【丹国の歴史】(24) 丹国と鉄資源

丹波と鉄資源

大和(奈良)に中央王権を開始した祭祀王国のヤマト王権がどこと手を握ったかといえば、まず丹国です。
昔の丹波(丹国)には但馬と丹後が含まれていたのですが、“鉄の国”にふさわしいのは丹後です。ヤマト王権にすれば、丹波と握手したのは鉄製の農具や武器を手に入れるのがねらいでしょう。門脇禎二氏は、丹波王国は大和の勢力とは対等の力関係にあったと説いています。

ヤマト王権は婚姻によってじわじわと丹波へ触手を伸ばしていきます。くわしくは下記の垂仁天皇で触れますが、その一例が垂仁の妻となった日葉酢媛命(ひばすひめのみこ)です。彼女の父は、崇神に任命された四道将軍の一人、丹波道主命(たにわのちぬしのおおきみ)でした。
それは卑弥呼の流れを汲む祭祀中心の王権であるということです。

丹波国は、ヤマト王朝の畿内に接する山陰道最初の国で、朝鮮半島に最短距離で往来でき、早くから開化天皇の妃・竹野媛(たかのひめ)の出身地としてすでに記紀に名が見えています。

鉱山としての大江山(大江山ニッケル鉱山と河守鉱山)

大江山の位置する丹波・丹後地方は古くから大陸との交流が深く、渡来人は高度な金属精錬技術により大江山で金工に従事、多くの富を蓄積していた、これに目を付けたヤマト王権の勢力は兵を派遣、富を収奪し支配下に置きました。多分このような出来事が元になり自分達を正当化、美化しようとの思いから土蜘蛛退治や鬼退治伝説が生まれたのではないかとする説と同時に 、渡来人が寄り集まって山賊化して非道な行いをしたので鬼と呼ばれたという説もあります。

小倉百人一首には「大江山いく野の道の遠ければ、まだふみも見ず天の橋立」(小式部内侍)という歌があります。ここでの大江山は京都市西京区の大枝山をかけているとの説もあります(生野は丹波路でみると福知山市生野で、まだ生野には遠いと歌っているので)。

大江山は、地質学的には地球の深部から隆起した地層で超塩基性の岩盤。金属鉱脈が豊富で周辺には金屋など金属にまつわる地名が多く見られました。1917年に鉱床が発見され、1933年から太平洋戦争末期にかけて兵器に不可欠なニッケルを確保するため大江山から採鉱されました。日本海に面した岩滝町の精錬場まで専用鉄道(加悦鉄道)で輸送し、精製しました。

『日本書紀』において鬼の烙印を押された物部、蘇我、伽耶、新羅を結ぶ共通点、鬼退治伝説が残る丹後と桃太郎伝説が残る吉備はどちらも伽耶色が強い。与謝野町加悦、豊岡市加陽

3つの鬼退治伝説

大江山(おおえやま)は京都府丹後半島の付け根に位置し与謝野町、福知山市、宮津市にまたがる連山。標高833m。別称、大枝山・与謝大山・千丈ヶ嶽といいます。酒呑童子伝説で知られています。また、雲海の名所としても知られています。これらの伝説にちなみ、大江山の山麓にあった廃坑となった銅鉱山跡に1993年大江町(現在は福知山市の一部)によって日本の鬼の交流博物館が作られました。2007年(平成19年)8月3日には丹後天橋立大江山国定公園として国定公園にも指定されています。
大江山には3つの鬼退治伝説が残されています。

一つは、古事記に記された崇神天皇の弟 日子坐王(ひこいますのみこ)が土蜘蛛 陸耳御笠(くぐみみのみかさ)を退治したという話
二つめは聖徳太子の弟 麻呂子親王が英胡、軽足、土熊を討ったという話
三つめが有名な酒呑童子伝説です。
そして鬼退治伝説の立岩があります。
なお、酒呑童子の本拠とした「大江山」は、この丹後の大江山であったという説のほかに、京都市西京区にある山城国と丹波国の境、山陰道に面した大枝山(おおえやま)という説もあります。
丹波と丹後・但馬がまだ分立せず「大丹波(丹国)時代」といわれた古代、この地方は大陸の文化をうけ入れ、独自のすぐれた古代文化をもっていました。
しかし、平安京が政治の中心となってから、この地方は、都に近い山国として、日本の歴史の中で、王城の影の地域としての性格を色濃くにじませるようになります。
隠田集落であると伝承する山里が散在することは、そのことを如実に物語っているといいます。また、王朝時代、大きな役割を果たした陰陽道(おんみょうどう)で、乾(北西)は忌むべき方角とされましたが、当地は都の乾の方角に当たっていたのです。

酒呑童子や羅生門の鬼に代表されるように、京の都に出没する鬼は、王権を脅かす政治的な色合いの強い鬼であります。天皇が勅命を下し、武将に鬼を退治させる物語―それは、王権が自らの権力を誇示し、その物語を通して王権を称掲する手段にしようとして、つくり出したものではなかったのでしょうか。あるいは、中世に入り、地に堕ちた王権を支えようとした人々の願望としての王権神話ではなかったのでしょうか。大江山―ここに鬼退治伝説が三つ残されていることは偶然ではないのかもしれない。丹後の海を見ているとそんなロマンが感じられてきます。  これは能の演目、大江山(五番目物の鬼退治物)にもなっています。これらの伝説にちなみ、大江山の山麓にあった廃坑となった銅鉱山跡に1993年日本の鬼の交流博物館が作られました。

1.大江山の鬼伝説(その一)

「陸耳御笠(くがみみのみかさ)-日子坐王(ひこいますのみこ)」
大江山に遺る鬼伝説のうち、最も古いものが、「丹後風土記残欠(たんごふどきざんけつ)」[*1]に記された陸耳御笠[*2]の伝説です。
青葉山中にすむ陸耳御笠(くがみみのみかさ)が、日子坐王(ひこいますのみこ)[*3]の軍勢と由良川筋ではげしく戦い、最後、与謝の大山(現在の大江山)へ逃げこんだ、というものです。
崇神(すじん)天皇の時、青葉山中に陸耳御笠(くがみみのみかさ)・匹女(ひきめ)を首領とする土蜘蛛(つちぐも)[*4]がいて人民を苦しめていました。

日子坐王(ひこいますのみこ)が勅命を受けて討ったというもので、その戦いとかかわり、鳴生(舞鶴市成生・ナリウ)、爾保崎(匂ヶ崎)、志託(舞鶴市志高・シダカ)、血原(福知山市大江町千原・センバラ)、楯原(福知山市大江町蓼原・タデワラ)、川守(福知山市大江町河守・コウモリ)などの地名縁起が語られています。

このなかで、川守郷(福知山市大江町河守)にかかる記述が最も詳しいです。
これによると青葉山から陸耳御笠らを追い落とした日子坐王は、陸耳御笠を追って蟻道郷(福知山市大江町有路・アリジ)の血原(千原)にきてここで匹女を殺した。

この戦いであたり一面が血の原となったので、ここを血原と呼ぶようになりました。
陸耳御笠は降伏しようとしましたが、日本得玉命(やまとえたまのみこと)が下流からやってきたので、陸耳御笠は急に川をこえて逃げてしまいました。そこで日子坐王の軍勢は楯(たて)をならべ川を守りました。これが楯原(蓼原)・川守(河守)の地名の起こりです。

陸耳御笠は由良川を下流へ敗走しました。このとき一艘の舟が川を下ってきたので、その船に乗り陸耳御笠を追い、由良港へ来ましたが、ここで見失ってしましました。そこで石を拾って占ったところ、陸耳御笠は、与謝の大山(大江山)へ逃げ込んだことがわかりました。そこを石占(石浦)といい、この舟は楯原(蓼原)に祀りました。これが船戸神(ふなどのかみ)[*5]です。

[考察] 陸耳御笠(くがみみのみかさ)は、何故、土蜘蛛という賊称で呼ばれながら、「御」という尊称がついているのか。長年の謎が一つ解けたような気がしています。ヤマト王権の国家統一前、ここに笠王国ともいうべき小国家があったのかもしれない。陸耳御笠と笠津彦がダブってみえてきます。
陸耳御笠について、興味ある仮説を提示しているのが谷川健一氏で、「神と青銅の間」の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習をもち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」として、福井県から兵庫県・鳥取県の日本海岸に美浜、久美浜、香住、岩美などミのつく海村が多いこと、但馬一帯にも、日子坐王が陸耳御笠を討った伝説が残っていると指摘されています。
一方の日子坐王は、記紀系譜によれば、第九代開化天皇の子で崇神天皇の弟とされ、近江を中心に東は甲斐(山梨)から西は吉備(岡山)までの広い範囲に伝承が残り、「新撰姓氏録」によれば古代十九氏族の祖となっており、大和からみて、北方世界とよぶべき地域をその系譜圏としているといわれます。
「日子」の名が示すとおり、大和国家サイドの存在であることはまちがいない。「日本書紀」に記述のある四道将軍「丹波道主命」の伝承は、大江町をはじめ丹後一円に広く残っているが、記紀系譜の上からみると日子坐王の子である。
[*1]…「丹後風土記残欠」とは、奈良時代に国別に編纂された地誌である 8世紀に、国の命令で丹後国が提出した地誌書ともいうべき「丹後風土記」の一部が、京都北白川家に伝わっていたものを、15世紀に、僧智海が筆写したものといわれる。
[*2]…陸耳御笠のことは、「古事記」の崇神天皇の条に、「日子坐王を旦波国へ遣わし玖賀耳之御笠を討った」と記されている。この陸耳御笠の伝説には、在地勢力対大和国家の対立の構図がその背後にひそんでいるように思える。大江町と舞鶴市は、かつて加佐郡に属していました。「丹後風土記残欠」にも、加佐郡のルーツは「笠郡」とのべています。
この「笠」に関連して、興味深い伝承が青葉山に伝わっています。青葉山は山頂が2つの峰に分かれていますが、その東側の峰には若狭彦、西峰には笠津彦がまつられているというものです。笠のルーツは、この笠津彦ではないのか、そんなふうに考えていたところ、先年、大浦半島で関西電力の発電所建設工事中、「笠氏」の刻印のある9世紀頃の製塩土器が発見されました。笠氏と呼ばれる古代豪族が、ここに存在していたことが証明されたわけです。また、ここから、大陸との交流を裏づける大型の縄文の丸木舟が出土し話題となりました。
[*3]…日子坐王とは崇神天皇の弟にあたり、四道将軍として丹波に派遣された丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)の父にあたる。
[*4]…土蜘蛛というのは穴居民だとか、先住民であるとかいわれるが、大和国家の側が、征服した人々を異族視してつけた賎称である。
[*5]…衝立船戸(ツキタツフナト)神。境界の神。民間信仰における道祖神に相当する。「フナト」は「クナト」を古名とする記述から、「来(く)な」の意。「ツキタツ」は、杖を突き立てて「ここから来るな」と告げた意。

2.大江山の鬼伝説(その二)

麻呂子親王(まろこしんのう)の鬼退治
用明天皇の時、河守荘三上ヶ嶽(現在の大江山)に英胡(えいこ)・軽足(かるあし)・土熊(つちぐま)という三鬼を首領とする悪鬼が集まり庶民を苦しめたので、天皇は麻呂子親王(まろこしんのう) に征伐を命じた。
命をうけた親王は、七仏薬師の法を修め、兵をひきいて征伐にむかった。その途中、篠村のあたりで商人が死んだ馬を土中に埋めようとしているのを見て、親王が「この征伐利あらば馬必ず蘇るべし」と誓をたて祈ると、たちまちこの馬は地中でいななき蘇った。掘り出してみると俊足の竜馬であった。(ここを名づけて馬堀という。)親王はこの馬に乗り、生野の里を通りすぎようとしたとき、老翁があらわれ、白い犬を献上した。この犬は頭に明鏡をつけていた。
親王はこの犬を道案内として雲原村に至り、ここで自ら薬師像七躰を彫刻した。この地を仏谷という。 そして親王は鬼賊を征伐することができればこの国に七寺を建立し、この七仏を安置すると祈誓した。それから河守荘三上ヶ嶽の鬼の岩窟にたどりつき、首尾よく英胡・軽足の二鬼を討ちとったが、土熊を見失ってしまった。そこで、さきの鏡で照らしたところ、土熊の姿がその鏡にうつり、これも退治することができた。末世の証にと土 熊を岩窟に封じこめた。これが今の鬼が窟である。(土熊は逃れて竹野郡に至りここで討たれたというものもある。)鬼退治を終えた親王は、神徳の加護に感謝して天照大神の神殿を営み、そのかたわらに親王の宮殿を造営した。鏡は三上ヶ嶽の麓に納めて犬鏡大明神と号した。(かつて大虫神社の境内にあったという。)また、仏徳の加護 に報いるため、宿願のとおり丹後国に七か寺を造立し七仏薬師を安置した。この七か寺については、享保二年(1717)の「多禰寺縁起」によれば加悦荘施薬寺・河守荘清園寺・竹野郡元興寺・竹野郡神宮寺・溝谷荘等楽寺・宿野荘成願寺・白久荘多禰寺の諸寺とされるが諸説のあるところである。
麻呂子親王は用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟にあたり、この伝説を書きとめた最古のものと考えられている「清園寺古縁起」には麻呂子親王は17 歳のとき、二丹の大王の嗣子となったとある。この麻呂子親王伝説は、酒呑童子伝説との類似性も多く、混同も多い。酒呑童子伝説成立にかなりの影響を与えていることがうかがえる。
この伝説について、麻呂子親王は、「以和為貴」とした聖徳太子の分身として武にまつわる活動をうけもち、仏教信仰とかかわり、三上ヶ嶽の鬼退治伝説という古代の異賊征服伝説に登場したものであろうといわれているが、実は疫病や飢餓の原因となった怨霊=三上ヶ嶽の鬼神の崇りを鎮圧した仏の投影でもあり、仏教と日本固有の信仰とが、農耕を通じて麻呂子親王伝説を育て上げたものであるともいわれる。  この麻呂子親王伝説は、酒呑童子伝説との類似点も多く、混同も多い。酒呑童子伝説成立に、かなりの影響を与えていることがうかがえる。

3.大江山の鬼伝説(その三) 

「酒呑童子(しゅてんどうじ)」―源頼光の鬼退治―
時は平安朝、一条天皇の頃である。西暦1000年前後、京の都は栄えていたが、それはほんの一握りの摂関貴族たちの繁栄であり、世の中は乱れに乱れ民衆は社会不安におののいていた。そんな世の中で、酒呑童子は王権に叛き、京の都から、姫君たちを次々にさらったのである。
姫君たちを奪い返し、酒呑童子を退治するため大江山へ差し向けられたのが 源頼光(みなもとのらいこう)を頭に藤原保昌(ふじわらのやすまさ)並びに天王の面々坂田公時(さかたのきんとき)、渡辺綱(わたなべのつな)、卜部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)ら6名である。 頼光ら一行は山伏姿に身をやつし、道中、翁に化けた住吉・八幡・熊野の神々から「神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)」を与えられて道案内をしてもらい、途中、川のほとりで血のついた着物を洗う姫君に出会う。一行は、姫君より鬼の住処を詳しく聞き、酒呑童子の屋敷にたどり着く。
酒呑童子は頼光一行を血の酒と人肉で手厚く歓待するが、頼光たちは例の酒を童子と手下の鬼たちに飲ませて酔い潰し、童子を討ち、手下の鬼共も討ち果たす。捕らわれている姫君たちを救い出し、頼光たち一行は都へ上がるのである。討ち取られた酒呑童子の首は、王権に叛いたものの見せしめとして川原にさらすめ、持ち帰られるが、途中、丹波・山城の国境にある老の坂で急に重くなって持ち上がらなくなり、そこで葬られたのである。
酒呑童子は、日本の妖怪変化史のうえで最強の妖怪=鬼として、今日までその名をとどろかせている。  平安京の繁栄―それはひとにぎりの摂関貴族たちの繁栄であり、その影に非常に多くの人々の暗黒の生活があった。そのくらしに耐え、生きぬき抵抗した人々の象徴が鬼=酒呑童子であった。
酒呑童子という人物は史実に登場しないから、この話はフィクションの世界のできごとである。 酒呑童子物語の成立は、南北朝時代(14世紀)ごろまでに、一つの定型化されたものがあったと考えられており、のち、これをもとにして、いろいろな物語がつくられ、絵巻にかかれ、あるいは能の素材となり、歌舞伎や人形浄瑠璃にもとり入れられ、民衆に語り伝えられていった。
酒呑童子は、フィクションの中の妖怪=鬼ではあるけれども、日本の文化史の中で果たした役割は、きわめて大きいものがある。
そしてその物語の背景となった、破滅しながら、しぶとくあくどく生きた、底辺の人々の怨念が見えかくれする。  酒呑童子という名が出る最古のものは、重要文化財となっている「大江山酒天童子絵巻」(逸翁美術館蔵)であるが、この内容は現在私たちが考えている酒呑童子のイメージとはかなりちがっている。
まず「酒天童子」であり、童子は明らかに「鬼王」であり「鬼神」である。 また大江山は「鬼かくしの里」であり、「鬼王の城」がある。 あるいは、「唐人たちが捕らえられている風景」、「鬼たちが田楽おどりを披露する」など興味深い内容がある。 そして頼光との酒宴の席での童子の語りの中に、「比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に追い出され大江山にやってきた」とある。
また「仁明天皇の嘉祥2年(849)から大江山にすみつき、王威も民力も神仏の加護もうすれる時代の来るのを待っていた」とあるから、神仙思想の影響もうかがえる。
ところで、童子といえば童形の稚児のことで、神の化身でもある。したがって、酒呑童子は、山の神の化身とも考えられるわけだが、酒呑童子は仏教によって、もとすんでいた山を追われる。
それは山の神が仏教に制圧されていく過程であり、酒呑童子を迎えてくれる山は、仏教化されていない山―もっと古い時代から鬼のすんだ山―土着の神々が支配する山である大江山しかなかったのである。
酒呑童子は、中世に入り、能の発達と共に謡曲「大江山」の主人公として、あるいは日本最初の庶民むけ説話集である「御伽草子」の出現により、広く民衆の心の中に入り込んでいった。
中世的怪物退治物語の代表作としての酒呑童子物語には、源氏を標榜した足利将軍家の意向をうけた「頼光=源氏の功名譚」としての要素、地におちた王権を支えようとする人々の願望としての「王権説話」、あるいは「神仏の加護」など多様な内容をもりこんでいるがもう一つ、この大江山に伝わっていた「大江山の鬼伝説」が大きな要因となっていることを見落としてはならない。  酒呑童子は頼光に欺し殺される。頼光たちは、鬼の仲間だといって近づき、毒酒をのませて自由を奪い、酒呑童子一党を殺したのだ。 このとき酒呑童子は「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしった。
酒呑童子は都の人々にとっては悪者であり、仏教や陰陽道などの信仰にとっても敵であり、妖怪であったが、退治される側の酒呑童子にとってみれば、自分たちが昔からすんでいた土地を奪った武将や陰陽師たち、その中心にいる帝こそが極悪人であった。
「鬼に横道はない」酒呑童子の最後の叫びは、土着の神や人々の、更には自然そのものが征服されていくことへの哀しい叫び声であったのかもしれない。
小倉百人一首には「大江山いく野の道の遠ければ、まだふみも見ず天の橋立」(小式部内侍)という歌があります。いく野は行く野と福知山市生野の地名をかけたものだと思われます。ここでの大江山は本項でのものと京都市西京区の大枝山をかけているとの説もあります。
引用:福知山市オフィシャルホームページ「日本の鬼の交流博物館」
福知山のニュース両丹日日新聞WEB両丹
2009/08/29
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