丹後(京都府北部)の秦氏系神社 2/2

“ 三井寺HP  連載 新羅神社考 京都府の新羅神社(2)

京都府の新羅神社(2)

更に、北にある多久神社の北西八百m程の所の矢田の集落の西端に矢田神社がある。この北方、弥栄町との境の山上には太田南古墳群があり、平成二年(一九九〇)から六年にかけての発掘調査で、後漢時代の鏡などが出土している。平成六年の発掘では青龍三年(二三五)の年号入りの青銅鏡が発見された。年号が刻まれた鏡としては日本最古のものである(青龍三年は中国・魏の年号で、邪馬台国の女王卑弥呼が景初三年〈二三九〉に魏に朝貢した際に皇帝から下賜された鏡の可能性が強いといわれている)。

また、竹野郡網野町には銚子山古墳(弥栄町の太田古墳から五~六㎞の距離)がある。全長一九八mの前方後円墳で、日本海側に存在する古墳としては最大のもの(五世紀前半の築造)である。

丹後半島は海人族が住んでいたと思われる。その海人族は九州の豊後(大分)国とつながりが深く、いくつかの共通性が見られる。和歌山県に古代の怡土(いと)国(福岡県)に因む地名が多いのと同様であるが、これは九州にあった国の氏族が、丹後や紀伊地方へ移住した痕跡ではあるまいか。あま、大野、やさか、竹野、矢田、はた、等。

「ひじのまない」については、丹後は「比治の真名井」、豊後では国東半島の近くの速水郡日出(ひじ)町に「真那井(まない)」がある。また、丹後の伊根町の漁師の家と同じ構造の家が、豊後の南、海部(あまべ)郡に見られる。海部氏(海人族)が九州から中部地方に至る間に広く分布していたことの証拠である。なお、海部郡は紀伊や尾張にもあり、阿曇(あずみ)の海人として朝鮮半島や江南の古代海人と関係が深い。

(二)溝谷神社

溝谷神社のある場所は外(との)村といわれ、溝谷の集落から車で約十分ほど。両側は山に囲まれた谷間のようなところの道である。道路の脇にはわずかであるが田んぼが見られる。(中略)

境内地の奥にある七十~八十段の石段を登った最も高い場所に、杉や楠木の林に囲まれた神社の本殿がある。祭神は新羅(しらぎ)大明神(須佐之男命)、奈具大明神(豊宇気能売命)、天照皇大神の三神で、旧溝谷村三部落の氏神である。本殿と拝殿よりなるが、本殿は瓦屋根の覆屋内に保護されている。拝殿は入母屋造、正面は格子戸、側面は板で覆われている。本殿の扉には菊の紋章と桐の紋が彫ってあり、周辺には高欄つきの回縁がついている。古いがりっぱな建物である。(中略)

当神社の創建年代については、当神社の火災により古文書が焼失し往古の由緒は不明であるが、延喜式(九二七年)記載の神社であることや、崇神天皇の時代の四道将軍の派遣と関係があること、新羅牛頭山の素盞鳴命を祭ったということ、四道将軍の子・大矢田ノ宿禰が新羅征伐の帰途、海が荒れて新羅大明神を奉じたこと、神功皇后が新羅よりの帰途、着船したこと、などから考えれば、当社は古代から存在し、かつ新羅系渡来人と深いつながりがあったことが判る。

溝谷神社に掲げてある『溝谷神社由緒記』には次のように記載されている。

「当社は延喜式所載の古社にして、社説によれば、人皇第十代崇神天皇秋十月、将軍丹波道主命、当国へ派遣せられ、土形の里に国府を定め居住あり。或時、神夢の教あり、眞名井ノト(トはウラ又はキタとも云ふ)のヒツキ谷に山岐神(やまのかみ)あり、素盞鳴尊の孫、粟の御子を以って三寶荒神とし斎き奉らば、天下泰平ならんと。道主命、神教に従ひ丹波国眞名井ノトヒツキ山の麓の水口に粟の御子を以て三寶荒神と崇め奉る。其の御粟の御子は水口の下に新宮を建てて斎き奉る。因て、水の流るゝ所を溝谷庄と云ふ。溝谷村、字溝谷を旧名外(との)邑と云ひしは眞名井名ノトと云ふ字を外の字に誤りて云ひしものなりと。その後丹波道主命の子、大矢田ノ宿禰は、成務・仲哀・神功皇后の三朝に仕えて、神功皇后三韓征伐に従ひ、新羅に止まり、鎮守将軍となり、新羅より毎年八十艘の貢を献ず。

其の後帰朝の時、風涛激浪山をなし航海の術無きに苦しみしに、素盞鳴尊の御神徳を仰ぎ奉り、吾今度無事帰朝せば、新羅大明神を奉崇せんと心中に祈願を結びければ、激浪忽ち変じて蒼々たる畳海となりて無恙帰朝しけれぱ、直ちに当社を改築せられ、新羅大明神と崇め奉る。因て今に至るも崇め奉して諸民の崇敬する所なり」

「従って当社の創祀は丹波道主命の勧請によるもので、新羅(しらぎ)将軍大矢田宿禰の改築祭祀されたと伝えられ、今でも航海の神として海辺の崇敬篤く、現在絵馬堂にある模型船は間人漁師の寄進したものである」

溝谷神社の由緒についての記載は、他にも見られる。『竹野郡誌』によれば、各文献の記述を次のように記載している。

溝谷神社村社字ヒツイ鎮座
『延喜式』溝谷(みぞたに)神社
『丹哥府志』溝谷神社は今新羅大明神と称す
『丹哥舊事記』
溝谷神社 溝谷庄外村
祭神 新羅大明神 素盞鳴命
延喜式小社牛頭天皇新羅国より皈朝有けるを祭りし神号なり、勧請の年暦いつよりと言事を知らず

京都府の新羅神社(3)

出石族とか出石人といわれている天日槍族が、但馬から(京丹後市)熊野・竹野地方を含めた地域に拡がって大きな勢力を張っていたものであろうか。

山陰地方に四道将軍の一人、丹波道主命が遣わされたことは、丹後地方が早くから大和朝廷と政治的に密接に結びついていたことが考えられる。大和朝廷の全国統一の過程で、丹後地方をはじめ山陰地方に重点が置かれたことは、逆にこの地方に大和朝廷に対抗するほどの勢力を持った豪族が政治、経済に強大な権力を持って存在していたことを意味し、丹後地方に雄大な前方後円墳が残された所以を示すものである(『弥栄町史』)。

三、その他の新羅(しらぎ)神社について

大宮売(め)神社の古代祭祀の地

当地方を訪ねるに際し、弥栄町の隣町に当る中郡大宮町字周枳(すき)の大宮売(め)神社(周枳の宮―祭神天鈿女(あめのうずめの)命・豊受大神)の宮司・島谷氏に教示を受けた。島谷氏によれば、「丹後には新羅大明神を奉祭していた社はあちこちにあったのではないかと思われます。……当地方の地名や伝承等からみると、古代朝鮮との係りを強く感じざるを得ません。……」。丹後地方は、古代渡来系(特に新羅系)の人々を中心とした文化が栄えた土地であったようである。

島谷氏の話によれば、大宮売神社のある土地の周枳というのは、スキ国=新羅国(※1)の意であり、竹野郡の間人から竹野川沿の中郡大宮町にかけては、弥生時代には竹野川文化圏を形成しており、古代に渡来した人達の文化が栄えた地域であった。いわゆる出石族・出雲族が居住していた。そしてこの一帯にはキのつく地名(内記、周枳)や、荒・新(安羅)などの地名が多い。周枳は又主木・周木にも通じ、古書には主木殿ありといわれている。

当地方からは弥生時代後期の遺跡が多く発見され、大宮売神社でも明治十二年に二の鳥居の下から壷や曲玉・勾玉が発見されたが、これらの品は祭事の跡(三世紀頃)を物語っている。大宮売の神は巫女(シャーマン)であり、曲玉や勾玉は木の枝につけて祈祀の道具とした。大宮は大国の意である。大宮売神社の周囲は濠となっていた。

大宮売神社のある大宮町は竹野川に沿って古くから開拓された地域であり、竹野川の丘陵地帯には多くの古墳が発見されている。大宮売神社には境内とその周辺から弥生時代から中世にかけての複合遺跡があり、大宮売神社遺跡といわれ、神社の周辺には左坂古墳群(九十三基)、外尾古墳群(二十四基)、新戸(しんと)古墳、宮ノ守古墳群、平太郎古墳群などがある。

大宮売神社の祭神は天鈿女命・豊受大神であるが、これは五穀豊穣を願う、いわゆる祖神である。そして当地の式内社は全部豊受神(天女の一人が豊受の神)、大宮女は八神の一座、機織と酒造り(風土記には比治の真奈井、奈具社)の神であり、丹波道主命米の稲作は天女が降り、奈具の社にとどまったことから、稲作民族が定住したことを意味し、これが祖神となった。なお、豊受神は九州から来たという説もある。
出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)

周枳(すき)というのは白村江(はくすきのえ)の戦いで有名なスキで村のこと、朝鮮語で村とか城のことだそうである。隠岐国に周吉(すき)郡がある。ス・キど分離すれば、ソの村とか国のこととなる。このあたりはスとかソあるいはシと呼んだのだろうと思われる。(丹後の地名)

■周枳井溝

周枳村(現在の大宮町周枳)は、竹野川より土地が高く、谷も浅いため水が少なく、やむを得ず畑にしている農地が多くありました。
「なんとか竹野川の上流から水が引けないものか」と言う農民たちの願いが、時の宮津藩の役人の耳に入り、藩主京極守高の時(1660年代)に竹野川から取水し、谷内から周枳に至る用水路づくりが始められました。
工事は10年の歳月を費やし、寛文11年(1671)完成しました。
周枳の人々はこの用水路のことを「井溝」と呼んで大切にしてきました。
周枳の井溝は、近年コンクリート製の水路として整備され、その大部分は、国道バイパスや府営ほ場整備事業により水路の場所が変わっており、現在は、集落周辺にかつての水路の場所を認めることができます。
集落周辺では、防火用水の水源となったり、「井溝」に洗い場が設けられ、野菜の洗浄などにも利用されています。(京丹後市)

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豊岡市神美地区の兵主神社

郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造いといのみやつこと池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。

天日槍あめのひぼこゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。

『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)と書くことから、天日槍(天日矛)を武神とみなし、兵主と同一視する研究者や歴史家がおられる。

別記にくわしく書いているので割愛するが、天日槍は初代但馬国造となった人物で、権力は掌握できたのかも知れないが、天日槍≠兵主です。

 
右側の低い丘が森尾古墳地

2000(平成12)年、神美地区に近い豊岡市出石町袴狭はかざ遺跡から出土した木製品の保存処理作業中に、船団線刻画のある木製品(板材)が見つかった。

森尾古墳群は、中嶋神社のそばを流れる穴見川をはさんで、東に隣接する森尾地区の北端に位置する小山で但馬で最も早く大正時代に発見された森尾古墳は謎の多い古墳で、そこから中国の年号である「正始元年」で始まる文字が刻まれている「三角緑神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう」と、また、同時に見つかった鏡の一つが1世紀に中国でつくられた近畿で最古級の「方格規矩四神鏡ほうかくきくししんきょう」であることがわかって大きな話題になった。

出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造 新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。

三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡神美村三宅(豊岡市三宅)のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。
三宅地区のすぐ北に隣接する出石郡穴見郷には、奥野の大生部兵主神社は有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの有庫神社を祀るようになった。

また三宅地区に鎮座する穴見郷戸主大生部兵主神社(出石郡穴見市場村=現豊岡市三宅)がある。
いずれも中古からいくたびか分離のたびに遷座もしくは並立されており、それだけ由緒がある証しだ。

奈良県田原本町には鏡作りに関係する神社として、『延喜式』では鏡作伊多神社(祭神の石凝姥命は鏡製作に関する守護神)、鏡作麻気神社(祭神の天糠戸命は鏡作氏の祖神)がある。鏡作りは、弥生時代後期後半から唐古・鍵遺跡にいた銅鐸鋳造の技術者集団が、五世紀初めに新羅から伝えられた鋳造・鍛造技術を吸収していったとされ、その技術集団は倭鍛冶(やまとかぬち)と称し、この集団が鏡作氏につながる(『田原本町史』)。

また工芸品の製作技術だけでなく、大規模な土木工事に生かす技術も渡来人によってもたらされ、その技術によって造営されたと考えられる池についての伝承もある。

穴見川、奥野には土師口という字がついたバス停もあり、他の兵主神社とは異なり大生部兵主神社とわざわざ大生部と冠しているのは何か意味がありそうだ。大生部(おおうべ)とは品部(王権に特定の職業で仕える集団)のひとつではないかと想定できる。生部は生産、製造する品部とすれば穴見は鉄資源に関係する穴師、土師は須恵器(陶器)の陶部、謎の多い森尾古墳の造営と銅鏡などは、須恵器焼き上げに必要な高温生成の技術は、鉄鉱石や砂鉄の溶解を可能にするから製鉄技術集団でもあるとみなすことができると、歴史学者の上田正昭氏はいう。一連の三宅氏による、大生部は陶器、鉄器、土木などの広範囲な偉大さを誇るのかも知れない。

土師器

土師器(はじき)とは、弥生式土器の流れを汲み、古墳時代~奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけ(土師器本来の製法を汲む手づくね式の土器で、主として祭祀用として用いられた)に取って代わられるまで生産された素焼きの土器である。須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、土師器のほうが品質的に下であった。埴輪も一種の土師器である。古墳時代に入ってからは、弥生土器に代わって土師器が用いられるようになった。

多く生産されたのは甕等の貯蔵用具だが、9世紀中頃までは坏や皿などの供膳具もそれなりに生産されていた。炊飯のための道具としては、甑がある。

小さな焼成坑を地面に掘って焼成するので、密閉性はなく酸素の供給がされる酸化焔焼成によって焼き上げる。そのため、焼成温度は須恵器に劣る600~750度で焼成されることになり、橙色ないし赤褐色を呈し、須恵器にくらべ軟質である。

須恵器

高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられた。『日本書紀』には、百済などからの渡来人が製作したの記述がある一方、垂仁天皇(垂仁3年)の時代に新羅王子天日矛とその従者として須恵器の工人がやってきたとも記されている。そのため新羅系須恵器(若しくは陶質土器)が伝播していた可能性が否定しきれないが、現在のところ、この記述と関係が深いと思われる滋賀県竜王町の鏡谷窯跡群や天日矛が住んだといわれる旧但馬地方でも初期の須恵器は確認されていない。結局、この技術は百済から伽耶を経て日本列島に伝えられたと考えられている。

天日槍という渡来技術集団が出石神社を中核として天日槍系の神社と集中する兵主神社、出石郡全域と城崎郡、気多郡、養父郡に基盤を固めていた事が、崇神、垂仁天皇のころには大和(奈良県)へ拠点を移す三宅氏や糸井氏の一族といい、ヤマト王権と深く結びついていた所作であるように思える。

兵主神社

兵主とは、「つわものぬし」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。大己貴命(おほなむち)も大国主の別名で、他には素盞嗚尊・速須佐之男命(スサノオ)を祭神としている。
兵庫(ひょうご)とは、古代の武器庫である兵庫(つわものぐら)に由来する言葉。
このことから転じて、歴史的には武器を管理する役職名として使用されていた。兵庫県の兵庫も神戸市内の地名で大輪田泊(兵庫港)から。

兵主神ゆかりの神社は延喜式に19社ある。
大和 城上(桜井市) 穴師坐兵主神社 「兵主神、若御魂神、大兵主神」
大和 城上 穴師大兵主神社※
穴師坐兵主神社は、穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社)の3社で、室町時代に合祀された。現鎮座地は穴師大兵主神社のあった場所である。
和泉 和泉 兵主神社
参河 賀茂 兵主神社
近江 野洲 兵主神社 「国作大己貴神」
近江 伊香 兵主神社
丹波 氷上 兵主神社 「大己貴神、少彦名神、蛭子神、天香山神」
因幡 巨濃 佐弥之兵主神社
因幡 巨濃 許野之兵主神社 「大国主命、素戔嗚命」
播磨 餝磨 射楯兵主神社二座
播磨 多可 兵主神社 「大己貴命」
壱岐 壱岐 兵主神社
延喜式に19社のうち但馬の式内兵主神社
但馬國朝來郡 朝来市山東町柿坪 兵主神社 大己貴命 旧村社 一説には、持統天皇4年(690)
但馬國養父郡 朝来市和田山町寺内 更杵村大兵主神社 祭神不詳・十二柱神社
但馬國養父郡 豊岡市日高町浅倉 兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國氣多郡 豊岡市日高町久斗 久刀寸兵主神社 素盞嗚尊、大己貴命 旧村社
但馬國出石郡 豊岡市奥野 大生部兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國城崎郡 豊岡市山本字鶴ヶ城 兵主神社 速須佐男神 旧村社 天平18年(746)
但馬國城崎郡 豊岡市赤石 兵主神社二座 速須佐之男命 旧村社 年代は不詳
また、薬王寺に近い但東町虫生(ムシュウ)にも式内社・阿牟加(アムカ)神社の論社安牟加神社があるが、全国で3か所「正始元年」三角縁神獣鏡がみつかっている森尾古墳の森尾にも阿牟加(アムカ)神社があるがここも奥野に近く、この二か所が似ている。

大生部兵主(おおうべひょうず)神社

但馬の式内兵主神社巡りもいよいよ最後になった。
分かりにくい場所にあって数回通っているが、対岸にあるため気づかなかった。
県道703号線(永留豊岡線)と160号線が合流する地点から穴見川を越えて南へ渡った場所に境内がある。
豊岡市奥野1
旧村社
御祭神 大己貴命
いつもお世話になっている「玄松子」さんのページによると、
創祀年代は不詳。
一説に、弘仁元年(810)、当地に兵庫を建て在庫の里と呼ばれて兵主の神を祀り、兵主神社と称したという。
後に、有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの有庫神社を祀るようになった。
延暦二年(1674)本殿を改築、
寛政三年(1791)火災により焼失したため再建された。
式内社・大生部兵主神社の論社の一つ。
祭神は大己貴命だが、異説として素盞嗚尊を祀るという。
また、常陸国鹿島からの勧請とする説もある。
社殿の左右に境内社の祠が二つ。
それぞれに三社が合祀されているようだ。
社殿左の祠には、愛宕神社、秋葉神社、金刀比羅神社。
社殿右には、稲荷神社、皇大神宮、有庫神社。
ただし、大生部兵主神社として有力な論社は二つある。
豊岡市(旧出石郡)但東町薬王寺にある同名社と、この奥野にある同名社。
しかし、薬王寺の大生部兵主神社は延喜式式内社にはないから、奥野の方が古いのではないか。
薬王寺の読み方は「おおいくべひょうすじんじゃ」だが、それは時代によって変化したものだろう。
祭神として素盞嗚命を祀り、用明天皇の皇子麻呂子親王勅を奉 じて牛頭天王も祀っている。
薬王寺は但東町から丹後へ抜ける国境の峠の一つで、東側には京街道だった

鳥居


木造りの鳥居と参道


社殿

境内の西側に舞殿があり、舞殿に向かい合う形で社殿がある。
拝殿は瓦葺・入母屋造、後方の本殿は瓦葺・流造。


拝殿

有庫神社

兵庫県豊岡市市場85
祭神は、武甕槌神・奧津彦神・奧津姫神・軻遇槌神・菅原道眞。
有庫神社としての祭神は、武甕槌神。
つまり鹿島からの勧請ということになる。
菅原道真公は、天神社を、
その他の神々は、荒神社を合祀したもの。
社格は、旧村社。


鳥居


神門


社殿

穴見郷 戸主 式内 大生部兵主神社

あなみごう へぬしおおうべひょうず?
兵庫県豊岡市三宅字大森47

式内社
田道間守を祀る式内社中嶋神社に近いところにあるが、古くて小さな社。上記の大生部兵主神社や有子神社は村の氏子の方によって手入れが行き届いているが、この社はあまり参拝者が多くないように見える。
大生部兵主神社として有力な論社は薬王寺にある同名社と、奥野にある同名社。

  
鳥居とと神門

  
社殿

郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造と池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。

糸井造と三宅連

天日槍ゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。その中で大が冠せられているのは式内更杵村大兵主神社(養父郡糸井村寺内字更杵=現朝来市寺内)だけだが、更杵神社以外にも村が分離して近世にいたり、更杵集落が衰退し当社は取り残されて荒廃していた。幕末の頃、当社の再建と移宮をめぐって寺内と林垣の対立があったが、結局、現在地に遷座された。室尾(字更杵)には式内桐原神社がある。古社地は不明だが、かつての更杵集落は、現在の和田山町室尾あたりであったという。

出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造 新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。『川西町史』は、この姓(カバネ)を与えられた氏族は五世紀末におかれた新しい型の品部(王権に特定の職業で仕える集団)を掌握する伴造であり、より古い型の品部を掌握する連姓氏族より概して地位は低かった。以上から三宅氏の「三宅」が前述の倭のミヤケを指し、そのミヤケの管理を担当した有力な氏族であるとすれば、糸井氏と三宅氏の関係は、三宅氏が天日槍の直系の子孫に当たる氏族で、その三宅氏から分かれた一分族が糸井氏であると推測できる。

三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡(豊岡市)三宅のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。

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縄文的であるがゆえに広まった大国主命信仰

神道は、太古の日本から信仰されてきた固有の文化に起源を持つ宗教。日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立していった。

なお、神道には明確な教義や教典がなく、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『宣命』などといった「神典」と称される古典を規範である。森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊を祀り、祭祀を重視する。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目と、他宗教と比べて、現世主義的であり、性善説的であり、祀られるもの(神)と祀るもの(信奉者)との間の連体意識が強い、などといった特徴が見られる。

日本では気象、地理地形に始まり、あらゆる事象に「神」の存在を認める八百万(やおよろず)の神といい、万物に精霊が宿るというアミニズムから発展した多神教で、そこいら中に神がいて、どの神が正しいというはっきりとした基準はない。

多神教の神には二つの顔があるのだ。ひとつは、人々に恵みをもたらすありがたい福の神「豊饒(ほうじょう)の神」、そして、祟りのような災難をもたらす神である。これは、良い神と悪い神の二種類が存在するということではなく、一柱の神に、「神」と「鬼」の二面性があるという意味である。

つまり、神と鬼は表裏一体であり、神は祟るからこそ祀られ、そして、祟る神=鬼は祀られることで、恵みをもたらす豊饒の神へと変身する。このような複雑で原始的な図式が多神教の特色であり、一神教世界は、この混沌から抜け出し発展したと自負しているのだ。また、先進国で多神教を信奉しているのは日本だけで、おそらくこの辺りにも、「日本は異質だ」、といわれる特性の根本があるのだろうか。

これに対し、キリスト教世界では、神は一人であって、だからこそ絶対的存在とみな信じているのである。「唯一絶対の神がこの世を想像し、その教えが絶対的に正しい…」、これがいわゆる一神教というものである。

神道と仏教の違いについては、神道は神話に登場する神々のように地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村etc)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教は主に個人の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく異なる。

日本の神道は、多神教で神道の神々は、別の宗教の神を排斥するより、神々の一人として受け入れ、他の民族や宗教を自らの中にある程度取り込んできたとして、その寛容性が主張されることがある。しかし、世界各地に仏教が広まった際に、土着の信仰との間に起こった摩擦だ。日本に552年(538年説あり)に仏教が公伝した当初には、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識されていた。

神道は多神教だが、祖霊崇拝性が強いため、古いものほど尊ばれる。1881年の神道事務局祭神論争における明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利し、天照大神が最高の神格を得たが、敗北した出雲派的なものが未だに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い。

明治の神仏分離令によって分離される以前は、神道と仏教はしばしば神仏や社寺を共有し寺院の境内に社があったり、神社の境内に神宮寺が併設されたり、混じりあっていた。それは人と同じような姿や人格を有する「人格神」であり、現世の人間に恩恵を与える「守護神」ですが、祟る(たたる)性格も持っている。災害をもたらし、祟るからこそ、神は畏れられました。神道の神は、この祟りと密接な関係にある。

縄文的であるがゆえに広まった大国主命信仰

『古代出雲王国の謎: 邪馬台国以前に存在した“巨大宗教国家”』 著者: 武光誠氏などを参考にすれば、
縄文時代中期にあたる紀元前1000年ごろまでは、出雲の遺跡数は少ない。その時期の出雲は後進地帯であったと考えてよい。さて、吉備政権もヤマト朝廷も、九州北部の人びとが瀬戸内海を東進して作り出したものだ。ゆえに大和、吉備、北九州の勢力は、縄文文化との縁を絶ち切った上に生み出されたといえる。

しかし、古代にあっても現在にあっても、日本人の多くは間違いなく縄文時代の日本の住民の系譜を引いている。弥生時代に朝鮮半島や南方から渡ってきたのは、ひと握りの有力者であった。

出雲でより強く縄文的信仰の伝統を受けついだ大国主命信宏が生まれた。出雲の神は北九州の神やヤマト朝廷の神より、古代の庶民層の支持を受けやすいものであったといえる。それゆえに、大国主命信仰が九州から東国に至る各地で受け入れられることになった。古代にあってその広まりは、邪馬台国連合の信仰の系譜を引く宗像信仰、宇佐信仰やヤマト朝廷の天照大神信仰のそれよりはるかに勝っている。

分類

武光誠氏は、日本固有の信仰は、精霊信仰、祖霊信仰、首長霊信仰の三層から成ると述べた。
精霊信仰は縄文人の信仰で、山・川・風・動物・植物など、あらゆる事象に精霊が宿るとする考えである。

自然物や自然現象を神格化した神

最も古い、自然物や自然現象を神格化した神。古代の日本人は、山、川、巨石、巨木、動物、植物などといった自然物、火、雨、風、雷などといった自然現象の中に、神々しい「何か」を感じ取っていました。自然は人々に恩恵をもたらすとともに、時には人に危害を及ぼします。古代人はこれを神々しい「何か」の怒り(祟り)と考え、怒りを鎮め、恵みを与えてくれるよう願い、それを崇敬するようになっていった。これが後に「カミ(神)」と呼ばれるようになった。

祖霊信仰は、弥生時代中期に江南(中国長江以南)からもたらされたもので、亡くなった祖先はすべて神となり、自然現象を司り、子孫を見守るとするものである。

そして、首長霊信仰は弥生時代のごく末に、ヤマト朝廷によってつくられた。それは、大王や大王に仕える首長たちの祖先の霊は 、庶民の霊よりはるかに強い力をもつとする信仰である。そこで、朝廷は民衆に自分の祖先を祀るとともに、王家の祖神の祭りに参加する事を命じるようになった。

古代の指導者・有力者の神格化

武光誠氏は、祖霊信仰は、ヤマト朝廷によってつくられたとしているが、これはくわしくいうとそうとは限らない。一族が祖先の霊を祀ることは、ヤマト朝廷が成立する以前からあった。もともと祀られていた各地域の首長を祀っていたので必ずしも天皇家を合祀していない神社の方が圧倒的に多いからだ。

日本において天皇のことを戦前は現人神と呼び、神道上の概念としてだけでなく、政治上においても神とされていました。現在では、昭和天皇によるいわゆる人間宣言により政治との関わり、国民との関係は変わりました。しかし、神道においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)の血を引くとされる天皇の存在は現在も大きな位置を占め、信仰活動の頂点として位置付けられている。

その時代の有力者を死後に神として祭る例(豊臣秀吉=豊国大明神、徳川家康=東照大権現ど)や、権力闘争に敗れまた逆賊として処刑された者を、後世において「怒りを鎮める」という意味で神として祭る例(菅原道真、平将門など)もこの分類に含まれる。

ヤマト朝廷が成立する以前から、さまざまな部族が個々に固有の神を信仰していました。祖霊信仰と首長霊信仰を合わせたものとして、それらの部族が交流するにしたがって各部族の神が習合し、それによって変容するようになっていった。この神神習合が、後に仏教をはじめとする他宗教の神々を受け入れる素地となっていく。
主祭神の他に、時代によって祭神が増えていき、また摂社としてあらゆる祭神が祀られていく。

神政国家だった出雲政権

出雲が邪馬台国の卑弥呼の出現の約三十年前に出雲を統一できた…につては、出雲という土地の特殊性をつかむことによってその答えが明らかになると思われる。
首長霊信仰の発生が日本統一のきっかけになった。天皇家は、大和や河内の有力豪族の祖神を天皇家の祖神の下位に位置づける。それとともに地方豪族の祖神も朝廷がつくる神々を組織した秩序の中に組み込んでいく。

これによって、全国の首長は天皇家の祖神の保護下におかれることになった。そして、首長支配下の民衆は、首長霊を祀ることを通じて、その上にいる天皇家の祖神に従う。そのようなヤマト朝廷の支配のもとでは、天皇家への貢納物は、天皇家の祖神へのささげ物とされた。
ヤマト朝廷は武力で各地の首長を討って日本を統一したのではない。自家の祖神が日本列島の住民すべてを治めるべきだとする信仰上の動機によって、天皇家は地方豪族を次々に従えていった。

ならば、そのような首長霊信仰が生まれる前の邪馬台国や出雲の、小国に対する支配は、どのような名目でなされたものであろうか。
九州北部の小国は、古代ギリシャで栄えた城壁都市ポリスに近い交易国家であった。彼らは、遠距離の交易によって他地域から来る有益な物品を独占し、周辺の小国に分け与えることを通じて豊かな生活を享受することに満足し、領域を広げて統一国家になろうとする野望はもたない。

それゆえに、交易国家の段階では小国分立の状況になり、小国同士が相手の内政に干渉しない形がつくられる。したがって、国の統一の機運は生じない。九州北部の小国は、紀元前一世紀末にしきりに朝鮮半島北部にあった中国の植民地・楽浪郡と交易した。その段階で北九州に公益国家が芽生えたといえる。やがて、魏の洛陽に使者を通じて奴国が巨大化した。

しかし、出雲氏を中心とするまとまりは、交易のためにつくられたものではない。彼らは荒神谷での祭祀を通じてまとまった。ゆえに出雲政権を「神政国家」とよぶのがふさわしい。と記している。

大国主は出雲氏の祖神ではない

したがって、ヤマト朝廷以前の出雲の小国連合は、出雲氏の祖神であるアメノホヒノミコト(天穂日命)を、小国の首長たちの祖神と同列におく形をとった。そして、自家の祖神の上に新たに有力な神をつくりだした。出雲氏は祖神である天穂日命を重んじずに、大国主命の祭祀をその職務にした。これは、出雲氏が大国主命の祭祀により出雲の豪族をまとめたが、彼らの内政に関与しなかったことを意味する。出雲氏が、自家の祖神を配下の豪族に拝ませる形をとったなら、出雲の統一はこれほど早く行われなかったろう。

そのため、『出雲国風土記』に数多くの神の活躍がみられることになった。ヤマト朝廷の支配が強化される段階で、出雲の神のいくつかは中央の神統譜に組み込まれた。スサノオにはじまる系譜も、出雲氏がつくったものではなく、朝廷の指導のもとに形づくられていったものである。としている。

韓国神社の古名は物部神社

人皇15代神功皇后二年5月21日、気多の大県主・物部連大売布命が亡くなった。その子・物部多遅麻連公武が多遅麻国造となった。


式内 氣比神社(豊岡市気比)

豊岡市気比。『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、同じ気比の松原で知られる福井県敦賀市にある気比神宮「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」という意味で、『古事記』でも「御食津大神(みけつおおかみ)」と称されており、古代敦賀から朝廷に贄(にえ)を貢納したために「御食国の神」という意味で「けひ大神」と呼ばれたようで、後世の社伝ではあるが、『気比宮社記』においても「保食神」と称されている。なお、「御食津大神」の名は『古事記』において、大神が誉田別命に「御食(みけ)の魚(な)」を奉ったので、その返礼として奉られたとの起源を伝えるが、西郷信綱は、この「魚(な)」と「名(な)」を交換したという説話全体が、「けひ(këfi)」という語の発生を、交換を意味する「かへ(kafë)」という語に求める1つの起源説話であろうとする。
『ウィキペディア(Wikipedia)』

気比銅鐸

(写真 東京国立博物館)

福井県敦賀市の越前國一宮気比神宮と美しい気比の松原。豊岡市気比にも同じ気比神社(五十狹沙別命・豊岡市気比)と海水浴場で知られる気比ノ浜があってよく似ている。気比の南から、1912年(大正元年)、但馬では唯一の完形の銅鐸4個が発見された。

1996年(平成8年)、加茂岩倉遺跡(島根県雲南市加茂町岩倉)で日本最多の39口ものおびただしい銅鐸が見つかった。出土品の一部(外縁付1式銅鐸)には近畿地方で製作されたと推定されるものもあり、気比銅鐸と同じ鋳型で作ったと思われる兄弟銅鐸が含まれていたのである。出土した銅鐸にはその他にも同笵関係(同じ鋳型で製作された銅鐸)も各地で確認されていることから、各朝廷と出雲、あるいは朝廷と但馬とのつながりが濃いもので、出土地との関連を含めた今後の研究が待たれる。

この地域はかつては田結(たい)荘という村で、田結は気比から北の円山川河口にある日本海の漁村。話が逸れるので触れないが、山名四天王の一人田結庄氏の出生地でもある。舞鶴にも宮津にも田井という地名があり、いずれも同じように日本海に面した漁村で、渡来人が上陸した雰囲気がある。

気比から南に気比川に沿って丹後久美浜へ抜ける三原峠に向かう県道11号をさらに南に行くと畑上という集落がある。この区の氏神様は物部韓國連神津主命を祭神とする重浪神社が、また飯谷峠という峠を越えた反対側に円山川に近い飯谷(はんだに)という集落がある。この区には物部韓国連真鳥、物部韓国連渚鳥を祭神とする物部韓国神社がある。「震旦国明神」と呼ばれていたという。

韓国神社は韓国人にゆかりがあるのではない

飯谷(ハンダニ)という地名と韓国神社から、朝鮮からの渡来人ゆかりがあるのではないかと想像する人もいるのではないかと思う。私もその一人だったからである。

実はその逆で、社伝によると、武烈天皇の命を受けて韓國からくに(朝鮮)へ派遣された物部眞鳥(まとり)が但馬の水戸(楽々浦)に着き、都へ報告に上った。その功績によって、韓國連を賜わり、以後、物部韓國連眞鳥と称した。

眞鳥の子・渚鳥(すとり)は欽明天皇の頃、城崎郡司(郡の最高者)となり飯谷付近を開墾した。
渚鳥は、名を墾麿(はりまろ)と改め、地名を墾谷(はりだに)とし、墾谷が針谷となり訛って現在の飯谷となったという。

墾麿(渚鳥)は、墾谷の丘に父・眞鳥を祀り、韓國神社と称したという。

まったく同じ記述が、『国司文書 但馬故事記』第四巻・城崎郡故事記にある。

第29代欽明天皇の25年(564) オオメフ(物部連大売布命)の末裔、物部韓国連榛麿を城崎郡司とする。
物部韓国連は、武烈天皇の勅を奉じて韓国に遣わされ、天皇にご報告申し上げた日、姓、物部韓国連をいただく。榛麿はその子なり。
韓国連榛麿は針谷を開き、住処と為す。故に榛谷と云う。物部神社という。

第33代推古天皇の35年(627)冬12月 物部韓国連榛麿の子、神津主を城崎郡司と為す。神津主は物部韓国連榛麿を榛谷丘に葬る。

第39代天武天皇白凰3年(674)夏6月 物部韓国連神津主の子、久々比命を城崎郡司と為す。久々比命は神津主命を敷浪丘に葬る。(式内重浪神社:豊岡市畑上)

しかし低い峠を越えると畑上集落があることから、秦谷(はただに)が訛ったのではないかという推察もしたが、針谷、榛谷、墾谷が気多・城崎県主オオメフ(大売布命)の末裔、物部韓国連榛麿が開墾したので物部韓国神社である。

さて、平成の合併前には、氣比神社のある港地区は豊岡市で、重浪神社のある飯谷は旧城崎町であったが、『但馬郷名記抄』に、余部郷 墾谷・機紙(今の畑上)・御原(今の三原)とあるので、田結郷である北の気比、南の赤石以南とは異なる郷だった。余部郷とは50に満たない集落をいう。江戸時代までは、豊岡市市街地北部の円山川と両岸一帯、江野からの大浜川流域、田鶴野小学校区から城崎温泉・津居山・気比までは、同じ城崎郡田結(たい)郷だった。

震旦とは

韓国神社の石碑に「震旦国明神」とある。「震旦国明神」の震旦国とはどこなのだろう。

震旦国とは支那の当て字である。インドから仏教が隋に伝来した当時、経典の中にある梵語「チーナ・スターナ”China staana”」を当時の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによって彼の地に伝来した。この時の当て字として、「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。そのため、「支那」はこの地域の当時の公用語からすれば外来語であり、当初は外国人からの呼称であったと言える。付近のケゴヤ古墳から金箔が検出された。渡来人にかかわる古墳であろうといわれている。韓国とは当時「からのくに」のことで外国である中国大陸の一部を意味する。今の韓国(Korea)のようなものではない。あるいは朝鮮半島まで秦国の一部としてそこに渡った。

「記紀」が編纂されたのは、そうした天日槍の伝承以降の奈良時代(712年・720年)のことだ。少なくとも古墳時代が3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までとされるから、天日槍や崇神・応神天皇などの記載については400年から100年前の伝承の記憶である。倭人が半島から北部九州にかけて文化圏を築いていた馬韓・弁韓・辰韓・対馬・壱岐・北部九州は、すでにない。弥生時代には国家もないし、南西部の百済の元となる馬韓は朝鮮民族の濃い所だそうだがそれ以外の、弁韓(伽耶)・辰韓(新羅)は朝鮮民族が多くは暮らしていない土地だったと思われる。馬韓に渡った秦から逃れた人びと(中国人)を東へ住めといって追い出している記述がある。中国から移住した人びとの村を、韓国人だと言う意味もない。伽耶が鉄資源に恵まれていることを知ったのはそうした秦・漢人だ。だから最初に日本に渡来したのは朝鮮半島だとする意味はないと思う。そこにあったのは、秦・漢の文化だからだ。

日本でも邪馬台国が、そういう意味で倭人のクニの連合体であり、天日槍は新羅国の王子ではないばかりか倭人であり、今の韓国人ではないことは確かだ。また、天日槍は個人ではなく、新羅から倭国へ里帰りしたテクノクラート(技術集団)である。

日本は最初に朝鮮半島から文化の影響を受けたというよりも、秦(中国)から逃れた人びとが日本列島や半島南部に渡来・漂流して倭人圏をつくったと思う方が理解できる。それは元々朝鮮人ではないのだ。徐福伝承が佐賀や丹後などに残って浦島太郎伝説になったように、兵主は秦の信仰であるように、天日槍は元々江南から朝鮮半島南部に移住した中国人の子孫である。そして同じ北部九州などの倭人であろう。

要するに、「韓国神社」という社号から、韓国朝鮮にゆかりがある神社で、渡来人の神社だと思われがちだが、韓の国へ使いとして功績のあった物部連眞鳥が韓国連という姓を賜ったかれであって、むしろ倭(日本)から韓国に使者である。逆である。

但馬に集中する兵主神の謎

兵主(ひょうず)とは?

兵主神社(ひょうずじんじゃ)ってご存じですか?

兵主とは、「つわものぬし=武士」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。矛は武力の象徴で、武神としての性格を表しています。

大国主は天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する地神格です。
大国主は多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。

葦原色許男神(あしはらしこのを) も大国主の別名で、「しこのを」は強い男の意で、武神としての性格を表します。大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命(オオナムチノミコト) 、大物主神(オオモノヌシ)、大國魂大神(オホクニタマ)。

但馬で別名のそれぞれの祭神を祀る神社を合わせると、最も多い神社です。田道間守や天日槍関係の神社を数える方が圧倒的に少ないのです。

兵主神社は、関西以西のしかも但馬国に集中しています。しかし、かつては但馬と同じ丹波國だった丹波・丹後には不思議と1社のみなのですが、不思議と但馬には式内社7社、式外社7社、計14社と但馬国に集中しているのです。

兵主とは、「つわものぬし」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。宇佐八幡や全国的には最多の八幡神社で知られる八幡神も武神ですが、日本で信仰される神で、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも呼ばれた。

大国主

『古事記』『日本書紀』では八千矛神とは大国主の別名である。須佐之男(スサノオ)の別名が八千矛神(多くの矛を持った神の意)である。葦原色許男神(あしはらしこのを) も大国主の別名で、「しこのを」は強い男の意で、武神としての性格を表す。矛(ほこ)は武力の象徴で、武神としての性格を表している。これは神徳の高さを現すと説明されるが、元々別の神であった神々を統合したためともされている。大国主とは出雲や但馬、越など各国の王の総称であり、個人名ではないと思う。但馬で別名のそれぞれの祭神を祀る神社を合わせると、最も多い神社だし、全国的に天皇家よりも物部・大国主系の神社が圧倒している。

大国主は国津神の総称で多くの別名を持っています。

出雲の大国主神でも触れましたが、大国主(オオクニヌシ・オオナムヂ)は日本神話の中で、出雲神話に登場する神です。天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する地神格です。また、大国主は多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。

・大国主神(オオクニヌシノカミ)=大國主 – 大国を治める帝王の意、あるいは、意宇国主。すなわち意宇(オウ=・旧出雲国東部の地名)の国の主という説もあります。

・大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命(オオナムチノミコト) -大国主の若い頃の名前
・大汝命(オオナムチノミコト)-『播磨国風土記』での呼称
・大名持神(オオナムチノミコト)
・八千矛神(ヤチホコノカミ) – 矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す
・葦原醜男・葦原色許男神(アシハラシコノヲ) – 「シコノヲ」は強い男の意で、武神としての性格を表す
・大物主神(オオモノヌシ)
・大國魂大神(オホクニタマ)
・顕国玉神・宇都志国玉神(ウツシクニタマノカミ)
・国作大己貴命(クニツクリオオナムチノミコト)・伊和大神(イワオホカミ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称
・所造天下大神(アメノシタツクラシシオホカミ) - 出雲国風土記における尊称

国造りの神、農業神、商業神、医療神などとして信仰され、また「大国」はダイコクとも読めることから、同じ音である大黒天(大黒様)と習合して民間信仰に浸透しています。子の事代主がえびすに習合していることから、大黒様とえびすは親子と言われるようになりました。

二つある天孫降臨

記紀神話をみると、天孫降臨と東遷という神話を持つ氏族が二つあります。大王家(おおきみけ)と物部氏(もののべうじ)である。大王家の神話では、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向に降臨し、それから四代後(その間に1,792,470余年が経過したという)磐余彦(いわれひこ)が大和へ東遷した。「神武紀」に明記されている物部氏の祖先伝承では、「祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと)が河内の河上の哮峯(いかるがのたけ)に降臨し、その後まもなく大和の鳥見の白庭山へ移った。」と記しています。哮は音読みで「コウ(カウ)」、訓読みで「たける、ほえる」。兵主は哮神とも。

式内小田井懸神社(豊岡市小田井町)の祭神国作大己貴命(くにつくりおほなむち)ですが、『播磨国風土記』では、その子が饒速日命(にぎはやひのみこと)とあります。兵主神は、もとは日本の神様ではなく、中国大陸の山東省の神様(鉄の神=蚩尤)だそうだ。秦氏ゆかりの神である。

延喜式神名帳で認められた式内社に現れる古社で、兵主神については色々と説があるそうですが、八千矛神(ヤチホコノカミ)だという説が有力です。延喜式神名帳には「兵主」と名の付く式内神社が18社記載されており、但馬各地に祀られた重要な神であったようです。但馬国は、奈良時代までは丹波国(丹後王国)といわれる北近畿一円のクニで、九州北部・出雲や若狭・越国(越前から越後)同様に太古から日本海を介して朝鮮半島南部との交易があった国です。

兵主神は秦氏によって日本に持ち込まれたともいわれ、山東半島の近くの琅邪(ろうや)に八神が祀られているといいます。八神とは、天主(天の神)、地主(地の神)、兵主(武器の神)、陰主(陰を知る神)、陽主(陽を知る神)、月主(月の神)、日主(太陽の神)、四時主(四季の神)です。

貝塚茂樹氏の『中国神話の起源』に「風を支配してきた蚩尤は、またふいご技術によって青銅兵器の製造を行った部族の代表者であり、この技術の発明者であり、古代においては神秘的なふいごの用法、青銅器鋳造の秘密を知っている巫師の祖先と仰がれる人物であった」とあり、兵主は蚩尤(しゆう)という名を持つ。山東半島は朝鮮半島との関係が深く、120県の民を引き連れて応神朝に渡来してきた弓月君(秦氏の祖)の先祖も、山東半島に居住していたのかも知れないです。徐福(じょふく)伝説とも関わりがあるように思えます。伊福部神社(豊岡市出石町)など伊福部という青銅器鋳造をおこなった部民で山陰各所に伊福部にちなむ神社があります。大変多い八幡神社も、八神の秦氏が八幡となったと勝手に想像します。

滋賀県野洲市の兵主大社のように、八千軍(やちぐさ)という呼称からきたと思われる「八千矛神」は、「矛」を介在して、ヒボコ(天日槍)の伝承が近江に残っていることとから関わりがあるように思いますが、八千矛の名称そのものが、オオナモチ(大己貴命)の別称であることは『日本書紀』に記されているので、葦原色許男神(葦原醜男)と称せられた大国主神であろう。天日槍がオオクニヌシと同一神でない限り、ヒボコと兵主神は同一神ではないように思います。但馬国を開拓した伝説は天日槍以外の他の大己貴命を祀る但馬の神社と共通しています。

それはまた、丹後の浦島太郎伝承や佐賀など全国に伝わる徐福の伝説、秦の始皇帝の命で、常世の国(日本列島)に不死の薬を採りにきた徐福の伝説に共通する。

ここで、伽耶=韓神は、もともとそのルーツは秦氏が半島南部の鉄の産地・伽耶に住み着き、また出雲にたたら製鉄を伝えて同化した?スサノオが但馬に稲作をもたらし切り開いた渡来系人と縄文人が融合したのが弥生人だったと思えるのです。

「延喜式神名帳」記載の式内社兵主神社一覧

(壱岐→山陰→兵庫→近江→三河→畿内→大和への移動か?)

大和國城上郡奈良県桜井市穴師1065穴師坐兵主神社兵主神(御食津神)、大兵主神、若御魂神(稲田姫命)
和泉國和泉郡大阪府岸和田市西之内町蛇淵兵主神社八千鉾大神
参河國賀茂郡愛知県豊田市荒井町松嶋兵主神社大物主命、三穗津姫命
近江國野洲郡滋賀県野洲市五条兵主大社八千矛神
伊香郡滋賀県長浜市高月町横山兵主神社素盞嗚尊
丹波國氷上郡兵庫県丹波市春日町黒井兵主神社大己貴大神、少名彦大神、天香山神
但馬國朝來郡兵庫県朝来市山東町柿坪兵主神社大己貴命
養父郡兵庫県朝来市和田山町寺内更杵村大兵主神社素盞嗚尊
兵庫県豊岡市日高町浅倉兵主神社大己貴命
氣多郡兵庫県豊岡市日高町久斗久刀寸兵主神社素盞嗚尊、大己貴命
出石郡兵庫県豊岡市奥野大生部兵主神社大己貴命
兵庫県豊岡市但東町薬王寺大生部兵主神社武速素盞嗚命
城崎郡兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城兵主神社速須佐男神
兵庫県豊岡市赤石兵主神社二座速須佐之男命
因幡國巨濃郡鳥取県岩美郡岩美町河崎佐弥乃兵主神社
鳥取県岩美郡岩美町浦富許野乃兵主神社大國主神、素盞嗚尊
播磨國餝磨郡兵庫県姫路市本町射楯兵主神社二座射楯大神(五十猛尊)
兵主大神(伊和大神、大国主命)
多可郡兵庫県西脇市黒田庄町岡兵主神社大己貴命、八千戈命、葦原醜男、大物主命、清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠命
壹岐嶋壹岐郡長崎県壱岐市芦辺町深江兵主神社素盞嗚尊 大己貴神 事代主神

式外兵主神社一覧 平成祭礼CDから

青森県むつ市大湊上町337 兵主神社「伊弉諾命」
千葉県東葛飾郡沼南町手賀1418 兵主八幡両神社「經津主命、譽田別命」
福井県丹生郡清水町山内 兵主神
滋賀県野洲郡中主町下提 下提神社
京都市伏見区中島鳥羽離宮町 城南宮摂社兵主神社「大國主命」
奈良市春日野町 春日大社摂社若宮社末社兵主社

播磨
兵庫県姫路市辻井4-4-3  行矢射楯兵主神社「射楯大神、兵主大神」
兵庫県姫路市飾磨区阿成 早川神社「兵主神」
兵庫県姫路市夢前町山之内戊549 兵主神社「大國主命」
兵庫県西脇市黒田庄町岡字二ノ門 兵主神社「大穴貴命」
兵庫県佐用郡佐用町奧海 奧海神社摂社兵主神社「大名持命」
兵庫県姫路市安富町三森平谷 安志姫神社「安志姫命」
兵庫県佐用郡佐用町奥海1281 奥海神社の兵主神社「大名持命」

但馬
兵庫県豊岡市竹野町芦谷小字芦谷155 兵主神社「須佐之男命、建御雷神、伊波比主命」
兵庫県美方郡香美町隼人字宮前195-1 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
兵庫県美方郡香美町九斗字九斗152-2 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
兵庫県美方郡浜坂町田井字村中448 兵主神社「?」
兵庫県美方郡浜坂町指杭字御城338 兵主神社「?」
兵庫県美方郡温泉町上岡 八幡神社摂社兵主神社「大己貴尊」
兵庫県美方郡浜坂町久谷字宮谷 八幡神社摂社兵主神社「須佐ノ男命」

島根県簸川郡斐川町大字学頭2830 兵主神社「大國玉命」
岡山県岡山市阿津2783 兵主神社「素盞嗚命」
鹿児島県揖宿郡頴娃町別府6827 射楯兵主神社「素盞嗚命、宇氣母知命」
鹿児島県姶良郡姶良町脇元1818 兵主神社「素戔嗚尊」
奈良市春日野町160 春日大社の兵主神社「大己貴命、奇稻田姫命」
香川県大川郡大川町富田中114 富田神社の兵主神社「大己貴命」
福岡県筑後市大字津島1117 村上社の兵主神社「毘沙門天」
福岡県大川市大字北古賀字神前28 天満宮の兵主社「大己貴命」

■但馬国式内社

但馬國朝來郡 朝来市山東町柿坪 兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國養父郡 朝来市和田山町寺内 更杵村大兵主神社 素盞嗚尊
但馬國養父郡 豊岡市日高町浅倉 兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國氣多郡 豊岡市日高町久斗 久刀寸兵主神社 素盞嗚尊、大己貴命 旧村社
但馬國出石郡 豊岡市奥野 大生部兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國城崎郡 豊岡市山本字鶴ヶ城 兵主神社 速須佐男神 旧村社 天平18年(746)
但馬國城崎郡 豊岡市赤石 兵主神社二座 速須佐之男命 旧村社 年代不詳

■式外社

但馬國美含郡 豊岡市竹野町芦谷小字芦谷155 兵主神社「須佐之男命、建御雷神、伊波比主命」
但馬國美含郡 美方郡香美町隼人字宮前195-1 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
但馬國美含郡 美方郡香美町九斗字九斗152-2 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町田井字村中448 兵主神社「?」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町指杭字御城338 兵主神社「?」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町上岡 八幡神社摂社兵主神社「大己貴尊」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町久谷字宮谷 八幡神社摂社兵主神社「須佐ノ男命」

兵主神は秦氏によって日本に持ち込まれたともいわれ、山東半島の近くの琅邪(ろうや)に八神が祀られているといいます。八神とは、天主(天の神)、地主(地の神)、兵主(武器の神)、陰主(陰を知る神)、陽主(陽を知る神)、月主(月の神)、日主(太陽の神)、四時主(四季の神)である。

貝塚茂樹氏の『中国神話の起源』に「風を支配してきた蚩尤は、またふいご技術によって青銅兵器の製造を行った部族の代表者であり、この技術の発明者であり、古代においては神秘的なふいごの用法、青銅器鋳造の秘密を知っている巫師の祖先と仰がれる人物であった」とあり、兵主は蚩尤(しゆう)という名を持つ。山東半島は朝鮮半島との関係が深く、120県の民を引き連れて応神朝に渡来してきた弓月君(秦氏の祖)の先祖も、山東半島に居住していたのかも知れないです。徐福(じょふく)伝説とも関わりがあるように思えます。新羅に対する防衛線として、但馬に兵主神を配したという説もあります。天日槍を祀る出石神社を取り囲むようにして重要路に祀られているように見えますが、郡境に土地の守り神として配祀されたのではないでしょうか。

ちなみに同じく武神である八幡神は、日本独自で信仰される神です。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも言います。八幡神社(八幡社・八幡宮・若宮神社)と呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位です。一方、岡田荘司氏らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるといいます。

概 要

但馬国には、ヤマト政権が但馬を平定する以前から古い神社が存在していて、延喜式神名帳ではそれを否定はせず、あるいは政権側の祭神を配祀しているのでしょうか。但馬五社のうち、大国主以外の神社は天日槍(日矛)の出石神社やその子孫の神社が出石郡近辺に集中しており、そのまわりを兵主神社が取り囲むように建っている。全国でも関西以西のしかも但馬国に集中している。

但馬国はかつて同じ丹波國だった丹波・丹後には不思議と1社のみで、近江国と但馬国に集中して多いのです。八幡社の式内社は皆無。関西で見ても岩清水八幡宮、近江國高嶋郡の八幡神社(祭神:譽田別命)のみです。

また、神功皇后は天日槍の子孫であるとされているので、ずっとヤマト朝廷が但馬を平定するために出石神社を置いたのではないかと考えてきた。古くは別の祭神であったとする説あるそうです。養父神社対岸にある水谷神社は、かつて大社であったとされるのにもかかわらず、どういう訳か但馬五社からはずされている。ただし、古い記録には養父水谷神社と表示されているから元々ひとつであり、現在の奥米冶にある水谷神社はのちに遷されたのかもしれない。

但馬に圧倒的に多い兵主神社の謎

兵主神は、『史記封禅書』に見られる、「天主・地主・兵主・陽主・陰主・月主・日主・四時主」の一とされている武神。新羅に対する防衛線として、但馬に兵主神を配したという説もあります。

大己貴命を祭神とする神社は、出石神社をはじめとする天日槍ゆかりの神社を除くと、粟鹿、養父、小田井、絹巻の五社を筆頭に他にもたくさんあります。でな何故但馬では好んで兵主と名づけたのでしょう。

■但馬の式内古社で大己貴命を祭神とする主な神社

養父神社:創祀年代は不詳だが、社伝によると崇神天皇三十年(紀元前118年)の鎮座。
祭神:倉稻魂命 大己貴命 少彦名命 谿羽道主命 船帆足尼命
和奈美神社 大己貴命 天湯河板挙命 兵庫県養父市八鹿町下網場156
小田井縣神社:創祀年代は不詳だが、第十代崇神天皇の御代(紀元前148年~紀元前29年1月9日)谿羽(丹波)道主命が国作大己貴命及び天火明命を祀った。久刀寸兵主神社と同じ祭神。
などと比較しても久刀寸兵主神社は、古い神社ということになります。
石部神社 大己貴命 兵庫県朝来市山東町滝田字マリ559  創祀年代は不詳
気多神社 大己貴命 但馬國総社 兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227
石部神社 天日方奇日方命
大山積神 大己貴神 大物主神 事代主命 健御名方命 高彦根命 瀧津彦命
兵庫県豊岡市出石町下谷62
桑原神社 稻倉魂神 大己貴命 兵庫県豊岡市竹野町森本字苗原463-1

徐福(鉄の神=蚩尤)→半島・伽耶(韓神)→出雲・但馬(大国主)→ヤマト朝廷成立(武神)

ということで、物部氏の大国主(別名:大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命・葦原色許男神など)の治める出雲連合の・小国但馬に、あとから天日槍が現れたのではないかと想像していた。しかし、兵主神社もまた、速須佐男や大己貴命を祀る神社だった。

アメノヒボコが日本に携えてきた神宝にも、「出石の小刀」「出石の鉾(木偏)」「日鏡」と、やはり「金属器」が含まれている。どこから見ても「ホコ」を名に持ち、鉄の産地からやってきたアメノヒボコが「鉄の男」であることは、はっきりしている。

この属性は、ツヌガアラシトのそれでもある。「鉄の神=蚩尤(しゆう」ではないかと疑われるツヌガアラシトが、本来同一だった可能性は、やはりヒボコの将来した神宝の名前からもうかがい知ることができる。

それは「イササ(イザサ)」で、ヒボコがヤマト朝廷に献上した八つの宝物のなかに「胆狭浅太刀」がある。その「イザサ」が、ツヌガアラシトの祀られる角鹿の気比神宮の現在の主祭神の名と重なってくる。それが「イザサワケ(伊奢沙和気命)」にほかならない。

もっとも、門脇禎二氏のように、八世紀の『日本書紀』の編者が「新羅」と「加羅」両者の王子を混同するはずがないという理由から、説話が似ていて共通の要素があるからといって二つの話を同一視することはできないとする説もある。

しかしこれは、伽耶(任那)は鉄の産地で交易商人だったらしいが、伽耶滅亡直前の欽明天皇二年(541)、任那と新羅が謀略をめぐらし、百済がこれを深く責め罵ったという記事が載り、欽明天皇四年には、天皇から出された詔勅、「任那日本府とともに任那を復興せよ」を楯に、百済は任那に対し、任那復興会議への出席を呼びかけるが、任那はこれを三度断り続けたという。

それでも翌年11月、任那復興会議がようやく開かれ、新羅と阿羅(伽耶の小国)の国境に城を築き、任那に兵を集めて新羅を駆逐するための策が練られたが、結局、任那は、この決定を無視するのである。

さらに、欽明天皇九年四月には、高句麗の百済への攻撃に対し、任那と阿羅は結託して救援に向かわなかった。任那日本府は、なぜか天皇家に逆らい、命令を無視し続け、とてもヤマト朝廷の出先機関とは思えないのだ。
また、文書作成のころは、半島南部は562年、伽耶は新羅に滅ぼされ、新羅・百済になっているが、崇神天皇・垂仁天皇の物語の頃はまだ新羅は存在していない。「記紀・風土記」完成は704年から712年ころで、伽耶滅亡は150年近い昔のことだ。伽耶は忘れられたか、または故意に新羅と記した可能性もあるからだ。作者が、朝廷にのヒボコは、伽耶の人であるのに新羅と記しているからであって、同一であろうと信じている。

-出典: 「神奈備へようこそ」
-出典: 「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学教授 佐藤 信

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物部氏4/4 物部氏ゆかりの神社と日本統一へ

注連縄(しめなわ)


出雲大社 拝殿

神社の拝殿の軒や御神体には注連縄が張ってあります。神代の時代、天照大神が天の岩戸からお出になった後、岩戸に縄を張り再び中に入れぬようにした。この縄は「尻久米縄」と云われたと古事記に記され、しめなわの始まりとされている。

「社(やしろ)」・神域と現世を隔てる結界の役割を意味する。また神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、厄や禍を祓う結界の意味もある。御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに宿っているという印ともされる。古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印ともなっている。

しかしこれは、朝廷が出雲系の物部氏などの神社を封じ込めるためにあるという説があります。神楽殿のしめ縄は長さ13m、太さ8メートルで、重量は5トンで、もちろん日本一日本では向かって右側が上位であり尊いとされてきました。

しめ縄を正面から見た場合には、しめ始めは右からということ一般の神社でも同様にこの慣わしが存在しています。
しかし、唯一この慣わしに逆行している神社はここ出雲大社です。向かって左側から綯い始め右側で終わっているのです。

その理由について

”出雲大社は大怨霊オオクニヌシノカミを封じ込めた神殿である”といった説もありますが定かではありません。

大神(おおみわ)神社

奈良県桜井市三輪1422
式内社 大和國城上郡 大神大物主神社 名神大
大和國一宮 旧官幣大社
御祭神:大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
配祀 大己貴神(おおなむちのかみ) 少彦名神(すくなひこなのかみ)

由緒

遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)=大国主神が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられており、我が国最古の神社であります。

大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最 高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれます。

石上神宮(いそのかみじんぐう)

【国宝】
石上坐布都御魂神社 名神大 旧官幣大社
奈良県天理市布留町384
御祭神 「布都御魂大神」
配祀 布留御魂大神 布都斯魂大神 宇麻志麻治命 五十瓊敷命 白河天皇 市川臣命

西暦686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみし)が本宗家の地位を得ました。同氏は守屋の兄の子孫であると称しています。

雄略朝の大連・物部目の後裔を称する石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて、西暦708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上朝臣宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は、日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残しています。

石上神宮は、飛鳥時代の豪族、物部氏の総氏神として、又大神神社(おおみわじんじゃ)と同じく日本最古の神社として有名です。元々は古来朝廷の武器庫として物部氏が守っていたようです。境内に入ると多くの鶏が放し飼いにされていました。野生化していて強そうな鶏なので、猫が目の前を通っても微動もしない不思議な光景が見れます。

元々は20年ほど前に誰かが捨てて行ったものだったそうですが 、次第にその数が増え現在に至り、神の使いとして飼われているようです。さて楼門をくぐり奥に進むと拝殿が見えます。さらにこの後ろに本殿があるのですが、禁足地であり一般に立ち入ることはできません。もともとは大神神社のように本殿はなく、拝殿からその背後の禁足地を遙拝し、禁足地には主祭神である神剣布都御魂が安置されていると伝えられてきました。明治時代に禁足地を発掘し、剣一振(素鐶頭太刀そかんとうのたち)が出土したのを期に、これを布都御魂(ふつのみたま)として、本殿が造営されました。

大神山神社(おおがみやまじんじ ゃ)

式内社 伯耆國會見郡 大神山神社
旧國幣小社
本社 鳥取県米子市尾高1025 祭神 大穴牟遅神(おおなむぢのみこと)
奥宮 鳥取県西伯郡大山町大山 祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
いずれも大国主命の別名
奥宮末社・下山神社(しもやまじんじゃ) 渡辺昭政(わたなべてるまさ)命

自然石を敷きつめた七百mの参道の長さ、国内最大の権現造りの社殿、幣殿の白檀の漆塗りの荘麗さと、大神山神社奥宮には三つの「日本一」があり、西日本最大級の神輿がある。

大山(だいせん)は古より神おわす山として、よって大神岳とも称され、中国地方一の霊峰とも言われ修験道を始め多くの人々の信仰を集めてきた。神体山としての大山には主神として「大己貴命(おおなむちのみこと・大国主命の別名)」が鎮座し給うとされたが、仏教の隆盛による神仏習合思想の広まりとともに、大己貴命に地蔵菩薩を祀り「大智明権現」の称号を当てて神仏混淆の神社として奉仕されるようになり、平安鎌倉期には三院百八十坊僧兵三千名とまで数えられるようになった。一方この地は冬期積雪が多く、祭事の遂行が困難なため麓に冬宮を設けて冬期にはこの冬宮で奉仕を行うようになった。明治時代になると神仏分離令により尾高の冬宮を本社とし、大山の宮から地蔵菩薩を除いて大神山神社奥宮とし、現在のような形となった。

物部神社(もののべじんじゃ)

島根県大田市川合町川合
式内社 石見国一宮  旧社格は国幣小社
御祭神 「宇摩志麻遅命」(物部氏初代)
相殿右座 饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照大神

物部氏初代の宇摩志麻遅命を主祭神とし、相殿に物部氏祖神の饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照皇大神を祀る。 宮中でも行われる鎮魂祭を行うことで、石上神宮、弥彦神社と共に有名である。なぜか、11月22日でなく、11月24日に行われる。

石上神宮と表裏一体を為す神社。物部神社の御祭神「宇摩志麻遅命」はこの石東の地を平和な豊かな地域とするため、鶴に乗って御降臨されました。

その山を鶴降山といい、山頂には今も国見をされた場所と伝えられる遺跡が保存されています。
この国見をされたおり、平和な穏やかな里「安濃郡(旧 大田地方)」と名づけられました。

この鶴に乗って勝運を運んできた神にちなんで真っ赤な太陽を背負った鶴を全国で唯一この物部神社の御神紋と定められました。
当地の海辺には須佐之男命、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命らが半島から帰国の上陸の地との伝えがある。

須佐之男命は韓神新羅神社、五十猛命は五十猛神社に鎮座し、神別れ坂で大屋津姫命、抓津姫命と親子は別れたと云う。 大屋都比売命は大田市大屋町の大屋姫命神社に鎮座、抓津姫命が見あたらないと思っていたら、物部神社の客神としておさまっていたようです。

社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて尾張、美濃、越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。

物部神社門前から、三瓶山は、よく見える。石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引神話」に登場する。 国引神話では、「佐比売山(さひめやま)」(三瓶山)は鳥取県の「火神岳」(ほのかみだけ)大山)とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされています。

新羅の岬→去豆の折絶から八穂爾支豆支の御埼(やほにきづきのみさき。杵築崎)
北門(きたど)の佐伎(さき)の国→多久の折絶から狭田(さだ)の国
北門の良波(よなみ)の国→宇波の折絶から闇見(くらみ)の国
越国の都都(珠洲)の岬→三穂埼
延喜式神名帳では小社に列し、石見国一宮として歴代領主の崇敬を受けた。かつての社家の金子氏は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。戦前は、出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。 宇摩志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えることから、当社の神紋は赤い太陽を背景に鶴の「日負い鶴」である。

但馬国総社気多神社:「大己貴命」(豊岡市日高町上郷)
越前国総社大神宮:「大己貴命」  福井県越前市(武生市)京町1-4-35
越中国総社気多神社:「大己貴命」富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063
能登国一宮 気多大社:「大己貴命」石川県羽咋市寺家町ク1
越中国総社跡 気多神社:「大己貴命と奴奈加波比売命」富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063

天照御魂神(あまてるみたまのかみ)

ニギハヤヒは、記紀が書かれるまでは皇祖神・天照御魂大神だったことが、多くの史料や古代からの神社の祭神・縁起・伝承が証明しています。延喜式神名帳には、「天照」を名乗る神社が、山城、大和、摂津、丹波、播磨、筑紫、対馬などに記載され、記紀編纂以前の創建で古い神社です。

女神・アマテラス(天照大御神)は、日本書紀の編者の都合により、その称号を与えられたにすぎず、実状は全然違っていたのでしょう。なぜなら、全国の天照を名のる古神社は、皆一様にその主祭神を天火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊としているからなのです。
たとえば、京都府宮津市に天火明命を主祭神とする元伊勢籠神社があります。

同社の説明によると、主祭神は彦火明命(ホアカリノミコト)、亦名(またの名は)天火明命(ホアカリノミコト)・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
とあり、相殿に豊受大神、天照大神が祀られています。伊勢神宮の内宮・外宮の祭神です。

同社の説明に、「極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神(上賀茂神社)と異名同神であり・・・。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられます。古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い・・・。」と(ほんとはね…と遠慮ぎみに)あります。
元伊勢籠神社については後ほどくわしく説明します。

出雲大社の創建は、奈良時代初頭の霊亀二(716)年だったことがわかっています。別の神様(スサノヲ・須佐社)を祀っていたらしいのですが、ちょうど、古事記(712年)と日本書紀(720年)の成立の中間に大神社として創建されたことになります。明治までは杵築(キヅキ)大社と呼ばれていました。

大己貴命こと、大国主が亡くなってから500年も経った後のことです。大国主命の別名として、古事記では、大穴牟遲神、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神。日本書紀では、大物主神、国作大己貴命、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顕国玉神とあり、それぞれの神名から多様な性格が連想され、一つの神ではなく、複数の神々を統合したものとみられています。ともあれ、出雲大社は記紀神話に合わせて大和朝廷によって創建されたことは間違いないようです。そして、スサノオやニギハヤヒをはじめ、出雲系の神々とその偉業を一括りにして傀儡の大国主を創作し、出雲に流竄したのだともみられています。

記紀の記述に邪魔な神々を出雲に葬り、その代償として出雲大社が建てられたとみられ、当時は50mもある国内最大の建築物として、出雲大社は万の神が集まる今でも壮大なものです。

日本統一へ

出雲大社・物部神社(石見)・但馬(古丹波)気多神社・丹後(古丹波)元伊勢籠神社・越前気比神宮・越中気多神社など…わかるだけでも日本海沿岸を治めていた物部海洋王国は、大和政権によって平定され日本は統一されていきます。四道将軍や各地に残る桃太郎・大江山鬼退治伝説など。銅鐸は消え去り、朝廷から与えられた銅鏡と前方後円墳。しかし、神社は残りました。注連縄を張られ封じ込める形で。時代は神道に変わり聖徳太子は蘇我氏と仏教によって国をまとめようとしてのです。

物部氏ゆかりの神社が多い旧國

【筑前国】19
【筑後国】11【石見国】20【但馬国】12
【丹後国】11【丹波国】9【越後国】68
【伊予国】27【河内国】41【紀伊国】26
【摂津国】22【和泉国】11【伊勢国】35
【山城国】12【近江国】23【尾張国】28
【大和国】36

2009/08/28
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【但馬史パラドックス】 こうのとり神社の真相を探る

兵庫県豊岡市は日本でただ一か所の国の特別天然記念物コウノトリの生息地です。
その近くにある久々比神社。しかし、いつからかコウノトリゆかりの神社と思われてきた。久々比は鵠と書き、白鳥など鳴く鳥をいう。コウノトリは鳴かない鳥であるし、そもそも久々比神社は、城崎郡司久々比命を祀った神社で、コウノトリとは関係ない。

コウノトリとは関係ないとはいっても、別に同じ鳥に因んだ名前なのだし、全国で兵庫県立コウノトリの郷公園に行く機会には、このの式内久々比神社と式内酒垂神社を立ち寄られることをおすすめする。ともに豊岡最古の本殿(国指定文化財)
鵠を追って但馬で捕らえたとされるのは、養父郡和那美。今の式内和那美神社(養父市下網場)
コウノトリと誉津別命は無関係だ

『日本書紀』』巻六 第六話 伊勢の斎宮[*1] 治世23年秋9月2日、群臣を集めて詔して言った。
誉津別皇子(ほむつわけのみこと)[*2]は父の垂仁天皇に大変鍾愛されたが、長じてひげが胸先に達しても言葉を発することがなく、特に『日本書紀』では赤子のように泣いてばかりであったという。
「誉津別命(ほむつわけのみこと)は三十歳になり、長い顎髭が伸びるほど成長したが赤子のように泣いてばかりいる。それに声を出して物を言うことがないのは何故だろう。皆で考えてくれ。」
冬10月8日、天皇は大殿の前に誉津別命と立っていた。そのとき鵠(くぐひ)[*3]が空を飛んでいた。皇子は空を見上げて白鳥を見て「あれは何者ですか。」と言った。天皇は誉津別命は皇子が白鳥を見て口を利いたので驚き、そして喜んでそばの者に詔して言った。
天皇 「誰かあの鳥をとらえて献上せよ。」
臣下の一人 「手前が必ず捕らえてご覧に入れましょう。」
天皇 「よし。もし捕らえることが出来たら褒美をつかわす。」
こう申し出た者は鳥取造(ととりのみやつこ)の祖で、天湯河板挙(あめのゆかわたな)という者だった。天湯河板挙は白鳥の飛んで行った方向を追って、出雲まで行って捕らえた。ある人は(但馬)で捕らえたともいう。
11月2日、天湯河板挙が白鳥を献上した。誉津別命はこの白鳥を弄び、ついに物が言えるようになった。これによって天湯河板挙は賞をもらい姓を授けられた。鳥取造(ととりのみやつこ)という。そして鳥取部(ととりべ)、鳥養部(とりかいべ)、誉津部(ほむつべ)を定めた。

治世25年春2月8日、阿部臣の先祖である武渟川別(たけぬなかわわけ)、和珥臣の先祖の彦国葦(ひこくにぷく)、中臣連の先祖の大鹿島(おおかしま)、物部連の先祖の十千根(とおちね)、大伴連の先祖の武日(たけひ)らの五大夫達に詔して言った。

天皇 「先帝の御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにえ・崇神)天皇は聖人であられた。慎み深く、聡明闊達(そうめいかったつ)であられた。よく政務を取り仕切り、神祇を祀られた。それで人民は豊かになり、天下は大平であった。私の代でも怠りなく神祇をお祀りしようと思う。」

3月10日、天照大御神を豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)からはなして、倭姫命(やまとひめのみこと)に託した。倭姫命は大御神が鎮座あそばす地を探して宇陀(うだ)の篠幡(ささはた)に行った。さらに引き返して近江国に入って美濃をめぐって伊勢国に至った。
そのとき天照大御神は倭姫命に言った。

「伊勢国は波が重ねて打ち寄せる国だ。国の中心というわけではないが美しい国だ。この国に腰を下ろしたいと思う。」

そこで大御神の言葉に従ってその祠(ほこら)を伊勢国に建て、斎宮(いつきのみや)を五十鈴川(いすずのかわ)の畔(ほとり)に建てた。これを磯宮(いそのみや)という。
同様な話が久々比神社等に伝わります。

一方『古事記』では、誉津別皇子についてより詳しい伝承が述べられています。天皇は尾張の国の二股に分かれた杉で二股船を作り、それを運んできて、市師池、軽池に浮かべて、皇子とともに戯れた。あるとき皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。鵠は紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬、近江、美濃、尾張、信濃、越を飛んだ末に捕らえられた。しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかった。

久々比(くくひ)神社

祭神:久久遲命(くぐひのみこと)

式内小社 コウノトリに縁のある神社。 室町末期の建物と推定され、三間社流造の本殿は、中嶋神社・酒垂神社・日出神社(但東町畑山)とともに 【国指定重要文化財】に指定されている。
一説には天湯河板挙命(あめのゆかわぞなのみこと)を祀るともいわれています。
ご由緒には、コウノトリは古くは「鵠(くぐひ)」と呼び、大きな白鳥を意味する言葉です。霊鳥なのでその棲んでいる土地も久々比(くくひ)と呼び、その後この土地に神社を建て、木の神「久々遅命(くくちのみこと)をお祀りした。これが久々比神社の始まりでした。
ところで、その頃豊岡盆地は、「黄沼前海(きぬさきのうみ)」といって、このあたり(下宮)はその入り江の汀(なぎさ)でした。また、あたりは樹木が繁茂し、木霊のこもるところ、神自ら鎮まり座す景勝の地でした。私たちの先人が、この自然の神秘と霊妙を感得して、木の神「久々遅命」を奉齋し、その御神徳の宏大にしたのも当然のことでしょう。

和名抄では城崎を「支乃佐木」と訓じています。木の神がきのさきと訛ったとも考えられます。

鳥取造の祖、天湯河板挙命

このコウノトリの伝説はお隣の鳥取県にもあります。こちらが伝承の本家なのかも。
「鳥取」の語は『古事記』や『日本書紀』垂仁天皇二十三年九月から十一月の条にかけて「鳥取」の起源説話がみえます。
誉津別王子が成人しても言葉が喋れないことを天皇が憂いていた時、大空を白鳥が飛んでいるのを見つけ「是何物ぞ」と発した。天皇、喜びて、その鳥の捕獲を命じた。天湯河板挙が鳥を追いつづけ各地を巡り、ついに出雲の地で捕獲に成功した。この功績から「鳥取造」の称号(姓:かばね)を拝命した。『記』にも同類の説話が見えるが、結末は違っているが、上記の久々比神社の御由緒と同じです。単なる偶然かも分からないが、同じ気多郡という郡名がそれぞれ存在しています。
鳥取県のHPに鳥取県の名前の由来があった。

「鳥取」とは、大和朝廷に直属していたといわれる職業集団の一つ、白鳥を捕獲して朝廷に献上する人たち「鳥取部(トトリベ)」に由来しています。』…鳥取県の名前の由来は、平安時代に書かれた和名類聚抄に出てくる因幡国の「鳥取郷」まで遡ることができます。
そして、その「鳥取郷」という地名は、古代、白鳥を捕らえて朝廷に献上する「鳥 取部」という部民の住んでいた土地に由来するといわれています。ちなみに鳥取県史によると、「鳥取部」は、河内・和泉・伊勢・美濃・上野・越前・丹波・丹後・但馬・因幡・出雲・備前・備中・肥後など広く日本中に分布していたそうです。

北海道・福島県・群馬県・千葉県・富山県・愛知県・三重県・京都府・大阪府・兵庫県・鳥取県・岡山県・愛媛県・熊本県・佐賀県に、「鳥取」を含む地名がある(あった)ことが分かりました。なんと、全都道府県の約3分の1にあたる数です。

ところでこのほかにも、古事記中に2か所、「鳥取」という言葉を見つけました。「鳥取」という地名の起源は「鳥取部」にあるはずなのに、「鳥取部」より前に「鳥取」という地名(や神名)が出てくるのは面白いなと思ったので、ちょっと紹介しておきます。

ひとつは上で紹介した話の少し前で、垂仁天皇の御子が「鳥取の河上宮」で太刀を千振つくらせた、という記事が出てきます。「鳥取の河上宮」というのは、和名類聚抄に出てくる和泉国の「鳥取」で現在の大阪府阪南市に当たると考えられています。日本中に数ある「鳥取」の中でも、最も由緒ある地名といえるかもしれません。垂仁天皇の在位は(西暦で)紀元前29年から紀元70年ということですから、阪南市内にある「鳥取」、「和泉鳥取」、「鳥取中」、「鳥取三井」といった地名は2千年の歴史を持っていると言えるかもしれません。

また、古事記の中で、大国主命は6柱の女神と結婚していますが、6番目の妃は「鳥取神」という名前です。この「鳥取神」という神は他の古代史料に現れないため、残念ながらその名の由来までは分からないようですが、大国主命の最初の妃が「稲羽之八上比売(因幡の八上姫)」で、最後の妃が「鳥取神」というのも、なんだか不思議な縁を感じませんか。

ただ、これは神話の世界を含んでいますので、本当に2千年の歴史があるかどうかは、残念ながら誰にも分かりませんね。では、古代の史料で裏付けられる最古の「鳥取」はどこになるのでしょうか? 調べてみたところ、どうやら藤原宮跡から出土した木簡に記されている「旦波国竹野評鳥取里大贄布奈」が最古のもののようです。

これは、現在の京都府京丹後市弥栄町鳥取に当たると考えられていますが、藤原京といえば、694年に飛鳥京から遷都され710年に平城京へ遷都されていますから、京丹後市弥栄町の「鳥取」は、正真正銘1300年の歴史を誇る地名と言えるのではないでしょうか。「太田南古墳」の近くです。

丹後に似た伝説

由緒
『竹野郡誌』では、天湯河板挙命が但馬国から当地の水江に来て白鳥を捕ろうとし、松原村の遠津神に祈誓して水江に網を張ったので、この付近を水江網野と称するようになったという。
現在の網野神社付近はかって墨江(離湖)とよばれ、西に広がっていた浅茂川湖の水が日本海に入る河口でした。

当地には全長200m弱の日本海岸最大の前方後円墳・銚子山古墳があり、旧社地の後方にあたる。網野神社はこの地に居住した者の祀る神社でした。現社地の東南800m。
当町内では網野神社をはじめ、浅茂川・小浜・郷・島・掛津の各区で天湯河板挙を「早尾(はやお)神社」神として祀っています。

網野地名の起源が語られています。「天湯河板挙命(アマノユカワタナノミコト)」(他にも異なる表記法あり)が登場し、網野地名の起源が語られている。その意味でもこの神(人物)は当地にとって重要なキャラクターであり、その名は次のように『日本書紀』に登場する。(但し『古事記』では“山辺(やまのへ)の大(おおたか)”という名で現れる)

「垂仁帝の子誉津別王(ホムツワケノオウ)は物が言えなかったが、ある日大空をとぶ白鳥をみた時『あれは何か』と口を動かした。垂仁帝は鳥取造(トトリノミヤッコ)の先祖である天湯河板挙に白鳥を捕えるよう命じたので、かれは遠く但馬(一説には出雲)まで白鳥を追ってこれを捕えた。」(原文の大意を口語になおした)

但馬・丹波(のち丹後)の伝承では天湯河板挙が白鳥を迫った道筋は、但馬八鹿(ようか)町の網場(なんば)和那美(わなみ)神社、豊岡市森尾 阿牟加(あむか)神社、同下宮(しものみや) 久々比(くぐい)神社を経て網野(松原村)に到り、鳥取(現弥栄町)でこれを捕えたというものです。

垂仁天皇の皇子である誉津別皇子(ホムツワケノオウジ)は、なぜか成長しても言葉が話せませんでした。天皇は残念に思い、とても可愛がっていました。ある日、大きな白鳥が鳴きながら群れをなして飛んで行きました。これを見た皇子は初めて何か言いました。それは「あれは何という鳥か」と言われたように聞こえ、天皇は驚き、大変喜びました。そこで、天湯河板挙(あまのゆかわたな)という者にこの白鳥を捕まえる役を命じられました。天湯河板挙は白鳥を追って但馬から松原村(網野町)に来て水之江に綱を張り、日子生命(網野神社の祭神のうち一柱)の御神霊にお祈りし、とうとう白鳥を捕えて天皇に献上しました。皇子は白鳥を友達のようにして遊び、ついに話すことができるようになりました。天皇は大喜びされ、天湯河板挙に厚く賞を与え、鳥取造(とっとりのみやつこ) という姓を賜りました。

「網野神社明細帳」に、白鳥を捕らえようと網を張った地を以後「網野」といい、白鳥を捕えた地を「鳥取(弥栄町鳥取)」というようになったと記されています。

垂仁天皇は大和国纏向宮(まきむくのみや)で国を治めていましたが、ある時「私の為に誰か常世国へ不老不死の霊菓、非時香菓(ときじのかぐのみ)をさがしに行ってくれる者はいないか」と尋ねました。この大役を田道間守が命を受け、その後十年後に無事大命を果たし帰国してきましたが、すでに垂仁天皇はその前年なくなっており、「陛下の生前に持ち帰ることができず、私の罪は正に死にあたいする。先帝のあとをしたってお供しましょう」と言って陵の前に穴を掘って入り、天を仰いで忠誠を誓い自ら殉じてしまいました。 田道間守の持ち帰った非時香菓は、その後田道間花といわれ省略されて「たちばな」となり、橘と書くようになりました。その後橘が伝来した土地として、橘を「キツ」と読み現在の「木津」(丹後木津)に至っています。

出雲大神の祟りを畏れて修理した

それは、七世紀の飛鳥に君臨した女帝・斉明天皇にまつわる話です。

この『日本書紀』の記述には、誉津別皇子の「口が利けない」こととクグヒの伝承と似ています。誉津別皇子の話では、その原因が「出雲神の祟り」であったとは記されていませんが、『日本書紀』編者が、出雲の祟りと知っていたらしいことは、意外な場所からはっきりします。

ある晩、斉明天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占(ふとまに)[*4]で夢に現れたのが何者であるか占わせると、それは出雲大神の祟り(たたり)とわかった。天皇は皇子を曙立王(あけたつのおう)[*5]、菟上王(うなかみのおう)とともに出雲に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになったという。その帰り、皇子は肥長比売(ひながひめ)と婚姻したが、垣間見ると肥長比売が蛇体であったため、畏れて逃げた。すると肥長比売は海原を照らしながら追いかけてきたので、皇子はますます畏れて、船を山に引き上げて大和に逃げ帰った。天皇は皇子が話せるようになったことを知って喜び、菟上王を出雲に返して大神(出雲)の宮を造らせた。また鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を設けたという。

斉明天皇5年、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)

要するに出雲大社を修理(建立)したという。これに続けて、出雲のキツネが意宇(おう)郡の葛(かずら)を食いちぎって去っていった話し、犬が死人の手首を、ある神社に置いていった話しなどが載っています。
不気味な内容ですが、なぜ斉明天皇が出雲大社を修繕したのか、その理由がはっきりと書かれていません。ただ、どうやら垂仁天皇の故事にならったらしいことは分かっています。というのも、斉明天皇には建皇子(たけるのみこ)という孫がいて、生まれて以来口がきけなかったこと、しかも早逝し、斉明天皇は深い悲しみに包まれていたと『日本書紀』は記しています。

要するに、斉明天皇は建御子(たけるのみこ)の不具は、出雲神の祟りに違いないと憶測していたのでしょう。それほど、「出雲は祟る」という伝承は、強いインパクトを以て伝わっていたことを証明しています。
そしてそれは、平安時代に至っても変わることはありませんでした。

平安時代中期に記された『口遊(くちずさみ)』には、有名な「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」という言葉がありました。当時の建物の大きさを語ったもので、出雲大社が一番、大和の大仏殿が二番、京都の平安京の大極殿が三番目の大きさだったという意味です。出雲大社が京都の天皇がおわします大極殿よりも大きく、日本一の大きさを誇っていたといいます。

『日本書紀』では、「天皇と同等の宮を建てろ」と出雲国造に脅していたのが、時代とともに、いつしか、「天皇のものよりも立派な宮」になってしまっていたわけです。「出雲」が「天皇」を抜いてしまったかというと、「出雲」が祟る神という伝承が恐怖を呼び、さらに増幅されていったからでしょう。
近年発掘された柱から、室町時代には、出雲大社の本殿が、約48mもあったとという伝承が証明されたのです。

伝承の内容や(出雲)大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神(おおくにぬし)の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえます。また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされています。
記紀に出雲について相当あてています。

[註] [*1] 斎宮は斎王(今でいう宮司)のこもる宮。
[*2]…誉津別皇子 のちの応神天皇。『日本書紀』では誉津別命、『古事記』では本牟都和気命、本牟智和気命。『尾張国風土記』逸文に品津別皇子。垂仁天皇の第一皇子。母は皇后の狭穂姫命(サホヒメノミコト。彦坐王の娘)。
[*3]…鵠(クグイ・クグヒ)は現在の白鳥あるいはコウノトリの古名です。鴻と共に大きな鳥の代表として引用された中国の故事成語で有名。片手刀の一つ。性能は相方の鴻と極めて近く、敏速性は勝る。
鴻(おおとり)はその名が示す通り大型の水鳥で雁の近縁種。菱食い(ひしくい)とも呼ばれる。片手刀の一つ。鴻ノ鳥とは、大きな白い鳥という意味。 京丹後市観光協会

記紀に崇神天皇と垂仁天皇の話が集中したワケは

コウノトリは、鴻の鳥と書きますが、古くは鸛(こうのとり)、鵠(くぐい)と書きます。鴻(おおとり)は現在の白鳥の古名です。鵠は鴻と共に大きな鳥の代表と読み、ツルは大きな声で鳴くことができるが、成鳥のコウノトリは鳴くことはできないため、クラッタリングと呼ばれるくちばしをたたく行為を行います。

コウノトリを捕らえ、献上したところ、誉津別命(ほむつわけのみこと)は話すことができるようになったという話は、ツルは大きな声で鳴くことができるが、成鳥のコウノトリは鳴くことはできないという、そのコウノトリの特性を、三十歳になっても口が利けない誉津別命と合わせたのではないかと想像します。

崇神天皇と垂仁天皇の代になって初めて、記紀に日本の広範囲の出来事の記述が出てくるので、このころ全国規模(九州から東日本)の政権になったのではと考える説もあります。また、大漢国(丹波国・越・近江)中心の話が集中的に記されています。垂仁天皇は、『古事記』では153歳、『日本書紀』では140歳、『大日本史』では139歳で崩御と記されています。これは「一年二歳論」といい、古代の日本には6ヶ月をもって1年とし、1年を2歳とする数え方があったとする説で、当時の年数は実際は2で割ると、それぞれの年齢が通常の人間としてもっともらしい数字になるとする説です。

記などの多様な伝承を集めているので、整合性がとれない矛盾点が多くあるのは承知で、天皇は神であり人間の寿命とはかけ離れた絶大な存在であるとしたのか、日本という統一国家がまだ成立していな時代であり、複数の王統を一息に神武・崇神・垂仁・応神天皇・神功皇后に集合したのか、苦心があります。また、この崇神・垂仁・応神天皇・神功皇后の代に丹波・但馬の記述が集中していることから、この時代に丹波・但馬がヤマト王権に組み入れられたのではないでしょうか。

9代開化天皇の皇后は伊香色謎命(いかがしこめのみこと。物部氏の祖・大綜麻杵の女)で次の后はやはり丹波から大県主由碁理の女 丹波竹野媛(たにわのたかのひめ。)で丹波からです。10代崇神天皇は丹波から后を娶ってはいませんが、四道将軍の一人 丹波道主王を派遣して丹波を平定させたということは、一時期、丹波勢力と不仲になっていた丹波を支配下におくことに成功したことを意味したのだろうか。

次の垂仁天皇になって、にわかに実に沢山の皇后・后を娶っていることです。先代の10代崇神天皇が、皇后一人、后二人のみで、しかもまったく丹波に姻戚関係が見られないのに、11代垂仁天皇になるとにわかに最初の皇后と二番目の皇后、3人の后と宮人までが丹波(丹後)から同じ丹波道主王の子の姉妹で同じ日に宮廷に入っている、神功皇后は天日槍の後裔とするなど、どう信じていいものか?それだけ丹波(但馬を含む)との関わり方を誇張したかったのだろうか。籠神社から伊勢神宮に遷宮したことへの(祟りを畏れて)謝意だろうか。

『古事記』では、垂仁天皇は即位すると丹波から狭穂姫命を娶り、但馬の天日槍から始まり、本牟智和気が生まれると河内から出雲・因幡・但馬・丹波に向かわせてコウノトリを捕らえる

そして、出雲から野見宿禰を見つけて相撲をとらせる。

狭穂彦と狭穂姫命によって暗殺されかかり、狭穂姫命は焼身自殺したのに、いくら愛していた狭穂姫命が進言したからといって、姫の兄弟の丹波道主王から娘をもらう。それだけで政略的なのに、しかも一人でいいものを、5人も一度に娶るなど信じがたい話ですが、それだけ日本海の要衝・丹波・但馬との政略結婚で姻戚関係を強固なものに築き上げたかったということだろうか。

それは何が何でも丹波を朝鮮諸国との要害かつ鉄資源を手中に収めねばならない理由だったのではないだろうか?

日葉酢媛が丹後与謝宮(籠神社)から伊勢神宮に移す。

それは出雲神祇の力を丹波・但馬から遠ざけたかったのではないだろうか?
出雲神社を建てて、祭神をスサノヲから大国主に替えて国作りを大国主に、出石神社に大和から長尾市を派遣して、祭神を天日槍に代えて?、但馬を切り開いたのは天日槍であるとすり替えているからだ。
その後19年後には山背(山城)から国造であろう大国不遅から二人の娘をもらうという記載は、丹波はそのころ支配下として安定したので、次は丹波と大和を結ぶ山城を臣下に置くねらいとも読める。
それは、こう考えられる。

丹波はようやく制圧できたが、但馬の王はなかなか言うことを聞かない。田道間守(たじまもり)に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせるが、ようやく田道間守が帰ってきたときには天皇はすでに崩御された後だった。手に入れたら許してやろうと思っていたのに。時すでに遅し。だから神様をオオナムチ(大国主)からヒボコ(天日槍)に替えよう。常世国の非時香菓、それは新羅征伐に向かっていたことを表しているのか?大和傘下にしたことを意味するのでは。

[註] [*4]太占(ふとまに)…事記や日本書紀に吉凶を占う占法として登場する神道の秘法で、ト骨(ぼっこつ)と呼ばれるものの中でも鹿の骨が多く、鹿ト(かぼく)と呼ばれ、多く使用されている。鹿の肩甲骨を焼き、串で刺したうえ、オキにかざしその亀裂の大きさや方向を持って吉凶を判断する。
[*5]…曙立王(あけたつのおう)は、『古事記』に登場する皇族。大俣王の子で、菟上王と兄弟。開化天皇の皇子である彦坐王の孫にあたり、伊勢の品遅部、伊勢の佐那造の始祖とされる。三重県多気郡多気町の式内社・佐那神社は天手力男神と曙立王を祀る。
『古事記』によると、唖の誉津別命が出雲国に赴くさい、そのお供をするべき人物として占いに当たったので、曙立王がウケイをすると、一度死んだサギが蘇り、また一度枯れた樹木が蘇った。そこで垂仁天皇は彼に大和師木登美豊朝倉曙立王という名を与え、さらに菟上王をもお供にして、出雲を訪問させたという。
一説に曙立王が唖の皇子の伝承と関係を持っているのは、伊勢の佐那造がこれを語り伝えたためであるとされる。伊勢の佐那(三重県多気郡)近辺は古来より水銀の産地として知られるが、尾畑喜一郎氏は佐那造が古代の水銀採掘に携わった人々であるとし、気化した水銀を長時間呼吸することによって喉の病を患い、その職業病が誉津別命と曙立王の伝承を結びつけたとしている。
出典: 『日本の古代』放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信
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天日槍とゆかりの神社というこじつけとその真相

「天日槍(アメノヒボコ)ゆかりの神社は、出石神社と御出石神社を囲むように周辺に集中しています。」

  1. 耳井神社/豊岡市宮井 アメノヒボコの妻が多遅摩前津見(タヂママヘツミ)
  2. 諸杉もろすぎ神社/出石町内町 アメノヒボコの子 多遅摩母呂須玖(タヂマモロスク)
  3. 比遅神社/但東町口藤 多遅摩斐泥(タヂマヒネ)
  4. 多麻良岐たまらぎ神社/日高町猪爪 多遅摩比那良岐(タヂマヒナラキ) 第三子
  5. 中嶋神社/豊岡市三宅 曾孫が、菓子の神とされるタヂマモリ(多遅摩毛理、田道間守)
  6. 日出神社/但東町畑山 多遅摩比多訶(タヂマヒタカ)、清日子(スガヒコ)
  7. 須義神社/出石町荒木 多遅摩比多訶(タヂマヒタカ)の娘が菅竃由良度美(スガカマノユラトミ)/
    一節には清日子(スガヒコ)の娘とあります。
  8. 鷹貫神社/日高町竹貫 葛城高貫比売命(神功皇后の母で、 多遅摩比多訶と菅竈由良度美の子として誕生)

以上のこのようなヒボコゆかりの神社とされている神社のうち、『国司文書 但馬故事記』出石郡故事記によれば、アメノヒボコに関係するのは、
諸杉神社日出神社須義神社・中嶋神社
のみである。

いずれも旧出石郡内であり、『国司文書 但馬故事記』出石郡故事記以外の郡故事記には、ヒボコについては全く記されていない通り、城崎郡の耳井神社や気多郡の多麻良岐神社と鷹貫神社はヒボコと無関係なのだ。

耳井神社をヒボコの妻が前津耳と「耳」というだけで錯覚したのか?御祭神、耳井神社の御祭神は耳井命と言って城崎郡司であり、前津耳を祀っていない。

多麻良岐神社を多摩比那良岐(タヂマヒナラキ)としているが、
竹貫区が神社の現在の御祭神は、鷹野姫命=葛城高額比賣命としていることにある。
もちろん、神社の御祭神は長い時間の中でに変遷していった例はたくさんあり、誰を祀ろうが区の自由であることだ。

『国司文書 但馬故事記』気多郡故事記には、
気多県主の当芸利彦命、又の名を武貫彦命 竹野別(現豊岡市竹野町)の祖、気多県主を祀るとある。

但馬国一の宮 出石神社(いずしじんじゃ)


兵庫県豊岡市出石町宮内字芝地99
伊豆志坐神社八座座[イツシノ](並名神大)
式内社 旧國幣中社 但馬國一宮
【国指定重要文化財】
祭神:天日槍命 出石八前大神
御出石(みいずし)神社
豊岡市出石町桐野986
名神大 式内社 旧村社
御祭神 日矛神 配祀:伊豆志袁登売(出石乙女)神
お菓子の神様-中嶋神社
【国指定重要文化財】
祭神:主祭神:田道間守命(たじまもりのみこと・多遅麻毛理命) 配祀:天湯河棚神(あまのゆかわたなのかみ)
住所:兵庫県豊岡市三宅1

2009/08/29

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全国的にも式内神社が多い但馬

但馬の国造り伝説

円山川に沿う五社の伝説は、どのようにしてできあがってきたのだろうか。その背後にあった太古の記憶は、どうすれば解き明かすことができるのだろうか。

アメノヒボコノミコトは、但馬の国造りをした神様(人物?)でもあった。けれども但馬地方には、ほかにも国造りにまつわるお話がいくつか伝えられている。各々の村にも、古くから語り継がれた土地造りの神様の伝説があったのだ。

注目すべき点

注目するのは、粟鹿神社、養父神社、小田井神社は但馬の名神大社、但馬総社気多神社、のいずれも祭神は、当地開拓の祖神として大己貴命(くにつくりおほなむち)を祀っています。伊和神社祭神:伊和大神(いわおほかみ)も同一神とされます。出石神社以外の神社は、円山川河口を切り開き国を造ったヒボコのことは一切ふれていませんし、出石神社もかつての祭神は天日槍ではなかったという説もあるそうです。そうなったのは記紀・播磨風土記に但馬・丹後の話がやたらに書かれる崇神天皇・崇神天皇・神功皇后あたりからなのです。

但馬一宮は粟鹿神社から出石神社に変わっています。同じように出雲一宮 素餓社から出雲大社へ、丹後一宮も真名井神社から元伊勢籠神社へ、角鹿社から気比神宮へと、もともとの神様から天皇系の神様に替えられているようです。

西刀神社[せと](豊岡市瀬戸字岡746)も、円山川流域は黄沼前海と呼ばれ、沼地のような一大入江であった。この時、海部直命(但馬五社絹巻神社の祭神)は、御子・西刀宿禰に命じて瀬戸の水門を浚渫し、河水を海に流し、円山川の流域は蒼生安住の地になったと伝えられております。

円山川は暴れ川といわれ、とくに小田井神社当たりの円山川下流域は非常に水はけの悪い土地で、昭和以降もたびたび大洪水を起こしています。近代的な堤防が整備されていてもそうなのだから、古代のことは想像に難くありません。実際、円山川支流の出石川周辺を発掘調査してみると、地表から何mも、砂と泥が交互に堆積した軟弱な地層が続いています。

今から6000年ほど前の縄文時代前期は、現代よりもずっと暖かい時代でした。海面は現在よりも数m高く、東京湾や大阪湾は今よりも内陸まで入り込んでいたことが確かめられている(縄文海進)。 円山川河口部は黄沼前海(きぬさきのうみ)と呼ばれていた入江湖だったので国作大己貴命(くにつくり-)と祭神名を「国を作った大己貴命」とあえて加えているのがなんとも信憑性がありそうです。

出石神社も但馬の古社で同じように祭祀年代は不詳ですが、鎌倉時代の『但馬国大田文』では栗鹿神社を二宮としていますが、室町時代の『大日本一宮記』では栗鹿神社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていません。絹巻さんは海に近く海の神様 天火明命(あまのほあかりのみこと)で元伊勢籠神社と同じですから納得できます。大己貴命同様出雲系の神です。その他の但馬の大社は自然神なのでもっと古社でしょう。大和の天皇系は出石神社の天日槍のみなのです。

太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのでしょう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思えます。

二つの伝説に共通しているのは、「但馬(特に円山川(まるやまがわ)流域)はかつて湖だったが、神様(たち)が水を海へ流し出して土地を造った」という点で共通している点です。

但馬(たじま)国には、ヤマト政権が但馬を平定する以前から古い神社が多く存在していますが、延喜式神名帳ではそれを否定はせず、あるいは政権側の祭神を配祀しているのでしょうか。

但馬五社のうち、大国主以外の神社は天日槍(日矛)の出石神社のみですし、出石神社も古くは別の祭神であったとする説あるそうです。養父神社対岸にある水谷神社は、かつて大社であったとされるのにもかかわらず、どういう訳か但馬五社からはずされています。

神社が多い但馬

全国の神社について公式に記録で現存するのは、平安時代中期(十世紀)の初頭選定された、「延喜式・神名帳」です。全国には大492座、小2604座が指定されています。相甞祭(あいなめさい)の官幣を受ける大社69座は、大和31、摂津15、山城11、河内8、紀伊4座です。
新甞祭(にいなめさい)の官幣を受ける大社304座は、京中3、大和128、山城53、摂津26、河内23、伊勢14、紀伊8、近江5、播磨3、阿波2、和泉、伊豆、武蔵、安房、下総、常陸、若狭、丹後、安芸がそれぞれ1座です。大和朝廷の勢力範囲の拡大経過と見ることができるでしょう。

但馬国は131座(大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも大の位の神社数が多いのが特徴です。但馬国を旧郡名の朝來(アサコ)郡、養父(ヤブ)郡、出石(イズシ)郡、気多(ケタ)郡、城崎(キノサキ)郡、美含(ミグミ)郡、二方(フタカタ)郡、七美(ヒツミ)郡の8つに分けると、出石郡が9座2社、気多郡は4座4社置かれ、次いで養父郡が3座2社、朝来郡、城崎郡が各1座1社ずつとなっています。

大小合わせて131座というのは、例えば

大和國286座大128小158
伊勢國253座大14小235
出雲國187座大2小185
近江國155座大13小142
但馬國131座大18小113
越前國126座大8小118

近隣で比べると、
丹波國:71座 大5 小66
丹後國:65座 大7 小58
若狭國:42座 大3 小14
因幡國:50座 大1 小49
播磨國:50座 大7 小43

となっています。決して大和や出雲に比べて華やかな歴史が残っているわけではないのに、全国で5位、近隣を遙かに引き離していることがわかります。それは大和朝廷の勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。ただし、古くは丹後國、但馬国も丹波国の一部ですから、合わせると267座は、大和に次ぐ全国2位です。

ここではヤマト朝廷成立以前にすでに存在していた古い神社を弥生時代に起源を求め、ご紹介します。

名神大社(十八座)

朝来郡朝来市粟鹿神社名神大・旧県社
養父郡養父市養父神社(夜夫坐神社)名神大二座。小三座・旧県社
水谷神社名神大・旧村社
出石郡豊岡市出石町出石神社(伊豆志坐神社)名神大八座・国幣中社・別表神社
御出石神社名神大
気多郡豊岡市日高町山(やま)神社名神大・旧村社
戸(へ・との)神社名神大・旧村社
雷(いかづち)神社名神大・旧村社
豊岡市竹野町?(木偏に蜀)椒(ほそぎ・はじかみ)神社名神大・旧村社
城崎郡豊岡市海(カイ・あまの)神社名神大・旧村社

但馬一の宮

一宮(いちのみや)は、神社の格式を記した『延喜式(十世紀)』には、一宮等の区別を定める規定はありませんが、祭祀・神階などの点で、他社にまさって有力な神社とされるものが明らかに見られるので、それらの最上位のものが一宮とせられ、以下、二宮・三宮・四宮等などの順位を附けて行ったもののようです。

おそらく平安初期にその実が備わり、同中期から鎌倉初期までに逐次整った制と考えられますが、それは朝廷または国司が特に指定したというものではなく、諸国において由緒の深い神社、または信仰の篤い神社が勢力を拡大するに至って、おのずからその国の神社の階級的序列が生まれ、その首位にあるものが一宮とされ、そのことが公認されるに至ったもののようです。

出石神社は但馬一の宮で大変古い神社ですが、このあと天日槍(あめのひぼこ)の項で詳しく述べるとして、但馬国一宮は出石神社と粟鹿神社の二社とされています。但しいくつかの資料で異なっており、鎌倉時代の「但馬国大田文」では粟鹿神社を二宮としていますが、室町時代の「大日本一宮記」では粟鹿神社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていません。室町時代は山名宗全が出石神社に近い出石此隅山城を本拠として出石神社を擁護し、応仁の乱の際には出石神社に祈願して此隅山城から出陣したと伝えられているので、記載されていないのが不思議です。

山陰道但馬国
一宮 出石神社 兵庫県豊岡市出石町宮内
一宮 粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
二宮 粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
三宮 水谷神社 兵庫県養父市奥米地字中シマ235
三宮 養父神社 兵庫県養父市養父市場字宮ノ谷827-3

粟鹿神社については、一宮とも二宮ともいわれています。
名神大18は以下の通りで、全国的に大和国 大128、山城国 大53に次いで多い。山陰道でも圧倒的に多く、しかも自然神が他国では皆無なのに19社中5社はきわめて珍しい。

但馬五社

またこれとは別に、但馬を南北に流れる円山川沿いに絹巻神社・出石神社・小田井縣神社・養父神社・粟鹿神社、この5つの神社を総称して「但馬五社」と呼び親しまれています。各神社間は約12km、お正月にはこの五社をめぐると大変御利益があるとされ、露店も並び、多くの参拝者で賑わいます。

粟鹿神社 朝来市
養父神社 養父市
出石神社 豊岡市出石町
小田井縣神社 豊岡市
絹巻神社 豊岡市

2009/08/28

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