第2章 4.アメノヒボコそっくりな神功皇后の足跡

神功皇后とアメノヒボコは、多くの接点を持っている

たとえば、三品彰英氏は、アメノヒボコと神功皇后(オキナガタラシヒメ)の伝説地を地図上につないで、地理的分布が驚くほどよく似ていると指摘している。似ているのではなく、両者はまるで手を携えて行動をしていたようにピッタリと重なっている

『古事記』に従えば、神功皇后とアメノヒボコの系譜上のつながりは、系図を見れば分かるように、かなりかけ離れていたことになる。にも関わらず、二人がなぜここまで重なってくるというのだろう。偶然にしては、どうにも不可解な謎ではあるまいか。

もうひとつ奇妙なことがある。それは『古事記』にあるアメノヒボコの記事は、第十五代応神天皇の段になって載せられている。これがどうにもよく分からない。

応神天皇は神功皇后の息子であり、その応神天皇の知政を述べるくだりで、「又昔、新羅の国主の子有りき。名は天之日矛と謂ひき」と、アメノヒボコを紹介しているのだ。これはとても不自然だ。また、「昔」とはいつのことなのか、『古事記』の記事を読む限り、はっきりとしないのも問題が残る。

さらに『古事記』は、アメノヒボコが「神話」の時代だったと証言している。それは、アメノヒボコ来日後の次のような話からくみ取ることができる。

アメノヒボコが招来した八つの神宝を、伊豆志の八前の大神と呼び祀った。その伊豆志の八前の大神には娘がいて、その名を伊豆志袁登売神イズシヲトメノカミといった。多くの神々(八十神ヤソガミ)がこの女神と結婚したいと思ったが、皆かなわなかった。いろいろないきさつがあったのち、弟は乙女と結ばれ子供が生まれた。だが兄は、呪いにあって衰弱するのだが、ここでは省略する。

ここで指摘しておきたいのは、この話の出だしが、どこか因幡イナバの白兎(白うさぎ)を連想させることだ。出雲の大国主や多くの神々が、因幡の八上比売ヤガミヒメを娶ろうとしたが、途中で白兎をいじめた兄たちは得ることができず、白兎を助けた大国主が八上比売と結ばれたという、あの有名な白うさぎの話とそっくりだ。舞台の背景となった但馬は、因幡のすぐ隣で山陰道の隣国であり、日本海でつながっている。

なぜ、ヤマト朝廷の実在したとされる初代の王・崇神天皇の出現の直前に、神功皇后の名(『古事記』では息長帯比売命)を無理矢理こじ入れてしまったのだろう。はたして何かしらの意図があったのだとすれば、ここにも何か秘密めいたものを感じてしまう。

『古事記』は、ヒボコの話を神功皇后のあとにもってきて、しかも、ヒボコの話のあとに、時代の順番が逆になっている「神話」を語ったのだろう。それは、『古事記』によれば、仲哀天皇崩御の後、実際に治めた仲哀天皇の妃・神功皇后の母方の祖は、来日した新羅の王子・アメノヒボコの末裔にあたることを強調したかった事情があったのだ。『日本書紀』はこの系譜をまったく無視している。なぜこの系譜を掲げなかったかというと、新羅の王子天日槍(ヒボコ)の突如の登場こそが、ヤマト建国の真相を握っていたからである。

『日本書紀』によれば、ヒボコは崇神(スジン)天皇を慕ってやって来たというが、『国司文書 但馬故事記』(第五巻・出石郡故事記)には、突如「六代孝安天皇53年 新羅王子天日槍命帰化す。…61年天日槍命を以て、(初代)多遅麻国造と為す。」とある。『播磨国風土記』は、「天日槍、韓国(カラノクニ・半島に限らず外国の意味でもある)より渡り来て、…」として、とくに新羅としていない。韓国とは中国の漢では半島南部をいい、または加羅をさすかも知れない。『日本書紀』(713年)は『古事記』(702年)、『風土記』より後だ。すでに新羅は成立しているが、あえて韓国と書いている。もちろん風土記は地方官がその土地の伝承を集めたものであるから、編纂年にあった事柄ではない。韓は弁韓・辰韓でもあり、彼らの祖地・中国の漢にも通じ、またはカラ(伽耶)でもありうる。

私は別記にも書いたが、この韓国や新羅とは伽耶だという説がもっとも強いと思っている。『古事記』は、ヒボコが神話の時代に日本にやってきたと証言している。ここにいう神話時代とは、「ヤマト建国前」ということだろうか。

三品彰英氏はこう指摘している。

アメノヒボコトと神功皇后の活躍したルートはほぼ重なっていて、また、ヒボコが追いかけ回したというヒメコソ(比売語曾)は、「ヒミコ」のことではないかとする説があるが、「ヒミコ」は「日の巫女」(ヒノミコ) なのであって、これは職掌であり、神の神託を下した神功皇后も、まさに「ヒミコ(比売語曾)」とそっくりなのだ。

そうなってくると、アメノヒボコと神功皇后とのコンビこそが、ヤマト建国に大いに関わっていて、この事実を抹殺するために『日本書紀』はいろいろな小細工をくり返したのではないかという疑念につながっていくのである。というのも、「天日槍(天日矛)」を直訳すれば、「太陽神であるとともに金属の神」とうことになる。

アメノヒボコとヒメコソ(ヒミコ=太陽神の巫女)がセットだったのは、アメノヒボコが太陽神だったからである。そして、問題は、ヒボコが金属冶金技術を日本にもたらしたからこそ、「天日槍」という神の名で称えられた、ということであろう。そしてそれがヤマト建国の直前で、しかも『日本書紀』のいうように、アメノヒボコが最終的にとどまった地が但馬の出石であったというところがポイントである。

但馬の知られざる地の利がひとつだけある。それは、船に鉄を積んで若狭のあたりを東に向かい、敦賀に陸揚げしたのち、峠を一つ越えれば琵琶湖に出られることだ。琵琶湖から再び船に乗り換え、大津から宇治川を一気に下れば、ヤマトへの裏道が続いていることである。ひょっとして、アメノヒボコは、鉄欠乏症に悩むヤマトを救済すべく、但馬に拠点を造り、鉄を密かにヤマトの送り込んでいたのではなかったか。

(神功皇后のルートが、「播磨国風土記」でヒボコがさまよったルートと逆にすると似ているし、近江は息長氏の拠点でありヒボコや穴師ゆかりの神社や兵主神社が多い。

出石は古くは「伊都志・伊豆志」と記していた。どうも糸島半島にあったとされる伊都国との関わりがあるのではいかという説もある。

人皇14代仲哀天皇2年、天皇は神功皇后、息長帯姫命と伴に越前笥飯宮(氣比神宮)に行幸され、皇后を笥飯宮に置き、さらに南を巡行された。この時熊襲が背いた。天皇は使いを笥飯宮に遣わし、皇后に教えて穴門(今の長門)で会おうと伝えたので、皇后は越前角鹿(今の敦賀)より船に乗り、若狭(丹後の誤り)の加佐・与佐の竹野海を経て、多遅麻(但馬)国の三島水門(今の豊岡市瀬戸・気比)に入り、内川(円山川)を遡り、粟鹿大神(粟鹿神社)・夜父大神(養父神社)に詣でられた。ついで出石川を遡り伊豆志大神(出石神社)に詣でられた。皇后は下って小田井大神(小田井神社)に詣で、水門に帰り宿泊された。ある夜、越前気比宮にいます五十狭沙別大神が夢に現れ、「船を以て海を渡るには、すべからず住吉大神を御船に祀るべし」と。皇后は謹んで教えを奉じ、船筒男命・中筒男命・表筒男命(住吉三神)を船魂大神として祀られた。いま住吉大神を神倉山に祀るはこれなり(絹巻神社の前身海神社。以上が但馬五社と同じである)。

また御食を五十狭沙別大神イササワケノオオカミに奉る。故にこの地を気比浦と云う。のち五十狭沙別大神・仲哀天皇・神功皇后をこの地に斎き祀る(式内気比神社)。

皇后の御船が水門を出でんとする時、黄沼前県主、賀都日方武田背命は、その子武身主命を皇后に従わせ嚮導(水先案内人)を為さしむ。故に武身主命を名づけて水先主命と云う。

美伊の伊佐伎御碕(岬)に至り、日が暮れた。五十狭沙別大神は御火を御碕に現した。これによって海面が明るくなった。故に伊佐々の御碕と云う。(式内伊伎佐神社:香美町香住区余部)

御火は御船を導いて二県(ニ方)国も浦曲(湾)に至りて止んだ。故にその地を御火浦と云う。

皇后ついに穴門に達せられた。水先主命は征韓に随身して、帰国ののち海童神を黄沼前山に祀り、海路鎮護の神と為す。(絹巻神社 絹巻は黄沼前(城崎)の転訛)。水先主命は水先宮に坐す(式内深坂神社:豊岡市三坂町)。水先主命の子を以て海部直と為すはこれによるなり。

神功皇后6年秋9月、須賀諸男命の子・須義芳男命を以て出石県主と為す。須義芳男命は皇后に従い、新羅を征ち功有り。ゆえに皇后は特に厚遇を加えられた。

 

2010年2月23日


[catlist id=450]

コメントする

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください