天日槍と糸井の阿流知命神社は無関係


式内糸井神社(奈良県磯城郡川西町結崎)

糸井造と池田古墳長持型石棺の主 (宿南保氏『但馬史研究』第31号 平成20年3月)での内容である。

歴史は史実の新発見において語るべきもの

さて、宿南保先生は、但馬史研究の第一人者で尊敬していることを、まず最初に述べておきたい。

本稿の「【考察】糸井造と池田古墳長持型石棺の主」で宿南氏は、

まず、糸井という地名についての疑問点である。糸井とは、一般的に(奈良県磯城郡川西町の)結崎やその付近一円を総称した郷名と解釈されることが多い。しかし、10世紀後半の『和名抄』の城下しきのしも郡の郷名には見当たらない。平安時代の延久二年(1070)の「雑役免帳」には「糸井南庄」と「糸井北庄」という二つの荘園があるが、現在の地名に当てはめると、田原本町の東部付近になってしまい、現在の結崎付近とはかなり離れた場所となる。したがって糸井庄にあった糸井神社とはいえないのである。つまり現時点では、「糸井」という地域名が古代から今の結崎付近を指すとする直接的な史料が見つからない。

次に現在の糸井神社そのものについての問題点である。まず現在の糸井神社はいつごろからそう呼ばれていたかである。今の神社は中世には「結崎明神」や「結崎宮」と呼ばれ、今も境内に残る石灯籠にも「大和結崎大明神」と刻まれている。江戸時代には春日大社の古い社殿を移建したことに依るのか、「春日大社」とも称されていたようである。

(中略)

糸井神社社務所が出しているパンフレットでも「ご祭神については豊鋤入姫命と言われるが、また一説には、綾羽呉羽の機織りの神を祀ったとも言われている」と微妙な表現をしている。糸井神社という名称に確定されたと思われる明治初期の「神社明細取調帳」(明治13年)には、まず「祭神不詳」とあり、但し書きに「地元の昔からの言い伝えでは豊鋤入姫命としているが、「天日槍命」とする考証もあるとしている。

(中略)

『川西町史』が渡来人として特に注目する天日槍は、渡来後、出石に定着した人として知られているから但馬には日槍にまつわる式内社は多い。『出石町史』第1巻には「天日槍にまつわる式内社」では、その数14社、うち出石郡9社、気多郡に3社、城崎郡2社である。このほか養父郡糸井村にも確実な1社があるから15社となる。*1

(中略)

但馬には兵主神社が7社もあるといわれているが、その中で「大」が冠せられているのは更杵村兵主神だけである。*2

(中略)

式内社で寺内区に鎮座する神社は延喜式に佐伎都比古阿流知命神社と更杵村大兵主神社二座と記されている*3。この神社の祭神がヤマトへ渡って糸井造になった人と関係があるように解するのは、『校補但馬考』著者の桜井勉氏である。「日槍命の子孫、糸井と姓とせしもの漸次繁殖し、その大和に移りしものは、大和城下郡に糸井神社を建立し、但馬に留まりしものは、本郡(養父郡)にありて本社(佐伎都比古阿流知命神社)を建立し、外家の祖先を祭りしものならんか」実のところよくわからないというのが本音といってよかろう。ただし日槍伝承をもつ集団の子孫たちが大和と但馬に分かれ、大和へ渡った者たちが寺内に佐伎都比古阿流知命神社を建立したとは考えられるところである。

 

宿南氏は本稿で、『出石町史』の「天日槍にまつわる式内社」で、「養父郡糸井村にも確実な1社がある」と『出石町史』の「天日槍にまつわる式内社」をそのまま引用されているが、『川西町史』では「糸井庄にあった糸井神社とはいえないのである。」としている。

そもそもの天日槍=糸井郷と関わりがあるいうきっかけはどうして生まれたのか?

桜井勉氏は、『校補但馬考』で、「日槍命の子孫、糸井と姓とせしもの漸次繁殖し、その大和に移りしものは、大和城下郡に糸井神社を建立し、但馬に留まりしものは、本郡(養父郡)にありて本社(佐伎都比古阿流知命神社)を建立し、外家の祖先を祭りしものならんか」についてである。

宿南氏も実のところよくわからないとされているが、桜井勉氏はどうやら天日槍の妻となった阿加流比売命(アカルヒメ)と佐伎都比古阿流知命神社の阿流知命を混同しているようである。

『国司文書 但馬故事記』をまったく否定する同氏にとって、日槍よりずっと後世に佐伎都比古とその子阿流知命が養父郡司であったことなど無視していたのか、阿流知命=阿加流比売命であるとする桜井氏のまったくの思い違いと時代の読み違いを知るのである。

桜井勉氏『校補但馬考』は、但馬の歴史を記そうとした貴重な書である。まだ誰も考古学や日本史・郷土史などに脚光を浴びなかった時代に誰もなし得なかった先見の労作である。しかし、近年新しい歴史的発見や検証によって、新たな事実がわかってきた。それをすべてそのまままだ正しいと信じ込み、ヒボコは新羅(朝鮮人)で但馬はそこに影響しているとした固定観念を改めなければ、真実を見落とすことになる。それは否定ではなく、桜井勉氏も新しいことを付け加えることを喜んでくれるだろうと考えるのだ。

ヒボコと糸井神社の関連性

あくまでも拙者の考察によるものだが、結論から先に言うと、ヒボコと奈良の糸井神社は結びつかないと思う。彼らはこの地の但馬という地名に、ヒボコと神社と養父郡糸井郷を強引に結びつけようとしているのだ。ヤマト建国に但馬の人々もこの地の集積されたのは、地名の通りかも知れないが、ヒボコはもっと古い時代だ。

言うまでもなく『市町村史』の多くは、地元郷土史家の並々ならぬ研究成果も参考に編纂されていて、元々歴史学者でもない桜井勉氏の『校補但馬考』も、引退後に郷土史家として著したもので、大いに参考になる労作ではあるが、記述の中には誤りや、編者の歴史的事実に基づかない憶測や、その後の発掘や史料等、歴史的事実の発見によって正しくはないものも含まれている。また、その桜井勉氏『校補但馬考』は、「但馬故事記」等を偽書と決めつけたり、その努力は敬意を評しながらも、元々から想像や憶測で編纂された郷土史同士を重ねて引用していくと嘘が本当のことのようにおかしな方向へ向かうとんでもないことが日本史や歴史学会ではまかり通ってしまうのだ。史実に乏しい時代にはやむを得ないことも考慮しつつ、誤った記述もあるのである。

当時の私は、まだ式内社について現地調査もままならない時期であり、同投稿文を読んで、朝来市和田山町糸井と大和(奈良県川西町)に残る糸井神社や三宅町にある上但馬・但馬の地名、三宅と豊岡市三宅に、天日槍氏集団の全体像を描き出す考察を読んで、天日槍と糸井は関係があるらしいと関心を抱いていた。

朝来市和田山町糸井(郷)は元は養父郡だったが、その養父郡でも端に当たる糸井地区に、佐伎都比古阿流知命神社(寺内)と更杵村大兵主神社、桐原神社と狭いエリアに3つも式内社があるのが不思議なこと、佐伎都比古阿流知神社を天日槍の裔とゆかりのある神社だといわれている。


佐伎都比古阿流知命神社

6年前の2009年に糸井地区の佐伎都比古阿流知神社(寺内)と更杵村大兵主神社、桐原神社等を回ってみた。2013年には奈良の糸井神社や奈良県磯城郡三宅町但馬に行ってみた。中学の頃から地理や地図好きだったので、なぜ奈良に普通は読めない国名である但馬という地名があるのかがずっと不思議に思っていた記憶の中にあってその頃から行ってみたかった所である。それから半世紀近くも過ぎた。田島や田嶋なら分かるけど、国名である但馬というのは普通は読めない。田原本町・三宅町・川西町周辺は大和盆地の平野部に田園が広がり、三宅町の中に但馬・三河・石見集落が点在する。この周辺はそうした国々特有の土器が持ち込まれていたことが発掘調査で分かっている。これは平城京建設後、氾濫が多い大和川支流域の治水・田園開発に諸国から労役して駆り出され住み着いたという、もっと現実的に残っている記録である。

延喜式式内社で糸井郷に鎮座していた社は、更杵村大兵主神社と桐原神社、楯縫神社3社である。

このような解釈が、数少ない但馬の資料として桜井勉『校補但馬考』に記されているから史実だと思い込んだ但馬が新羅の王子天日槍ら半島渡来人が文化をもたらしたものだという誤解を多くの人々はもちろん、歴史学者においても与えていることを最後に付け加えておきたい。桜井勉は当時として調べたことを記しているが、彼は但馬を兵庫県に組み入れるように進言したり、天気予報創設など偉大な方ではあるが、歴史では専門家ではない。多くの思い込みや私見が入り込んでいるのだ。

但馬が記紀にある新羅の王子天日槍から、大陸や朝鮮半島とのつながりの中で文化的な影響を受けたのは事実であるが、天日槍だけをピンポイントに捕まえて但馬=朝鮮渡来人の文化=大和朝廷という狭い歴史感はもう止めなければならない。その半島南部にあった伽耶なども、同じ倭国人が築いていったクニであって、『但馬故事記』などによると、半島の国家も倭国であり天日槍は皇族の子孫である。新羅が建国されたのは356年で天日槍よりずっと以後である。

『但馬故事記』(第五巻・出石郡故事記)には天日槍についてこう記されている。

人皇6代孝安天皇53年、新羅王子天日槍帰化す。

天日槍は鵜草葺不合命の御子。稲飯命五世の孫なり。(中略)海路より紀の国に出でんとし、強く激しい風に逢い給う。稲飯命と豊御食沼命とは小舟に乗り、漂流し給い、稲飯命は新羅に上り、国王となり、その国にとどまり給う。

つまり「天の」とある通り、天皇ゆかりの一族であるので、新羅王子=新羅人ではない。朝鮮半島南部を稲作や開拓したのは、九州北部と同じ倭人であって、その後新羅が半島を統一するに及び百済や伽耶は滅亡した残る倭人もいれば、多くは引き上げざるを得なくなったのではないだろうかと思う。半島南部にある前方後円墳や土器類は、縄文弥生式土器で日本列島と同じものである。

[筆者註]

*1 後世に祭神を天日槍の末裔やゆかりの神にかえられたことで、祭神変更は村々の諸事情によるものであり、それ自体は問題ではない。しかし、歴史は事実を探ることである。

まず天日槍系の神社が出石郡9社であるが、出石神社(天日槍)、諸杉神社(日槍の子)、須義神社、中嶋神社、日出神社の5社であり、あとの4社には、比遅神社、多遲摩比泥神、御出石神社とあと1社は不明だが、気多郡に3社、城崎郡2社についても祭神を後世に天日槍の末裔や関係者に変更したものだ。「養父郡糸井村にも確実な1社がある」は*3を参照のこと。

*2 大兵主は他に出石郡 大生部大兵主神社がある。ともに陣法博士・大生部了等が兵庫の側に勧請したもので、糸井だけが特別な兵主神社とはいえない。

*3 「寺内区に鎮座する神社は延喜式に佐伎都比古阿流知命神社と更杵村大兵主神社二座と記されている」とあるが、佐伎都比古阿流知命神社は『但馬故事記』『但馬神社系譜伝』では、養父郡坂本花岡山鎮座。なぜその後糸井に遷座されたか、または勧請されたかは不明である。佐伎都比古命とその子阿流知命は、ともに屋岡県主(養父郡司の前進)である。佐伎都比古命(彦命)は、佐々前県主佐伎津彦命の子。天日槍とはまったく無関係であるが、阿流知命を『古事記』で天日槍の妻となった阿加流比売と混同したのだろう。阿加流比売がいなくなり、多遅摩之俣尾の娘前津耳さきつみを娶ったとあることから、阿流知命を阿加流比売、前津耳神社・前津彦神社と呼ばれていたこともあったようだ。

はじめに 天日槍(あめのひぼこ)の謎

但馬国一宮出石神社本殿鰹木

 はじめに

但馬の国はどのように誕生し、我々祖先はどのように暮らしてきたのか?

キーマンとしてまずあげられるのがアメノヒボコだろう。

但馬に暮らす人々にとって、アメノヒボコを知らない人はまずいないであろう。

アメノヒボコは、『古事記』では「天之日矛」、『日本書紀』では「天日槍」と記される。
『記紀』には新羅しらぎの王子で、日本にやって来て、但馬・出石に留まり、日本に帰化して初代多遅麻国造たぢまのくにのみやつことなるとされている。

歴史にあまり関心がない人なら、この伝承をそのまま受け止めて、アメノヒボコは新羅の王子で、帰化して、初代多遅麻国造たぢまのくにのみやつことなることに、何の疑問も持たないかも知れない。

しかし年齢を重ね神社や郷土史に興味を持ち調べていくと、とんでもない矛盾と降って湧いたような登場の仕方が極めて不自然で作為的な記述であることに疑問を感じていた。アメノヒオコは、考察すればするほど謎めいた疑問が多いと気づくのである。

まだ始まったばかりの本格的な研究

『アメノヒボコ-古代但馬の交流人』(瀬戸谷晧・石原由美子・宮本範熙共著 神戸新聞総合出版センター 1997.7.10 第一刷)には、「江戸時代にも中央の学者はいうにおよばず、いままでみてきたように但馬の知識層にあってもヒボコに言及し、神社の祭神として創作してきた人たちがいた。しかし、何といっても本格的な研究は、昭和も後半期になってからはじまったといっても過言ではないだろう」と記述されている。
(中略)
この書のなかで、

ここで本格的な研究というのは、石田松蔵氏の名著『但馬史』1(1972)のなかの「天日槍」においてである。氏は、40ページをあててヒボコ問題を整理し、説明した。それは、但馬に残る伝承や説話の類を拾えるだけ拾いあげて分析・検討し、解釈し、また最新の研究成果を分かりやすく説明したものであった。単に当時の研究成果を手がたくまとめたのみではなく、いくつかの斬新な見解も提起している。

彼はまず、ヒボコと一族の活躍は古代の各史書には華々しくみえるが、その後には続かず、所縁の出石やその周辺はもちろん、但馬や日本の歴史のなかに再び現れないという事実に注目する。そして、ヒボコ関連の伝承や神社の分布が、出石川上流域から円山川流域に集中し、但馬の他の地域に広がらないという重要な指摘を続ける。

(中略)

第二の重要な指摘は、三宅吉士石床という人物とヒボコ伝承の関係である。彼は、壬申の乱に大勝し支配を確立した天武天皇に味方して活躍し、その功によって吉士から“連”に位を進めた人物である。吉士がもともと渡来系の人たちに付される姓であることからも知られるように渡来氏族である。したがって、三宅氏が古代天皇制国家で活躍していくためには、天皇の徳を慕い忠誠を尽くす渡来者集団のトップでなくてはならない必然があった。三宅氏はタヂマモリ(田道間守)をその祖と伝え、ヒボコにつなげる伝承を作為提出し、『日本書紀』編纂のなかに乱の論功行賞として収録されたのではないかとする考えである。」

しかし、ヒボコが大きくクローズアップされるきっかけとなったのは、平成6年(1994)におこなわれた「但馬・理想の都の祭典」のなかでヒボコに関わる「但馬古代文化のルーツを探る-古代但馬と日本海-」や「大但馬展」開催中に実施した黒岩重吾氏による講演会「作家のみた天日槍とタジマモリ」、いずし但馬・理想の都の祭典実行委員会が開催した環日本海歴史シンポジウム「渡来の神 天日槍」などは、きっちりと記録を残す事業となった。史発行日は1997年、いまからまだ20数年前である。ヒボコを但馬の人間が本格的に研究しようという機運が生まれた。」

また、同書は『Ⅱ 古代但馬人の交流人』第一章 文字の資料から探る 一、文字資料の限界
で「基本的立場」として、

「まず、その検討素材そのものが信頼するにたるかどうかという問題がある。新しい時代に捏造されたことが多くの研究者に指摘された『但馬故事記』という本があるが、たとえばこれに載せられた人名の扱いについてである。書かれた時代の知識人の研究は欠かせないが、古代の渡来人を探るためにはむしろ害になる資料だ。文献そのものの資料批判が大切である。」

また『校補但馬考』について、『アメノヒボコ-古代但馬の交流人』はこう記している。

『校補但馬考』

出石藩主仙石実相の名を受けて、桜井舟山がまとめた著書が『但馬考』。時に宝歴元年(1751)のことだ。但馬の歴史は言うに及ばず、制度・年代・地理・人物の四分野にわたって、文献資料を丹念に考証して述べたものであった。
その後、出石藩には弘道館という藩学が設けられ、桜井一族がこの分野で活躍を続ける。子の石門が但馬関係史料を「但州叢書」としてまとめ、さらにその子の勉が祖父の業績に大幅な増補を加えて刊行(大正十年.1921)したものが大著『校補但馬考』であった。現在においても、その引用文献の豊富さや徹底した質・資料批判という点において、但馬史研究の出発点の地位を失っていない。

優れた批判精神

桜井の優れた研究姿勢は、『校補但馬考』に明確に認められる。本論の前に629点もの引用書目を一覧して示し、わざわざ次のような断り書きを入れている。「以上の外、但馬地誌に、但馬記、但馬発言記、但州一覧集の類ありといえども、その書には誤りが極めて多し。国司文書なるものあり、分けて故事記八巻、古事大観録三巻、神社系譜伝八巻となす。しかしてその書まことに杜撰妄作に属す、ゆえにこれを引用せず」と明記してその立場を明らかにした。いかがわしい文献は信じられないし、論評することすらしないというわけである。このことは、梅谷光信氏は、出石藩以外の藩学や私学では「但馬史の系統的な研究がなされなかったから」できたことであろうが、その背景に但馬の雄を競う出石藩と豊岡藩の学問的闘争の継続といった側面があったかもしれない。

出石藩学の流れをくみ、集大成したものに桜井勉の『校補但馬考』があり、他方、『国司文書(但馬故事記など)』を信じる派の流れを受け継ぐのが、昭和13年(1937)に刊行された『兵庫県神社誌』の仕事である、としても過言ではあるまい。

つまり、桜井勉氏らが『国司文書(但馬故事記など)は捏造であると述べているから捏造なのだと述べているだけであって、新しい時代に捏造されたとする具体的な根拠といえる立証は行わず、考古学会や偉い歴史学者が述べていることは間違いないとする閉鎖的な慣習であって、それこそ弊害ではなかろうか?!

こうした始まったばかりのヒボコの研究も、ヒボコは新羅国王子である、渡来人でなければならないとする固定観念が出発点にあり、本当なのか記紀の批判検証はあまり行わず、そこからスタートしている。その頃は半島最南端は倭国の一部で倭人が多く住んでいたのであり、新羅も百済も国自体もないのに渡来人であるはないだろうに…。

しかし、2017年、20年が経過して、新しい発見や、近年そうした歴史学者とは異なり、その『国司文書 但馬故事記』を何度も精読しているが、その詳細な記述がとても創作であるとは思えないばかりか、前半は神話によるものであるが理路整然と記されている。固定観念にとらわれない歴史書、韓国朝鮮の歴史の真実を紹介する異分野の方の著作が多く出版されるようになった。

 

『アメノヒボコ、謎の真相』(関裕二)は次のように書いている。

『日本書紀』を読み進め、最新の考古学情報を照らし合わせると、あるひとつの事実が浮かび上がってくる。それは、アメノヒボコに関わりの地域のことごとくが無視され、「なかった」ことにされてしまっていることだ。ヤマト建国で最も活躍した地域(但馬を含むタニワ・大丹波国や若狭・近江などヒボコの関わる地域)が、『日本書紀』の記事からすっぽり抜け落ちているのである。アメノヒボコは歴史解明の最重要人物だからこそ、実像を消し去られた可能性はないだろうか。

(中略)『日本書紀』が歴史を書き換えていた可能性は高い。『紀』はヤマト建国の歴史を熟知していて、だからこそ真相を抹殺し、歴史を改竄してしまったのだ。(中略)『紀』よりもあとに書かれた文書の中に、『紀』と異なる記述がある場合、『紀』の記事を信じるのが「当然だ」と、史学者は考える。「事件現場に最も近くにいたお役人の証言は信頼できる」という論理だ。

 

あめのひぼこの疑問点

  1. その1 記の日矛と紀の日槍の違いは?
  2. その2 日槍、日矛というので鉄・武器に関わる神なのか?
  3. その3 神号の天日槍命の「天」は天津神(皇統)ではないのか?渡来人に天を与えるなどあり得ない!?
  4. その4 『記紀』では、天日槍命は新羅国の王子だとしているが本当に新羅(朝鮮)の人なのか?
  5. その5 なぜ新羅からやって来て、帰化すると初代国造になれたのか?
  6. その6 ヒボコの伝承はなぜ出石周辺に限られるのか?
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第1章 1.アメノヒボコの日槍と日矛

アメノヒボコの日槍と日矛の字の違いは?

アメノヒボコは、日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」。漢字が違う点は、上「記紀」の頃にも矛・槍の区別は必ずしも当時明確ではなかったようで、ヒボコが日槍・日矛であっても、すべて「ほこ」と読まれているように、まだ「字」が存在しなかった頃の「アメノヒボコ」という名は先にあって、その口伝を後に伝来してきた漢字で表記するようになった時代である。記紀は初めての国史として、伝来してまだ間もない漢字に当てはめて書いたのだから、記紀においてでさえ、人名や神名に用いられている漢字は様々で、漢字自体にこだわりすぎる意味は薄いように思える。ヒボコの漢字に「記紀」でその区別はなく、違いに深い意味はなさそうだ。

『古事記』では「天之日矛」、『日本書紀』では「天日槍」、他文献では「日桙」と記されている場合もあるが、どれも読み方は「アメノヒボコ」である。共に7世紀に天武天皇の命令によって編纂された書物である。記紀の違いについては、その後、天武天皇が突然亡くなってしまったため、古事記の編纂は中断。およそ30年経った711年に再開され、和銅5年(712年)に稗田阿礼が語り、太安万侶が筆記、編纂して完成した。全3巻からなっている。元明天皇に献上された天皇家の歴史を中心として物語風に国内向けに書かれており、日本人に読みやすいように漢文体を組み替えた「日本漢文体」というのが使われている。

『日本書紀』は国外向けに国家としての日本のアピールとしての公式な史書として、皇族、官人らが中心となって編纂。舎人親王により養老4年(720年)に完成した。天地開闢から持統天皇までを年代を追って出来事を記す編年体で漢文で記されている。全30巻+系図1巻。また、古事記の参考文献は「帝紀」と「旧辞」だけですが、日本書紀では豪族の墓記、政府の公的記録、個人の覚書、手記、百済の文献など多くの資料を参考として編纂されたようです。

『古事記』は槍(ヤリ)を日槍(ヒボコ)と読ませているのに意味があるのか。

古代の人名地名や特に神様の名前(神号)などは、漢字で書くと記紀等でも様々な異なる漢字表記がある。カタカナやひらがなが作られるまでは漢字と万葉仮名といって漢字をカナとして併用していたので、天日槍と天日鉾記紀や他文献でヒボコにどの漢字が用いられていたとしてもこだわるべき意味はなく、どれが正解というものでもない。また記紀完成の頃、奈良時代初期の和銅6年(713年)には「畿内七道諸国郡郷着好字」(国・郡・郷の名称を佳い漢字2字で表記せよ)という勅令が発せられている(「好字二字令」または「好字令」という)。それまで旧国名、郡名や、郷名表記の多くは、大和言葉に漢字を当てたもので、漢字の当て方も一定しないことが多かったので、漢字を当てる際にはできるだけ好字(良い意味の字。佳字ともいう)を用いることになった。適用範囲は郡・郷だけではなく、小地名や山川湖沼にも及んだとされる。

国名の例 倭→大倭(大和)、田庭・旦波→丹波、多遅麻→但馬、稲葉→因幡、針間→播磨、津→摂津、近淡海→近江、遠淡海→遠江

郡名の例 小田井県→黄沼前県→城崎郡、氣立県→気多郡、籔県→養父郡、比地県→朝来郡、水石・御出石県→出石郡、美伊県→美含郡、伊曾布県→七美郡、布多県国→二県国→二方国→(但馬国へ併合)二方郡

本題に入る前に、まず初歩的なほこやりの違いを知っておこう

アメノヒボコ」についても同様で、漢字の解釈に固執するのはあまり重要ではないと思う。また読みづらいので現在では教科書などでは人名はカタカナで表記される事が多い。これも良し悪しでカタカナやひらがな表記は、かえって意味がわかりにくくもあるのだが、ここでも以下は通常「アメノヒボコ」「略してヒボコ」とする。

といいつつ、あえて脱線するかもしれないが、せっかくの機会なので、拙者も勉強のために矛(ホコ)と槍(ヤリ)の違いを知っておきたい。

1.青銅製武器の種類 矛(ほこ)と槍(やり)の違い

日本と中国において矛と槍の区別が見られ、他の地域では槍の一形態として扱われる。考古学的には、矛(ホコ)・槍(ヤリ)・戈(クヮ)に区別される。

弥生時代の遺物としては、矛が多数出土しているが、槍はほとんど出土していない。福岡県前原市三雲から弥生後期とみられる石棺から出土した鉄の槍がみられる程度だ。

左が槍、中央は銅鐸、右が矛(荒神谷博物館 島根県出雲市斐川町 にて拙者撮影)

2.矛と槍の形状の違い

矛と槍は、槍や薙刀なぎなたの前身となった両刃の剣形の穂に、長い柄を付けた武器で、敵を突き刺すのに用いる。矛は先端が丸みを帯び鈍角の物が多いのに対し、槍は刃が直線的で先端が鋭角である。矛は日本では「鉾」や「桙」の字も使用されるが、ここでは矛の字で統一して記述する。

矛は金属の穂の下部に中空の袋部があり、そこに枝の木を差し込むもの。それに対し、槍は金属の羽の部分に木に差し込む部分(なかご)がついており、それを枝の木に差し込んで装着するものをさす。

余談だが、かまぼこ(蒲鉾)は板の上に白身魚のすり身にでんぷんなど副原料を加えて練ったものを盛り付けたものだなのに、なんで鉾なんだとと疑問に思う。これは古くは材料を竹の棒に筒状に巻いて作っていたからである。のちに板の上に成形した「板蒲鉾」が登場し、区別のために「竹輪蒲鉾」と呼び分けていたが、竹を抜き去った竹輪が一般的になる。今でも棒付きのままで売られる竹輪こそ蒲鉾の原型である。

3.装着方法

つまり、矛と槍は装着方法に違いがある。枝を金属の方に差し込むのが矛、金属を枝の方に差し込むのが槍である。
また、戈(クヮ)は、鳶口とびぐちの形のように、穂と直角に近い形で枝をつけるものをいう。農機具として平たい刃になったものが現在でも利用される鍬である。戈は槍と同じく、茎を枝の木に差し込んで装着する。

4.剣と刀の違い

つるぎかたなの違いは、剣が両刃、刀が片刃であること。長い刀を大刀、短刀を刀子(長さ30cm以下)として使い分けている。奈良時代の頃までの刀は直刀で、湾曲した日本刀になるのは平安時代以降のことである。

 

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第1章 2.出石神社 八種ものご神宝の謎

出石神社のご祭神の不思議 「なぜ8種ものご神宝が、天日槍より先に祀られているのか?」

神社(神道)はもともと自然信仰からはじまっている。山や岩、水、雷、火など自然の神を擬人化したものから始まり、やがて皇統に由来する天津神、皇統以外の豪族や偉大な人物を国津神として祀った。ところが、ヒボコよりも先に出石神社では神宝をヒボコと同等に祭神に祀っている。このような例はあまりなく、人物神ではなく神宝を神とする。しかも八種もの神宝は多すぎる。出石神社には、なぜ八種ものご神宝が祭神として祀られているのか?

出石神社の「伊豆志八前大神」

出石神社御祭神

  • 伊豆志八前大神(いづしやまえのおおかみ、出石八前大神)
  • 天日槍命(あめのひぼこのみこと)

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳における社号は、名神大 伊豆志坐神社八座とし、座は祭神の数を意味し8座。

但馬国一宮出石神社の主祭神は、「伊豆志八前大神」・「天日槍」となっていて、「天日槍」よりも「伊豆志八前大神」が先にあげられている。

「伊豆志八前大神」とは八種の神宝のことであるが、

『日本書紀』別伝 八種の神宝

  1. 葉細の珠(はほそのたま)
  2. 足高の珠(あしたかのたま)
  3. 鵜鹿鹿の赤石の珠(うかかのあかしのたま)
  4. 出石の刀子(いづしのかたな)
  5. 出石の槍(いづしのほこ)
  6. 日鏡(ひのかがみ)
  7. 熊の神籬(くまのひもろき)
  8. 胆狭浅の大刀(いささのたち)

と八種が記されているのに、本記『日本書紀』垂仁天皇3年3月条は七種の神宝である。

  1. 羽太の玉(はふとのたま) 1箇
  2. 足高の玉(あしたかのたま) 1箇
  3. 鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇
  4. 出石の小刀(いづしのかたな) 1口
  5. 出石の桙(いづしのほこ) 1枝
  6. 日鏡(ひのかがみ) 1面
  7. 熊の神籬(くまのひもろき) 1具

『日本書紀』別伝には胆狭浅の太刀はあるが、垂仁天皇3年3月条では7物で、槍や太刀は含まれていないのである。これをどう理解すればいいのであろう。

『古事記』(応神天皇記)でも次の7種で、矛または刀などの武器類はない。

  1. 珠 2貫(たま2個)
  2. 浪振る比礼(なみふるひれ)
  3. 浪切る比礼(なみきるひれ)
  4. 風振る比礼(かぜふるひれ)
  5. 風切る比礼(かぜきるひれ)
  6. 奥津鏡(おきつかがみ)
  7. 辺津鏡(へつかがみ)

つまり八種の神宝としているのは、『日本書紀』別伝のみで、はじめて武器らしい「胆狭浅の大刀(いささのたち)」が加わることで「八種の神宝」。となる。

天日槍の槍・矛=“武器”を表しているとするなら、『日本書紀』垂仁条や『古事記』(応神天皇記)には槍や矛・刀類は持参していないことになるのをどう説明できるのであろうか。

日槍は八種の神宝に由来しているとするならば、『日本書紀』はなぜ七種しか記述がないのか?

『日本書紀』別伝にようやく、胆狭浅イササ太刀タチを加えた八種を記述している。垂仁天皇3年3月条では7物で、太刀は含まれていないではないか。と思うだろう。私も最初はそう思った。

出石の小刀(垂仁3月条)、出石の刀子(別伝)とあるが、脇差のような短刀というより、これは武器ではなく削る工具だと考えるという。武具ではないので日槍というから槍や矛から勇ましい武神を連想させられるがそうではない。

『国史文書 但馬故事記(第五巻・出石郡故事記)は天日槍について詳細に記している貴重な史料であるので引用する。これは『日本書紀』垂仁天皇88年条を引用したものであろうか。

 

4.天日槍を鉄の神・武神とイメージを持っていないか?

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏は、

真弓氏は「三世紀代よりの、天日槍の名で象徴される帰化系技術者(韓鍛冶)の渡来によって技術革新がなされ、されに大量の鉄挺(金偏に廷・鉄の素材)も輸入される…」

だが、彼(アメノヒボコ)は技術者ではなく、日本に憧れ、玉、小刀、鉾、鏡、神籬を持って来た王子だった。『三国史記』と照らし合わせると、天日槍は但馬出身の新羅王(=倭人)の子孫だからこそ、彼は日本語を話し、神籬を持って故郷へやって来た可能性も否定できない。

としている。

字の意味にこだわって本質を見誤ってはしないか?「天日槍」または「天之日矛」から戦いのイメージを抱くことだろう。そこから鉄や武神と思い込み、但馬に何故か多い兵主神社が多いことを、鉄や武神のイメージからアメノヒボコと関わりある神社だと錯覚している人達が歴史家の中にもいる。兵主神社はヒボコの出石神社とは創建時期も祭神も全く別であることは、他所に書いているのでご参考に。


 

『国史文書 但馬故事記 註解』の吾郷清彦氏は、出石郡故事記の巻末に「天日槍の出自と倭韓一国説」を取り上げている。

本郡記(出石郡故事記)は、まことに神功皇后すなわち息長帯比売命の母系先祖との関係、および稲飯命の子孫と称せられる新羅王の系譜についても相当詳しい叙述を行っている。

(中略)稲飯命の子孫と伝える記録を事実とすれば、これは血族の里帰りというべきであろう。

なぜ、崇神・垂仁、神功皇后の条になると、但馬がにわかに記紀に登場してくるのだろうか。また、出石はそれまで出雲系の県主が出石を治めていたのに、天日槍が突如登場し、しかも初代多遅麻国造になって丹波から分立して但馬国が出来る。脈略がつながらず人為的である。


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第2章 3.天日槍ゆかりの神社にみる足取り

天日槍(以下、ヒボコ)は但馬出石に安住の地を決めるまで、どういう足取りを辿ったのか。

『日本書紀』、『播磨国風土記』にその足取りが記されている。

『日本書紀』ではまとめると次のルートである。
新羅-伊都国-播磨国宍粟邑-宇治川-近江国吾名邑-若狭国-但馬国

近江国と天日槍

足取りを残すようにゆかりの神社がある。

1.播磨国 宍粟 式内御形神社

中殿 葦原志許男神(アシハラノオ)
左殿 高皇産靈神(タカミムスビ) 素戔嗚神(スサノオ)
右殿 月夜見神(ツクヨミ) 天日槍神(アメノヒボコ)」 兵庫県宍粟市一宮町森添280

1.近江国 蒲生 鏡神社 「天日槍命」 滋賀県蒲生郡竜王町鏡1289
2.近江国 栗太 安羅神社 「天日槍命」 滋賀県草津市穴村町
3.近江国 伊香 
式内鉛練日古神社 「大山咋大神オオヤマクイノオオカミ 天日桙命アメノヒボコノミコト 滋賀県長浜市余呉町中之郷108

4.越前国 敦賀   式内気比神宮摂社角鹿神社「都怒我阿羅斯等命つぬがあらしとのみこと」(=天日槍命とする説) 敦賀市曙町11-68
5.若狭国 若狭大飯 式内静志神社「天日槍命 今は少彦名命」 福井県大飯郡大飯町父 子46静志1
6.但馬国 但馬出石 但馬国一宮 名神大 出石神社(伊豆志坐神社)「出石八前大神、天日槍命 兵庫県豊岡市出石町宮内字芝池

神社由緒には、 「新羅より天日槍来朝し、捧持せる日鏡を山上に納め鏡山と称し、その山裾に於て従者に陶器を造らしめる」とある。この辺りを「吾名邑」とし、「鏡邑の谷の陶人」の地とする条件はかなり揃っている。

息長氏おきながうじは古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を根拠地とした豪族である。 『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす。また、山津照神社の伝によれば国常立命を祖神とする。天皇家との関わりを語る説話が多い。姓(かばね)は公(または君、きみ)。同族に三国公・坂田公・酒人公などがある。

息長氏の根拠地は美濃・越への交通の要地であり、天野川河口にある朝妻津により大津・琵琶湖北岸の塩津とも繋がる。また、息長古墳群を擁し相当の力をもった豪族であった事が伺える。但し文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。

1.竜王町説

苗村神社

滋賀県竜王町には「苗村ナムラ神社」(式内長寸神社)が鎮座する。鏡山の東麓にある。吾名邑(アナムラ)という地名が苗村になったという。(景山春樹氏)鏡山の麓にあり、鏡邑に隣接していることからも、ここが吾名邑という。

鏡山神社
滋賀県竜王町鏡
御祭神 「天日槍」 神社由緒には、 「新羅より天日槍来朝し、捧持せる日鏡を山上に納め鏡山と称し、その山裾に於て従者に陶器を造らしめる」とある。この辺りを「吾名邑」とし、「鏡邑の谷の陶人」の地とする条件はかなり揃っている。

2.草津市穴村説

滋賀県草津市には穴村町という地名が残り、「安羅神社」がある。
安羅(ヤスラ)神社
滋賀県草津市穴村町
御祭神 「天日槍」

神社由緒記には、「日本医術の祖神、地方開発の大神を奉祀する」とあり、祭神は「天日槍命」とする。「近江国の吾名邑」は、ここ「穴村」に比定する。天日槍が巡歴した各地にはそれぞれ彼の族人や党類を留め、後それらの人々が彼を祖神としてその恩徳を慕うて神として社を創建した。この安羅神社である。「安羅」という社名は、韓国慶尚南道の地名に同種の安羅・阿羅があり、天日槍を尊崇するとともに、故郷の地名に執着して社名にしたものと思われる。

(*兵庫県豊岡市出石いずし町袴狭はかざの近くに安羅に似た安良(ヤスラ)、伊豆志に通じる伊豆・嶋という地名がある。古くは合わせて出島いずしまと書く。天日槍垂跡の地『但馬故事記』)

3.米原市(旧近江町)説

米原市の旧近江町は旧坂田郡にあり、この辺りは「坂田郡阿那郷アナゴウ」と呼ばれていた。阿那郷が後に息長オキナガ郷になった。(息長郷は神功皇后の関連地名である。) この阿那郷が「吾名邑」であるという。(金達寿「日本の中の朝鮮文化」からの引用。坂田郡史に書かれてあるらしい)。米原市顔戸に「天日槍暫住」の石碑が立つ。

伊弉諾神社  米原市菅江(旧山東町)   この神社にはつぎのような口伝がある。
古老の伝に、村の南西大谷山の中腹に、百人窟という洞穴があり、息長族系の人々が住んでいた。阿那郷と呼ばれる渡来人の遺跡と思われる。これらの人々は須恵器を作って、集団生活が始まったという。この地は古代の窯業跡とも云われる。

息長氏おきながうじは古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を根拠地とした豪族である。 『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす。また、山津照神社の伝によれば国常立命を祖神とする。天皇家との関わりを語る説話が多い。かばねは公(または君、きみ)。同族に三国公・坂田公・酒人公などがある。

息長氏の根拠地は美濃・越への交通の要地であり、天野川河口にある朝妻津により大津・琵琶湖北岸の塩津とも繋がる。また、息長古墳群を擁し相当の力をもった豪族であった事が伺える。但し文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。

息長宿禰王おきながのすくねのみこ(生没年不詳)は、2世紀頃の日本の皇族。第9代開化天皇玄孫で、迦邇米雷王かにめいかずちのみこの王子。母は丹波之遠津臣の女・高材比売たかきひめ。神功皇后の父王として知られる。気長宿禰王とも。 王は河俣稲依毘売かわまたのいなよりびめとの間に大多牟坂王おおたむさかのみこ、天之日矛の後裔・葛城之高額比売かつらぎのたかぬきびめとの間に息長帯比売命おきながたらしひめのみこと虚空津比売命そらつひめのみこと息長日子王おきながひこのみこを儲ける。息長帯比売命は後に神功皇后と諡される。

王は少毘古名命・応神天皇と並び滋賀県米原市・日撫神社に祀られている。
天日槍は近江国の吾名邑あなのむら(滋賀県草津市)にいたとされるので、息長宿禰王とひ孫の葛城之高額比売も同族は親戚かもしれない。
西野凡夫氏『新説日本古代史』の中で、通説では息長氏の本貫地が北近江であると考えられているが、それは間違っている。本貫地は大阪である。継体天皇を息長氏と切り離したのは、天皇家を大和豪族とは超越した存在として位置づけるための造作である、としている。

2009/08/28


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第6章 3.ヒボコは日本人だった。天皇の皇胤

終章、まとめとしてこのタイトルの結論に。

縄文時代からヒボこの頃まで、今の韓国に当たる半島の南部湾岸部はワ・やまと国の一部である

『古事記』応神天皇記(712年)では、その昔に新羅の国王の子の天之日矛が渡来したとし、『日本書紀』(720年)では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記されている。

当時の新羅は、金海市周辺の任那伽耶諸国であって、記紀のころ(712・720)の「新羅国」と「倭国」の関係では、新羅国は存在したが、ヒボコの時代には、半島南部には百済・新羅もまだ存在していないし、その前の馬韓・弁韓・辰韓三国より倭国統一がずっと古い。そして新羅としてまとめていった母体の王は倭人によるものであって、その子孫がヒボコなのだ。その証拠に日本列島の前方後円墳よりも後に当たる前方後円墳が、そうした半島の西南端から5世紀後半から6世紀前半14基は確認されているのだ。それは、縄文から当時まで、朝鮮半島はまったく未開地に等しく、対馬に近い半島南部は倭国の一部であった。いない最盛期に都を置いた半島東部の慶尚南道の慶州とは無縁である。その後の南端中央部が弁韓となるのが、任那伽耶諸国である。

天日槍(ヒボコ)は、天皇の皇統である=倭(大和)の天皇の血統

『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記には、「人皇六代孝安天皇53年、新羅王子天日槍命帰化す。」とあるが、さらに「天日槍命は(神武天皇の父にあたる)鵜草葺不合ウガヤフキアエズ命の御子、稲飯命五世の孫なり。鵜草葺不合命は海神豊玉命の娘、玉依姫命を娶り、五瀬命・稲飯命・豊御食沼命・狭野命を生み給う。」

そして稲飯命と豊御食沼命は海路を紀の国へ出ようとしたところ強く激しい風に遭い、漂流して稲飯命は新羅に上がり国王となりとどまられたと記している。このように新羅の皇子が帰化、または渡来したとされるが、当時の百済、新羅は倭国の属国であり、国王稲飯命は神武天皇の父にあたる鵜草葺不合命の二番目の子であり、天日槍命はその五世孫であるから神武天皇とは同じ系統である。

『三国史記(新羅本紀)』(1145年)には、

57年 4代王「脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。」(注:中国の1里は約400mであるので、一千里は400kmとなる。)この多婆那国は但馬あるいは丹波ではないかとする説がかなりある。

しかし、私はこの「但馬あるいは丹波」の分類が時代的に間違っているように思う。この時代には但馬も丹波(丹後)もまだなく、丹波の中心は今の丹後で、のちに丹波は丹波と丹後・但馬三国に分国されたのだから、今の但馬だとか丹波・丹後だというのはあまり意味はない。多婆那国は但馬も丹波・丹後も含まれるからである。

多婆那国の那は奴とも書き、隋書東夷伝には「倭奴国」とあり、倭も奴も中国や朝鮮における派生的な蔑称であるので多婆国とした方が正しいと思う。多婆と丹波は発音が似ている。

当時日本の文献では田庭とも記され、但馬は元は多遅麻や谿間と記された。それらの漢字に意味はなく、タニワ、タンバ、タニマ、タヂマ等同じことを指すように思える。

伽倻・新羅建国の王は倭人

(斜線部分は伽耶諸国)

なお、アメノヒボコは新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もある。また、秦(中国)の秦氏ではないかという説もある。新羅王族であった昔氏は、日本(倭)の多婆那国から新羅に渡り王となったとする。金という姓が最大だが、金氏も地方に異なるようだ。その中でも金海金氏が韓国では最も高貴で由緒があるとされるらしい。

しかし、金海とは任那伽耶である。その金氏のルーツは日本人であると知れば、益々何もかもデタラメな朝鮮半島の歴史は、崩壊しかねない。

(新羅王族の王子であるヒボコは、但馬・出石に定着した。ただし、昔氏のもともといた場所についてはこの他に日本の東北、丹波等が上げられている)。

日本書紀の意富加羅国とは、朝鮮半島南西部の伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)であり、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。

任那は伽耶諸国の中の大伽耶・安羅・多羅など(3世紀から6世紀中頃・現在の慶尚南道)を指すものとする説が多い。これは大駕洛という国の名前が伝わる際にその音を取って、新羅では伽耶・加耶、百済や中国では伽耶カヤ、あるいは加羅カラと表記されていたためだと言われ、日本(倭)では任那(みまな)とも表記され、南部の金官郡(金官伽耶)だけは任那は日本府の領域として一線を画していたが、562年に新羅の圧力により滅亡した。

 

朝鮮半島から伝わったのではなく、日本人の祖先は二度朝鮮の基盤をつくった

今日の研究では未開地だった半島に弥生土器や稲作も北部九州から半島南部へ伝わったようで、モンゴル系統の高句麗、南は縄文人から倭人によって土器や稲作が伝わり、やがて村に近いクニを形成していった。中央部にはワイ族という先住民がいた。

イギリスのかつて大英帝国として植民地があったように、百済・新羅は外国というより倭国の属国あるいは朝貢国であった。但馬国の国と新羅の小国の加羅・安羅・任那などの国は同じ倭国の中の小国(くに)といった方が正しいだろう。同じ大英帝国であったインド領や今でも英連邦のオーストラリア、ニュージーランド、カナダなどから本国イギリスに戻ったからといって国籍は違っても帰化したとは言わないだろう。

紀元前150年頃は、中国の『漢書』に記された前漢代、日本の弥生時代中期にあたる。『漢書地理志』によ倭、倭人が登場する。1世紀中葉の建武中元2年(57年)になると、北部九州(博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国(ここで云う国とは、中国で云う国家というよりクニすなわち囲まれたムラの規模)の首長が、後漢の光武帝から倭奴国王に冊封されて、金印(委奴国王印)の賜与を受けている。

倭人は北部九州をはじめ壱岐、朝鮮半島南部やに当たる。の百済の前進である馬韓、や任那日本府、加羅、安羅などのクニがあった弁韓、東部の新羅の元となる辰韓はその倭国107年の文献に名を残す日本史上最古の人物である帥升は、史料上、倭国王を称した最初の人物でもある。さらに「倭国」という語もこの時初めて現れている。これらのことから、この時期に、対外的に倭・倭人を代表する倭国と呼ばれる政治勢力が形成されたと考えられる。

 天日槍の出自と倭韓一国説

最後に、『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記の巻末に以下の文が注解として著者、吾郷清彦氏も、天日槍の出自で倭韓一国説として付記しています。

天日槍来朝の叙述や、その子孫の記録は、他書を抜いて最も詳しく、まことに貴重な資料である。ことに、神功皇后すなわちお息長帯姫命の母系先祖との関係、および稲飯命の子孫と称せられる新羅王の系譜についても、相当詳しい叙述を行なっている。

依って今、ここに天日槍命の帰化と新羅王が稲飯命の子孫であるか否かについていささか触れてみよう。

天日槍は、勅使(三輪君の祖大友主命、倭直の祖長尾市命)の問いに対し、

「僕は新羅王の子、我が祖は秋津州(日本列島)の王子稲飯命。しかして僕に至り五世におよぶ。只今秋津州に帰らんと欲して、吾国を弟の知古に譲りこの国に来る。願わくば一畝の田を賜りて御国の民と為らん」(本郡記・孝安天皇五十三年の条)

いま『日本古代史』(久米邦武)を見るに、天日槍命の帰化を孝元朝と考定し、この命が但馬および伊[者見]の主となった事由を次のごとく述べる。

「孝元帝の時は倭国大乱の最中なるに、天日槍命の但馬および伊[者見]の主となりたるは、伊[者見]県は儺県に近接し、伊[者見]津は女王卑弥呼の時に漢韓より亭館を設けて、交通の要衝となしたれば、その接近の地を占領せしたるは、伊[者見]県に去りがたき縁由のありての帰化なるべし」

(中略)

この命が但馬に定住するに至った左の一文は、記紀・ホツマおよび本巻によって肯定することができる。
「丹波主家は、息長宿祢に至って、但馬日高の娘・高貫姫を娶り、息長帯姫皇后(神功)の新羅遠征など、但馬氏・息長氏と丹波主家とは浅からぬ縁故のありて、新羅と気脈を相通するに似たり。また日本書紀に天日槍は但馬出島人太耳の娘・麻多鳥を娶り、但馬諸助を生むとある。太耳は以前よりの県主にて、天日槍を迎えたるものにあるべし」

息長帯姫(神功皇后)は天日槍の七世孫・高貫姫を御母とするので、新羅王の血が混じっていることになる。けれども、この新羅王が新羅国の祖、朴赫居世干ザツキョセカンすなわち稲飯命いないのみことの子孫と伝える記録を事実とすれば、神功皇后の血統は本来皇胤こういんであることとなる。

従って、これは血族の里帰りと云うべきだろう。

(*1 長尾氏は代々出石神社の宮司(神官)家)

久米邦武は自著『国史八面歓』で、
「元来新羅は神代より出雲の兼領地で、周漢寄りの半島をカラと称し、筑紫(いまの北部九州)・中国・四国等の連島を倭と称したが、その頃においては、倭・韓は一国であって云々」と論じ、韓史に基づき倭韓一国説を主張する。


[註] 新羅(しらぎ/しんら、紀元356年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。「新羅」という国号は、503年に正式の国号となった。天日槍が任那・加羅の王子であったことは充分考えられるが、新羅(半島東部)は新しい国家で、倭や古墳時代には縁がない事。
記紀を編纂した当時にはすでに新羅あったが、天日槍の伝承の頃には半島に国家はないのだ。ずっと以前にあった事を聞きながらまとめあげたのだから、(いまの)新羅の皇子と記したとも考えられる。

以上、『国司文書 但馬故事記』解説 吾郷清彦
、他から拙者が加筆した。

新羅王族は日本語を話していた

『韓国人は何処から来たか』長浜浩明氏

最初に朝鮮半島へ移り住んだのが縄文人ですから、最初に話された言葉は縄文語であることは容易に想像できます。そして三国時代から任那滅亡までは半島南部は倭人の地であり、当然日本語が話されていました。

その北は韓人が住んでいましたが、彼らは倭人との交渉もあり、日本語と相通ずる言語が話されていた状況証拠はいくらでもあります。

記紀には天日槍は新羅の王子とあるが、「今の新羅にあたる半島南端部は、かつては伽倻・任那といって倭国の分国であったが…」この補足が欠けているのである。天日槍がいたクニとは、九州北部と同じく倭人の国・加羅・任那であると考える。

その理由として、

  • 日本には1万ともいわれる旧石器遺跡が発見されているが、朝鮮半島はわずか50ヶ所程度で無人地帯に近かった。
  • 前5,000年から紀元前後まで、5千年の長きに渡り、縄文人(日本人)が半島へ進出していた
  • 新羅王族は日本語を話していた
  • 辰韓人と弁辰人(伽倻)は習俗が、風俗や言語は似通っていたが、辰韓(のちの新羅)は異なっていたこと。
  • 加羅国、安羅国は紀元前2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部に存在した三韓の一つ弁韓の少国であること。
  • 倭の前方後円墳は北はソウルから西は栄三江流域から釜山までつくられている。

天日槍がいたクニとは、おそらく馬韓(のちの百済)の東、辰韓(のちの新羅)の南で、日本海に接し、後の任那・駕洛(伽耶)と重なる場所にあった地域である。

九州北部・対馬・壱岐・済州島などの島々・半島南部は縄文人から倭人が開発した地域であった。

『日本人ルーツの謎を解く』長浜浩明氏は、

当時の九州の人たちは、縄文時代から半島南部に根を張り、日本と半島、場合によっては大陸を含む交易に従事していた。(中略)

今まで「大勢の渡来人が日本へやって来た」とされた時代、逆にかなりの日本人が半島へ進出していた。半島南部から発見された多くの遺跡や縄文土器、弥生土器がこのことを証明している。(中略)平成十年(1998)、青森県の太平山遺跡から1万6千年前の土器が出土した。それまで世界最古の土器は約8千年前というから、エジプトやメソポタミアは勿論、「偉大なる中国民族」より何千年も前から、日本列島の人々は土器を作っていた。世界四大文明より数千年も早い9千6百年前の九州の上野原遺跡からは、弥生土器と見間違う約7千5百年前の土器も発掘されている。つまり縄文時代の人たちは世界最先端であり、世界最古の文明は日本列島だったのだ。縄文晩期の水田稲作や尺で図った精巧な木組みの高床式建築の遺構が多く見つかり、技術力はその頃から巧みであったのだ。

天日槍は神功皇后の血統、本来皇胤こういんである

かつて学校で、「弥生時代に大量に渡来人がやって来て弥生土器と水田稲作を伝えた」と習った人もいるであろう。縄文人はお酒(山葡萄酒)もたしなんでいた痕跡も見つかり、コメ以外に麦・粟・稗・豆の五穀も栽培し栗の木を植え栃の実からもちを作り食べていた。また野山の果実や山菜、海の幸はアサリ、ハマグリ、サザエから魚介類は取り放題。そういう意味では現代人よりグルメだった。

弥生人は渡来人だとの固定観念に縛られた考古学者などの執筆者の固定概念が新しい発見により違っていたことが分かってきたのだ。日本は半島や中国からやって来た人が稲作や文化を教えられたなどでは自虐的な教科書がなら日本史が楽しいはずがない。

また、弥生時代の稲作は朝鮮半島ではなく、中国大陸の江南(長江以南)から日本列島及び半島南部にもたらされたとされたという説も根強い。しかし、大陸からわたって来た人は年に2、3家族程度だったようである。今の日本の方が中国永住者は圧倒的な数だ。

半島南部に稲作が伝播したのはおそらく縄文人・弥生人であり、また日韓併合により全土に稲作を広めたのは植林・農地改革によるものである。

倭(日本)人と朝鮮半島の人とくに女性のDNAに同じD系統を持つ人がいるのは、元々倭人の子孫だからであり、日本人のルーツが半島にあるのではなく、逆で半島が倭人のDNAが混在しているからなのである。


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第3章 1.天日槍と伊和大神の国争い

播磨国一宮 伊和神社

奈良時代に編集された播磨国の地誌『播磨国風土記』(国宝)の成立は715年以前とされている。原文の冒頭が失われて巻首と明石郡の項目は存在しないが、他の部分はよく保存されており、当時の地名に関する伝承や産物などがわかる。ちなみに『風土記』とは奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書。写本として現存するのは、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。後世の書物に逸文として引用された一部が残るのみである。その中で『但馬国風土記』の焼失を惜しんで、のちに但馬国府の役人が編纂した『国司文書 但馬故事記』は貴重な史料である。

『播磨国風土記』には伊和大神いわのおおかみ天日槍あめのひぼことの争いが語られている。結果としては住み分けをしたことになり、ヒボコは但馬の伊都志(出石)の地に落ち着いたことが語られている。

ヒボコと伊和大神の国争い

(中略)ヒボコは宇頭ウズの川底(揖保川河口)に来て、国の主の葦原志挙乎命アシハラシノミコトに土地を求めたが、海上しか許されなかった。

ヒボコは剣でこれをかき回して宿った。葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべく粒丘イイボノオカに上がった。

葦原志挙乎命とヒボコが志爾蒿シニダケ(=藤無山)[*1]に到り、各々が三条の黒葛を足に着けて投げた。

その時葦原志挙乎命の黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条ミカタと云う。

ヒボコの黒葛は全て但馬の国に落ちた。それで但馬の伊都志(出石)の地を占領した。

神前郡多駝里粳岡は伊和大神[*2]とヒボコ命の二柱の神が各々軍を組織して、たがいに戦った。その時大神の軍は集まって稲をついた。その粳が集まって丘とな った。

[現代語訳]

アメノヒボコは、とおいとおい昔、新羅(しらぎ)という国からわたって来ました。
日本に着いたアメノヒボコは、難波なにわ(=現在の大阪)に入ろうとしましたが、そこにいた神々が、どうしても許してくれません。
そこでアメノヒボコは、住むところをさがして播磨国はりまのくににやって来たのです。

播磨国へやって来たアメノヒボコは、住む場所をさがしましたが、そのころ播磨国にいた伊和大神という神様は、とつぜん異国の人がやって来たものですから、
「ここはわたしの国ですから、よそへいってください」
と断りました。

ところがアメノヒボコは、剣で海の水をかき回して大きなうずをつくり、そこへ船をならべて一夜を過ごし、立ち去る気配がありません。その勢いに、伊和大神はおどろきました。

「これはぐずぐずしていたら、国を取られてしまう。はやく土地をおさえてしまおう。」
大神は、大急ぎで川をさかのぼって行きました。そのとちゅう、ある丘の上で食事をしたのですが、あわてていたので、ごはん粒をたくさんこぼしてしまいました。そこで、その丘を粒丘(いいぼのおか)と呼ぶようになったのが、現在の揖保(いぼ)という地名のはじまりです。

一方のアメノヒボコも、大神と同じように川をさかのぼって行きました。
二人は、現在の宍粟市(しそうし)あたりで山や谷を取り合ったので、このあたりの谷は、ずいぶん曲がってしまったそうです。さらに二人は神前郡多駝里粳岡(福崎町)のあたりでも、軍勢を出して戦ったといいます。
二人の争いは、なかなか勝負がつきませんでした。
「このままではまわりの者が困るだけだ。」
そこで二人は、こんなふうに話し合いました。

「高い山の上から三本ずつ黒葛(くろかずら)を投げて、落ちた場所をそれぞれがおさめる国にしようじゃないか。」
二人はさっそく、但馬国(たじまのくに)と播磨国の境にある藤無山(ふじなしやま)[*1]という山のてっぺんにのぼりました。そこでおたがいに、三本ずつ黒葛を取りました。それを足に乗せて飛ばすのです。
二人は、黒葛を足の上に乗せると、えいっとばかりに足をふりました。

「さて、黒葛はどこまで飛んだか。」と確かめてみると、
「おう、私のは三本とも出石(いずし)に落ちている。」とアメノヒボコがさけびました。
「わしの黒葛は、ひとつは気多郡(けたぐん)、ひとつは夜夫郡(やぶぐん)に落ちているが、あとのひとつは宍粟郡に落ちた。」
伊和大神がさがしていると、「やあ、あんな所に落ちている。」とアメノヒボコが指さしました。  黒葛は反対側、播磨国の宍粟郡(しそうぐん)に落ちていたのです。

アメノヒボコの黒葛がたくさん但馬に落ちていたので、アメノヒボコは但馬国を、伊和大神は播磨国をおさめることにして、二人は別れてゆきました。

ある本では、二人とも本当は藤のつるがほしかったのですが、一本も見つからなかったので、この山が藤無山と呼ばれるようになったと伝えられています。

その後アメノヒボコは但馬国で、伊和大神は播磨国で、それぞれに国造りをしました。アメノヒボコは、亡くなると神様として祭られました。それが現在の出石神社のはじまりだということです。

「兵庫県立歴史博物館ネットミュージアム ひょうご歴史ステーション」より

『播磨国風土記』にあるヒボコの足取りをまとめると、

播磨国揖保川河口-粒丘(揖保郡)-神前(神崎)郡多駝里粳岡(福崎町)-志爾蒿(シニダケ=藤無山)-御方里(宍粟郡三方)御形神社━

┳━(天日槍は但馬国)  出石 但馬国一宮 出石神社
┗━(伊和大神は播磨国) 宍粟 播磨国一宮 伊和神社

『播磨国風土記』

御形神社

式内 御形神社

兵庫県宍粟市一宮町森添280
中殿 葦原志許男神(アシハラノオ)
左殿 高皇産靈神(タカミムスビ) 素戔嗚神(スサノオ)
右殿 月夜見神(ツクヨミ) 天日槍神(アメノヒボコ)

ご祭神葦原志許男神の又の御名を大国主神。社名「御形」は、愛用された御杖を形見として、その山頂に刺し植え形見代・御形代より。
この神様は、今の高峰山(タカミネサン)に居られて、この三方里や但馬の一部も開拓され、蒼生(アヲヒトグサ)をも定められて、今日の基礎を築いて下さいました。  しかし、その途中に天日槍神(アメノヒボコノカミ)が渡来して、国争ひが起こり、二神は黒葛(ツヅラ)を三條(ミカタ)づつ足に付けて投げられましたところ、葦原志許男神の黒葛は、一條(ヒトカタ)は但馬の気多郡に、一 條は養父郡に、そして最後は此の地に落ちましたので地名を三條(三方)といひ伝へます。又、天日槍神の黒葛は全部、但馬国に落ちましたので但馬の出石にお鎮まりになり、今に出石神社と申します。「御形神社HP」

 

[註] *1 志爾蒿(シニダケ=藤無山・ふじなしやま)
宍粟市と養父市の播・但国境にあるある山。標高は1139.2m。若杉峠の東にある、大屋スキー場から尾根筋に登るルートが比較的平易だが、ルートによっては難路も多い、熟達者向きの山であります。尾根筋付近は植林地となっています。
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第5章 1.丹後・但馬はヤマト建国の隠されたキーマン

なぜ、アメノヒボコは突如、但馬に登場するのか?

国史である『記紀』や公式に中央に献上させた『播磨国風土記』など、ヒボコと但馬について記されているのは、日本建国にとって、外せない重要な事実が秘められているからに他ならない。それを裏付けるものと思われるひとつが、その後の時代に建立された但馬国の式内社の異常な多さと軍団整備である。

まず、式内社とは、延喜式神名帳に記載された神社で、延喜式内社、または単に式内社、式社という。古代律令制における官社。のちに毎年2月の祈年祭に神祇官から幣帛を受ける官幣社と国司から幣帛を受ける国幣社とに分けられた。式内社数は、多い順に、古くは都の置かれた畿内の大和286社、皇統に親しい伊勢253社、出雲187社・近江155社は納得できる。しかし、次いで但馬が全国で5番目に多い。これは不自然だ。丹波分国後の丹後65社、丹波71社を合わせて136社だが、それに比べても、但馬には131社もあるのが不思議である。その次が、越前126社で、延喜式神名帳がつくられたころの平安の都である山城国122社、伊勢神宮のとともに古社熱田神宮のある尾張121社、河内113社と続く。そのあとは、伊豆92社、摂津72社となるが、遠州62社で、それ以外の国は60社以下、1ケタの国も多い。

但馬は半島防衛上重要だったのではないか?!

全国に兵主神社というスサノオを祭神とする神社がある。といっても全国的にはあまり多くない。奈良県桜井市の穴師兵主神社やその遷座とされる近江の兵主大社(滋賀県野洲市)、壱岐の兵主神社を除き、全国的にあまりない社号である兵主神社が丹波1社・播磨2社、因幡に2社あるが、但馬に最も集中しているのは、何か但馬に防衛上重要だった理由があったのではないかと思うのが自然だろう。

『播磨国風土記』では、ヒボコは瀬戸内海-揖保川-但馬出石というルートを通っている。また、加古川から本州で最も低い分水嶺の氷上(水分れ)から、由良川を下れば日本海に達するルートも多く指摘されている。『日本書紀』にある、淀川・近江(琵琶湖に出て)・若狭(敦賀)を経て丹後・但馬に入るルートも、若狭小浜から近江(琵琶湖)・大和へのルートは、奈良東大寺二月堂のお水取りで知られている。

国史といえども、昔の話を集めて編纂した者。すべてが真実かどうかはわからない。まして神話や地元の伝承といえども、まったくの作り話ではない。すべてが神様の絵空事ではなく、そこには何か但馬に理由があると。元々歴史に興味があった。粉々に破壊された久田谷銅鐸・アメノヒボコ。まず式内社や神社研究にはまってしまったきっかけは、最初の但馬国誕生に重要なヒボコは、タジマモリとともに『記紀』『播磨国風土記』などに登場する数少ない但馬の人。なぜ但馬の出石にアメノヒボコが住み着いたのか?

 

播磨で出雲神と闘っていたアメノヒボコ

アメノヒボコについて、「ある特定の個人を指しているのではなく、渡来系の技術者集団を意味しているのではないか」とする考え方も強い。弥生時代から継続的に日本に渡って来た渡来人集団が伝説化され、アメノヒボコと呼ばれるようになったのだろうという。ただし集団を指しているにしても、その中の指導的立場にいたひとりがモデルとなって、英雄視されていたのではないかと思われるから、アメノヒボコという一人物は存在したと思う。

(中略)

アメノヒボコと同一とされる人物にツヌガアラシトがいる。彼は角鹿(福井県敦賀市の古名)にたどり着いて、角鹿と出石を海の道で結んだ「タニハ(大丹波)」の領域こそ大きな意味を持ってくるからだ。

ただし、この「地勢上のタニハ(大丹波)の特性」を理解するためには、少し遠回りをしなければならない。

まず『播磨国風土記』のヒボコの活躍に注目してみよう。

播磨でヒボコが大暴れしている。しかもヒボコは出雲神(アシハラシコオ)と闘っているのだ。なぜここで出雲神が現れたのだろう。

(中略)

播磨という土地は、争いごとが多かったようだ。『播磨国風土記』は、戦いの伝説で満ちている。(中略)いろいろな地域から人びとが移ってきたという話も豊富で、難波、讃岐、伊予、但馬、河内、大和、出雲、伯耆、因幡、石見といった地域の名が挙がる。(中略)渡来人の活躍も目立つ。

(中略)

播磨と但馬を結ぶ道 生野

『播磨国風土記』に、

昔、この地に荒ぶる神がいて、通る人を半分殺した。だから、「死野しにの」と呼んだ。のちに応神天皇が勅して、「悪い名なので、生野いくのに改めなさい」と命じた。

生野は朝来市生野町で但馬国の領域だが、古くは播磨国側に組み込まれていた。このあたりと往き来する人がいたと記録されていることは、大きな意味を持っている。播磨と但馬の間の陸路が通じていたことを意味しているからだ。

『播磨国風土記』飾磨郡安相里の条には、応神天皇が但馬から巡行してこられたという話がある。やはり、陸路は確立していたようだ。

播磨が交通の要衝であることは、はっきりとしてきた。日本海側からヤマトに向かう場合、陸路をとるなら、必ず播磨を通過していたのだ。播磨は日本海と瀬戸内海をつなぐ大動脈の分岐点であり、四国の人間も播磨にやって来たと語られるが、これも一度播磨に渡り、ここから各地に散っていったからだろう。西日本の流通と戦略の要だったことが『風土記』の記事からはっきりとする。だからこそ、ヒボコと出雲の神・伊和大神は、播磨の土地争いを演じたのである。織田・豊臣、徳川家康も、西日本の交通の要所である播磨を重視し、姫路城の整備を急がせた。

(中略)

崇神天皇は四方に将軍を派遣した。これが四道将軍で、北陸(道)、東海(道)、西道(山陽道)、そして丹波に、それぞれ将軍が向かった。問題は丹波で、山陰、山陰道とは書かれていない。山陰道をさらに進めば出雲に至るのに、だいぶ手前の丹波で止まっている。

直木孝次郎は、『日本書紀』編纂時、山陰道はまだ確立されていなかったか、あるいは編者の意識の上で山陰道は問題になっていなかったのではないかと指摘し、ヤマトからみて出雲はとても遠い国という意識があったというのだ。

(中略)

しかし、これは大きな過ちだ。出雲は日本海の一大勢力であり、僻遠の地ではなく、朝鮮半島との経路上にある重要な地域だ。それよりも、ここで大切なことは、「ヤマトから山陰に向かう陸路は但馬で終わっていた」という事実である。おそらく但馬豊岡と鳥取県との往来には、船が用いられ、陸路はほとんど使われなかったのではあるまいか。

(※拙者註 神功皇后は熊襲征伐に向かう際に、日本海を船で敦賀から丹後半島、但馬、長門から九州に入っている。)

鳥取県と豊岡の間の「遮断された陸の道」が、播磨の重要性を産み出し、また一方で、日本海の「制海権」をめぐる争いが勃発したであろうことは、容易に想像がつくところである。出雲にとって、タニハ(但馬)は船で、東国へ抜けヤマトに向かう際の障害となり、タニハにとって、出雲は朝鮮半島に抜ける際の障害になったのだ。両者はけっして相容れぬ関係となっていたはずなのである。

さらに同書ではこう続けている。

ヒボコが最後にたどり着いた地・但馬は、古くは丹後とともに「タニハ」だった。「タニハ」はヤマト建国を陰から支えていた。いや、「タニハ」がプロデュースして、ヤマトは建国されたのではないかと思えてくる。
(中略)
但馬国は、「タニハの西のはずれ」にあたる。なぜヒボコは、タニハを選んだのだろう。その理由を知るには、時代背景と地理的条件を知っておく必要がある。
古代の表日本=日本海の中継基地としてタニハは抜群の立地であった。ヤマトから琵琶湖を経て、朝鮮半島と直接往来が可能だっただけでなく、東西日本を結ぶ航路の止まり木として必要だった。
由良川-加古川ルートで陸路を使って瀬戸内海に出るのが容易だった。されに若狭や敦賀から琵琶湖を通ってヤマトに向かうことも可能だった。また東国の発展にタニハは欠かせない要衝であった。

しかし、関氏は、地理的条件といっていながら、但馬国は、「タニハの西のはずれ」にある、「なぜヒボコは、タニハを選んだのだろう」として、但馬と丹後を地理的に同一視しているようである。地元以外の人には誤解があるかもしれないのは、同じタニハであっても、そのころ大丹波の中心は間違いなく丹後の京丹後市峰山町に丹波という地名が残るように、竹野川、野田川、由良川から敦賀にかけての丹後を含む若狭湾沿岸であったろう。そのタニハ(今の丹後)と後に但馬として分国する円山川水系はまったく交わらない地域である。海路で日本海沿岸を西の但馬へ向かうには、間に大きく出っ張った丹後半島があり、大きく迂回しなければならない。また但馬へは加古川・由良川ルートは考えにくい。遠阪峠から円山川を下るルートもあるが。先に応神天皇が但馬から生野を越えられたように、瀬戸内海を姫路から生野から南へ流れる市川を遡り、生野から北へ流れる円山川が日本海に注ぐ。

門脇禎二は、ほとんど脚光を浴びることはなかったタニハ(丹波)にスポットを当て、「丹後(波)王国論」を立ち上げた功労者である。そのなかでも『日本書紀』に最初に登場するのは、第10代崇神天皇と11代垂仁天皇の時代に出雲との関わりの中で出てくる。

にも関わらず何の脈略もなく突如ヒボコが但馬に入る記述があらわれる。ヒボコはのちに多遅麻国造となっているが、タニハ(丹波)全体を領してはおらず、あくまでものちに丹波より分国となる但馬国を選んだのである。

日本海沿岸で最初に登場する巨大前方後円墳は、古墳時代前記後半に造営された蛭子山古墳(145m。京都府与謝郡与謝野町加悦・明石)。網野銚子山古墳198m、4世紀末-5世紀初頭(古墳時代前期末葉-中期初頭)頃、神明山古墳(190m・京都府京丹後市丹後町宮)は、「日本海三大古墳」と総称される。これは畿内の大王墓と肩を並べる大きさである。前方後円墳が造営されたということは、ヤマトの同盟体制に組み入れられていったことを意味する。
(中略)
そして、6世紀中葉になると、丹後の元伊勢(外宮)信仰がヤマトに吸い上げられたに違いないというのである。
しかし、京丹後市峰山町にも 豊受大神を祀る比沼真奈為神社、あと一社は、福知山市大江町の元伊勢と呼ばれる豊受大神社皇大神社で、丹後の元伊勢三社と呼ばれている。

ヒボコは、『国司文書 但馬故事記』では、第6代孝安天皇期に但馬に帰化する。タニハ(丹後王国)が登場する崇神・垂仁期よりもだいぶ前である。

『国司文書 但馬故事記』では、第一巻・気多郡故事記・第二巻朝来郡〃、第三巻養父郡〃、第四巻城崎郡〃、第六巻・美含郡〃は、同じく、天火明命が田庭(丹波)の真名井原に降りてのちに但馬を開くと記述しヒボコの記述は一切ないが、第五巻・出石郡故事記のみが、第6第孝安天皇53年 新羅王子天日槍帰化す。と突如記述があらわれる。そして61年、天皇はヒボコに多遅麻(但馬)を与え、初代多遅麻国造を拝命した。


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第2章 4.アメノヒボコそっくりな神功皇后の足跡

神功皇后とアメノヒボコは、多くの接点を持っている

たとえば、三品彰英氏は、アメノヒボコと神功皇后(オキナガタラシヒメ)の伝説地を地図上につないで、地理的分布が驚くほどよく似ていると指摘している。似ているのではなく、両者はまるで手を携えて行動をしていたようにピッタリと重なっている

『古事記』に従えば、神功皇后とアメノヒボコの系譜上のつながりは、系図を見れば分かるように、かなりかけ離れていたことになる。にも関わらず、二人がなぜここまで重なってくるというのだろう。偶然にしては、どうにも不可解な謎ではあるまいか。

もうひとつ奇妙なことがある。それは『古事記』にあるアメノヒボコの記事は、第十五代応神天皇の段になって載せられている。これがどうにもよく分からない。

応神天皇は神功皇后の息子であり、その応神天皇の知政を述べるくだりで、「又昔、新羅の国主の子有りき。名は天之日矛と謂ひき」と、アメノヒボコを紹介しているのだ。これはとても不自然だ。また、「昔」とはいつのことなのか、『古事記』の記事を読む限り、はっきりとしないのも問題が残る。

さらに『古事記』は、アメノヒボコが「神話」の時代だったと証言している。それは、アメノヒボコ来日後の次のような話からくみ取ることができる。

アメノヒボコが招来した八つの神宝を、伊豆志の八前の大神と呼び祀った。その伊豆志の八前の大神には娘がいて、その名を伊豆志袁登売神イズシヲトメノカミといった。多くの神々(八十神ヤソガミ)がこの女神と結婚したいと思ったが、皆かなわなかった。いろいろないきさつがあったのち、弟は乙女と結ばれ子供が生まれた。だが兄は、呪いにあって衰弱するのだが、ここでは省略する。

ここで指摘しておきたいのは、この話の出だしが、どこか因幡イナバの白兎(白うさぎ)を連想させることだ。出雲の大国主や多くの神々が、因幡の八上比売ヤガミヒメを娶ろうとしたが、途中で白兎をいじめた兄たちは得ることができず、白兎を助けた大国主が八上比売と結ばれたという、あの有名な白うさぎの話とそっくりだ。舞台の背景となった但馬は、因幡のすぐ隣で山陰道の隣国であり、日本海でつながっている。

なぜ、ヤマト朝廷の実在したとされる初代の王・崇神天皇の出現の直前に、神功皇后の名(『古事記』では息長帯比売命)を無理矢理こじ入れてしまったのだろう。はたして何かしらの意図があったのだとすれば、ここにも何か秘密めいたものを感じてしまう。

『古事記』は、ヒボコの話を神功皇后のあとにもってきて、しかも、ヒボコの話のあとに、時代の順番が逆になっている「神話」を語ったのだろう。それは、『古事記』によれば、仲哀天皇崩御の後、実際に治めた仲哀天皇の妃・神功皇后の母方の祖は、来日した新羅の王子・アメノヒボコの末裔にあたることを強調したかった事情があったのだ。『日本書紀』はこの系譜をまったく無視している。なぜこの系譜を掲げなかったかというと、新羅の王子天日槍(ヒボコ)の突如の登場こそが、ヤマト建国の真相を握っていたからである。

『日本書紀』によれば、ヒボコは崇神(スジン)天皇を慕ってやって来たというが、『国司文書 但馬故事記』(第五巻・出石郡故事記)には、突如「六代孝安天皇53年 新羅王子天日槍命帰化す。…61年天日槍命を以て、(初代)多遅麻国造と為す。」とある。『播磨国風土記』は、「天日槍、韓国(カラノクニ・半島に限らず外国の意味でもある)より渡り来て、…」として、とくに新羅としていない。韓国とは中国の漢では半島南部をいい、または加羅をさすかも知れない。『日本書紀』(713年)は『古事記』(702年)、『風土記』より後だ。すでに新羅は成立しているが、あえて韓国と書いている。もちろん風土記は地方官がその土地の伝承を集めたものであるから、編纂年にあった事柄ではない。韓は弁韓・辰韓でもあり、彼らの祖地・中国の漢にも通じ、またはカラ(伽耶)でもありうる。

私は別記にも書いたが、この韓国や新羅とは伽耶だという説がもっとも強いと思っている。『古事記』は、ヒボコが神話の時代に日本にやってきたと証言している。ここにいう神話時代とは、「ヤマト建国前」ということだろうか。

三品彰英氏はこう指摘している。

アメノヒボコトと神功皇后の活躍したルートはほぼ重なっていて、また、ヒボコが追いかけ回したというヒメコソ(比売語曾)は、「ヒミコ」のことではないかとする説があるが、「ヒミコ」は「日の巫女」(ヒノミコ) なのであって、これは職掌であり、神の神託を下した神功皇后も、まさに「ヒミコ(比売語曾)」とそっくりなのだ。

そうなってくると、アメノヒボコと神功皇后とのコンビこそが、ヤマト建国に大いに関わっていて、この事実を抹殺するために『日本書紀』はいろいろな小細工をくり返したのではないかという疑念につながっていくのである。というのも、「天日槍(天日矛)」を直訳すれば、「太陽神であるとともに金属の神」とうことになる。

アメノヒボコとヒメコソ(ヒミコ=太陽神の巫女)がセットだったのは、アメノヒボコが太陽神だったからである。そして、問題は、ヒボコが金属冶金技術を日本にもたらしたからこそ、「天日槍」という神の名で称えられた、ということであろう。そしてそれがヤマト建国の直前で、しかも『日本書紀』のいうように、アメノヒボコが最終的にとどまった地が但馬の出石であったというところがポイントである。

但馬の知られざる地の利がひとつだけある。それは、船に鉄を積んで若狭のあたりを東に向かい、敦賀に陸揚げしたのち、峠を一つ越えれば琵琶湖に出られることだ。琵琶湖から再び船に乗り換え、大津から宇治川を一気に下れば、ヤマトへの裏道が続いていることである。ひょっとして、アメノヒボコは、鉄欠乏症に悩むヤマトを救済すべく、但馬に拠点を造り、鉄を密かにヤマトの送り込んでいたのではなかったか。

(神功皇后のルートが、「播磨国風土記」でヒボコがさまよったルートと逆にすると似ているし、近江は息長氏の拠点でありヒボコや穴師ゆかりの神社や兵主神社が多い。

出石は古くは「伊都志・伊豆志」と記していた。どうも糸島半島にあったとされる伊都国との関わりがあるのではいかという説もある。

人皇14代仲哀天皇2年、天皇は神功皇后、息長帯姫命と伴に越前笥飯宮(氣比神宮)に行幸され、皇后を笥飯宮に置き、さらに南を巡行された。この時熊襲が背いた。天皇は使いを笥飯宮に遣わし、皇后に教えて穴門(今の長門)で会おうと伝えたので、皇后は越前角鹿(今の敦賀)より船に乗り、若狭(丹後の誤り)の加佐・与佐の竹野海を経て、多遅麻(但馬)国の三島水門(今の豊岡市瀬戸・気比)に入り、内川(円山川)を遡り、粟鹿大神(粟鹿神社)・夜父大神(養父神社)に詣でられた。ついで出石川を遡り伊豆志大神(出石神社)に詣でられた。皇后は下って小田井大神(小田井神社)に詣で、水門に帰り宿泊された。ある夜、越前気比宮にいます五十狭沙別大神が夢に現れ、「船を以て海を渡るには、すべからず住吉大神を御船に祀るべし」と。皇后は謹んで教えを奉じ、船筒男命・中筒男命・表筒男命(住吉三神)を船魂大神として祀られた。いま住吉大神を神倉山に祀るはこれなり(絹巻神社の前身海神社。以上が但馬五社と同じである)。

また御食を五十狭沙別大神イササワケノオオカミに奉る。故にこの地を気比浦と云う。のち五十狭沙別大神・仲哀天皇・神功皇后をこの地に斎き祀る(式内気比神社)。

皇后の御船が水門を出でんとする時、黄沼前県主、賀都日方武田背命は、その子武身主命を皇后に従わせ嚮導(水先案内人)を為さしむ。故に武身主命を名づけて水先主命と云う。

美伊の伊佐伎御碕(岬)に至り、日が暮れた。五十狭沙別大神は御火を御碕に現した。これによって海面が明るくなった。故に伊佐々の御碕と云う。(式内伊伎佐神社:香美町香住区余部)

御火は御船を導いて二県(ニ方)国も浦曲(湾)に至りて止んだ。故にその地を御火浦と云う。

皇后ついに穴門に達せられた。水先主命は征韓に随身して、帰国ののち海童神を黄沼前山に祀り、海路鎮護の神と為す。(絹巻神社 絹巻は黄沼前(城崎)の転訛)。水先主命は水先宮に坐す(式内深坂神社:豊岡市三坂町)。水先主命の子を以て海部直と為すはこれによるなり。

神功皇后6年秋9月、須賀諸男命の子・須義芳男命を以て出石県主と為す。須義芳男命は皇后に従い、新羅を征ち功有り。ゆえに皇后は特に厚遇を加えられた。

 

2010年2月23日


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