に、尾根筋の端のところにこんもりと第三の峰が立ち、その穏やかな山容は、第一の峰と美しい調和を見せている。この佇まいから、鶴ヶ峰に対する亀ヶ崎の名称が思いつかれ、それが城の名前とされたのであろう。

垣屋播磨守隆国、応永年間(1394~1427)に佐田知見連山の高峰に楽々前城ささのくまじょうを築き、自らはここに移り住み、平野部に近い宵田城には隆国の次男垣屋隠岐守国重を城主に置いた。このころから垣屋氏は 垣屋弾正(重教)・時忠・隆国の三代百年に渡る間に、発展の基礎を打ち立てた。隆国の子である越前守熙続ひろつぐ(長男満成)は三方地区楽々前に、 越中守熙知(次男国重)は宵田城に、駿河守豊茂(三男国時)は気多郡と背中合わせの美含郡竹野轟城を本拠とするようになる。

垣屋氏が主家の山名氏と存亡を賭けた戦いを交えるようになって、惣領家の越前守家は再び故地に還り、「永正九年(1512)亀ヶ崎城ニ移ル」(『因幡垣屋系図』)
亀ヶ崎城に移る(『因幡垣屋系図』)とするのも、鶴ヶ峰城を築城するとあるのも、同じ永正九年(1512)なのであり、第一の峰・第三の峰・第三の峰を同じ鶴ヶ峰城とみなすのか、または亀ヶ崎城は別と見るかによって違う呼び名で記したと考えればよいのだと思う。楽々前城からさらに谷深い鶴ヶ峰の高い場所をあえて再利用して本拠を移すと、

宿南保氏は著書で、

『因幡垣屋系図』によると、越前守続成の代に垣屋惣領家は新しく構築した鶴ヶ峰城に移り、そのあとの楽々前城(日高町佐田)には宵田城主が移ったと記されている。(中略)鶴ヶ峰城Ⅰの山麓の観音寺村域内に城主館を構築した。ここは現在「殿屋敷」という小字名となっている。鶴ヶ峰Ⅱに登城する武士たちの居館は、阿瀬渓谷側にも構築されたであろう。集落「殿村」はその名残と考えられる。

とあるが、上記の通り、(観音寺殿屋敷の)石垣は戦国期のものではなく、江戸から明治期のもので、続成の居館跡とは考えにくい。
垣屋氏にとって阿瀬金銀山は絶対に死守したいはずである。阿瀬川沿いにある殿こそ、城主の臨戦体制上の殿屋敷か、阿瀬金銀山を検分する際の作業事務所的な目的も兼ねて屋敷があったのではないかと思う。

神社(村社)でみる殿と観音寺の村成立の特性

殿と観音寺のそれぞれの村の成立と神社で、殿屋敷をさらに証拠づけると、
観音寺の馬止まどめ神社(兵庫県豊岡市日高町観音寺700)は気多郡でも古く、平安期の『気多郡神社神名帳』のひとつに記載されている。元は馬工ウマタクミ神社といったが、いつしか誤って馬止マドメ神社と呼ばれるようになった。
祭神  名草彦命ナクサヒコノミコト

配祀神 市杵島命イチキシマノミコト 速須佐之男命ハヤスサノオノミコト 奇稲田姫命クシイナダヒメノミコト
『国司文書 但馬故事記』

馬工連刀伎雄ウマタクミノムラジトキオの祖・平群木免宿禰命ヘグリノツクノスクネ
人皇四十代天武天皇四年(675)二月乙亥朔キノトイサク
但馬国等の十二国に勅して曰わく、 「所部クニノウチ百姓オホムタカラの能く歌う男女およびヒキ伎人ワザトを撰みて貢上タテマツれ」と。 (中略)
十二年夏四月 ミコトノリして、文武の官に教え、軍事を習い努めしめ、兵馬の器械を具え、馬有る者を以て歩卒と為し、以て時に検閲す。 馬工連刀伎雄ウマタクミノムラジトキオを以て、但馬国の兵官ツワモノノツカサと為し、操馬の法を教えしむ。その地を名づけて、馬方原ウマカタハラ(のち三方郷は馬方郷の転訛)と云う。 十三年三月、馬方連刀伎雄は、その祖、平群木菟宿禰ヘグリノツクノスクネ命を馬方原に祀り、馬工ウマタクミ神社と称えまつる。

観音寺は古くは馬工村といい、村社馬止神社は馬工神社の誤記。南北朝期に観音寺が建立され観音寺村となり門前(町)となる。まったく中世の城下町として発展したのではないからである。

これに対して殿は、

志伎シキ神社 兵庫県豊岡市日高町殿410
主祭神 誉田別命ホンダワケノミコト(=応神天皇 別名八幡神)
配祀神 志伎山祇命シキヤマツミノミコト 速素盞鳴命ハヤスサノオノミコト
誉田別命は八幡神のことであり、武人が好んで祀っていた祭神である。志伎という社号の「しき」は、士気のことで、八幡神を祀り、家来の士気を鼓舞したと想像するのである。中世の城は例外なく、日吉(日枝・山王)神社や八幡神社を祀るものである。配祀神の志伎山祇命は大山祇神オオヤマツミノカミのことで、すなわち鶴ヶ峰山を祀る山の神で、志伎は不明。速素盞鳴命ハヤスサノオノミコトはスサノオの別名で、武神の代表として多く祀られている。

まとめ

最後にまとめるとしよう。

鶴ヶ峰城は第一の峰が鶴ヶ峰城Ⅰ(西城)、第二の峰が〃Ⅱ(東城)、第三の峰が亀ヶ崎(栗山)城。

垣屋氏の殿屋敷は栗山城のことで、亀ヶ崎城(栗山城)を下屋敷とすれば、殿(村)は、上屋敷的存在ではないだろうか。阿瀬鉱山にも鶴ヶ峰城にも近い場所に殿屋敷を置き、便宜上利用していたのではないだろうか。出石城と有子山城の位置関係も同様である。山頂の城は平時には使わない。

また、田ノ口には清瀧神社があり、羽尻には萬場神社がある。どちらも今は三方地区なので万場や清滝という西気・清滝地区の区名と同じ神社が村社となっていることに不思議に思ったが、古くは今の栃本へ抜ける西の下街道は田ノ口から清瀧神社を通り栃本へ抜け、羽尻から万場へ抜ける阿瀬川沿いは、垣屋氏にとって阿瀬金銀山とともに経済的かつ軍事的に重要なルートだったのである。主君山名氏や田結庄氏との対立が激しくなり、戦時体制上、楽々前城から西気谷から気多谷が見渡せる鶴ヶ峰城へ移る必要があったのではないだろうか。

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市場の地名

「市場」について考察

ここで、別に東構区の西にある久斗区の小字名、「市場」に触れておきたい。気多郡の中心部を東西につなぐ西の下街道をはさんで宵田城の北構と南構が構築され、その街道上に市場があった。

既出の宿南保氏『但馬の中世』の「市場村と諸街道」に、『兵庫県小字名集』但馬編にある中世に成立した但馬の市場のなかで、豊岡市日高町の市場は、道場、久斗の2カ所が記されている。南北朝期の山城跡で、垣屋氏の居城楽々前(ささのくま)城が遺存している道場の小字に市場があった。室町後期、垣屋氏は明徳の乱以後、垣屋隆国の孫三人に別れ、楽々前城、宵田城、轟城を受け持った。山名家の筆頭家老の座につき、久斗の字市場は、祢布との境の村の入口部で、「構」の要害に接する位置である。おそらく南北朝から室町期に宵田城築城により、道場から久斗へ移ったのだろう。

以下、『但馬の中世』p251 宿南保氏

室町期に創築ともられる山城のところでも、城主居館地に接して市場字名地が残っている例のあることはわかっているのであるが、だいたいのところは、小字名として残っている市場のところは、南北朝期に始まった市場の地とみてよいのではなかろうか。

集落名となっている市場は室町期成立

これに対し室町期になると、一集落名全体が市場となったことを表す集落名が現れてくる。一日市とか出合市場(いずれも豊岡市)などである。それは市場維持の要因が、地方権力の保護よりは、農民流通の便利な場所に重点が移ったことによると考えられる。したがって、その出現地は地域の中心地で、自然発生的な姿である。同時に、南北朝期の市場のなかには廃れるものも現れてくるはず。

宵田城址は正しくは岩中地番であり、現在、岩中区が城山公園の管理をされている。円山川沿いの旧国道312号線が宵田区で、なぜ岩中なのに宵田城なのかと思う。垣屋氏の殿屋敷(居館)が宵田にあったのだろう。山名氏の趨勢が衰えて但馬守護代の筆頭となった垣屋氏は、木崎城(豊岡城)代となり、屋敷を置いたことから豊岡市の豊岡城東に宵田町という地名や出石町にも宵田町が残っている。垣屋氏は宵田殿と呼ばれていたと考えられる。

集落名としては但馬では旧朝来郡伊由市場、加都市場、糸井市場、旧養父郡の養父市場、大屋市場、旧出石郡の出合市場、久畑市場、城崎郡の九日市、一日市、穴見市場、美含郡の市場(現豊岡市竹野町森本・坊岡、七日市、一日市(現美方郡香美町)、旧美方郡の菟束市場(現香美町村岡区福岡)、二日市(新温泉町、旧浜坂町)


兵庫県豊岡市日高町府中新

 


兵庫県豊岡市日高町府市場

(上)豊岡市日高町府中新・(下)府市場

気多郡には府市場が今でも残っているが、これはもっと古く、国府があったことによるとみられている。しかし、太田文には国府(こふの・こうの)市場・手辺とされるところで、府中とも称されていた。府市場となったのはまだ新しい。

気多郡道場・久斗の市場

第2章 2.『但馬故事記』に詳しい天日槍の足取り

2. 『国司文書 但馬故事記』に詳しい天日槍の足取り

『国司文書 但馬故事記』は、天日槍来朝の叙述や、その子孫の記録は、他書を抜いて最も詳しく、まことに貴重な資料である。
ことに、神功皇后すなわち息長帯姫命おきながたらしひめのみことの母系先祖との関係、および稲飯命の子孫と称せられる新羅王の系譜についても、相当詳しい叙述を行なっている。

-「『国司文書 但馬故事記』訳注」吾郷清彦-

『記紀』はくわしく記していないが、『国司文書 但馬故事記(第五巻・出石郡故事記)』はこれをくわしく記している。現代語にしてみた。

第6代孝安天皇の53年(前340年)*1 新羅の王子 アメノヒボコが帰化した。

ヒボコは、ウガヤフクアエズ(鵜葺草葺不合命)の御子・イナイ(稲飯命)の五世孫なり。

ウガヤフクアエズは、海神・豊玉命の娘・タマヨリヒメ(玉依姫命)を妻にし、イツセ(五瀬命)・イナイ(稲飯命)・トヨミケ(豊御食沼命)・サノ(狭野命)を生みました。

父君のウガヤフクアエズが崩御された後、世嗣よつぎのサノ(狭野命)は、兄たちとともに話し合い、皇都を中州なかつくに*1に遷したいと願い、船師*2を率いて、浪速津なにはつ(大阪湾)に至り、山跡川(大和川)をさかのぼり、河内の国・草香津くさかづ(東大阪市日下)に泊まりました。

まさに山跡(大和)に入ろうとした時、山跡国登見ヤマトノクニノトミ(奈良市)の酋長、ナガスネヒコ(長髄彦)は、天津神の子、ニギハヤヒ(饒速日命)を奉じて、兵を起こし、皇軍を穴舎衛坂クサカエザカ(東大阪市日下)にて迎え討ちました。

しかし、皇軍に利はありませんでした。サノ(狭野命)の兄、イツセ(五瀬命)に流れ矢があたり亡くなってしまいました。サノは、兄たちとともに、退いて海路をとることにしました。

まさに紀の国(和歌山県)に出ようとしたとき、暴風に逢ってしまいました。イナイ、トヨミケは、小船に乗りながら漂流し、イナイは、シラギ(新羅)*3に上り、国王となり、その国に留まりました。トヨミケは、海に身を投げて亡くなられてしまいました。

世嗣のサノは、ついに熊野に上陸し、イツセを熊野碕に葬り、進んで他の諸賊を誅し*4、ついでナガスネヒコを征伐しました。

ニギハヤヒの子、ウマシマジ(宇摩志麻遅命)は、父にすすめてナガスネヒコを斬り、出(い)でて地上に降りられました。中州はことごとく平和になりました。

世嗣のサノは、辛酉(かのととり)の年*5、春正月元日、大和橿原宮に即位し、天下を治め給う。これを神武天皇と称します。

(中略)

ヒボコは、八種の神宝を携え、御船に乗り、秋津州(あきつしま・本州の古名)に来ました。筑紫(九州北部)より穴門(下関の古名)の瀬戸を過ぎ、針間国(播磨)に至り、宍粟邑(しそう・今の宍粟市一宮町)に泊まりました。人々は、この事を孝安天皇にお知らせしました。

天皇は、すぐに三輪君の祖・オオトモヌシ(大友主命)と、倭直やまとのあたえの祖・ナガオチ(長尾市命)を針間国(播磨)に遣わし、来日した理由を問うようにいわれました。

ヒボコは、謹んで二人に向かって話しました。

「わたしは、新羅王の子です。我が祖は、秋津州(日本の本州)の王子・イナイ(稲飯命)。そしてわたしに至り、五世に及びます。
ただいま、秋津州(本州)に帰りたいと欲して、わが国(新羅)を弟の知古に譲り、この国に来ました。願わくば、一畝(ひとつのうね)の田を賜り、御国の民とならせてください。」と。

二人はかえり、この事を天皇に奉じました。天皇は勅(天皇の命令)して、針間国宍粟しさわ・しそう邑と淡路国出浅いでさ邑とをヒボコに与えました。
天日槍は、再び奏していました。

「もし、天皇の恩をたまわれれば、家来らが諸国を視察し、者たちの意にかなうところを選ばせてください。」と。

天皇はそれを許可しました。ヒボコは、菟道川(宇治川)をさかのぼり、北に入り、しばらく近江国の吾名あな邑に留まりました。さらに道を変えて、若狭を経て、西の多遅摩国(但馬)に入り、出島いずしま*6に止まり、住処(居所)を定めました。

ところで、近江国の鏡谷陶人かがみだにのすえとは、天日槍の従者で、よく新羅風の陶器を作ります。

さて天皇は、ついに天日槍命に多遅摩を賜りました。(但馬を与えた)

61年春2月、ヒボコを多遅摩国造としました。

ヒボコは、御出石県主ミズシアガタヌシ・アメノフトミミ(天太耳命)の娘・マタオ(麻多鳥命)を妻にし、アメノモロスク(天諸杉命)を生みました。

 

[註]

*1 中洲・葦原中国(あしはらのなかつくに)
 日本神話において、高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界、すなわち日本の国土のことである。
 *2 船師 江戸時代から明治初期にかけて、廻船を所有して海運活動を行った商人。船の運行に長けた人々のことだろう。

*3 新羅 稲飯命の頃に、半島南部は韓といって、空白地帯に縄文人や弥生人の倭人が住んでいた。三韓(馬韓・弁韓・辰韓)以前で当然国として弁韓に伽倻・任那など12のクニがあった。新羅国も12のクニがあったとされており、弁韓と辰韓は入り乱れており、伽倻に近いところに新羅というまだ小さなクニがあったかも知れない。やがて北部の中国の朝貢国高句麗がその後押しで南下し。漢族・ワイ族など朝鮮系の入植が進み、倭人の子孫との間に婚姻も進む。日本列島は朝鮮渡来人から発展したのではなく、まったく逆であり、半島が倭人が王となってから発展したので、倭に朝貢していた。その半島に渡った子孫の中に帰国して人もいただろう。)


*4  誅 目上の者が目下の者の罪をとがめ殺すこと。
*5 辛酉(かのととり)の日 西暦年を60で割って干支の組み合わせの58番目
*6 出島 今の出石町伊豆・嶋のことではないかと思っている。

つまり、『国司文書 但馬故事記』によると、稲飯命は古代日本の天皇家の皇統とある。これは日本書紀の引用であろうが、天日槍命は人皇初代神武天皇の兄、稲飯命の五世孫で、稲飯命は倭国のひとつである新羅王になったのだから、当時の半島南部は、任那・伽倻で倭国の一部で朝貢国であったろう。その一国から新羅が生まれ、記紀編纂の頃には百済・新羅という国は成立していたが、垂仁天皇3年の頃は新羅という国も半島南部に国家らしきものは全くなく、小さな(クニ)であった。紀は説明がわざと省いたのか「新羅国の王子」のまえに、「今で言う新羅国のあたりの王子」が省かれている。いや友好的な百済国ならまだしも、敵対国で名を記すのも憚れる新羅の王子としたのは、ある意図があったのかも知れないのである。

『但馬故事記』八巻の中で、円山川水系の朝来郡・養父郡・気多郡・城崎郡の各故事記が天火明命あめのほあかりのみことで始まるのに、二方郡のみ書き出しが、大己貴命が出雲国から伯耆・稲葉(因幡)・二方国を開き、多遅麻に入り、伊曾布・黄沼前・気多・津・薮・水石の県を開いで始まり、出石郡は、大己貴命と稲葉(因幡)の八上姫の間に御出石櫛甕玉命みずしのくしかめたまのみことが生まれる。御出石櫛甕玉命は、天火明命の娘・天香山刀売命あめのかぐやまとめのみことを娶り、天国知彦命を生み、天国知彦命が初代の御出石県主みずしのあがたぬしとなる。

ところが、突如脈略もなく、天日槍が出石に現れて、御出石県は伊豆志(出石)となり、出石は一県から但馬の政治の要となり今の出石神社あたりへ遷っている。

記述が異なるのは、天火明命が但馬に入る以前より、出雲勢力の御出石県・二方県があって、人皇6代孝安天皇53年、突如天日槍が登場し、初代多遅麻国造なる。御出石県主・天太耳命の娘・麻多鳥命を娶り、天日槍の子天諸杉命あめのもろすくのみことを以って、2代多遅摩国造と為す。政略結婚によって皇統の国造が気多郡に多遅麻国の府が遷るまで歴代続く。朝廷側に組み入れられたと考えなくもない。これは丹波から但馬が分国し、直轄領(天領)的に、大和政権化に組み入れられたのかも知れないが、日本海の最前線として但馬の重要性が増したのではないだろうか。

丹波と大和朝廷の関係が深くなるのは、天日槍が初代多遅麻国造になる6代孝安天皇(長浜浩明氏の算定で在位期間:西暦60-110年)これより3代のちの人皇9代開化天皇(同じ算定では178-207年)からで約100年後となる。

皇后は伊香色謎命(いかがしこめのみこと) 元は孝元天皇の妃。
一番目の妃に丹波竹野媛(たにわのたかのひめ、竹野比売) – 丹波大県主由碁理の娘。
二番目の妃:姥津媛(ははつひめ、意祁都比売命)姥津命(日子国意祁都命、和珥氏祖)の妹との第三皇子が彦坐王(ひこいますのみこ、日子坐王)

人皇11代垂仁天皇(在位:290-242)が、皇后に彦坐王の女:狭穂姫命(垂仁天皇5年に焼死したとされる)
後の皇后に彦坐王の子・丹波道主王の女・日葉酢媛命
妃:渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。日葉酢媛の妹)
妃:真砥野媛(まとのひめ。日葉酢媛の妹)
妃:薊瓊入媛(あざみにいりひめ。同上)
(他に、3人の妃が他の国から来ている)


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東構区の元となった小字北構は宵田城か祢布城どっちの構か?!

宵田・祢布字限図

豊岡市役所日高総合支所にて明治時代の字限図をいただいた。
当時の気多郡日高村祢布にょうと岩中の字限図を合成したが、市役所の担当の方もおっしゃっていたように、かなり境の記載が手書きによりいい加減なところがあるが、時代的に測量技術が現在と比べて未熟でも祢布と岩中の大字の境は知ることができた。

拙者が住む東構ひがしがまえ区は、第二次但馬国府推定地大字祢布にょうの南部と、山名四天王の一人で気多郡を治めていた垣屋氏の宵田城があった大字岩中北部が、日高村の中心部として発展を遂げ、大正時代に独立して区として誕生し、旧日高町では新しい今年で100周年を迎えた区である。「ひがしかまえ区誌」(昭和60年1月10日発行)によれば、東構区の区名は、大正4年4月25日、日高村議会に新区設立を申請し承認を受けたのが東構区の誕生である。

その際の村議会議事録には、
「議会申請第拾七号議案
西気県道筋 岩中村所属 祢布村所属ヲ合ワセ行政上便宜ノ為一ノ行政区ヲ設置其ノ名称ヲ
東構ト定ム」
日高村長 藤本 俊郎 印
認可ス 印

新区は、大字祢布と大字岩中から成り、大字岩中字東柳の「東」と大字祢布字北構の「構」をとり東構区と名付けられたものである。

構(カマエ)とは何か

上記の通りよく東構があるなら西構はないのかとか聞かれたりするが、東は岩中字東柳の「東」で、東西の方向ではない。明治になって日置郷と高田郷、高生郷が合併し「日」と「高」の1字ずつをとって日高村が誕生したのと似ている。その「東柳」は岩中の東に柳の木があったからなのだろうが、東構区から祢布への旧道から拙者の自宅も字東柳で、日高小学校は当初東柳小学校という名称だった。では「構」とは何を意味するのだろうかと幼い頃より疑問があった。これは区の境界のうち、久斗との境界はことぶき苑入口西の現在工事が行われている豊岡自動車道で、工事前の調査の際に古墳や居館跡が発掘され、南構遺跡と名付けられた地点である。県道をはさんで北側が祢布字北構、南側から稲葉川までを南構という。

この地点は明治まで気多郡高田郷で、但馬国府が置かれていた高田郷祢布内であり、気多郡をはじめ但馬の中心部であった。高田は久斗区がかつては高田村と呼び、国史文書『但馬郷名記抄』には、高田郷は高機郷なり。雄略天皇の御世十六年夏六月、秦の伴部を置く。養蚕・製糸の地なり。
とある。平成になり閉鎖されたグンゼ日高工場があったこともその証である。今でも久斗区内の旧家には、三階の部分に蚕室を設けた三階建ての住居は、養蚕がさかんだった名残りが伝わるのである。

さて、話を東構区に戻そう。
『但馬郷名記抄』にはその名の通り郷名、村名までで、残念ながら小字までは記されてはいない。まあそこまで調べるのは大変であるし、その必要性は薄かったのだろうか。

高田郷は稲葉川に沿った気多郡の東西と但馬の中心部を南北に流れるの円山川が流れる交通の要所で、古くは但馬国府・国分寺が置かれていた場所である。西から夏栗・久斗くと・祢布にょう・国分寺・水上で、今の区では、夏栗・久斗くと東構ひがしがまえ祢布にょう・国分寺・水上みのかみにあたる。

構は御土居ともいい、近世以降の城郭では、大阪城、姫路城のようにそのぐるりと囲む惣構(総構)のことである。しかし宵田や祢布城は、そのような広大なものではなかったし、すでに祢布城があった頃に祢布の字であるので北構と南構ができたと考えるのが自然だと思う。

祢布城があった丘の小字は祢布字城山で、付近に祢布区の旧村社、楯石神社がある。宵田城の北で円山川の支流、稲葉川を越えた宵田城は高生郷であるのに、すぐ城の近くまで高田郷祢布字丁子となっていることだ。これはのちに室町時代に高生郷岩中に佐田の楽々前城の支城として築城された宵田城より古く、祢布城が南北朝期にはのちに宵田城が築かれた高生郷岩中字城山に隣接する北面まで祢布としてすでに開発されたのであり、祢布の小字、北構・南構・丁子がすでにあったのではいかと思えるからである。北構と南構は高田郷祢布の小字であるし、宵田城を険しい斜面の下に流れる稲葉川で挟んだ反対側で、地図のように高生郷岩中の宵田城のすぐ北側までが、高生郷とは違う高田郷祢布の字名が稲葉川の南岸まで南北に細長く連なっている。

祢布城は宵田城築城より古く、宵田城の西麓までが祢布字丁字とあるから、北構・南構はこの2城のいずれかの構だとすると祢布城のものと考えるのが自然だろう。宵田城により開墾されたものであれば、岩中の字になるはずで、築城以前にすでに、祢布北構・南構・丁字は地名としてあっただろう。祢布城は南北朝期の城であるが戦国期に改修したあとがあるそうだ。宵田城の支城として両側から敵に備えるために祢布城と宵田城の中間の西気街道の北と南の両側に土塁(構)を築いたのなら、祢布の構も宵田城の構でもあり同じことだが、宵田城築条以前から祢布字北構・南構・丁字が宵田城のすぐそばまであったと思えるから、宵田城築城以降の戦国期に名付けられたものとは考えにくいのではないだろうか。どうも構という小字はこの頃に生まれたと考えるがどうであろう。

ちなみに、祢布字北構の東に字サヲリがある。サヲリとは何だろうか。  ウィキペディアによれば、日本の女性の名前のひとつ。漢字表記は「沙織」「紗織」「佐緒里」など。仮名で「さおり」「さをり」「さほり」と書く例も多い。また、田植え前に作業の無事を祈る祝祭を「さおり」、田植えの終了時に豊作を祈る祝祭を「さのぼり」とよぶ(当地ではさなぼりと云う)。稲の神「さ」が田圃に「おり」てくることを語源とする説が有力である。

これらに語源が見つけられるとすれば、田があり、豊作を祈ってサヲリと名づけたのではないだろうか。祢布城から宵田城の稲葉川をはさんで北側一体は奈良時代までは林野であったらしく、岩中荒田の北は岩中字東柳、北西は祢布字祢布ケ森、字ガケガ森、字松ヶ花、西は字井森木と、樹木が生い茂る野原だったと思わせる小字名が連なっている。

宵田城(別名:南龍城)は、室町時代(永享2年:1430)の築城で、稲葉川がカーブする地の利を生かして南北に流れる円山川流域と気多郡の東西が見渡せる楽々前城と同じ尾根にあり絶好の地形にあるが、祢布城と宵田城とは郷が異なる。高生郷の岩中から稲葉川を渡った鹿嶋神社からが登り口である。すぐ北が宵田で、宵田城主の垣屋氏の殿屋敷があったので宵田殿と呼ばれていたと思われる。宵田殿の城という意味から岩中城ではなく宵田城と呼ばれたのだろう。宵田という地名は他の豊岡城下、出石にも残る。垣屋氏が木崎城(のち豊岡城)の城代を務めたことから豊岡市宵田町という地名が残り、出石には山名氏の有子山城下に山名四天王で気多郡を任された垣屋氏の居館があったとされる宵田町、城崎郡を任された田結庄氏の田結庄や養父郡を任された八木氏の八木がある。

稲葉川は城の北は深いが岩中では浅く広くなり登城口に岩中区の村社である鹿島神社があり、高田郷祢布字北構・南構の方面から稲葉川を渡って字北構・南構の方面から稲葉川を渡って登城したような道はあったのだろうか。宵田城の本丸までの大手は岩中側からで、城の北面にも小さな郭がいくつも築かれているものの、しかも崖が険しく天然の堀である稲葉川対岸に二重に構を作って宵田城を守る必要があったのであろうか?今では用水を兼ねた小さいコンクリート橋がかかっているが崖が険しく、稲葉川対岸に渡れるようになっていたとは考えにくい。搦手口として尾根伝いに楽々前城まで繋がっていたとも伝え聞く。ここの川幅は短く木橋をかけることは容易だろうが、稲葉川を渡っていた宵田城の市場や構として築いたとは考えにくいのである。

構の3つの説を考えてみた。

1.居館等の構造物だとする


豊岡自動車道工事中に見つかった南構遺跡(2013)

「構」を住居跡や井戸などの建造物や工作物とする見方もある。住居跡には珍しい古墳も築かれているので、国府が置かれる奈良時代以前からこの場所にはかなり位の高い人がいたようだ。祢布字北構・南構という小字名がいつごろからそう呼ばれるようになったのかは不明だが、すぐ西は久斗字市場。祢布字南構は、西は久斗、その東は岩中字荒田という。南北に細長く延びた字で、稲葉川を挟んだ対岸から宵田城西域までかなり広い字が祢布字丁字と祢布になっていることが不自然なのだ。祢布は実に大きな区域で、北は集落からかなり奥の深い谷から、久斗と岩中の間に字北構・南構が挟まれるように続き、さらに稲葉川対岸の宵田城西まで細長く延びていることがわかる。西気、三方から国府や円山川に向かうには、この細長い祢布の区域を避けては通れないようになっている。また、南構に隣接する字は祢布が森にあった但馬国府の高官が構えていた居館ではないかとも考えられる。

2.公有地を囲っていたから北構、南構

南構から稲葉川を挟み宵田城(岩中区字城山)の西の麓まで祢布で祢布字丁字となっている。丁は田の面積を表す丁(町)で、その丁の小字という意味か。(すぐ南に岩中字蝶子谷がある。「ちょうじだに」と読むのだろうから、丁字と蝶子谷は同音異字で、他に意味があるかも知れない。)小字は、奈良時代にはすでにそのような人工的な人の集積地、構造物や田畑があったことを示し地名がすでに存在していたとすると、久斗字市場や岩中荒田よりも古くから祢布だったようである。「構」はカマエ、コウとも読む。構造物以外に囲いの意味もある。国府の公有地であると防御のために囲っていたのかも知れないが、思い当たるのが奈良時代前期の三世一身法や、のちの墾田永年私財法である。

奈良時代中期の聖武天皇の治世に、自分で新しく開墾した耕地を永年私財化を認める、つまり何代も私有化できるように定めたことだ。祢布村の人が開いた田畑だったのではないか。今では雑木林となっているが、私有化が許されて、子や兄弟が山々の奥地まで耕作地を開いたのかもしれない。岩中は高生郷で『但馬郷名記抄』に矢作部ヤハギベ(おそらくのちの地下村で今の岩中西部)、善威田ヨヒダ(今の宵田)、善原エバラ(今の江原)、稲長イナガ(今の岩中)。「古語は多可布。威田臣荒人の裔、威田臣高生在住の地なり。この故に高生と名づく」とある。おそらく律令期以降墾田されたことに由来するとすれば、稲長の新田シンデンをアラタと読み、荒田に変化したのか、実際に荒れた土地だったか、また威田臣荒人の末裔の田という意味から荒田としたのかいずれによるのかは定かではないが、そのどれかで間違いないだろう。

祢布に隣接する岩中北部の小字名が荒田、焼辻、中坪など墾田による人工的な手を加えたものによる地名で、北構・南構の東に字郷境がある。今の日高医療センター(旧日高病院)がある岩中の小字で、今はすっかり街なかになっているが、当時、郷の境には人が住んでいなく何もない寂しいところであったと思われる。荒田が開発され、野が焼かれて田畑になったところが焼辻であろう。荒田と書くが新田しんでんを「あらた」と読み、荒田と書くようになったのかもしれない。

3.祢布城か宵田城の構(御土居)

私は祢布字北構・南構は、祢布城か宵田城の御土居をさすのではないかと思うのである。敵が攻めて来にくいいように城や屋敷の周囲を土塁で囲むもので惣構という。その土塁を御土居ともいい、土を盛って防御した。姫路城下など全国に御土居や御土居町の地名が残っている。宵田城のすぐ北に南北朝の頃に築城されたとする祢布城がある(但馬国府・国分寺館のすぐ裏手の小山)。どこの城の構を意味するのだろうか疑問があった。この構は宵田城の構(堀や石垣、土塁で囲い込んだ日本の城郭構造)であるとされているが、本当に宵田城の構なのかと思うからである。

拙者は、「構」は、3.の城の防衛のために垣屋氏が設けた構(土居)だとする説が濃厚だと思う。

以前に引用させていただいた宿南保氏『但馬の中世史』の図をもう一度見てみよう。

本文にこう著されている。

垣屋氏が主家の山名氏と存亡を賭けた戦いを交えるようになって、惣領家の越前守家は再び故地に還り、「永正九年(1512)亀ヶ崎城ニ移ル」(『因幡垣屋系図』)仕儀になったものと推定する。(中略)

鶴ヶ峰城に惣領家が移ったあとの楽々前城には、宵田城から越中家が移って入ったといわれる。宵田城へは惣領家の分家、垣屋新五郎豊成の子孫が入ったのではないか。(中略)

東西に伸びるこの谷の入口部を制する位置の南側の山上に宵田城、その向かいの北側の山上に祢布城があって、その両域を結ぶ平地部の直線上には、「南構」「北構」の小字名が橋渡しのように接続している。明確に入口部に防衛線が構築されていたことを物語っていよう。南構と北構の境界線上には街道があって、それが西方向へと伸びていたのだろう。南構の西に細長い「市場」字名の存在することは、街道沿いに市場の形成されていたことが読み取れる。(中略)
美含みぐみ郡竹野郷は垣屋駿河守家の所領であったことはしばしば述べた。垣屋氏三家は、現在の日高町域から竹野町域にかけての連続した地域を勢力圏としていたことがわかろう。この地域を根城に、垣屋氏は主家山名氏に対抗したのであった。

円山川支流稲葉川沿いに西から鶴ヶ峰城、楽々前城、宵田城の垣屋氏の城がほぼ等間隔に並んでおり、山名氏が出石方面から攻め入るにはまず谷の入口部にあるのが宵田城で、祢布城は戦国期にも改修されたらしいので宵田城と祢布城をその支城とし、南北で西の下谷(三方盆地)の最前線に第一防衛線として構を築いたのではないだろうか。第二防衛戦が楽々前城、最後の本陣が鶴ヶ峰城なのである。

  
左祢布城・右国分寺山城             宵田城

  
西下谷(三方盆地)から眺める気多谷(夏栗から久斗)。右手が楽々前城から宵田城への佐田連山。左手が久斗

但馬の城郭研究の第一人者、西尾孝昌先生の『豊岡市の城郭集成Ⅱ』によれば、南北朝から戦国期にかけて垣屋氏の本城楽々前城、久斗城、祢布城、国分寺城と城が東西に細長く密集しており、戦国以降に宵田城が築城されるなど要衝であったことは明らかだ。祢布城は標高110mの丘陵突端にある。城域は東西80m、南北約140mの宵田城とは比較にならない規模だ。城主は高田次郎貞永であり、南北朝の頃、山名時氏によって滅ぼされた(『但馬の城』)というが定かではない。しかし曲輪や堀切などはしっかりしており、戦国期に改修されてる。規模的には地侍クラスの「村の城」であるが、戦国期には東の国分寺城と共に宵田城の支城として神鍋・三方の谷を監視・封鎖する役割を担っていたものと思われる。

とよおか市民学芸員養成講座 最終回を終えて

とよおか市民学芸員講座

3.15(日)昨年より平成26年度 とよおか市民学芸員養成講座も、13回目。本日で最終回となりました。
3回めから参加でしたが、有意義な講座でした。

講師は、近大姫路大学 人文学・人権教育研究所講師の松下正和 先生でした。

とよおか市民講座 「豊岡を歩いた伊能忠敬」

測量日記

とよおか市民学芸員 養成講座 第12回 「豊岡を歩いた伊能忠敬」

平成27年2月8日
講師:但馬国府・国分寺館館長 加賀見 省一氏

江戸時代に日本で初めて測量地図を作ったことで有名な伊能忠敬。地図好きな私には興味の高い人である。
伊能の一行は、但馬国分寺礎石を訪ねているのでわが町にも歩いて測量していたことは知っていました。

いただいた資料によると、第一次測量は、寛政12年(1800)、東北から蝦夷(北海道)西別にはじまっているが、その時に伊能は55歳でそれから第10次測量の1815、16年には70、71歳まで15年間かかっているが、その年令に驚く。
延享2年(1745)、上総国(現千葉県)の九十九里町に生まれた。幼名は三治郎。
宝暦12年(1702)、佐原村(現佐原市)の伊能家の婿養子になり、忠敬に改名。
寛政7年(1795)、49歳で隠居をし、家督を長男に譲る。
翌年江戸に出て、幕府天文方の高橋至時(よしとき)に弟子入り。
寛政12年(1800)、初めて奥州街道と蝦夷の東沿岸部までを測量した。
第5次測量からは、正式に幕府の事業として行われた。
第9次測量は、70歳を超えた忠敬を心配する周囲の反対により不参加。

 

豊岡の近代化遺産・城下町界隈

とよおか市民学芸員養成講座第九回 「豊岡の近代化遺産」
講師:松井敬代さん(豊岡市教育委員会主幹)
日時:平成26年11月16日10:00-12:00

とよおか市民学芸員養成講座第9回に参加してきました。
ポカポカした陽気に恵まれ、近代化遺産と京町の城下町界隈に残る遺産を歩いてまわりました。

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