8 李氏朝鮮の建国

高麗の次の王朝。正式の国号は朝鮮國で李氏朝鮮ともいう。(1392年 – 1910年)は、朝鮮半島の最後の王朝。李朝(りちょう)とも言う(李王朝の意)。

朝鮮王国の建国

朝鮮王国を建国した李成桂は、朝鮮半島の東北地方出身です。一族は高麗末期まで東北地方屈指の土豪に成長していました。李成桂は、父の後継者として政界への足掛かりをつかみ、倭寇討伐や紅巾軍の撃退などに大きな功績を挙げ、しだいに政権内部で実力を蓄えていきました。1392年に全権を掌握すると、改革派の支持を得て、1392年、恭讓王から禅譲される形で即位しました。翌年には明皇帝の裁可を仰いで国号を「朝鮮」と定め、さらに翌年に都を開京(ケソン)から漢陽(現ソウル)に移して漢城と改称しました。

建国当初、政治の主導権を握っていたのは、李成桂の即位に功績のあった侵攻儒臣たちでした。彼らは開国功臣の称号を授与され、朱子学理念に基づく政治運営を行いました。
ところが、こうした新興儒臣の活動は、やがて国王側と軋轢を生じ、14世紀末には王位継承をめぐる争いまでに発展しました。やがて国王に就いた太宗は、その治世期間を通じて開国功臣勢力を抑え、王権を強化して王朝の政治的・経済的基盤を固めました。

朝鮮王朝にとって、中国王朝である明からの柵封を受けることは、東アジア世界での自己の正統性を獲得するために不可欠の課題でした。李成桂は、即位するとすぐさま明への使者を派遣し、外交関係を結びましたが、当初、明は李成桂を朝鮮国王に柵封しませんでした。高麗末期以来、明は朝鮮側の対明姿勢に対して不信感を抱いていたからです。しかし、朝鮮側の粘り強い交渉の末、ようやく1401年に太宗が柵封されて以後は、両国間は安定的な事大関係[*1]が維持されました。こうして明の情報や文化が朝鮮にもたらされただけでなく、付随しておこなわれた貿易によっても朝鮮は大きな利益を得ました。

日本との関係

北部九州を主な根拠地とする倭寇の略奪行為は、前朝の高麗同様、朝鮮王朝にとっても頭の痛い問題でした。朝鮮政府は、室町幕府や九州探題などに使者を送って禁圧を要請する一方、投降した倭寇に対しては朝鮮の官職を授けて朝鮮国内に定住を認め、また平和的な通商目的での来航であれば積極的に奨励するなどの懐柔策を進めました。武力討伐も並行して進められ、1419年には2万人の兵員を動員して対馬を攻撃しました。

これらの政策の結果、ほどなくして倭寇は沈静化しましたが、かわって綿布などの貿易を目的とする渡航者が西日本各地から多数朝鮮に押し寄せてきました。その結果、経済的負担の増大と治安の悪化を恐れた朝鮮側では、日本人に対する開港場を釜山など三か所としましたが、やがて対馬からやって来た人々が定住するようになりました。居留民の数は15世紀末には三港全体で三千人を超え、朝鮮貿易の前線基地として大いに繁栄しました。

一方、足利将軍は1404年にはじめて日本国王使を派遣して以来、16世紀半ばに途絶するまで60回以上の使節を朝鮮に派遣しました。これに対して朝鮮側から京都を訪れたのはわずか3回にすぎませんでした。しかし、日本を訪れた朝鮮使節によって、日本についてのくわしい情報が伝えられました。

16世紀末の、豊臣秀吉の朝鮮侵略まで日朝間の貿易は続きました。

世宗の治績

太宗の後を継いだ世宗(せいそう)は、太宗時代に築かれた基盤の上に立って、儒教的な王道政治の実現をめざしました。王立の集賢殿を設立し、優秀な人材を集賢院学士に登用して学問や政治制度の研究に専念させました。その成果のなかでも、朝鮮独自の文字ハングルを制定し、1446年にこれを『訓民正音』の名で公布したことは特に注目できます。これによって人々は自国語を正確に表記できるようになり、漢文書籍の翻訳書も多数刊行されました。

このほか、農業技術を集成した『農事直説』、医学では朝鮮独自の『郷薬集成方』、また、天文学・気象学・暦学などの研究も進み、世界初の雨量計とされる測雨器がつくられ、天体観測器具や日時計・水時計なども製作されました。

世宗の治績としてとくに重要なのが、『経国大典』の編纂です。建国以来の多数の経令を整理・再編しました。

事大関係[*1]…「事大主義」とは、大に事(つか)えるという考えと行動を表す語。語源は『孟子』の「以小事大」(小を以って大に事(つか)える)である。漢代以降、中国で儒教が国教化されると華夷思想に基づく世界観が定着し、またその具現化として冊封体制、周辺諸国にとっての事大朝貢体制が築かれることになる。

新羅・高麗・李朝など朝鮮半島に生まれた王朝の多くは、中国大陸の中原を制した国家に対して事大してきたことになる。しかし中国王朝への朝貢しつつも、新羅や高麗は中国王朝との対決や独自の皇帝号の使用なども行い、硬軟織り交ぜた対中政策を取った。
しかし李朝の場合、その政策は『事大交隣』といわれ、事大主義が外交方針として強いものだったとされる。

出典: 『朝鮮半島の歴史と社会』吉田光男
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