兵主神社とは何か?!

1.概要

但馬内には式内社の兵主神社だけで7社.式外社5社、八幡神社摂社兵主神社2社、計14社。
但馬に隣接する鳥取県最東端の岩美町に佐弥乃兵主神社、許野乃兵主神社の式内兵主神社2社がある。同じく武神を祀る八幡神社、日吉(日枝)神社などは全国的な神社だが、他地方では兵主神社そのものが数が限られていて、極めて特異な例である。

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名神大 水谷神社の元の位置をさぐる

筑紫紀行は、尾張の商人、菱屋平七(別名吉田重房)が、伯父の商家「菱屋」を継ぎ40歳で楽隠居となり江戸から九州まで広く旅を楽しんだ。この紀行は享和2年(1802)3月名古屋を出て京・大坂を経由して九州長崎を旅したときの記録である。当時の旅行記として出版され、明治にも多く読まれていたようである。但馬の江戸享和期のようすが克明に記されているので興味深い。

筑紫紀行巻之九

「大川の岸を通りて二十軒計(ほど)行けば養父の宿。(高田より是まで二十五丁)人家二百軒ほど。商家大きなる造酒屋茶屋宿屋おほし。宿もよき宿多し。町の中通に溝川有り。町をはなれるは。道の両側松の並木のあるべき所に。桑をひとし植え並べたり一丁ばかり行けば左の方に水谷大明神の宮あり。これは神名帳に但馬国養父郡水谷神社とある御社か。坂を登りて随身門のあるより入りて拝す。

門は草葺き(かやぶき)、拝殿本社は檜皮葺き(ひはだぶき)なり。左の方にお猫さまの社とて小さき宮あり。宮の下なる小石をとり帰りて家に置く時は鼠を僻といふ。又しばし行きて五社明神の御社なり。是は神名帳に但馬国養父郡夜父座神社五座とある神社なるべし。

今は藪崎大明神と申すなり。また一丁ほど奥の方に。山の口の社といふあり。是は狼を神に祭る御社なりといへり。

「玄松子の記憶」さんによれば、「昔は禰高山山頂に上社、中腹に中社、麓の現在地に下社があったらしい。禰高山は、一名、水谷山とも称し、当社も、養父水谷大明神とも、水谷大社とも呼ばれていた。ただし、当地の式内社に水谷神社という名神大社が存在しており、当社との混同も考えられる。」

江戸の当時、一町(丁)は約109.09mであるから、養父の町を離れて松並木を通り、桑畑を一丁(約109.09m)ばかり行けば、左手に水谷神社の宮あり(神名帳にある当社か)。

またしばらく歩いて五社明神、これは神名帳の夜父座神社五座である。今は藪崎大明神という。また109mほど奥に山の口社あり、とある。今も養父神社の奥に山之口神社があるから、夜父座神社五座(養父神社)は移動していない。とすれば、養父市場から水谷神社まで約109.09m、さらに水谷神社から約109.09mに養父神社があることになるから、養父市場と養父神社のちょうど真ん中に水谷神社が存在していたことになるのだ。とすれば、江戸時代のこの水谷神社は、奥米地の同名の式内社水谷神社ではなく奥米地に遷座されたのではないだろうか。時代によって神社が遷った例は多い。

この時代には養父市場から109mほど歩いて左手に水谷神社の宮があったのは間違いない。が、筆者も養父神社は断定しているのにこの水谷大明神の宮が神名帳にあるその神社かわからないがとしている。

この水谷大明神の宮の坂を登りて随身門、門は草葺き、拝殿本社は檜皮葺きなり。左の方にお猫さまの小さき社。この神社が奥米地の水谷神社の分社であれば、奥米地の同名社よりご立派な社を建てるとは考えにくい。もちろん現在のまた養父神社後方の禰高山は、一名、水谷山とも称し、養父神社も、養父水谷大明神とも、水谷大社とも呼ばれていたという。

実際に養父市場の町はずれを今の大藪口バス停とすると、養父神社がある地点までは約500m。右手は大川の円山川、左手は山の斜面が続き、坂を登るとあるが、とてもそこそこの境内をもつ神社が建てられるべき余地も痕跡もないのだ。養父市場内には三柱神社があるが、町を離れて109mほど歩いて左手に水谷神社の宮と書いてあるし、この社は式内社ではないので違う。

養父郡は「和妙抄」では、糸井、石禾(いさわ)、養父、軽部、建屋、三方、大屋、遠佐(おさ)、浅間、養耆(やぎ)の10をあげる。

ちなみに養父を知らない人でやぶと読める人はいない。『播磨国風土記』は万葉仮名で夜父(ヤフ)と書いてある。大事なのは音だ。ヤフは、今風に発音すれば「よう」なのだ。太古はヤフと発音していたから夜父をかなとして充てていた。平安にかなが使われるようになり、漢字本来の意味を充てるようになって養を充てたのであろう。遠佐郷八鹿村もヤオカと発音し、屋岡神社(八鹿町八鹿)。現代かな使いまでは「やうか」と書いてようかと発音していた。養父の岡ならヤオカで意味が通じる。養耆(八木)は養父の端の意味ではないかという気がしてくる。

養父郡は日下部系図によれば、孝徳天皇第二の皇子表米王が、異族退治の勲功により養父郡の大領をさずかったとある。江戸期までは養父(市場)は二百軒あったというから、養父郡内はもとより、大名領の豊岡、出石の城下を除けば但馬一の町だ。

延喜式神名帳では、養父郡三十座 大 三座 小二十七座。
式内社・夜夫坐神社五座のうち二座が名神大、三座が小社。
(あとの大社は水谷神社)

今の御祭神は倉稻魂命 大己貴命 少彦名命 谿羽道主命 船帆足尼命
五柱の神々を祀っているが、

『但馬考』では、
上社大己貴尊、中社倉稲魂尊・少彦名命、下社谿羽道主命・船帆足尼命
『養父郡誌』では、
上社保食神・五十猛命、中社少彦名命、下社谿羽道主命・船帆足尼命。
『特撰神名蝶』では、
大己貴命、四座不詳とあり、
『兵庫県神社誌』には、
倉稻魂命、五十猛命、少彦名命、谿羽道主命、船帆足尼命。

大己貴命(葦原志許乎命)が祭神であるとする理由は、『播磨国風土記』宍禾郡の記載にある、御方(御形)のの地名の由来の以下の記述。

天日槍命と葦原志許乎命が、黒土の志爾嵩に至り
おのおの黒葛を三条(みかた)を投げて支配地を決定した。
天日槍命の投げた三条は、すべて伊都志(出石)に落ちた。
葦原志許乎命の投げた黒葛は、
一条が但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、
そして、最後の一条が御方に落ちたため、
三条(みかた:御方・御形)という地名となった。

天日槍命の投げた黒葛が出石に落ち、天日槍命を祭神とする出石神社があるように、また、気多郡に葦原志許乎命を祀る気多神社が鎮座するように
御方にも葦原志許乎命を祀る御方神社が鎮座するように養父郡にも、大己貴命を祀る当社・養父神社が存在するという。

禰高山山頂は一名、水谷山とも称したから、上社大己貴尊が水谷神社で別の道が手前にあった、下社がさらに109mほど街道を藪崎方面に行った養父神社の位置と考える。

江戸享和2年(1802)の旅行記だから、少なくとも水谷神社は禰高山山頂近くにあった。とすれば、なにも礎石や柱後など痕跡が残らないはずはない。養父神社がある谷はこの近辺ではここだけが随分と奥深いようだ。今後とも発掘調査に期待したい。

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因幡國八上郡の式内社

延喜式神名帳には、現在の鳥取県東部である因幡國には50座が記されており、そのうち大社1、小社49である。座というのは御祭神のことで1つの神社に主祭神が2座3座祀られている社もあり神社数ではない。但馬一宮出石神社など、伊豆志坐神社8座(並名神大)(出石神社)、夜夫坐神社5座(名神大2座、小3座)養父神社)と記されている例もある。

延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)とは、延長5年(927年)にまとめられた律令や格の細則『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」とされていた平安京が定めた日本最古の社格でそれを与えられた全国の神社一覧である。

「式内社 ○○神社」と書かれているのは、延喜式神名帳の小社を表す。式内大社はとくに「名神大」と記される。

山陰道神 560座 大 37座(就中一座月次新嘗。)小 523座で、式内社の数では、出雲187座、但馬131座、丹波:71座、丹後:65座、因幡:50座、石見:34座、隠岐:16座、伯耆:6座となっている。

因幡國:50座 大1小49。その郡別は、

・巨濃郡[コノ]:9座並小 (今の岩美郡)
・法美郡[ハフミ]:9座大1小8 (今の鳥取市千代川東岸部)
八上郡[ヤカム]:19座並小 (今の八頭郡)
・邑美郡[オフミ]:1座小  (今の鳥取市南部)
・高草郡[タカクサ]:7座並小 氣多郡に併合して消滅し気高郡になった。(今の鳥取市千代川西部)
・氣多郡[ケタミ]:5座並小 高草郡と合併して気高郡になった。(旧気高郡青谷町・鹿野町・気高町今の鳥取市西部)

因幡國のうち、八上(ヤカム)郡は今の八頭郡で鳥取県南東部にあたり、19座並小となっており、因幡国式内社50座の約4割弱にあたる19座が旧八上郡にある。

八上郡とは律令制度の古代因幡國の郡名で、『和名抄』には若桜、丹比(たじひ)、刑部(おさかべ)、亘理(わたり)、日部(くさかべ)、私部(きさいべ・きさいちべ)、土師(はじ)、大江(おえ)、散岐(さぬき)、佐井、石田、曳田(ひけた)の12が記されており、因幡国内で最大規模の郡であった。

以上のように、八上郡は群を抜いて式内社が多い。

また日本海よりも内陸部の八上郡が式内社が多いと言うことは、都(朝廷)からみてそのころの勢力図がどうだったのかといえば、大国主を祀る神社の代表は出雲大社(島根県出雲市)で、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされる能登国一宮気多大社(大己貴神)や、国作大己貴神が円山川を切り開いて沼を開墾したと祀られる小田井神社(豊岡市)など、沿岸部は出雲を筆頭に石見、伯耆、因幡北部、但馬、丹後、若狭、越前、能登、越中の日本海沿岸部は出雲系のスサノオ(素戔男尊)、オオナムチ(大己貴神・大国主の若い頃の名前、『日本書紀』本文によるとスサノオの息子)、オオクニヌシ(大国主)や別称の葦原色許男神をそのまま祭神とする神社が多い。

そうした日本海沿岸一帯は出雲国家連合のような勢力圏が成立していてヤマト朝廷に併合されていったようである。

神社の特性として、勧請システム(他地域に引っ張ってくる)により、信仰エリアの拡大を図っていることから、オリジナルの神社が強いエリアというのは、逆に、他の信仰が入りにくいのではと考えることもできます。それは、神社が多い地域にも同様の事が伺え、新潟県、兵庫県、愛知県、福岡県といった米所として有名な産業地域若しくは、交易の中心地といった文化よりも産業発展が著しい地域の方がその数が多いという傾向を強めております。それは、こうした土地が、人と情報の流動性が激しいことの表れとみることも可能ではないかと考えられるのです。

ただ、これもあくまで指標のひとつに過ぎないので、先ずは、皆さんのご協力の元、神社人でも、こうした神社情報の体系化を進め、究極の日本の文化・歴史マップの完成に臨みたいと思っております。(神社人より)

八上郡といえば売沼神社の八上比売(八上姫)だ。式内社ではないが八頭郡には各所に八上比売の神社が大変多い。

オオクニヌシ(大国主)が因幡のヤガミヒメ(八上比売)を娶る、新羅の王子アメノヒボコ(天日槍)が但馬でアカルヒメ(阿加流比売神)を娶り但馬に住む、日本書紀においてはアカルヒメ(阿加流比売神)が結婚したのはアメノヒボコでなく、意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とされている若狭・越前一宮気比神宮と似た神話や日本書紀に記されているのも偶然ではないだろう。全く作り話なら同じような伝承が偶然にしても残るはずはないからだ。

大江神社三座「大己貴命、天穗日命、三穗津姫命」(八頭郡八頭町橋本)
都波只知上神社二座「素盞嗚尊、櫛名田比賣命」(鳥取市河原町佐貫)
塩野上神社二座「彦火火出見命、鹽土老翁」(八頭郡八頭町塩上)
都波奈弥神社二座「素盞嗚尊、櫛名田比賣命」(鳥取市河原町和奈見)
伊蘇乃佐只神社二座「神直毘神、大直毘神」(八頭郡八頭町安井宿)
多加牟久神社二座「大己貴神、事代主神」(鳥取市河原町本鹿)
意非神社「天饒日尊」(八頭郡若桜町屋堂羅)
売沼神社「八上比賣神」(鳥取市河原町曳田)
和多理神社「左留陀比古神」(八頭郡八頭町郡家殿)
久多美神社「伊弉諾尊、伊弉册尊 配 鹽土老翁」(鳥取市河原町谷一木)
布留多知神社「素盞嗚尊」(八頭郡八頭町重枝)
美幣沼神社「太玉命 合 瀬織津姫神、保食神」(八頭郡八頭町篠波)

平安時代末期に同郡東部が八東郡として分離し、『和名抄』にみえる土師、大江、散岐、佐井、石田、曳田の6が中世以降の八上郡を構成した。

各神社の内容はこちら
神社拾遺

神社の格式と但馬国の神社数

「神社人データベース」によると、神社の数は、全国およそ8万8,000社以上に上ると言われ、仏教系寺院よりも数が多く、日本で最も多い文化建造物のひとつとなります。その内、有人神社(神職者が常駐している社)は、2万社程度とも言われておりますが、実態は定かではありません。

文化庁文化部宗務課「宗教年鑑」に掲載されている各都道府県別の神社の数になり、その数、8万8,585社となりますが、摂社末社を含めれば、20~30万社に上るとも言われ、神社人DBでも、ほぼ登録を終えた東京都(2,309社)や沖縄県(59社)が、それ以上の数に達していることから、約1.3~1.5倍程度のボリュームが実際には見込まれるのではないかと考えています。

ただ、非常に興味深いのが、神社の数の少ない都道府県は、

・和歌山県:熊野神社
・香川県:金刀比羅宮
・三重県:伊勢神宮
・宮崎県:高千穂
・島根県:出雲大社

といった有名な神社が存在する地域に集中しているというのがあります。これは、神社の特性として、勧請システム(他地域に引っ張ってくる)により、信仰エリアの拡大を図っていることから、オリジナルの神社が強いエリアというのは、逆に、他の信仰が入りにくいのではと考えることもできます。それは、神社が多い地域にも同様の事が伺え、新潟県、兵庫県、愛知県、福岡県といった米所として有名な産業地域若しくは、交易の中心地といった文化よりも産業発展が著しい地域の方がその数が多いという傾向を強めております。それは、こうした土地が、人と情報の流動性が激しいことの表れとみることも可能ではないかと考えられるのです。

兵庫県は全国でも神社が多い地域で、新潟県に次いで第二位。
神社数(文化庁文化部宗務課「宗教年鑑」より)

三千社以上は

新潟県 4,933
兵庫県 4,243
愛知県 3,885
福岡県 3,806
岐阜県 3,440
千葉県 3,391
福島県 3,170
静岡県 3,070

の順です。

ただし、神社の数の少ない都道府県として島根県をあげていますが、日本最古の社格と呼ばれる「延喜式神名帳」(延喜年間(901~923)に編纂されたため延喜式と称され、平安期は延喜式神明帳)の式内社では、
大和國:286座 大128小158
出雲国:187座 大2小185
となりますから、やはり島根県は格式の高い神社が多いことになります。

神名帳は、単なる当時の神社総数目録を意味するのではなく、当時、律令制における一機関である神祇官(じんぎかん)が、神社を統括するようになり、彼らが、由緒正しき霊威ある神社を認定するとの趣向で編纂されたものとなります。そのため、ここに掲載されるということは、当時として、非常に格式が高い神社と認められたことになります(この制度を官社制度と言います)。具体的には、この式内社は、大枠2種、官幣(かんぺい)社、国幣(くにべつ)社に分類され、更に、それぞれ大小に区分される計4種の神社に選別されます。

官幣社:朝廷管理(現在で言うところの中央政府管理)
=官幣大社:198社304座/官幣小社 :375社433座
国幣社:各国国司管理(現在で言うところの各都道府県庁管理)
=国幣大社:155社188座/国幣小社:2133社2207座

この場合の大小は、当時の社勢の違いによるものとされておりました。また、官幣社が、中央直轄系となるため、京都を中心とした畿内に集中し、国幣社は、逆に、全て畿外(地方)に指定されています。更には、これら式内社の中から、特にその霊験が著しく高いという意味を込めて、「名神」のタイトルを賜る神社もあり、その全てが大社であったことから、「名神大社」と呼ばれる神社もありました。因に、この時に、「神宮」の称号を付されていたのが、伊勢神宮と鹿島神宮、香取神宮の三社のみであり、こちらもかなり別格扱いされていたということが分かります。ただ、そんな官社制度も律令制が崩壊後、中央の基準から外れることとなり、明治時代に改めて、官幣社/国幣社を用いた社格制度が復活するようになります。しかし、そのタイトルは同じでも、意味は、相当異なるため、こちらの場合には、やはり「式内社」と表記された上で、実際の社格が表示されるなどの違いがあるため、十分な注意が必要です。

「延喜式神名帳」には、全国で大492座、小2640座が指定されています。相甞祭(あいなめさい)の官幣を受ける大社69座は、多い順に大和31、摂津15、山城11、河内8、紀伊4座です。

新甞祭(にいなめさい)の官幣を受ける大社(官幣大社)304座は、京中3、大和128、山城53、摂津26、河内23、伊勢14、紀伊8、近江5、播磨3、阿波2、和泉、伊豆、武蔵、安房、下総、常陸、若狭、丹後、安芸がそれぞれ1座です。大和朝廷の勢力範囲の拡大経過と見ることができるでしょう。

かつての「延喜式神名帳」の旧国別でも、但馬国の式内社数の多さに驚きます。

但馬国は131座(大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも大の位の神社数が多いのが特徴です。但馬国を旧郡名の朝來(アサコ)郡、養父(ヤブ)郡、出石(イズシ)郡、気多(ケタ)郡、城崎(キノサキ)郡、美含(ミグミ)郡、二方(フタカタ)郡、七美(ヒツミ)郡の8つに分けると、出石郡が9座2社、気多郡は4座4社置かれ、次いで養父郡が3座2社、朝来郡、城崎郡が各1座1社ずつとなっています。

大小合わせて131座というのは、例えば

大和國:286座 大128 小158
伊勢國:253座 大14 小235
出雲国:187座 大2 小185
近江国:155座 大13 小142
※但馬国:131座 大18 小113
越前國:126座 大8 小118

近隣で比べると、

丹波国:71座 大5 小66
丹後國:65座 大7 小58
若狭国:42座 大3 小14
因幡國:50座 大1 小49
播磨国:50座 大7 小43

となっているので遙かに引き離していることがわかります。それは大和朝廷の勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。

桜井勉 校補但馬考

朝来(あさご)郡

此地ニ朝來山トイウフ名所アリ、取リテ郡ノ名トセリ、俗ニハ、此郡ニイマス栗鹿ノ神、國中ノ一宮ユヘ、諸ノ神タチ、朝コトニ来タリマミエ玉フ、故に、朝來郡ト名ツケシト云ハ、憶説ナラン、スヘテ、郡郷ノ名ハ、其地名ヲ取テ名ツクルヤ、古(故)実ナリ、

倭名類聚抄 郷八
山口 桑市 伊田 賀都(かつ) 東河(とが) 朝来 栗賀(あわが) 磯部
村数七十九
延喜式神名帳曰九座 大一座、小八座
栗賀神社(名神大) 朝来石部(あさごのいそべ) 刀我石部(とがのいそべ) 兵主神社 赤渕 伊由 倭文(しとり) 足鹿 佐嚢(さな)

養父(やぶ)郡

倭名類聚抄 郷十
糸井 石禾(いさわ) 養父 軽部 大屋 三方 遠屋 養耆(やぎ) 浅間 遠佐(おさ)
延喜式神名帳曰三十座 大三座、小二十七座
夜夫坐(やぶにいます)五座(名神大二座、小三座) 宇留波 水谷(名神大) 浅間 屋岡 伊久刀 楯縫 兵主神社 男坂 伊伎都比古阿流知命神社二座 井上(いのへ)二座 手谷 坂盖(さかき) 保奈麻 葛(たづ) 大輿比 桐原 盈岡(みつおか) 更杵村大兵主神社 御井 名草 杜内 和奈美 夜伎村坐山(やきむらにすの)

出石(いずし)郡

倭名類聚抄 郷七
小坂 安美(あみ) 出石 室野 埴野 高橋 資母
村数七十八

延喜式神名帳曰二十三座 大九座、小十四座
伊豆志座神社八座(並名神大) 御出石神社(名神大) 桐野神社 諸杉神社 須流神社 佐々伎神社 日出神社 須義神社 小野神社 手谷神社 中島神社 大生部兵主神社 阿牟加神社 比遅神社 石部神社 小坂神社

気多(けた)郡

倭名類聚抄 郷八
太多 三方 楽前(ささのくま) 高田 日置 高生(たかふ) 狭沼(さの) 賀陽(かや)
村数七十四(佐野含む)

延喜式神名帳曰二十一座 大四座、小十七座
多麻良伎神社 気多神社 葦田神社 三野神社 売布神社 鷹貫神社 久斗寸兵主神社 日置神社 楯縫神社 井田神社 思徃(おもひやり)神社 御井神社 高負神社 佐久神社 神門(かんと)神社 伊智神社 須谷(藤井)神社 山神社(名神大) 戸(と)神社(名神大) 雷(いかづち)神社(名神大) [木蜀]椒(ほそき)神社(名神大)

城崎郡

倭名類聚抄 郷六
新田10 城崎14(佐野含む) 三江 奈佐 田結 餘部

延喜式神名帳曰二十一座、大一座、小二十座
物部神社 久麻神社 穴目杵(あなめき)神社 女代神社 輿佐伎神社 布久比神社 耳井神社 桃島神社 兵主神社 深坂(ふかさか)神社 兵主神社二座 気比神社 久流比神社 重浪(しぎなみ)神社 縣神社 酒垂神社 西刀(にしと)神社 海神社(名神大)

美含(みぐみ)郡

風土記(古老伝)
郷十三、神社五所
倭名類聚抄 郷六

佐須 竹野(たかの) 香住 美含(みぐみ) 長井 餘部
村数 佐須二十 竹野二十九 香住八 長井十一 餘部二

延喜式神名帳曰十二座 井小
佐受神社 鷹野神社 伊伎佐神社三座
法庭(のりば)神社 美伊神社 椋橋(たらはし)神社
阿故谷神社 桑原神社 色来(いろく)神社 丹生(にふ)神社

二方(ふたがた)郡

倭名類聚抄 郷九 村数五十四
久斗7 二方5 田公(たきみ)7 大庭7 八太(はだ)11 陽口? 刀岐? 熊野? 温泉(ゆ)16

延喜式神名帳曰五座井小
二方神社 大家神社 大歳神社 面沼(めぬ)神社 須加(すか)神社

七美(しつみ)郡

倭名類聚抄 郷五 村数七十三
兎束(うつか)14 七美14 小代20 射添(いそふ)13 駅家12
延喜式神名帳曰十座 井小
多他神社 小代神社二座 志都美神社二座 伊曾布神社 等余(とよ)神社 高坂神社 黒野神社 春木神社

日本人はどこから来たのか 5/8 同時期に伝わった鉄器と青銅器

中国では、殷代には既に鉄器が発見されているが、中国戦国時代が青銅器時代から鉄器時代への移行期と言われている。本格的な鉄器の普及は前漢時代とされる。中国戦国時代の記録を見ると秦は、高度に精錬された青銅器武器を使っていた。日本では対照的に縄文時代末期から弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入している。

『日本古代史入門』 著者: 佐藤裕一氏

28 鉄器の出現

日本は、鉄器の出現は、縄文時代末期です。福岡県曲り田遺跡出土の鉄片(板状鉄斧の頭部といわれます)は、水稲耕作とともに伝播したと考えられ、縄文時代末期に用いられたとみられます。また、熊本県斎藤山遺跡は弥生時代全期を主体とする貝塚で、夜臼式と板付I式の混在する貝層から、鉄斧が出土しています。

中期には、石製工具の消失や木製農具の製作法の変化などがみられ、何れも鉄器の使用を想定しなければ理解できないことから、鉄器が普及していたことがうかがえます。
鉄器普及が顕在化するのは、福岡県立岩堀田遺跡の例のように、中期後半のことで、この時期に、「王」制が確立する段階を迎えました。生産力の発展段階においても時代を画する重要な時期となっています。

つまり、中期中頃、あるいは中期後半に当たる福岡県の須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡では、青銅器武器や前漢鏡・ガラス製品などがみられるものの、鉄器はみられません。しかし中期後半の福岡県立岩堀田遺跡では、鉄製武器と前漢鏡・ガラス製品の組合せとなっており、武器を中心に、青銅器から鉄器へと材質が転換していきます。

後期に入ると鉄製農工具が激増します。長崎県原ノ辻・カラカミ遺跡、福岡県大南遺跡などで多量に検出されるように、摩耗・破損した鉄器は再使用されることなく廃棄されています。それは潤沢な供給を抜きにしては考えられません。

それらの検出遺構は、中期後半には墓だったものが、後期には住居跡や包含層へと変化している点からも普及ぶりが分かります。

鉄器の場合、初期の例を除いて形態的な特徴から、多くは国内生産と考えられます。つまり、前期初頭~中期前半は船載品の工具(手斧、刀子など)が主体をなし、前期末よりヤリガンナ、鏃(ヤジリ)、刀子など小鉄器が、中期前葉より斧など工具が国内生産されました。そして中期中葉に武器、中期後葉に鍬(クワ)などの農具の生産が開始されます。

29 青銅器の鉄器の普及

弥生時代は、水田稲作の時代でもあり、また金属器の時代でもあります。前期末には、船載された武器を主体とする青銅器と、国内生産された工具を中心とする鉄器が出現します。

中期前半には、剣・矛(枝がないほこ)・戈(クヮ・ほこ)の他に腕輪や多紐細文鏡などが加わります。そして、この頃までに青銅器の国産化が始まります。つまり、中期前半で基本的に姿を消す細形銅矛の鋳型が佐賀県惣座遺跡・吉野ヶ里遺跡の二遺跡で検出され、また佐賀県姉遺跡出土の中期初頭~中頃の銅剣鋳型は、朝鮮半島に例を欠く中細形銅剣で、さらに前期末の福岡県有田遺跡の細形銅剣などに国産の可能性が指摘されます。

中期後半以降、中国からの船載の銅鏡や鉄製素環頭刀などが見られるものの、青銅器・鉄器の多くは国内生産されます。

中期後半になると、副葬品は、青銅製武器が姿を消し、鉄製武器が銅鏡とともに主役になります。前期末に日本に流入した青銅器武器は、副葬されなくなったこの時期に、祭器・儀器に変質して大型になり、祭祀遺構に埋納され、それまでの実用的性格が祭祀用的性格に変質します。

一方、鉄器は、国内生産が開始された時点から工具を中心とした実用品で、墳墓には埋納されません。中期後半には、福岡県立岩堀田遺跡に象徴されるように、余剰を掌握した「王」が出現し、鉄器武器を独占するようになりますし、その一部が墓に副葬されます。

金属器は当初、朝鮮半島南部から流入しますが、中期後半かやや先行する頃、甕棺墓副葬の前環鏡や鉄製素環頭刀、ガラス器などにみられるように中国の影響が出始め、以降、対馬を除き船載品は圧倒的に中国製となります。

中期後半は、それまで朝鮮を主体としていた外的影響力が、漢(中国)に転換する時期であり、その最大の契機は、前漢武帝の四郡設置(前108年)による朝鮮半島の直接経営と、それに続く鉄製武器の輸出解禁(前82年)です。

ガラス製品や一部の鉄製武器など中国製品が登場する中期中頃や、前漢鏡や鉄製素環頭刀・ガラス璧など圧倒的な中国製品の世界となる中期後半は、漢帝国の影響を受けたものです。

30 銅鏡と鉄器の東遷

弥生時代の青銅器鋳造遺跡は、福岡県春日市須玖岡本遺跡を中心とする春日丘陵一帯、大阪府茨木市東奈良遺跡を中心とする一帯が知られています。特に春日丘陵は、弥生時代最大の青銅器生産拠点で、鏡・剣・矛・戈・鐸など多種類の青銅器を鋳造するほか、ガラス勾玉を製作し、さらに鉄器の生産も行っています。ことに中広銅矛は独占生産しています。

高倉洋彰氏(1943~、西南学院大学教授)は、銅鏡・鉄器が当選していく状況を、およそ次のように述べています(『日本金属器出現期の研究』などの内容から要約)。

○中期後半の遺跡の出土鏡はすべて前漢鏡で、そのほとんどは筑前にあり、特に糸島・福岡の良平屋に集中している。

○次に、後期前半の遺跡の出土鏡(前漢鏡系の鏡と後漢鏡)は、面数は糸島平野が圧倒するが、遺跡数では佐賀平野の伸びが目立つ。この時期までは、例え破片であっても、副葬時には完形であったと判断されるものばかりである。

○停滞期をはさんで後期後半から終末、一部古墳時代初頭にかけて、再び後漢鏡が副葬されるが、一変してその分布は西日本に波及する。注目すべきは完鏡で、後期前半とほぼ同じ範囲の対馬・壱岐・佐賀県・福岡県にしか分布していない。

一方、破鏡や破片の鏡は、大分県や西日本一帯に拡大分布している。北部九州の一部に分布する完鏡に対し、鏡片が漢鏡の分布範囲を押し広げている。

○このような漢鏡の分布圏の変遷は、細形銅矛(玄界灘沿岸の諸平野に集中)→中細銅矛(細形銅矛分布圏が拡大)→中広銅矛(山陰地方、瀬戸内海沿岸から四国西南部まで拡大)と同じ方向性で、また銅剣やほう製鏡も同様。弥生時代青銅器の初源はすべて朝鮮半島や中国大陸に由来することから、自然な流れであるといえる。

○弥生時代、北部九州を中心に普及する鉄製武器は、鉄製農具と相前後して東遷する。鉄剣は後期後半~終末に瀬戸内・近畿では実態として古墳時代以降にみられる遺物である。

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日本人はどこから来たのか? 4/5 倭人の根拠地

『日本古代史入門』 著者: 佐藤裕一氏によると、

14 倭人の根拠地:朝鮮半島南部と北部九州

朝鮮半島南部と北部九州にいた「原倭人」は、早くから雑穀を栽培しており、ある程度の航海民的な性格をもち、稲作などをいち早く取り入れやすい条件をもっていました。ごく初期の稲作遺跡が、主に朝鮮半島南部(京畿道欽岩里遺跡出土炭化米で陸稲の可能性あり。紀元前1260±70~紀元前670±100など)と北部九州にみられます。

また、半島南部と北部九州から、耳飾り、釣り針、稲作遺跡・磨製石器、支石墓、管玉、合口式甕棺、漢代の銅鏡・銅矛・銅剣、広形銅矛、巴形銅器など、共通の遺物が出土しています。

共通の遺物の出土は、北部九州の文化が朝鮮半島南部へ伝わったとか、半島南部の文化が北部九州へ伝わったと考えるより、両地域にまたがって同じ民族の人々が居住していた、それが「倭人」である、と考えた方が上手く説明できるように思われます。

従来、弥生文化は、水稲栽培、金属器や弥生土器の使用などによって特徴づけられていましたが、水稲耕作と弥生土器の使用とは、分けて考える必要があります。

主に九州で水稲耕作が始まるのは今から3000年程度前で、その頃以降を「稲作時代」「稲作文化時代」と呼ぶことができます。そして、それから2400~2300年程度前まで、縄文晩期の土器が主に用いられる時代が続き、その後、弥生時代の土器が主に用いられるようになります。

この期間の変遷は、半島南部と北部九州の「原倭人」が、稲作などの文化を持った人々を受容し、融合して、「倭人」となっていく過程でもありました。

朝鮮半島南部には、かなり後の時代まで、倭人が住んでいたとみられますが、やがて白村江の戦い(663年)で、唐・新羅連合軍に敗れ、半島における足がかりを失います。

以上

したがって、江南から対馬海流に乗って漂流し、朝鮮半島南部・済州島、壱岐・対馬・北部九州などに漂着し、水田稲作とそれぞれ小さな村が連合して漁業を行い、やがて大規模な佐賀県の吉野ヶ里遺跡や福岡県の板付遺跡、さらに日本海沿岸に出雲国家連合やタニワ国家連合(中心は現丹後付近、但馬・丹波・若狭)から、越国家連合(越前、加賀、越中、越後)にかけて銅鏡・銅矛・銅剣、方形墓などを形成した時期だろう。

徐福伝承は中国の秦時代の人物で常世の国に薬をさがしにやって来たと言われているが、全国各地にあるが浦島伝説は徐福ではないかと思われ、とくに佐賀、丹後は多い。つまり秦氏でもあり、建築技術をもったテクノアラート(職人技術集団)であったと考えると、高床建築、銅鏡・銅矛・銅剣を製造できる人びとです。

倭人とは、東シナ海から日本海沿岸、あるいは瀬戸内海から紀国へ居住して弥生人という、縄文人と融合して独自の日本民族を形づくった製銅技術、織物技術、但馬牛の牧畜などをもっていたとすれば、それを弥生人と言うこともできる。

銅鐸が消える頃にあるいは消した勢力として、やや遅れて現れたのが新羅からやって来たとする天日槍(あめのひぼこ)で、記紀であえて「天日槍は新羅からやってきた王子」とするのは、その頃すでにそうした倭人が住んでいて、鉄の産地・伽耶(任那)から製鉄に必要な大量の森林を求めて銅に替わる製鉄集団が天日槍とされる集団ではないだろうか。「記紀」が記された頃の半島南部は馬韓は百済・弁韓は伽耶・任那、辰韓は新羅という統一国家からだったからなのであって、同じ原倭人が、鉄と森林を求めて当時の鉄の大産地・伽耶・任那からやって来たとも考えられる。

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日本人はどこから来たのか? 3/5 日本人南方起源説の根拠

『日本古代史入門』 著者: 佐藤裕一氏

8 日本人南方起源説の根拠:DNA研究のように2つと黒曜石

宝来聡氏(1946~2004、総合研究大学院大学教授)のミトコンドリアDNAの研究によると、数は少ないものの、埼玉県さいたま(浦和)市内から出土した約5700年前の縄文人骨が、東南アジア人(マレーシアとインドネシア)の塩基配列とまったく同じであったといいます。

塩基配列がまったく同じになることは、偶然では起きないといわれることから、縄文人のある人々は東南アジアから来たといえます。

(中略)

「南島諸島語」は、西はアフリカのマダガスカル島から、東は南アメリカに近いイースター島まで、広大な地域で用いられ、言語学的に共通性があり、「マライ・ポリネシア語族」に属します。

マライ・ポリネシアの民は、史上最大の航海民で、今から1万2000~6000年前頃に、中国南部・東南アジアから出発して、現在の広大な地域に拡がったものと考えられています。その一部の人々が、気候温暖化などに伴い、小笠原諸島を北上するなどして、日本列島にも来た可能性があります。

黒曜石中のウラン濃度の違いから、今から約2万2000年前の南関東の縄文遺跡で、神津島産のものとされる黒曜石が発見されています。この神津島産の黒曜石は、縄文時代の遺跡から数多く出土し、また、南の八丈島からも出土しています。このことから、大平洋を南北に行き来する海上の交通路があったことが伺えます。

沖縄県具志川志港川採石場で発見された湊川人は、供伴資料の放射性炭素などから、約2万年前のものとされており、南方系と考えられています。

水田稲作と渡来系路

すでに以前に調べたことがあるので、佐藤裕一氏のなかでダブらない箇所を取り上げます。

和佐野喜久雄氏(1937~、佐賀大学名誉教授)は、種子の大きさと形の分析から、稲の渡来には、次の三つの波があったといっています。

第一波は、縄文晩期(紀元前8~7世紀、春秋戦国時代)で、朝鮮半島から壱岐を経由して来た粒のごく丸い品種であるといいます。

第二波は、縄文晩期から弥生初期(紀元前4、5世紀頃)に中国から北部九州に直接渡来したもので、やはり短粒のものであったということです。

第三波は、弥生前期から中期頃(紀元前2、3世紀頃)、長粒の品種を中心として、様々な品種が、有明海に入ったと和佐野氏は言っています。

17 倭人の文化・墓制・伝承・風俗

弥生時代に入って、水田稲作とともに普及した各種の高床建築は、中国南部から東南アジアにかけての民族の住居や倉庫として、現在でもなお生き続けていますが、一方、朝鮮半島で高床建築遺構は発見されていません。

また、歌垣と妻問い婚は、弥生時代以来のものと思われますが、中国南部からインドシナ北部にかけて、最近まで広く行われていました。

弥生時代の墳丘墓も、古墳時代の古墳も、遺体を墳丘の比較的高い所に埋葬しますが、これらの墓制は、江南の呉越の土敦墓に類似しています。

倭は、「江南の呉から来た」という伝承をもっていました。

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