【日本神話】 第5巻「人代編」 第2章 タギシミミの反逆

天皇(神武天皇)にはヒメタタライスケヨリヒメ(ヒメタタライスズヒメ)との間の子、カムヤイミミ(神八井耳命)、ヒコヤイ(日子八井命)、カムヌナカワミミ(神沼河耳命)の他に、日向にいたころにアヒラヒメ(阿比良比売)との間にタギシミミ(多芸志美美命)、キスミミ(岐須美美命)の二柱の子をもうけていました。

天皇が崩御した後、タギシミミはヒメタタライスケヨリヒメを妻にし、その3人の御子を殺そうと計画していました。それを知ったイスケヨリヒメは3人の御子にそれを知らせようと、「狭井河から雲が立ち登って、畝傍(うねび)山では大風が吹く前触れとして、木の葉がざわめいている」という内容の歌を詠みました。その歌の意味を解した御子たちはすぐにタギシミミを殺すことにしました。

カムヌナカワミミは、兄のカムヤイミミに武器を渡してタギシミミを殺すように言いました。しかし、カムヤイミミは手足がわなないて殺すことができなかったので、カムヌナカワミミが兄の持っている武器を取ってとどめを刺しました。そこで、それを賛えてカムヌナカワミミはタケヌナカワミミ(建沼河耳命)とも言います。カムヤイミミはこの失態を恥じ、弟のカムヌナカワミミに皇位を譲り、自らは神官となって仕えました。

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【日本神話】 第5巻「人代編」 第1章 神武東征

[古事記]

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ=神武天皇)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにしました。

舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げました。そこから移動して、岡田宮で1年過ごしました。さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごしました。

浪速国の白肩津(現 東大阪市附近・白肩は枚方(ひらかた)のもとという)に停泊すると、ナガスネヒコの軍勢が待ち構えていました。その軍勢との戦いの中で、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言いました。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなった。
カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えました。するとカムヤマトイワレビコを始め兵士たちは皆気を失ってしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持って来ると、カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。カムヤマトイワレビコがその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちも意識を回復しました。

カムヤマトイワレビコはタカクラジに太刀を手に入れた経緯を尋ねた。タカクラジによれば、タカクラジの夢にアマテラスと高木神が現れました。二神はタケミカツチを呼んで、「葦原中国は騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じましたが、タケミカツチは「平定に使った太刀を降ろしましょう」と答えました。そしてタカクラジに、「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とすから、天津神の御子の元に運びなさい」と言いました。目が覚めて自分の倉を見ると本当に太刀があったので、こうして運んだという。その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマと言い、現在は石上神宮に鎮座している。

また、高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から大和の宇陀に至りました。
宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいた。まず八咫烏を遣わして、カムヤマトイワレビコに仕えるか尋ねさせたが、兄のエウカシは鳴鏑を射て追い返してしまいました。

エウカシはカムヤマトイワレビコを迎え撃とうとしたが、軍勢を集められなかった。そこで、カムヤマトイワレビコに仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて圧死する罠)を仕掛けた。弟のオトウカシはカムヤマトイワレビコにこのことを報告しました。そこでカムヤマトイワレビコは、大伴連らの祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直らの祖の大久米命(オオクメ)をエウカシに遣わしました。二神は矢をつがえて「仕えるというなら、まずお前が御殿に入って仕える様子を見せろ」とエウカシに迫り、エウカシは自分が仕掛けた罠にかかって死にました。

忍坂の地では、土雲の八十建が待ち構えていました。そこでカムヤマトイワレビコは八十建に御馳走を与え、それぞれに刀を隠し持った調理人をつけた。そして合図とともに一斉に打ち殺しました。

その後、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦った。そこに邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えました。

こうして荒ぶる神たちを服従させ、畝火の白檮原宮(橿原の宮)で即位しました。
その後、大物主の子である比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)を皇后とし、日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命(カムヤイミミ)、神沼河耳命(カムヌナカワミミ、後の綏靖天皇)の三柱の子を生ました。

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【日本神話】 第4巻「日向編」 第2章 海幸・山幸

■海幸・山幸

火の中から産まれてきた三人の子供のうち、お兄さん(ホノスソリノミコト*1)は海で釣りをするのが上手だったのでウミサチヒコ(海幸彦)と呼ばれ、弟(ヒコホホデミノミコト*2)は山で狩りをするのが上手だったのでヤマサチヒコ(山幸彦)とよばれました。

[註] *1 『日本書紀』では火闌降命、『古事記』ではホデリノミコト・火照命
*2 『日本書紀』では主に彦火火出見尊、『古事記』ではホオリノミコト・火遠理命

ある日二人は「取りかえっこしてみよう。」と話して、ウミサチヒコは山に狩りに行き、ヤマサチヒコは海に釣りに行きました。しかし、二人とも何にも捕まえられませんでした。それに、ヤマサチヒコはお兄さんから借りた釣針を海でなくしてしまって困っていました。

ヤマサチヒコは自分の刀をこわして沢山の釣針を造って「これで許してください。」と一生懸命謝りましたが、お兄さんは「なくなったあの釣針じゃないとだめだ。」と許してくれません。

■海宮遊行

どんなに探しても釣針を見つけられないヤマサチヒコが困っていると、おじいさん(シオツチノオジ)がやってきて「どうしてそんなに困っているのですか。」と聞きました。ヤマサチヒコがわけを話すと、あっという間に船を造り、「この船で海の世界に行きなさい。」といいました。

ヤマサチヒコはおじいさんの言う通り、その船に乗って海の底深くに潜っていきました。

さて、海の世界に行ったヤマサチヒコは、海神の宮という家の前にある大きな木の上に登っていました。そこは海の世界を守っている神様(ワタツミ・トヨタマヒコ)の家でした。

すると、そこに井戸の水を汲もうとしたトヨタマヒメがやってきました。木の上に人がいるのを見てびっくりしたトヨタマヒメは急いで家に帰って

「井戸に水を汲みに行ったら、そばの木の上に男の人がいました。その人はとても立派なお顔をしていて、きっととても偉い人だと思います。」と両親に話しました。

海の神様が「あなたはどなたですか。」と聞いたので、ヤマサチヒコは「私は天から降りてきた神の子供です。」と答えました。

海の神様は、ヤマサチヒコをとても大切なお客様として、たくさんのご馳走や踊りを披露したりしてもてなしました。それからしばらくしてヤマサチヒコはトヨタマヒメと結婚して、海の神様の家で一緒に暮らしていました。

ヤマサチヒコが海の国に来て三年がたちました。ときどき「はあ」と溜め息を吐くヤマサチヒコをみてトヨタマヒメが「ひょっとしてあなたは自分の家に帰りたいのですか。」と聞くと、ヤマサチヒコは「その通りだ。」と答えました。そこでトヨタマヒメは父親に、ヤマサチヒコは帰りたいといっていると相談をしました。

娘から話を聞いた海の神様は、ヤマサチヒコが探しているお兄さんの釣針をみつけてあげようと、海の世界の全部の魚を集めました。すると魚たちが「鯛が口が痛いと言って来ていません。」というのでその鯛を呼び出して口の中をみるとヤマサチヒコの針が刺さったままになっていました。

そして、この針を海の神様が取ってあげました。

さあ釣針が見つかったので、これでお兄さんに返すことができます。地上の世界に帰ろうとしているヤマサチヒコに向かってトヨタマヒメが言いました。「もうすぐあなたの赤ちゃんが産まれます。赤ちゃんを産むときにはあなたの所に行きますので、家を造って待っていてください。」そして、ヤマサチヒコは、釣針と海の神様からもらった二つの魔法の瓊(たま)をもって、地上の世界に帰っていきました。

青島神社
御祭神 彦火火出見命・豊玉姫命・塩筒大神
宮崎県宮崎市青島2丁目13番1号

引用:宮崎県 「民話と伝承」

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日本神話と神々

神代神話の概略構成

現在、日本神話と呼ばれる伝承は、そのほとんどが『古事記』、『日本書紀』および地方各国の『風土記』にみられる記述をもとにしています。高天原の神々を中心とする神話がその大半を占めていますが、その一方で出典となる文献は決して多くはありません。

本来、日本各地にはそれぞれの形で何らかの信仰や伝承があったと思われ、その代表として出雲(神話)が登場しますが、倭(ヤマト)王権の支配が広がるにつれて、そのいずれもが国津神(くにつかみ)または「奉ろわぬ神」(祟る神)という形に変えられて、「高天原神話」の中に統合されるに至ったと考えられています。

また、後世までヤマト王権などの日本の中央権力の支配を受けなかった北海道や琉球にはそれぞれ独自色の強い神話が存在します。自分達の世界がどのようにして生まれたか。このことは古代人にとっても大きな問題でした。『古事記』、『日本書紀』の最初の部分は世界誕生のころの物語となっていますが、『古事記』と『日本書紀』との間で、物語の内容は相当に異なります。

さらに、『日本書紀』の中でも、「本書」といわれる部分の他に「一書」と呼ばれる異説の部分があります。これはヤマト王権が各国の伝承・特産などを調べ『風土記』として提出させたのですが、このようにして、神々の誕生の神話は1つに定まっていないので、公平に一書として併記しているのは、すでに当時、日本は民主国家的であったということをすさしているとも思えます。

『古事記』(和銅5年(712年)は一般に一つのストーリーとなっている歴史書で、『日本書紀』(養老4年(720年)に完成)は、対外向け正史といわれていていますが、特に有名な出雲神話・日向神話(天孫降臨)は古事記以外の伝承も記載しました。

記紀などにおいて神代(かみよ 神の時代、神話時代)として記された神話は、以下の通りです。神代は、神武天皇の在位する以前までの時代のことである。

『古事記』

『古事記』によれば、世界のはじまった直後は次のようであった。
『古事記』の「天地初発之時」(あめつちのはじめのとき)という冒頭は天と地となって動き始めたときであり、天地がいかに創造されたかを語ってはいないが、一般的には、日本神話における天地開闢のシーンといえば、近代以降は『古事記』のこのシーンが想起される。

『日本書紀』

『日本書紀』における天地開闢は、渾沌が陰陽に分離して天地と成ったという世界認識が語られる。
続いてのシーンは、性別のない神々の登場のシーン(巻一第一段)と男女の別れた神々の登場のシーン(巻一第二段・第三段)に分かれる。
また、先にも述べたように、古事記と内容が相当違う。さらに異説も存在する。

ここでは神社に祀られる御祭神の由来と関係のある神話に絞って、できるだけ簡潔に解説することを心がけております。

第1巻 創世編
第2巻 高天原編
第3巻 出雲編
第4巻 日向編
第5巻 人代編

あらすじ

第1巻

創世編

天地の始まり 天地開闢(てんちかいびゃく)

世界の最初に高天原で、別天津神・神世七代という神々が誕生。これらの神々の最後に生まれてきたのが伊弉諾尊(伊邪那岐命・いざなぎ)・伊弉冉尊(伊邪那美・いざなみ)である。

国産み・島産み

イザナギ・イザナミの両神は葦原中国に降り、結婚して大八洲と呼ばれる日本列島を形成する島々を次々と生み出していった。

神産み

さらに、さまざまな神々を生み出していった。一部内容ではイザナギは黄泉の国へ向かい、その後、黄泉のケガレを祓う為禊をし、この時もさまざまな神々が生まれた。

黄泉の国(よみのくに)

第2巻

高天原編

 (高天原神話)

アマテラスとスサノオの誓約

素戔嗚尊(須佐之男命・すさのを)は根の国へ行途中高天原へと向かう。天照大神(天照大御神・あまてらす)はスサノヲが高天原を奪いに来たのかと勘違いし、弓矢を携えてスサノヲを迎えた。スサノヲはアマテラスの疑いを解くために誓約で身の潔白を証明した。

天岩戸

しかし、スサノヲが高天原で乱暴を働いたためアマテラスは天岩戸に隠れた。そこで、神々は計略でアマテラスを天岩戸から出した。スサノヲは下界に追放された。

第3巻

出雲編

ヤマタノオロチ

スサノヲは出雲の国に降り、八岐大蛇(八俣遠呂智)を退治し、奇稲田姫(櫛名田比売・くしなだひめ)と結婚する。スサノヲの子孫である大国主(大己貴命・おほあなむち)はスサノヲの娘と結婚し、少彦名命(すくなひこな)と葦原中国の国づくりを始めました。

因幡の白兎

兄神たちの迫害

オオクニヌシ(大国主)の国づくり

オオクニヌシ(大国主)の国譲り(葦原中津国平定)

高天原にいた神々は、葦原中国を統治するべきなのはアマテラスの子孫だとした。そのため、何人かの神を出雲に使わした。最終的に大国主が自らの宮殿建設と引き換えに、天津神に国を譲ることを約束します。

第4巻

日向編

天孫降臨

アマテラスの孫である瓊々杵尊(邇邇藝命・ににぎ)が葦原中国平定を受けて日向に降臨した。ニニギは木花開耶姫(木花之佐久夜毘売・このはなさくやひめ)と結婚し、木花開耶姫は(主に)火中で御子を出産しました。

山幸彦と海幸彦

ニニギの子である海幸彦・山幸彦は山幸彦が海幸彦の釣り針をなくした為、海神の宮殿に赴き釣り針を返してもらい、兄に釣り針を返し従えた。山幸彦は海神の娘と結婚し彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(鵜草葺不合命)という子をなした。ウガヤフキアエズの子が神日本磐余彦尊(神倭伊波礼毘古命・かんやまといわれひこ)、後の神武天皇である。
天地の中に葦の芽のようなものが生成された。これが神となる。

第5巻

人代編

神武東征

カムヤマトイワレヒコは兄たちと謀って大和を支配しようともくろみます。ヤマトの先住者たちは果敢に抵抗し、カムヤマトイワレヒコも苦戦しますが、結局は成敗されます。彼は畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)の山麓で即位します。これが初代天皇である神武天皇であられます。

神武天皇の死後、神武天皇が日向にいたときの子である手研耳命(たぎしみみ)が反乱を起こします。神渟名川耳尊(神沼河耳命・かむぬなかわみみ)がそれを破り、皇位を継ぎます。

タギシミミの反逆

神武天皇が崩御した後、皇位に就こうと画策したタギシミミをカムヌナカワミミ(後の綏靖天皇)らが討ちます。

欠史八代

『古事記』・『日本書紀』において、系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のことです。あるいはその時代を指します。神社の神々(御祭神)としてはとくに見当たらないので省きます。

引用参考:ウィキペディア、神社人

【日本神話】 第4巻「日向編」 第1章 天孫降臨

■日向神話の構成

日本神話の中心は古事記・日本書紀にみえる神話です。この2つの書の神話は必ずしも同じではないが、全体としては1つの筋をもっていて、日本国と皇室の創生の物語が中心となっています。その物語の舞台は3つあります。出雲(今の島根県)、そして日向(今の宮崎県)と大和(今の奈良県)です。(高天原を加えれば4つ)

出雲の場合は大方が独立した物語で展開します。それに対して、日向と大和の場合は、天・地・海の神の世界から日向へ、日向から大和へと連続した物語として展開します。

このように2つの書は、内容上は、大きくは「神の世界の物語」から「日向での神と人との物語」そして「日向から大和の人」の物語へと展開します。

なかでも注目されるのは、日向を舞台とした「神」の世界から「神と人」の世界として展開し、それは「日向三代神話」とよばれています。

それはアマツカミ(天神)「ニニギノミコト(一般には瓊瓊杵尊や瓊々杵尊、邇邇芸命)」の御代の、「天孫降臨」「コノハナノサクヤビメの結婚」、「火の中の出産」

(コノハナノサクヤビメ 『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫)
アマツカミ(天つ神)「ホホデミノミコト」の御代の「海幸・山幸」「海宮遊行」

アマツカミ(天つ神)「ウガヤフキアエズノミコト」の御代の
「ウガヤフキアエズの誕生」
(『古事記』では天津日高日子波限建鵜草葺不合命、『日本書紀』では彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊)

それに神武天皇の「神武東征(東行)」

以上7つの物語が主たる内容になっています。

そしてその物語の展開は、アマツカミ(天神)とその子孫がクニツカミ(国津神・地神)のヒメ神と、さらにはワタツミノカミ(海神)のヒメ神と結婚し、人皇であるカムヤマトイワレビコノミコト(神武天皇)が誕生するという構成になっています。これは、アマツカミ(天神)によるクニツカミ(地神)とワタツミノカミ(海神)の統合の上に人皇初代が生み出されたという古代の人々の考えが表わされていて、これが日向を舞台としている神話の特色です。

なぜ古代国家のなかでも、都から遠くはなれた僻遠の地にある日向が、これらの物語の舞台になったのであろうか。それは一口でいえば、この物語が創りだされる時代に、日向が朝廷と深いかかわりを持っていて、日向を無視できない事情があり、また物語の展開の上で最もふさわしい土地とみられる要素があったことが考えられる。歴代天皇にかかわる日向の女性が物語のなかにしばしば登場するのもそれらを示唆しているものと思われます。

■天孫降臨

雲の上のまだずっと高くの神様の国で、この日本を造った神様たちがお話をしていました。アマテラスオオミカミという一番えらい神様が、(自分の孫の)ニニギノミコトという神様にいいました。「この稲の穂と、神の三つの宝の鏡・曲玉・剣をもって地上に降りていきなさい。そして、日本の国(葦原中国)がもっといい国になるように頑張ってきなさい。」

それでニニギノミコトは神様の国を離れて、筑紫の日向の高千穂という場所に降り立ったのです。

■コノハナノサクヤビメの結婚

高千穂に降り立ったニニギノミコトはその近くに家を建てて住んでいましたが、そこでとても美しい女の人に出会いました。ニニギノミコトは、その美しい姫(コノハナサクヤヒメ)と結婚したいと思い、姫の父親にお願いしました。父親は「姫を嫁に欲しいのなら、姉(イワナガヒメ)の方も一緒にもらってくれ。」といって二人の姫をくれました。ところが、ニニギノミコトは美人ではないお姉さんを「いらない。」と家に返してしまいました。返された姫は大変腹をたてて「神様の子も人の子も、生きているものは必ず死んでしまうようにしてやる。」と呪いをかけました。

■火の中の出産

さて、ニニギノミコトと結婚したコノハナサクヤヒメのお腹には赤ちゃんができました。しかしニニギノミコトがそのことを喜ばなかったので、コノハナサクヤヒメはとても悲しんで、「この赤ちゃんが本当にあなたの子ならきっと生き残るでしょう。」といって自分の部屋に火をつけてしまいました。  メラメラと燃える火の中で生まれてきたのが、ホノスソリノミコト(ウミサチヒコ)・ヒコホホデミノミコト(ヤマサチヒコ)・ホノアカリノミコトの三人です。

引用:宮崎県 「民話と伝承」

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【日本神話】 第1巻「創世編」 第3章 神産み 自然にまつわる神々

イザナギとイザナミはさらに、海や川、山、雨、風、田などの神々を産みました。 ところが、最後に火の神を産んだイザナミノミコトは、わが子の火でからだを焼かれ死んでしまいました。黄泉の国(よみのくに)へ行ってしまったのです。これが生者と死者のはじまりです。

イザナギはイザナミを黄泉の国(よみのくに)へ迎えに行ったのですが、死者となったイザナミは既に変わり果てた姿になって連れ戻すことはできませんでした。 別れ際に1日に1,000人を殺すと言い、イザナギノミコトはそれならば1日に1,500人産もうと言いました。その時から日本の人口は増えていったのです。

島ができあがると、妻のイザナミは、それぞれの島を治める神様を生みました。それに続いて、石や土の神様、家の神様、風の神様、川や海の神様、山の神様と、たくさんの神様が生まれてきましたが、火の神様を生んだとき、イザナミは大やけどをしてしまいました。

大やけどに苦しみながら、イザナミはなおも、粘土(ねんど)の神様や、水の神様、鉱山の神様などを生みました。無理を重ねたイザナミの体は、みるみるうちに弱ってゆきます。イザナギはけんめいに看病(かんびょう)をしましたが、そのかいもなく、イザナミはとうとう亡くなってしまいました。

「愛するおまえの命を、一人の子の命とひきかえにしてしまった」

イザナギは、イザナミのなきがらにとりすがって、ぽろぽろとなみだを流して泣きました。そしてイザナミを、出雲(いずも)の国と伯耆(ほうき)の国の境にある比婆山(ひばやま)にほうむりました。イザナギは、妻に大やけどをおわせた火の神のことを、どうしても許すことができず、とうとう、剣で切り殺してしまいました。

・大事忍男神(おほことおしをのかみ)
古事記で、イザナギとイザナミが国産みを終えて神産みの最初に産んだ神である。
神名は、「大事を終えた男神」として、国産みという大仕事を終えたことを表した神名であると解釈されることが多い。ただし、『古事記伝』においては、大事忍男神は熊野本宮大社に祭られる事解之男神のことであり、本来は黄泉から帰還したイザナギの禊祓に現れるべき神を誤って神産みの最初に入れてしまったのであろうと解釈している。

家宅六神(かたくろくしん)
家宅六神は、建物の材料や構造を示したもの。

・石土毘古神(いはつちびこのかみ)
・石巣比売神(いはすひめのかみ)
・大戸日別神(おほとひわけのかみ)
・天之吹男神(あめのふきおのかみ)
・大屋毘古神(おほやびこのかみ)
・風木津別之忍男神(かざもつわけのおしをのかみ)

・大綿津見神(おほわたつみのかみ) 海の神
・速秋津日子神(はやあきつひこのかみ) 別名水戸神(みなとのかみ)=港の神 男女一対の神
・速秋津比売神(はやあきつひめのかみ) 〃  〃
・速秋津日子神と速秋津比売神は以下の神々を産んだ
・沫那藝神(あはなぎのかみ)
・沫那美神(あはなみのかみ)
・頬那藝神(つらなぎのかみ)
・頬那美神(つらなみのかみ)
・天之水分神(あめのみくまりのかみ)
・国之水分神(くにのみくまりのかみ)
水分神(みくまりのかみ)水の分配を司る神。日本神話では、神産みの段でハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ両神の子として天水分神(あめのみくまりのかみ)・国水分神(くにのみくまりのかみ)が登場する。

・天之久比奢母智神(あめのくひざもちのかみ)
・国之久比奢母智神(くにのくひざもちのかみ)
・志那都比古神(しなつひこのかみ) 風の神
・久久能智神(くくのちのかみ) 木の神
・大山津見神(おほやまつみのかみ) 山の神。大山積神、大山津見神、大山祇神 別名は 和多志大神、酒解神
・鹿屋野比売神(かやのひめのかみ) 草の神。別名は野椎神(のづちのかみ)。神名の「カヤ」は萱のことである。
(萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、家の屋根の葺く草の霊として草の神の名前となった。)

大山津見神と野椎神は以下の神々を産んだ
・天之狭土神(あめのさづちのかみ)
・国之狭土神(くにのさづちのかみ)
・天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)
・国之狭霧神(くにのさぎりのかみ)
・天之闇戸神(あめのくらどのかみ)
・国闇戸神(くにのくらどのかみ)
・大戸惑子神(おほとまとひこのかみ)
・大戸惑女神(おほとまとひめのかみ)
・鳥之石楠船神(とりのいはくすぶねのかみ) 別名は天鳥船(あめのとりふね)
・大宜都比売神(おほげつひめのかみ) 穀物や食物の神
・火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ) 火の神。別名は火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)

火の神・迦具土神を出産したとき女陰が焼け、イザナミは病気になった。病に苦しむイザナミの吐瀉物などから次々と神が生まれた。
・金山毘古神(かなやまびこのかみ、イザナミの吐瀉物から生まれる)
・金山毘売神(かなやまびめのかみ、イザナミの吐瀉物から生まれる)
(「金山」は鉱山のこと。金山毘売神(かなやまびめのかみ、金山姫神)とともに鉱山の神として信仰されている。)
・波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ、イザナミの大便から生まれる)
・波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ、イザナミの大便から生まれる) 土の神
(「ハニ」(埴)とは粘土のことであり、「ハニヤス」は土をねって柔かくすることの意とされる。)
・彌都波能売神(みつはのめのかみ、イザナミの尿から生まれる) 水の神
・和久産巣日神(わくむすひのかみ、イザナミの尿から生まれる) 食物(ウケ)の神。神名の「ワク」は若々しい、「ムスビ」は生成の意味であり、穀物の生育を司る神である。
和久産巣日神には以下の一柱の子がいる。
・豊宇気毘売神(とようけびめのかみ) 食物(ウケ)の神。豊受比売神

引用:兵庫県立歴史博物館「ひょうご歴史ステーション」 ・ウィキペディア

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古事記 上巻「神話編」2 国産み

イザナギ・イザナミ

国産み

「このままではいけない」
そう話し合った高天原のえらい神様たちは、最後に生まれたイザナギとイザナミという男女の神様に、「漂っている地をまとめて、ひとつの大地として固めなさい」

といって、きれいな玉で飾られた天沼矛(あめのぬぼこ)という大きな矛をあたえた。

イザナギとイザナミは、高天原から地上へとつながる天浮橋(あめのうきはし)に降り立った。

そうして一緒に天沼矛を持って海に差し入れて、海水を「こおろ、こおろ」と鳴らしながら掻きまわして、矛をそっと引きあげた。

矛の突先からぽたりぽたりと海水が滴り落ちて、その海水の塩が積み重なって固まり、島が出来上がった。

この島を、淤能碁呂島(おのごろじま)という。
淤能碁呂島はひとりでに固まってできあがった島、という意味。

古事記には実在の地名が沢山出てくる。おのころ島については、どの島がそうなのか、今でも正確なところはまだ分かっていない。

 

イザナギとイザナミは、さっそくおのころ島へと降りていった。そこに天之御柱(あめのみはしら)と呼ばれる大きな柱と八尋殿(やひろどの)と呼ばれる大きな神殿を建てた。

そうしてイザナギはイザナミに、
「あなたの体は、どうなっているの?」

イザナミ「ちゃんとしてはいけど、一箇所だけくぼんだところがあるの。」

イザナギ「私の体もちゃんとしてはいるけれど、一箇所だけ出っ張っているところがあるよ。」

「私はこの出っ張っているところを貴女の窪んでいるところに差し入れてフタをして、国を作ろうと思っているんだ。どう?」

イザナミ「そうしましょう。」

イザナギ「じゃあ、この天之御柱の周りをお互い別々の方向から回っていって、会ったところで結婚しましょう。」

こうしてイザナギとイザナミは、結婚することが決まり、そのための儀式にとりかかった。
日本初の結婚式だ。

ふたりは、さっそく柱の前に立った。

イザナギ「キミは右から、ボクは左から、それぞれ柱を回ろう。」

イザナミはうなづいて、ふたりは天之御柱をぐるっと回った。
柱の反対側で、お互い顔を見合わせた。

するとまずイザナミが「ああ、なんて好い男なのでしょう!」

続いてイザナギが「ああ、なんて好い女なのでしょう!」

お互いがお互いをほめたたえたあと、イザナギは考え深げに
「女の方から言うのはよくないのではないでしょうか。」
と言った。

ともかく気を取り直し、ふたりは寝所にこもって夫婦の契りを交わしました。

しかし、生まれた子供は手足の無いヒルのような水蛭子(ひるこ)だった。
ふたりは悲しみに暮れながら、葦の舟にこの子を入れて流した。

次に生まれた子供は淡島で、泡のように小さく頼りない島だった。
水蛭子と淡島は、子供として数えないことにした。

なかなかちゃんとした子供が生まれないので、イザナギとイザナミは困って話し合った。

その結果、天にいる神々に相談する、ということにした。

すぐにふたりは、高天原にのぼり、天の神々の意見を求めた。

天の神々は太占(ふとまに)で占い、
「女から先に声をかけたのがよくなかったようだ。今からまた地上に戻って、初めからやり直しなさい。」
といった。
太占とは、鹿の骨を焼いてそのヒビの入り方で吉兆を占う占いのことだ。

天の神々のアドバイスを受けて、伊邪那岐神と伊邪那美神はもう一度おのころ島に戻った。

さっそくイザナミは右から、イザナギは左から、柱をぐるっと回り、反対側で顔を見合わせた。

そうして今度はイザナギから「ああ、あなたはなんて好い女なのでしょう!」

続けてイザナミが「ああ、貴方はなんて好い男なのでしょう!」
といった。

このようにして、お互いをほめたてるところから結婚の儀式をやり直したのだ。
そうして改めて、ふたりは寝所にこもって夫婦の契りを交わした。

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8 李氏朝鮮の建国

高麗の次の王朝。正式の国号は朝鮮國で李氏朝鮮ともいう。(1392年 – 1910年)は、朝鮮半島の最後の王朝。李朝(りちょう)とも言う(李王朝の意)。

朝鮮王国の建国

朝鮮王国を建国した李成桂は、朝鮮半島の東北地方出身です。一族は高麗末期まで東北地方屈指の土豪に成長していました。李成桂は、父の後継者として政界への足掛かりをつかみ、倭寇討伐や紅巾軍の撃退などに大きな功績を挙げ、しだいに政権内部で実力を蓄えていきました。1392年に全権を掌握すると、改革派の支持を得て、1392年、恭讓王から禅譲される形で即位しました。翌年には明皇帝の裁可を仰いで国号を「朝鮮」と定め、さらに翌年に都を開京(ケソン)から漢陽(現ソウル)に移して漢城と改称しました。

建国当初、政治の主導権を握っていたのは、李成桂の即位に功績のあった侵攻儒臣たちでした。彼らは開国功臣の称号を授与され、朱子学理念に基づく政治運営を行いました。
ところが、こうした新興儒臣の活動は、やがて国王側と軋轢を生じ、14世紀末には王位継承をめぐる争いまでに発展しました。やがて国王に就いた太宗は、その治世期間を通じて開国功臣勢力を抑え、王権を強化して王朝の政治的・経済的基盤を固めました。

朝鮮王朝にとって、中国王朝である明からの柵封を受けることは、東アジア世界での自己の正統性を獲得するために不可欠の課題でした。李成桂は、即位するとすぐさま明への使者を派遣し、外交関係を結びましたが、当初、明は李成桂を朝鮮国王に柵封しませんでした。高麗末期以来、明は朝鮮側の対明姿勢に対して不信感を抱いていたからです。しかし、朝鮮側の粘り強い交渉の末、ようやく1401年に太宗が柵封されて以後は、両国間は安定的な事大関係[*1]が維持されました。こうして明の情報や文化が朝鮮にもたらされただけでなく、付随しておこなわれた貿易によっても朝鮮は大きな利益を得ました。

日本との関係

北部九州を主な根拠地とする倭寇の略奪行為は、前朝の高麗同様、朝鮮王朝にとっても頭の痛い問題でした。朝鮮政府は、室町幕府や九州探題などに使者を送って禁圧を要請する一方、投降した倭寇に対しては朝鮮の官職を授けて朝鮮国内に定住を認め、また平和的な通商目的での来航であれば積極的に奨励するなどの懐柔策を進めました。武力討伐も並行して進められ、1419年には2万人の兵員を動員して対馬を攻撃しました。

これらの政策の結果、ほどなくして倭寇は沈静化しましたが、かわって綿布などの貿易を目的とする渡航者が西日本各地から多数朝鮮に押し寄せてきました。その結果、経済的負担の増大と治安の悪化を恐れた朝鮮側では、日本人に対する開港場を釜山など三か所としましたが、やがて対馬からやって来た人々が定住するようになりました。居留民の数は15世紀末には三港全体で三千人を超え、朝鮮貿易の前線基地として大いに繁栄しました。

一方、足利将軍は1404年にはじめて日本国王使を派遣して以来、16世紀半ばに途絶するまで60回以上の使節を朝鮮に派遣しました。これに対して朝鮮側から京都を訪れたのはわずか3回にすぎませんでした。しかし、日本を訪れた朝鮮使節によって、日本についてのくわしい情報が伝えられました。

16世紀末の、豊臣秀吉の朝鮮侵略まで日朝間の貿易は続きました。

世宗の治績

太宗の後を継いだ世宗(せいそう)は、太宗時代に築かれた基盤の上に立って、儒教的な王道政治の実現をめざしました。王立の集賢殿を設立し、優秀な人材を集賢院学士に登用して学問や政治制度の研究に専念させました。その成果のなかでも、朝鮮独自の文字ハングルを制定し、1446年にこれを『訓民正音』の名で公布したことは特に注目できます。これによって人々は自国語を正確に表記できるようになり、漢文書籍の翻訳書も多数刊行されました。

このほか、農業技術を集成した『農事直説』、医学では朝鮮独自の『郷薬集成方』、また、天文学・気象学・暦学などの研究も進み、世界初の雨量計とされる測雨器がつくられ、天体観測器具や日時計・水時計なども製作されました。

世宗の治績としてとくに重要なのが、『経国大典』の編纂です。建国以来の多数の経令を整理・再編しました。

事大関係[*1]…「事大主義」とは、大に事(つか)えるという考えと行動を表す語。語源は『孟子』の「以小事大」(小を以って大に事(つか)える)である。漢代以降、中国で儒教が国教化されると華夷思想に基づく世界観が定着し、またその具現化として冊封体制、周辺諸国にとっての事大朝貢体制が築かれることになる。

新羅・高麗・李朝など朝鮮半島に生まれた王朝の多くは、中国大陸の中原を制した国家に対して事大してきたことになる。しかし中国王朝への朝貢しつつも、新羅や高麗は中国王朝との対決や独自の皇帝号の使用なども行い、硬軟織り交ぜた対中政策を取った。
しかし李朝の場合、その政策は『事大交隣』といわれ、事大主義が外交方針として強いものだったとされる。

出典: 『朝鮮半島の歴史と社会』吉田光男
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他


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7 高麗の建国と文化

高麗の建国

朝鮮半島を統一した新羅の勢力が衰えた九世紀末以降、朝鮮半島各地には、「城主」や「将軍」を自称する武装した豪族が多数出現しました。さらに、それらの豪族を糾合して、中部以北に弓裔の後高句麗、西南部に後百済が相次いで成立しました。戦乱が続くなか、頭角を表した王建は、918年に弓裔を倒して高麗を建国し、開京(現開城・ケソン)に都を置きました。さらに935年に新羅を吸収し、翌年には後百済を滅ぼして、後三国を統一しました。

高麗は中国五代王朝との外交を開始し、各王朝からは「高麗国王」に柵封されました。その後も宋・金・元・明との間に柵封関係を結びました。一方日本へも二度使者を派遣しましたが、いずれも日本側から拒否されました。以後、両国の間には民間の交流はみられましたが、正式な国交が開かれることはありませんでした。建国初期の高麗にとって、契丹との関係は大きな問題となりました。高麗は当初、契丹と国交を保ちましたが、926年に契丹が渤海を滅ぼすと警戒心を強め、渤海から数万人にのぼる亡命者を受け入れる一方、まもなく断交に踏み切りました。これに対し、中国進出に力を注いでいた契丹は、高麗が宋に冊封されると徐々に高麗を威圧するようになり、993年、ついに高麗への軍事侵攻を開始しました。契丹の侵攻は三度に及び、1011年には開京が焼き払われる惨禍を被りました。

中央行政機構の整備

契丹の脅威は、高麗に対して国王を頂点とする中央集権的な官僚国家の建設を促しました。主として宋の制度をもとに整備されました。
こうした行政機構を運営する官僚組織は東班(文臣)と西班(武臣)に分かれ、両班(ヤンバン)と総称されました。国政の運営はおもに文臣に委ねられ、彼らの多くは選抜試験である科挙によって登用されました(958~)。武臣は科挙によらず、おもに中央の正規軍である二軍・六兵のなかから抜擢されました。また官僚の官位で九品まであるなかの五品以上の文武高官の場合、子弟の一人については科挙を受験せずとも自動的に官僚に登用される制度もおこなわれました。

両班や軍人、それに末端の行政実務担当者であるしょ吏などには、官職。位階に応じて一定額の土地が国家から支給されました。また、この土地以外にも功績によって土地が支給されました。これは上級官僚の貴族的性格を示すもので、後世まで韓国の身分制度に影響を残します。

郡県制と地方支配

地方に割拠する豪族勢力を統制し、安定した全国支配を実現するために、豪族集団の根拠地である邑(ユウ)を州・府・郡・県などの行政区画に編成し直し、豪族たちを邑の末端行政実務担当者である郷吏とすることで、邑の政治機構である邑司(ユウシ)へと改編しました。また、一部の邑には中央から地方官を派遣して駐在させ、周辺のいくつかの邑をその管轄下において統治させました。こうして、11世紀初めまでに高麗の支配体制に組み入れられていきました。邑になかには多種多様の小行政区画(雑所)が存在しました。

郡県制の施行と並行して、姓氏と本貫(本拠地)の制度も導入されました。10世紀末ごろまでに朴(パク・ぼく)・金(キム)・李(イ)などの中国風の姓氏が各村落単位に設定され、郷司層や一般民は、すべて特定の行政区画を本貫とする姓氏集団として国家から把握されるようになりました。やがてそれは、金海朴氏のように、本貫と姓氏を一体化して一族を表現する概念を生み出す契機となりました。

邑の上位行政区画として、朝鮮半島中部以南には五つの道が置かれ、北部の辺境地帯には東界(トンゲ)と北界(プクケ)の二つの界が設けられました。また、都である開城周辺は京畿という行政区画が設けられました。

モンゴルの侵略と高麗の滅亡

13世紀初めに世界帝国へと急成長したモンゴルは、高麗に対しても1231年から本格的な侵略を開始しました。モンゴル軍の侵略は約30年間にわたって執拗にくり返され、六度に及ぶ大規模な侵攻の結果、国土は荒廃し莫大な人命が失われました。

1259年、モンゴルに降伏しました。元のフビライは高麗を服属させたのち、1274年と81年の二度、日本へも遠征を試みました(元寇)。その過程で、高麗には軍船や食料の調達など重い負担が命じられ、また提供した兵員にも多くの死傷者を出しました。

1368年に明が建国するとすぐに外交関係を結びました。一方、高麗には13世紀末から14世紀初めにかけて元から朱子学がもたらされていましたが、やがてこれを学んだいわゆる新興儒学臣層が政界に進出するようになりました。彼らは親明政策を主張して親元派官僚と対立しましたが、王が臣元派に暗殺されたことで改革は一次挫折を余儀なくされました。

高麗末期には、南からの倭寇、北からの紅巾軍など、外部からの侵略にさらされた時期でした。1388年、親元派を追放した親明儒臣が集まり、内政改革が進められました。1392年、474年にわたって朝鮮半島に君臨した高麗王朝はついに滅亡しました。

仏教の浸透

平安初期の中央文化は、唐の影響を強く受けていました。桓武天皇は中国皇帝にならい郊天祭祀を行うなど、中国への志向が強かったと考えられています。桓武期には、奈良仏教が鎮護国家を目標として祈祷を主とする国家仏教であり、学問的な性格をもつものであったのに対し、平安仏教は、人々の心性への仏教の浸透という意味から、その後の日本仏教の源流であり、今日まで多大な影響を持っています。

そもそも平城京からの遷都は、光仁天皇が仏教の政治との深い関係を嫌い、仏教偏重をあらため、その後を桓武天皇が継いだことによります。奈良の諸宗派は旧地にとどめおかれ、あらたな都を守る宗教的精神的背景の空白の意味は大きかったでしょう。

平安仏教は、従来の日本に見られない中国仏教が最澄(766~822)による天台宗と、空海(774~835)を開祖とする真言宗の二宗によります。最澄と空海は、期せずして同じ遣唐使の一員として中国に渡りました。天台宗ですが、最澄は当時隆盛だった中国天台宗において最新の数学をおさめそれを伝えましたが、あらたな教義による国家的戒壇の創設を求める運動をはじめます。

最澄は、もと近江国分寺の官僧で、中国からの帰化人系の子として生まれました。19歳の時、東大寺の戒壇で具足戒を受けたあと、突然比叡山にこもり、12年間の思索と修行を過ごしました。修行のあと、遣唐使に加わって804年、唐に渡ります。一年という短期間の間に、円経(法華経)、密教、菩薩戒(大乗戒)、禅の教えを受け、おおくの法具や書籍を蒐集し、その後の四宗兼学の天台法華宗の方向性を決定づけました。わずかな期間での帰国は、当初からの予定とはいえ、我が国に大乗戒壇を設立しようという最澄の熱意によるものでした。

我が国に正式の戒壇が作られたのは、奈良時代の754年、鑑真の渡来によって東大寺において聖武天皇・光明皇后に菩薩戒を授け、僧に250戒からなる具足戒を授けたのがはじまりで、その後三戒壇(東大寺、下野薬師寺、筑紫観世音寺)が設置されました。奈良仏教では小乗の戒律とともに、僧となるための具足戒を授け、さらに大乗戒も授けていました。最澄の主張は、僧が僧たるには大乗の菩薩戒でなければならないとし、大乗戒のみでたりるとしました。桓武天皇の知己を得た最澄は、大乗戒壇の独立をめざしました。

弘法大師として親しまれる空海は、讃岐国多度郡に、地方貴族佐伯氏の子として生まれました。讃岐さえ岸は、学者・宗教家を多数輩出した家系でした。自伝や伝記によれば、15歳の時儒教を学び、18歳で大学に入ります。31歳で唐渡までの足跡はあきらかではありませんが、大学に遊学中は学を怠り、都会の軽薄な文化に染まり、不定な生活をしていたようです。あるとき一沙門から、百万遍となえれば、この世にある一切の経文を暗記できるという「虚空蔵求聞持法」をしめされます。それを期に仏教にすすみ、四国の各地を修行したといわれ、僧としての授戒はそのあとのことのようです。24歳の時に華麗な漢文体で書かれた「三教指帰」で己の修業時代をふりかえっています。

804年、最澄もののなかにいた遣唐使に加わり唐渡した空海は、長安で金剛界胎蔵界の両部密教を伝授されると806年に帰国するや、嵯峨天皇の知遇を得て、次第に真言密教に浸透します。最澄とは、結果的には決別しますが八年ほどの交流があったようです。空海は、宗教家としてのみならず、三筆のひとりとされる名筆家であり、満濃池の開拓、最初の民衆の教育機関である綜芸種智院の開設等、活躍の場が広いです。それは従来の仏教では排除される人間の感性的・動物的な心性からどのように上位の悟りに達するかであり、深い人間性の洞察を含むものでした。

日本仏教は、平安仏教によって、宗教論理としての大系を持ち、はじめて民衆への浸透の手がかりを得たといえます。その開祖たちの独自の思索が、衆生救済としての大乗仏教の新たな足掛かりとなり、日本の仏教といえる独自の特徴をもつことになりました。

こうした仏教の影響を日本古来の信仰も受けて、本地垂迹説があらわれて神仏習合が進んでいきました。嵯峨天皇から清和天皇にかけての時期は、凌雲集などの漢文詩集が編纂されたり、唐風の書がはやるなど、唐風文化が花開きました。この唐風が非常に強い文化を弘仁・貞観文化といいます。

平安中期は、仏教の末法思想が人々に広く浸透し、浄土思想・浄土教が盛んとなりました。民衆に仏教信仰が拡がったのもこの時期であり、空也や融通念仏の良忍などの僧が民衆の中で活躍しました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男


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