古丹波(丹後・但馬)が大和政権に組み入れられた時代は

古丹波(丹後・但馬)が大和政権に組み入れられた時代は


※この地図は地図作成ソフトを元に古墳を方向を調べて私が作成したものです。上の地図は、前方後円墳は、それぞれのクニのどこに、どの方向に向いているのかを分かる範囲で地図上に記してみたものである。方向はGoogleマップにも組み込まれているので、現在の地図上で古墳の位置を確認することができる。

前方後円墳の方向は朝廷のある大和に関係しているのか、それぞれのクニに自主性を持って決められたのか、分からないが関心があるテーマである。

『前方後円墳』というサイトによくまとめられているので引用させていただくと、

弥生時代は、魏志倭人伝が伝えるように日本列島各地で多くの勢力が「国」として、たがいに対峙していた。卑弥呼の時代(3世紀前半頃)には,邪馬台国を含めておよそ30「国」の存在が魏側で知られていたようである。

前方後円墳の出現の背景には、統合への流れが進行して他とは比肩できないほどの大きな勢力の出現があったと考えられる。この勢力とは大和を本拠とする大和政権(大和朝廷)である.巨大な前方後円墳の築造は、大和朝廷の権威を他の地域へ誇示するねらいがあったとみてよいだろう。奈良県や大阪府に多数遺存する4世紀末以降の巨大前方後円墳が天皇や皇后など皇統に属する人々、もしくは朝廷において有力な地位にあった人々の墳墓であることを考えると、時代をぐんとさかのぼる古い箸墓古墳(奈良県桜井市)も巨大前方後円墳である以上、当然大和朝廷に属する高貴な人の墳墓でなければならない。

邪馬台国が北部九州にあったのか、畿内かはさておき、少なくとも崇神天皇(第10代天皇)以降の大和朝廷が奈良を本拠としてきたことは歴史上明白である。

前方後円墳の各部位の呼称は決まっている.丸い部分を「後円部」、矩形部分を「前方部」,後円部と前方部の接続部を「くびれ部」とよぶ.被葬者が葬られている場所は後円部であって、前期古墳にあっては、前方部上で葬送の祭祀が執り行われたと考えられている。前方後円墳の築造企画は、前期から中期へ、さらに後期へと時間が進行するにしたがって変化するが、とくに前方部が大きく発達していくという明瞭な変化が認められる。くびれ部付近に「造出(つくりだし)」とよばれる小さな突起部をもつ古墳が中期頃から現れる。左右両側,または片側だけにつくられる.造出は祭祀用の施設とみられるが、前方部の巨大化にともなって、前方部上でくり返される祭祀の執行に不便をきたすようになったことが造出出現の理由とも考えられる。

丹後・但馬は大宝律令以前に分国するまでは丹波内であったが、律令以後に3つの国に分国された。中央集権化が強固になるにつれて、大和から遠い丹後にあった丹波の政治の中心は大和に近い現在の亀岡市に移り、丹波・但馬・丹後と3つに分けられる。

これは地形的に比較的に高い山で遮られる丹波・但馬・丹後の特性もあったかも知れない。しかしそれだけで、3つに分けた理由にはならない。分けるにはそれぞれ国府建設や国司など莫大な費用が生じるからである。

何かの理由が生じたと考えるのが普通だろう。

朝鮮半島への最短ルートとしてこの地が大和政権にとって重要だったことで、大和政権に組み入れる必然性があったからだと考えるのである。

日本海側最大の前方後円墳は、丹後の網野銚子山古墳(京都府京丹後市網野町網野)で、墳丘長は201m。それに次ぐ規模が神明山古墳(京都府京丹後市丹後町宮、墳丘長190m)、蛭子山えびすやま1号古墳(京都府与謝郡与謝野町加悦、墳丘長145m)の3つの前方後円墳が、日本海側および京都府では最大規模の古墳で、「日本海三大古墳」と総称される。

「日本海側で最大の前方後円墳が丹後に集中している

なぜ丹後に日本海側で最大の前方後円墳が丹後に集中しているかである。

それでは、大和政権に組み入れられた時代はいつ頃だろうか?少なくとも崇神天皇が四道将軍を派遣し本州を平定していった時期からだろうと思われる。

丹後三大古墳は4世紀末-5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。網野銚子山古墳は、墳丘3段築成、築造された順番は、蛭子山1号墳が4世紀中葉、網野銚子山古墳がそれに次いで古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭、神明山古墳が4世紀末-5世紀初頭とされる。

網野銚子山古墳と神明山古墳は、日本海に突き出た丹後半島の北、網野銚子山古墳は浅茂川の河口にできた浅茂川湖、神明山古墳は竹野川の河口の竹野湖という古代の潟湖(ラグーン)に対して墳丘の横面を見せる形式をとっており、前方部を北北東に向けている。当時の丹後地方がこれら潟湖を港として日本海交易を展開した様子が指摘される。それに対して蛭子山古墳は、丹後半島反対側の付け根で、日本三景天橋立を形成した野田川に北北西に開けた加悦谷の東縁部にあり、前方部を北西に向ける。

但馬地方では最大、兵庫県では第4位の規模の前方後円墳は池田古墳(兵庫県朝来市和田山町平野)で、5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。

ヤマト王権の宮が置かれた大和と大和川が注ぎ込む大阪湾の摂津・河内・和泉の機内には、大王(天皇)墓である大型の前方後円墳がいくつも造営されている。前方後円墳の最古とされる箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)は、3世紀後半以降とされている。

大和政権と大丹波(今の丹後。但馬。丹波)との結びつきが記紀に登場するのは、第11代垂仁天皇の最初の皇后、狭穂姫命である。父は四道将軍のひとりである彦坐王(日子坐王)ひこいますのみこ、母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の女)。次の皇后である日葉酢媛命は彦坐王の子である丹波道主王たにはのみちぬしのみこの女であり、狭穂姫命の姪に当たる。第12代景行天皇を生む。日本海三大古墳と総称される蛭子山1号墳、網野銚子山古墳、神明山古墳と、それ以降の池田古墳、船宮古墳が築造された年代は垂仁天皇期であると思われる。


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四道将軍 彦坐王(日子坐王)の終焉の地は

四道将軍 彦坐王は、『古事記』では「日子坐王」、『日本書紀』では「彦坐王」と書く。

『日本書紀』開化天皇紀によれば、第9代開化天皇と、和珥臣わにのおみの遠祖の姥津命ははつのみことの妹の姥津媛命ははつひめのみこととの間に生まれた皇子とする。『古事記』では、開化天皇と丸邇臣(和珥臣に同じ)祖の日子国意祁都命ひこくにおけつのみことの妹の意祁都比売命おけつひめのみこととの間に生まれた第三皇子とする。

四道将軍と丹波道

『古事記』崇神天皇の条に、四道将軍(古訓:よつのみちのいくさのきみ)が各地に派遣されたとある。いずれも皇族(王族)の将軍で、大彦命おおびこのみこと武渟川別命たけぬなかわわけのみこと吉備津彦命きびつひこのみこと、丹波道主命の4人を指す。『古事記』では一括して取り扱ってはおらず、断片的のそれぞれの将軍を扱い、四道将軍の呼称も記載されていない。『日本書紀』では事績に関する記載はなく、子の丹波道主命たにわのみちぬしのみことが丹波に派遣されたとしている。この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す。

また、西道(山陽道)に派遣された吉備津彦命は、『日本書紀』『古事記』とも、「キビツヒコ」は亦の名とし、本来の名は「ヒコイサセリヒコ」(紀)彦五十狭芹彦命、(記)比古伊佐勢理毘古命とする。『古事記』によると、崇神天皇10年(西暦217年)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。北陸は大彦命、東海は武渟川別命、西道(山陽道)は吉備津彦命、そして丹波には、丹波道主命が派遣されたのである。

四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル(日本武尊)伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。

 

国土交通省

四道とは北陸、東海、西道、丹波の四つの地方であり、地理的に丹波道は狭いが、図のように幹線道路としては離れざるを得ない立地にある。山陰道から別れて丹後半島今でも東海道などは使われているようにこの時期の「丹波国」は、後の令制国の丹波国、丹後国、但馬国を指し、五畿七道の山陰道に含まれる。山陰道の篠山あたりから別れて円のようにまわり、但馬国府の置かれた気多郡(今の豊岡市日高町)で山陰道に合流する支線を丹波路としている。北陸、東海、西道が細長い広大なエリアなのに対し、この時代の分立するまでの3国を含めた丹波を、近年、丹波王国、大丹波、北近畿などと名付けられていたりする。日子坐王のの子が丹波道主命ということから、丹波道主は丹波道の主(首長)ということを意味する名前なのだ。当時の丹波、丹後、但馬をまとめて総称するなら「丹波道」がふさわしいと思う。

北陸、東海、西道は現在でもほぼ同じエリアであるが、日本海側を山陰道のような表記では表さず、丹波道としているのは、丹後の三大大前方後円墳や但馬の池田古墳規模の大規模な前方後円墳が鳥取・島根で少ないことも因幡以西の出雲王国までにヤマト王権による支配権が当時は及ばなかった証拠でだろう。

玖賀耳之御笠(陸耳御笠)くがみみのみかさ

日子坐王は天皇の命によって旦波国(丹波国)に遣わされ、土蜘蛛の玖賀耳之御笠くがみみのみかさ(陸耳御笠とも)を討ったという。彦坐王が丹波に派遣されたとあるが、丹波道主命は彦坐王ひこいますのみこ・-おうの子で、実際に遣わされたのが丹波道主命とも読めるし、一緒に派遣されたとも読める。

『国司文書 但馬故事記』に詳細に記されている。第10代崇神スジン天皇10年(前88年)秋9月 丹波青葉山の賊 陸耳の御笠、土蜘蛛匹女ら、群盗を集め、民の物品を略奪した。
タヂマノクルヒ(多遅麻狂・豊岡市来日)の土蜘蛛がこれに応じて非常に悪事を極め、気立県主櫛竜命を殺し、瑞宝を奪った。

崇神天皇は、第9代開化天皇の皇子であるヒコイマス(彦坐命)にみことのりを出して、討つようにいわれた。ヒコイマスは、子の将軍 丹波道主命とともに、
多遅麻朝来直の上祖 アメノトメ(天刀米命)、
〃 若倭部連の上祖 タケヌカガ(武額明命)、
〃 竹野別の上祖 トゲリヒコ(当芸利彦命)、
丹波六人部連の上祖 タケノトメ(武刀米命)、
丹波国造 ヤマトノエタマ(倭得玉命)、
大伴宿祢の上祖 アメノユゲノベ(天靭負部命)、
佐伯宿祢の上祖 クニノユゲノベ(国靭負部命)、
多遅麻黄沼前県主 アナメキ(穴目杵命)の子クルヒノスクネ(来日足尼命)、等
丹波に向かい、ツチグモノヒキメを蟻道川で殺し、クガミミを追い、白糸浜に至った。
クガミミは船に乗り、多遅麻の黄沼前の海に逃げた。

『丹後風土記残欠』にも、

(志楽郷)甲岩。甲岩ハ古老伝テいわク、御間城入彦五十瓊殖天皇ノ御代ニ、当国ノ青葉山中ニ陸耳御笠トフ土蜘ノ者有リ。其ノ状人民ヲ賊フ。ゆえに日子坐王、勅ヲ奉テ来テ之ヲ伐ツ。即チ丹後国若狭国ノ境ニ到ニ、鳴動シテ光燿ヲあらわたちまチニシテ巌岩有リ。形貌ハ甚ダ金甲ニ似タリ。因テ之ヲ将軍ノ甲岩ト名ツク也。亦其地ヲ鳴生(今の舞鶴市成生)ト号ク。

福知山のニュース両丹日日新聞WEB両丹に玖賀耳之御笠(陸耳の御笠)は、

ところで、大江町と舞鶴市は、かつて加佐郡に属していました。「丹後風土記残欠」にも、加佐郡のルーツは「笠郡」とのべています。
この「笠」に関連して、興味深い伝承が青葉山に伝わっています。ご承知のように、青葉山は山頂が2つの峰に分かれていますが、その東側の峰には若狭彦、西峰には笠津彦がまつられているというものです。笠のルーツは、この笠津彦ではないのか、そんなふうに考えていたところ、先年、大浦半島で関西電力の発電所建設工事中、「笠氏」の刻印のある9世紀頃の製塩土器が発見されました。笠氏と呼ばれる古代豪族が、ここに存在していたことが証明されたわけです。また、ここから、大陸との交流を裏づける大型の縄文の丸木舟が出土し話題となりました。
陸耳御笠。何故、土蜘蛛という賊称で呼ばれながら、「御」という尊称がついているのか。ヤマト王権の国家統一前、ここに笠王国ともいうべき小国家があったのかもしれない。陸耳御笠と笠津彦がダブってみえてきます。

記紀は、土蜘蛛と蔑みながら、陸耳の笠でよいのに御を加えて尊称もしているのは、あまりに無礼であると感じていたのか。「クガミミ」とは国神の事で、クガミミノミカサとは国神クニガミノミカサという意味だとすると、笠国をつくった主とは先住の王であった。土蜘蛛、(つちぐも)は、上古の日本において朝廷・天皇に恭順しなかった土豪たちを示す名称である。各地に存在しており、単一の勢力の名ではない。土雲とも表記される。史書は、勧善懲悪となるのが常で、勝者が美化され、敗者は悪党に描かれる。織田信長VS明智光秀、浅野内匠頭VS吉良上野介、、、本当のところはよく分からないのだ。

『地形で読み解く古代史』関 裕二 氏は、
『日本書紀』に狭穂姫がなくなったあとの垂仁天皇の后妃の記述が残り、垂仁15年春2月10日の条に、「丹波の五人の女性を召し入れた」とあり、その中から日葉酢媛命がのちの皇后に立てられたとある。さらに垂仁34年春3月の条には、垂仁天皇が山背(山城)に行幸し、評判の美女を娶ったとある。
(中略)
なぜタニハの謀反のあと、垂仁天皇はタニハ系の女人ばかりを選んだのだろう。
これには伏線があったと『日本書紀』はいう。狭穂姫が天皇に別れを告げたとき、後添えのことに言及していた。
「私の後宮は、よき女性たちに授けてください。丹波国に五人の貞潔な女性がおります。彼女たちは、丹波道主命(日子坐王の子)の娘です。」
この最後の要望を、垂仁天皇は聞き入れたのである。

どうにもよくわからない。タニハ系の彦坐王の人脈が謀反を起こしたにも関わらず、その上で、次の后妃もタニハからとっている。こうしてタニハの女人で埋まっていく。ヤマト黎明期のヤマトで、いったいなにが起きていたのだろう。タニハ(+山背)が、なぜ後宮を席巻できたのか。

(中略)

やはり、地形と地政学で、この謎は解けるのではないかと思えてくる。たしかにヤマトは国の中心にふさわしい土地だったが、日本全土を視野に入れて流通を考える場合、西国に通づる河内、若狭、丹波三国、さらに東海、北陸に通づる山城、近江のラインが最も大切で、そこを支配する「タニハ連合」と手を組まなければ、政局運営はままならなかったからだろう。

ちなみに東に向かった二人の将軍は、太平洋側と日本海側から東北南部に進み、福島県南部(二人が会ったから、「相津」(会津)の地名ができたという)で落ちあったという。早い段階の前方後円墳の北限は、ほぼこのあたりで、ヤマト建国時の様子を『日本書紀』編者がよく承知していて、その上で、「各地から多くの首長がヤマトを建国したのに、『日本書紀』の文面では、ヤマトから将軍が四方に散らばり、和平したことにしてしまった」のだ。

ヤマト建国の中心に立っていたのは吉備だされる。前方後円墳などにみられる円筒形埴輪が吉備がルーツとされており、吉備にも吉備津彦命が派遣され、その末裔が吉備を支配するようになったとあるが、これは全く逆で、吉備がヤマトに進出しヤマト建国の中心に立ったのだというのだ。『日本書紀』はこの事実を裏返して示している。

10代崇神天皇は、四道将軍を派遣して支配領域を広げ、課税を始めてヤマト政権の国家体制を整えたことから、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。もしそれがタニハ連合(のち分国した但馬・丹後を含む丹波、若狭)+山城、近江、尾張が手を組み、ヤマトに進出し、あわてた吉備と出雲がヤマト建国の流れに乗ったのだ。

としている。

たしかに、ヤマト建国は、タニハなどの連合国家だったならば、ヤマト建国の主役はヤマトではなくなってしまう。これでは国家の史書として都合が悪い。『日本書紀』編者らは、その経過を知っていたので、四道将軍を創作し、朝廷が平定したのだと都合のいいように史実をひっくりかえして朝廷主導に書いたという氏の考察も、あながちそうではないと言い切れない。

しかし、地方豪族ではなかったことは、『日本書紀』に「四道将軍はいずれも皇族(王族)」と記述していることだ。そして、「彦坐王はタニハからヤマトにやってきたとみなすべきだ。」とはどういう根拠なのかだ。彦坐王の子・狭穂彦王と狭穂姫がヤマトにやってきたし、その後も彦坐王の子丹波道主命の娘5人が后・妃になっているが、彦坐王・丹波道主命がタニハからヤマトにやってきた形跡はないし、『日本書紀』に皇族(王族)で開化天皇の皇子としているが、地方豪族出身ということになってしまう。記紀編者らが朝廷に都合が悪い出来事は朝廷優位に改変することがあったろうとは当然思えるにしても、開花天皇の皇子などと捏造したとしたら、皇族に不敬となる話を記紀編者らが創作するはずもない。

彦坐王の墓は但馬か美濃か?

墓は、宮内庁により岐阜県岐阜市岩田西にある日子坐命墓(ひこいますのみことのはか)に治定されている。宮内庁上の形式は自然石。

墓には隣接して伊波乃西神社が鎮座し、日子坐命(彦坐王)に関する由緒を伝える。。美濃を領地として、子の八瓜入日子(やついりひこ-神大根王)とともに治山治水開発に努めたとも伝えられる。この地で亡くなり、この地に埋葬されたという。八瓜入日子は三野国造、本巣国造の祖とされている(本巣国は美濃国中西部)。

これと異なる記述が『但馬故事記』に詳細に記されている。

『但馬故事記』では、陸耳(玖賀耳)之御笠との戦いについて、気多郡・朝来郡・城崎郡では実に詳しく記している。そのうち第二巻・朝来郡故事記では、

第10代崇神天皇天皇十年秋九月、丹波国青葉山の賊・陸耳ノ御笠が群盗を集め、民の物を略奪し、天皇は彦坐命に命じて、これを討たせた。

その功を賞し、彦座命に丹波・多遅摩・二方の三国を与える。
十二月七日、彦坐命は、諸将を率いて、多遅摩粟鹿県に下り、刀我禾鹿(とがのあわが)*1の宮に居した(多遅摩粟鹿県は但馬国朝来郡)。

天皇は彦坐命に日下部足泥(宿祢)くさかべのすくねという姓を与え、諸国に日下部を定めた。諸将を各地に置き、鎮護とした。

丹波国造 倭得玉命
多遅麻国造 天日楢杵命
二方国造 宇津野真若命、その下知に従う。

人皇11代垂仁天皇84年9月、丹波・多遅麻・二方、三国の大国主、日下部宿祢の遠祖・彦坐命は禾鹿宮で死去。禾鹿の鴨ノ端ノ丘に葬る。(兆域東28間、西11間、北9間、高直3間余、周囲57間、後人記して、これに入れるなり)守部二烟を置き、これを守る。

但馬国二宮 粟鹿神社の御祭神は、彦火々出見命ひこほほでみのみこと日子坐王ひこいますのきみ、阿米美佐利命の三柱である書かれる場合が多いが、『国司文書 但馬神社系譜伝』では、
彦坐命・息長水依姫命・遠祁都毘売命(亦名は瀛津姫命・うみつひめ)。

しかし、兵庫県神社庁では次の通り、日子坐王の1柱のみとある。

当社は但馬国最古の社として国土開発の神と称す。国内はもちろん、付近の数国にわたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。

人皇第10代崇神天皇の時、第9代開化天皇の第三皇子日子坐王が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、丹波一円を征定して大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。

粟鹿山麓粟鹿郷は、王薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡である。旧県社。

-「兵庫県神社庁」-

彦坐命の墓は、美濃(岐阜県岐阜市岩田西)と但馬(兵庫朝来市山東町粟鹿)の2箇所にあることになる。但記では、彦坐王は、粟鹿宮で薨去し、粟鹿の鴨ノ端ノ丘に葬るとある。その後は何も記されていない。

ところが伊波乃西神社の由来には、

祭神日子坐王は、人皇第九代開化天皇の皇子で、伊奈波神社の祭神、丹波道主命の父君にあたらせられる。古事記中巻、水垣宮の段(崇神天皇の御代)によれば「日子坐王をば、旦波の国につかわして、玖賀耳の御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめ給いき」とある。史上に表れた御勲功のはじめである。なお、クガミミとは、国神の義であって、旦波の国に国神ミカサが住んでいたのである。王は、その後、勅命により東日本統治の大任をおび、美濃国各務郡岩田に下り、治山治水に着手され且農耕の業をすすめられ、殖産興業につくされた。八瓜入日子王(ヤツリイリヒコノミコ)は、日子坐王の皇子である。神大根王(カムオオネノミコ)と申し上げ、父君の後をつがれて、この地方の開発に功が多かった。日子坐王薨去の後、御陵を清水山の中腹に築かれた。当社の西に隣接している。明治8年12月に至り、日子坐王陵と確認されたので、宮内省陵墓寮の所管に移された。

但馬にある2つの前方後円墳は誰の墓なのか

但馬(兵庫県北部)にある前方後円墳は、朝来市和田山町平野の池田古墳と朝来市物部の船宮古墳のみである。これ以外に前方後円墳は見つかっていないが、但馬は平地の少ない地形から他にも大規模な前方後円墳は築造されてはいないだろう。埴輪・葺石・周濠を備えた古墳は但馬地方では池田古墳と船宮古墳(朝来市桑市)のみである。朝来市域では古墳時代前期の南但馬地方の王墓として若水古墳・城ノ山古墳の築造が知られるが、それらに後続する池田古墳は南北但馬地方を統合する最初の王墓に位置づけられ、その地位は茶すり山古墳(朝来市和田山町筒江)・船宮古墳へと継承される。(朝来市教育委員会)

前方部は祭祀場で、後円部は被葬者が埋葬される。池田古墳は前方部を北東に向ける。池田古墳より南にある船宮古墳は、北北東を向いており、その方向には丹後の旧与謝、加佐がある。但馬史上で彦坐命と丹波道主命は、丹波・多遅麻・二方、三国の大国主(大王)である。単なる国造以上の位であり、この二人以外にいない。丹波三国を眺めるようにかも知れない。大和政権に近いタニハの王は、日子坐王と丹波道主の二人以外にいない。先に初代多遅麻国造となった天日槍はいたが、時代がもっと古いので当てはまらない。

池田古墳も船宮古墳も、被葬者は明らかでないが、国造級の豪族の首長墓と想定され、船宮古墳は当地を治めた但遅麻国造の船穂足尼一族との関連を指摘する説がある。船宮の船が船穂足尼と重なるからだろうが、但記の朝来記には、「第13代成務天皇5年、大多牟阪命の子、(彦坐命の五世孫)船穂足尼命をもって多遅麻国造と定む。船穂足尼命は大夜父宮(今の養父神社)に還る。

(中略)

神功皇后元年、但遅麻国造船穂足尼命薨ず。大夜父船丘山に葬る。(中略)船穂足尼命を夜父宮下座(養父神社)に斎き祀り、また将軍丹波道主命を水谷丘に祀り、これを水谷神社と称す。(現在の水谷神社所在地ではなく、養父神社後方の山中と考える)」とあるから、朝来郡ではなく養父郡で国造の職務を行っており、朝来市物部の船宮古墳と逆方向。大藪古墳群のいずれかだと思う。

*1 禾鹿 禾は本来イネと読むべきだが、禾鹿神を粟鹿神と同一神の如く記す記載が多いので、禾をアハと読むべき。


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但馬最大の前方後円墳 池田古墳は誰の墳墓なのか?

但馬にある前方後円墳は、現時点で朝来市平野にある池田古墳とその次に大きい朝来市桑市の船宮古墳円墳の2基のみである。

池田古墳

墳形:前方後円形

前方部を北東に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は約136メートル。築造時期は古墳時代中期の5世紀初頭とされている。
後円部 – 3段築成。直径:約76メートル
前方部 – 3段築成。幅:約72メートル

前方後円墳では但馬地方では最大規模、兵庫県内では第4位の規模になる。埴輪・葺石・周濠を備えた古墳は但馬地方では池田古墳と船宮古墳(朝来市桑市)のみになる。また池田古墳からは水鳥形埴輪が23体分確認されており、全国最多の出土数を誇る。

墳丘長はかつて141メートルとされていたが、2007年(平成19年)の後円部の調査で約136メートル程度と見積り直されている。前方部の調査が不十分なため、正確な値は未だ明らかでない。池田古墳は南北但馬地方を統合する最初の王墓に位置づけられ、その地位は茶すり山古墳(朝来市和田山町筒江)・船宮古墳へと継承される。(Wikipedia)


現地説明会 2008.3

池田古墳は誰の墳墓なのか?

四道将軍 彦坐命と丹波道主命

そもそも彦坐命とは一体誰なのかに触れておきたい。ひこいますのみこ、あるいはひこいますのおうと読む。『日本書紀』では「彦坐王」、『古事記』では「日子坐王」、他文献では「彦坐命」とも表記される。第9代開化天皇の第三皇子で、第12代景行天皇の曾祖父である。

『日本書紀』では子の丹波道主命が四道将軍の1人として丹波に派遣されたとしている。

『古事記』崇神天皇段では、日子坐王は天皇の命によって旦波国(丹波国)に遣わされ、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を討ったという。

『但馬故事記』では、陸耳(玖賀耳)之御笠との戦いについて、気多郡・朝来郡・城崎郡では実に詳しく記している。そのうち第二巻・朝来郡故事記では、

第10代崇神天皇天皇十年秋九月、丹波国青葉山の賊・陸耳ノ御笠が群盗を集め、民の物を略奪し、天皇は彦坐命に命じて、これを討たせた。

その功を賞し、彦座命に丹波・多遅摩・二方の三国を与える。
十二月七日、彦坐命は、諸将を率いて、多遅摩粟鹿県に下り、刀我禾鹿(とがのあわが)の宮に居した。
天皇は彦坐名に日下部足泥(宿祢)という姓を与え、諸国に日下部を定めた。諸将を各地に置き、鎮護とした。丹波国造 倭得玉命、多遅麻国造 天日楢杵命、二方国造 宇津野真若命、その下知に従う。

人皇11代垂仁天皇84年9月、丹波・多遅麻・二方、三国の大国主、日下部宿祢の遠祖・彦坐命は禾鹿宮で死去。禾鹿の鴨ノ端ノ丘に葬る。(兆域東28間、西11間、北9間、高直3間余、周囲57間、後人記して、これに入れるなり)守部二烟を置き、これを守る。

前方が東北を向いているので、兆域の東とは前方部、西は後円部、北9間はわからないが、造出(つくりだし)というくびれ部裾付近に作られた墳頂へ登ったり祭祀を行うところだろうか。1間は約1.818メートル。東28間=50.9メートル、西11間=約20メートル、北9間=約16.4メートルを西11間に合わせると36.4メートルとなる。

禾鹿宮の禾とは訓読みでイネ、ノギと読む。穀物の総称。特に、イネ・アワことをさす。『但馬故事記』第二巻・朝来郡故事記では禾鹿と粟鹿を同じ文中に混同して使用しており、粟鹿あわがのことであると思って間違いはないだろう。粟鹿神社もしくはその付近であるが、のちの第43代元明天皇の頃に山陰道の朝来郡の駅が粟鹿に設置され、朝来郡の中心地だった。前期のものは,多く丘陵など自然地形を利用したが、古墳時代中期は、平地に造られ巨大化し、土地の守護神としてその権力の階層の大きさを外に見せるためであったとされる。これだけの規模の前方後円墳は粟鹿神社の後背地の朝来山は自然の稜線で、その付近から大規模な前方後円墳が発見されたという報告は未だない。

禾鹿(粟鹿)の鴨ノ端(加茂端)という呼称から、鴨がたくさんいたようだ。今の但馬では川にいるとしたらサギで鴨がいたとは今では想像しにくいのであるが、そのような川幅が広い場所を南但で探すとすれば、古墳の前に円山川が流れ、但馬最大の前方後円墳であるこの古墳となる。粟鹿神社の前を流れる円山川の支流である粟鹿川は小さい川であり、鴨や水鳥がたくさんたわむれていたような場所だったとは想像しにくい。

*(日子坐命墓の別の説)墓は、宮内庁により岐阜県岐阜市岩田西にある日子坐命墓(ひこいますのみことのはか)に治定されている。宮内庁上の形式は自然石。墓には隣接して伊波乃西神社が鎮座し、日子坐命(彦坐王)に関する由緒を伝える。

彦坐命を葬った「禾鹿の鴨ノ端ノ丘」が今のどこになるかだが、粟鹿神社から池田古墳までは直線距離で7.1kmもあり、池田古墳よりも茶すり山古墳の方がまだ近いが円墳である。彦坐王を祀る粟鹿神社のある朝来山の東麓で、池田古墳や城の山古墳より濃厚だ。

また茶すり山古墳も円墳で、豊岡自動車道の道の駅「但馬のまほろば」の反対側にあり、豊岡自動車道は春日ICで舞鶴若狭自動車道につながり、丹後や篠山方面へつながる。禾(粟)鹿宮である粟鹿神社から茶すり山古墳までは約4kmである。巨大な円墳で、大量の武器・武具が副葬されていたこと、粟鹿神社に近いことから、彦坐命が葬られた禾鹿の鴨ノ端ノ丘とはこの場所をさすのではないかと思うのである。この時期で日本海側最大の前方後円墳、池田古墳がふさわしいのだが、禾鹿の鴨ノ端ノ丘は粟賀地区でなければなら

船宮古墳

兵庫県朝来市桑市

5世紀代 全長約80 m 日本最古の牛形埴輪

船穂足尼命の墳墓ではないかと朝来市(旧朝来町)の案内板にはあるが、おそらく船宮古墳という名称か但馬国造船穂足尼命との連想によるのであろうが、これは単なる連想であって、何の根拠もないものと思われるのは以下の『国史文書 但馬故事記』である。

息長宿祢命の子・大多牟阪命を以って、朝来県主と為す。
大多牟阪命は、墨坂大中津彦命の娘・大中津姫命を娶り、船穂足尼命を生む。
人皇13第成務天皇5年、竹野君同祖の彦坐王五世孫の船穂足尼命は多遅麻国造となり、大夜夫宮に遷る。(中略)神功皇后元年、多遅麻国造船穂足尼命薨ず。大夜夫船丘山に葬る。
物部連大売布命の子・物部多遅麻連公武を以って、多遅麻国造と為す。

とある。物部多遅麻連公武から以降は北但馬の気多郡に多遅麻連→但馬国の国府は固定される。

前方後円墳はヤマト政権に近い皇統の連合体国造である

物部多遅麻連公武は気多郡高田郷に府を置き、それ以降但馬国府まで気多郡に遷るので、円山川を挟んだ対岸にある大藪古墳群は古墳時代後期で、大夜夫宮が大藪にあるとしたら、船穂足尼命の古墳は大藪古墳群にあるということにほぼ間違いない。

『但馬故事記』に
人皇3代成務天皇の御世に竹野君同祖の彦坐王五世孫の船穂足尼が多遅麻国造となる。人皇15代神功皇后からは気多郡に府が遷り、物部連大売布命の子・公武が多遅麻国造となり府を気多郡高田邑に置いた。父・物部連大売布命は伊香色男命の子で、人皇12代景行天皇の御世に戦功により多遅麻の摂津の川奈辺と気多・黄沼前三県を与えられ、多遅麻の気多に下ったが、成務天皇の御世は景行天皇の東国遠征に随行し、大売布命の子・公武から多遅麻国造になっているので、ほとんど多遅麻の政は行っていなかったと思われる朝来市山口と船宮古墳のある朝来市桑市は、直線で4.4kmとわりと近距離にある。大多牟阪命の墳墓かも知れない。

長浜浩明氏は『古代日本「謎」の時代を解き明かす』で、古代の歴代天皇在位年の実年を計算している。前代の天皇崩御年を起点として若干の誤差が生じる御代のあることを承知していただきたいと述べている。

これによると、池田古墳の築造年代は5世紀前半となっているが、3世紀後半ではないかと思うのだ。

前方後円墳は、古墳時代3世紀中頃から7世紀初頭頃というのが定説で、畿内の大王墓は6世紀中頃までで終わり、6世紀後半になると全国各地で造られないようになっていく。
『但馬故事記』の朝来郡故事記は、神功皇后まではくわしいが、古墳時代に相当する第15代応神天皇、第17代履中天皇、第27代安閑天皇(531-535)の朝来県主を淡々と記すのみであり、18代から20代、22代から26代まで記載なく、また、第27代安閑天皇以降は用明天皇まで記載がない。
したがって、巨大古墳にふさわしい但馬王は、彦坐命、その子・丹波道主命以外に見当たらないのである。その頃の朝来郡では三国の大国主であった地位から、第13代成務天皇(131-190)に、多遅麻国のみを治める多遅麻国国造となって、養父郡1代を経て、気多郡に遷っていることである。

全くもって素人が、築造推定年が正しいのかどうか失礼ではあるが、古墳の築造年代の推定は約100年遡っての誤差があるのではないかと思えるに至るのである。

『但馬故事記』は偽書だといえるのかどうかは、別としてこれほど詳細な記録はない。但馬風土記が焼失したことで、平安初期、残念に思った国衙・国学寮の地元出身ではない中央からの国司(役人)たちが長い年月をかけて公正に調べあげた全国にもあまり類がない国司文書である。

名称所在地築造年代形式外形主な埋蔵品
赤坂今井墳墓京都府京丹後市峰山町赤坂弥生時代終末期前後(3世紀前半頃)方墳南北51m、東西45m、高さ3.5m
粟鹿神社方形貼り石墓兵庫県朝来市山東町粟鹿弥生時代中期末~後期初頭方形貼り石墓南北1辺20m以上、 東西15m以上但馬地方では今回初めて
銚子山古墳京都府京丹後市網野町4世紀末前方後円墳全長198m
神明山古墳京都府京丹後市丹後町4世紀末前方後円墳全長190m
蛭子山古墳京都府与謝郡与謝野町加悦4世紀末前方後円墳全長145m
城ノ山古墳兵庫県朝来市和田山町東谷4世紀後半円墳南北径30m、東西径36m、高さ5m銅鏡三面 三角縁獣文帯三神三獣鏡・唐草文帯重圏文鏡
船宮古墳兵庫県朝来市桑市5世紀代前方後円墳全長約80m日本最古の牛形埴輪
池田古墳兵庫県朝来市和田山町平野5世紀前半前方後円墳全長約141m水鳥型埴輪23体
茶すり山古墳兵庫県朝来市和田山町筒江5世紀前葉円墳東西約35m、南北約30mの楕円形近畿地方最大級の円墳、大量の鉄製品を副葬
禁裡塚古墳兵庫県養父市大藪6世紀後半~7世紀代円墳32m装飾付須恵器の破片
西の岡古墳兵庫県養父市大藪6世紀後半から7世紀代円墳13.6m
箕谷古墳群兵庫県養父市八鹿町小山7世紀前半(630年ごろ)円墳2号墳から出土した戊辰年銘大刀

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丹後の古墳 網野銚子山古墳

【概要】

京丹後市網野町は、旧竹野郡(たかのぐん)で、日本海に注ぐ福田川と鳴き砂の浜で有名な琴引浜などの海水浴場、京都府下で一番広い湖である離湖(はなれこ)があり、古くは離湖と西の池があって福田川が流れ込んで日本海に注いでいたといわれている。

続きを読む丹後の古墳 網野銚子山古墳

小見塚古墳 (豊岡市城崎町)

兵庫県豊岡市城崎町今津

 但馬海直(あま)一族のものと考えられています。北但馬には5,000基以上の古墳がありますが、埴輪が出土したものは少なく、ここでは、現在但馬地方で一番古い埴輪が出土しています。丹後久美浜との関係がうかがえます。

但馬西部の古墳

出雲国造の同祖とされる二方(ふたかた)国造の名が記されていることからも、但馬国がまとまる前は、但馬西部には因幡・出雲に近しいクニが存在していたようです。

八幡山古墳群(やはたやまこふんぐん)

香美町村岡区福岡
5~6世紀、三角持送り式天井の竪穴系横口式石室
・県指定史跡

八幡山の丘陵屋根の南東に寄ったところにかたまり、かつては他に数基の古墳があったようです。この丘陵上には現在4基の古墳があり、3・5・6号墳が開口しています。構造から竪穴系横口式石室の名でよばれる石室で、特に5号墳は「三角持送り式天井」という特殊な構築方法として注目されています。石室の隅を三角にもちおくって天井部を架構していく方法は、日本全国をみても例が多くなく、源流は朝鮮半島に認められるといわれています。

また、6号墳からは多くの土師器(はじき)や須恵器(すえき)が出土されており、本古墳群の時期の一端をうかがわせます。5世紀末ころから6世紀前半にかけての遺物を含み、一度限りの埋葬だったとは考えにくい遺物の状況にあります。京都府福知山市夜久野町でも竪穴式石室が見つかっています。

流尾・長尾古墳

京都府福知山市夜久野町大字平野小字流尾、小字長尾

1961年、偶然発見されたが、当時夜久野中学校上校(現在宝陵中学校)の移転地とされていたため、緊急発掘調査が行われたものである。この二つの古墳は、同じ台地上の突端部に流尾古墳、その西約80mの台地端部に長尾古墳と、南面の見晴らしのよい高台に並んで築造されていた。

流尾古墳で注目されるのは石室の構造で、長さ5.13m、幅1.1~1.38m、高さ1.2mの羨道式窓のある竪穴石室で四壁の下半部は同時に石積みされ、上半部は三方と窓の壁を積み、埋葬後天井石をのせたもので類例のないものである。天井石は6枚で構成され、その最大のものは長さ2.2m、幅1.3m、厚さ0.2~0.3mあった。

こういった形式は、朝鮮慶尚北道達四面古墳群等の影響を受け5~6世紀に本邦に伝わって来たものではないか、又これらの形式は竪穴系横口式古墳と呼ぶのにふさわしいのではないか、言われている。(「日本の考古学」近藤良郎、藤沢長治編に記述)

■竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)

古墳時代前期から中期にかけてよく見られる古墳の埋葬形式である。発掘過程で竪穴の石室のように検出する事からその名がついた。中期には、先に石室を構築してから埋葬を行う、異なる系統の竪穴式石室が出現しています。これらは割石積みで構築されていますが、長さが短く、やや幅広の平面形の石室で、中期後半から後期にかけて、北部九州地方や中国地方、和歌山県の紀ノ川流域などで見られます。これらの石室は、旧来の竪穴式石室からの変化というより、朝鮮半島南部の洛東江下流域、の伽耶地域に顕著にみられる竪穴式石室からの影響を考えるべきものと思われています。

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大薮(おおやぶ)古墳群 (養父市大薮)


画像:養父市

兵庫県養父市大薮

兵庫県養父市養父地域の円山川右岸道路に隣接した南斜面の丘陵地に大薮古墳群があります。兵庫県を代表する、古墳時代後期のに造られた古墳群です。地形は大薮集落を中心として両側に弓形に広がっています。北に山を背負い、南前方には円山川が流れています。そして川の向こうには養父神社をみることができます。兵庫県を代表する、古墳時代後期に造られた古墳群です。

大薮古墳群の大型古墳は、東からコウモリ塚古墳・塚山古墳・禁裡塚古墳・西の岡古墳など4基の古墳が作られています。また横穴式石室をもつ中・小規模の古墳群として、東から小山支群・野塚支群・穴ヶ谷古墳群などがあります。道林古墳群は石棺や木棺を埋葬施設とする5世紀後半から6世紀前半の古墳群。これらの古墳をすべてあわせたものが大薮古墳群で、約150基の古墳群が造営されています。北近畿でも最大規模の石室墳として注目されており、考古学や歴史ファンの間では「但馬の飛鳥が大薮だ」とも言われています。

大薮古墳群では6世紀から7世紀にかけて禁裡塚古墳を契機として、塚山古墳・西の岡古墳・コウモリ塚古墳といった順番で但馬最大の大型古墳が次々と作られました。しかし5世紀に朝来市和田山町で但馬最大の古墳である池田古墳や茶スリ山古墳を作った地域には、大薮古墳群クラスの横穴式石室を持つ古墳はありません。こうした事から、6世紀になって朝来市和田山町から養父市養父地域に但馬最大の政治権力の中心地が移ったと主張する学説があります。

大薮古墳群は、はたしてだれが作ったのか。簡単には説明ができません。禁裡塚古墳などの大型石室は、奈良県の飛鳥地域にあっても並々ならぬ規模を誇る大型の石室です。但馬らしい田園空間に今も良好な状態で残る大薮古墳群は、名実ともに兵庫県を代表する古墳群だ大薮古墳群クラスの古墳はなく、こうした事から6世紀になって朝来市和田山町から養父市養父地域に但馬最大の政治権力の中心地が移ったと主張する学説があります。

養父市ページより

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船宮古墳 (朝来市桑市)

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船宮古墳 兵庫県指定文化財

朝来市桑市 1988年 古墳時代中期(5世紀代) 前方後円墳 全長約80m

但馬第2の大型前方後円墳(県指定史跡)、日本最古の牛形埴輪。双円墳とする説も。

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若水古墳群A11号墓・若水城跡

若水古墳群A11号墓・若水城跡


写真:兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所
朝来市山東町一品

同遺跡は、粟鹿神社の西側の小さな山塊。『若水城跡』は、山塊の最高所を中心に展開する城跡であり、本城跡は、北方から南下してくる山名氏の軍勢をいち早く察知できる唯一の場所であり、竹田城への東からの谷口を押さえる重要な位置にあることが分かります。天正5年(1577)あるいは天正8年(1580)に、羽柴秀吉(実際には弟の秀長)が但馬侵攻に際して造った陣城と考えることができるそうです。

若水A11号墓は、直径40m、高さ5mを誇る円形の墳丘墓(古墳?)です。直径20m~25mの広さをもつ墳頂の平坦面からは、2つの埋葬施設が発見されました。木棺の両端に石を積むという構造で、似た例としては舞鶴市川向古墳群がありますが、全国的に見ても他には例がありません。第1主体部は10m×5mの大きさの墓穴の中に、長さ約6m、幅約80cmの木棺を納めています。遺物は、鏡(飛禽鏡:ひきんきょう)が1面、漆塗り木製品(容器?)、鉄製品(鉄鏃?)が出土しています。木棺の形態は、円筒形の形をもつ「割竹形(わりたけがた)木棺」の可能性を現在のところ考えています。出土した飛禽鏡(ひきんきょう)は、全国的にみても9例しか存在しておらず、また中国大陸、朝鮮半島でも10数例程度しか確認しておりません。日本での確認例は、弥生時代末から古墳時代初頭の時期に集中しており、時期を決定する決め手となる遺物があまりない若水A11号墓も、鏡や墓の構造などから、この時期の墳丘墓(古墳)であると考えています。

第2主体部は、6m×3m以上の大きさの墓穴の中に、長さ約5m、幅約60cmの木棺を納めています。遺物は小さなガラス玉(直径2~3mm。その中に穴を空けています)が10点以上出土しています。 木棺の形態は、箱形木棺と考えています。 この埋葬施設で注目すべき点は、木棺の周囲を拳大~人頭大の石で囲み、 底には平坦な石を敷いていることです(礫槨状)。 また、若水古墳群A11号墳は、内行花文鏡という銅鏡2面(1面は飛禽鏡といわれるもので日本で十数例しかない珍しいもの)、鉄製のナイフ(刀子)1点と、直径2~4mm程度のガラス小玉50点以上出土しています。南但馬における最も古い大型古墳で、池田古墳、城の山古墳、茶すり山古墳同様、南但馬の王墓の一つと考えられています。若水古墳群A11号墳は南但馬最古の大型円墳です。

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