【もう一つの日本】物部氏1/4 もう一つの天孫降臨

饒速日命(ニギハヤヒノミコト)

ニギハヤヒは、それぞれの駐留地点を中心に、水稲の栽培を始め、麦・黍・栗などの栽培を拡めたといいます。

とするとよく似た話が徐福伝説です。つまり秦の始皇帝の圧政に耐えかね、日本列島に活路を求めた人々こそが縄文人と融合して弥生人となった渡来人ではないかというのです。

さて、オオナムチ(大己貴命)は、オオクニヌシ(大国主)という別名があります。一般的には、こちらの方がよく知られているのですが、但馬郷土史研究の基礎『校補但馬考』の著者であり、日本の天気予報の創始者でも知られる桜井勉氏が偽書としている『但馬故事記』には、「彦坐王」(ヒコイマスオウ)が、「丹波」・「但馬」の二国を賜り「大国主」の称号を得たとの記述があります。従って、オオクニヌシとは、今で言えば県知事のような職制上の称号であったのでしょう。オオナムチはスサノオから、オオクニヌシの称号をもって、「出雲」の自治権を許されたということです。同様に他の地方には、その地方のオオクニヌシ(国造のようなもの)がいたのであり、『記紀』に記される、オオクニヌシの別名が、異常に多いのもこれで説明がつきます。

『記紀』では、スクナヒコナ(少彦名)は、タカミムスビ(高御産巣日神・高皇産霊尊)の子であると言いますが、タカミムスビの別名に「高木の神」があります。

『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけました。

『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)といい、アメノオシホミミ[*2]の子でニニギの兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。

『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照の系)とし両者を別とする。

『播磨国風土記』では、国作大己貴命(くにつくりおほなむち)・伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神=大汝命(大国主命(オオクニヌシノミコト))の子とする。

ニギハヤヒ(饒速日命・邇藝速日命)[*3]は、日本の祖であり、神武はその養子だといいます。この事実を抹殺し、出雲王朝とヤマト王朝の関係を抹殺するために、『日本書紀』は、イザナギとイザナミによって創造されたのであるとしています。その証拠に、「石上神宮」(いそのかみじんぐう)と「大神神社」の古文書と十六家の系図を没収し、抹殺したという資料をつかんだとも述べています。それは、691年のことであるらしいのです。

ニギハヤヒも、父・スサノオ同様、さまざまな別名を与えられています。
フルネームは、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」ですが、「天照国照彦命(あまてるくにてるひこのみこと)」・「天火明命(ほあかりのみこと)」・「彦火明命(ほあかりのみこと)」は、フルネームの一部であり、ニギハヤヒ(饒速日命・邇藝速日命)のことです。

別名としては、
・櫛玉命(くしたまのみこと)
・「大物主大神」
・「布留御魂大神」(ふるのみたまおおかみ)
・「日本大国魂大神」(やまとおおくにたまおおかみ)
・「別雷命」(わけいかずつのみこと)→上賀茂神社
・「大歳御祖大神」(おおとしみおやおおかみ)
などです。

古代、朝鮮半島の人々は、天上界の神々は、山岳にそびえ立つ高木から降臨すると信じていました。「高木の神」とは、きわめて朝鮮的な神です。スクナヒコナとタカミムスビの関係は、どうでしょうか。
『富士宮下文書』は、スクナヒコナは、タカミムスビの曽孫(ただし養子である)であるとし、
「祖佐之男命(スサノオノミコト)、朝鮮新羅国王の四男・太加王」
と具体的に記しています。

この「太加王」(たかおう)説の真偽のほどは、諸説あり定かではありませんが、スクナヒコナとタカミムスビとの関係の深さはわかります。タカミムスビは、実在した人物ではなく、観念的な神でしょうが、スクナヒコナに代表される「昔(ソク)」族とスサノオの親密ぶりを、伺い知ることができます。

スサノオが、「出雲」に侵攻して以来、「統一奴国」の本拠地は「出雲」であったはずです。従って、「統一奴国」の国土経営は、「出雲」に政庁をおいて繰り広げられていました。「出雲」のオオクニヌシであったオオナムチは、「統一奴国」の総理大臣的な存在であったのでしょう。その上に君臨していた人物、「牛頭天王」ことスサノオであり、文字通り、天皇です。

しかし、スポンサーであったスクナヒコナの死により、この法則は崩れ始めました。朝鮮半島での基盤を失ったのです。さらに、オオナムチに、追い打ちをかける衝撃の事件が起こりました。スサノオの死です。
『記紀』には、去っていったスクナヒコナのことを、オオナムチが嘆いていると、海を照らして神がやって来たと記しています。この神は、「大和」の三諸山に住みたいと言い、三輪山の神だといいますが、この物語こそ、スサノオ尊の死を暗示していると思われます。

『日本書紀』は、この神は次のように述べたとしています。
「もし私がいなかったら、お前はどうしてこの国を治めることができたろうか。私があるからこそ、お前は大きな国を造る手柄を立てることができたのだ。」
これはスサノオが死に際して、オオナムチに述べた最後の言葉です。そして、スサノオは、自らを三諸山に祀るように、オオナムチに依頼したのでしょう。もちろん、「大和」の三諸山ではなく、オオナムチが国土経営を成功させたのは、「出雲」です。そこに、おおよそ関係がないと思われる、三輪山の神が、どうして入り込んでくるのでしょうか。つじつまを合わせるために他ならないのです。
確かに、「ヤマト」は勢力範囲であったかもしれませんが、出雲の神を三輪山の神に比定するにはかなり無理があります。

三諸山は三諸山でも、「出雲」の三室山すなわち、八雲山ではないでしょうか。そこは、スサノオが住居を定めていた場所であり、出雲発祥の地であるからです。

もう一つの天孫降臨

古代氏族のルーツを探る場合、伝承で探るしか手段がありません。さいわい、物部氏は家記といわれる 『先代旧事本紀』というのが後世に出ています。この書の真偽性を疑う学者もいますが、これと各地に残っている伝承をあわせて探っていくと、物部氏が最初は九州にいたことが判明してくるといいます。
一番大切なのは、物部氏が神武より先に大和に来ていることです。

九州北部遠賀川(おんががわ)流域に比定されている不弥国にいた物部氏の一部が、同じ九州北部の隣国「奴国」との軋轢の中、より広い耕地を求めての旅立ちの言い伝えとされています。

物部氏に伝わる氏族伝承を中心とした『先代旧事本紀』によれば、アマテラス(天照大神)から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って、河内国の河上の地に天降りたとあります。おそらく石切劔箭(いしきりつるぎや)神社(東大阪市)のあたり、生駒山の西側にある「日下(クサカ)」の地でなないか、他にも天磐船の伝説が残る河南町や交野市の磐船(イワフネ)神社があります。どちらにしろ生駒山系です。なお、天磐船といっても飛行物体ではなく、これは本来「海船(あまぶね)」を意味します。
古代氏族の一つとして、また蘇我氏との神仏戦争でよく知られる物部氏は、皇祖神を除いて、天孫降臨と国見の逸話をもつ唯一の氏族です。

これらは、アマテラス(天照大神)の命により、葦原中国を統治するため高天原から日向国の高千穂峰に降りたニニギ(瓊瓊杵尊や瓊々杵尊)の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられます。
したがって、ニギハヤヒは、神武東征(じんむとうせい)に先立ち、河内国の河上の地に天降りているのです。

ニギハヤヒが、32の神と25の物部氏の一族を連れて大空を駆けめぐり、河内国の哮ケ峰(タケルガミネ)に天降った、とされています。
この哮ケ峰は、どこなのか定かではありません。

また、『先代旧事本紀』は、饒速日尊を、登美の白庭の邑(とみのしらにわのむら)に埋葬したといいます。
この登美の白庭の邑も、いったいどこなのでしょう。
ところが、日本神話において、天照大神の孫のニニギが葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。 とされながら、高天原神話にはこの、大和への天孫降臨神話が見当たりません。

黒岩重吾氏は、邪馬台国は、九州からヤマトに東遷したと考えています。それは、弥生時代の近畿地方には鏡と剣と玉を祀る風習はなかったのに、九州にはそれがあった点です。鏡を副葬品として使う氏族は畿内にはなく、九州独特のものです。この説でいうと邪馬台国は最初九州北部にあり、大和に移動したのかも知れません。邪馬台(ヤマト)は大和(ヤマト)と同じです。第一次が九州北部、第二次が大和とすると、邪馬台国どちらにあったかという論議は、解決できてしまいます。

関裕二氏は、纏向遺跡に集まった人々の中で、ヤマト建国の中心に立っていたと考えられているのは吉備である。それはなぜかといえば、記に唐ヤマトにもたらされた特殊器台形土器や特殊壺形土器が、宗教儀礼に用いる特殊な土器だからだ。政治を「マツリゴト」といっていた時代、吉備の果たした役割は、軽視できない。前方後円墳の原型が、弥生後期の吉備にすでに出来上がっていたこともわっかってきている。それが楯築弥生墳丘墓(岡山市)で、円墳の左右に突出部が二つくっつくという奇妙な形をしている。

一方、物部氏といえば物部守屋を思い浮かべるが、守屋が滅びたのは、現在の大阪府八尾市の周辺だ。物部氏はこの一帯を地盤にしていたが、八尾市からは、三世紀の特殊器台形土器や吉備系の祖飢餓出土している。記にからヤマトに続く通り道である河内は、必ず押さえておかなければならない要衝である。物部氏は吉備系ではないだろうか。

ヤマト朝廷が発足後間もなく出雲潰しに向かったのは、瀬戸内海と日本海の流通ルートの対立と捉えれば、その意味がはっきりとしてくる。としている。
2009/08/28

【出雲神政国家連合】 古代出雲6/6 西谷古墳群

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3号墳

四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)は、弥生時代中期から吉備・山陰・北陸の各地方で行われた墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態です。四隅突出型弥生憤丘墓とも呼称します。


出雲市の南東にある西谷墳墓群は山陰地域独特の形をした四隅突出型墳丘墓が集中しています。発掘調査の行われた3号墓では墓の上で祭祀が行われた様子がわかっており、出土品からは葬られた王が吉備や北陸地方とも交流をもっていたと考えられています。ここからは斐伊川や出雲平野を一望することができます。

また、神戸川の東には日本最大級の家形石棺を持つ今市大念寺古墳、精美な石室を持つことで知られる上塩冶築山古墳など、この地に君臨した王を葬った古墳を見ることができます。
山陰~北陸にわたる日本海沿岸の文化交流圏ないしはヤマト王権以前に成立していた王権を想定する論者もいます。また、島根県安来市(旧出雲国)に古墳時代前期に全国的にも抜きん出た大型方墳(荒島墳墓群の大成、造山古墳)が造営されていますが、四隅突出型墳丘墓の延長線上に築かれたものと考える人もあり、出雲国造家とのつながりを指摘されています。

2009/02/15

【出雲神政国家連合】 古代出雲5/6 日本神話のスサノオ

◇神話の比較

江戸時代までは官選の正史として記述された『日本書紀』の方が重要視され、『古事記』はあまり重視されていなかった。江戸中期以降、本居宣長の『古事記伝』など国学の発展によって、『日本書紀』よりも古く、かつ漢文だけでなく日本の言葉も混ぜて書かれた『古事記』の方が重視されるようになり、現在に至っています。
今日では、意図的な改変や創作がかなり加えられてはいるものの、そのようなものの見方をする古代の人たちがいたことに注目する文化的背景を考察する考え方が主流となっています。

『古事記』と『日本書紀』を併せて『記紀』といいますが、『日本書紀』のある天地開闢(てんちかいびゃく)は渾沌が陰陽に分離して天地と成ったという世界認識が語られ物語ははじまりますが、天皇の史書『古事記』の「天地初発之時」(あめつちのはじめのとき)という冒頭は天と地となって動き始めたときであり、天地がいかに創造されたかを語っていません。『古事記』は、「高天原」「国産み」「神生み」からはじまります。

『古事記』は、開闢神話から高天原神話、そして有名な出雲神話の「イザナギとイザナミ」「スサノオ」「ヤマタノオロチ」やオオクニヌシノカミ(大国主神)の「因幡の白うさぎ」「国造り」「国譲り」など、そして日向神話の「天孫降臨」し、神武が大和に東征するが多く占めています。

また、記紀神話で描かれる出雲神話の「ヤマタノオロチ退治」「国譲り」は、『出雲国風土記』には記載されず、逆に「国引き神話」は、『出雲国風土記』だけに記された神話なのです。

「風土記」は「記紀神話」とは異なり、その土地ならではの神話・伝承を伝えています。 『播磨風土記』はアメノヒボコト伊和大神の話し、『出雲国風土記』は、唯一ほぼ写本で残り、総記、意宇・島根・秋鹿・楯縫・出雲・神門・飯石・仁多・大原の各郡の条、巻末条から成る。各郡の条には現存する他の風土記にはない神社リストがある。神祇官に登録されている神社とされていないものに分けられ、社格順に並べられていると推察される(島根郡を除く)。大和の史官たちの手の入らない古代出雲人が伝承してきた純粋なものとして、出雲地方の言い伝えを正確に残しています。

記紀での日本神話には、イザナギとイザナミが国つくり・神つくりをして、アマテラスとスサノオの天岩戸やヤマタノオロチなど出雲神話に続きます。それから、スサノオの子孫である大国主はスサノオの娘と結婚し、スクナビコナと葦原中国の国づくりを始めました。出雲神話とはいうものの、これらの説話は『出雲国風土記』には収録されていませんが、神々の名は共通するものが登場するのです。

大国主の子である事代主・タケミナカタが天津神に降ると、大国主も大国主のための宮殿建設と引き換えに、天津神に国を譲ることを約束します(葦原中津国平定・国譲り)。この宮殿は後の出雲大社です。

そして出雲の話から、アマテラスと高木神は、アマテラスの子であるアメノオシホミミに、「葦原中国平定が終わったので、以前に委任した通りに、天降って葦原中国を治めなさい」としてアメノオシホミミは、「天降りの準備をしている間に、子のニニギが生まれたので、この子を降すべきでしょう」とと答え、ニニギに葦原中国の統治を委任し、天降りを命じます。が筑紫の日向(ヒムカ)の高千穂に天孫降臨し、神武東征へと移ります。

■日本神話のスサノオ

スサノオ(スサノヲ、スサノオノミコト)は、日本神話に登場する一柱(はしら)の神です。
『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記されています。

伊邪那美命(いざなみのみこと)━━━┳━━━伊邪那岐命(いざなきのみこと)
伊弉諾神宮(兵庫県淡路市)    ┃     多賀神社/白山比咩神社

[三貴神]  ┏━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┓
須佐之男命      月読命       天照大御神
(すさのおのみこと)   (つくよみのみこと)  (あまてらすおおみかみ)
海を支配         月の神、夜を支配    日の神、高天原を支配
●須佐神社/八重垣神社        ●伊勢神宮(皇大神宮)
氷川神社/八坂神社/日御碕神社など
■スサノオ系図

『古事記』青は男神、赤は女神

『古事記』では三貴子の末子に当たります。また、日本においてはインドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)と素戔嗚尊(以下スサノオ)と習合し同一視されることもあります。しかしながら、スサノオの与えられた役割は、太陽を神格化した天照大神(あまてらすおおみかみ)、月を神格化した月夜見尊(つくよみのにこと)とは少々異なっており、議論の的となっています。

『古事記』によれば、神産みにおいてイザナギが黄泉の国(よみのくに)から帰還し、日向橘小門阿波岐原(ひむかのたちばなのをどのあはきはら)で禊(みそぎ)を行った際、鼻を濯いだ時に産まれたとする。『日本書紀』ではイザナギとイザナミの間に産まれたとしている。

天照大神は高天原を、月夜見尊は滄海原(あおのうなばら)または夜を、スサノオには夜の食国(よるのおすくに)または海原を治めるように言われたとあり、それぞれ異なる。『古事記』によれば、スサノオはそれを断り、母神イザナミのいる根の国に行きたいと願い、イザナギの怒りを買って追放されてしまう。そこでスサノオは根の国へ向う前に姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、天照大神はスサノオが高天原に攻め入って来たのではと考えて武装してスサノオに応対し、スサノオは疑いを解くために誓約を行う。誓約によって潔白であることが証明されたとしてスサノオは高天原に滞在するが、そこで粗暴な行為をしたので、天照大神は天の岩屋に隠れてしまった。そのため、スサノオは高天原を追放されて葦原中国へ降った。

スサノオの神社

雲国一の宮熊野大社(くまのたいしゃ)
島根県松江市八雲町熊野2451
式内社 出雲國意宇郡 熊野坐神社(名神大)
旧國幣大社
出雲國一宮
祭神 神祖熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみ くしみけぬのみこと)と尊称し奉る
素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭祀奉る

熊野大神櫛御気野命の御神名は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別神名である。
古来出雲国一の宮として知られる熊野大社は松江市の中心から南に約15㎞、車で約30分の山間の地に鎮座している。神社の前には清らかな意宇川が流れ、お参りにはそこに架けられた朱塗りの八雲橋をわたり手水舎で心身を清め石段を上る。やがてそこに境内の全景が見えてくる。 当社は神祖熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけぬのみこと)を主祭神として境内中央正面の御本殿にお祀りしており、この御神名は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別神名である。 ほか、境内には右手に御后神の稲田姫をお祀りしている稲田神社、左手に御母神の伊邪那美命をお祀りしている伊邪那美神社、また荒神社や稲荷神社がある。ほかに、随神門、鑽火殿、舞殿、環翠亭(休憩所)などさまざまな建物がある。 特に鑽火殿は当社独特の社殿であり、萱葺きの屋根に四方の壁は檜の皮で覆われ、竹でできた縁がめぐらされており発火の神器である燧臼(ひきりうす)、燧杵(ひきりきね)が奉安されている。毎年の鑽火祭(さんかさい)や出雲大社宮司(出雲國造)の襲職時の火継式斎行の大切な祭場になる社殿である。 「今中」の今に至るまでに熊野大神のミハタラキによって人の世の豊楽幸栄のムスヒを蒙っている。

雲国二の宮佐太神社(さたじんじゃ)

島根県松江市鹿島町佐陀宮内73
式内社 出雲國秋鹿郡 佐陁神社
旧國幣小社

祭神 正殿:佐太大神(さだのおおかみ)、伊弉諸尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまおのみこと)、事解男命(ことさかおのみこと)
北殿:天照大神(あまてらすおおかみ)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)
南殿:素盞鳴尊(すさのおのみこと) 秘説四柱の神

佐太神社は松江市の北、鹿島町佐陀宮内に鎮座する出雲二宮である。出雲国風土記に佐太大神社、あるいは佐太御子社ともあり、大社造りの本殿が三殿並立する。 このような社殿構えが成立したのは中世の末ごろであったようである。現在の御社殿は文化年間の造営であるが、その様式は元亀(げんき)年間に造営されたものを踏襲してきたもののようである。現在は国・県の指定する文化財も多数有している。 三殿に十二柱を祀るが、主神佐太大神(さだのおおかみ)=猿田毘古(さるたひこ)大神は日本海に面した加賀の潜戸(かかのくけど)で御誕生され、導きの神、道開の神、交通・海上安全、長寿の神として信仰れている。 祭りの主なものは、5月3日の猿田三番ノ舞(さださんばんのまい)が獅子舞をおこなう直会(なおらい)祭。 9月24日の御座替(ござかえ)祭、25日の例祭には、国の重要無形文化財に指定されている佐陀神能(さだしんのう)を演舞する。11月20日から25日まで八百万神が集う神在祭がある。この祭には神々の参集の先触として龍蛇(りゅうじゃ)が現れるということがある。これは火難、水難をはじめ一切の災厄を除き、豊作、商売、魚漁を守護する霊物として信仰されている。

素鵞社(すがしゃ)

出雲大社式内社
大国主の父(または祖先)の素戔鳴尊を祀る。 大国主大神を祀る出雲大社本殿の正奥に座する荒垣内摂社

須佐神社(すさじんじゃ)

通称 須佐大宮

島根県出雲市佐田町須佐730
式内社 出雲國飯石郡 湏佐神社
旧國幣小社
御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)稲田比売命(いなたひめのみこと)、足摩槌命(あしなづちのみこと)、手摩槌命(てなづちのみこと)
須佐之男命が諸国を開拓し須佐の地にこられ、最後の国土経営をされ、「この国は小さいけれどよい国なり、我名を岩木にはつけず土地につける」と仰せられ大須佐田、小須佐田、を定められたので須佐と言う、と古書に見えています。 須佐之男命の御終焉の地として御魂鎮の霊地。

須我神社

(すがじんじゃ) 通称 日本初宮(にほんはつのみや)
島根県雲南市大東町須賀260
御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)
簸の川上に於いて八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した須佐之男命(すさのおのみこと)は、稲田姫と共にこの須賀の地に至り、美しい雲の立ち昇るのを見て、「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる この八重垣を」と歌い、日本で始めての宮殿を作り、鎮った。
天照大神の弟神。簸の川上にて八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、 須賀の地に至り、宮造をした勇猛な神。

日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)

島根県出雲市大社町日御碕455
式内社 出雲國出雲郡 御碕神社
旧國幣小社
御祭神 日沈宮(ひしずみのみや) 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
神の宮(かみのみや)   素盞嗚尊(すさのおのみこと)
出雲の国造りをなされた素盞嗚尊は、根の国にわたり熊成の峰に登ると、「吾の神魂はこの柏葉の止る所に住まん」と仰せられ、柏の葉を投げ、占いをされた。すると柏の葉は風に舞い、やがて日御碕の現社地背後の「隠ヶ丘」に止った。これにより素盞嗚尊の五世の孫、天葺根命(あめのふきねのみこと)はここを素盞嗚尊の神魂の鎮まる処として斎き祀ったといわれています。日御碕神社の神紋、三ツ柏もこれに由来し、神域の付近からは柏の葉を印した「神紋石(ごもんせき)」と称される化石も出土しています。

八重垣神社(やえがきじんじゃ)

島根県松江市佐草町227
式内社 出雲國意宇郡 佐久佐神社
旧県杜
祭神 素盞嗚尊(すさのをのみこと)・稲田姫命(いなたひめのみこと)
八岐大蛇退治で名高い素盞嗚尊と、国の乙女の花と歌われた稲田姫命の御夫婦が主祭神である。
当地は素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した時、稲田姫命を佐久佐女の森(現境内、奥の院、鏡の池がある森。小泉八雲は神秘の森と称している)の大杉を中心に八重垣を造って稲田姫命を隠された避難地の中心とも言われている。 八岐大蛇を退治された後、須賀の里よりさらに稲田姫命の避難地であった当地にも宮造りされ、「八雲立つ 出雲八重垣 妻込みに 八重垣造る その八重垣を」との御歌の八重垣をとって八重垣の宮とされ、此処で御夫婦生活を始められた所であり、我が国の縁結びの大祖神、家庭和楽、子孫繁栄の大神、和歌の祖神とし、また一面災難除け、国家鎮護の守護神として、第六十四代円融天皇の御代には全国に三十の社を選定され三十番神と称して崇敬された。 御神階も四回昇叙の社は出雲では当社を含め三社しかなく、他に類例のない格別の社で、白河天皇承暦四年六月社司に中祓の儀を命ぜられるなど、朝廷の御祟敬社で、爾来出雲国司代々神領を寄進され、社頭の宏大、結構、近郷に比類なしと当時の古書「懐橘談」にも記されている。

美保神社(みほ じ ん じ ゃ)

島根県松江市美保関町美保関608
式内社 出雲國嶋根郡 美保神社
旧國幣中社
御祭神 三穂津姫命(みほつひめのみこと)
高天原の高皇産霊神の御姫神、大國主神の御后神
事代主神(ことしろぬしのかみ)
須佐之男命の御子孫、大國主神の第一の御子神

三穂津姫命(みほつひめのみこと)は大國主神の御后(おきさき)神で、高天原から稲穂を持ち降り耕作を導き給うた農業及び子孫繁栄の守り神。事代主神(ことしろぬしのかみ)は大國主神の第一の御子神(みこがみ)で、「ゑびすさま」すなわち漁業・商業を始め広く生業の守護神として敬仰され、美保神社も全国各地にあるゑびす社3385社の総本社として、ことに水産・海運に携わる人々から広く敬い親しまれてきた。

古来、「ゑびすさまは鳴り物がお好き」との信仰があり、海上安全をはじめ諸処の祈願とともに、夥(おびただ)しい数の楽器が奉納され、その内846点が現在、国の重要有形民俗文化財に指定され、日本最古のアコーディオンや初代萩江露友(おぎえろゆう)が所有していた三味線など、名器、珍品もその中に含まれている。
当社の本殿は「美保造(みほづくり)」と称し、大社造(たいしゃづくり)の本殿を左右二棟並立させ、その間を装束の間でつなぎ、木階を覆う向拝(こうはい)を片流れに二棟通しでつけるという特殊な様式として、また屋根についても桧皮葺(ひはだぶき)の共皮蛇腹(ともがわじゃばら)で国の重要文化財に指定されている。

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【出雲神政国家連合】 古代出雲3/4 出雲神話 「国引き神話」

出雲の「国引き神話」

その昔スサノオノミコト(素戔鳴尊)は、出雲の国を経営なされ、子孫も次第に増え、その御一門は非常に盛んになりました。ここに素戔鳴尊の四代の孫で八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)と呼ばれる神様は、国土の経営に就いてご苦労を積まれたのであります。

ずっと大昔のこと、このあたりに八束水臣津野命(ヤツカミズオミヅノミコト)というとても力の強い男の神様がおられました。出雲の神様、ヤツカミヅオミヅヌノミコトは「この国は幅の狭い若い国だ。 初めに小さくつくりすぎた。 縫い合わせてもう少し大きな国にしよう」と言いました。

そこで、「朝鮮半島の新羅の岬を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。 その土地が小津(こづ)の切れ目からの支豆支の御埼(きづきのみさき)で、引いてきた綱が薗の長浜、そして綱の杭にしたのが三瓶山です。

次に、「北方の佐伎の国(さきのくに)を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。 その土地が多久川の切れ目からの狭田の国(さだのくに)です。

その次に、「北方の良波の国(よなみのくに)を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。その土地が宇波(うなみ)の切れ目からの闇見の国(くらみのくに)です。

最後に、「北陸の都都(つつ)の岬を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。 その土地が三穂の埼(みほのさき)で、引いてきた綱が弓ヶ浜半島、そして綱の杭にしたのが大山です。

こうして4度の国引きで大事業を終えたヤツカミヅオミヅヌノミコトは、意宇(おう)の杜に杖を突き、「おゑ」と言いました。そのときからこの地を「意宇(おう)」と呼ぶようになりました。

オオクニヌシノカミは、にぎやかになった出雲で、高天原(たかまがはら)から降りて来たスクナヒコナノミコトとともに、国づくりに励みました。 山に植林したり、堤防をつくったり、橋を架けたりと、人々が住みやすい国にしていったのです。 また、馬や牛も増え、アワもよく実るようになり、出雲は豊かな国へと発展していきました。

オオクニヌシノカミ(大国主命)は、 ヤカミヒメ(八上姫)やスセリヒメ(須勢理毘売命)だけでなく、何人ものヒメとも結婚し、たくさんの子どもたちをもうけました。

オオクニヌシノカミは、にぎやかになった出雲で、高天原(たかまがはら)から降りて来たスクナヒコナノミコトとともに、国づくりに励みました。 山に植林したり、堤防をつくったり、橋を架けたりと、人々が住みやすい国にしていったのです。 また、馬や牛も増え、アワもよく実るようになり、出雲は豊かな国へと発展していきました。

その昔、素戔鳴尊(すさのおのみこと)は、出雲の国を経営なされ、子孫も次第に増え、その御一門は非常に盛んになりました。ここに素戔鳴尊の四代の孫で八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)と呼ばれる神様は、国土の経営に就いてご苦労を積まれたのであります。

はじめ伊邪那伎(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の神様が、御苦心の末にお産みになった日本の国は、いまだ幼く国が小さいばかりか、足りないところもありましたが、その子孫の神々はよく二柱の神様の御志を継がれて、たえず国土の修理を心がけられ、足らぬところを補われ、損じたところをつくろわれて、次第に立派な国となったのであります。

ところが素戔鳴尊の経営なされた出雲の国はまだ小さい国であるばかりか、帯のようにその幅が狭いので、ある時八束水臣津野命がとくとこれをご覧になって、「どうにもこれではあまりにも狭い、こんなに狭くては思うように大きな事業が出来ない。他の国に余ったところがあれば縫い足すようにしていかなくては」とお考えになりました。

さっそく海岸に出て一段高い山の上によじ登って立ち、小手をかざしながら「さてどこかに国の余りがありそうなものじゃ」と、はるか彼方に雲か山かと見えるのは新羅のみ崎でありました。

命(みこと)は、こおどりして喜ばれ、「あれは確かに新羅のみ崎じゃ、あれをこの国に縫い足せば、いくらか広くなって人々もさぞ喜ぶだろう。よしよし、すぐに取りかかろう」と、にわかに人々を駆り集められました。

そして大きな広い鋤(すき)で、新羅の余りの御崎をザクリザクリと鋤取られ、大縄をこれに打ちかけて、そろりそろりと引き寄せながら、命は「国来い国来い、こちらへ来い」と音頭取りをしながら、だんだんと綱をたぐりよせられました。こうして首尾よく縫い合わされたのが、取りも直さず杵築のみ崎であります。

こうして新羅のみ崎は杵築のみ崎となりましたが、この時綱をつなぎ止めるために立てた杙(くい)は出雲と石見とのさかいにある佐比賣山(さひめやま)(三瓶山:さんべさん)となり、またたぐり寄せた綱は園の長濱という砂浜となって、今も大社の稲佐の小浜から石見までの東西に延びた海辺となって続いています。

さて、これで出雲の国もだいぶ大きくなったのですが、それでもまだまだ国を引き寄せなくてはならないようです。

そこで命は再び海岸の山の上に登られて北の方をご覧になりました。すると、はるか海の彼方にかなり広い陸地が見えるので、命はたいそうお喜びになり、「オオ、あそこにも国の余りがあるようだ。あの辺りの土地を少し切り取って縫い付けるとしよう」と仰って、大きい鋤でザクリザクリと鋤きとられ、そこに大縄を打ちかけて再び「国来い、国来い、こちらへ来い」と音頭を取りながら、その大縄をそろりそろりとたぐり寄せました。すると、そこが狭田(さた)の国(島根半島中央部)になりました

命は再び北の方をご覧になると、「あそこにも国の余りがあるではないか。よし、今度はあの国を引き寄せてやろう」と大縄を打ちかけて、またまた「国よ来い、国よ来い」と大縄をたぐり寄せ始めました。すると、そこが闇見(くらみ)の国になりました。
こうして出雲の国もほぼ完成に近付きました。そして、命は最後に東の方をご覧になると、高志(こし)の都々(つつ)のみ崎(能登半島辺り)の方に余っている土地を見つけられました。そこでまた同様にして大縄を打ちかけて「国よ来い、国よ来い」とたぐり寄せられました。こうして首尾よく縫い合わされたのが、三穂の崎(美保関)であります。

そして、このときに打ちかけた大縄は夜見(よみ)の島(弓ケ浜)となり、大縄をつなぎ止めた機は伯耆の国の火神岳(ひのかみだけ、伯耆大山)となったのであります。
広大な出雲の国をお造りになられた命は、これでやっとお仕事を済まされて、ホッと一息つかれました。しかしながら、さすがに怪力の命も何せ四度にわたる国引きでありましたので、だいぶお疲れのご様子でした。

そして、「ヤレヤレ、まず安心した。国引きも思うようにできたし、出雲の国も充分広くなった。これなら大きな事業もできるであろう。何とはなしに心がのびのびして愉快じゃ。今、国引きが終わったぞ」と仰せになり、とある森の木陰に神の御杖を突き立てて「オウ」と声高らかにお喜びになったのでありました。

そこで、後にこの地を意宇(おう)と呼ぶこととなりました。それで昔からこのあたり一帯を意宇(オウのちにはイウ)郡と呼び、出雲の国では一番大きい郡でした。明治の中頃新しい郡制になった時、この意宇郡は近くの島根、秋鹿の2郡と合併したが、その新しい郡は八束水臣津野命の名を忘れぬため八束郡と名付けられました。現在の島根県松江市南郊で、かつて国府の所在した大庭(おおば)の地がこれで、意宇の杜があります。

神々のふるさとであります出雲の国は、このように八東水臣津野命の「国引き」という大きなご功績によって、その基盤が築かれたのでありました。この後は、いよいよ大国主大神(だいこくさま)によって、より一層すばらしい国に造られていくのです。

2009/09/06

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【出雲神政国家連合】 古代出雲2/4 スサノオは「砂鉄」を採る男だった

スサノオは「砂鉄」を採る男だった

また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(カヤ((任那(みまな))とも関係が深いという指摘もあります。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られています。それは早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことは決してはずせない史実が伺えます。

ここでは先史のことなので史実は残されていませんが、神政国家連合体「出雲王国」について、考えてみたいと思います。

黒岩重吾氏は、出雲の東西の争いが『日本書紀』崇神紀にある、出雲振根と飯入根の兄弟の争う話に結晶したと述べています。

荒神谷遺跡から出土した銅鉾は、九州佐賀のケンミ谷遺跡から出ている銅鉾と同じものです。したがって、西部の王は九州北部と交流があったと考えていいとしています。要するに、西の荒神谷周辺の王「振根」と、東の安来の王「飯入根、甘美韓日狭」との闘争です。出雲振根はスサノオの原型で、近畿や吉備勢力に味方して、東の意宇(おう)から出雲を統一したと思われる甘美韓日狭(うましからひさ)らがオオクニヌシであると考えてもそんなに不自然ではないといいます。

弥生後期、吉備と近畿地方とは密接な関係にありましたが、出雲進出は吉備独自の判断だったのかも知れません。吉備津彦は吉備国の王で、ヤマトと同名を結んでいたとは思われますが、『日本書紀』のように、吉備津彦が崇神の命を受けて出雲を討ったとなると、“初めにヤマトありき”となってしまいます。崇神の命で出雲に向かったというのは創作でしょう。

さて、黒岩重吾氏は、問題なのは、出雲を支配していた振根=スサノオ、甘美韓日狭=大国主の王一族の出自としています。

ヒトデのような特異な形の四隅突出型方墳は出雲独特で、倭人が手がけたとはどうにも思えない、高句麗の将軍塚古墳、新羅の土廣墓にも四隅が突出した墳墓がありますが、弥生前期に高句麗から出雲へ渡ってきた一族かも知れない。

スサノオ神話でも、斐伊川上流へ新羅から天降ったという点です。振根、飯入根らの出雲一族も、渡来系が渡来系と婚姻関係を結んだ一族の可能性がある。わざわざスサノオを新羅から天降ったとしない、といいます。

もちろん、秦から徐福が渡来してきたのと同様に、スサノオが一人で渡来したわけではなく、一族(スサノオ族とする)による集団渡来であったはずである。渡来した原因は、日本海側の鉄資源を求めての渡来であったのかも知れないが、朝鮮半島を南下してくる高句麗族に、抵抗しきれなくなったのが最大の原因だと考えられる。
東シナ海を船に乗って、たどり着く地と言えば海流に乗って、済州(チェジュ)島・壱岐・対馬を経て、まず九州北部のどこかへ落ち着いたとするのが自然でしょう。

『魏志東夷伝』をみると、紀元前2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部は、三韓といわれる「馬韓」・「弁韓」・「辰韓」に分かれており、その弁韓は12国に分かれており、後に伽耶(任那)となる南朝鮮では鉄の一大産地であり、「倭」や「楽浪郡」などもこの地で鉄を求めていたようです。スサノオ一族は、南朝鮮にいて製鉄に従事していた一族であり、支配階級であったのでしょう。

関裕二氏『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』では、
八世紀に成立した朝廷の正史『日本書紀』によれば、スサノオははじめ天皇家の祖神・アマテラス(天照大神)同様、高天原に住んでいたが、いち早く日本列島に舞い降りていたという。つまり、天皇家のみならず、出雲神・スサノオにも降臨神話があったわけだが、問題は、『日本書紀』には「一書~」という形で遺伝が残されていて、そこには、次のような不思議な話が記されていることだ。すなわち、スサノオは日本に舞い降りる以前、朝鮮半島の新羅に降臨していて、そのあとに新本にやってきた、というのである。

『日本書紀』神代第八段一書第四によると、高天原で乱暴狼藉を働いたスサノオは、追放され、子どものイタケル(五十猛神)を率いて、新羅国のソシモリ(曾戸茂梨)に舞い降りたという。

ところがスサノオは何を思ったか、「この地にはいたくない」といいだし、埴土(はにつち・赤土)で船を造って東に向かい、出雲の斐伊川の川上の鳥上峰(船通山)に至ったのだという。

このように、『日本書紀』の別伝には、はっきりと、「スサノオははじめ新羅に住んでいて、そのあと日本にやってきた」と書き残されている。

通説は、スサノオが新羅からやってきたという『日本書紀』の記事から、「出雲と朝鮮半島のつながり」について、肯定的に受け止めているようなところがある。漠然とした形ながら、「出雲は朝鮮半島の影響を強く受けた」と考えているようだ。

「出雲」は神話の三分の一を占めながら、絵空事というのが、かつての常識であった。八世紀のヤマト朝廷が、「ヤマト=正義」の反対概念としての「悪役としての出雲」を、神話の中で大きく取り扱ったのであって、現実に出雲に巨大な勢力がいたわけではないと考え、出雲を無視してきたのだ。

その一方で、スサノオが新羅からやってきたという記事には注目し、スサノオ=出雲は新羅からの渡来人を象徴していたと考えられてきたのである。実際、『日本書紀』のくだりの記事以外にも、出雲と朝鮮半島を結びつける要素は、いくつも見出すことができるし、地理的に見ても、出雲と朝鮮半島がつながっていたと考えるのは、ごく自然のことなのかもしれない。

新羅系渡来人の祖神がスサノオだった?

出雲と朝鮮半島を結びつける例として、まず最も分かりやすいのは、『出雲国風土記』の出雲国意宇郡(おうぐん)の段の「国引き神話」ではなかろうか。この地を「意宇」と名付けた由縁は、その昔、ヤツカミヅオミツノノミコト(八束水臣津野命)が、「出雲の国は狭く、できて間もない国なので、よその余った土地を持ってきて、縫い合わせよう」といったとあり、「志羅紀(しらぎ)の三埼(みさき)(=新羅の岬)」が余っているからと、綱を掛けそろりそろりと、「土地よ来い」といいながら引き寄せた。それが「八穂爾支豆支(やほにきづき)の御埼(大社町日御碕)」だったという。そののち、北陸地方の土地などをやはり出雲に引っ張り込んで、最後に「意宇」の地に杖を突き立てて「オウ」と述べたところから、この地名ができたというのである。

新羅の土地を持ってきてしまったという話は、事実であるはずがない。しかし一方で、島根半島の西はずれ、出雲大社にほど近い岬が新羅の土地だったという伝承は無視することはできない。出雲と新羅は、強い縁でつながっていたことは間違いないだろう。

それだけでなない。出雲神といえば、スサノオだけではなく、オオナムチ(大己貴神だが、そのほかに大国主神(おおくにぬしのみこと)、大穴持命(おおあなもちのみこと)、大国魂命(おおくにたまのみこと)、顕国玉神(うつくしくにたま)、大物主命(おおものぬしのみこと)などの多くの別名がある)が有名だが、この神も朝鮮半島出身だったのではないかとする考えは、根強いものがある。というのも、平安時代以降、宮中では、「韓神(からかみ)」を祀っていたが、その正体は出雲に関わりの深いオオナムチとスクナヒコナ(少彦名命)だったからである。

出雲神をわざわざ「韓神」と定義づけて宮中で祀っていたのだから、「出雲の神々」が朝鮮半島からやってきたと考えるのは当然だった。

ならば、スサノオは「日本人」ではなく、新羅からの渡来人だったのだろうか。すでに江戸時代中期には、考証学者・藤井貞幹が、「スサノオは朝鮮半島南部(辰韓)からやってきた」と推理している。同様の考えは今日に引き継がれている。

たとえば、水野祐氏は、スサノオを新羅系の客神とみなしている。「新羅の神=スサノオ」を奉斎して日本にやってきた人びとは、「新羅系の一団であり、砂鉄を求めて移動する、いわゆる「韓鍛冶(からかぬち)」だったといい、次のように指摘している。
だが、「スサノオが気になる」と述べておいたのは、これほど単純で明解な「出雲=韓」という図式だけではない。

朝鮮半島南部の人びとのみならず、「倭人」も、競って鉄を求めて集まっていた様子が、記事からつかめる。弁韓の地域では、原三国時代の初期から、鉄の素材が各地に搬出されていたことが分かってきている。「韓の金銀(鉄)」が、当時貴重な資源であり、「お宝」だったことは間違いない。

これに対し、日本の「浮宝」とは、「船」のことで、「浮宝がなければ」というのは、材料となる樹木(しかも巨木)が欲しい、といっているわっけだ。太古構造船のない時代の交通手段は、木をくり抜いて作る丸太舟だったから、海の民にとって巨木はなによりも大切な宝物だった。長野県の穂高地方に、日本を代表する海の民・安曇氏が拠点を造り神を祀っているのも、「造船」と山(森)が、深く関わっていたからだろう。(拙者註:諏訪大社の御柱祭り)、という。

ヒボコの出石神社に近い兵庫県豊岡市(出石)ハカザ遺跡から2000年に巨大船団を描いた板が見つかり話題となった。新羅からやってきた集団を描いたものではなく、むしろ出石にいた集団が造船して伽耶の人びとに鉄の代価に渡していたのかも知れない。

日本は鉄の見返りに何を韓に渡していたのか

たしかに「木材=船」は貴重な財産だっただろう。しかし、朝鮮半島の「金銀(鉄)」と比べるとそうしても見劣りがする。一見して不釣り合いな「金銀」と「木」を等式で結んでいるのはなぜだろう。実をいうと、この神話の意味するところは重大だったと思われる。

朝鮮半島からもたらされた「鉄」の量に見合うだけの日本側からの「代価」が何だったのか、その正体が分からず、帳簿上の日本側の「輸入超過」状態が続いているのである。いったい、古代の列島人は、何を手みやげに大量の鉄を手に入れていたというのだろう。

朝鮮半島南端に位置し、三世紀前後の北部九州や畿内のヤマトと盛んに交渉を持っていた地域・狗邪韓国・金官伽耶(時代によって呼び方がからっているが同じ地域)の墳墓から、日本製の銅矛、巴形銅器、碧玉製石製品といった「日本的な宝器」が大量に発掘されたことを受けて、これらの儀器が、貿易の代価として支払われた可能性が指摘されている。もっとも、それでも大量の鉄に見合うだけの「宝器」であるはずもなく、この点は(まだまだわからない)。

たしかに日本は極東の島国であって、ここから先はないのだから、つねに朝鮮半島や中国大陸に向かって立っていたことは間違いのないことだ。また一方の伽耶にしても、日本だけを重視していたわけではないこと、隣には、新羅(辰韓)や百済(馬韓)が存在したし、されに向こう側には、高句麗や中国の諸王朝の圧力が控えていた。
だから日本人が考えるほど、伽耶は日本を重視していたわけではなく、日本的な文化と宗教観を喜んで受け入れたかというと疑わしい。だが逆に考えると、つねに北からの圧迫を受けていた半島南部の人びとが、最後の逃げ場書として日本列島という「保険(シェルター)」がほしかったことも一方の事実であろう。鉄の見返りに目に見えない「保険」を手に入れたという可能性も捨てきれないし、もう一歩踏み込んで、倭国の軍事力を、いざというときに活用しようと目論んでいた可能性も否定できない。


西谷古墳 島根県出雲市

スサノオ一族の文明は、魏(中国)の影響を受け、その当時の日本列島の縄文文明よりも発達していたことは間違いなく、農業・漁業・航海術に長けていたスサノオ一族が、ようやく計画的な稲作もはじめかけていたものの、漁労や狩猟中心で暮らしてきた九州の土着の勢力らを包括していくには、そう時間のかかることではなかったと思われます。

当時の日本列島の文明よりも、発達していた朝鮮半島の、農業・漁業・製鉄・航海術に長けていたスサノオ一族が、九州北部や出雲の豪族間との合議・融合によって連合体としてクニ連合を形成していったのではないでしょうか。もし、武力鎮圧によって隷属的に支配下においたのならば、必ずや中国の歴史のように、王が変わると、日本列島へ逃亡・離散するような歴史が残っているはずだからです。

砂鉄は日本のような火山列島には、それこそ腐るほど埋蔵されています。だから、兵庫県出石の墳墓に砂鉄が埋葬されてあったということは、出石の豪族が砂鉄に感謝したからに他ならないのです。

このことは、出雲のスサノオをめぐる神話からも読みとれます。一般に「出雲神は新羅系」とする考えがありますが、そうではなく、スサノオは朝鮮半島に群がった倭人を象徴的に表しているようです。

なぜなら、出雲でのスサノオは、朝鮮半島の「鉄の民」の要素を持っていますが、それは決して大陸や半島の人々の発想ではないからです。

吉野裕氏は、『出雲風土記』に登場するスサノオをさして、海や川の州に堆積した砂鉄を採る男だから「渚沙(すさ)の男」なのだと指摘しています。

スサノオはヤマタノオロチ退治をしていますが、この説話が製鉄と結びつくという指摘は多いです。砂鉄を採るために鉄穴流し(かんなながし)によって真っ赤に染まった河川をイメージしているというのです。

2009/09/06

半島南部の鉄と商人の小国家が日本を建国したのではない

関裕二氏『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』によると、
伽耶諸国は六世紀に至るまで統一国家というものを望まず、小国家の連合体のままの状態で滅亡していったということだ。それはなぜかというと、彼らは優秀な証人だったからで、地の利と鉄資源を生かし、海を股にかけた通商国家が伽耶連合だったと考えると判りやすい。

その名うての商人たちが、いざというときの「保険」や「空手形」だけをもらうという不公平な貿易を行ったかというと、実に怪しく、彼らは冷徹に鉄の見返りを求めたに違いないのだ。

それでは日本に何を求めたのだろう。わずかな青銅器や碧玉の儀器だけで、彼らは満足したのだろうか。そうではあるまい。

彼らが求めてやまなかったのは、「木」ではなかったか。
ただの「木」ではない。鉄を精製するために欠かせない燃料の「木炭」である。
なぜ「木」が重要なのか。

青銅器や鉄の技術は中国文明からの贈り物である。その中国では、殷(イン)の時代、青銅器の文明が花開いた。その一方で、森林破壊も徐々に進み、秦の始皇帝の精力的な国土開発と金属冶金事業が、中国の砂漠化の端緒を開いたとされている。と書いている。

なんと今日問題化している砂漠化はすでに始まっていた…
関裕二氏はさらに、ちゅうごくのミニチュアである朝鮮半島でも、同様のことが起きた。青銅器や鉄という文明の利器を盛んに生産したから、貪欲に燃料を求めたのは当然のことだ。

(中略)
そうなると、スサノオの宮の決め方にも、「鉄」を意識したのもと捉えることが可能だ。

吉野裕氏は、『東洋文庫 145 風土記』のなかで、スサノオは、海や川の州に堆積した砂鉄を取る男「渚沙の男」の意味だとしている。

スサノオ最大の活躍、ヤマタノオロチ話も、「鉄」とのつながりで語られることがしばしばだ。草薙剣が現れ、これが天皇家の三種の神器のひとつになるわけだが、「金属」が神話のモチーフになっていることから、スサノオが金属冶金と関わりがあるとされ、さらに、舞台となった簸川(ひかわ)が、砂鉄産地として名高く、ヤマタノオロチの流した血が川を赤く染めたのは、砂鉄の色を暗示しているという指摘もある。

このように、スサノオの周囲には「鉄」の要素が満ちている。
さらに、スサノオの子(あるいは末裔)のオオナムチも、鉄との関わりをもっている。オオナムチの別名に「大穴持命」があって、「穴」は「鉄穴山」からきているという。鉄穴山とは、砂鉄の産地になる山で、土砂を大量の水で流し、比重が重く下に沈んだ砂鉄を採るわけである。この作業を「鉄穴流し」といい、従事する者達を「鉄穴師(かなし)」と呼んだ。したがって、大穴持命は、「偉大な鉄穴の貴人」であるという(『古代の鉄と神々』真弓常忠)。

これらの伝承は、当然の事ながら、中国地方で盛んにたたら製鉄が行われたからこそ語り継がれたのだろう。出雲地方では、砂鉄採取によって生じる土砂が下流に堆積し、地形が変わるほど製鉄が盛んだったのである。

もっとも、だからといって、現在のところ日本最古の製鉄遺跡は、五世紀末~六世紀にかけての丹後半島の遠所遺跡(京丹後市弥栄町)なのだから、神話が弥生時代から三世紀のヤマト建国当時の出雲の姿を活写しているかどうかは、はっきりとはしていないのだが…。

出雲神話と鉄が結びつくとはいっても、ヤマト建国以前に日本で製鉄が行われていたと考えることはできない。今のところ弥生時代の組織的な製鉄が日本で行われていたことを裏付ける物証は見つかっていないのが本当のところだ。

これに対し、いやいや、日本では弥生時代から、すでに製鉄が行われていた可能性が高いちする説もある。

まず、日本に鉄器が現れるのは、稲作とほぼ同時だったようだ。ととえば、福岡県・曲がり田遺跡では、弥生時代早期の遺跡から、鉄器片が見つかっている。鉄器は、中国から稲作文化の伝播ルート(江南→山東半島→朝鮮半島)をなぞって日本にたどり着いたと考えられているから、稲作民が「鉄」とともに日本列島に渡ってきたということになる。

日本最古の製鉄遺跡は遠所遺跡で、古墳時代後期から平安時代にかけての複合遺跡だ。ここからは炭窯が五世紀末に造られ、やはり五世紀末の土器が見つかっていて、製鉄もその頃はじめられた可能性が強いのである。

では、それ以前、日本では製鉄は行われていなかったのだろうか。まず。森浩一氏らは、製鉄の痕跡が見つかっていないのだから、弥生時代の鉄は輸入され、その上で加工されていたと主張している。見つかっていないのに予測することは、考古学的な発想ではないからである。

このような考えに対し、弥生時代の鉄器の普及と生産の開始は、ほぼ同時だったとする考えがある。まず第一に、「日本の製鉄は六世紀から」という考古学の指摘はさらに遡る可能性を秘めていること(もっと古い製鉄遺跡が発見されるかもしれない)、第二に、日本における製鉄開始の年代が早まるとしたら、ひとつの仮説が導き出せる、ということなのである。

すなわち、古墳時代はじめの大量の渡来人の流入は、彼らの一方的で腕力にものを言わせた仕業ではなかったということだ。彼らは「利」を求め、あるいは、日本側に求められて来日したのではなかったか、ということなのである。

そう思うのは、古代渡来系豪族を代表する秦氏や東漢(やまとのあや)氏らが、想像を絶する数の人びとを伴って日本にやってきていること、しかも彼らは、「金属冶金」に精通した技術者を多く抱えていたという事実があるからである。

しかも彼らの渡来は、混乱や政変による亡命ではなく、迎える側も渡来する方も、あたかも前もって契約していたかのような整然とした移住であった。この理由えお考えるに、やはり彼らは、「双方の合意」のもとに、来日したのではなかったか。すなわち、彼らは金属冶金の燃料を求めてやってきたのであり、迎え入れる側は「燃料」を供給することで「鉄製品」を手に入れることができるわけであり、どちらもメリットがあったのである。

渡来人の来日には、何回かの波があったと言われているが、弥生時代の渡来は「農地」を求めた人びとのなかば移住であったとしても、古墳時代に入ってからの秦氏や東漢氏らの移住は、「燃料確保」という朝鮮半島の切迫した事情が隠されていたとはいえないだろうか。

いずれにせよ、出雲神話に記されたスサノオの姿は、「燃料」を求めて来日した渡来人たちの姿と重なってくるのであり、秦氏らが渡来したという「応神天皇の時代」とは、じつはヤマト建国の前後だった可能性があり、つまりは、「朝鮮半島の鉄の民の動向」が、ヤマト建国と大いに関連していたのではないかと、筆者はひそかに勘ぐっているのである。

そしてもちろん、秦氏や東漢氏らが、鉄の技術を持って来て、ヤマトを圧倒したのではないかと言っているのではないことは、くり返す必要はあるまい。あくまでもギブアンドテイクであり、鉄と商人の民であった朝鮮半島南部の人びとの行動原理を、もっと「利」というもので見直す必要も出てくるのではないか、といいたいのである。

記紀神話に現れたスサノオと鉄の関係を追っていくと、日本列島の森林資源が燃料として貴重だったこと、そして、朝鮮半島の人びとがこれを求めて大量に渡来していたのではないかと思えてきた。

それでは、天皇家がもし海の外からやってきたのであれば、やはり彼らも「森林」を求めてやってきたのだろうか。いや、そもそも本当に天皇家は朝鮮半島からの渡来人なのであろうか。

天皇家の祖が海の外からやってきたのではないかと疑わせるきっかけを作ったのは、八世紀に編纂された記紀に記された二つの神話や説話なのである。それがいわゆる「天孫降臨神話」と「神武東征説話」である。

【出雲神政国家連合】 古代出雲1/4 プレ魏志倭人伝 スサノオ

次:スサノオは「砂鉄」を採る男だった

放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信氏の『日本の古代』の冒頭を要約してみれば、

日本列島の古代史像は、近年大きな進展を見せている。その背景には、古代の遺跡についての考古学的な発掘調査の成果が積み上げられ、木簡をはじめとする出土文字史料など様々な新資料が発見されて、新しい知見が得られてきたことである。また、世界がグローバル化する動向の中で、改めて東アジア的な視点から中国・朝鮮半島・日本列島・北方・南方の歴史を幅広く見直すようになったこと、日本列島のそれぞれの地域の歴史が掘り起こされて、多元的な地域間の交流が注目されるようになったことなど、古代史を古代国家中心の一元的な歴史観で割り切ってしまわないという姿勢が広まっていることも大きな動きといえよう。

(中略)

東アジアの国際関係に留意しつつ、それぞれの時期・地域の古代史像を雄弁に物語ってくれる「史料」と「史跡」(遺跡)に焦点をあてることに重点を置きたいと思う。

日本列島古代史を展望する上で留意しておきたいのは、まず第一に、古代史を(ヤマト政権という)古代国家中心の一元的な歴史に限定してとらえるわけにはいかないという点である。近代の「国民国家」とは異なって、日本列島には日本列島には琉球王国の歴史や、北海道(東北含む)のアイヌの人々の歴史なども存在しており、あらかじめ単一の日本国家が存在していたわけではなかった。「日本」という国号も七世紀以前の「倭」にかわって歴史的に形成されたものであるし、近代的な意味での「国境」もなく、多様なレベルの地域間交流が展開していた。

◇概 要

出雲とは、稜威母(イズモ)という、日本国母神「イザナミ」の尊厳への敬意を表す言葉からきた語、あるいは稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説があります。ただし歴史的仮名遣いでは「いづも」であることから、出鉄(いづもの)からきたという説もあります。

はじめて日本に関するまとまった記事が書かれているとされる3世紀末(280年-290年間)に書かれた中国の正史『三国志』中の『魏書東夷伝』(略称:魏志倭人伝)は、当時の倭(後の日本)に、邪馬台国を中心とした小国(中国語でいう国邑=囲われた町)の連合が存在し、また邪馬台国に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書により当時の倭人の風習や動植物の様子がある程度判明しており、弥生時代後期後半の日本を知る第一級史料とされている。

しかし、必ずしも当時の日本の状況を正確に伝えているとは限らないこと、多様な解釈を可能とする記述がなされていることから、邪馬台国に関する論争の原因になっている。

魏より後の梁(502年から557年)の歴史を記した歴史書『梁書』にはじめて倭・文身国・大漢国・扶桑国など、倭国らしき国名があらわれます。それには倭には古代は奴国(九州北部?)・文身国(出雲・伯耆・因幡?)、大漢国の一部で、丹国(但馬・丹後・丹波)と若狭・越国?と比定して各国(クニ)へと大陸文化が伝わっていったと考えられます。

出雲は神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出方墳や出雲神話への影響が認められます。

スサノオ

『記紀』神話中、最大にして最強の巨神、出雲の荒ぶる神スサノオ尊(素戔嗚尊・須佐之男尊)(すさのおのみこと、以下、スサノオ)です。スサノオは「尊」[*1]としています。本文で、大悪人のごとく記述しているにもかかわらず、スサノオやオオクニヌシの記載が多いのはどういうわけなのでしょうか。

弥生時代の1世紀ころ、百余国もあった日本列島のクニ(といっても日本の一部であろうが)の中で、スサノオ族を中心に結束した九州北部の「奴国?」が、徐々にクニとして頭角を現してきたのです。現在の博多付近に存在したと推定されています。

スサノオの建国した国は、まだ中央集権国家ではなく、豪族の合議・クニの連合体でした。『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与されたとあり、江戸時代に農民が志賀島から「漢委奴国王」と刻まれていた金印を発見し、倭奴国が実在したことが証明されました。委国の委は、倭の人偏を省略したもので、この場合は委=倭です。

スサノオ尊は、小諸国を統一して国造りに努めただけでなく、住民の生活向上に心を配り、様々な事柄を開発・創始し、御子や部下たちを各地に派遣して国土開発や殖産興業を奨励し、人材を適材適所に登用する優れた指導者でもありました。思えば、スサノオは日本列島に初めて国らしき国を創建した建国の始祖王だったのかもしれません。

筑紫では日向を連合させたとき、伊弉諾尊(いざなぎ)の娘・向津姫(むかつひめ、記・紀の天照大神)を現地妻として娶(めと)り、豊国の宇佐や日向の西都に政庁を置きました。そして、各地に御子・八島野(やしまぬ)尊・五十猛(いたける)尊・大歳(おおとし)尊・娘婿の大己貴(おおなむち)尊(大国主)や部下を配置して統治させました。

政情がほぼ安定したのを見定めて、筑紫(ちくし)から讃岐(さぬき)に遷(うつ)って、北九州から瀬戸内地方を統治していた大歳(おおとし)尊に、河内・大和に東遷(とうせん)して、以東の国々を統合するよう命じ、故郷・出雲に帰って亡くなられた。ときに65歳、BC124年頃とみています。

スサノオの御陵は八雲村大字熊野(現・松江市八雲町熊野)にある元出雲国一の宮・熊野大社の元宮の地とされ、「神祖熊野大神櫛御気野尊(かむおやくまのおおかみくしみけぬのみこと)」の諡号(しごう)で祀られています。神のなかの祖神(おやがみ)です。

大同五(810)年正月、嵯峨天皇は、「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として、スサノオ尊を祀る津島神社(愛知県津島市)に日本総社の号を奉られ、また一条天皇は、同社に天王社の号を贈られました。  当時の天皇は、『記紀』に
中国の史書・「宋史」の日本伝は、神武天皇(記・紀では初代天皇)の六代も前に、スサノオを国王としてはっきりと記しています。

ようやく九州北部にもクニが誕生しきて、大陸の統一国家「漢」への朝貢は、満を持してのことだったはずです。そして、初代奴国王こそ、スサノオの父でしょう。当然、他に百余国もあるのだから、妨害工作や、先に朝貢を試みた諸国は他にもあったと考えられますが、『漢書』に、「奴国」以外の朝貢の記述が無いことから、諸国も納得せざるを得ないほど、「奴国」は強大な国になっていたのでしょう。また、稲作が九州北部ではじまったことなどから、スサノオは、九州で生まれていると思われます。

そして、初代奴国王である父から、王位を引き継いだスサノオの時代がおとずれます。推定、紀元前97年のことです。九州北部から中国地方の出雲に勢力を広げます。

『古代日本正史』の著者、原田常治氏は、『記紀』という人造亡霊からは、真の古代史などわからない、という一念から、その資料を奈良県の「大神神社」(おおみわじんじゃ)に始まり、全国の『記紀』以前の、創建の神社に求めたのです。

原田氏は、神社名と主祭神との比較検討から、本来祀られていた真実の神を発見し、それら神社の由来を調査した結果、一本の歴史ストーリーを完成させています。同様の手法は、『消された覇王』の著者、小椋一葉氏も採用され、同じ結論に到っています。

それによれば、スサノオは、ヤマト朝廷が成立する以前に、出雲王朝を成立させていた、日本建国の始祖であり、讃え名を「神祖熊野大神奇御食野尊」(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)と言います。

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たじまる 奈良7

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

『日本書紀』

『日本書紀』は国史で、「六国史」の最初に記されました。続日本紀に「日本紀を修す」とあり、「書」の文字はない。「日本紀」が正式名だったと言うのが通説です。

  • 『日本書紀』     720   神代~持統
  • 続日本紀     797   文武~桓武
  • 日本後紀     840   桓武~淳和
  • 続日本後紀    869   仁明
  • 日本文徳天皇実録 879   文徳
  • 日本三代実録   901   清和~光孝書紀の内容は、神代から40代(41代:後述)持統天皇までを30巻にわけ、それぞれの天皇記は『古事記』に比べてかなり多く記述されているのが特徴です。第3巻以降は編年体で記録され、うち9巻を推古から持統天皇までにあてているのも特徴です。これは『古事記』が天皇統治の正当性を主張しているのに対し、『日本書紀』は律令制の必然性を説明していると直木孝次郎氏は指摘しています。確かに『古事記』に比べれば、『日本書紀』の方がその編纂ポリシーに、律令国家の成立史を述べたような政治的な意図が見え隠れしているような気がしないでもありません。『日本書紀』自体には、『古事記』の序のような、その成立に関する説明はありません。『続日本記』養老4年(720)5月21日の記事によると、舎人(とねり)親王が天皇の命令をうけて編纂してきたことが見えるだけです。大がかりな「国史編纂局」が設けられ、大勢が携わって完成したと推測できますが、実際の編纂担当者としては「紀朝臣清人・三宅臣藤麻呂」の名が同じく続日本紀に見えるだけです。編纂者として名前が確実なのは舎人親王だけと前述したが、藤原不比等が中心的な役割を担っていたとする説や、太安万侶も加わっていたとする見解もあり、いずれにしても多数のスタッフを抱え、長い年月をかけて完成されたことは疑いがありません。しか、ある部分は『古事記』と同歩調で編纂された可能性もあるのではないでしょうか。『古事記』同様、「帝紀」「旧辞」がその根本資料となっていますが、各国造に命じた『風土記』など多くの資料を収集し、その原文を尊重しているのが『日本書紀』における特徴です。諸氏や地方に散逸していた物語や伝承、朝廷の記録、個人の手記や覚え書き、寺院の由緒書き、百済関係の記録、中国の史書など、実に多くの資料が編纂されていますが、たぶんに中国(唐)や新羅の国書を意識した(或いはまねた)ような印象もあり、半島・大陸に対しての優位性を示すのも、編纂目的の一つだったのかもしれません。

    そしてそれは、日本国内の臣下達に対する大和朝廷の権威付けにも使用されたような気がするのです。『古事記』がいわば天武天皇の編纂ポリシーに沿った形でほぼ一つの説で貫かれているのに対して、『日本書紀』は巻数が多く、多くの原資料が付記され、「一書に曰く」と諸説を併記しています。国内資料のみならず、朝鮮資料や漢籍を用い、当時の対外関係記事を掲載しているのも『古事記』にはない特徴です。特に、漢籍が当時の日本に渡ってきて『日本書紀』の編集に使われたので、書紀の編纂者達は、半島・大陸の宮廷人が読めるように、『古事記』のように平易な文字・漢語・表現を使わず、もっぱら漢文調の文体で『日本書紀』を仕上げたのだとされています。『日本書紀』では、天照大神の子孫が葦原中国(地上の国)を治めるべきだと主張し、何人かの神々を送り、出雲国の王、大国主命に国譲りを迫り、遂に大国主命は大きな宮殿(出雲大社)を建てる事を条件に、天照大神の子孫に国を譲ったとされています。しかし現実には、ヤマトの王であった天皇家の祖先が、近隣の諸国を滅ぼすか併呑しながら日本を統一したと思われるのですが、『日本書紀』の編者は、その事実を隠蔽し、大国主命が天照大神の子孫にこの国を託したからこそ、天皇家のみがこの国を治めるという正当性があるということを、事実として後世に残そうとしたようです。そして、天皇家に滅ぼされた国王たちをすべて大国主命と呼び、彼らの逸話をまとめたのが出雲神話ではないかと言われています。
    このように『記紀』は、どちらも天皇の命令をうけて7世紀末から8世紀の初期に作られた歴史書であるとともに、内容はともに神代から始められているために、推古天皇までが重複しているのです。

    『日本書紀』

    2.『日本書紀』の意図は独立国家『日本』宣言

    では、なぜわずか8年の間隔で、同じ時代をとりあげる歴史書を2種類も編纂したのでしょう。また同じ時代をとりあげつつ内容には違いがあるのはなぜでしょうか。『古事記』が「記」で『日本書紀』が「紀」であることの字の持つ意味の違い、『古事記』の文体が「音訓交用」と「訓録」で『日本書紀』が漢文であるという文体の違い。2種類の歴史書がわずかの間に作られた背景はいったい何なのでしょう。
    なぜ、『日本書紀』が中心になっていったのでしょうか。

    この時代は、国号を倭国から日本国へ、君主号を大王から天皇へと変更し、中国をモデルにした律令制定も行われて、中央集権的国家体制を急ピッチで整備していました。歴史書編纂が活発に行われた背景には、このような社会の情勢が大きく変化しつつある時代に歴史書に期待されていた機能があり、『古事記』は、天皇や関係者に見せるためのいわば内部的な本で、『日本書紀』は外国、特に中国を意識して作られた国史(正史)です。こうして見ると『古事記』は『日本書紀』を作るための雛型本であったと思われています。『古事記』は成立直後からほぼ歴史の表面から姿を隠し、一方『日本書紀』は成立直後から官人に読まれ、平安時代に入っても官人の教養として重要な意味を持ったことは注目すべきです。
    対して、『日本書紀』を作った最大の目的は、対中国や朝鮮に対する独立の意思表示であり、国体(天皇制)の確立なのです。

    古来権力者が残した記録には自らの正当性を主張している点が多く、都合の悪いことは覆い隠す、というのは常套手段です。ストーリーに一貫性がなく、書記に書かれている事を全て真実だと思いこむのも問題ですが、まるっきり嘘八百を書き連ねている訳でもありません。

    まるっきり天皇が都合良く創作して書かせたのであれば、わざわざ恥になるような記録まで詳細に書かせる意図が分かりませんし、『日本書紀』は「一曰く」として諸説も併記され、客観的に書かれています。したがって、少なくともその頃には中国王朝・朝鮮王朝のような、独裁的な絶対君主の王権ではなくて、すでに合議的(連合的)な政権を形成していたのではないでしょうか。
    記紀が史実に基づかないとしても国家のあり方の真実を伝えようとしたものであるならば、そのすべてを記紀編纂者の作為として片づけるには、それなりの根拠がなくてはなりません。

    大和に本拠を構える大和朝廷が、正史を編纂するにあたり、なぜわざわざ国家を統一する力が、九州に天孫が降臨した物語や出雲の伝説を記録したのだろう。それは単に編纂者の作為ではなく、ヤマト王権の起源が九州にあり、国家統一の動きが九州から起こったという伝説が史実として語り継がれていたからだと考えるのが自然でしょう。九州から大和へ民族移動があり、ヤマト王権の基礎が固まったという伝承は、記紀が編纂された七世紀までに、史実としてすでに伝承されていたと考える方が自然です。記紀には歴代天皇の埋葬に関する記事がありますが、編纂時にはすでに陵墓が存在していたと思われます。もし記紀に虚偽の天皇が記載されていたなら、陵墓も後世に造作されたことになり、わざわざ記紀のためにそんなことをするとは考えられないからです。

    何が真実で何が虚構か、また書紀に書かている裏側に思いをめぐらし、それらを新たな発掘資料に照らし合わせて、体系的に組み上げていく作業を通して、独立国家『日本』を周辺国に宣言した編纂の意図が見えてくるのだろうと思います。
    紫式部は、その漢字の教養のゆえに「日本紀の御局(みつぼね)」と人からいわれたと『紫式部日記』に書いています。『日本書紀』はその成立直後から、官僚の教養・学習の対象となりました(官学)。それに対して『古事記』は、一部の神道家を除いて一般の目には余り触れることがありませんでした。

    『風土記』


    『出雲国風土記』写本 画像:島根県立古代出雲歴史館蔵

    『風土記』は、『日本書紀』が編纂される7年前の713年に、元明天皇が各国の国司に命じて、各国の土壌の良し悪しや特産品、地名の由来となった神話などを報告させたもので、おそらくは『日本書紀』編纂の資料とされた日本初の国勢調査というべきものと思われます。国が定めた正式名称ではなく一般的にそう呼ばれています。
    『続日本紀』の和銅6年5月甲子(2日)の条が風土記編纂の官命であると見られており、記すべき内容として、

    1. 郡郷の名(好字を用いて)
    2. 産物
    3. 土地の肥沃の状態
    4. 地名の起源
    5. 伝えられている旧聞異事

    が挙げられています。

    完全に現存するものはありませんが、出雲国風土記がほぼ完本で残り、播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記が一部欠損して残っています。現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみです。ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在します。

    引用:『日本の思想』東京理科大学教授 清水 正之

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たじまる 奈良6

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

日本最古の歴史書.1

1.日本の思想~他者によって描かれた日本

日本の思想とは、日本列島の上に日本語で展開されてきた思想です。原初的な意識を含め思想というなら、その意識のはじまりがどのような様子だったかを探ることは容易なことではありません。無文字文化をさぐる方法はないのです。五世紀まで文字を持たなかったこの列島のすがたは、まずは他者すなわち中国の書物に記載されるというかたちで、はじめて文字(漢字)に残されることで最初にあらわれました。他者を通してしかその起源をうかがうことができなかったことは、今に至るまで深く関わる問題です。
わたしたちは史書として、『古事記』をもって最古の思想作品としています。原始の日本のようすは、ようやく八世紀にあらわれた『古事記』『日本書紀』あるいは『万葉集』といったテキストによるしかありません。その成立にはさまざまの説がありますが、日本という自己意識の最古のものの名残という点は異論の余地はないようです。

2.『古事記』と『日本書紀』


『古事記』写本 画像:島根県立古代出雲歴史館蔵『古事記』と『日本書紀』(以下、『記紀』)は、七世紀後半、天武天皇の命によって編纂されました。『古事記』成立の背景は、漢文体で書かれた序文から知ることができます。それによれば、当時、天皇の系譜・事蹟そして神話などを記した『帝紀』(帝皇日継(すめらみことのひつぎ))と『旧辞』(先代旧辞(さきつよのふること))という書物があり、諸氏族の伝承に誤りが多いので正し、これらを稗田阿礼(ひえだのあれ)に二十九年間かけて、誦習(しょうしゅう)(古典などを繰り返して勉強すること)を命じ、たのが『古事記』全三巻です。
その後元明天皇の711年(和銅四年)、太安万侶(おおのやすまろ)が四ヶ月かけて阿礼の誦習していたものを筆録させ、これを完成し、翌712年に献上したことを伝えます。
一方、皇族をはじめ多くの編纂者が、『帝紀』『旧辞』以外にも中国・朝鮮の書なども使い、三十九年かけて編纂したのが、前三十巻と系図一巻から成る大著『日本書紀』です。『古事記』が献上された八年後の720年(養老四年)には『日本書紀』が作られました。『日本書紀』は「一曰く」として、本文のほかに多くの別伝が併記されています。神代は二巻にまとめられ、以降は編年ごとに記事が並べられ、時代が下るほど詳しく書かれています。
大化の改新後のあらたな国家建設と大和朝廷の集権化のなかで、国の歴史を残そうとする試みが繰り返されてきました。その一端として、『日本書紀』620年の推古紀の箇所では、聖徳太子と蘇我馬子が「共に議(はか)りて」天皇記および国記、また臣下の豪族の「本記」を記録したと伝えます。『記紀』はそうした自己認識への継続した努力のなかから生まれたものでした。ではどうして、同じ時代に『記紀』という二つの異なった歴史書が編纂されたのでしょうか。

それは二つの書物の違いから想像できます。『記紀』が編纂された七世紀、天平文化が華開く直前です。すでに日本は外国との交流が盛んで、外交に通用する正史をもつ必要がありました。当時の東アジアにおける共通言語は漢語(中国語)であり、正史たる『日本書紀』は漢語によって綴られました。また『日本書紀』は中国の正史の編纂方法を採用し、公式の記録としての性格が強いことからも、広く海外に向けて書かれたものだと考えられます。
それに対し、日本語の要素を生かして音訓混合の独特な文章で天皇家の歴史を綴ったのが『古事記』です。編纂当時、まだ仮名は成立していなかったため、漢語だけでは日本語の音を伝えることはできませんでした。そのため『古事記』の本文は非常に難解なものになり、後世に『古事記』を本格的に研究した江戸時代の国学者・本居宣長ですら、『古事記』を読み解くのに実に三十五年の歳月を費やします。
ところで本居は全四十四巻から成る古事記研究書の『古事記伝』を著し、『日本書紀』には古代日本人の心情が表れていないことを述べ、『古事記』を最上の書と評価しました。

歴史物語の形式をとり、文学的要素の強い『古事記』は、天皇家による統治の由来を周知させ伝承するために記したテキストで、氏族の系譜について『日本書紀』よりも詳しく記されています。当時の日本人の世界観・価値観・宗教観を物語る貴重な資料であり、これがおよそ千三百年前間伝承されてきたことには大きな意義があります。

3.『古事記』

『記紀』はその叙述の仕方に大きな差が見られます。『古事記』は本分が一つの主題で貫かれていますが、『日本書紀』の神代の部分は、筋を持った本文を掲げてはいますが、それにつづき複数の異なる伝承を「一書曰(あるふみにいはく)」として並列して掲げています。そのなかには『古事記』に一致するものもあれば、そうでないものもあります。『記紀』の神話は、その叙述態度・叙述の様相をかなり異にしていることは確かです。

『古事記』は「序」と「上巻」「中巻」「下巻」の三巻からなります。

「序」には古事記編纂の意図とその経緯が上表文の形をとって説明されています。(日本書紀には序は無い)。序の末尾の日付と署名によって和銅5年(712)正月28日に太安万侶が撰進したことがわかりますが、この事は「続日本紀」には記録されていません。(日本書紀は記録されている)。
「上巻」は神代の時代から神武天皇の誕生まで、「中巻」は神武天皇から応神天皇まで、「下巻」は仁徳天皇から推古天皇までの事績が描かれています。この中で、古事記の成立について記録している部分は「序」です。言い換えれば、古事記の成立について書かれたものはこの序文しかありません。

冒頭の「序」は、漢文体で書かれ、変体漢文を屈指した本文とはやや異なった体裁ですが、
「この世のはじめはくらくてはっきりしないが、この教えによって国と島の生成を知り、神が生まれ人をたてた時代を知ることができる」と、神代は遠くなったが、神代になった国土が「大八洲(おほやしまぐに)」として時間的に展開していく様を描いたという次第が述べられます。

「上巻」の神代では、高天原の「天地のはじめ(天地開闢(てんちかいびゃく))」、イザナキ・イザナミ男女二神の神生み国生み、黄泉の国、天の岩戸と天照大御神(あまてらすおおみかみ)、出雲を舞台に追放されたスサノヲと大蛇退治、大国主の国づくり・国譲り・海幸山幸」、それにつづき日向を中心とする天孫の天降り等と続き、さらに神武天皇までの出来事や系譜が描かれています。中巻以降の人代は、神武天皇から推古天皇に至るまでの神話的伝説・歴史あるいは歌謡の大系であり、多層にわたる要素がこめられています。

ここでは天皇の国土統治の始源・由来が語られており、漢文体で書かれ歌謡は一音一字の仮名で記され、古語の表記・発音をあますところなく伝えています。

3.神話は「真実」を語る

世界中にはさまざまな神話があります。キリスト教を例にすると、『旧約聖書』は神が六日間で世界をつくったという「天地創造神話」から書き始められています。これも記紀神話の国生み同様、科学的にはあり得ません。同書の大洪水にまつわる「ノアの箱舟伝説」や、また『新約聖書』の「福音書」には、マリアが処女懐胎してキリストを身ごもるという逸話が紹介されていますが、科学的には人が単独で受胎するはずはありません。
聖書学では『聖書』は史実を記した歴史書ではなく、当時の信仰が記された信仰書であると理解されていますが、「聖書の記述は史実ではない」という主張は欧米社会には存在しないのです。『聖書』の史実性を議論することはまったく無意味であり、読み方としては誤っているのです。記紀神話についても同じで、たとえば「天孫降臨は非科学的であり史実ではない」との主張は、「マリアの処女懐胎は非科学的であり史実ではない」というのと同じだけ愚かな主張なのです。と竹田恒泰氏は『旧皇族が語る天皇の日本史』で述べています。
しかし、一見事実ではないと思われる神話の記述には、事実でなくとも真実が含まれている場合があります。欧米社会では、天地創造神話にもとづき、神が六日で天地を想像し、七日目に休息を取ったとの神話にもとづいて、七日目を日曜日として休日とし、教会でミサが行われます。アメリカでは大統領が就任するときに『聖書』に手を当てて誓いを立てます。『聖書』に書かれたことはすべて、事実性はともかく、「真実」であると見なされます。

4.『日本書紀』と祝日

そして日本も、『古事記』『日本書紀』に書かれたことが「真実」であることを前提に国が形成され、運用されています。記紀と日常の生活のつながりは実感することはありませんが、記紀は現在のわが国のあり方、そして国民生活に絶大なる影響を与えています。
たとえば祝日が挙げられます。いかなる国も建国を祝う日は祝日とされ、国を挙げて盛大な祝賀を行います。わが国の「建国記念日」は2月11日で、戦前まで「紀元節」と呼ばれていました。この日は初代の神武天皇が即位した日であり、記紀の記述を根拠としています。ほかには、11月23日の「勤労感謝の日」は、宮中祭祀のなかでも最も重要な祭祀の一つ、新嘗祭が行われる日です。新嘗祭の起源は『日本書紀』の、天照大御神が天孫に稲穂を授けて降臨させ、その後、稲穂を用いて祭儀を行ったことに由来します。その他にも「天皇誕生日」がそうです。。

4.天地のはじまりの神話

『古事記』は、天智の開闢をもってはじまります。
天地(あめつち)初めて発(ひら)けし(発(おこ)りし)時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、次に神産巣日神(かみむすひのかみ)。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)と成りまして、身を隠したまひき。この冒頭部分を、一神教の聖典『旧約聖書』の冒頭部分におかれた創世記とくらべるだけでも、この多神教的な世界の形成が明らかになります。神は複数性をはらんで生まれること、またこの神たちは、創世記のようにこの宇宙ないし世界を創造したのではなく、世界の生成とともに、「成った」存在として描かれていること、しかも姿をかき消すことで、世界と一体化し、その後の世界の奥に潜む生成力ないし力動性の根源というかたちで描かれていることです。そのことは人の生成にも関わります。人は、『古事記』では、「青人草(あをひとぐさ)」と表現されますが、その起源は必ずしも明確ではなく力動性を秘めた世界の一構成員としてあります。このことは天つ神のいる「高天原」という領域が、ひとつの完結した世界として描かれるのではなく、物語の展開のなかで、あくまでも神と人とが生き織りなす「葦原中国(あしはらなかつくに)」という領域の生成と展開へと物語が収斂していくことと関わっているのでしょう。神世七代の神々の最後に一対の男女神、イザナキ(伊耶那岐命)、イザナミ(伊耶那美命)が生まれる。「葦原中国」は、天つ神による、いまだ不定形の国土を「修理固成(おさめつくりかためなせ)」との命を受けた、この二神聖婚・性的交わりによってできる。命を受け、潮を「かきなし」たとき滴った塩が固まってできたオノゴロシマ(淡路島)に降り立った、この男女二柱の神は、国土・自然は神そのものであると描く。国土の生成の描写は、本州の西の島々、瀬戸内海にその記述は厚く、後の記述でも本州は今日の糸魚川あたりまでであることなどに、当時の地理感覚があらわれています。
この冒頭に展開するイザナキ・イザナミ神話は、人間の生活に資する文化的生の起源話であるとともに、人間の生と死の起源の神話ともなっています。『古事記』にみる限り、国生み・神生み神話の「生む」型と、開闢(かいびゃく)の「成る」型の二重性の解釈は単純ではなく、津田左右吉のいう政治的作為があるとみなすこともできます。

5.高天原の神の降臨

「葦原中国(あしはらなかつくに)」の呼称は、高天原からの命名でした。国生み神話に続く、天つ神の領域の物語は、イザナキの黄泉の国からの帰還を期に生まれた、三柱の尊い御子(三貴子)[*2]のうちアマテラスとスサノヲをめぐって展開します。海原を支配せよとの父イザナキの命に背いたスサノヲは高天原にのぼり、乱暴をはたらく。弟に最初は理解を示した妹もついに怒り、岩屋戸に隠れ世界は闇に支配されす。神々の機知でふたたび世は光が戻りますが、スサノヲは追放されます。追放されたスサノヲは、出雲で大蛇を退治するなどの功績を残し、根の堅州国の支配者となります。

「中巻」は初代神武天皇から15代応神天皇までを扱っています。ここにみる神武東征は「天神御子」の「天降り」とされ、古事記においても史実としてより神話として書かれたもののようにも思えます。上巻の延長のような気もするのだ。古代豪族は、殆どがその祖を天皇家にあるとしたものが多いが、その多くがこの中巻に記された応神天皇までに祖を求めています。仁徳天皇以後のいわゆる皇別氏族は数えるほどです。これはこの時代が、神と人との混じり合った曖昧模糊とした時代だった事を豪族達も看破していた事を物語っています。

自家版帝紀に都合のいい系図を書き入れ、太安万侶へ持参した者もいたかもしれない。古事記は古代豪族の研究にとってもかかせない資料としての価値が高いが、原資料として採用された旧辞は混合玉石だったことを忘れてはなりません。

下巻は16代仁徳天皇から33代推古天皇までを扱っています。仁徳天皇以下、履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻の各天皇、そして33代推古迄の天皇紀です。
それぞれの天皇の事績については、「天皇陵めぐり」のコーナーを参照していただきたいが、その内容はご存じのよ
うに波瀾万丈の恋物語と皇位をめぐる争いの歴史です。大雑把に言えば、下巻時代の始まりが弥生時代を抜けて古
墳時代へ移っていく時代のように思える。倭の五王の時代もここです。

古事記は日本書紀に比べれば、顕宗・仁賢天皇以降の各記には事績が殆ど記されていない。継体天皇記は特にその差が顕著です。それ故、24代仁賢から33代推古天皇までの十代を「欠史十代」と呼ぶ見方もあります

これは古事記編纂者の隠蔽工作なのかそれとも、古墳時代の皇位継承の争いに明け暮れる中で、記録など皆無だった時代背景をそのまま反映しているのでしょうか。或いは、仁徳以後の皇別氏族が少ないことは、時代が新しいので虚史を主張しがたいのかもしれません。中巻が、いわば神人未分化の時代だとすれば、下巻は人代の時代と言えるでしょう。

古事記が推古天皇までで終わっていることについてもさまざまな見解があります。推古の次の舒明天皇は天智・天武の父です。あまりにも身近なため、天武としては稿を改めて詳述する必要を感じ、とりあえず推古で止めたのだろうと言われています。その別稿は日本書紀に結実しているわけです


[*2]…三貴子(みはしらのうずのみこ)とは記紀神話で黄泉の国から帰ってきたイザナギが黄泉の汚れを落としたときに最後に生まれ落ちた三柱の神々のことである。三貴神(さんきし・さんきしん)とも呼ばれる。

  • アマテラス – イザナギの左目から生まれたとされる女神。太陽神。
  • ツクヨミ – イザナギの右目から生まれたとされる男神(女神とする説もある)。夜を統べる月神。
  • スサノオ – イザナギの鼻から生まれたとされる男神。海原の神。
    引用:『日本の思想』東京理科大学教授 清水 正之▲ページTOPへ

たじまる 奈良5

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

但馬国分寺

但馬国分寺

国分寺(こくぶんじ)は、天平13年(西暦741年)、聖武天皇の国分寺建立の詔(みことのり)を受けて、国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺(こくぶんにじ)とともに建立を命じた寺院です。正式名称は

  • 国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)
  • 国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)です。
    前者には護国の教典『金光明経』十部が置かれ、封五十戸・僧二十人が配されました。後者には滅罪の教典『法華経』十部が置かれ、水田十町・尼十人が配されたといわれています。まさに仏教の力によって国家の安泰と発展を実現することが祈願されたのです。
    各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府のそばに置かれました。多くの場合、国府(国庁)とともにその国の最大の建築物でした。大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられました。さらに天皇は二年後の天平十五年、『華厳経』の教主である廬舎那仏(るしゃなぶつ)の金銅像(大仏)を造立することを宣言する詔を発しました。天皇は自らが天下の富を注いでこの事業を完遂するという決意を述べるとともに、多くの人々が結縁のために、たとい「一枝の草、一把の土」でも協力してくれるよう、呼びかけました。大仏が大仏殿と共に一応完成したのは、天平勝宝元年(749)です。それは諸国の資源と民衆の労力と、そして主に渡来人の人々の技術を総動員して遂行された国家的大事業でした。『続日本紀』が記す「人民苦辛」の程度も相当なものだったと推測されます。四年、来日していたインド僧のボーディセーナ(菩提せん那)を導師として、盛大な大仏開眼の法会が行われました。参列した僧侶は一万人に及び、諸外国の舞楽が奉納されたといわれます。それは文字通り国際的な大イベントでした。


礎石

律令体制が弛緩し、官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れました。ただし、中世以後もかなりの数の国分寺は、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、あるいは後世において再興されるなどして、現在まで維持しているところもあるそうです。また、かつての国分寺近くの寺で国分寺の遺品を保存していることもあります。国分尼寺も同様ですが、寺院が国家的事業から国司、守護など実質統治に代わると、かつての国分寺は復興を受けなかったところが多くなりました。ここ但馬でも国司が中心となって建設が進められました。全国でも伽藍が残っている数少ない国分寺跡として、注目を集めています。


塔跡(画像:但馬国府国分寺館)

昭和48年(1973年)から始まった発掘調査の結果、七重塔、金堂、門、回廊などの建物が見つかり、お寺の範囲がおよそ160m四方もあったことがわかりました。また、全国の国分寺ではじめて、「木簡」(木の板に書かれた文書)が見つかるなど、貴重な発見が相次いでいます。


金堂と回廊がつながる部分(画像:但馬国府国分寺館)

風鐸(ふうたく)屋根の軒に垂らし、風で音を奏でる。

金堂(こんどう)
寺の中心的な建物で、本尊を安置する。東大寺でいうと「大仏殿」にあたる建物です。

回廊(かいろう)
門と金堂をつなぐ廊下。

基壇(きだん)
建物が建つ土壇。壇の周囲に化粧石を積んだり、壇上に石などを敷いたりする。

礎石(そせき)
地盤に据えて柱を立てるための石。


釈迦(仏教の創始者)の舎利(遺骨)を納める。寺のシンボル的な建物。

但馬尼寺


但馬尼寺 豊岡市日高町水上、山本

現在も日高東中学校の前に二個の礎石が残っています。150年位前には、26個の礎石が一定間隔を置いて残っていたといいます。(国分寺から約1km弱北へ。)
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気多郡分寺

日本に仏教が伝来してから百年も経つと、仏教の普及はめざましく、日本のあちこちで造寺が行われ、その時の元号から「白鳳寺院」と呼ばれています。但馬の白鳳寺院は、現在のところ豊岡市三宅の薬琳廃寺のみが知られています。


鹿島神社境内 日高町府中新

鹿島神社境内には、大きな礎石が安置されています。但馬の郡ごとに設置された「郡分寺」ではないかと想定されています。薬琳廃寺の建立に続く時期のものだそうです。郡分寺とはいえ巨額の費用がかかるので、気多郡の在地有力者が、個人的に独力で建立したものではなく、但馬国司の側から、積極的に造営費の援助、助成が行われていたのでしょう。さらに各郷には「郷寺」がつくられはじめます。寺は鎮護国家の道場であると同時に、教育の場として、律令制度を全面的に実施するために、但馬国衙から郡司や郷司に指令が発せられます。

但馬の国司(守)

都が794年に奈良から京都へ遷され、時代は平安時代になります。平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していきました。しかし、律令制と現実の乖離が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換しました。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制といいます。

国衙(こくが)は、もとは奈良時代に日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画を指す用語でしたが、平安時代頃までに、国司の役所(建物)そのもの(国庁という)を国衙と呼んだり、国司の行政・司法機構を国衙と呼ぶことが一般的となりましました。また、国衙に勤務する官人・役人を「国衙」と呼んだ例も見られます。国衙を中心として営まれた都市域を国府(こくふ)といいましました。古代では「こう」といい、地名として全国に残っているものもあります。
但馬国の国司(但馬守)の記録として残るものは、以下の通りです。

  • 源経基(みなもとの つねもと、在任:930頃)平安時代中期の皇族・武将。清和源氏経基流の祖。位階は贈正一位。神号は六孫王大権現。弟に経生、子に満仲・満政・満季・満実・満快・満生・満重・満頼ら。武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めましました。
  • 源頼光(1010年頃 天暦2年(948年)~治安元年7月19日(1021年8月29日)がいます。平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊娘。清和源氏の三代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれます。但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任しましました。左馬権頭となって正四位下になります。頼光は藤原摂関家の家司としての貴族的人物と評される傾向にあります。頼光寺
    一方で、後世に成立した『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』、室町時代になって成立した『御伽草子』などで、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られています。日高町上郷に頼光寺があります。但馬にいる時の居館だったといわれれています。
  • 平正盛 在任:1110年頃、正盛が家督を継いだ頃は平家も勢力が小さく、河内源氏に臣従し源義家に仕えていましました。従四位上、検非違使、因幡権守、伊予権守、備前守、右馬権頭、讃岐守、但馬守、丹後守を歴任。平経正は、平安時代末期の武将、歌人。平経盛の長男で、弟に経俊、敦盛があります。平清盛の甥にあたる。官位は正四位下に昇叙し、但馬守、皇太后宮亮、左馬権頭を歴任しましました。
    一門の中の俊才として知られ、歌人、また琵琶の名手として名を挙げた。藤原俊成や仁和寺五世門跡覚性法親王といった文化人と親交が深く、とりわけ覚性からは、経正が幼少時を仁和寺で過ごしたこともあり、楽才を認められ琵琶の銘器『青山』を下賜されるなど寵愛を受けましました。
  • 平忠盛 在任:1130年頃 平安時代末期の武将。伊勢平氏庶流。平清盛の父。大治2年(1127年)従四位下に叙され、備前守となり左馬権頭も兼ねた。さらに、牛や馬の管理を行う院の御厩司となりましました。内昇殿は武士では摂関期の源頼光の例があるものの、この当時では破格の待遇でしました。美作守-、尾張守-久安2年(1146年)播磨守。諸国の受領を歴任したことに加えて、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄え、平氏政権の礎を築いましました。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』があります。
  • 平重衡 1182年(権守) 平安時代末期の武将。平清盛の五男。母は平時子。位階は従三位次いで正三位に昇り三位中将と称されましました。南都焼討を行って東大寺大仏を焼亡させましました。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送されましました。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首されましました。
    応保2年(1162年)6歳で従五位下、長寛元年(1163年)7歳:尾張守(頼盛の後任)、永万2年のち改元して仁安元年(1166年)(10歳):従五位上(中宮・藤原育子御給)、12月30日:左馬頭(宗盛の後任)、仁安3年(1168年)(12歳):正五位下(女御・平滋子御給)、承安元年(1171年)(15歳):従四位上(建春門院御給)、承安2年(1172年)(16歳):中宮亮(中宮・平徳子)、2月17日:正四位下、治承2年(1178年)(22歳):春宮亮(東宮・言仁親王)。左馬頭如元。中宮亮を辞任、治承3年(1179年)(23歳):左近衛権中将、12月14日:左中将を辞任。春宮亮如元、治承4年(1180年)(24歳):蔵人頭、2月21日:新帝(安徳天皇)蔵人頭。春宮亮を辞任、治承5年のち改元して養和元年(1181年)(25歳):左中将に還任。従三位、養和2年のち改元して寿永元年(1182年)(26歳):但馬権守兼任、寿永2年(1183年)(27歳):正三位(建礼門院御給)、8月6日:解官寿永2年(1183年)5月に倶利伽羅峠の戦いで維盛の平氏軍が源義仲に大敗し、平氏は京の放棄を余儀なくされましました。重衡も妻の輔子とともに都落ちしましました。重衡は勢力の回復を図る中心武将として活躍。同年10月の備中国・水島の合戦で足利義清・海野幸広を、同年11月の室山の戦いで再び行家をそれぞれ撃破して義仲に打撃を与えた。翌寿永3年(1184年)正月、源氏同士の抗争が起きて義仲は鎌倉の頼朝が派遣した範頼と義経によって滅ぼされましました。この間に平氏は摂津国・福原まで進出して京の奪回をうかがうまでに回復していましました。しかし、同年2月の一ノ谷の戦いで平氏は範頼・義経に大敗を喫し、敗軍の中、重衡は馬を射られて梶原景季に捕らえられてしまう。元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、この際に平氏の女たちは入水したが、重衡の妻の輔子は助け上げられ捕虜になっています。木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首されましました。享年29。参考:「仏教の思想」国際仏教学大学院大学教授 木村 清孝フリー百科事典 「ウィキペディア」