日本人はどこから来たのか 5/8 同時期に伝わった鉄器と青銅器

中国では、殷代には既に鉄器が発見されているが、中国戦国時代が青銅器時代から鉄器時代への移行期と言われている。本格的な鉄器の普及は前漢時代とされる。中国戦国時代の記録を見ると秦は、高度に精錬された青銅器武器を使っていた。日本では対照的に縄文時代末期から弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入している。

『日本古代史入門』 著者: 佐藤裕一氏

28 鉄器の出現

日本は、鉄器の出現は、縄文時代末期です。福岡県曲り田遺跡出土の鉄片(板状鉄斧の頭部といわれます)は、水稲耕作とともに伝播したと考えられ、縄文時代末期に用いられたとみられます。また、熊本県斎藤山遺跡は弥生時代全期を主体とする貝塚で、夜臼式と板付I式の混在する貝層から、鉄斧が出土しています。

中期には、石製工具の消失や木製農具の製作法の変化などがみられ、何れも鉄器の使用を想定しなければ理解できないことから、鉄器が普及していたことがうかがえます。
鉄器普及が顕在化するのは、福岡県立岩堀田遺跡の例のように、中期後半のことで、この時期に、「王」制が確立する段階を迎えました。生産力の発展段階においても時代を画する重要な時期となっています。

つまり、中期中頃、あるいは中期後半に当たる福岡県の須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡では、青銅器武器や前漢鏡・ガラス製品などがみられるものの、鉄器はみられません。しかし中期後半の福岡県立岩堀田遺跡では、鉄製武器と前漢鏡・ガラス製品の組合せとなっており、武器を中心に、青銅器から鉄器へと材質が転換していきます。

後期に入ると鉄製農工具が激増します。長崎県原ノ辻・カラカミ遺跡、福岡県大南遺跡などで多量に検出されるように、摩耗・破損した鉄器は再使用されることなく廃棄されています。それは潤沢な供給を抜きにしては考えられません。

それらの検出遺構は、中期後半には墓だったものが、後期には住居跡や包含層へと変化している点からも普及ぶりが分かります。

鉄器の場合、初期の例を除いて形態的な特徴から、多くは国内生産と考えられます。つまり、前期初頭~中期前半は船載品の工具(手斧、刀子など)が主体をなし、前期末よりヤリガンナ、鏃(ヤジリ)、刀子など小鉄器が、中期前葉より斧など工具が国内生産されました。そして中期中葉に武器、中期後葉に鍬(クワ)などの農具の生産が開始されます。

29 青銅器の鉄器の普及

弥生時代は、水田稲作の時代でもあり、また金属器の時代でもあります。前期末には、船載された武器を主体とする青銅器と、国内生産された工具を中心とする鉄器が出現します。

中期前半には、剣・矛(枝がないほこ)・戈(クヮ・ほこ)の他に腕輪や多紐細文鏡などが加わります。そして、この頃までに青銅器の国産化が始まります。つまり、中期前半で基本的に姿を消す細形銅矛の鋳型が佐賀県惣座遺跡・吉野ヶ里遺跡の二遺跡で検出され、また佐賀県姉遺跡出土の中期初頭~中頃の銅剣鋳型は、朝鮮半島に例を欠く中細形銅剣で、さらに前期末の福岡県有田遺跡の細形銅剣などに国産の可能性が指摘されます。

中期後半以降、中国からの船載の銅鏡や鉄製素環頭刀などが見られるものの、青銅器・鉄器の多くは国内生産されます。

中期後半になると、副葬品は、青銅製武器が姿を消し、鉄製武器が銅鏡とともに主役になります。前期末に日本に流入した青銅器武器は、副葬されなくなったこの時期に、祭器・儀器に変質して大型になり、祭祀遺構に埋納され、それまでの実用的性格が祭祀用的性格に変質します。

一方、鉄器は、国内生産が開始された時点から工具を中心とした実用品で、墳墓には埋納されません。中期後半には、福岡県立岩堀田遺跡に象徴されるように、余剰を掌握した「王」が出現し、鉄器武器を独占するようになりますし、その一部が墓に副葬されます。

金属器は当初、朝鮮半島南部から流入しますが、中期後半かやや先行する頃、甕棺墓副葬の前環鏡や鉄製素環頭刀、ガラス器などにみられるように中国の影響が出始め、以降、対馬を除き船載品は圧倒的に中国製となります。

中期後半は、それまで朝鮮を主体としていた外的影響力が、漢(中国)に転換する時期であり、その最大の契機は、前漢武帝の四郡設置(前108年)による朝鮮半島の直接経営と、それに続く鉄製武器の輸出解禁(前82年)です。

ガラス製品や一部の鉄製武器など中国製品が登場する中期中頃や、前漢鏡や鉄製素環頭刀・ガラス璧など圧倒的な中国製品の世界となる中期後半は、漢帝国の影響を受けたものです。

30 銅鏡と鉄器の東遷

弥生時代の青銅器鋳造遺跡は、福岡県春日市須玖岡本遺跡を中心とする春日丘陵一帯、大阪府茨木市東奈良遺跡を中心とする一帯が知られています。特に春日丘陵は、弥生時代最大の青銅器生産拠点で、鏡・剣・矛・戈・鐸など多種類の青銅器を鋳造するほか、ガラス勾玉を製作し、さらに鉄器の生産も行っています。ことに中広銅矛は独占生産しています。

高倉洋彰氏(1943~、西南学院大学教授)は、銅鏡・鉄器が当選していく状況を、およそ次のように述べています(『日本金属器出現期の研究』などの内容から要約)。

○中期後半の遺跡の出土鏡はすべて前漢鏡で、そのほとんどは筑前にあり、特に糸島・福岡の良平屋に集中している。

○次に、後期前半の遺跡の出土鏡(前漢鏡系の鏡と後漢鏡)は、面数は糸島平野が圧倒するが、遺跡数では佐賀平野の伸びが目立つ。この時期までは、例え破片であっても、副葬時には完形であったと判断されるものばかりである。

○停滞期をはさんで後期後半から終末、一部古墳時代初頭にかけて、再び後漢鏡が副葬されるが、一変してその分布は西日本に波及する。注目すべきは完鏡で、後期前半とほぼ同じ範囲の対馬・壱岐・佐賀県・福岡県にしか分布していない。

一方、破鏡や破片の鏡は、大分県や西日本一帯に拡大分布している。北部九州の一部に分布する完鏡に対し、鏡片が漢鏡の分布範囲を押し広げている。

○このような漢鏡の分布圏の変遷は、細形銅矛(玄界灘沿岸の諸平野に集中)→中細銅矛(細形銅矛分布圏が拡大)→中広銅矛(山陰地方、瀬戸内海沿岸から四国西南部まで拡大)と同じ方向性で、また銅剣やほう製鏡も同様。弥生時代青銅器の初源はすべて朝鮮半島や中国大陸に由来することから、自然な流れであるといえる。

○弥生時代、北部九州を中心に普及する鉄製武器は、鉄製農具と相前後して東遷する。鉄剣は後期後半~終末に瀬戸内・近畿では実態として古墳時代以降にみられる遺物である。

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