【環日本海の歴史】(9)環日本海


気比神宮

環日本海

日本列島の日本海側と朝鮮半島など大陸の間に日本海を囲む地域を「環日本海」といいます。

古来から西洋の船がやってくるまで、日本の表玄関は日本海でした。
日本海文化は、(一)「北の海つ道」による渡来人と文化、(二)潟湖を港とし、その近辺をも支配する地域勢力の形成、(三)独自の特色をもつ支配理念や文化の形成、の三点において特色づけられる(門脇禎二『日本海域の古代史』・『日本海文化とコシ』)。
弥生人が中国や朝鮮半島から日本海沿岸では九州北部を皮切りに、出雲(石見・伯耆・因幡含む)・丹波(但馬・丹後含む)、若狭・越前(加賀・能登含む)へと海岸づたいに移住していきました。

『紀』崇神紀の末尾に蘇那曷叱知の来航を伝えるが、垂仁紀には、「一に云わく」として越の笥飯浦に来着したのはツヌガアラヒト(都怒我阿羅斯等)またの名を干斯岐阿利叱智干岐であると記す(編一四)。

越前敦賀を中心とする新羅・加羅系の渡来者は、おそらく三人や五人ではなかったであろう。彼らはそこに定着するとともに祖国の文化を伝えたに違いない。式内社として、能登国羽咋郡久麻加夫都阿良加志比古神社、同能登郡加布刀比古神社・阿良加志比古神社、越前国敦賀郡白城神社・信露貴彦神社などがみえる。そのうちとくに、「久麻加夫都」はおそらくコマカブトで、冠帽を意味する韓語の(kat)がカブトになったのであろう。このように能登から敦賀にかけて新羅系文化の伝存がみられるわけであるが、それは同時に物資の交流をともなったに違いない。アメノヒボコは八種の宝を持って渡来したというが、それはヒボコに限ったことではなく、おそらく知識や技術の伝達をともなうものでもあったろう。(福井県史)

継体天皇

25代継体天皇となる男大迹王(おおどのおおきみ)は、『記紀』によると、応神天皇5世の孫(曾孫の孫)であり、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)。先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江高嶋郷三尾野とも)から迎えられました。
継体天皇の皇后は手白香皇女(たしらかのひめみこ。仁賢天皇の皇女)、24代武烈天皇の姉(妹との説もある)
継体天皇以降は、大和の勢力と越前や近江など北方の豪族の勢力が一体化し、ヤマト王権の力が国内で強くなった。

『日本書紀』によれば、継体天皇は、
507年2月、樟葉宮(くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。
511年10月、筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。
518年3月、弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。
526年9月、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。
大和にいたのは最後の5年のみである。

越前か近江か

『日本書紀』(以下『紀』)は、継体天皇の出身地を越前と伝える。しかし『古事記』(以下『記』)は、「故、品太天皇の五世の孫、袁本杼命を近淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合わせて天の下を授け奉りき」と記し、近江の出身と表現している。
『紀』も継体天皇(男大迹王)をやはり近江の生まれと記している。?オホトの父彦主人王は近江高嶋郡三尾の別業において、三国の坂中井の振媛の美貌を聞き、呼び寄せて妃とし、振媛はオホトを産んだと書かれている。しかし継体天皇のまだ幼い時に彦主人王は没し、母の振媛は異郷で幼児を育てられないと、オホトを連れて家郷の高向に帰ったという。したがって継体天皇は、幼少時から迎えられて天下の主となる成年期まで越前で育ったわけであり、越前を主な地盤とみてよいことになる。

一方、用字的にみてほぼ推古朝の成立とみられ、『紀』に劣らず古い史料と考えられる『上宮記』(『釈日本紀』所引)は『紀』とほぼ同様の説話を伝えている。

まず継体天皇の父系の考察から始めよう。『紀』は彦主人王を誉田天皇(応神)四世の孫とするが、その系譜については何も記さない。また三尾の別業にいたと記すが、その本拠地についてはまったく触れていない。一方『上宮記』は、継体天皇の父を斯王とし、凡牟都和希王(一般的に応神天皇と考えられる)より四代の系譜を伝えているが、これは『記』の伝える系譜にきわめて近似したものである。
敦賀の登場の頻度からみて、古墳時代にもさかのぼりうるものであろう。

応神天皇

15代応神天皇は、ホムタワケ(誉田別尊)とよばれ、仲哀天皇と神功皇后の間に生まれました。
『古事記』
アメノヒボコ(天日槍)とタヂママヘツミ(多遅摩前津見)の間に生まれた子がタヂマヒナラキ(多遅摩比那良岐)で、その第二子がタヂマヒタカ(多遅摩比多訶)と(スガカマノユラトミ(菅竈由良度美)のの間に生まれた子がカツラギノタカヌカヒメノミコト(葛城之高額比売命)。
オキナガノスクネ(息長宿祢王)と葛城之高額比売命の間に生まれた子がオキナガタラシヒメノミコト(息長帯比売命[神功皇后] )。
仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた子がホムタワケ(誉田別尊[応神天皇])。
歴史学者の間では、仲哀天皇は実在性のほとんど無い父(日本武尊)と妻(神功皇后)をもっている人物であるため実在性の低い天皇の一人に挙げられている。

しかし、応神天皇は、実在性が濃厚な最古の大王(天皇)とも言われますが、仁徳天皇の条と記載の重複・混乱が見られることなどから、応神・仁徳同一説などが出されている。応神天皇の名とされる「ホムダワケ」は和風諡号であり、和風諡号を追号するようになったのは6世紀の半ば以降と見られる。とくに応神天皇から継体天皇にかけての名は概して素朴であり、ワカタケルのように明らかに生前の実名と証明されたものもある。
しかし、『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『上宮記』逸文によって辛うじて状況を知ることが出来る。

息長氏の性格

息長氏(おきながうじ)は古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を美濃・越への交通の要地を根拠地とした豪族です。『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とする。
但し文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。

息長氏は、オキナガタラシヒメ(息長帯比売命・神功皇后)によって古代史上有名な氏族ですが、神功皇后の実在性については多くの議論があり、その系譜の古い部分は信頼性に乏しいようです。しかしオキナガタラシヒメ(息長帯比売命)がホムタワケ(応神天皇)の母と位置づけられている伝承は、応神天皇が継体天皇の五世の祖と伝えられているだけに、無視しがたい重みをもっている。

ヒボコと継体天皇

『日本書紀』によれば、船に乗って播磨国にとどまって宍粟邑(しそうのむら)にいた。天皇から「播磨国穴栗邑(しそうむら)か淡路島の出浅邑 (いでさのむら)に気の向くままにおっても良い」とされた。「おそれながら、私の住むところはお許し願えるなら、自ら諸国を巡り歩いて私の心に適した所を選ばせて下さい。」と願い、天皇はこれを許した。ヒボコは宇治川を遡り、近江国の吾名邑(あなのむら)、若狭国を経て但馬国に住処を定めた。

『古事記』に、ヒボコ(天日槍)の曾祖孫カツラギノタカヌカヒメノミコト(葛城之高額比売命)が近江のオキナガノスクネ(息長宿祢王)の妃となりオキナガタラシヒメ(息長帯比売命・神功皇后)が生まれたとしている。

近江国の吾名邑とは穴師つまり鉱山師の集団であろうし、ヒボコは鉾という名前から武器・神具の製造にも深い。日槍の神社があるのは近江と但馬。ヒボコも息長氏も、ともに伽耶・新羅渡来系であろう。中国の『梁書』には古代、大漢国は丹国・若狭・越国・近江の大きな国だったと記されています。したがって同族の婚姻も多かっただろうし、ヒボコもツヌガアラヒト(都怒我阿羅斯等)、そして応神天皇が継体天皇の五世の祖であり、越前や近江は朝鮮半島ととても縁が深いことになります。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

たじまる あめのひぼこ 3 気多に落ちた黒葛

塗り替えられた気多の歴史

旧気多郡 「日高町史」

拙者が生まれた旧日高町は、古くはほぼ気多(ケタ)郡全域だった。その後周辺の城崎郡と美含郡との合併で城崎郡となる。平成に豊岡市と周辺の香住町を除く城崎郡・出石郡が合併し豊岡市となる。もうすでに市町村合併によって気多郡も城崎郡も消滅したが、ところで、気多ってどういう意味なんだろう?というのがそもそも郷土の歴史を知りたいきっかけだった。

播磨風土記でも天日槍と伊和大神との争いに気多郡が登場する。

1.気多という地名

日本に初めて伝わった文字が漢字であり、気多という地名は、漢字にはない訓読みを表すために、万葉仮名という漢字をヨミガナに充てたものが、もちにカタカナやひらがなに発展する。つまり、漢字が伝わる以前から“ケタ”という地名はおそらく口頭ではあったのであって、気多という漢字にあまりこだわる意味はないかも知れない。

万葉仮名として日本語の訓読みに使用された漢字は一種類ではなく数種類ある。「ケ」では発音で“e”(エ段甲類)と“ae”(エ段乙類)の発音があった。「気」はそのエ段乙類に分類されるので当時のケタの発音は、カとケの中間の“k-ae ta”だったようだ。カタカナの「ケ」は「気」を崩したカナ、「タ」は「多」を崩してできたカタカナなので、万葉仮名の漢字としてそれぞれ最もポピュラーな漢字である。

奈良時代初期の和銅6年(713年)に、「畿内七道諸国郡郷着好字」(国・郡・郷の名称をよい漢字で表記せよ)という勅令が発せられている。(「好字令」という)これには2字とは記されていないが、この頃から一斉に地名が2字化したことがわかっている。により、ケタにも漢字が充てられた。地名のほとんどやその住む土地の名から派生した苗字が漢字2文字なのはこの名残りである。

したがって、漢字が伝わる弥生時代以前からケタという地名はあっただろうし、「和妙抄」の中でも例えばタヂマは多遅麻など、地名や人名を表すのに様々な漢字が使用されていることからも、漢字の意味にばかりこだわるというのは、そもそも漢字以前に「ケタ」はあり、漢字はあとからなので狭い解釈だと思えるが、カタカナのもとになったことでも分かる通り、最も一般的な気と多が用いられたことになる。好字を当てたという意味で掘り下げてみると、本来の漢字の意味は、気多の「気」とは、正字は「氣」で、中国思想および中医学(漢方医学)の用語でもある。目に見えないが作用をおこし、気は凝固して可視的な物質となり、万物を構成する要素ともなるものをさす。本来は、中国哲学の意味だが、日本では「元気」などの生命力、勢いの意味と、気分・意思の用法と、場の状況・雰囲気の意味の用法など、総じて精神面に関する用法が主であり、「病は気から」の「気」は、日本ではよく、「元気」「気分」などの意味に誤解されているそうである。

『国司文書 但馬故事記』第一巻・気多郡故事記には、第1代神武天皇の頃はケタは佐々前県で、人皇8代孝元天皇32年、櫛磐竜命をもって佐々前県主と為す。
当県の西北に気吹戸主命の釜あり。常に物の気を噴く。故にその地を名づけて、気立原という。その釜は神鍋山という。
よって、佐々前県を改めて気立県という。

これは、「ケタツ・ケダツ」と読みのではなく、最初から「ケタ、またはケタッ」だと思う。

縄文人と同じルーツを持つとされる南方系で、ニュージーランドの先住民族マオリ族のマオリ語の 「ケ・タ」、KE-TA(ke=different,strange;ta=dash,lay)、「変わった(地形の)場所がある(地域)」 の転訛と解しておられる。
あながち、ハワイなどの地名をみても、日本語に近い発音であるし、なるほどと思った。
旧石器から縄文にここへやってきた先住民が、噴火口のぽっかり開いた神鍋山(かんなべやま)などの火山群を見つけ、びっくりし「ケ・タ」と呼んだのではないか、と冗談ともいえない想像もできる。

但馬で最も古く人が住み着いた形跡が残る新温泉町畑ヶ平遺跡、鉢伏山家野遺跡(養父市別宮字家野)、そして神鍋遺跡、この中国山地でつながる標高の高いエリアは、無理やり漢字を充てはめたかのような難解な地名が多い。神鍋周辺でも、名色ナシキ万場マンバ万却マンゴウ稲葉イナンバなど、まず一発で読めない。

「気多」という地名があるのは、意外に多く、遠江国(静岡県西部)山香郡気多郷、丹後国(京都府北部)加佐郡に気多保、因幡国(鳥取県東部)にもかつて気多郡があった。

明治29年(1896)、鳥取県の旧気多郡は高草郡と合併して、気高郡となった(現在は鳥取市)。伝説で有名な因幡の白兎は、この高草郡に関係がある説話で、「この島より気多の崎という所まで、鰐(ワニ=サメのこと)を集めよ」といい、兎が隠岐から戻る話です。気多の島という名は、『出雲風土記』の出雲郡の条にも出てきます。奇しくもわが兵庫県気多郡も城崎郡と合併し明治23年(1890)に消滅しています(現在は豊岡市)。気多神社にある「鰐口(わにぐち)」も因幡白兎に関係あるのでしょうか。

気多神社は、石川県羽咋市に能登国一宮、旧国幣大社で、同じ「大己貴命(オオナムチノニコト)」を祭神とする気多大社など北陸にたくさんあります。気多大社の社伝によれば、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされます。崇神天皇のときに社殿が造営されました。奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持が参詣したときの歌が載っています。グーグル検索してみると、字名で、岐阜県飛騨市古川町上気多(飛騨国)、福島県河沼郡会津坂下町気多宮字宮ノ内(上野国)がありました。それぞれ気多若宮神社、坂下町は地名の通り気多神社(宮)で神社があります。

大己貴命と大国主(オオクニヌシ)は同一神で、全国の出雲神社で祀られています。

また、三重県に多気郡多気町丹生があります。関係が全くないとも思えないのが、丹生(にゅう)です。日高町には祢布(にょう)があり、日高町で最初に発掘調査が行われた場所で、古く縄文期から人が住んでいたところです。また、第二次但馬国府が置かれた場所だと確定されています。

人名では、奈良時代末期から平安時代初期にかけて、気多君の名が出ています。

「気多の名前が分布しているのは、出雲、因幡、但馬、能登と太平洋側の遠江の五ヶ所に限られる。但馬の気多神社も、祭神は出雲国と濃い関係にある大己貴命(おおなむちのみこと)だというから、気多という名を負う気多氏は、出雲の国から起こって、その一族の播居地に、気多という名前を残していたとも考えられはしないだろうか。」

と日高町史は記しています。

さて、前出の『播磨風土記』では「アメノヒボコ(天日槍)とアシハラシコオ(葦原志許乎命・大己貴神の別称)との争いで、葦原志許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に付けて投げた。葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡、1本は夜夫郡(養父郡)、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)」と称されるという。一方、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のものとしたという。また別伝として、大神が形見に御杖を村に立てたので「御形(みかた)」と称されるともいう。

ヒボコは出石を選び、アシハラシコオは気多を選んだ。それは鉄の産地争いではないかともいわれている。