縄文人は海洋民族

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縄文人は海洋民族

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『日本人のルーツの謎を解く』長浜浩明氏は、

 文字のない時代、日本に天文学があったかは不明だが、約8千年前の三宅島や本土の縄文遺跡から、伊豆諸島の神津島産黒曜石が発見されている。約6千年前の八丈島の縄文遺跡からもこの黒曜石が発掘されているから、この時代の人たちは見えない島を目指して黒潮を乗り切る航海術を持っていたことになる。星や太陽の運行を理解していなければ外洋を乗り切り、見えない目的地に到達することは不可能だから、当時の人々は天文学の知識を持ち、使いこなしていたに違いない。また太陽進行を意識して造られたストーン・サークルや日時計を思わせる遺跡も、各地で発掘されている。縄文人は農業も行っていたから何らかの暦を使っていたに違いない。

日本各地から出土する異物は、太平洋諸島、沖縄列島、日本列島周辺で活躍する海洋民族の存在を示し、それが1万数千年といわれる縄文文化の一翼を担ってきた。
この時代の船は、縄文時代前期(6千年前)の千葉県加茂遺跡や福井県の鳥浜遺跡を始め、多くの遺跡から出土しており、その殆どが長さ6m以上、直径80cm以上の丸太をくり抜いた丸木船である。そして彼らの行動範囲が予想以上に広いことも分かってきた。

その証拠として近年、朝鮮半島南部から縄文遺跡が相次いで発見され、縄文時代の人たちはこの地まで進出していたことが明らかになった。

3千年前頃から縄文人たちは、九州あたりを出て朝鮮半島南部までの海を越えていたことがわかってきた。(中略)対馬からほど近い慶尚南道や釜山広域市で、最近相次いで日本列島から縄文時代の人々が渡っていたことを示す痕跡が見つかっている。
東三洞貝塚では大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土した。朝鮮半島には独自の土器があり、縄文土器は縄文人がやって来た確かな証拠品といえる。朝鮮半島で特に貴重であった黒曜石を携え、縄文人たちは交易にやって来たのではないかと考えられる。(はるかな旅4)

だが、あの重い縄文土器を小さな丸木船に大量の乗せたうえでの渡航は考えられない。長期にわたり縄文時代の人たちが半島南部で生活し、土器を作っていたからこそ大量の土器が発見されたのであろう。さらに九州産の黒曜石が発見されたことから、彼らは消耗品である黒曜石を供給するため、定期的に往来していたに違いない。

今まで「大勢の渡来人が日本へとやって来た」とされた時代があった。逆に、かなりの日本人が半島へと進出していたのだ。半島南部から発見された多くの遺跡や縄文土器、弥生土器がこのことを証明している。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』 長浜浩明氏で、「倭人は朝鮮半島にも住んでいた」で、このあと、新羅・百済、加羅のち任那日本府も、縄文時代から続く倭がつくった小国家であったことにつながっていく。韓国人が聞くと発狂しそうだが、朝鮮から日本へもたらされた独産物や文化はない。

三国志・韓の条「韓は帯方郡の南にあり、東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。三種あり、一に馬韓といい、ニに辰韓といい、三に弁韓という。

実は縄文時代から多くの人々が日本から半島南部に移り住み往来していた。かなりの韓国人のDNAが縄文・弥生時代の日本人と相同であり、半島から出土する多くの縄文土器・弥生土器がこのことを裏付けている。

「韓国」とはシナの植民地名であり、朝鮮が南北に分断され北朝鮮と大韓民国「韓国」となった。朝鮮半島ではなく韓半島というべきとして迫り、一部のノー天気な歴史学者やメディアは「韓半島」と云うが、それはかつてシナが蔑視して周辺を蔑んで倭や韓と呼んでいたのに朝鮮から韓国に戻して喜んでいることを知っているのだろうか?要するにシナの属国だと宣言しているのであるから。まあそうなりつつあるのは皮肉だ。

日本民族は世界最古の発明家

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日本民族は世界最古の発明家

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[catlist id=582]長い間、日本では稲作は弥生時代に朝鮮半島からやってきた渡来人がもたらしたと思い込まされてきた。

『日本人のルーツの謎を解く』長浜浩明氏は、こう述べている。

 日本では長らく昭和24年(1949)、群馬県の岩宿遺跡の発見で、旧石器時代から人々が住んでいたことが証明された。そしてこの約3万年前の地層から磨製石斧が見つかった。これまで磨製石器が登場するのは約1万年前の新石器時代からというのが定説だった。

その後、日本各地で3~4万年前の刃の部分だけが研磨された局部磨製石斧が発見されてきた。世界最古の発明といえる。また狩猟用の「落とし穴」が約2万7千年前の箱根山西麓遺跡群などから発見されているが、これも世界に類を見ない発明だった。

文明の先進性を測る尺度の一つである土器について見ると、平成十年(1998)、青森県大平山元I遺跡から1万6千年前の土器が出土した。それまでの世界最古の土器は約8千年前というから、エジプトやメソポタミアはもちろん、中国人が自称する偉大なる中国民族より何千年も前から日本列島の人々は土器を作っていた。世界の四大文明より数千年も早い9千5百年前の九州の上野原遺跡からは、弥生土器と見間違う約7千5百年前の土器も発掘されている。つまり縄文時代の人たちは世界の最先端を走っていた。

また木造建築の先進性の証拠として、1万2千年前から弥生時代まで続いた富山県の桜町遺跡から、精巧な木組みを用いた4千5百年前の高床式建物が出土した。この事実から、高床式建物は稲作と共に渡来人がもたらした、なる説も誤りであったことが確定した。そして約35cmを単位とする尺度があったとも考えられ、奈良の法隆寺や東大寺の技術的基礎はこの時代から育まれていたのである。

平成12年(2000)、北海道の垣の島B遺跡から漆器が発見された。これは朝鮮など問題外であり、中国より2千年も早い世界最古の漆器だった。

使われた漆は日本固有種であり、縄文時代の人たちはこの分野でも世界の最先端を走っていた。発明の古さと、縄文時代の行動範囲が朝鮮半島から大陸までに及ぶことから、文明の基本、土器、漆器などの技術は、日本から彼の地へと伝えられた可能性も否定出来ない。年代からして逆はありえない。

(中略)

文字のない時代、日本に天文学があったかは不明だが、約8千年前の三宅島や本土の縄文遺跡から、伊豆諸島の神津島産黒曜石が発見されている。約6千年前の八丈島の縄文遺跡からもこの黒曜石が発掘されているから、この時代の人たちは見えない島を目指して黒潮を乗り切る航海術を持っていたことになる。星や太陽の運行を理解していなければ外洋を乗り切り、見えない目的地に到達することは不可能だから、当時の人々は天文学の知識を持ち、使いこなしていたに違いない。また太陽進行を意識して造られたストーン・サークルや日時計を思わせる遺跡も、各地で発掘されている。縄文人は農業も行っていたから何らかの暦を使っていたに違いない。

ものづくりのアイデアで定評ある器用な日本人。その起源は縄文時代から日本民族にあったのだ。

日本民族のルーツに関する論議は江戸時代から行われてきた。そして明治以降、日本に招聘された欧米の学者が、考古学や人類学を持ち込むことでルーツ研究が盛んになり、この時の彼らの判断が今日まで影響している。
例えば、米国の動物学者で東京帝大教授として招聘され、大森貝塚を発見したことで有名なエドワード・モースは、「本土には本土人ともアイヌ人とも違う人々・縄文人が住んでおり、彼らは今の日本人の祖先とはいえない。記紀の“国生み”“天孫降臨”“神武東征”などが、天皇の祖先が渡来し、先住民を征服したことを物語っている」と主張したという。
またモースらは、縄文土器と弥生土器を作った人々は連続していないとし、この説が大正期以降に定着した。つまり「日本人の先祖は縄文人ではなく渡来人である」なる説は、明治・大正期のお雇い外国人によってレールが敷かれたというのだ。

(中略)

縄文研究で知られる小山修三・国立民族博物館教授(当時)は、「縄文人はおしゃれで、髪を結い上げ、アクセサリーを着け、赤や黒で彩られた衣服を着ていた。技術レベルは高く、漆器・土器・織物まで作っていた。植物栽培は既に始まっており、固有の尺度を使って建物を建て、巨木や盛り土による土木工事を行っていた。
聖なる広場を中心に計画的に造られた都市があり、人口は500人を超えてたと考えられている。ヒスイや黒曜石、食糧の交換ネットワークが有り、発達した航海術によって日本海や太平洋を往還していた。その行動域は大陸にまで及んでいたらしい。
先祖を崇拝し儀礼に篤く、魂の再生を信じている。ヘビやクマなどの動物、大木、太陽、山や川や岩などの自然物に神を感じるアミニズム的な世界観を持っていた。」(『縄文への道』NHKブックス1996)

中国の歴史を調べてみると、この時期は、春秋戦国時代の終わり頃で、秦の始皇帝が、西方から東方へと侵略し、多くの国を滅ぼしていた頃です。滅ぼされた国の上流階級の人々は、ほとんど皆殺しにされたようで、その難から逃れた人々が、一斉に、外洋航海に出たのではないかと推定できます。
北九州や山口を中心とする弥生人骨を分析すると、縄文人とはかけ離れ、中国の山東半島の人骨とかなり似ているとの結果がでている。 彼らのルーツを求めて、朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極めてよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国だったという説が有力になりました。彼らは元々日本列島に住んでいた人々ではなく、稲作の盛んな江南からやってきたのではないかという説が裏付けされたのです。

また、魏志倭人伝に書かれているように、中国を訪問した倭人は「呉の太伯の子孫である。」と言っているが、この国は、春秋戦国時代に江南地方にあった国である。春秋戦国時代の呉はBC473年に滅亡している。

弥生時代以前から稲作はあった

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弥生時代以前から水田稲作はあった

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これまでの固定観念を覆す新たなる大発見

近年、日本海側の山口県から青森県に至る広域で、これまでの歴史学をひっくり返す新たな発見が起きている。青森の三内丸山遺跡の発見(1992)や、島根県雲南市の加茂岩倉遺跡(H8・1996)では、これまでの全国で見つかった総数を出雲一か所で上回るような大量の銅剣・銅鐸が見つかったり、鳥取県米子市淀江町の伯耆・妻木晩田遺跡群(H10・1998)は、発掘当初国内最大級と注目された吉野ヶ里遺跡を5倍も上回る規模とされ、また同じく鳥取県鳥取市青谷町では、因幡・青谷上寺地遺跡は弥生時代後期の100人分を超える人骨が見つかった。日本で初めて弥生人の脳が3人分発見され、また110点に殺傷痕が見られ、倭国騒乱のようすを示す大発見である。これまでの考古学の常識を覆す発見が相次いでいる。

縄文時代から弥生時代に変化し、弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島以外から北部九州に移住することによって始まった時代であるとされてきた。縄文晩期から日本民族によって水田稲作は始まっていたことがわかってきた。稲作=水田稲作という図式でいえば、縄文晩期を除けば弥生時代に始まったとされた定説が年代が縄文晩期に遡っただけと言えるかも知れない。しかし、稲作は水田稲作とするのは正しくない。アジアには、例えば焼き畑のように、水田ではない環境で栽培されているイネがいたるところにある。

縄文人は山麓で原始的な狩猟採集をして、入江や海岸部では魚介類を食して暮らしていたと小中学校で教わってきた。ところが近年全国で見つかった新たな遺跡が、これまでの定説を覆していることは既に前項で述べてきた。

現在までに島根県や鹿児島県など全国で30ケ所を上回る縄文遺跡から、縄文前期(6,000~5,000年前)のプラントオパールによる稲作の痕跡がコンスタントに見つかってきていることから、日本の米作りは太古6千年前も縄文前期から途切れることなく現在まで連綿として続いていることがわかってきた。

日本には野生のイネがないことが、プラントオパール分析法んびよる稲作確定の根拠となっている。稲作を含む縄文農耕は、ほぼ確実な情勢となった。

ムラとクニの誕生

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集落(ムラ)の誕生
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集落(ムラ)の誕生

第一章 縄文期の章で触れたが、日本民族には複数のDNAがあるように、陸続きだったころから少しずつ北方や朝鮮半島、あるいは南方から海を渡ってやって来た人々がいた。やがて日本列島は大陸と離れ、長い年月の間に縄文人というオリジナルな文化を持った日本民族を形成したのだ。弥生時代においても少しは渡来人はいただろう。しかし、それまでと同様、当時の縄文総人口に比べてごく少数であった。朝鮮半島から、あるいは秦氏や呉に滅ぼされた越人が江南から大量にボートピープルがやって来て稲作などをもたらし村ができていったのが弥生時代だという説は、縄文晩期から水田稲作やクリなどを栽培していた遺構が発見されてきたことで覆されている。

“日本人が渡来人達によって稲作や文字・技術がもたらされた”
この史観がシナや朝鮮半島にどこか敬意や遠慮をする観念をいだいてマインドコントロールされてきたのではないだろうかと思う。

縄文晩期には佐賀県唐津市の菜畑遺跡で現時点では日本最古の灌漑施設を伴う水田遺構が見つかった。北部九州において環濠集落と水田稲作の本格的な開始という形で始まり、青銅・鉄の技術が加わり、さらには中国との交流が活発化する中で、充実していきました。次第に北陸・中部・関東・東北へと広まり、多様な弥生社会が成立していきます。

弥生時代の集落には様々な例があるが、一般的に発見されるものとして、居住施設としての竪穴住居、貯蔵施設としての貯蔵穴や掘立柱建物、ゴミ捨て場や土器の焼成など様々な用途に使われたと考えられる土坑(不定形の穴)、集落の周りを巡らせたり集落内部を区画するように掘られた溝(環濠や区画溝など)の遺構がみつかっています。

弥生時代中期前半には、北九州一帯の人口が急増し、「邑(ムラ)」単位から共同体になり、いくつかの共同体がさらに地域国家が形成されるようになります。「ムラ」は群れ(ムレ)から派生したといわれています。初めて王が生まれたのは、九州北部の奴国と伊都国の2カ所とみられています。最初の弥生人が列島に降りたってから約900年後の紀元前50年ごろのようです。

最初の王になったのはその最初の弥生人の子孫かというと、どうもそうではないようです。弥生の王は、農具はもたらしましたが、自衛のために武装するという発送はあまりなかった。しかし、弥生の王は、青銅器の武器で身を飾っっていたことが墓の発掘調査から浮かび上がります。第一次弥生人が運んできたものは、ほとんどが朝鮮半島製なのに対して、王の手元には鏡など中国製の物品が目立ちます。

5.王の誕生

弥生時代には日本史上初めての王が誕生しました。かつての定説は、

「効率的な水田稲作によってたくさんのコメが余るようになり、富が一部に集まるようになった。その富を巡って争いが起きて支配者が生まれた。支配者はさらに民衆や他の集落から富を強権的に奪い合う。こうした弥生時代は戦争の時代だった。」

しかし、現実には弥生の農耕は豊富な余剰が出るほど生産性が高くなかったことが考古学の研究でわかっています。むしろ余剰が出ないほど生産性が低いため、強い意志と実行力のある人をリーダーにしないと共倒れしてしまう恐れがありました。

血筋など関係のない実力主義社会なのであるから、5、6世代と世襲を続ける王家は存在しませんでした。王といっても、後の時代の天皇やヨーロッパの王とはだいぶ印象が異なります。

リーダー、つまり王の最も重要な仕事は、安定したコメの集を維持することに尽きます。天下を取ろうという領土拡大への野望を持つ人物が就いたのではありませんでした。

首長から選ばれた王は、組織を統合するだけでなく、ムラの神々を統合する役割も果たしていきました。中国は当時、漢の時代。周囲の国々を侵略することによって空前の大帝国を築きました。「漢書地理志(魏志倭人伝)」には、倭人は百余国に分かれ、その一部である奴国と伊都国が漢の植民地である朝鮮半島の楽浪郡の朝貢したことが記録されています。力こそ正義という価値観を持つ漢帝国にあこがれた人物が日本で王となったのです。倭人伝には、対馬国(長崎県対馬)、一支国(長崎県壱岐)、末慮国(佐賀県唐津市)、伊都(イト)国(福岡県前原市~福岡市西区)、早良(サワラ)国(福岡市早良区)、奴国、投馬国などが記載されています。

環濠集落

弥生時代は、前代(縄文時代以前)とはうってかわって、集落・地域間の戦争が頻発した時代であったとする意見もあります。集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落などは、集落間の争いがあったことの証拠とされ、また、武器の傷をうけたような痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在なども、戦乱の裏づけとして理解されてきました。

しかし、近年ではこうした一面的な理解に対する反論も多く、未だ定説となるに至っていません。環濠は雨水や動物の進入を避けるためのもので、高地性集落は、見晴らしがよい立地に住むことで、海上交通の見張り役となっていたとか、畑作を主とする生活をしていた集団であって、水田耕作に有利な低地に住む必要がなかったなどといったさまざまな議論が行われており、未だ決着はついていません。

一方、後期後半期の近畿の高地性集落(大阪府和泉市観音寺山遺跡、同高槻市古曾部遺跡などは環濠を巡らす山城)については、その盛行期が、上述の理由から北部九州・畿内ともおおよそ史書に記載された倭国大乱の年代とほぼ一致することから、これらを倭国大乱と関連させる理解が主流を占めているようです。

これに対して、受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠として扱うことが可能です。例えば、額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっていますが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、争いによる受傷者である可能性は極めて高いとされます。

また、人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されていて、これらは武器による受傷人骨であることが明らかです。このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではありませんが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦闘が頻繁に起こったことは確実といえます。

また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半~中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められることが特徴的です。弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされます。この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられています。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少します。

弥生文化のルーツは朝鮮や中国亡命人たちではない

縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、弥生海退と呼ばれる海水面の低下が起きる。現在の日本列島の地形ができあがった。新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していった。稲作も水田稲作になったのもこの時期ではないだろうか。

半島から伝わったのではなく、新羅や百済、加羅は倭人が先住人を巻き込んで築いた小国がもととなっている。つまり、百済や新羅から伝わったのではなく、倭が半島南部を開拓したので逆さまなのである。

これは倭国(日本)も朝鮮半島も、まだ「クニ」と言うべき集合体が形成されておらず、国境も存在しないわけなので、縄文時代でも朝鮮半島を含む大陸と日本列島は自由に往来していたことが分かってきており、同じ中国を起源とする人々や文明が東シナ海沿岸の半島南部や九州、西日本に伝わった時代は大差がないと考えられる。縄文の土器と弥生の土器が同時期に存在していた集落や、縄文村と弥生村が隣同士で仲良く共存していた発見が相次いでいる。弥生時代は700年かけて先住の縄文人と少数の渡来人がゆっくり日本列島に広がっていき、水稲耕作と道具いう食文化を通じた緩やかな統合だったのです。

最初の日本人はどこから来たのか

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最初にやって来た但馬人はどのようにやって来たのだろう。そもそも、われわれの日本人の祖先はどのように日本列島にやってきたのであろうか。

約100万年前から、地球は氷河期時代に入っていた。現在より10度も気温の低い寒冷な時期がくり返し訪れた。海に流れ込むはずの水が陸地で凍りついてしまうため、海面は今より100mも下がったため日本列島は何回かアジア大陸と地続きになることがあり、日本海も大きな湖となってしまうこともあったようだ。しかし、太平洋の暖かい海流にふれる日本列島は、氷河期にも厚い氷に覆われることなく、草原には植物が茂っていたので、マンモスやナウマンゾウ、ヘラジカなどが大陸から移ってきた。それらの動物を追って、シベリア南部から、数万年前についに日本列島という住みやすい場所を発見したのが最初かも知れない。

現在までに、日本列島全域で5,000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から12000年前の後期旧石器時代に残されたものである。兵庫県にも旧石器時代の遺跡は多いが、北部但馬・丹波は少ない。

長い間、歴史学者の多くの人は、日本は中国や朝鮮半島から漢字や文化が伝わったとするのが定説となっていた。秦氏は秦の子孫で、日本列島に大量移動して水稲稲作や道具・神社などの建築技術をテクノクラート(技術集団)が縄文人と融合したのが弥生人だと、まるでゲルマン民族大移動を思わせる。

ところが、そうした価値観に浸っていない科学的な研究や新たな発見により歴史は覆ろうとしている。縄文時代からすでに 水田稲作は行われていたのではないかといわれている。近年になって縄文末期に属する岡山県総社市の南溝手遺跡の土器片中からプラント・オパールが発見されたことにより、紀元前約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたことが判明し、また水稲による温帯ジャポニカについても縄文晩期には導入されていましたことも判明しつつある。稲作も弥生時代の始まりもはっきりと定義できない状態になってきた。近年の放射性炭素年代測定により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前10世紀まで遡る可能性が出てきているのだ。

青森県三内丸山遺跡をはじめとする近年の発掘調査の結果により、縄文文化は想像以上に高度な文化をもっていたことが判明し、縄文観を根本から見直さなければならなくなった。世界四大文明と呼び、日本はそれより新しいとされてきた。しかし、日本文明をそれらに並ぶ文明として位置づけなくてはならない可能性も出てきたのである。縄文人がすでにコメをつくっていたこともほぼ確実となり、弥生時代の始まりを単に「稲作の開始」と定義することができなくなりつつあるのだ。

日本が縄文文化を営んでいる頃、中国大陸をはじめ世界の多くの地域ではすでに本格的な農耕社会が構築されていた。しかし、縄文人はコメを手に入れてから千年以上ものあいだ、農耕生活に移行しなかった。それにはわけがあった。日本列島は豊かな温帯林に包まれ、周囲を海に囲まれ海の幸が豊富で、なお山海の幸にも恵まれていたため、縄文人の食生活は安定し、食うに困るような状況になかた。ヤマブドウでワインを作っていた形跡も見つかっている。縄文人たちは竪穴住居で火を囲み、質素な暮らしをしていたとわれわれが想像していた固定観念が覆ろうとしているのだ。縄文人は好きなときに豊富な山海の食べ物とワインを嗜むグルメなのであった。いや山ではぶどう・木の実、山菜を、海や湖でハマグリ、アワビ、アサリ、シジミなどの貝や魚が取り放題なのだから、現代より豊かであるといえる。採取を基礎とする社会で日本列島ほど安定した社会は世界史上稀であった。そのため、水田稲作を取り入れる必要がなかったというのが、縄文人が水田稲作に興味を示さなかった理由だと思われている。

しかし、縄文晩期になると再び寒冷化が起こり、環境が変化して自然の生産力が低下しました。このような時期に大陸から水田稲作と金属器の高度な技術が入り、それを契機として、縄文人も重い腰を上げて稲作に着手することになったのではないだろうか。

では縄文晩期において縄文人の食糧事情が極度に悪化したかというと、そうではないようです。縄文晩期の貝塚に鳥獣の個体が増える形跡はないし、そのころの縄文人の骨や歯に、成長が止まるような生涯は観察されていません。寒冷化によって自然界の生産力が低下したとはいえ、縄文人の食糧事情が極度に悪化したことはないといえます。

すると、縄文人は自然環境が変化するなか、余裕をもって農耕社会に移行していったと考えられます。縄文人が稲作を始めたのは紀元前五世紀ごろでしたが、その移行の速度は極めて速かったのです。それまでに蓄積した知恵と技術をもって、急速に水田を開拓しました。縄文時代から弥生時代への移行は数百年のうちに本州北端まで伝搬し、西日本と東日本でほぼ同時であったことが明らかにされています。

参考:兵庫県立考古博物館遺跡データ、但馬考古学研究会

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2010年2月19日

日本人はどこから来たのか

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日本人はどこから来たのか

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最初の日本人

現在までに、日本列島全域で5,000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から12000年前の後期旧石器時代に残されたものである。地球的規模でみても、古くから人類がいたことがわかってきた。人類と人(ヒト)の区別は難しいが、猿人が石器を使い始めたのが大体200万年前と考えられており、我々現代人と同じグループの、代表としてはクロマニョン人と上洞人など新人類が登場したのが、20万年前くらいと考えられている。

道具については、猿人のころから石で石を叩いて、割れて尖った石を道具として使っていたようで、石で出来た道具である石器を使っていた時代のことを石器時代と言う。石器時代は石器の発達に応じて旧石器時代・新石器時代に分けられ、旧石器時代は200万年前から紀元前8千~紀元前6千年くらいまで、それ以降は新石器時代といい、旧石器時代との違いは、旧石器時代は前出のとおり石を叩いて作る打製石器を使っていたのであるが、これだと思う通りの形のはならないので、割れた石を磨くことで思い通りの形に仕上げて使うようになる。これを磨製石器と言い、これが使われていることが新石器時代の特徴である。

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第2章 2.『但馬故事記』に詳しい天日槍の足取り

2. 『国司文書 但馬故事記』に詳しい天日槍の足取り

『国司文書 但馬故事記』は、天日槍来朝の叙述や、その子孫の記録は、他書を抜いて最も詳しく、まことに貴重な資料である。
ことに、神功皇后すなわち息長帯姫命おきながたらしひめのみことの母系先祖との関係、および稲飯命の子孫と称せられる新羅王の系譜についても、相当詳しい叙述を行なっている。

-「『国司文書 但馬故事記』訳注」吾郷清彦-

『記紀』はくわしく記していないが、『国司文書 但馬故事記(第五巻・出石郡故事記)』はこれをくわしく記している。現代語にしてみた。

第6代孝安天皇の53年(前340年)*1 新羅の王子 アメノヒボコが帰化した。

ヒボコは、ウガヤフクアエズ(鵜葺草葺不合命)の御子・イナイ(稲飯命)の五世孫なり。

ウガヤフクアエズは、海神・豊玉命の娘・タマヨリヒメ(玉依姫命)を妻にし、イツセ(五瀬命)・イナイ(稲飯命)・トヨミケ(豊御食沼命)・サノ(狭野命)を生みました。

父君のウガヤフクアエズが崩御された後、世嗣よつぎのサノ(狭野命)は、兄たちとともに話し合い、皇都を中州なかつくに*1に遷したいと願い、船師*2を率いて、浪速津なにはつ(大阪湾)に至り、山跡川(大和川)をさかのぼり、河内の国・草香津くさかづ(東大阪市日下)に泊まりました。

まさに山跡(大和)に入ろうとした時、山跡国登見ヤマトノクニノトミ(奈良市)の酋長、ナガスネヒコ(長髄彦)は、天津神の子、ニギハヤヒ(饒速日命)を奉じて、兵を起こし、皇軍を穴舎衛坂クサカエザカ(東大阪市日下)にて迎え討ちました。

しかし、皇軍に利はありませんでした。サノ(狭野命)の兄、イツセ(五瀬命)に流れ矢があたり亡くなってしまいました。サノは、兄たちとともに、退いて海路をとることにしました。

まさに紀の国(和歌山県)に出ようとしたとき、暴風に逢ってしまいました。イナイ、トヨミケは、小船に乗りながら漂流し、イナイは、シラギ(新羅)*3に上り、国王となり、その国に留まりました。トヨミケは、海に身を投げて亡くなられてしまいました。

世嗣のサノは、ついに熊野に上陸し、イツセを熊野碕に葬り、進んで他の諸賊を誅し*4、ついでナガスネヒコを征伐しました。

ニギハヤヒの子、ウマシマジ(宇摩志麻遅命)は、父にすすめてナガスネヒコを斬り、出(い)でて地上に降りられました。中州はことごとく平和になりました。

世嗣のサノは、辛酉(かのととり)の年*5、春正月元日、大和橿原宮に即位し、天下を治め給う。これを神武天皇と称します。

(中略)

ヒボコは、八種の神宝を携え、御船に乗り、秋津州(あきつしま・本州の古名)に来ました。筑紫(九州北部)より穴門(下関の古名)の瀬戸を過ぎ、針間国(播磨)に至り、宍粟邑(しそう・今の宍粟市一宮町)に泊まりました。人々は、この事を孝安天皇にお知らせしました。

天皇は、すぐに三輪君の祖・オオトモヌシ(大友主命)と、倭直やまとのあたえの祖・ナガオチ(長尾市命)を針間国(播磨)に遣わし、来日した理由を問うようにいわれました。

ヒボコは、謹んで二人に向かって話しました。

「わたしは、新羅王の子です。我が祖は、秋津州(日本の本州)の王子・イナイ(稲飯命)。そしてわたしに至り、五世に及びます。
ただいま、秋津州(本州)に帰りたいと欲して、わが国(新羅)を弟の知古に譲り、この国に来ました。願わくば、一畝(ひとつのうね)の田を賜り、御国の民とならせてください。」と。

二人はかえり、この事を天皇に奉じました。天皇は勅(天皇の命令)して、針間国宍粟しさわ・しそう邑と淡路国出浅いでさ邑とをヒボコに与えました。
天日槍は、再び奏していました。

「もし、天皇の恩をたまわれれば、家来らが諸国を視察し、者たちの意にかなうところを選ばせてください。」と。

天皇はそれを許可しました。ヒボコは、菟道川(宇治川)をさかのぼり、北に入り、しばらく近江国の吾名あな邑に留まりました。さらに道を変えて、若狭を経て、西の多遅摩国(但馬)に入り、出島いずしま*6に止まり、住処(居所)を定めました。

ところで、近江国の鏡谷陶人かがみだにのすえとは、天日槍の従者で、よく新羅風の陶器を作ります。

さて天皇は、ついに天日槍命に多遅摩を賜りました。(但馬を与えた)

61年春2月、ヒボコを多遅摩国造としました。

ヒボコは、御出石県主ミズシアガタヌシ・アメノフトミミ(天太耳命)の娘・マタオ(麻多鳥命)を妻にし、アメノモロスク(天諸杉命)を生みました。

 

[註]

*1 中洲・葦原中国(あしはらのなかつくに)
 日本神話において、高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界、すなわち日本の国土のことである。
 *2 船師 江戸時代から明治初期にかけて、廻船を所有して海運活動を行った商人。船の運行に長けた人々のことだろう。

*3 新羅 稲飯命の頃に、半島南部は韓といって、空白地帯に縄文人や弥生人の倭人が住んでいた。三韓(馬韓・弁韓・辰韓)以前で当然国として弁韓に伽倻・任那など12のクニがあった。新羅国も12のクニがあったとされており、弁韓と辰韓は入り乱れており、伽倻に近いところに新羅というまだ小さなクニがあったかも知れない。やがて北部の中国の朝貢国高句麗がその後押しで南下し。漢族・ワイ族など朝鮮系の入植が進み、倭人の子孫との間に婚姻も進む。日本列島は朝鮮渡来人から発展したのではなく、まったく逆であり、半島が倭人が王となってから発展したので、倭に朝貢していた。その半島に渡った子孫の中に帰国して人もいただろう。)


*4  誅 目上の者が目下の者の罪をとがめ殺すこと。
*5 辛酉(かのととり)の日 西暦年を60で割って干支の組み合わせの58番目
*6 出島 今の出石町伊豆・嶋のことではないかと思っている。

つまり、『国司文書 但馬故事記』によると、稲飯命は古代日本の天皇家の皇統とある。これは日本書紀の引用であろうが、天日槍命は人皇初代神武天皇の兄、稲飯命の五世孫で、稲飯命は倭国のひとつである新羅王になったのだから、当時の半島南部は、任那・伽倻で倭国の一部で朝貢国であったろう。その一国から新羅が生まれ、記紀編纂の頃には百済・新羅という国は成立していたが、垂仁天皇3年の頃は新羅という国も半島南部に国家らしきものは全くなく、小さな(クニ)であった。紀は説明がわざと省いたのか「新羅国の王子」のまえに、「今で言う新羅国のあたりの王子」が省かれている。いや友好的な百済国ならまだしも、敵対国で名を記すのも憚れる新羅の王子としたのは、ある意図があったのかも知れないのである。

『但馬故事記』八巻の中で、円山川水系の朝来郡・養父郡・気多郡・城崎郡の各故事記が天火明命あめのほあかりのみことで始まるのに、二方郡のみ書き出しが、大己貴命が出雲国から伯耆・稲葉(因幡)・二方国を開き、多遅麻に入り、伊曾布・黄沼前・気多・津・薮・水石の県を開いで始まり、出石郡は、大己貴命と稲葉(因幡)の八上姫の間に御出石櫛甕玉命みずしのくしかめたまのみことが生まれる。御出石櫛甕玉命は、天火明命の娘・天香山刀売命あめのかぐやまとめのみことを娶り、天国知彦命を生み、天国知彦命が初代の御出石県主みずしのあがたぬしとなる。

ところが、突如脈略もなく、天日槍が出石に現れて、御出石県は伊豆志(出石)となり、出石は一県から但馬の政治の要となり今の出石神社あたりへ遷っている。

記述が異なるのは、天火明命が但馬に入る以前より、出雲勢力の御出石県・二方県があって、人皇6代孝安天皇53年、突如天日槍が登場し、初代多遅麻国造なる。御出石県主・天太耳命の娘・麻多鳥命を娶り、天日槍の子天諸杉命あめのもろすくのみことを以って、2代多遅摩国造と為す。政略結婚によって皇統の国造が気多郡に多遅麻国の府が遷るまで歴代続く。朝廷側に組み入れられたと考えなくもない。これは丹波から但馬が分国し、直轄領(天領)的に、大和政権化に組み入れられたのかも知れないが、日本海の最前線として但馬の重要性が増したのではないだろうか。

丹波と大和朝廷の関係が深くなるのは、天日槍が初代多遅麻国造になる6代孝安天皇(長浜浩明氏の算定で在位期間:西暦60-110年)これより3代のちの人皇9代開化天皇(同じ算定では178-207年)からで約100年後となる。

皇后は伊香色謎命(いかがしこめのみこと) 元は孝元天皇の妃。
一番目の妃に丹波竹野媛(たにわのたかのひめ、竹野比売) – 丹波大県主由碁理の娘。
二番目の妃:姥津媛(ははつひめ、意祁都比売命)姥津命(日子国意祁都命、和珥氏祖)の妹との第三皇子が彦坐王(ひこいますのみこ、日子坐王)

人皇11代垂仁天皇(在位:290-242)が、皇后に彦坐王の女:狭穂姫命(垂仁天皇5年に焼死したとされる)
後の皇后に彦坐王の子・丹波道主王の女・日葉酢媛命
妃:渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。日葉酢媛の妹)
妃:真砥野媛(まとのひめ。日葉酢媛の妹)
妃:薊瓊入媛(あざみにいりひめ。同上)
(他に、3人の妃が他の国から来ている)


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出雲神社はどこにあったのか

先月3月に2度、消費税値上げもあり、今月4月に入って6日に出雲へ3度出かけた。

『延喜式神名帳』記載の出雲国式内社は、大社(名神大社)2座2社・小社185座の計187座と全国的にみても、奈良時代に都のあった大和国286、神宮のある伊勢253に次いで3番目に多い。式内社めぐりをするようになってあらかじめまわる順番の計画を練るのだが、東西に細長い地形に所在する出雲国の式内社は宍道湖を挟み、大半が島根半島ルートと国道9号線ルートに数珠つなぎに集中しており道順もわりと容易である。

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なぜ但馬に兵主神社が多いのか?

但馬には兵主神社がなぜ多いのか?式内って何?ご祭神はだれ?天日槍と関係ある?その素朴な疑問を解き明かすことをこのテーマとしています。
その謎を解き明かす貴重な史料に『国司文書 但馬故事記』『国司文書 但馬神社系譜伝』があります。

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