たじまる 鎌倉-2

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

鎌倉時代

鎌倉時代(1185年頃-1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したことからこう呼ばれる。武士階級による政権が本格的に実力を発揮し始めた時代である。

5.国衙から守護へ

やがて、国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する時代に入ります。 鎌倉期の守護は、1180年(治承4)、源頼朝が挙兵し、鎌倉へ入った後、諸国に置いた守護人に始まるとされています。

守護は、鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官です。1185(文治元)年、後白河上皇は、平家を壇ノ浦で壊滅させた源義経の軍事的才能に着目し、頼朝の対抗者に仕立てました。しかしこの企ては京都へ軍を送った頼朝により一撃され、頼朝に逃亡した義経を探索することを名目に、守護・地頭を全国に配置しました。現在では同年十一月の守護地頭設置をもって、鎌倉幕府の成立と見なす研究者が多くなっています。

通常、守護は、京都か鎌倉に常駐していて、任国には代官を置いて事務を執務させました。

設立当時の守護の主な任務は、在国の地頭の監督で、鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代は守護職(しゅごしき)といいました。のちに守護大名と発展し、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきました。

平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられています。

なお、諸国ごとに設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めたのは、1190年前後とされています。だが、当初の頼朝政権の実質支配権が及んだ地域は日本のほぼ東側半分に限定されていたと考えられており、畿内以西の地域では後鳥羽天皇を中心とした朝廷や寺社の抵抗が根強く、後鳥羽天皇(退位後は院政を行う)の命令によって守護職の廃止が命じられたり、天皇のお気に入りであった信濃源氏の大内惟義(平賀朝雅の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことです。

1185年に、源頼朝は大江広元の献策を受け容れて弟の源義経の追討を目的に全国に守護・地頭を設置します。守護は一国に1人ずつ配置され、謀反人の殺害など大犯三ヶ条や国内の御家人の統率が役割の役職で、地頭は公領や荘園ごとに設置され、年貢の徴収や土地管理などが役割でした。

鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

そして守護や地頭は、守護大名として、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきます。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期~16世紀初頭ごろには、一部は戦国大名となり、一部は没落していきました。

その後、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚(せんそ)(天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる)、後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に両朝が合一するまでの期間を南北朝時代と指し、室町時代の初期に当たる。この間、日本には南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれ正当性を主張しました。

6.但馬国司

■守護

  • 1185年~?  小野時広(惣追捕使)
  • 1197(建久8)~1221(承久3)年 安達親長 のち出雲兼任
  • 1221年~1223年 常陸坊(太田)昌明
  • 1285年~1321年 太田政頼
  • ?~1333年 – 太田氏
  • 1336年 今川頼貞
  • 1336年~1338年 桃井盛義
  • 1338年~? 吉良貞家 但馬・因幡兼任
  • 1340年~1351年 今川頼貞
  • 1361年~1365年 仁木頼勝
  • 1366年~1372年 長氏
  • 1372年~以降1536年まで 山名氏■国司但馬守
  • 960年頃 源経基
  • 1010年頃 源頼光
  • 1110年頃 平正盛
  • 平経正
  • 1130年頃 平忠盛
  • 1182年 平重衡(権守)
  • 矢沢頼康
    柳生宗矩 剣術家、のち大和国柳生藩主
    戸田氏西 美濃大垣藩主
    山口弘豊 常陸牛久藩主
    浅野長晟 安芸国広島藩初代藩主
    遠藤慶隆 美濃八幡藩初代藩主但馬介
  • ? 源満頼
  • 1224年 平有親
  • 714(霊亀元)年 安部安麻呂
  • 737(天平九)年 大津連船人(おおつむらじふねひと)
  • 741(天平十三))年 陽胡史真身(やこのゑびとまみ) 記録の上では、最初に但馬国司に任じられたのは、霊亀元年(714)、安部安麻呂で、国司制がほぼ形を成してきた頃でした。その後約三十年近くの間は判明しない。天平九年(737)になって、大津連船人(おおつむらじふねひと)の名前があります。

7.陽胡史真身(やこのゑびとまみ)

その次に見えるのが、陽胡史真身(やこのゑびとまみ)です。天平勝宝二年(750)、壬生使主宇太麻呂、但馬守に任ず。陽胡氏は、隋陽(火偏)帝の後、達率楊侯阿子王より出たといわれ、亡命した帰化系の氏族であった。彼が但馬守に任じられたのは、天平十三年(741)で、二期の間但馬国司を勤めています。

聖武天皇が奈良に大仏を造ろうとした時に、国民の協力を呼びかけ、高額の募財に応じた人々には、現在の位階に関わりなく、外従五位下に任じようといいました。『東大寺要録“起草章”』の『造寺校本知識記』に、大口献金者の名前が十人記され、陽胡史真身は、その6人目に記されています。外従五位上に任じられたばかりなのに、ただちに従五位下に昇進しています。そればかりか、翌天平勝宝元年には、四人の子息がそれぞれ一千貫を寄進し、一足飛びに外従五位下に昇進しています。恐らく真身が四人のこの名義で献金したものでしょう。

この頃、律令制の位階を氏姓の尊卑で内位と外位とに分けていました。中央の官人に与えるのが内位で、従五位下に任じられたというのは内位に進んだということです。さまざまな貴族的特権を手に入れることが出来る。地方豪族や中央下級官にとっては、憧れの地位でしました。また、勲十二等にも叙せられています。真身はもともと法律専門の文官畑の出身者らしく見えるが、時には軍役にも駆り出されたのだろうか。

地方官の給与だけでは、このような寄進が不可能と思われるような莫大な金額を調達しています。何らかの抜け道がなければ手に出来ない金額です。法律を拡大解釈したり、法律の盲点をついたり、逆用したりして、蓄財を果たすのが、当時の国司のやり方でした。法律畑出身の真身にとっては、まさに法律とは金儲けさせてくれるものだったろう。

ではどのように行ったのだろう。大化改新によって、制度的には土地は国有化し、私有地はなくなった筈であります。戸籍に基づいて豪族だろうと一農民だろうと同じように口分田を受けることになっています。従五位下を手にすると、百町歩開墾の権利を手に出来る。但馬国司という地位を利用して、百町歩開墾を行ったとしたら、郡司たちが開墾に精力を注ぎ制限面積を超えた場合でも、国司として黙認し、その余剰分を蓄えたのではなかったのでしょうか。

8.安達親長

安達親長は、のち出雲(いずも)(島根県)の守護も兼任。安達氏は、鎌倉幕府の有力御家人の氏族。祖の藤九郎盛長は、平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉幕府の樹立に尽力した。 豊岡市日高町赤崎にある進美寺で、建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」(進美寺文書 県指定重要文化財)が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文です。

源平合戦の直前まで、但馬は平家一門による知行国で、当時の世情の激変がしのばれます。承久の乱に際して、れっきとした鎌倉武士でありながら、後鳥羽上皇に味方したため、地位を追われ、代わって太田昌明が守護となりました。

9.源頼光と頼光寺

頼光寺(らいこうじ)
曹洞宗

但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え、武勇に優れた弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。

頼光寺は、豊岡市日高町上郷の山側にあります。平安中期の武将で、 大江山の鬼退治の伝説でも有名な源頼光(みなもと・よりみつ 948年(天暦2年)~1021年(治安元年))が1000年(長保2年)前後、但馬守に任じられました。豊岡市日高町上郷の頼光寺は、その邸宅跡と伝えられています。金葉和歌集に頼光夫妻が国府館で口ずさんだという「朝まだき空櫨(からろ)の音の聞こゆるは蓼刈る舟の過ぐるなりけり」の連歌が紹介されています。
気多神社は、かつては頼光寺のご領地に鎮座していたそうです。

10.太田氏の繁栄と滅亡

むかし、比叡山の西塔谷というところに、常陸坊昌明という荒法師がいました。武芸に通じた荒法師として、この人の右に出るものはありませんでしました。

ところが、文治元年(1185)のこと。後鳥羽上皇は、源頼朝に叔父の行家や弟の義経を捕らえるように命じる。常陸坊はこのとき比叡山を下り、行家を討つ仲間に入った。行家は捕らえられ、この手柄によって常陸坊昌明は、摂津の葉室荘と但馬の大田荘(豊岡市但東町)を賜り、大田荘に移って、それからは大田昌明と名乗ることになりました。

その範囲は今の出石郡全体にあたるといわれていますが、昌明は何を考えたのか、この大田荘の一番奥の但東町木村の大将軍に館をつくったのです。そのころは、まだこの土地を大将軍とは呼ばなかったそうですが、文治五年、源頼朝が奥州の征伐をしたとき、はるばるこの遠征に従軍した昌明は、凱旋して自分で征夷大将軍といって自慢していたので、いつの間にか「大将軍の親方さま」と呼ばれるようになって、この地名が生まれたと伝えられています。

昌明は、晩年に出城の築城にとりかかりました。亀が城の川上に仏清寺、川下に岩吹城を築き、一族や重臣を城主にして守らせました。また館を堀之内の台地に新築し、ここを代々の館としました。本城の亀が城を中心にして、仏清、岩吹の二城と、姫の段、堀の内などの館は、うまくつながって結ばれており、どの地点に立ってもすべての地点が必ず見渡せるようになっています。

前但馬守護安達親長の子息の所領を没収して、進美寺に寄進したりしたこともありましたが、進美寺領に対して、干渉も行い始めました。たまりかねた進美寺では、本寺である比叡山延暦寺に保護を申し入れ、寺領を保全しようとしました。進美寺は末寺の中でも但馬随一の有力な寺院でした。延暦寺が但馬を寺院知行国としている限り、進美寺を厚く保護してやらねばならない。座主の令旨を昌明に伝えて、みだりに国衙や守護所が、進美寺領を違乱することがないようにいさめたり、六波羅探題に訴え出ました。

このように昌明は、国衙がある気多郡に所領を持ちたいような行動をたびたび行っています。進美寺領や荘園が多かった気多郡は、なかなか奪えなかったのだろうか。

昌明が亡くなった後も、太田氏は代々但馬守護職の地位にあり、一族は但馬各地の地頭になって栄えました。その様子は四代政頼が鎌倉の命により差し出した「但馬太田文」にうかがえます。また六代守延は検非違使に任ぜられ、京に上り、後醍醐天皇の第六子恒良親王をお預かりすることになります。しかし、元弘二年後醍醐天皇が隠岐の島を出て、太田氏の古い親戚にあたる名和氏をたより、船上山に幸されたと聞くと、守延も官軍に味方します。そして山陰の兵と合流し、親王をいただいて京都に攻め上がりましたが、敗走の途中、壮烈な戦死を遂げたと伝えられます。

以後主を失い、残された一族は百姓になり、太田荘に住んだそうです。

武士の時代、出石郡は、朝廷直轄領であり但馬の重要な拠点となっていたことが伺われます。

11.大岡山と進美寺

東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、大岡山は、気多郡の西になだらかな稜線をした山です。『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっている事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。

古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。

日高町の南東に位置する須留岐山は、山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもあった。進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。

山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されています私寺だったのであります。

『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多い。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。

大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でした。進美寺も同じく天台宗です。

山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのだろう。

大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の名が流れで、朝来郡で優勢な人で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。

進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。

但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中していますからです。

しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙に国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。

大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。

12.承久の乱と雅成親王(まさなりしんのう)


十二所神社 豊岡市日高町松岡

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱です。武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていましたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになります。

首謀者である後鳥羽上皇は隠岐の島へ、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流されました。後鳥羽上皇の皇子の六条宮(雅成親王)、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃され、行助法親王の子が即位しました(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになります。

雅成親王は、後鳥羽上皇の第四皇子で、配流先は豊岡市高屋とされています。但馬守護太田昌明の監視を受ける身となりました。妃の幸姫が夫君の跡を慕って、懐妊の身にもかかわらず、三十余里の道程を歩み続けて、気多郡松岡村の里まで辿り着かれました。妃は急に産気づかれて皇子を分娩されましたが、侍女をとある農家に立ち寄らせて、親王の配所までの道のりを聞かせたところ、その家の老婆が意地悪く、

「配所高屋までは、九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市で、合わせて二十日はかかりましょう」

といったので、これを聞かれた妃は泣き崩れて、

「これ以上三日も歩けば気力は尽きてしまうのに、二十日もまだ歩けとは、到底生きる望みはありません」

と申されて、生まれたばかりの王子を石の上に寝かせ、せめて守り袋を王子の身許へ添え遣わされた上で、「死後南風になって高屋に達しましょう」といわれて、蓼川に入水され、侍女もこれに従いました。この事を聞き知った村の若者は、この老婆を火あぶりにしました。

この後毎年この頃になると、決まったように洪水が起きて、村人が苦しんだので、これを妃のたたりとなして、その霊を慰めんがため、妃の霊を産土神として十二所神社に祀ったといいます。

今でも松岡地区で旧暦三月十四日、「婆焼き祭り」が行われます。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

たじまる 鎌倉-1

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

鎌倉時代

概 要

目 次

  1. 鎌倉時代設定のむずかしさ
  2. 武士政権の誕生
  3. 関東武士政権
  4. 二つの王権
 鎌倉時代(1185年頃-1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したことからこう呼ばれる。武士階級による政権が本格的に実力を発揮し始めた時代である。

1.鎌倉時代設定のむずかしさ

 日本の中世社会は600年という長きにわたる社会です。平安時代後期の平氏政権の成立(1160年代)から1568(永禄十一)年の織田信長の上洛(統一権力の成立)までを中世とするのが一般的です。院政時代、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代という時期区分が用いられてきました。これは権力の所在からの時期区分ですが、しかし、その長い年月は権力の分裂が著しく、たとえば、院政が終わって鎌倉幕府が成立したわけではないし、南北朝時代にはすでに室町幕府が成立していました。このように所在地による時期区分では捉えきれないのです。近世の始まりはいつとするのかが、成立期と末期とでは大きな違いも存在し、中世と一括りにできないですが、五味文彦氏は中世の時代的特徴を次の五つとしています。

  • 古代の中央集権に対し権力が統合されておらず、分権化の傾向が著しかった
  • 人々は自立による生存を求めていった
  • 神仏への信仰の広がりと文化活動の活発化
  • 日本列島各地の地域社会形成
  • 主従関係を基本とした多様な人間関係 始期については、従来源頼朝が将軍(征夷大将軍)に任じられた1192年とするのが一般的ですが、頼朝が平家打倒のために挙兵し御家人を統率する侍所を設置した1180年説、寿永二年十月宣旨で東国(東海道および東山道)の支配権を朝廷に公認された1183年説、対立する弟・源義経追討の名目で惣追捕使(後の守護)・地頭の設置権を獲得した1185年説、頼朝が上洛し権大納言・右近衛大将に任命された1190年説、また一部では1196年説など様々な考え方があります。この中で、壇ノ浦において平家を滅ぼし、さらに全国統治の基礎となる守護・地頭の設置権を獲得した1185年を画期とする考え方が現在では比較的有力です。

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2.武士政権の誕生

 1179(治承)年11月、福原(神戸市)に引退していた前太政大臣・平清盛は、突如として数千の兵を率いて入京。後白河上皇の院政を強引に停止し、政治の実権を掌握しました。日本史上初めて、武士の政権が誕生したのです。

関白以下、多くの貴族が解任され、平家と良好な関係を持ち者が代わってその座を占めました。日本全国(六六ヶ国)のほぼ半数にあたる三二ヶ国が、平家とその与党の知行国となりました(その前は十七ヶ国)。たがて清盛の外孫にあたる幼い安徳天皇が即位し、福原への遷都が強行されました。

まず清盛の祖父正盛と父忠盛は、西国の受領を歴任しながら勢力を蓄えました。平家との縁が薄い東国と西国の境界、現在の中部地方に強固な防衛ラインを築きます。それ以西、畿内と西国を直接の地盤とした政権でした。

正盛・忠盛は、瀬戸内海沿岸の海に生きる武士団を勢力下に組み込む努力を重ねてきました。そのため、清盛の代になると、瀬戸内海を一括して掌握することが可能となりました。福原の外港として大輪田の泊が修造されました。海運の要衝である厳島(宮島)には平家一門の祈りを捧げる厳島神社がありました。
九州の海の玄関である博多には太宰府を平家が実質支配しました。厳島・博多からさらに中国大陸に向かいました。

宋からは絹織物・陶磁器・香料、それに大量の銭が輸入され、日本の金・水銀・硫黄や蒔絵・日本刀などが輸出され、これらの交易が平家に膨大な富をもたらしました。

知行国重視を明確に打ち出し、当時のすでに国衙を核として、留守所を形成していた在地領主たちに従属と忠誠を要求しました。見返りとして、国衙領における彼らの本領を保護・安堵しました。

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3.関東武士政権

 「源平の戦い」といわれる一連の戦乱は、一体何だったのか。どちらが朝廷を守護するにふさわしい「武士の棟梁」であるかを決定する戦いだったと、また皇位をめぐる朝廷内の争いであるとか、いわれています。しかし、内乱の真の主役は、在地領主、すなわち武士たちであると考えられています。地方で生活する彼らは中央の朝廷の支配に不満を募らせていました。多くの税(米や特産物)を課せられ、大番役といって、しばしば膨大な費用で京都に上がり、朝廷の警備に当たらされる。隙を見せれば国衙に領地を奪われてしまいます。

誰も自分たちの利益を護ってくれる権力がないならば、自立するしかない。自立を勝ち取るための戦い、武士たちのいわば独立戦争、それが「源平の争乱」の実体なのです。

小さな各地の勢力は、その過程で武士の棟梁になるべき候補者が明らかになってきました。西国を中心とし、さらに宋との交易を重視した平家と、それに対し、東国武士の支持を得た関東の棟梁が源頼朝です。「一所懸命(一つの土地に命を懸ける)」という言葉があるように、御家人たちは土地に根ざして生活していた、動産よりも不動産が重視され、土地が主従関係をつないでいたのです。

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4.二つの王権

 王権とは、周囲に従属を要求し、かつ他者の助力を必要としない自立した存在です。つまり、王は自らの統治に属する地域を掌握し、そこに生きる人々を自らの働きかけを因果関係として能動的に認識することです。

王権を維持するには、官僚組織と、強制力を行使する軍事力の常備が有効となります。ただし、官僚組織も軍事力も、王権の必要不可欠な要件ではありません。むしろ、自らの統治力を過不足なく服する人々を率いて立つ強固な決意を持つことこそが、中世の王たる証しです。

東の王たる将軍は、官僚組織(鎌倉幕府)と、強力な軍隊を有していました。これに対し、西の王たる天皇は、官僚組織は育成したが、軍事力を持っていませんでした。1221(承久三)年の承久の乱の敗戦により、朝廷の軍事力は幕府の手によって解体されてしまったのです。

多くの庄園を集積した後鳥羽上皇は、庄園の下司職や官職を与えることによって忠誠を誓う武士を京都に集め、朝廷の軍事力を形成しました。京都周辺の治安維持に多大な威力を発揮し、自信を深めた上皇は鎌倉幕府の打倒を目指しました。しかし、朝廷軍は関東の武士たちに敗北し、京都は占拠されました。上皇は捕らえられ、隠岐の島に流されてしまいました。

幕府は京都に六波羅探題を設置して、天皇が軍事力を再建できないよう監視の目を光らせました。朝廷は王権を支える要素として、伝統と祭祀権を強調する他はなくなりました。こうして天皇は伝統を体現する歴史的権威として、また仏教の法会や神事を主催する祭祀王として振る舞ったのです。

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鎌倉藤紫(ふじむらさき)#a59aca最初のページ戻る次へ
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気多郡の地名

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

気多(ケタ)郡の地名

気多郡とは、但馬国(兵庫県北部(日本海側))にかつて存在した郡で、今の豊岡市日高町と中筋地区から、伏、八社宮、豊岡市竹野町床瀬、椒までのエリア。昭和30年(1955)に、美含郡とともに城崎郡に吸収し郡名は消滅。

気多郡…狭沼郷、太多郷、三方郷、楽前郷、

高田郷、高生郷、日置郷、賀陽郷

但馬国

旧郡名現行政名
朝来郡朝来市
養父郡養父町、朝来市(大蔵・糸井地区)、豊岡市(日高町赤崎・日高町浅倉地区)
出石郡豊岡市(出石地域、但東地域、神美地区)
気多郡豊岡市(日高地域、豊岡市中筋地区・佐野以南、竹野町三椒地区)
城埼郡豊岡市(城崎地域、豊岡・八条・三江・田鶴野・五荘・新田・奈佐・港地区)
美含郡美方郡香美町(香住区)、豊岡市(竹野町竹野・竹野町中地区)
七美郡美方郡香美町(村岡区、小代区)、養父町(熊次地区)
二方郡美方郡新温泉町(旧浜坂町、旧温泉町)

 

気多郡は、奈良時代に律令制が行われた後の時代に記された「和名抄」によると、八つの郷で構成されていました。西から太多(タダ)、三方(ミカタ)、楽前(ササクマ)、高田(タカダ)、日置(ヒオキ)、高生(タコウ)、狭沼(サヌマ)、賀陽(カヤ)ですが、これはずっと後になって律令制度が整備された郷なので、縄文時代は違ったかも知れませんが、これが邑(ムラ:今の区単位)を集合させた小国の単位であると思います。ちなみに山間部が多い太多(タダ・太田)と狭沼(サノ)、三方(ミカタ)の3郷は広大で、気多郡の平野部を除いた比較的山間部に位置し、約3/4を占めます。弥生時代までに、こうした国境(邑境)は、地理的条件で、ある程度自然に分けられたのでしょうが、これらが後に郡・郷として気多氏の支配下にある郷名であり首長名になったのでしょう。最も大きな太多郷は兵庫県でも鉢伏と並んで最も古くから人が住み着いた遺構が発見された土地であり、稲葉(いなんば)から久田谷(くただに)までの円山川の支流稲葉川水系であり、気多氏にとって重要な中心部でした。狭沼郷も円山川の支流八代川水系と現在の竹野町椒、三原から八代川下流の円山川に注ぐ地点です。

■沿革

気多郡…狭沼郷、太多郷、三方郷、楽前郷、高田郷、高生郷、浅間郷、日置郷、賀陽郷

    • 1889年(明治22年)4月1日 – 町村制施行(7村)

中筋村(賀陽郷)・日高村・国府村・八代村・三方村・西気村・三椒村

  • 1894年(明治27年)12月15日 – 清滝村が西気村より分立。
  • 1896年(明治29年)4月1日 – 美含郡とともに城崎郡へ編入され消滅。
  • 1925年(大正14年)11月1日 – 町制を施行し日高町となる。
  • 1955年(昭和30年)2月1日 – 養父郡宿南村の一部を編入。
  • 1955年(昭和30年)3月25日 – 日高町、国府村、八代村、三方村、西気村、清滝村が合併し、新しい日高町が発足。
  • 2005年(平成17年)4月1日 – 豊岡市、出石町、但東町、城崎町、竹野町と合併して新たな豊岡市が発足し、日高町消滅。

■太多郷=旧西気村)

神鍋(かんなべ)

神鍋は、マオリ語の

「カネ・ナペ」、KANE-NAPE(kane=head;nape=ligament of a bihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifulhttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife)、「(V字形に開いた山脈=口を開いた貝の間を連結している)貝柱の(中にある)頭(のような山)」 の転訛。
または、「人里近く、姿優美な山、神々が降臨され、鎮まる山を「神奈備(かむなび)」というが、神体山信仰のかんなび(神奈備)が訛っって「カンナベ」になったものではないかと思っていましたが、噴火口が大きなお鍋のように見えるから「神様の鍋」のだとか。「カンナビ」が、このマオリ語のカネ・ナペとしても意味が通じるのだ。

太田(ただ)==古:太多兵庫県下でも関宮町別宮遺跡 (海抜6~700m、縄文早期までの複合遺跡) とともに爪型文土器が発見された、神鍋遺跡(神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡)のある区

「タタ」、TATA(stalk,stem,fence)、または「タ・タ」、TA-TA(ta=the…of;ta=dash,beat,lay,sprinkle by means of a branch or bunch of leahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifes dipped in water)

「垣根のような(長く延びている。岬)」

神鍋山の形状の事ではないでしょうか。

または  「タタ」、TATA(bail water out of a canoe,bailer)、「舟の中に滲み出すあか水(湿地の水)を汲み出す(川。佐陀川を開削した神。その神が鎮座する場所)」

鶴岡字多田谷(タタノヤ)もある。楯谷が変化した?楯縫神社。

岩倉(いわくら)

神鍋の小字である岩倉は、

IWA-KURA(iwa=nine(numerous);kura=red feathers,precious,treasure)、「大量の宝物(を埋蔵した場所)」

実際に神鍋の岩倉は現在神鍋スキー場のゲレンデ名で知られていますが、火山活動による風穴があり、地元の人が現在でも冷蔵庫代わりに食糧を貯蔵したりしています。古代人が住み着いたり物資を貯蔵するにはもってこいです。
また、「イワ・クラエ」、IWA-KURAE(iwa=nine;kurae=headland)、「沢山の尾根が出ている(土地)」の転訛。

稲葉(いなんば)

後述の雷神社がある区。旧気多郡の中心的な円山川の支流、稲葉川の最上流部

この「いなは」は、マオリ語の
「イ・ナ・パ」、I-NA-PA(i=beside;na=belonging to;pa=block up,prehttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifent,screen,stockade)、「交通の障害となっているもの(蘇武岳と三川山)の付近の地域」
、または
「イ・ナ・パ」、I-NA-PA(i=beside,past tense;na=satisfied,belonging to;pa=stockade)、「ゆったりとした巨大な集落のそば(の地域)」の転訛と解します。 →太田

山田(やまた)

奥神鍋スキー場のある区

「イア・マタ」、IA-MATA(ia=indeed,current;mata=face,eye,flint,obsidiam)、「実に・眼がある(溜め池がある。地域)」または「実に・(火打ち石や石器に使える)堅い石(サヌカイトなど)がある(屋島がある。地域)」
の転訛と解します。

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万却(まんごう)

「まんぼう」は、マオリ語の「マナ・ポウ」、MANA-POU(mana=power,psychic force;pou=pau=consumed,exhausted)、「生命力を消耗した(ような鈍重な魚)」(「マナ」の語尾のA音が脱落して「マン」に、「ポウ」が「ボウ」に変化した)

の転訛と解します。 「まんぼう」が訛って「まんごう」になった?

栗栖野(くりすの)

この「くり」は、マオリ語の「クリ」、KURI(=kurikuri=fusty,ehttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifil smelling)、「(花に)悪臭がある(木)」

または「ク・フリ」、KU-HURI(ku=silent(whakakuku=beach a canoe);huri=seed)、「静かな(貯蔵する)種子(=栗実。またはその実をつける木)」(「ク」と「フリ」の語頭のH音が脱落した「ウリ」が結合して「クリ」となった)

の転訛と解します。
「すのこ」は、「ツ・(ン)ガウ・コ」、TU-NGAU-KO(tu=fight with,energetic;ngau=bite,hurt,attack;ko=to gihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife emphasis)、「実に・たくさん・(食いちぎられて)隙間が空いているもの(簀の子)」(「ツ」が「ス」と、「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となつた)または「ツ・(ン)ゴコ」、TU-NGOKO(tu=fight with,energetic;ngoko=itch,tickle)、「盛んに・(足の裏を)刺激するもの(簀の子)」(「ツ」が「ス」と、「(ン)ゴコ」のNG音がN音に変化して「ノコ」となつた)

の転訛と解します。
それらの複合語で「クリ+スノコ」が訛って縮まった。

万場(まんば)

この「まんぼ」は、マオリ語の「マノ・ポウ」、MANO-POU(mano=interior,heart,ohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.giferflow;pou=pour out)、「水が流れ出す地中(のトンネル)」の転訛(「マノ」の語尾のO音が脱落して「マン」と、「ポウ」の語尾のU音が脱落して「ポ」から「ボ」となった)と解します。 →さらにまんばになったのでは?
東河内(ひがしこうち)

「コウ・チ」、KOU-TI(kou,koukou=anoint,sprinkle;ti=throw,cast)、「(笹竹で清めの)水を振りかけたような(僅かに湿っている)土地が・放り出されている(地域)」の転訛と解します。

名色(なしき)
「ナチ」、NATI(pinch or contract)、「(圧縮したように皮や果肉が)堅い(果実。梨)」
梨の木の転訛と解します。

■太多郷=旧西気村・清滝村)

清滝(きよたき)マオリ語の 「キオキオ・タキ」、KIOKIO-TAKI(kiokio=lines in tatooing;taki=track,lead)、「(顔の)入れ墨の線を辿る(ような川)」 の転訛(同音反復の語尾「キオ」を省略した)と解します。
栃本(とちもと)「ト・チ(ン)ゴ(ン)ゴ・キ」、TO-TINGONGO-KI(to=be pregnant,drag;tingongo=cause to shrink,shrihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifel;ki=full,http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifery)、「縮み上がる(肝を冷やすような険しい)ところが・たくさん・中にある(峠)」(「チ(ン)ゴ(ン)ゴ」のNG音がN音に変化して「チノノ」となり、反復語尾が脱落して「チノ」となった)
の転訛と解します。山宮(やまのみや)

「イア・マ」、ia-ma(ia=indeed;ma=white,clean)、「実に・清らかな場所(山)」
石井(いしい)

「イ・チ」、i-ti(i=past tense;ti=throw,cast)、「(大地から切り離されて地上に)放り出され・たもの(石)」の
井。または、
「イ・チヒ」、I-TIHI(i=beside;tihi=summit,top)、「(多布施川の最上流部)頂点の・近くの(樋)」(「チヒ」のH音が脱落して「チイ」から「シイ」となった)
の転訛と解します。
頃垣(ころがき)

「コロ」、KORO(old man)、「(老人の白髪のような)白い(粉を吹いた干し柿。枯露柿)」
十戸(じゅうご)

「トウ」、tou(posteriors,lower end of anything,tail of a bird)、「(尻尾の)最後の(数。十)」

戸は、音読みでは「ヘ」と読みます。

「ノ・ヘア」、NO-HEA(no=from,belonging to,of;hea=what place?,any place,elsewhere)、「(一から九までの)いずれかの・場所(地域)」(「ヘア」の語尾のA音が脱落して「ヘ」となった)

の転訛と解します。

「コ」、ko(descendant)、「子孫(となるもの。卵)」

「戸」は「べ」で部の意味であるなら十人の、十番目の部
延喜式神名帳の名神大の戸神社があり、へじんじゃ、このじんじゃとも呼びます。

庄境(しょうざかい)

「しょう」は、マオリ語の

「チホウ」、TIHOU(an implement used for cultihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifating)、「(耕作の道具である)鍬。または鍬で耕す耕地。または(ある人が支配する)耕地の広がり」(原ポリネシア語の「シホウ、 SIHOU」のH音が脱落して日本語では「シオウ」から「ショウ」と、マオリ語ではS音がT音に変化して「チホウ」となった)

の転訛と解します。

「さかい」は、マオリ語の「タ・カイ」、TA-KAI(ta=the,lay;kai=reach,arrihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife at)、「(その果てのところまで)到達した(場所。境界の地)」の転訛と解します。
椒(はじかみ) 竹野町椒(旧気多郡)

「パチ・カミ」、PATI-KAMI(pati=ooze,spurt,splash;kami=eat)、「はじけた(実を)・食べる(野菜)」(「パチ」のP音がF音を経てH音に変化し「ハチ」から「ハジ」となった)または「パチチ・カミ」、PATITI- KAMI(patiti=warm oneself;kami=eat)、「食べると・(体が)熱くなる(野菜)」(「パチチ」のP音がF音を経てH音に変化し、反復語尾が脱落して「ハチ」から「ハジ」となった)
床瀬(とこせ) 竹野町床瀬(旧気多郡)

「トコ」、TOKO(pole,push or force to a distance,begin to mohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife)、「(さあ)始めは」

「(正面の)反対側(背)」(AI音がE音に変化して「テ」から「セ」となった)

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■三方地区(みかた:旧三方村、郷)

「ミヒ・カタ」、MIHI-KATA(mihi=greet,admire,show itself;kata=opening of shellfish)、「貝が口を開いたような地形(潟のある地形)を・見せつけている(誇示している。地域)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)の転訛と解します。
実際に楓の葉のように五方に谷が広がっています。
金谷(かなや)「カナ・イア」、KANA-IA(kana=stare wildly,bewitch;ia=current,indeed)、「川の流れ(流れの早さ、水量・水深など)を・じっと目を凝らして見る。
昔、金山があった所で、金が採集されていました。
垣屋氏がそれを治めていました。河畑(かばた)

「カパ・タ」、KAPA-TA(kapa=row,rank,stand in a row or rank;ta=dash,dash water out of a canoe,lay)、「段になったところ(河岸段丘)を激しく流れる(川、または河岸段丘にある渓谷)」
の転訛と解します。

殿(との)

「トノ」、TONO(tono=bid,command,send,demand)、「灯を灯して・送った(送使)」
の転訛と解します。反対側に垣屋氏の鶴ヶ峰城があったので垣屋殿の居館があったのではないでしょうか。

室(むろ)

マオリ語の 「ム・ロ・フ」、MU-RO-HU(mu=silent;ro=roto=inside;hu=swamp,hollow,hill)、「静かな内側(山奥)の丘(または穴のように開けた場所)」 または  「ムフ・ロ」、MUHU-RO(muhu=grope,push one’s way through bushes;ro=roto=inside)、「(暗いので)手探りで中の方へ進む(場所。室)」
の転訛(「ムフ」の語尾の「フ」が脱落した)と解します。
田ノ口(たのくち)

奥深くに田園がありその入口に集落があります。

広井(ひろい)

「ヒロウ」、HIROU(rake,net for dredging shellfish)、「熊手で均したような(平野)」
猪子垣(いのこがき)

「いのしし」は、マオリ語の

「イ・ナウ・チチ」、I-NAU-TITI(i=ferment,be stirred;nau=come go;titi=go astray)、「(山中を)徘徊していて突然遭遇する(動物)」(「ナウ」のAU音がO音に変化して「ノ」となった)
猪の子の
の転訛と解します。

猪が多く垣根をしたことから地名になったのではないかと思います。

芝(しば)

「チパ」、TIPA(dried up)、「(もと湿地が)乾燥した(場所)」

野(の)

「ノア」、NOA(free from tapu or any other restriction.ordinary,indifinite)、「(墓場のような禁忌がない)野(原)」または「なにも束縛がない(野人など)」(語尾のA音が脱落して「ノ」となった)

荒川(あらかわ)

稲葉川が流れ、氾濫した。

栗山(くりやま)

この「くり」は、マオリ語の「クリ」、KURI(=kurikuri=fusty,ehttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifil smelling)、「(花に)悪臭がある(木)」

または「ク・フリ」、KU-HURI(ku=silent(whakakuku=beach a canoe);huri=seed)、「静かな(貯蔵する)種子(=栗実。またはその実をつける木)」(「ク」と「フリ」の語頭のH音が脱落した「ウリ」が結合して「クリ」となった)

の転訛と解します。
観音寺(かんのんじ)

「カネ・オ(ン)ゲ」、KANE-ONGE(kane=head;onge=scarce,rare)、「珍しい頭(のような峰)」
の転訛と解します。
「カネ」が「カン」に、「オノ」が「オン」となった)
篠垣(しのがき)

「チ(ン)ゴ(ン)ゴ」、TINGONGO(cause to shrink,shrihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifel)、「(全体が)縮んだように小さい(竹)」(NG音がN音に変化し、反復語尾が脱落して「チノ」から「シノ」となった)または「チノヒ」、TINOHI(put heated stones upon food laid to cook in a earth-ohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifen)、「(地面に掘った蒸し焼き穴で)食物の上にかぶせてその上に焼けた石を載せるための植物(篠竹)」(H音が脱落して「チノ」から「シノ」となった)
「(ン)ガウ・リウ」、NGAU-RIU(ngau=bite,hurt,attack;riu=bilge of a canoe,http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifallay,belly,chest)、「(東側は鹿島川の源流のシラタケ沢、西側は黒部川の支流の餓鬼谷と東谷の)谷が・浸食されている(谷が深く・岩壁がそそり立っている。山)」または「(ン)ガキ・ヒ(ン)ガ」、NGAKI-HINGA(ngaki=clear off,cultihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifate,ahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifenge;hinga=fall from an errect position,be killed,lean)、「削られて・(頂上から谷底まで一気に)落ち込んでいる(岩壁がある。山)」(「(ン)ガキ」のNG音がG音に変化して「ガキ」と、「ヒ(ン)ガ」のH音が脱落し、NG音がG音に変化して「イガ」となり、「ガキ」と連結して「ガキガ」とった)
「篠の垣」。
森山(もりやま)

「マウリ」、mauri(a http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifariety of totara timber http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifalued for making canoes)、「(カヌーを造るのに適した)大木(その大木の集まり。森)」(AU音がO音に変化して「モリ」となった)

知見(ちみ)

小さくまとまっている、こじんまりとしているさま。

チヒ・マ→チ・マ(「ヒ」が脱落)、TIHI-MA(tihi=top,point,topknot of hair;ma=white,clean)、きれいに結い上げた頭上のまげ→小さくまとまっている

佐田(さた)

「タタ」、TATA(dash down,strike repeatedly,stem,fence)、「垣根のような(岬)」

の転訛と解します。

伊府(いぶ)

「イ・ノペ」、I-NOPE(i=past tense,beside;nope=constricted)、「(山と山に挟まれて)押し潰されて・いる(地域)」
の転訛と解します。
とありますが、日高町伊府は、まさに低い丘と佐田の山々に挟まれた細長い地域です。

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■日高地区(ひだか:旧日高村、日置郷)

■日高地区(ひだか) 日置郷(村)と高田郷(村)が明治に合併し、日高村→日高町となる。「日置」の日と「高田」の高を合わせて新しい日高村とした。久田谷(くただに)

太多郷の最東端で銅鐸が発見されたところ。クタはケタが訛った?!のかもしれないとすれば、気多へ向かう谷、または気多氏の住む谷ではないか。
辺坂(へんざか)

「ノ・ヘア」、NO-HEA(no=from,belonging to,of;hea=what place?,any place,elsewhere)、「(一から九までの)いずれかの・場所(地域)」(「ヘア」の語尾のA音が脱落して「ヘ」となった)の転訛と解します。
-の坂
夏栗(なつくり)

「ナハ・ツ」、NAHA-TU(naha,nahanaha=well arranged,in good order;tu=fight with,energetic)、「(動植物が)生き生きと・活動する(季節。夏)」(「ナハ」のH音が脱落して「ナ」となった) 、夏の栗
道場(どうじょう)

「トウ・チオ」、TOU-TIO(tou=dip into a liquid,wet;tio=cry,call)、「潮騒が聞こえる(海水に浸かって泣いているような海岸)」
気多氏の兵の道場があった?

久斗(くと)=久刀

マオリ語の

「ク・ツ」、KU-TU(ku=silent;tu=stand,settle)、「静かに暮らしている(人々。その住む土地)」

の転訛か 「クタオ」、KUTAO(cold)、「寒い(場所)」

の転訛と解します。
また久刀兵主神社が置かれているが、気多氏とヤマト政権側が戦ったと戦地を伝えるではないか。
高田(たかた)郷

和妙抄では「多加多」と訓じている。但馬考…夏栗、久斗、祢布、石立、国分寺、水上

「タカ(高)・タ(処)」で「台地、丘陵」など「高地」野医とする説があります。
「タカ・タ」、TAKA-TA(taka=heap,lie in a heap;ta=dash,beat,lay)、「浸食されている・高台(の地域)」
の転訛と解します。
水上(みのかみ)

「ミナカ・ミ」、MINAKA-MI(minaka=desire;mi(Hawaii)=urine,stream)、「(何かを)求めるように(噴流する川。噴流する温泉)」
山本(やまもと)

「イア・ママオ・ト」、IA-MAMAO-TO(ia=indeed,current;mao,mamao=distant,far away;to=drag,open or shut a door or a window)、「実に・遠くまで・(雄物川を)遡った(場所にある。地域)」(「ママオ」のAO音がO音に変化して「マモ」となった)

または「イア・ママウ・ト」、IA-MAMAU-TO(ia=indeed,current; mau,mamau=grasp,wrestle with;to=drag,open or shut a door or a window)、「実に・(悪戦苦闘して)やっと・辿り着いた(地域)」(「ママウ」のAU音がO音に変化して「マモ」となった)

の転訛と解します。

祢布(にょう、にお)
当店があるところで、旧役場など日高町の中心機関が集まる。かなり広い地名で、祢布ヶ森遺跡など但馬国府と関係があったのではないかという事が分かってきた。祢布城があった城山の裾に楯石神社。

但馬国分寺に近く売布神社も近い。
舞鶴市赤野は同じ祢布村だった。高野女布の祢布神社。

舞鶴市女布の金峰神社(上路神社)に祢布神社(奥の院)
祭神 天之御中主命
女布(にょう)は、古くは「祢布」と記し、アイヌ語の村の意。

「ニオ」、NIO((Hawaii)highest point,pinnacle,to reach the summit)、「最高の(精選した。麻の繊維)」(この「熟麻(にお)」の語源は、刈稲を円錐形に高く積み上げた「堆(にお)」の語源と同じと解します。

「ニアオ」、NIAO(gunwale of a canoe,rim of any open http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifessel)、「(三崎(荘内)半島をカヌーに見立ててその)船縁(にある。土地)」(AO音がO音に変化して「ニオ」となった)

または、
「ニウ」、NIU(dress timber with an axe,mohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife along,glide)、「滑るように流れる(川。その河口の港)」 または、「ヌイ・フ」、NUI-HU(nui=large,many;hu=promontory,hill)、「(岬のような)細長くて低い山が・たくさんある(地域)」(「ヌイ」が「ニ」となった)
「ニウ」、NIU(dress timber smooth with an axe,mohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife along;(Hawaii)niu=spinning)、「(粒となつてころころと流れる)水銀(朱を産する。地域)」または「(斧で表面を削ったような)小さい起伏がある(地域)」
石立(いしだち)

現在はほぼ国分寺区。賣布神社[ヒメフ][めふ]

大賣布命 配 毘沙門天、稻荷大明神

兵庫県豊岡市日高町国保字山ノ脇797
祢布区に隣接し、丹(水銀)と関係するのか?
京丹後市網野町木津女布谷にある賣布神社(ひめふじんじゃ)神名小 豐宇賀能咩命、素盞嗚命(とようかのめのみこと)由緒
『竹野郡誌』に次の様に記載されている。
垂仁天皇九十年春、田道間守勅を奉じて常世国に渡航し、不老不死の香菓たる橘を得、景行天皇元年無事帰国し、田神山(屋船山)に神籬を設けて礼典を挙げられしより、此の地に奉祀せしを以て創始とする。

賣布神社は京丹後市久美浜町女布初岡にある賣布神社 祭神豐受姫命、大屋媛命、抓津媛命。しかも神社の読みは島根県松江市に鎮座する式内社と同名。深い谷。似た地名に丹生舞鶴市女布(ニョウ)があり、日本の水銀鉱床は中央構造線沿い、当地に関係深いところなら特に紀ノ川・吉野川流域にあるのだが、そのずっと北側にも、当地の女布あたりを中心に大きな楕円を描いて但馬から近江・越前を含む範囲、若狭湾岸地域とも呼ばれているが、そこにも集中分布しているのが以前から知られている。

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国分寺(こくぶんじ)

但馬国分寺があったところ。国分寺城。
伊福(いう)村

鶴岡区のかつての村名。
製鉄の部、伊福部に由来している。
鶴岡(つるおか)

古くは伊福村。

「ツル」、TURU(post,pole,upright)、「(頸と足が長くて)直立している(鳥。鶴)」(なお、植物の「つる(蔓)」は、「ツ・フル」、TU-HURU(tu=stand,settle,fight with,energetic;huru=contract,draw in,gird on as a belt)、「しっかりと・巻き付くもの(蔓)」(「フル」のH音が脱落して「ル」となった)の転訛と解します。さらに、弓の「つる(弦)」も同じ語源で、「しっかりと・(弓の両端を)引っ張るもの(弦)」と解します。)
「オカ」、OKA(prick,stab)、「(突き刺したように海が)細長く入り込んでいる(場所。湾がある地域)」

多田谷(たたのや)

円山川右岸で谷が深い。伊福とたたら製鉄と関係があるのか?川沿いに楯縫古墳がある。現在鶴岡区

楯縫神社[タテヌイ]

彦狹知命、譽田別命、息長足姫命

兵庫県豊岡市日高町鶴岡字保木177

御由緒

白鳳時代、今から千三百年の往昔出雲国から、丹波国を経て当国で栄えた楯縫連(た てぬいのむらじ)が、遠祖(とおつおや)彦狭知命を楯屋丘(たてやのおか)多田谷 にまつる。西暦千九百四十七年此地に遷座奉祀す。

「タタ(ン)ガ・ツク」、TATANGA-TUKU(tanga,tatanga=be assembled,row,tier,company of persons,proximity,nearness;tuku=let go,lrahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife,allow,send,settle down,side,shore,ridge of a hill)、(1)「列をなして並んでいる・山の峰々(記歌謡)」または(2)「いたって近いところに・寄り添う(2-194)」(「タタ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「タタナ」となった) 。-の谷。

日置(ひおき)、郷(ヘキ)

日置郷…和妙抄は「比於岐」。日置、多田谷、伊福、上郷、中郷

マオリ語の
「ヒオ・キ」、HIO-KI((Hawaii)hio=a sweep or gust of wind,lean,incline;ki=full,http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifery)、「強い風が・しばしば吹く(地域)」の転訛と解します。
「ヒキ」、HIKI(lift up,raise,carry in the arms,remohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife)、「高くなつた丘陵(岩殿丘陵のある地域)」 の転訛と解します。
式内日置神社がある。日置は戸置で、税金の徴収台帳である戸数を調べるものとか、日を置くことで、暦に関係したものとか、火置と考えて、浄火を常置して神事に関係したとか、楯部らとともに、太刀を作っていたから、武器製作にも関係していたとか言われている。しかし、律令時代に日常業務にあたって殿部(とのもり)の中に名を見せる日置氏は、火を灯す役を受け持っているから、代々朝廷に仕えていたのではないか。
江原(えばら)=荏原

マオリ語の

「エパ・ラ」、EPA-RA(epa=pelt,throw,hindrance;ra=wed)、「(円山川の氾濫で)痛めつけられた場所が連なる(地域)」

の転訛と解します。
宵田(よいだ)

「イオ・イ」、io-i(io=stand firm;i=past tense,be stirred of the feelings(whakai=self-conceited))、「しっかりと・自惚れた(満足した。良い)」

岩中(いわなか)

「イ・ワ」、i-wha(i=past tense;wha=be disclosed)、「(大地からその先端を)現わし・たもの(岩)」と対比した表現と解します。)

岩がある土地の真ん中か?
地下(じげ)

消滅。所在地不明。岩中と祢布の一部で日高小辺りか?

淺倉(あさくら)

旧養父郡宿南村

「アタ・クラ」、ATA-KURA(ata=gently,clearly,openly;kura=red,ornamented with feathers,precious)、「羽根で飾ったような(美しい)・清らかな(土地。地域)」

の転訛と解します。
赤崎(あささき)

旧養父郡宿南村

「アカ・タキ」、AKA-TAKI(aka=clean off,scrape away,http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifine of any climbing plants;taki=take out of the way,track with a line from the shore)、「(岸から)はみ出した表面が拭い去られたような(場所)」

■八代地区:旧八代村=狭沼郷(さぬま)

「トウ・マ」、TOU-MA(tou=posteriors,lower end of anything,dip into a liquid,dip frequently into liquid;ma=white,clean)、「しばしば水に漬かる(洪水に見舞われる)清らかな(地域)」
藤井(ふじい)この「ふじい」は、マオリ語の
「フチ」、HUTI(hoist,pull out of the ground,fish with a line)、「(持ち上げた)垂れた(花を付ける植物。藤)」
奈佐路(なさじ)奈佐に向かう道。
奈佐は豊岡市奈佐。「なせ」は、マオリ語の「ナ・テ」、NA-TE(na=by,indicate parentage or descent,belonging to,by reason of;te=emphasis,crack)、「(主人公と)離れている(疎遠になっている人間)」

の転訛と解します。
谷(たに)

中(なか)

「ナカ」、NAKA(mohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife in a certain direction:(Hawaii)to quihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifer,shake,to crack open)、「震動しながら(または割れ目をつくって)流れる(川。その流域の土地)」

かつて国府平野(高生平野から豊岡盆地までは円山川の入り江で国府駅付近は海抜0メートルと日高町で最も低地)から円山川に注ぐ八代川は大雨のときには氾濫していたのでしょうし、洪水のときには円山川から逆流したりで被害が大きかった地域が、狭沼郷東部です。
谷(たに)

猪ノ爪(いのつめ)

天日槍の子多遅摩比那良岐を祭る古社・多麻良岐(たまたき)神社がある。
八代

「実に・(フォークのような)二股に分かれている(土地)」
河江(かわえ)

小河江(こがわえ)

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■国府地区(旧国府村、高生郷、気多郷)

高生(たこう)消滅。所在地不明。国府平野を高生平野と言っている。

高生郷…和妙抄は「多加布」。地下、岩中、宵田、江原

山本、松岡、土居、手辺、国府市場、堀、野々庄、池上、芝、上石の十区が所属不明。国府の所在地には、行政上の特別処置として郷を設置しなかったものか、あえて国があるから郷名が忘れられてしまったものか。

上石の国府駅以西は海抜0メートル地帯。

「タ・カウイ」、「編んだレースのような(川の流れが縦横に入り組んでいる九頭竜川の河口付近一帯の)土地を・(九頭竜川の洪水が)襲う(地域)」

竹貫(たかぬき)

「タクヌイ」、TAKUNUI(wide)、「広い(浦)」

鷹貫神社[タカヌキ] 鷹野姫命

兵庫県豊岡市日高町竹貫字梅谷429

御由緒

創立年月不詳なるも祭神鷹野姫命は神功皇后の御生母にましませり延喜式の制鷹貫神 社と記して小社に列し明治六年十月村社に列せらる。

「タケケ」、TAKEKE(denoting exhaustihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife character of the action indicated.consumed,completely acquired,etc.)、「消耗した(中が空(から)になった植物。竹)」(反復語尾が脱落して「タケ」となった)
水生(みずのお)
上石区の小字名。水生城があった山、水生寺
中世頃はすぐ下は沼地だったといわれる。

「ミ・ツ」、mi-tu(mi=stream;tu=stand)、「(流れる)水が・静止している(水)」

「アウ」、AU(string,cord)、「糸(繊維。その繊維を採る植物)」(AU音がO音に変化して「オ」となった)
上石(あげし)

「ア(ン)ガイ」、ANGAI(north-north-west wind,on the west coast)、「西に河岸がある(土地)」(NG音がG音に、AI音がEI音に変化して「アゲイ」となった)

「ア・(ン)ゲル」、a-ngeru(a=the…of,belonging to;ngeru,ngerungeru=smooth,soft)、「関係を円滑にする・もの(贈り物をする。(物を)上げる)」(「(ン)ゲル」のNG音がG音に変化して「ゲル」となった)

石を上にした。?

西芝(にししば)

上記参照。
池上(いけがみ)

「イケ」、IKE(strike with a hammer or other heahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gify instrument)、「(金槌で叩いた跡のような)穴(その穴に水が溜まった。池)」

または「イケ・(ン)ガミ」、IKE-NGAMI(ike=high,strike with a hammer;ngami,wahkangami=swallow up)、「高く隆起した(丘)」
野々庄(ののしょう)

古くは大将野庄という荘園だった。

「ノア」、NOA(free from tapu or any other restriction.ordinary,indifinite)、「(墓場のような禁忌がない)野(原)」または「なにも束縛がない(野人など)」(語尾のA音が脱落して「ノ」となった)
「しょう」は、マオリ語の「チホウ」、TIHOU(an implement used for cultihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifating)、「(耕作の道具である)鍬。または鍬で耕す耕地。または(ある人が支配する)耕地の広がり」

掘(ほり)

「ホウ・ル」、hou-ru(hou,houhou=dig up;ru=shake,agitate)、「掘り・上げる(掘る)」(「ホウ」のOU音がO音に変化して「ホ」となつた)
国府の掘割りに由来しているという。

府中新(ふちゅうしん)

府中は律令制の下で但馬国の国府所在地であったことによります。

古くは地名がなく、現在は存在しない手辺という地域ではないか。

府市場(ふいちば)

国府のそばに市場が開かれていたという。古くは下郷だと思う。

土居(どい)

国府の土居があったと伝えられている。古くは下郷だと思う。
御井神社[ミヰ]

御井神 配 菅原道眞

兵庫県豊岡市日高町土居字天神228

御由緒

創立年月不詳にして延喜式の制小社に列し近世天満宮と崇めしも明治三年御井神社と 改称す同六年十月村社に列せらる。

松岡(まつおか)

円山川西岸の土手に松の木があったのでは。古くは下郷だと思う。

上郷(かみのごう)

日置村上郷。気多神社があり、幻の気多郷か?
気多神社[けた]

大己貴命

兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227 天日槍命と気多氏

御由緒

創立年月不詳なるも大己貴命(葦原志許男命)と(天日槍命と)国占の争ありし時、命の黒葛此地に落 ちたる神縁によりて早くより創立せられしものならむ。延喜式の制小社に列し中世以 降総社気多大明神と仰ぎ鎌倉時代社領として大般若田、三十講田其他の神領田を有し たりき明治三年社名を現在の通りに改め同六年十月郷社に列せらる。

■賀陽(かや)郷 (豊岡市)

旧気多郡賀陽や丹後に加悦町がありますが、この「かや」は、
朝鮮伽耶か?「カイ・ア」、KAI-A(kai=eat,quantity,fulfil its proper function;a=drihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife,collect,well)、「浸食された土地が・集まっている(地域)」 、または「カ・イア」、「集落(群)」 の転訛と解します。
土渕(ひじうち)「ピヒ・チヒ」、PIHI-TINI(pihi=begin to grow,sprout;tini=summit,top)、「(峰の)頂上まで・木が生える」(P音がF音を経てH音に変化して「ヒヒ」となり、「チヒ」とともにH音が脱落して「ヒチ」から「ヒジ」となった)
「フチ・ノペ」、HUTI-NOPE(huti=pull up;nope=constricted)、「引き上げられて圧縮された(土地)」

の転訛と解します。
引野(ひきの)

「ヒ・ク」、hi-ku(hi=raise,draw up;ku=silent)、「静かに・引き上げる(引く)」

佐野(さの)
清冷寺(せいれいじ)
木内(きなし)

「キヒ」、KIHI((Hawaii)edge,tip,sharp point of a leaf)、「(葉の)先が鋭く尖っている(野菜。ねぎ)」

井上夢間さんの「夢間草廬(むけんのこや)-ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源」

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たじまる 縄文3 神 (神道)

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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神 (神道)

概 要

目 次

  1. 神 (神道)
  2. 分類
  3. 神名(しんめい
  4. 神道の研究
 神道は、太古の日本から信仰されてきた固有の文化に起源を持つ宗教。日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立していきました。 なお、神道には明確な教義や教典がなく、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『宣命』などといった「神典」と称される古典を規範とします。森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊を祀り、祭祀を重視します。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目と、他宗教と比べて、現世主義的であり、性善説的であり、祀られるもの(神)と祀るもの(信奉者)との間の連体意識が強い、などといった特徴が見られます。

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1.神 (神道)

 日本では気象、地理地形に始まり、あらゆる事象に「神」の存在を認める八百万(やおよろず)の神といい、万物に精霊が宿るというアミニズムから発展した多神教で、そこいら中に神がいて、どの神が正しいというはっきりとした基準がありません。 多神教の神には二つの顔があります。人々に恵みをもたらすありがたい福の神「豊饒(ほうじょう)の神」、そして、祟りのような災難をもたらす神です。これは、良い神と悪い神の二種類いるというわけではなく、一柱の神に、「神」と「鬼」の二面性があるのです。

つまり、神と鬼は表裏一体であり、神は祟るからこそ祀られ、そして、祟る神=鬼は祀られることで、恵みをもたらす豊饒の神へと変身します。このような複雑で原始的な図式が多神教の特色であり、一神教世界は、この混沌から抜け出し発展したと自負しています。また、先進国で多神教を信奉しているのは日本だけです。おそらくこの辺にも、「日本は異質だ」、といわれる原因があるのでしょうか。

これに対し、キリスト教世界では、神は一人であって、だからこそ絶対的存在とみな信じているのです。「唯一絶対の神がこの世を想像し、その教えが絶対的に正しい…」、これがいわゆる一神教というものです。

神道と仏教の違いについては、神道は神話に登場する神々のように地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村etc)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教は主に個人の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく異なります。

日本の神道は、多神教で神道の神々は、別の宗教の神を排斥するより、神々の一人として受け入れ、他の民族や宗教を自らの中にある程度取り込んできたとして、その寛容性が主張されることがあります。しかし、世界各地に仏教が広まった際、土着の信仰との間に起こった現象です。日本に552年(538年説あり)に仏教が公伝した当初には、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識されていました。

神道は多神教だが、祖霊崇拝性が強いため、古いものほど尊ばれる。1881年の神道事務局祭神論争における明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利し、天照大神が最高の神格を得たが、敗北した出雲派的なものが未だに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い。

明治の神仏分離令によって分離される以前は、神道と仏教はしばしば神仏や社寺を共有し寺院の境内に社があったり、神社の境内に神宮寺が併設されたり、混じりあっていました。それは人と同じような姿や人格を有する「人格神」であり、現世の人間に恩恵を与える「守護神」ですが、祟る(たたる)性格も持っています。災害をもたらし、祟るからこそ、神は畏れられました。神道の神は、この祟りと密接な関係にあります。

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2.分類

自然物や自然現象を神格化した神 最も古い、自然物や自然現象を神格化した神です。古代の日本人は、山、川、巨石、巨木、動物、植物などといった自然物、火、雨、風、雷などといった自然現象の中に、神々しい「何か」を感じ取っていました。自然は人々に恩恵をもたらすとともに、時には人に危害を及ぼします。古代人はこれを神々しい「何か」の怒り(祟り)と考え、怒りを鎮め、恵みを与えてくれるよう願い、それを崇敬するようになりました。これが後に「カミ(神)」と呼ばれるようになりました。

古代の指導者・有力者の神格化

日本において天皇のことを戦前は現人神と呼び、神道上の概念としてだけでなく、政治上においても神とされていました。現在では、昭和天皇によるいわゆる人間宣言により政治との関わり、国民との関係は変わりました。しかし、神道においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)の血を引くとされる天皇の存在は現在も大きな位置を占め、信仰活動の頂点として位置付けられています。

また、その時代の有力者を死後に神として祭る例(豊臣秀吉=豊国大明神、徳川家康=東照大権現ど)や、権力闘争に敗れまた逆賊として処刑された者を、後世において「怒りを鎮める」という意味で神として祭る例(菅原道真、平将門など)もこの分類に含まれます。

さまざまな部族が個々に固有の神を信仰していました。それらの部族が交流するにしたがって各部族の神が習合し、それによって変容するようになっっていきました。この神神習合が、後に仏教をはじめとする他宗教の神々を受け入れる素地となっていきました。

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3.神名(しんめい

 神名は、大きく3つの部分によって構成されています。

例えば天日槍命(アメノヒボコノミコト)の場合

  1. 「アメ」ノ
  2. 「ヒボコ」ノ
  3. 「ミコト」

となります。

神名は、1.の部分を省略して呼ぶことがある。また、民俗学・神話学など学術的な場面では3.の神号を略すことが多い。

1.神の属性(「アメ」ノ)

最も多い「アメ」「アマ」(天)は天津神であること、または天・高天原に関係のあることを示す。「クニ」(国)は国津神を表すこともあるが、多くは天を表わす「アメ」のつく神と対になって地面もしくは国に関係のあることを示す。

天津神(あまつかみ)は高天原(たかまがはら)にいる、または高天原から天降った神の総称。

別天津神(ことあまつがみ)古事記において、天地創発の時にあらわれた五柱の神々を云う。

三柱の神(造化の三神という)

  • 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
  • 高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
  • 神産巣日神(かみむすひのかみ) その次に、国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになった時に以下の二柱の神が現われた。この二柱の神もまた独神(対となる夫婦神を持たない神)として身を隠した。
  • 宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)
  • 天之常立神(あめのとこたちのかみ) 別天津神の次に神世七代の神が現れた。最も初期に誕生し、その神性も特別扱いされる別天津神は、本来ならば天照大神(あまてらすおおみかみ)を凌駕するはずである。天照大神を高天原の最高神であるとし、またその子孫であると主張することによって自らの王権を権威付けたい天皇、ひいては朝廷にとって、これはいかにも都合が悪い。この矛盾を解消するために、古事記・日本書紀編纂の過程において別天津神は隠れたことにされた、と考えることができるだろう。つまり、存在はするが影響力は持たない“別格”としたのである。同様に、神世七代の神である伊弉諾尊(いざなきのみこと)は素盞嗚尊(すさのおのみこと)を黄泉の国へ追放した後に身を隠しているし、伊弉冉尊(いざなみのみこと)は天照大神が生まれる前に亡くなっているため、やはり天照大神の最高神としての地位を脅かすことはない。国津神(くにつかみ)は地に現れた神々の総称とされています。日本神話においては、国津神のほとんどが天津神に支配される対象として扱われています。ヤマト王権によって平定された地域の人々が信仰していた神が国津神に、皇族や有力な氏族が信仰していた神が天津神になったものと考えられます。特に国津神については、日本神話に取り入れられる際に変容し、元々の伝承があまり残っていないものも多いです。日本書紀ではしきりにある文として伝承等を引用している点から、その記録文書は後世で失われてしまったようです。「つ」は現代語の「の」のことで、天の神・国の神という意味です。「天つ神」「国つ神」と書くこともあります。漢字二字で天津神を「天神」(てんじん)、国津神を「地祇」(ちぎ)とも言い、併せて「天神地祇」「神祇」と言います。
    ただし、高天原から天降ったスサノオの子孫である大国主などは国津神とされている。2.神の名前(「ヒボコ」ノ)末尾が例えば「チ」「ミ」「ヒ」「ムス」「ムツ」「ムチ」「ヌシ」「ウシ」「ヲ」「メ」「ヒコ」「ヒメ」などである。これらは、神神習合が起こる前の各部族での「カミ」を指す呼び名であったとも考えられる。「チ」「ミ」「ヒ」(霊)は自然神によくつけられ、精霊を表す(カグツチ、オオヤマツミなど。ツは「の」の意味)。「チ」より「ミ」の方が神格が高いとされている。「ヌシ」(主)「ウシ」(大人)は位の高い神につけられる(オオヒルメノムチ(アマテラスの別名)、大国主など。「ムス」(産)「ムツ」(親)「ムチ」(祖)は何かを産み出した祖神を表し「キ」「ヲ」(男)「シ」「コ」(子)「ヒコ」(彦・比古・毘古)は男神、「メ」(女)「ヒメ」(媛・姫・比売・毘売)は女神につけられるものである。特に「メ」のつく神は、巫女を神格化した神であるとされることが多い。「コ」は国造(ミヤツコ)小野妹子など、元は男性を表したが、藤原氏が女性名として独占し、近世までは皇后など一部の身分の高い女性しか名乗れなかった事から、現代では女性名として定着した。

    3.神号(ミコト)

    代表的なのは「カミ」(神)と「ミコト」(命・尊)です。「ミコト」は「御事」すなわち命令のことで、何かの命令を受けた神につけられるもの。現れた時の神号は「神(カミ)」です。

    特に貴い神に「尊」、それ以外の神に「命」の字を用いています。特に貴い神には大神(おおかみ)・大御神(おおみかみ)の神号がつけられています。また、後の時代には明神(みょうじん)、権現(ごんげん)などの神号も表れました。

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4.神道の研究

平安時代以前より、出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃く見ることが出来る。 鎌倉時代に伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った。そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって、知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。

一方で、本居宣長が江戸期には解読不能に陥っていた、『古事記』の解読に成功し、国学の源流を形成していった。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派の果したことは、それに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。

現代の神道は、延喜式(特に「神名帳」)に見られる古くから大和朝廷(ヤマト王権)が祀ってきた神々を中心に統制され、仏教や地方の神々(元は氏神など)を習合し、全国的な一大ネットワーク及び独特の世界を形成しているように見える。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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縄文2 南と北の古代史

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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南と北の古代史

概 要

目 次

  1. 南の古代
  2. 北の古代
  3. 松前藩
 日本列島の古代史は、近年大きな進歩をみせています。新たな遺跡発掘調査の成果や木簡をはじめとする出土文字史料などさまざまな新発見が蓄積され、新しく豊かな歴史像を提供しました。 世界がグローバル化するなかで、改めて東アジア的な視点から中国・朝鮮半島・日本列島・北方・南方の諸地域の古代史を、多面的に地域間の交流の歴史が注目されるようになったことなど、古代史を古代国家中心の一元的な歴史館のでみに限定してしまうのではなく、客観的な姿勢でとらえようという姿勢が広まっていることも大きな動きです。列島の各地域の人々の間で、国境やさまざまな境界を越えた交流が盛んであった様子が明らかになってきました。

国境が存在しなかった古代には、活発に越境した国際関係がありました。また、掘り起こされた各地域の歴史が明らかにされるなかで、古代には近代とは違って、日本列島に一元的な日本国家が存在していたわけではありません。かつては環日本海として海を通じて大陸・朝鮮との交流が盛んであった日本海側が表日本であったといわれるように、丹波・但馬は出雲・越地方と並ぶ古代からの文化地帯でした。近畿を中心に本州・四国・九州のかなりの範囲を支配下に取り込んだ古代国家においても、「倭」にかわる「日本」という国号は七世紀後半の国家機構確立の過程を通して確立されたものでした。したがって、近代国家の国家観をそのままさかのぼらせてしまうことには注意が必要です。それは小都市国家がしだいに併合し合い成立したイタリアをはじめ、ヨーロッパ諸国の建国の歴史もよく似ています。

古代から前近代まで、琉球王国や北海道のアイヌの人々の独自の歴史・文化が「日本」という国家機構確立前には同時に併存していました。

近年の遺伝子研究では日本人(本州、北海道アイヌ、沖縄県の3地域を比較)の遺伝子はほぼ同じで、北アジアを起源に持つことが明らかにされ、従来定説化されてきた縄文人(アイヌ含)を南方系・弥生人を北方系とする埴原和郎の「二重構造説」は否定されています。(しかし日本語の地名がポリネシア系言語のマオリ語に似ているという説があります。)

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1.南の古代

 まず、琉球の歴史の時代区分は、いわゆる「本土」の時代区分とはかなり異なっています。ここで琉球とは、現在の沖縄県と鹿児島県の奄美諸島を合わせた範囲です。さらに地理的に大きく分けると、奄美諸島・沖縄諸島と先島諸島(宮古・八重山諸島)とに分けられます。

沖縄県那覇市山下町第一洞穴で、1968年に発見された「山下町洞穴人」は、約3万2000年前とされる6~7歳の子供の大腿骨と脛骨で、国内では最古級の人骨です。最近の検討によると、初期現代型新人の特徴に一致するといいます。

その他、沖縄県で発掘され報告されている人骨化石

  • 沖縄県宜野湾市大山洞穴(ぎのわん)
  • 沖縄県国頭郡伊江村真謝カダ原洞穴(くにがみぐんいえそんまじゃかだばる)
  • 沖縄県中頭郡北谷町桃原洞穴(なかがみぐんちゃたんちょうとうばる) さて、旧石器時代以後の奄美・沖縄諸島は、漁労を中心とした貝塚文化の時代を迎え、本土の縄文・弥生文化の影響を受けたり、交易を行っていました。一方・先島諸島では、南方系の先史時代が展開しました。本土における古墳時代~平安時代の時期になると、奄美・沖縄諸島では、狩猟・漁労・採集を中心とした社会が続くなかで、七~八世紀の本土の古代国家との間に入貢(にゅうこう)[*1]や遣唐使通過の交流をもちました。10世紀に東アジアの諸国が盛んな交易の時代を迎えると、琉球でも10~12世紀に海外交易を介して農耕が始まり、奄美・沖縄諸島と先島諸島の文化も一体となります。そして、共同体を率いる首長の按司(あじ)[*2]たちが各地に割拠するようになりました。12~15世紀には、各地の按司たちは支配の拠点としてグスク(城)を築いて勢力争いをおこないました。(グスク時代)グスクは丘や谷の地形を利用して石垣で囲まれた郭群によって構成される按司たちの城郭であるとともに、御嶽(うたき)・拝所のような祭祀の場を持っていました。首長たちの統合が進むにつれて、単純な郭(くるわ)の配置からやがて複雑な郭群の後世へと発達し、琉球石灰岩の石垣の積み方や、中心建物である正殿前の儀礼のための御庭(広場)なども、立派になりますが、最後期の整備されたグスク群が世界遺産に登録されています(首里城)。各地に割拠した按司たちの争いの中から、やがて沖縄本島では、北山国・中山国・南山国の三国による三国時代を迎えます。北山国は北部(国頭郡)の今帰仁(なきじん)城、中山国の浦添城(うらぞえじょう・のちに首里城)、南山国は南部(島尻郡)の南山城をそれぞれ拠点として、競って中国の明に朝貢使を派遣して、皇帝からそれぞれ国王として冊封(さくほう)[*3]を受けました。その後、中山国を抑えた佐敷の按司 尚巴志(しょう はし・1372~1439)が、ようやく北山国・南山国の二国を破って、1429年に三山統一が実現します。これが第一尚氏による琉球王国の成立です。

    しかし、第一尚氏の時代には、まだ各地に有力な按司たちが勢力を保っていました。尚 泰久王の時代に、中城城(なかぐすくじょう)の護佐丸や勝連城の阿麻和利(あま わり)などの有力按司あちをようやく倒すことができましたが、王権への求心力の柔さとともに王位継承のもつれなどから、1470年には新しい王統の第二尚氏が誕生することになります。沖縄本島北西の伊是名島(いぜなじま)出身で、尚泰久に仕えて頭角を表した役人の金丸(1415~76)が王位に就き、尚 円王となりました。
    その後、この第二尚氏王統の琉球王国は、中国皇帝からの冊封を受け続けて、1609年の「島津入り」ののちも明治時代まで独立国の体裁を保ち続けました。

    北山国の王城であった今帰仁城は、日本・中国・朝鮮半島だけでなく、遠くベトナム・タイなどの陶磁器も出土しており、海上交易による北山国の繁栄の様子を知ることができます。

    第二尚氏三代の尚 真王(1465~1526)の時代になると、琉球王国は中央集権体制を確立して統一国家の体裁を整え、充実した国力を背景に先島諸島や奄美諸島へと支配権を拡大しました。尚真王は、いまだ各地に居を構えて独立性を保っていた按司たちを首里城下に集住させて王権のもとの中央官僚制に編成し、地方には地方官を派遣して地方官僚制を形成しました。また、各地のノロ(神女)たちをピラミッド型に階層編成して集権的な神女組織を整備しました。そして、王族の編成を確立して王陵を造るなど、首里城やその城下の首里の町並み、外港である那覇港を整備しました。

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2.北の古代

 北海道には数万年前の氷河期にシベリアから人類が渡り、温暖となってからは本州からも渡来したようで、旧石器時代を経て、土器を中心とした縄文文化が興りました(縄文時代)。

古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、日本やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指しました。統一した政治勢力をなさず、次第に日本により征服・吸収されました。蝦夷(えみし)と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は日本人につながったと考えられています。ただし、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は、別ものです。蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は同じ漢字を用いていることから混同されやすいのですが、歴史に登場する時代もまったく異なり、両者は厳密に区別されなければならないとされています。

古くは『日本書紀』に渡島(わたりしま)として登場し、阿倍比羅夫と接触を持ち、奈良時代、平安時代には出羽国と交易を行ないました。当時の住民は、東北地方北部の住民と同じく蝦夷(えみし)と呼ばれていました。おそらく両者は同一民族で、北海道側の蝦夷が後の蝦夷(えぞ)、現在のアイヌの先祖だと考えられています。

アイヌは、アイヌ語で「人間」を意味しますが、和人がアイヌを蝦夷(えぞ)と読んだのに対し、呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことです。アイヌは和人のことを「シサム」「シャモ」と呼称していました。シサムは隣人という意味のアイヌ語アイヌモシリ( 「人間の住む土地」:日本列島の北海道・千島列島および樺太島)の先住民族の一つであるアイヌのことです。形質人類学的には縄文時代の日本列島人と近く、本州以南が弥生時代に入った後も、縄文文化を保持した人々の末裔であると考えられています。アイヌの歴史は、考古学上の概念としてのアイヌ文化が成立した時に始まりますが、後にアイヌと呼ばれるようになるエスニック・グループ[*4]は、アイヌ文化が成立する遙か以前から存在していた点に注意が必要です。

アイヌ文化はアイヌモシリ(北海道・樺太)で13世紀に成立したと考えられていますが、史料が十分ではないため、アイヌ文化成立の経緯について考古学や文献でその経緯を十分に跡付けることは未だ困難です。

本州以南は多数の渡来人(帰化人)が移住することで弥生時代を迎えましたが、本州をはじめとした「本土」の多くの地域が水田耕作を受け入れ弥生文化を迎えた時代に、北海道にまでは弥生文化が伝播せず、サケ・マスをはじめとした自然の恵み豊かな北海道では、狩猟・漁労・採集・栽培を中心とする生活が続いており、縄文文化が続きました(弥生・古墳時代に相当する続縄文時代は、紀元前2世紀から7世紀まで続いた)。この文化は、北はサハリン南端部、東は国後島・択捉島、南は東北地方から新潟県西部にまで及んでいます。これを続縄文文化と呼んでいます。この時代の土器が北東北にも影響を与える一方、七世紀には本格的に本土の文化も北海道に及ぶようになって、石狩地方では「北海道式古墳」が営まれたり和同開珎が出土するなど、交易・交流が盛んになります。

八世紀~九世紀には、木片の刷毛で擦ったような文様の擦文土器[*5]が成立し、13世紀にかけて北海道で擦文土器が展開します。竪穴住居群によって構成される集落が各地に営まれ、つづいて、土師器の影響を受けて縄文がなくなり、北東北からも擦文土器が出土して、交流の実態を物語ります。

一方、道北からオホーツク海沿岸地方では、北東アジア的性格をもつオホーツク文化が展開しました。オホーツク海に面した海岸沿いに、五角形・六角形の大型竪穴住居を営み、熊などの骨を積み上げて祭る生活をしていました。10~11世紀には擦文土器になりますが、12~13世紀には本州その他との交易が展開するなかで、擦文土器は衰えていきます。

オホーツク文化の基盤の元に、本州の和人の文化を受容しながら、やがてコタン(集落)・チャシ(砦)・ユーカラ(口承文芸)・イオマンテ(熊祭り)などのアイヌ文化の時代を迎えます。倭人は本州から米・酒・鉄などの物品をもたらし、アイヌ側は北方産の獣皮・海産物などを交易しました。14世紀には、本州北端の十三港(とさみなと)に拠点を置く安東氏[*6]が蝦夷代官職になって北海道との交易を統轄するようになります。道南の渡島半島(おしまはんとう)南部海岸沿いには、展開した和人たちによって「道南十二館」と呼ばれる巨館群などが営まれました。

しかし、こうした和人とアイヌ人との交易の際に、また新しく進出してきた和人によるアイヌ人圧迫により、しばしば両者の間に衝突が起きるようになりました(1457年コシャマインの戦いなど)。コシャマインの勢力は道南にあった和人の館を次々と落ちしましたが、上ノ国[*7]の蠣崎氏(かきざきし)らによって制圧されました。

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3.松前藩

 蠣崎氏が勢力を広げ、松前氏と改姓して徳川幕府からアイヌとの交易権の独占を認められ、大名化していきます。1669年には、和人の横暴に対抗し、首長シャクシャインが各地のアイヌ勢力とともに蜂起して松前氏と戦いましたが、結局制圧されました。こうして、各地のアイヌが統合して国家のような政治勢力を確立していく道は閉ざされ、松前藩に従属する交易を強いられていきました。

松前藩

松前氏は、もと蠣崎氏(かきざきし)、さらにその前は若狭武田氏(一説には陸奥国の南部氏の一族)の出で、戦国時代に武田信廣が現在の渡島半島の南部に支配を確立しました。豊臣秀吉に臣従し、慶長4年(1599年)に徳川家康に服して蝦夷地[*8]に対する支配権を認められ、江戸初期には蝦夷島主として客臣扱いでしが、五代征夷大将軍徳川綱吉の頃に交代寄合に列して旗本待遇になります。さらに、享保4年(1719年)より1万石格の柳間詰めの大名となりました。

当時の北海道では米がとれなかったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格にすぎません。慶長9年(1604年)に家康から松前慶廣に発給された黒印状は、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていました。蝦夷地には藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認めるという形でなされました。松前藩は、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとりました。江戸時代のはじめまでは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていましたが、しだいに取り締まりが厳しくなりました。

松前藩の直接支配の地である和人地の中心産業は漁業でしたが、ニシン(鰊)が不漁になったため、蝦夷地への出稼ぎが広まりました。城下の松前は天保4年(1833年)までに人口一万人を超える都市となり、繁栄しました。

藩の直接統治が及ばない蝦夷地では、寛文9年(1669年)にシャクシャインの戦いに勝って西蝦夷地のアイヌの政治統合の動きを制圧し挫折させました。

[編集] [以後の主な出来事]
  • 1679年、松前藩の穴陣屋が久春古丹(後の樺太大泊郡大泊町楠渓)に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる。
  • 1711年 – ロシア人アンツィフェーロフとコズイレフスキー、千島最北端の占守島に上陸。1713年には住民にサヤーク(毛皮税)を献納させ、ロシアの支配を認めさせた。
  • 1739年 – ロシア人シパンベルク、色丹島に上陸。
  • 1758年 – 弘前藩により津軽半島(外が浜など)に居住していたアイヌの同化政策が進む。
  • 1786年 – 最上徳内択捉島探検。日本人として最初に択捉島を探検した徳内は、このときロシア人が居住していること、択捉島現地人の中にキリスト教を信仰する者がいる事を確認している。
  • 1789年 – クナシリ・メナシの戦い。
  • 1798年 – 近藤重蔵が東蝦夷を探検、択捉島に「大日本恵土呂布」の標柱を立てる。
  • 1799年 – 東蝦夷地を幕府が直轄化。
  • 1800年 – 伊能忠敬が蝦夷を測量。
  • 1801年 – 最上徳内や富山元十郎などが千島列島の得撫島を探検し、「天長地久大日本七属島」の標柱を立てる。
  • 1802年 – 江戸幕府、蝦夷奉行を置く。後に箱館奉行となる。
  • 1804年 – ニコライ・レザノフが日露の通商を求めて長崎に来日、通商を拒絶される。
  • 1807年 – ニコライの部下、フォボストフらが択捉島や樺太に上陸、略奪や放火などを行う(フォボストフ事件)。幕府は東北諸藩の兵で警備を強化。西蝦夷地を幕府直轄化。箱館奉行を廃止し松前奉行を置く。アイヌに対する和風化政策がおこなわれる。
  • 1808年
  • 幕府が、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで樺太に派遣。松田伝十郎が樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の標柱を建てる。
  • 長崎でフェートン号事件。
  • 1809年、間宮林蔵が樺太が島であることを確認し、呼称を北蝦夷と正式に定める。また、山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。
  • 1811年 – ゴローニン事件。日露の緊張が高まる。
  • 1813年 – ゴローニン事件が解決するものの日露の緊張が残る。
  • 1821年 – 日露関係の緩和を受け、幕府は蝦夷地を松前藩に返還する。このころ以後、蝦夷地への和人移住が増加し、アイヌの生活・文化の破壊が顕著となる。
[註]

[*1]…外国から使節が貢ぎ物を持って来ること。

[*2]…按司(あじ、または、あんじ)は、琉球諸島に存在した琉球王国の称号および位階の一つ。王族のうち、王子の次に位置し、王子や按司の長男(嗣子)がなった。按司家は国王家の分家にあたり、日本の宮家に相当する。古くは王号の代わりとして、また、地方の支配者の称号として用いられていた。

[*3]…中国王朝の皇帝がその周辺諸国の君主と「名目的」な君臣関係を結ぶこと。これによって作られる国際秩序を冊封体制と呼ぶ。

[*4]…一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体

[*5]…土器の表面を整えるため木のへらで擦ってつけたものと考えられており、これが擦文の名の由来。本州の土師器の影響を受けたことがうかがえる。

[*6]…日本の中世に本州日本海側最北端の陸奥国津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配した武家。津軽安藤氏とも。本姓は安倍。鎌倉時代には御内人として蝦夷沙汰代官職となり、室町時代には京都御扶持衆に組み入れられたと推定され、後に戦国大名となった。近世以降は秋田氏を名乗り近世大名として存続し、明治維新後は子爵となった。

[*7]…北海道南西部、檜山支庁管内最南端松前町に隣接する町
[*8]…蝦夷地(えぞち)は、日本人がアイヌの居住地を指して用いた言葉で、江戸時代に使われた。和人地の対語である。渡島半島を除く現在の北海道を中心に、樺太と千島列島を含む。

参考文献:「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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縄文1 縄文海進

1.縄文大海進

一万年前頃、ちょうど縄文草創期から、気温がわずかながら温暖化してくると、氷の融解が促進し、海水面が上昇していきます。これは「縄文大海進」と呼ばれています。いま、地球温暖化が地球的規模の大問題になっていますが、今から約6,000年前には、今より1~2度気温が高かったといわれています。そのころの関東地方は、今の沖縄県の気候に近かったそうです。最終氷期が終わって、徐々に温暖化が進んだ結果でした。縄文海進と呼ばれる地球温暖化です。

海面が10メートルも上昇すると、円山川が流れる国府平野以北の流域は水面下でした。その頃豊岡盆地は、「黄沼前海(キノサキノウミ)」といわれる入り江でした。豊岡市塩津や大磯町という地名もその名残なのかも知れません。早期や前期の縄文時代の人々は、低平な所で生活を営むよりは、気温が高いのだから、現在の我々が想像するほど寒冷な積雪地帯ではなく、比較的越冬の条件は厳しくなかったのでしょう。日本列島を囲む海面は、今より3~5メートルも高かったようです。日本列島はかなり奥まで海でした。関東地方で言えば、東京湾は埼玉県春日部を通り越して、古河のあたりまで入り込んでいたといわれています。そして、そこには豊富な魚介類が生息していました。各地にある国生みや入り江開墾の神話・伝承は、この地球温暖化による縄文海進が神懸かり的な現象と見えて伝わったのではないでしょうか。

2.寒冷化と海面低下

縄文時代の豊岡盆地 Mutsu Nakanishi さんよりお借りしました

そのうち、暖かくなりつつあった気温がまたゆるやかに低下していきます。二千年前ぐらいが、その寒冷化の一つの頂点でした。寒地の氷は再び厚さを増し、海面が低下してくる。山岳地帯の植物相も変化し、いままでカシやシイの実の生活に頼っていた縄文人の食生活に変化を強いることになりました。

寒冷化に伴う生活難から、低地へ、北から南へと住民は移動したのでしょう。中期縄文の土器の出土がないのは、こうしたわけでしょう。神鍋の山麓に、永い間にわたって繰り広げられた生活も過疎化の波が押し寄せていきます。

日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年ないし約3万年前までさかのぼります。約3万4千年前に華北地方からナイフ形石器と呼ばれる石器が伝わり、列島全域で広く使用されましたが、約2万年前にシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まりました。しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ型石器文化が併存しましたが、ほどなく細石刃が西日本にも広まり、約1万5千年前ごろ、ナイフ型石器は急速に姿を消しました。豊岡市日高町、旧街道東構区の北側に「祢布ヶ森」という小字があります。かつて蚕業試験場が設置されていた場所で、昭和27年頃、発掘したところ、縄文後期や晩期前半の凸帯文土器と考えられる土器が出土し、宵田小字焼ヶ辻の遺跡や、水上の水上遺跡では、晩期の土器が出土しています。昭和48年、蚕業試験場東側を発掘したところ、幅1メートル、深さ60センチの溝が検出され、古墳時代前期前半の土器を多量に含んでおり、また、稲葉川旧河道では、縄文期の土器と共に十数点の石器が検出されています。溝を境として、性格がはっきりと異なる遺跡が見つかりました。先に西側一帯は、奈良時代から平安時代にかけての遺物出土地点です。この三つの文化相の差異が見受けられます。

このように、高地の神鍋山麓だけでなく、低平部の稲葉川と円山川との合流点付近の扇状地帯に縄文時代の新しい生活が展開してきています。気候がそろそろ寒冷化してきて、海水面が下降してきたために陸化してきた地域です。

戦後の昭和の頃まで、円山川ではサケ・マスが産卵のため遡上していた。支流稲葉川でも、道場付近で漁獲が行われていたという。サケ・マスが遡上する西限は、但馬地方から因幡にかけての地域だった。川を遡上するサケ・マスは簡単に捕獲できるので、海の幸に恵まれ、豊かな生活が展開し、極度に発達した晩期縄文文化地帯が形成されたが、祢布ヶ森からはそのような土器が出土しています。

3.縄文人がやってきた

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1万9千年前ごろが、現在に一番近い寒冷期の最寒期で、当時の海水面は今よりおおよそ120m低かったと考えられています。朝鮮海峡は幅約15km、水深約10mの浅く狭い水道でした。この時期、人と動物は陸続きのシベリアから歩いて渡ってくることができたのです。

こうして、日本列島に最初に住み着いた縄文人とは、縄文以前から住んでいた後期旧石器人をが縄文人になったのであり、縄文人が大陸からやって来たのではありません。

古モンゴロイド系であることは調査研究からわかってきました。南方系ポリネシア人と共通の民族です。ポリネシア人の祖(モンゴロイド)は、中国雲南地方(南部)辺りから南下して、インドシナ半島などに定住していきます。今でもポリネシア地方で見られるような、船の横にやや小さい木船が付いたアウトリガー・カヌーと呼ばれる船などであり、せいぜい2、3人乗りの小さな木船だったから、そんなに長距離は無理です。長い時間の間に南下していき、オセアニア(オーストラリア)やポリネシアの島々に渡りました。

そしてまた別のグループは、中国南部やフィリピン、台湾へ、また、対馬海流に乗った別のグループが壱岐、対馬、九州北部や出雲へと辿り着いたのではないだろうかといわれています。

やがて別のグループが、シベリアから北海道、・本州東北部、また、アラスカ(エスキモー)、アメリカ(インディアン)、南アメリカ(インディオ、マヤ、インカなどの文明)へと南下していったのでしょう。
誰だって大陸を後にして、他民族の侵略による避難なのか獲物を追って新たな新天地を求めたのかは分からないが、出航した船団にとって、充分な装備も持たず、ただでさえ心細いのに陸地が見えたら、一目散に上陸したいに決まってる。現在のように地理が分かっていても、飛行機でさえ何時間もかかる移動距離。

まさに命がけの亡命をしたボートピープルです。船団は農産物の種など、これからの新天地での生活に必要な物資も積みながら、まほろばの国、「日本列島」。何日も洋上を航海しながら、飢えに耐え、多くの者は航海中に死亡した者もいたであろうし、彼らの冒険心には本当に頭が下がるのです。(私は少なくとも無理です。

植村直己さんという我が町が生んだ世界的冒険家は、まさに縄文人の血が流れているのではないでしょうか?!すいません)
やがて氷河期は終わり、水位が上昇します。紀元前1万2千年頃から紀元前4千年にかけて約8千年間にわたる海面上昇により、タイ湾から南シナ海へかけて陸地は海底に没してしまいます

4.縄文文化

縄文時代は一万年を超える長い時代なので、その間の文化社会の変化は大きく、一括した縄文文化という言い方が適当でないことが多いのですが、土器形式を基準にして大きく6つに分けられています(草創期・早期・前期・中期・後期・晩期)。各時期の継続年数は均等ではなく、古い時期ほど長い傾向にあります。

縄文文化は日本列島全体で一様のものではなく、土器や生活形態の違いが相当大きいのですが、土器の系統的つながりを見ると、北海道の土器は本州からの流れの支流といってもよい位置づけができ、縄文土器の特徴である縄を転がしてつけた紋様は、北海道で縄文時代を通じて盛んに用いられたのに、宗谷海峡を越えたサハリンではほとんど見られません。一方、南では沖縄本島の土器は北の九州方面の縄文土器の流れを汲むもので、決して中国や台湾から北上したものではないそうです。また、縄文文様は九州や沖縄では見つかっていませんが、したがって、文化的つながりとしては沖縄本島までは日本列島の縄文文化の範囲であったと認められます。

縄文人は特定の場所に集落を構え、それぞれ孤立していて、相互の交流はあまりなかったと想像しがちですが、そうではなかったのです。自然のガラスとして鋭い割れ口を持ち、石器の材料として非常に好まれた黒曜石が、交易によって100kmも運ばれた例は珍しくなく、霧ヶ峰(長野県)の鷹山では黒曜石を掘った鉱山跡が多数残存し、その盛んな採掘を物語っています。日本では新潟県の姫川にしか産出が知られていないヒスイは、装飾品の材料として遠く関東や北海道まで運ばれていました。海の魚の骨が内陸の遺跡で検出されたり、ときには食料まで運ばれたことがわかります。後・晩期には、海水を煮つめて塩を作った遺跡が、関東や東北地方の海岸近くに知られていますが、その製造に用いられた粗雑な作りの土器が海から離れた内陸の遺跡でも発掘されています。
縄文早期の日本の人口は、2万人だったといわれています。

5.日本の文化的起源

日本という思想とは、日本語で展開されてきた思想です。人々が日本列島固有の意識を持ち始めた起源ががどのような様相をとっていたかを知ることは、難しいです。日本の自己意識を持つ人間のあり方は、長く文字を持たなかったために、他者すなわち中国大陸との関わりのなかで、大陸の列島にむける見方のなかに、文字(漢字)に残されることで、最初にあらわれました。

二千六百万年前、原日本海ができ、陸続きであった日本列島の原型が姿を見せたのは、一千万年前でした。その後人類が誕生し、造山・火山活動が活発になりました。氷河時代の中期には沖縄諸島がまず大陸から分離し、ついで列島が大陸から分離しました。氷河期と間氷期がくりかえされ、二万年前とされる最終のウルム氷期に海面が下がり、大陸と列島を結ぶ最後の陸橋が現れました。そのとき、人類動物が大陸から移住してきたとされます。その後再び海面が上昇し、一万八千年前には朝鮮海峡が、一万二千年前には宗谷海峡がひらき、今の日本列島のかたちが定まりました。沖縄諸島が本州や他の島よりも先に大陸から分離していたことは、現在日本とよぶ領域の中での言語・文化の面で沖縄諸島がもつ文化的独自性と深く関わっているといえます。

万物を神と捉えるアミニズムの原点が芽生え、縄文人が墓を造営した様子からは、先祖崇拝の原型が伺えます。縄文人の自然崇拝と先祖崇拝が融合したものが、弥生時代からさらに発展し、現在の神道につながっています。記紀の世界観は縄文時代にすでに土台ができあがっていたといえます。
そして世界最古の土器をつくり、集団の結束と人々の平等性を重視した高度な社会を築いた縄文文化こそ、「日本文明」の起源と呼ぶにふさわしいのです。稲作の開始や弥生文化自体字体、以前よりも時代がさかのぼる見解がいわれています。弥生時代で後述しますが、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説がでてきました。岡本太郎は、縄文文化の美意識の復興を説いています。弥生式土器と比較して縄文式土器は、縄目文様(撚糸(よりいと)を土器表面に回転させてつけたもの)の多様な模様が見られることがその特徴に挙げられますが。しかし実際には縄文を使わない施文法(例えば貝殻条痕文)や装飾技法も多く、これは土器型式によって様々です。 縄文土器は表面を凹ませたり粘土を付加することが基本で、彩色による文様は少ないですが、文様が変化に富み多く用いられ、装飾は時には容器としての実用性からかけ離れるほどに発達しました。この特徴は、日本周辺の土器にはみられないものです。

縄文土器の形は深鉢が基本ですが、中頃から淺鉢のような器形が現れ、、続いて注口付き、香炉形、高杯、壺形、皿形など様々な形が現れた。とくに東北地方晩期は器形の変化が多様です。信仰に関わる土製品には代表的な土偶のほか、土器片を再利用して人形状土製品や鏃状土製品、土製円盤、土器片錘などが作られました。

6.縄文人はグルメ?

縄文人は、太陽、風、雷、雨と雪、地震や台風などの自然の恐怖は、神々の行いであるとして恐れると同時に敬い、神がいると信じていた。狩猟民族である彼らは、旬な恵みを接収して、家族が一つに寄り添い、人々が助け合いながら暮らし、次の世代へ智慧を伝承していった。いま我々が想像する以上にある意味では豊かな暮らしをしていたのではないだろうか? 多くの動植物と同じく自然に適応しながら進化していった。自然との共生であり、天変地異との戦いであった。しかし、境界線もなく、国という意識もない。まさにボーダーレス社会です。テリトリーにこだわず平和に自由に暮らしていた社会は、今を生きる我々よりもある意味でははるかに文化的で人間らしい生活だったのではないのでしょうか(多分・・・)。

先日パプア・ニューギニアで暮らす人々がテレビの番組(ウルルン滞在記)で紹介されていました。必要最低限の獲物をとり、椰子からデンプンをとって餅のように丸めて焼きます。家族や村単位で仲良く暮らす姿は、縄文時代の人類の暮らしぶりが想像出来ます。

食料の入手は人間が生きるための基本条件であり、縄文人にとっても最も大きな課題でした。動物や鳥の狩猟、海・川・湖での漁労、貝の採集、植物質食料の採集に大きく分けられますが、イノシシの一時的な飼育や有用な植物の栽培も行われていました。地理的に北の地域では狩猟や漁労の占める役割が大きく、南の地域では植物質食料の果たす役割が大きかったと見られますが、もちろん個々の遺跡を取り巻く環境によって生業の形は違いました。
狩猟の最も重要な対象はシカとイノシシですが、その他にも様々なほ乳類や鳥類が獲物とされ、食肉ばかりではなく毛皮や骨角器の材料として利用されました。弓矢が一般的ですが陥穴も広く用いられました。狩の補助に用いるために飼われた犬の墓も各地で発掘されています。

漁労は湖、川、入り江、外洋などの環境や魚の種類に合わせ、網、釣り、ヤス、銛(モリ)などが使い分けられました。縄文時代には氷河時代に浸食された谷の中に上昇する海が入り込んできました(縄文海進)。北海道や東北地方では、秋になると産卵のために群をなしてさかのぼってくるサケが特別な重要性をもつ食料源でした。北海道石狩市紅葉山遺跡で、小川に作られたエリと呼ばれる縄文中期の柵の跡が発掘されています。集中的に捕獲されたサケは干物や薫製などに保存処理して利用されました。

植物質食料としてはクリ、クルミ、ドングリ、トチなどのナッツ類が主ですが、ヤマイモ、ユリなどの根茎類、山菜の類も大いに利用されたでしょう。キノコや海草が利用された証拠もあります。遅くとも縄文前期にはリョウトウ、エゴマ、ヒョウタンなどの有用な植物の栽培が始めらていたことが、福井県鳥浜遺跡の調査などで確認されています。最も重要なのは、クリの木を集落の周りに増やしていくことが行われるようになったことです。青森県三内丸山遺跡の調査では、人が来る前にはブナの林であったものが、人が来ると集落の周りはクリの林になったことがわかります。クリと人の生活が緊密に結びついていたことを示しています。クリの実はおいしく食べやすい食料になるだけでなく、クリの木は耐久性が強く、建築材として最適であり、薪として火持ちが良いので、縄文人にとって最も重要な樹木でした。

後・晩期は、地域によって違いはありますが、停滞ないし衰退の時期と捉えられています。とくに中部高地や西関東の急激な衰退は、その主な原因が植物質食料の減少にあったと思われています。しかし、多くの入り江に恵まれた東関東では海の資源に支えられ、しばらくは繁栄が維持されました。近年、各地で縄文後・晩期のトチの実のアク抜き施設が発掘されています。埼玉県の赤山陣屋遺跡など、谷あいに木を組んで水槽を作り、水を溜めたもので、周辺には貝塚のようにトチの実の殻が堆積しています。トチの実の粒は大きいけれど強い渋味があり、これを除くには水でさらしたり木炭を水に溶かして漬けたりするなど相当な手間がかかります。この時期にはなぜかクリの収穫が減ったようで、それを補うために、当時の環境変化で増加したトチの実の利用が盛んになったようです。

7.お酒の発見

人類がいつごろお酒を知るようになったのかははっきりわかりませんが、世界各地に伝わる「猿酒」の伝説のように、気候が温暖な地方では自然発生的にできた酒に猿が出会い、やがてお酒を自分らの手で造ることを学び、嗜むようになったのでしょう。でも何かの中に溜まらなければ飲めるほどの酒にはならない・・・。ある南の島の伝説にこのようなお話があります。

猿が落とした椰子の実など、木の実が割れてそのまま放って置いたままにしていた。それを翌日猿が旨そうに飲んでいるのを見た人間が恐る恐る飲んでみたら、こりゃ旨い!不思議な気分になって寝てしまった。それを翌日王様に報告し献上すると、王様も飲んでみたらこりゃ旨い。こうした伝説が世界各地に残っています。

木の実の汁や果汁を何かに溜めるために、中国では石器を、また別の国では貝殻や土器を使うようになりました。こうして人類は、液体を容器に入れて保存することを発明したのです。日本でも俗にいわれる自然発酵を応用した「猿酒」が最初のようです。
秋田県池内(イケナイ)遺跡では、ヤマブドウやクワの実と一緒に絞られたニワトコの絞りカスの塊が発掘されました。ニワトコの表面には自然のコウジ菌が繁殖するので、今でもヨーロッパの一部では酒の材料として用いられています。

それを証明するものとして、長野県富士見町の井戸尻古墳で「有孔つば付土器」というう珍しい土器が出土しています。

どうやら中期縄文人たちは、自生した山ブドウやクサイチゴ、サルナシなんかの果物をそのままこの土器に仕込んで、軽くつぶした後フタをして孔(あな)にツルを通し、住居の柱などにくくりつけたのではないかといわれています。

しばらくの間すると液果類は糖分が含まれとるので、「野生酵母」の働きで温度が上昇し、果汁が炭酸ガスとともに吹き上がりますが、中身がこぼれない深さになっていて、主発酵が終わるころには酒も出来あがり、芳しい香りが漂うようになりました(これはブドウ酒などの果実酒造りと同じ原理だ!)。

したがって、縄文中期(紀元前三千年)には酒造りがすでに人間の手によって計画的に行われていたのでないかと考えられるます。また縄文晩期には日本に原生するお米の陸稲作が始まり、米による酒や粟、稗などによる雑穀酒作りが口噛み酒として始められました。

8.自然との共存

縄文時代は1万年という長い期間に渡った為、大規模な気候変動も経験しています。また日本列島は南北に極めて長く、地形も変化に富んでいる為、現在と同じように縄文時代においても気候や植生の地域差は大きかったのです。縄文時代の文化形式は歴史的にも地域的にも一様ではなく、多様な形式を持つものとなりました。

縄文中期の安定を物語るもう一つの証拠が貝塚です。中期になると東京湾沿岸、利根川下流域などに、集落の形を反映した馬蹄形や環状の貝塚が多数形成されました。貝殻以外に魚や動物の骨、壊れた土器や石器も捨てられました。なかでも東京都北区中里貝塚は、当時の海岸線に沿って500m以上も続き、厚さも4mに達する巨大なもので、土器や石器がほとんど残されておらず、海岸にあるのに魚の骨さえ稀です。海岸で貝の身を殻から外して保存加工するような特殊な作業の跡と考えられています。その貝のほとんどはハマグリとカキという味の良いものに限られ、しかも大型のものだけが選択されているのです。おいしい貝だけを採集するという自然の資源保護の姿勢を見ることができます。

縄文人の狩猟、漁労、植物の採集、その様々な方法を見ると、彼らが日本列島の多様な環境と食糧資源をきめ細かく開発し、その自然によく適応する生活の形を作り上げていたことが分かります。それは自然の営みをよく理解し、乱獲を避け、自然と共存するものであり、できればその資源を増やしていこうとするものでした。このような縄文人の知恵と生き方は現代の我々にも大いに学ぶべき点があります。

9.縄文人の精神

縄文時代には生活に必要な実用の道具以外にも、さまざまな儀礼のための道具と思われるものが作られました。土で女性の姿を表現した土偶は草創期からありましたが、後・晩期に盛んになります。男性性器をかたどった石棒は前期からありましたが、この時期には石剣などの形を生み出し、さらに儀礼に用いられた見られる土面、土版、石版などが大量に作られるようになりました。透谷地方の亀ヶ岡式土器では、さまざまな形が作り分けられ、その表面は複雑な文様で埋め尽くされました。生活に息詰まった縄文人がその打開を願って神に祈ることが多くなったのでしょうか。集団墓地に石組みを加えたストーンサークルや、北海道に見られる墓地の周りを円形の土手で囲った周提墓のような大きな建造物も多くなります。祖先とのつながりを重んじ、その庇護を求める気持ちの表れかと思われます。このような後・晩期のありかたに、縄文文化というものの限界が認められるものであるといえるでしょう。

しかし、目を移して西日本をみると、後・晩期になると増加や拡大など一定の上昇傾向が見られます。土器で見ると初め東日本の影響が強いのですが、やがて文様が質素になり、黒色に焼き上げた表面を磨き上げるものが増えていきます。ドングリや栗は秋の一時期に集中的に収穫される為、比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となる為、土偶を用いた祭祀を行うことで社会集団を統合していたのではないかという考え方もあります。

九州西北部の佐賀県や長崎県のリアス式海岸では、縄文時代を通じて外洋での漁労が盛んな地域でした。シカの角で作った軸の部分とイノシシの牙で作った針先の部分を結びつけた西北九州型と呼ばれる独特の釣り針が作られました。この特徴的な釣り針が韓国の南岸の遺跡で発見されています。また、韓国独特のオサンリ型と呼ばれる結合式の釣り針が九州側で見つかっています。このように縄文時代にも朝鮮海峡を越えての交渉が両方にわたって分布しています。

このように、縄文時代にも九州や北海道では大陸との交渉を示す遺物が発見されています。しかし、弥生時代や古墳時代における朝鮮半島や中国との活発な文化的政治的な交渉から受けた大きな影響に比較するなら、縄文時代における大陸とのつながりはずっと弱いものでした。日本列島の中で独自に育った文化という点にこそ、縄文文化の基本的特徴があるといえます。
縄文文化の伝統は、弥生時代に薄まりながらも、東日本ではやや強く残り、北海道ではさらに強く、そのまま維持され「続縄文文化」と呼ばれるものに移行します。また、南の沖縄でも弥生文化の影響に比べ、縄文の伝統が比較的強く残ったと考えられています。こうして日本列島は大きく三つの文化地域に分かれることになります。

10.但馬の貝塚

円山川(まるやまがわ)は、兵庫県北部を流れて日本海に注ぐ但馬最大の河川。朝来市円山から豊岡市津居山(ついやま)に及ぶ延長は67.3km、流域面積は1,327平方キロメートル。流域には平野が発達し、農業生産の基盤となっている。河川傾斜が緩やかで水量も多いため、水上交通に利用され、鉄道が普及するまでは重要な交通路となっていた。

太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのでしょう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思えます。二つの伝説に共通しているのは、円山川が流れる国府平野以北の下流域は水面下でした。その頃豊岡盆地は、「黄沼前海(キノサキノウミ)」といわれる入り江でした。「神様(たち)が水を海へ流し出して土地を造った」という点です。

実はこの「かつて湖だった」というくだりは、必ずしも荒唐無稽(こうとうむけい)な話ではなさそうなのです。縄文時代で書いたように、今から6000年ほど前の縄文時代前期は、現代よりもずっと暖かい時代でした。海面は現在よりも数m高く、東京湾や大阪湾は今よりも内陸まで入り込んでいたことが確かめられています(縄文海進)。但馬の中でも円山川下流域は非常に水はけの悪い土地で、昭和以降もたびたび大洪水を起こしています。近代的な堤防が整備されていてもそうなのだから、古代のことは想像に難くありません。実際、円山川支流の出石川周辺を発掘調査してみると、地表から何mも、砂と泥が交互に堆積した軟弱な地層が続いているそうです。豊岡市中谷や同長谷では、縄文時代の貝塚が見つかっています。中谷貝塚は、円山川の東500mほどの所にある縄文時代中期~晩期の貝塚ですが、現在の海岸線からは十数kmも離れています。長谷貝塚はさらに内陸寄りにありますが、縄文時代後期の貝塚が見つかっています。これらの貝塚は、かつて豊岡盆地の奥深くまで汽水湖が入り込んでいたことを物語っています。縄文時代中期だとおよそ5000年前、晩期でもおよそ3000年前のことである。「神様たちが湖の水を海に流し出した」という伝説は、ひょっとするとこういった太古の記憶を伝えているのではないでしょうか。

中谷貝塚(なかのたにかいづか)

豊岡市中谷に所在する縄文時代中期~晩期の貝塚。1913年に発見された、但馬地域を代表する貝塚の一つである。出土する貝はヤマトシジミが98%を占めており、ほかにハマグリ、アサリ、マガキなどが見られる。また、クロダイ、タイ、ニホンジカ、イノシシ、タヌキなどの骨、トチ、ドングリなども出土している。ヤマトシジミは海水と淡水が入り混じる汽水域に生息することから、縄文時代の豊岡盆地が、入り江となっていたことがわかる。

長谷貝塚(ながたにかいづか)

豊岡市長谷に所在する縄文時代後期の貝塚。出土する貝はヤマトシジミが80%を占め、サルボウ、マガキ、ハマグリなども見られる。また、タイ、フグ、ニホンジカ、イノシシ、タヌキなどの骨、トチ、ノブドウなども出土している。中谷貝塚同様、豊岡盆地が汽水域の入り江であったことを示す遺跡である。

たじまる 地方自治-8

北近畿の都市圏

3.住民自治と団体自治

国は公正かつ普遍的な統治構造を維持するため、国家全体の運営について画一的、均一的運営を行うことが要請されるが、地方の実情や地方における住民からの要望は各地方によって様々であることからこれをすべて同一に運営することは不可能であり、地方の運営に当たっては地方の独自性を考慮する必要が生じる。

そこで、地方の総合的な運営は地方に委ね、国は国家に係る根幹的な事柄を担当し、かつ、国家全体の総合的な調整を図るという役割分担がなされることになる。すなわち、地方自治とは国による統治に対立する側面を有しており、住民自治団体自治というふたつの概念を持つ。

住民自治

住民自治とは地方の運営はその地方の住民の意思によって行われるべきという概念でありイギリスで発達した。地方自治法で認められているもの

直接請求

イニシアティブ(住民発案)条例の制定、改廃請求(第74条)

事務の監査請求(第75条)リコール住民投票が必要なもの

  • 議会の解散請求(76条)
  • 議員の解職請求(80条)
  • 長の解職請求(81条)役員の解職請求(86条)
  • 役員は、副知事・助役・出納長・収入役・選挙管理委員・監査委員・公安委員のこと。

住民監査請求

住民は、長・委員会・職員について、違法もしくは不当な公金の支出等があると認めるときは、これを証する書面を添え、監査委員に対し監査を求めることが出来る(242条1項) 住民訴訟(242条の2)
団体自治とは、地方の運営はその地方に国とは別の、独立した、自治権を持つ地方統治機構(地方公共団体、地方政府等)により行われるべきという概念であり、ドイツで発達した。町村<郡・市<都道府県<中央

北近畿の都市圏

都市圏とは一般に、核となる都市および、その影響を受ける地域(周辺地域、郊外)をひとまとめにした地域の集合体であり、行政区分を越えた広域的な社会・経済的な繋がりを持った地域区分のことを指します。自然、歴史、文化など生活を取り巻く環境を概ね共有し、圏域内に居住する人々が概ね域内に通勤・通学先を求め、医療、買物、公共サービスなど都市的サービスも概ね圏域内で享受できるような地域的まとまりのことです。例えば、新しい国のかたち「二層の広域圏」を支える総合的な交通体系最終報告(2005.5、国土交通省)では、人口規模30万人前後、時間距離で1時間前後のまとまりを目安とした圏域としています。

車社会化が発達した20世紀末には、中心都市の市域を大きく超えて生活圏が形成されるようになり、21世紀になって「平成の大合併」と呼ばれる広域合併が行われました。しかし、アメリカでは都市圏について公式に定められているそうですが、日本においては公式の定めはありません。兵庫県但馬地方は、豊岡都市圏(経済圏)を形成する兵庫県北部の中心都市です。豊岡市の人口は86,895人(推計人口、2008年7月1日)、697.66k㎡となり、豊岡都市圏は11万8565人です(10%通勤圏:毎日の決まった人の移動に注目した都市圏。周辺市町村の定義は、通勤・通学者数の割合が10%以上としています。)。

北近畿では舞鶴市90,121人、342.15k㎡、福知山市80,302人、552.57k㎡。福知山都市圏は、福知山市全域と、綾部市全域、京丹波町の一部、丹波市の一部を指す。兵庫県の丹波市や周辺市町村からの通勤や買い物客も多く、2000年現在で13万6096人で北近畿最大。豊岡都市圏、舞鶴都市圏と並んで北近畿の中心的な都市圏となっています。舞鶴都市圏は、舞鶴市を中核に、福井県(嶺南)大飯郡全域と宮津市や綾部市の一部などを含み、その都市圏人口は約12万人。

これに福井県嶺南地方を含めて北近畿開発促進協議会が昭和62年に発足しています。地域の歴史を検証すると、この4地域は古来より風土・文化面で交流がさかんであり、鳥取豊岡宮津自動車道の早期開通などに総合整備が進められています。

兵庫県豊岡都市圏11万8565人豊岡市・香住区・京丹後市久美浜町
京都府舞鶴都市圏約12万人舞鶴市を中核に、福井県(嶺南)大飯郡全域と宮津市や綾部市の一部
福知山都市圏13万6096人福知山市・綾部市・京都府京丹波町和知町・兵庫県丹波市市島町

 

10万人以上の都市雇用圏(2000年国勢調査時点の10%都市圏。アメリカでは都市圏について公式に定められているが、日本においては公式の定めはない)

「10%通勤圏」。金本良嗣、徳岡一幸両氏が「応用地域学研究」(2002) で、DID(Densely Inhabited District:人口集中地区)人口を利用して中心地域を決め、その地域の雇用求心力を基準に設定された都市圏。
日本の都市圏設定基準 10%都市圏…通勤・通学者数の割合が10%以上

島根県中海・宍道湖経済圏約68万人出雲都市圏・松江都市圏・米子都市圏
出雲都市圏17万3715人
松江都市圏22万5937人
鳥取県米子都市圏25万2387人
倉吉都市圏11万6650人
鳥取都市圏24万9067人鳥取市・兵庫県新温泉町
福井県福井都市圏56万0601人
武生都市圏11万4823人
敦賀都市圏8万8928人
小浜都市圏4万4395人
石川県金沢都市圏73万2467人
小松都市圏13万8908人
富山県富山都市圏54万1761人
高岡都市圏37万4530人
魚津都市圏13万4411人
新潟県燕都市圏121,606人
新潟都市圏94万7310人
米子都市圏は松江都市圏、出雲都市圏と隣接しており、3つの都市圏は相互に重なり合った構造を示しており、全体としてつながりを持った大きな中海・宍道湖経済圏を形成しています。 福井県南部の嶺南(若狭湾沿岸)地方を1つの都市圏とすると、小浜都市圏4万4395人、敦賀都市圏8万8928人を合わせて、133323人です。但馬・丹後・丹波ならびに関西に依存度が高い福井県嶺南(若狭)地方は、歴史的経過から、本来一つの県として考えるべきであるともいえますが、明治初期の数回に及ぶ廃藩置県の歴史的経過から、3府県に分散されました。

2.豊岡市の概要

平成17年4月1日、豊岡市、城崎郡日高町、城崎町、竹野町、出石郡出石町、但東町の1市5町が対等合併し誕生しました。新しい市章はとよおかの「と」とコウノトリがはばたく姿をイメージして一般公募によるものです。

豊岡市の隣接する自治体は、兵庫県では養父市、朝来市、香美町、京都府では京丹後市、福知山市、与謝郡与謝野町。豊岡市は、日本で最後の野生コウノトリの生息地として知られ、コウノトリの保護・繁殖・共生の事業が行われています。また、城崎温泉、但馬海岸、城下町出石、神鍋高原等観光資源も日本海から高原まで豊富です。日本海に面しているところでは海水浴場や海の幸、山ではスキー場、また城崎温泉があるなどレジャー施設が非常に多く、但東町は日本標準時間である子午線(統計35度)が通過し、豊岡市は、日本一のかばん(バッグ)の生産地として広く知られています。

合併後の豊岡市は、兵庫県内で最大面積を占めます。ちなみに兵庫県で豊岡市に次いで面積が広い神戸市は、豊岡市合併までは県内最大の面積:552.23平方キロ(※境界未定部分あり)、総人口:1,533,172人、人口密度:2,780人/平方キロ(推計人口、2008年9月1日)でした。東京23区の総面積:621平方キロ、人口:8,727,326人、人口密度:14,043人/平方キロに対し、豊岡市は、面積:697.66平方キロ、総人口:86,873人、人口密度:125人/平方キロ(推計人口、2008年9月1日)です。

豊岡市の生活圏

とくに兵庫県は、政令指定都市神戸市を県庁所在地として、5つの旧国から構成されています。それが多彩なカラーを持ったユニークな県として成立しています。しかし、但馬地域から県庁の神戸市までよりも、大阪・京都へのアクセスが便利で、鳥取・福知山・姫路の方がさらに近い土地柄です。日高町の場合、かつて昭和大合併で旧気多郡内の6つの町村(日高町・国府村・八代村・三方村・清滝村・西気村)が昭和に合併し新日高町になりました。ほぼ一つの郡域が一つの町になったことから、但馬の市町の中でも面積は最も広いですが、大部分を山林が占めています。それぞれ旧町村は、それぞれの地区単位の公民館、小学校校区として残っています。

豊岡市は旧豊岡市(町)しての機能もあるのと同時に、かつての郡・広域自治体として共同自治を行っていく必要があり、それはかつての出石・城崎郡役所が置かれていた機能とどう違うのかが分かりづらいのではないでしょうか。かつて郡役所が廃止されたのかは、二重行政の簡素化にあったといえるでしょう。新豊岡市は、こうした複雑な二面性を兼ね備えた自治を問われることになるのではないでしょうか。それは、規模は異なりますが、東京都における特別区、大阪府における大阪市など全国の自治体も同様ではないでしょうか。

このように広域なため、旧市町間の疎通はあまりなく、緊急体制に時間を要するようになるのは必至で、政府が進める機能集約化と地域住民の利便性は矛盾するものであって、少子高齢化が進む中において役場機能の集約化による旧町の衰退、医療、買い物等の不便さは増しており、今後合併後の広域行政のあり方には多くの問題点を含んでいると思えます。

政府(総務省)の特例法による平成の合併を考えるとき、国→地方自治体という流れで効率を追い求めては行けないと思います。車で移動する手段がない時代までは、小さな村社会がコミュニティを形成して、それは閉塞的な面はあるが、しかし、少子高齢化が進む中で、歩いて生活できていた各区の、隣保のコミュニティの機能が、相好援助の細やかな自治機能が守られていたのではないでしょうか。日常の疎通が希薄になっている昨今、果たして合併という効率化の方向がまったく正しいひとつの手段だとは思えないのです。

各地域がそれぞれ培ってきた伝統・文化は、長い歴史の中で改めて自然に、必要、必然的に生まれてきた、最も合理的でベストな経過でもあるのではないでしょうか。その最も小さなコミュニティ社会である村を基本に大切に守り育てこそ、町が成り立ち、県、州、それぞれの役割をしっかりと機能を果たせるものにしながら、国が形成されるのではないでしょうか。

歩いて生活できる範囲、目の届くエリアこそがムラが生成された生活の根本です。それは省エネ、コミュニケーションでもあり、合理的な智慧であったのではないのでしょうか。国が出来て村が生まれたのではないからです。まず人が集まりはじめ、村が発生し、小国家が生まれ、国が生まれたのです。小さなコミュニティでできることは小さな単位で、できないことは大きな単位で。それが機能的、合理的な役割分担社会の地方自治の基本であるといえるであろう。

合併は、地理歴史や交通体系、住民の生活圏が異なる複数の地域を併せ持っている市町村で実施されることが一般的です。第二次世界大戦中に国策で合併した町村が戦後に再分離されたり、昭和の大合併で合併した町村が、新市町村内の対立で分離されるといった例がありました。農協の合併、市町村合併、郵政事業、医療制度など、必ずしもデメリットばかりではないと思いますが、果たして合併は本当に正しい方向に向かっていくのでしょうか。

欧米では市町合併はそんなに進んでいません。イタリアでも行政の合併が図られていますが、町の数は中世からあまり変わっていないようです。大きく異なる点は、議会や行政を専業ではないボランティアで行ったり、地域に合ったさまざまな行政体が存在するようです

出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司
放送大学准教授 山岡 龍一
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たじまる 地方自治-7

さて、いま「三位一体改革」による地方分権を進めようとしていますが、地方への財源と権限の保障が曖昧であるため、地方公共団体からは「『地方主権』『自治型社会の実現』からは程遠い」と指摘する声も少なくありません。

1.道州制

道州制を考える際には、「現行の都府県より広域の地方公共団体をどう設置するか」が論議される事になります。道州制の論議は今に始まったことではなく、明治維新までにおける、現行の都府県より広い地域を統治した広域行政体やその範囲の変遷は、大雑把に以下のようになっています。

  • ヤマト王権による統一以前には、各地の国造を初めとして、地方豪族の分立状態であり、必ずしもこれらの広域な国全体が一体的統治をされていたわけではない。
  • ヤマト王権によって統一国家が形成された時代(律令制の時代)
  • 戦国大名による一円知行
  • 江戸時代の幕藩体制
  • 明治の廃藩置県明治政府は、地方の反乱が相次いだために、県より広い行政体の設置には消極的であった。しかし、人口希薄などを理由として、北海道にあった3県を廃止して、北海道庁 (1886-1947)を設置した。以降は台湾総督府、樺太庁、朝鮮総督府、南洋庁と順に設置された事で、府県の狭小さが経済統制の障碍と考えられ、内地を統轄する内務省下に、郡制廃止とともに複数の府県を包括する広域行政体の設置が議論され、田中義一内閣の行政制度審議会が、1927年に、全国を6箇の州に分けて、官選の長を置く「州庁設置案」を内閣に提案した。ここでの州名は、州庁所在都市名を取った物になっている。仙台州、東京州、名古屋州、大阪州、広島州、福岡州
  • 1940年にこの提案の実際の措置として、府県行政を調整し、広域行政体を統合しようとした。「国の出先機関」の様相を強く持っていた。また、戦時下(特に地方総監府時代)には、本土決戦に備えた行政の効率化という側面も有していた。
    また、戦時統制経済のもとでは、各地の鉄道・電力・ガスといったインフラを中心に企業が、政府主導で統廃合された。
  • 太平洋戦争後の改革において、物資不足から引き続き経済統制の必要性と地方自治法により国の知事への統制が制限された。都道府県のブロック化が強まる懸念と区域の狭小さの点から、1948年の行政調査部により、地方行政庁案・道制案・州制案の3案が提案された。
  • 1955年には、関西経済連合会が、府県の廃止と、国の総合出先機関としての道州制を提案した。また、1957年の第4次地方制度調査会は「地方制」案を答申した。この地方制は7地方・8地方・9地方案であった。
  • 高度経済成長期(1960-70年代)には、地方から都会への出稼ぎや集団就職で人口が工業地帯へ移ったことによって、過疎・過密の問題が生まれた。この時期から貨物量の急激な増加や通勤・通学の長距離化や季節要因での大規模移動が発生し、地方毎の広域の社会資本整備の必要性から道州制論議は存在していた。大都市圏とそこに含まれない地方の道県との間では、所得や生活基盤に格差が生まれており、地方交付税などで是正できる程の税収を持ち合わせていなかったため、予算規模の拡大を目指し、いくつかの県が合併する道州制が考えられた。
  • 1989年から1992年にかけて臨時行政改革審議会が置かれ、都道府県の広域連合とともに道州制の検討を答申した。
  • 1994年には地方自治法改正により県の広域連合が制度化された。国会においても地方分権の決議が採択され、道州制の論議が高まることとなった。
  • さらに2004年の地方自治法の改正により、都道府県の合併が申請によって可能となった。
  • 第28次地方制度調査会は、2006年に「道州制のあり方に関する答申」をおこない、都道府県の廃止と新設となる道州による道州制導入を打ち出した。道州には9道州・11道州・13道州の3例。
  • 2006年に道州制特区推進法を公布した。
  • 2007年9月21日、政府の道州制ビジョン懇談会において江口克彦座長(PHP総合研究所社長)は、東京23区と大阪府を特別州とし、東北・北信越など全国を12道州に分ける私案を公表した。 日本は古くは律令制からすでに中央集権化が進んでおり、連邦制もしくは連邦国家を形成するにはふさわしいとは思えません。イタリアの5つの特別自治州のように、明治から北海道、沖縄に関しては暫定的に特別自治州的な優遇政策処置をとってきた。道州制論議(道と州を置く地方行政制度。北海道以外の地域に複数の州を設置し、それらの道州に現在の都道府県より高い行政権を与える構想を指す。)も、首都の政財界(諸井虔など)が区割りを勝手に決めている状況であり、財源と権限に関する論議が行われていません。もともと、君主国や都市国家、あるいは主権国家が統合して国家を形成した連邦国家とは異なり、中央から自治を区分する形態は分権であり主権ではありません。「地方分権」という場合、平成期の日本のように、中央政府が指揮命令権を持ったまま、地方を「出張所」として仕事を投げ売りするケースも起こり得るといわれています。このように、地方統治の合理化としての「地方分権」は、「中央分権」と揶揄されることもあります。明治維新で廃藩置県が行われ、再三の統廃合が中央から実施されました。「地方分権」や「地方主権」といっても、同州制もただ県の範囲を拡大した併合であっては、基礎自治体(市や村)が主体なのか、県が主体なのか、道州が主体なのか、というように、どの規模の地方自治体が主体性を持つかによって、意味合いも異なるのです。一方で、国は「小さな政府」と称しつつ、地方への統制の強化と合理化を進めている。これは、市町村を大量に削減し、次いで広域自治体である県を大量に削減しようという発想としての道州制で、中央集権の強化という色が濃い。政府の道州制論議や、その前段階の三位一体の改革では、国の行政機関・機能・財源を都道府県に委譲するのを拒み、都道府県や市町村の「住民自治」の部分のみを「小さな政府」として、国は依然として統制権の強い「大きな政府」に留まろうとする意見が散見されるために、全国知事会では反発がある。それに対して大阪府のように他の政令指定都市では、府県と市との二重行政の弊害が指摘されている。国に政治機能を残して都府県の上に新たに州を設置すれば、「地方分権」は、「中央分権」をさらに複雑化するデメリットを指摘される。戦前から道州制議論はすでに続いてきており、一極集中と地方衰退、人・財・時間などの無駄をまねいている弊害は、誰もが認めるところです。とくにEUヨーロッパ諸国の国家主権や地方分権がどのようなウエイトかはくわしくはわからないものの、現代では国際関係行政区分の階層は無駄を省き、単純化することが最善である。

    2.北近畿地方の地方自治

    まるごと北近畿北近畿広域観光連盟の画像をお借りしています。 律令制の「山陰道」として丹波・丹後・但馬という地域をもう一度考察してみたいと思います。古くから日本海側に出雲から北陸にかけて朝鮮半島との交流文化圏を形成してきました。また、都に近い(近国)ために大陸との経由地点として交流がさかんでした。 したがって、古代には若狭・丹後・但馬・因幡、さらに出雲・越国も含めた広域な出雲文化圏を形成していました。歴史風土的に似た面が多く、また、若狭・丹後・但馬は、五畿(山城・大和・河内・和泉・ 摂津)との影響も受けやすい近国と位置づけられ、独自色が薄く強固な基盤を持ちにくいといえます。

    廃藩置県後、若狭は当初滋賀県に、のち福井県に、丹後・丹波・但馬は豊岡県に、のちに丹後・丹波(北東部)は京都府に、但馬・丹波(南西部)は兵庫県にとそれぞれ分かれており、交通面で山陰本線でも横との直通運行はなくなり、連携は少なくなっています。

    福井県の場合

    仮に道州制が施行された場合、福井県の所属について地方制度調査会(所在地:東京都区部)による区割り案は、9道州の場合は関西州に、11道州及び13道州の場合は北陸州、また、「熱論・合州国家日本」に掲載されている区割り案では、大前研一案が北陸道、平松守彦案が関東信越州、江口克彦案が信越北陸州とされている。 明治初期には約4年半の間、嶺北は石川県、嶺南は滋賀県だった。

    2006年3月1日、河瀬一治・敦賀市長は、新年度当初予算案発表会見の中で道州制について触れ、以下のように発言した。

    • 「嶺南の総意は近畿(関西)に入る事。嶺北が北陸に入るならば縁を切る事もある。」
    • 「文化圏や今秋(2006年秋)のJR直流化など、嶺南は近畿に近い。嶺南だけを見れば当然、近畿。県も経済的な繋がりが深い近畿に向いているだろう。嶺北が北陸に入るとなれば、縁を切って、お別れという事になる。」次いで、同年3月6日には、村上利夫・小浜市長も、市議会の所信表明で道州制について触れ、以下のように発言した。
    • 「福井県が関西と圏域を一にする事を強く主張する。少なくとも小浜市や嶺南が北陸に属する事はあってはならない。」
    • 「道州制は、東京一極集中を是正する動機になるやもしれぬと期待している。国と県で論議されるべき問題だが、地域割りについては市町村として決して看過できる問題ではない。自治体としての意思表示を明確にすべき時だ。」鳥取県の場合財界では、中国地方5県で一組の州とする「中国州」を提唱している。鳥取県においては鳥取市の経済界を中心に「関西州」への編入を求める声も上がってきている。一方で県西部の米子市などでは道州制導入に際し、島根県松江市などと合併して「中海市」を設ける考えが以前から存在しており、東・中部と西部の間で意見のずれが生じている。また、平井伸治鳥取県知事は近畿ブロック知事会への参加を表明、2008年6月6日、正式に加入が認められたことから県内の道州制論議に何らかの進展をもたらす可能性がある。

      近畿地方

      近畿ブロック知事会では、道州制を拒否している井戸敏三・兵庫県知事以外にも、西川一誠・福井県知事が道州制に反対する意見を出しており、山田啓二・京都府知事も道州制に対して慎重な意見を出している。

      2004年6月30日には、京阪神の経済団体から、近畿2府6県(福井県・滋賀県・京都府・三重県・奈良県・和歌山県・大阪府・兵庫県)に、四国の徳島県を加えた広域行政体の設置を求める提言が出されており、州庁の組織や行政運営に留まらず、州の様々な設置方法も提案されている。

      2007年9月21日、政府の道州制ビジョン懇談会において江口克彦座長(PHP研究所社長)は、東京23区と大阪府を特別州とし、東北・北信越など全国を12道州に分ける私案を公表した。

      また、中国地方では、財界では、中国地方5県で一組の州とする「中国州」を提唱している。鳥取県においては鳥取市の経済界を中心に「関西州」への編入を求める声も上がってきている。一方で県西部の米子市などでは道州制導入に際し、島根県松江市などと合併して「中海市」を設ける考えが以前から存在しており、東・中部と西部の間で意見のずれが生じている。また、平井伸治鳥取県知事は近畿ブロック知事会への参加を表明、2008年6月6日、正式に加入が認められたことから県内の道州制論議に何らかの進展をもたらす可能性がある。

    3.近畿地方の地方自治

    近畿ブロック知事会では、道州制を拒否している井戸敏三・兵庫県知事以外にも、西川一誠・福井県知事が道州制に反対する意見を出しており、山田啓二・京都府知事も道州制に対して慎重な意見を出している。 2004年6月30日には、京阪神の経済団体から、近畿2府6県(福井県・滋賀県・京都府・三重県・奈良県・和歌山県・大阪府・兵庫県)に、四国の徳島県を加えた広域行政体の設置を求める提言が出されており、州庁の組織や行政運営に留まらず、州の様々な設置方法も提案されている。

    2007年9月21日、政府の道州制ビジョン懇談会において江口克彦座長(PHP研究所社長)は、東京23区と大阪府を特別州とし、東北・北信越など全国を12道州に分ける私案を公表した。

    また、中国地方では、財界では、中国地方5県で一組の州とする「中国州」を提唱している。鳥取県においては鳥取市の経済界を中心に「関西州」への編入を求める声も上がってきている。一方で県西部の米子市などでは道州制導入に際し、島根県松江市などと合併して「中海市」を設ける考えが以前から存在しており、東・中部と西部の間で意見のずれが生じている。また、平井伸治鳥取県知事は近畿ブロック知事会への参加を表明、2008年6月6日、正式に加入が認められたことから県内の道州制論議に何らかの進展をもたらす可能性がある。

    出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司
    放送大学准教授 山岡 龍一
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たじまる 地方自治-6

目 次

  1. 平成の大合併
  2. 平成の大合併の目的
  3. 合併のメリット・デメリット
  4. 地方分権一括法
  5. 三位一体改革

1.新憲法における地方自治

明治憲法は、地方自治に関する規定は存在せず、あくまで国の行政の一環として地方行政があるという位置づけでした。しかし、市町村には一定の自治が認められており、大正デモクラシー期には地方自治の拡充という動きもありましたが、それら市町村は、国の地方機関としての都道府県下に置かれるものであって、本来的な意味での地方自治が達成されていたとは言い難いものでした。

これに対して1946(昭和21)年に公布された新しい憲法は、第八章に地方自治の章を設け、国家体制のなかで明示しています。憲法のなかでは「地方自治の本旨」がうたわれ、さらに1947年には「地方自治法」が施行され、府県知事は官選から公選に、また府県の役割自体も広域自治体としての性格を持つようになりました。

その一方で、自治に「不慣れ」な市町村に対する中央省庁の不信感も根強く、いかにして地方をコントロールするかが大きな問題となっていました。こうしたなか、各省は国の事務権限を都道府県から引き上げる方針が明らかにされたことをきっかけに、その妥協の産物として都道府県知事や市町村長などを国の機関と見なして国の事務を行わせる、「機関委任事務」を多用するようになりました。これ以降、1990年代に地方分権改革論議が高まり、機関委任事務が廃止されるまで、機関委任事務は、国の地方に対する重要なコントロールの手段として用いられることとなりました。

1.シャウプ勧告

1949年に提出された「シャウプ勧告」は、地方公共団体の財政的基盤を強化することをめざして以下の三つの原則を示しました。その内容は、国庫補助負担金の大幅整理、税源分離原則、のちの地方交付税の原型というべき「平衡交付金制度」などからなるものでした。

  1. 責任明確化の原則
      国、都道府県、市町村の三段階の行政機関事務は明確に区別し、一段階の行政機関には一つの特定の事務が割り当てられ、さらにそれぞれの行政機関はその事務の遂行と一般財源によってこれをまかなうことについて、全責任を負うべきである。
  2. 能率の原則
      それぞれの事務は、各段階の行政機関がこれを能率的に遂行するために、規模、能力、財源によって準備の整っているレベルの政府(機関)に配分されるべき。
  3. 市町村優先の原則
      地方自治のためには、事務の再配分は市町村に第一の優先権が与えられ、第二に都道府県に、そして国は、地方レベルでは有効に処理できないような事務だけを引き受けるべきである。

実際には、シャウプ勧告は、日本の実情に合わないとする中央省庁の強い反発にあい、その内容が反映されるのはごく一部にとどまりました。また市町村優先主義の明示は、戦前に地方行政の機関として機能してきた都道府県の反発をも招きました。

やがて1952(昭和27)年、講和条約により日本の再独立が認められると、こうしたシャウプ勧告に示された方向性は転換されました。そして1956(昭和31)年に改正された「地方自治法」では、都道府県と市町村の指揮監督の関係が明確にされ、終戦直後に目指された市町村を中心とする地方自治を構築しようとする試みは、いったん閉ざされることとなりました。こうした動きが再燃するのは、1990年代の地方分権議論に際してでした。

「政治学・行政学の基礎知識」 著者: 堀江湛・真下英二

1.地方公共団体の財政

膨大な借入金残高を抱えるなど、現在、日本の地方財政はさまざまな問題を抱えていることが指摘されています。そもそも戦後日本の地方財政は、自治体の税収が歳入全体の三割程度にしかならないことから生まれた「三割自治」と言う言葉に象徴されるように、憲法に保証された自治を可能にするための基盤が極めて弱い。シャウプ勧告は市町村財政の基盤強化を唱えましたが、中央省庁や都道府県の反発により頓挫した経緯もあり、地方公共団体の中央への財政的依存度は非常に高いものです。

国や地方公共団体の活動のための歳入の基本となるのが「国税」及び「地方税」です。2001年度の国民が負担する租税のうち約六割にあたる約50兆円は、国の財源となる国税です。これに対し同年度の歳出は、国と地方の歳出純計額約160兆円のうち、地方は約96兆円と、国の約1・5倍になります。つまり、地方は収入が少なく支出が多い状態にあるわけです。地方公共団体が活動するためには、国から相当の財源移転を行わなければならないわけです。

地方公共団体の主な財源は、地方公共団体の税収である「地方税」と、国税として徴収され、一部または全部が一定の基準で地方公共団体に譲与される「地方譲与税」「地方特例交付金」「地方交付税」「国庫支出金」、さらに借金にあたる「地方債」です。

このうち「地方特例交付金」や「地方交付税」は国からの財政移転ですから、地方独自の収入となるのは「地方税」と、実質的に地方税とほぼ同じ性格を持つ「地方譲与税」です。そして地方公共団体の歳入のうち、これら財源が占める割合は、平均で三~四割程度に留まっています。つまり、必要とされる財源のうち六割は、国からの支出や借金に頼らざるを得ないということになります。

「国庫支出金」は、いわゆる補助金で、公共事業や義務教育など、地方公共団体が行う特定の事務や事業に関わる経費について、国がその使途を指定して支給するもので、地方公共団体としては、獲得するために特定の事業を行ったりするために地方行政が硬直化する可能性があります。また、地方行政体制の縦割り化を促進することにもつながります。

「地方交付税」は、富裕団体とそれ以外の団体との格差をなくそうとするもので、使途も限定されていませんが、財源の乏しい地方公共団体ほど多額の交付税を公布されることにつながり、地方が自助努力によって収入を増やそうとする意欲を失わせてしまうとの批判もあります。

これら国からの支出に、歳入の六割を依存している現状では、地方公共団体の活動に一定の裁量権が与えられたとしても、これを自主的に実施できる可能性は大幅に低下します。その結果、地方公共団体の活動は、財政を通じて国のコントロールを受けることにつながっていると考えられています。

1.平成の大合併

明治の大合併や戦後の昭和の大合併は、それぞれ小学校、中学校の運営に必要な規模という、国において明確な行政規模の設計の上での合併推進だったのが特徴的です。これらに対して、高度成長期の合併と平成の大合併については、そのような目標設定がないまま、財政規模の増大、財政破綻の回避に、住民の競争心や危機感をあおる形で行われ、「理念なき市町村合併」という批判があります。

次ぎのような大きな流れを経ています。

  • 1999年(平成11年)4月頃から2006年(平成18年)4月頃にかけて起こった合併ブーム。
  • 1965年(昭和40年)に十年の時限立法として制定された合併特例法は、1975年(昭和50年)以降も十年毎に延長を繰り返して来たが、1970年代後半からは合併の動きが低調になりました。そのような中、1980年代末頃から、商工会議所などの経済団体や青年会議所を中心として、市町村合併を推進する提言が各地で行われ、これを報道機関が、明治の大合併、昭和の大合併に続く「第三次合併ブーム」と報じた。
  • これを受けた形で、1995年(平成7年)に改定された合併特例法では、住民の直接請求により法定合併協議会の設置を発議できる制度や、合併特例債制度の設置などが盛り込まれた他に、政令指定都市への移行や、町村の市への移行のための人口要件の緩和なども、数度の改定で盛り込まれ、合併論議が加速されることになりました。
  • 影響が大きかったのは、政府(旧自治省、現総務省)による合併特例債を中心とした行財政面での支援及び三位一体改革の元に行われた地方交付税の削減である。 合併特例債は、法定合併協議会で策定する「合併市町村建設計画」に定めた事業や基金の積立に要する経費について、合併年度後10年度に限り、その財源として借り入れることができる地方債のことで、対象事業費の95%に充当でき、元利償還金の70%を後年度に普通交付税によって措置されるという、破格の有利な条件だった。合併特例債等の特例が2005年(平成17年)3月31日までに合併手続きを完了した場合に限ると定められたことから、駆け込み合併が相次いだ。また、合併直前に施設整備や職員採用を行う市町村や、合併特例債による町おこしとして注目を浴びた兵庫県篠山市がその後急激に財政状況を悪化させるなどの事例が発生し、新聞紙上には「合併バブル」という言葉も現れました。合併特例債がアメと言われたのに対して、ムチと言われたのが、地方交付税の削減です。従来、地方交付税は小規模町村には優遇政策が取られていましたが、三位一体改革の名の下、大幅な削減がなされるようになり、地方交付税への依存度が高い小規模町村を直撃しました。

    ただし小規模町村であっても、原発等の電力事業等の交付金等により、地方交付税への依存度が低い町村の合併は進みませんでした。平成の大合併での市区町村数の変化は、東京都が63から61に、神奈川県が37から33市にしか減らず、都市部における合併が進まなかったのに対して、新潟県が112から31、富山県が35から15になる等、地方と呼ばれる地域の合併促進の要因となりました。

    市町村合併の動きは2003年(平成15年)から2005年(平成17年)にかけてピークを迎え、平成の大合併の第一弾が終了し、1999年(平成11年)3月末に3,232あった市町村の数は、2006年(平成18年)4月には1,820にまで減少しました。

    その後、2005年(平成17年)4月に施行された合併新法(市町村の合併の特例等に関する法律)に基づき、引き続き市町村の合併が進められている。合併新法においては、合併特例債などの財政支援措置がなくなったため、合併の動きは鈍いが、県に合併推進勧告の勧告権があることから、合併新法の期限である2010年(平成22年)3月末に向けて、合併の動きが進むことが予想されます。

日本の市町村数推移
1888年(明治21年)末71,314
1889年(明治22年)末15,820
1953年(昭和28年)10月9,868
1961年(昭和36年)3,472
2006年(平成18年)4月1,820
2008年(平成20年)4月1,788

 

2.平成の市町合併の目的

政府などが掲げる目的は、概ね以下の通りです。

  1. 地方分権に対応して、基礎自治体の財政力を強化できる。
  2. 車社会の進展に伴う、生活圏の広域化に対応できる。
  3. 政令指定都市や中核市・特例市になれば、権限が移譲される。 しかし、政府主導による平成の市町村合併ブームには、以下のような批判も少なくありません。
  1. 住民発議で合併に誘導する制度はあっても、合併の是非を問う住民投票が法制化されていない。このため、一応は議会の議決はあるものの、住民に歓迎されない合併も行われている(例:大崎市)。
  2. 合併に関する特例法は存在するが、分割や分立に関する特例法が存在しない。
  3. 合併後にも、旧市町村の議員が、そのまま新市町村の議員として任期を延長できる「在任期間の特例」に関する問題がある。財政難を理由にして合併をしても、合併後には議員の任期と給与を上げる事例が目立つ。
  4. 合併後の市町村の名称が、歴史的な地名を軽視した「方角とひらがな」ばかりになっている。(→#合併後の名称問題)
  5. 「規模を適正にする」という観点を軽視した合併が行われている。このため、県の面積に匹敵する巨大な市が、次々と作られている。
  6. 財政問題の解決を口実にした合併が目立つため、原発が立地することで国からの支援が降りる小規模自治体、空港などの固定資産税、あるいは大企業・大工場・莫大な収入を持つ個人からの地方税によって裕福な小規模自治体などは、合併による周囲の財政難自治体の債務の肩代わりを嫌って、合併しない例が多かった。そのため、将来の財政難を理由に合併した市町村が、「貧民連合」と侮蔑的に呼ばれた。
  7. 各市町村の思惑が絡み合い、いびつな飛地が多数発生した(例:津軽半島周辺)。
  8. 初めに合併ありきで合併したため、生活圏が異なる自治体同士が合併したケースがある(例:大崎市、相模原市など)。
  9. 財政の健全化が目的なのに、合併特例債(前述)によるバラマキにより却って財政悪化に繋がりかねない。

これらの問題点が挙げられていることから、福島県東白川郡矢祭町や群馬県多野郡上野村などのように、合併を拒絶して、自立・自律や独自性を謳う市町村も現れている。これらの中には、山間部などに位置していて、合併によって一層の過疎化が懸念されている所も少なくない。

反面、住民が合併を望んでいるにも拘らず、「自立」を謳って合併を拒絶したり、合併協議の破談や首長と議会の対立の末に「自立」を謳う市町村もまま見受けられる。

もちろん、住民が分割や分立を望んでいるにも拘らず、議会や首長が拒絶をする市町村もある。

3.市町村合併のメリット・デメリット

以下にメリット・デメリットを記載するが、規模等により大きく異なることがあるので、あくまでも一般的なものである。

メリット

住民生活の利便向上

* 住民の生活行動圏に見合った行政サービスの広域化
通勤・通学、通院、買い物等の行動圏域は従来の行政区画を越えている場合が多いが、行政区域が広域化することによって、住民票の写しの交付等の窓口サービスが勤務地や外出先などの近くで利用できるようになる。また、文化会館、図書館、スポーツ施設等の各種公共施設については、それまで利用に制限がある、利用料金に差がある等した隣町の施設についても、同条件で利用が可能となる。
* 住民サービスの高度化
住民の価値観の多様化により市町村行政に求められる機能も高度化・複雑化しているが、専門的知識を備えた職員を確保することにより、専門的かつ高度な行政サービスを提供できるようになる。
地域づくりの進展
* 地域のイメージアップ
「市」への施行、あるいは新しい市町村名とすることにより、地域としての全国的なイメージアップが図られ、地域経済の活性化や若年層の定着、観光交流客の誘致、大型プロジェクトの誘致等へのプラス効果も期待できる。しかし、「市」の数が増えてしまうとせっかく「市」になっても知名度が上がらず意味がないことが多い。むしろ今まで知名度のある市町村名を消すことで知名度が下がることもある。
* 地域づくりの契機
合併の議論を通じて、自らのまちを見直す機会となる。合併後も、まちづくりビジョン実現のため、住民、諸団体の地域づくりへの主体的参画が期待される。
* 行財政の効率化
個々の自治体が行ってきた管理業務を一つに集約することにより、職員数や経費を削減する一方、新たな行政ニーズの発生している部門に充てることができる。職員数も人口当たり少なくなすることができるため、行政サービスの向上を図りつつ、人件費や経費を抑制することができる。ただし、合併で消滅する自治体においても市町村職員の地位は法律で保証されているため、人員抑制・削減効果が期待できるのは合併後数年以上経過してからとなる。また、支所の配置方式によってもその効率化効果はかなり異なってくる。
* 施設の効果的配置
住民の生活行動圏に即した広域的な視点から公共施設を計画的かつ効率的に配置することとなり、隣接した地域での類似施設の重複を避けることができる。ただし、合併前の駆け込みで事業実施する等の弊害も生みがちである。
権限の拡大、行政能力の向上
* 行政の高度化・専門化
長期的には、行政規模拡大により生み出された財源や人員の余裕を、現代においてニーズの高い都市計画、環境政策、情報化、法務等、高度に専門性を要する分野へと振り向けることにより、多様で専門的な人材を長期的に確保し、行政サービスの高度化・専門化を図ることができる。
また、計画的かつ体系的な職員研修プログラムなどを通じて、行政職員の政策形成能力の向上が図られる。
* 広域的な地域づくり
広域的な視点に立った交通基盤や各種公共施設の整備、総合的な土地利用の推進などにより、一体的な地域づくりを効果的に実施することができるようになる。さらに、環境問題や観光交流振興など従来の市町村域の枠を越えた広域的な取組みが求められる領域においても、一体的な対応が可能となる。
さらに、政令指定都市、中核市、特例市や市制への移行等により、自治体としての権限が拡大する効果も期待できる。
* 大型事業の実現
行財政の効率化によって生み出される財源を、選択と集中により、新たな地域づくりや産業振興のために重点的に投資することが可能となる。財政規模の拡大によって、重点的な投資が可能となり、今までの個別自治体の規模では困難だった大型事業を計画的に実施することができる。

デメリット

* 端々の地域が寂れる庁舎の存在する地域は市町村の目も届き、各種事業が実施される。しかし、周辺部においては強く事業実施を要望しても、取り残されることはほぼ確実であり、中心部と周辺部の格差が拡大しがちである。また、それまで行なってきた地域づくり活動が継承されず、その成果が省みられなくなってしまう。例えば、2005年に合併した北海道の(新)石狩市では、南北に細長い地形と住宅密集地が南部の地区に集中していることも相まって、北部の旧厚田村(今の同市厚田区)や旧浜益村(今の同市浜益区)で顕著である。

ひいては、従来の歴史、文化、各種伝統行事といった地域の特徴が失われる恐れがある。地区出身の町村職員が自発的に地域文化を支えてきた面も一部にはあり、これら職員が本庁に吸い上げられることによって、担い手が確保できず消滅することになりかねない。

* 市町村行政と地域住民との距離の拡大行政組織が大きくなって、また議員の数も減少し、地域の住民の意見が市町村行政に届きにくくなる。また、行政の広報委員としての役目の他に、地域と市町村行政との実質的なパイプ役となってきた区長等の地区役員制度も都市部の様式に統一されることによって、機能が削がれる恐れがある。合併により誕生した岐阜県の新・高山市や同県の飛騨市が顕著な例である。

* 行政サービスの低下役所や公共施設への距離が遠くなり、不便になる。効率化によって、行政サービスが高度化するとはいえ、それらは長期的に効果発現するものであり、また直感的には感じられにくいものである。また、分庁舎方式で各旧自治体役場に各部署を分散させる方式を採った場合、申請や手続きの度にその部署を有する遠く離れた分庁に足を運ばなくてはならない。

* 住民・事業所負担の増大町村から市に移行する場合、今まで安かった公共料金が合併で大幅に値上がりしたりなど税等の住民や事業所の負担が増大することがある。例えば、函館市と合併した南茅部町、椴法華村、恵山町、戸井町では水道料金が大幅に値上がりし、ゴミと託児所が有料化された。

* 意見が通らなくなる比較的大きな市と小さな町村が合併した場合、両者の産業の種類に大きな差があると、小さな町村の産業は無視される。また、市長選挙でも大きな市ひとつの人口が他の町村の人口を上回ることがよくある。市議会選挙においても同様で、当選には旧町村議会とは比べものにならない票数を必要とするため、旧町村内で候補者を調整しても、数名の議員しか当選させられず、議会の主導権は完全に旧市側に握られる例が多い。また、選挙日の事務効率化で合併により開票所までの距離が遠いことで繰上げ投票時間を設定する必要が出てくる。

例えば、石狩市は石狩市と厚田村と浜益村が合併して誕生したが、旧石狩市は札幌のベッドタウンと商業港の町だったのに対し、厚田・浜益両村は漁業を中心とした村である。石狩市の人口は両村合わせた数の10倍以上であり、両村の意見はほとんど通らなくなる。

4.地方分権一括法

日本の中央地方関係について、その特徴を「集権的分散システム」と表現することがあります。実際、地方財政は国庫に、つまり中央政府による地方への財政移転に大きく依存しています。これは中央政府よりも地方政府の歳出額の方が圧倒的に大きいことを意味します。それに対して、歳入額は、税制上地方が受け取る金額は少なくなっています。

米国の場合、連邦政府が税財源を持ち、州や市、郡もそれぞれ税財源を持っており、必要な予算を賄う際には、一定の要件を満たせば、税率を変更することができます。これに対して、日本では多くの税財源について国、中央政府が一括して国民からの税金を集めるシステムになっており、国を介さずに地方へ直接納められる税金は限られています。

このように国に一旦税金を集め、それを配分していくシステムはある意味で集権的であるといえるでしょう。
そして、その税収をどう配分するのかは国の判断で決定され、その決定に基づいて地方交付税や国庫支出金という形で、均衡の原則に基づいて全国の自治体へと配分されています。

歳入の自治において、自治体は制約を受けており、各自治体は歳入の規模と内容を自ら決定することができません。つまり、自治体には「課税自主権」がないため、たとえば福祉を充実させるために、あるいは財政的な苦しさを理由に税率を上げたいと考えてもできないことになります。さらに、特別な税を自治体が独自に課そうとしても、中央政府の承諾なしには実施することはできません。

また、自治体からみると、歳入は「自主財源」「依存財源」の二つに分かれますが、そのうち地方税は自主財源、地方交付税は依存財源にあたります。これらは地方自治体の一般会計に入るので、何にいくら使うかは自治体が決めることになります。これに対して、「国庫支出金」とよばれる補助金があり、これは各省庁が自治体に対して国が指定する業務を行わせるために配分される予算です。この他にも、予算の不足を補うために地方債という債券を自治体は発行しています。このように地方自治体は国の支持を受けることが多くなっているわけです。

地方分権一括法制定前

1990年代半ばから、こうした状況を改善すべく地方分権改革が本格化し、1999年「地方分権一括法」という法律が制定され、翌年4月に施行されました。これは均衡の原則よりも自治の原則を、より重視した内容です。この際に設置された、有識者などからなる地方分権推進委員会は、中央省庁による「縦割り画一的行政システム」をなくして住民主導による行政システムに改めようという結論を出しました。

この法律が施行される前の時代の地方自治制度についてみてみますと、一言でいえば、自治体の仕事の大半が国の仕事を肩代わりすることで占められていました。当時の自治体の事務には、公共事務、団体委任事務、行政事務、機関委任事務がありました。

  • 「公共事務」…住民票を発行するなど自治体が本来行うべき事務
  • 「団体委任事務」…法令によって自治体に実施が義務づけられた事務
  • 「行政事務」…地方公共のための規制や取締りに関する事務 この三つの事務は自治体が当然に行うべき事務として位置づけられていました。そして、自治体のすべての事務の中で多くを占めていたのが、「機関委任事務」でした。それは、本来国が行うべき事務ではあるものの、国(各省庁)が3200市町村(当時)に出先機関を作って、国道や橋の管理を行うのは効率的ではないという考えから、地方自治体が国が決めたことをその通りに行う事務のことであり、所轄大臣が指揮監督して知事が執行し、さらに知事が指揮監督して市町村が執行するという図式になっていました。

    そして、この機関委任事務が都道府県の仕事の80%、市町村の仕事の40%を占めていました。つまり、選挙で都道府県知事や議員を選んでも、実際に彼らは住民を向いて仕事をしなくなります。霞ヶ関に対して責任を負い、国から言われた通りにやっているかどうかが問われるからです。そうすれば、国から国庫支出金をもらうことができ、財政的にその自治体は維持されることになります。これが地方自治の問題の一つといわれてきました。自治体に委ねられた仕事の大半が中央省庁に決定権があり、自治体としての仕事と国の下部機関として行う中央省庁の仕事(機関委任事務)が融合しており、これを「集権融合型システム」と呼んでいました。

    機関委任事務の廃止と法定受託事務、自治事務

    機関委任事務を廃止しようという機運が1990年代になって高まり、やがて地方分権一括法の制定、施行にいたり、機関委任事務の見直しが行われました。

    具体的には、機関委任事務の全704項目のうち、事務自体廃止となったのが11項目、国立公園の管理のように国の直接執行事務になったものが20項目、飲食店の営業許可や病院開設許可など、これまで国の事務だった398項目が「自治事務」として自治体、特に都道府県レベルの事務になりました。そして、これまで通り国が責任を負うもの、効率性、利便性を考慮して都道府県に処理を委ねられた事務が275項目あり、これを「法定受託事務」としました。これは以前の機関委任事務と似た性格を持つ項目といえます。公共事務、団体委任事務、行政事務も廃止され、自治事務に統合されました。

    法定受託事務は、機関委任事務と似ているものの異なる点は次の三つです。

  • 自治体が条例を作れるようになりました。
  • 国と地方の間で対立した場合、国地方係争処理委員会が設置され、形式的には国と地方が対等な立場で話し合えるようになりました。
  • 国が関与する最良並びに事務が減らされた。 しかし、裁量が広がったかわりに、自治体が国の言うとおりに処理しなければ補助金の支給等に影響が出てくるために、実際には地方が国の意向に反することはなかなか難しいよいう指摘もあります。▲ページTOPへ

5.三位一体改革

このように自治体の自助努力が促されない財政調整制度によって、より大規模な財政移転を迫られている国の財政が圧迫され続けています。そこで、国の負担を軽減するとともに自治の原則をより重視して自治体の財政基盤の強化を図るために、まず、自治体同士の合併が促されることになりました。つまり、財政規模が大きくなればより安定し、さらに首長や議会は一つに統合されるなど自治体経営も効率的になるという考えからです。

それまで100万人前後が目安となっていた「政令指定都市」は、70万人規模でも認められることになり、静岡市がその例として挙げられます。また、人口が30万人以上で面積が100平方キロ以上の自治体になると「中核市」ななることができるとし、旭川市、青森市、宇都宮市などが認められました。人口20万人以上の自治体は「特例市」に指定されることができるとし、盛岡市、福井市、鳥取市などが指定を受けました。

しかし、自治体への権限委譲の内容をめぐっては、地方分権推進委員会とそれに抵抗する霞ヶ関との折衝の末、政令指定都市や中核市、特例市になっても、さほど大きな権限が自治体に与えられませんでした。このように、地方分権一括法や大都市への権限委譲という過渡的処置では限界があったため、小泉内閣になって「三位一体改革」が行われることになりました。これは、国から地方への補助金削減、国から地方への税源移譲、地方交付税の見直しの三つを一度に行おうというものでした。具体的には税源については国税の取り分として入ってきていたものを地方税に切り替え、地方税を充実させて補助金を減らすことで自治体の歳入に占める地方税の割合を引き上げ、その分だけ地方交付税を引き下げることで交付団体を減らそうとしました。このように財源不足を解消して地方財政のプライマリーバランスをとる、つまり公債費を除いた歳入と歳出の収支を黒字にし、国から地方への財政移転を減らそうと考えました。

また、補助金等の削減によって小さな自治体において行政サービスが立ち行かなくなることを回避するため、行財政基盤の強化のために、2005年3月をめどに国は「市町村合併」を強力に推進しました。つまり、大きな自治体が大きな権限を持って効率的に自治体経営を行うことが望まれたわけで、実際3200市町村は1800にまで減りました。

しかし、補助金改革では、補助金の対象となっている事業項目も削減してその権限を自治体に委譲するはずでしたが、現在のところ少なからず項目において補助率の削減にとどまっています。このため、補助率を削減しても、自治体が何かの事業を行う際には所管省庁に申請し、そこで審査を受けるという手続きはそのまま残ることになります。

削減例を見ると、国民健康保険は50%から43%に、児童手当は3分の2から3分の1に、児童扶養手当は4分の3から3分の1に、施設介護給付費は25%から20%に削減されたという状況です。こうして補助率は引き下げられ、財源移譲は進んだものの、権限委譲があまりにも進まなかったことから、自治体の負担は増える一方で、国による関与が続くことになったという批判もあります。

「三位一体改革」による地方分権を進めようとしていますが、地方への財源と権限の保障が曖昧であるため、地方公共団体からは「『地方主権』『自治型社会の実現』からは程遠い」と指摘する声も少なくありません。

出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司
放送大学准教授 山岡 龍一
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