たじまる あめのひぼこ 1

天日槍(あめのひぼこ)

縄文時代の豊岡盆地 Mutsu Nakanishi さんよりお借りしました
縄文時代の豊岡盆地 Mutsu Nakanishi さんより

天日槍(あめのひぼこ、以下ヒボコ)は、但馬国一の宮・出石神社のご祭神です。
「出石神社」(いずしじんじゃ)のご祭神で、『播磨国風土記』、日本の正史『古事記』『日本書紀』(記紀)の日本神話に登場する古代史上の人物です。『天之日矛』とも書きます。 朝鮮半島から日本に渡来した新羅の人々が信仰した神様だと伝えられています。

ヒボコは、出石神社由緒略記には、その当時「黄沼前海(きぬさきうみ)」という入江湖だった円山川河口の瀬戸の岩戸を切り開いて干拓し、耕地にしたと記されています。列島は海面が今より3~5メートル高かったとされ、縄文時代前期の約6,000年前にピークを迎えたとされています。豊岡盆地中央部は、入江湖や湿地帯であったとされています。矛(ほこ)とは、槍(やり)や薙刀(なぎなた)の前身となった長柄武器で、やや幅広で両刃の剣状の穂先をもちます。日本と中国において矛と槍の区別が見られ、他の地域では槍の一形態として扱われています。日本では鉾や桙の字も使用されます。

この場合の矛は、武器というよりも、銅鐸と同じく太陽神を奉祀する呪具としての性格が強いようです。

『日本書紀』では、以下のように記しています。

日本書紀垂仁天皇三年の条

《垂仁天皇三年(甲午前二七)三月》三年春三月。新羅王子日槍来帰焉。将来物。羽太玉一箇。足高玉一箇。鵜鹿鹿赤石玉一箇。出石小刀一口。出石桙一枝。日鏡一面。熊神籬一具。并七物。則蔵于但馬国。常為神物也。

〈 一云。初日槍。乗艇泊于播磨国。在於完粟邑。時天皇遣三輪君祖大友主与倭直祖長尾市於播磨。而問日槍曰。汝也誰人。且何国人也。日槍対曰。僕新羅国主之子也。然聞日本国有聖皇。則以己国授弟知古而化帰之。仍貢献物葉細珠。足高珠。鵜鹿鹿赤石珠。出石刀子。出石槍。日鏡。熊神籬。胆狭浅大刀。并八物。仍詔日槍曰。播磨国宍粟邑。淡路嶋出浅邑。是二邑。汝任意居之。時ヒボコ啓之曰。臣将住処。若垂天恩。聴臣情願地者。臣親歴視諸国。則合于臣心欲被給。乃聴之。於是。日槍自菟道河泝之。北入近江国吾名邑、而暫住。復更自近江。経若狭国、西到但馬国、則定住処也。是以近江国鏡谷陶人。則日槍之従人也。故ヒボコ娶但馬国出嶋人。太耳女。麻多烏。生但馬諸助也。諸助生但馬日楢杵。日楢杵生清彦。清彦生田道間守也。 〉

垂仁天皇3年(紀元前31年)春3月、新羅の王の子であるヒボコが謁見してきた。
持参してきた物は羽太(はふと)の玉を一つ、足高(あしたか)の玉を一つ、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉を一つ、出石(いずし)の小刀を一つ、出石の桙(ほこ)を一つ、日鏡(ひかがみ)を一つ、熊の神籬(ひもろぎ)を一揃えの合わせて七点だった。それを但馬の国に納めて神宝とした。

一説によると、ヒボコの噂を聞いた天皇は、初めは、播磨国宍粟邑と淡路の出浅邑を与えようとしたが、三輪君の祖先にあたる大友主と、倭直(やまとのあたい)の祖先にあたる長尾市(ながおち)を遣わした。大友主が「お前は誰か。何処から来たのか。」と訪ねると、ヒボコは「私は新羅の王の子で天日槍と申します。「この国に聖王がおられると聞いて自分の国を弟の知古(ちこ)に譲ってやって来ました。」

そして持参した物は葉細(はほそ)の玉、足高の玉、鵜鹿鹿の赤石の玉、出石の刀子(かたな)、出石の槍、日の鏡、熊の神籬(ひもろぎ)胆狭浅(いささ)の太刀合わせて八種類[*2]だった。

天皇はこれを受けて言った。「播磨国穴栗村(しそうむら)[*3]か淡路島の出浅邑 (いでさのむら)[*4]に気の向くままにおっても良い」とされた。「おそれながら、私の住むところはお許し願えるなら、自ら諸国を巡り歩いて私の心に適した所を選ばせて下さい。」と願い、天皇はこれを許した。ヒボコは宇治川を遡り、北に入り、近江国の吾名邑、若狭国を経て但馬国に住処を定めた。近江国の鏡邑(かがみむら)の谷の陶人(すえひと)は、ヒボコに従った。

但馬国の出嶋(イズシ・出石)[*5]の人、太耳の娘で麻多烏(あたお)を娶り、但馬諸助(もろすく)をもうけた。諸助は但馬日楢杵(ひならき)を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。また清彦は田道間守(たじまもり)を生んだという。

2.阿加流比売神(アカルヒメノカミ)

阿加流比売神は、『古事記』では、以下のように記しています。

古事記
「昔、新羅の阿具奴摩、阿具沼(アグヌマ:大韓民国慶州市)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。

ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、ヒボコと出会った。天日槍は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。」ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国である倭国(日本)に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾(ヒメコソ)神社[*6]に逃げた。ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見(マエツミ)と結婚した。

『摂津国風土記』逸文にも阿加流比売神と思われる神についての記述があります。

応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比の比売島」に住んでいた。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島(ヒメジマ)」と名附けた。

『日本書紀』では、アメノヒボコの渡来前に意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が渡来し、この説話の前半部分、阿加流比売神が日本に渡りそれを追いかける部分の主人公。都怒我阿羅斯等は3年後に帰国したとされています。


[註]
  • http://kojiyama.net/history/history/?p=119111 神籬(ひもろぎ)とはもともと神が天から降るために設けた神聖な場所のことを指し、古くは神霊が宿るとされる山、森、樹木、岩などの周囲に常磐木(トキワギ)を植えてその中を神聖な空間としたものです。周囲に樹木を植えてその中に神が鎮座する神社も一種の神籬です。そのミニチュア版ともいえるのが神宝の神籬で、こういった神が宿る場所を輿とか台座とかそういったものとして持ち歩いたのではないでしょうか。
  • *2 八種類 『古事記』によれば珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種。これらは現在、兵庫県豊岡市出石町の出石神社にヒボコとともに祀られています。いずれも海上の波風を鎮める呪具であり、海人族が信仰していた海の神の信仰とヒボコの信仰が結びついたものと考えられます。
    「比礼」というのは薄い肩掛け布のことで、現在でいうショールのことです。古代ではこれを振ると呪力を発し災いを除くと信じられていた。もう一度これら宝物の名前をよく見ていただけるとわかりやすいが、四種の比礼は総じて風を鎮め、波を鎮めるといった役割をもったものであり、海と関わりの深いものです。波風を支配し、航海や漁業の安全を司る神霊を祀る呪具といえるだろう。こういった点から、ヒボコ神は海とも関係が深いといわれています。
  • *3 穴栗邑…兵庫県宍粟市
  • *4 出浅邑 (いでさのむら) 「ヒボコは宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て…剣でこれをかき回して宿った。」とあるので、淡路島南部 鳴門の渦潮付近か?
  • *5 出嶋(イズシマ)…兵庫県豊岡市出石。イズシマから訛ってイズシになったのかも知れない。
    [*6]…比売碁曾(ヒメコソ)神社(祭神:下照比賣命(シタテルヒメ)=(阿加流比売神(アカルヒメ)、大阪市東成区

    3.但馬の地元に伝わる民話

    少し長いですが、但馬の地元に伝わる民話をご覧ください。

    兵庫県の民話 天日槍(あめのひぼこ)

    むかしむかし、新羅の国(しらぎのくに→朝鮮)に、天日槍(あめのひぼこ)という王子がいました。
    王子には美しい妻がいましたが、日槍(ひぼこ)はちょっとした事から、妻をののしるようになったのです。

    これに耐えられなくなった妻は、
    「私はあなたの妻としては、ふさわしくありません。私は国へ帰ります」
    と、言い残して、一人こっそり船に乗り、日本の灘波(なにわ→大阪)に帰ったのです。
    これを知った日槍(ひぼこ)は、自分も妻を追って日本へと渡ったのですが、灘波に近づくとその土地の神々が邪魔をして、どうしても上陸できません。

    そこで仕方なく、日槍は但馬の国(たじまのくに→兵庫県)に船をつけると、そこに落ち着くことになったのです。

    やがて時は流れて、日槍は土地の娘と結婚して、子孫も栄えていました。
    ところがその当時の豊岡や出石盆地のあたりは、一面が泥の海だったので、とても生活しにくい土地でした。

    そこで日槍は五社大明神(ごしゃだいみょうじん)の神々と力を合わせて、この地を開拓しようと考えたのです。

    まずは、来日岳(くるひだけ)の下流を切り開くことになりました。
    そこには固くて大きな岩がさえぎっているため、水がせき止まって瀬戸(せと)になっているのです。
    みんなで力を合わせて横たわっている大岩をとりのぞくと、泥水がすさまじい音をたてて日本海へと流れ出しました。

    やがて水の引いたあとには、肥えた広々とした平野が少しずつ広がっていきます。
    日槍も神々も大喜びで、その様子をながめていました。

    そのとき、残った水の中ほどがざわざわと大きく揺れ動いたかと思うと、渦巻きとともに水煙をあげて頭を突き出したものがありました。
    見ると体の周りが二メートルはありそうな、恐ろしい大蛇ではありませんか。

    みんなが息をのんで見ていると、大蛇は下流に向かって泳ぎ出して、せっかく切り開いた瀬戸の口に体を横たえて、水の流れをせき止めてしまったのです。
    みんなは大いに怒って、この大蛇を岸に引きづり上げると、胴体を真っ二つに引きちぎってしまいました。
    こうして開拓は成功し、泥海のようだった土地は人の住めるりっぱな土地になったのです。
    その後、日槍は出石神社に祭られて、開発の神として今でも多くの人々の信仰を集めているのです。

    おしまい

    4.丹後のヒボコ伝説

    京丹後市網野町(旧網野町)に次の記事があります。

    浜詰区の志布比神社(宗教編第一章神社参照)の「社伝」に、大意が次のような記事がある。(『竹野郡誌』所載)

    『(本社の)創立年代は不詳であるが、第十一代垂仁天皇の御代、新羅王の王子ヒボコが九種の宝物を日本に伝え、垂仁天皇に献上した。九種の宝物というのは、「日の鏡」・「熊の神籬(ひもろぎ)」・「出石の太刀」・「羽太玉」・「足高玉」・「金の鉾」「高馬鵜」・「赤石玉」・「橘」で、これらを御船に積んで来朝されたのである。

    この御船を案内された大神は「塩土翁(しおづちのおきな)の神」である。その船の着いた所は竹野郡の北浜で筥石(はこいし)の傍である、日本に初めて橘を持って来て下さったので、この辺を「橘の荘」と名付け、後世文字を替えて「木津」と書くようになった。

    ヒボコ命が日本で初めて鎮座された清い「塩化の浜」のあたりを、「宮故(くご)」と名付け、案内された塩土翁の神の祠も同所にお祀りしたという。

    その後、ヒボコ命は但馬国へ行きたいと思われ、熊野部川上荘馬次(まじ)の里の須郎(すら)に暫らく休まれ、それから川上の奥布袋野(ほたいの)の西の峠を越えて立馬(たじま)(ママ)の国に越えられた。この時九種の宝物は馬に付けて峠を越えられた。後、この峠を「駒越(こまご)し峠」と呼ぶ。(ヒボコは)但馬国出石郡宮内村に鎮座し、宝物を垂仁天皇に奉献されたのである。」(後略)

    ところで、同じ『竹野郡誌』の「浜詰村誌稿」―唐櫃越(からとこごえ)―の箇所には、

    「垂仁天皇がヒボコの孫の田道間守に対して、常世(とこよ)の国から橘の実を求めてくるよう命令された」と書かれている。十年余を経て、田道間守がようやく橘の実を求めて帰国したとき、着船した所を「橘(キツ)の庄」といったというのである。
    このように、先の「志布比神社社伝」と「浜詰村誌稿」とは、内容が少々異なる。しかも、木津の「売布(めふ)神社」は、田道間守がまず「ひもろぎ」[http://kojiyama.net/history/history/?p=119111]を設けた記念の地として奉祀されたともいう。(『木津村誌』)

    さらに、このほかにも「意富加羅国(おおからこく)の王子・都努我阿羅斯等(つぬがあらしと)」が木津の浜に上陸したという伝説もあるようで、全国的に名高い「函石遺跡」の存在も唐櫃越付近一帯、浜詰・木津・函石などの地域が、古代、大陸とさかんな往来のあった良港であったことを証明する伝承群であろう。そして、新しい文化文明が大陸から次々に渡来してきた事実が、「ヒボコ」という名に象徴されるのであろう。
    ヒボコ伝承は西日本一帯にさかんだが、丹後ではこの一例だけである。