縄文1 縄文海進

1.縄文大海進

一万年前頃、ちょうど縄文草創期から、気温がわずかながら温暖化してくると、氷の融解が促進し、海水面が上昇していきます。これは「縄文大海進」と呼ばれています。いま、地球温暖化が地球的規模の大問題になっていますが、今から約6,000年前には、今より1~2度気温が高かったといわれています。そのころの関東地方は、今の沖縄県の気候に近かったそうです。最終氷期が終わって、徐々に温暖化が進んだ結果でした。縄文海進と呼ばれる地球温暖化です。

海面が10メートルも上昇すると、円山川が流れる国府平野以北の流域は水面下でした。その頃豊岡盆地は、「黄沼前海(キノサキノウミ)」といわれる入り江でした。豊岡市塩津や大磯町という地名もその名残なのかも知れません。早期や前期の縄文時代の人々は、低平な所で生活を営むよりは、気温が高いのだから、現在の我々が想像するほど寒冷な積雪地帯ではなく、比較的越冬の条件は厳しくなかったのでしょう。日本列島を囲む海面は、今より3~5メートルも高かったようです。日本列島はかなり奥まで海でした。関東地方で言えば、東京湾は埼玉県春日部を通り越して、古河のあたりまで入り込んでいたといわれています。そして、そこには豊富な魚介類が生息していました。各地にある国生みや入り江開墾の神話・伝承は、この地球温暖化による縄文海進が神懸かり的な現象と見えて伝わったのではないでしょうか。

2.寒冷化と海面低下

縄文時代の豊岡盆地 Mutsu Nakanishi さんよりお借りしました

そのうち、暖かくなりつつあった気温がまたゆるやかに低下していきます。二千年前ぐらいが、その寒冷化の一つの頂点でした。寒地の氷は再び厚さを増し、海面が低下してくる。山岳地帯の植物相も変化し、いままでカシやシイの実の生活に頼っていた縄文人の食生活に変化を強いることになりました。

寒冷化に伴う生活難から、低地へ、北から南へと住民は移動したのでしょう。中期縄文の土器の出土がないのは、こうしたわけでしょう。神鍋の山麓に、永い間にわたって繰り広げられた生活も過疎化の波が押し寄せていきます。

日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年ないし約3万年前までさかのぼります。約3万4千年前に華北地方からナイフ形石器と呼ばれる石器が伝わり、列島全域で広く使用されましたが、約2万年前にシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まりました。しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ型石器文化が併存しましたが、ほどなく細石刃が西日本にも広まり、約1万5千年前ごろ、ナイフ型石器は急速に姿を消しました。豊岡市日高町、旧街道東構区の北側に「祢布ヶ森」という小字があります。かつて蚕業試験場が設置されていた場所で、昭和27年頃、発掘したところ、縄文後期や晩期前半の凸帯文土器と考えられる土器が出土し、宵田小字焼ヶ辻の遺跡や、水上の水上遺跡では、晩期の土器が出土しています。昭和48年、蚕業試験場東側を発掘したところ、幅1メートル、深さ60センチの溝が検出され、古墳時代前期前半の土器を多量に含んでおり、また、稲葉川旧河道では、縄文期の土器と共に十数点の石器が検出されています。溝を境として、性格がはっきりと異なる遺跡が見つかりました。先に西側一帯は、奈良時代から平安時代にかけての遺物出土地点です。この三つの文化相の差異が見受けられます。

このように、高地の神鍋山麓だけでなく、低平部の稲葉川と円山川との合流点付近の扇状地帯に縄文時代の新しい生活が展開してきています。気候がそろそろ寒冷化してきて、海水面が下降してきたために陸化してきた地域です。

戦後の昭和の頃まで、円山川ではサケ・マスが産卵のため遡上していた。支流稲葉川でも、道場付近で漁獲が行われていたという。サケ・マスが遡上する西限は、但馬地方から因幡にかけての地域だった。川を遡上するサケ・マスは簡単に捕獲できるので、海の幸に恵まれ、豊かな生活が展開し、極度に発達した晩期縄文文化地帯が形成されたが、祢布ヶ森からはそのような土器が出土しています。

3.縄文人がやってきた

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1万9千年前ごろが、現在に一番近い寒冷期の最寒期で、当時の海水面は今よりおおよそ120m低かったと考えられています。朝鮮海峡は幅約15km、水深約10mの浅く狭い水道でした。この時期、人と動物は陸続きのシベリアから歩いて渡ってくることができたのです。

こうして、日本列島に最初に住み着いた縄文人とは、縄文以前から住んでいた後期旧石器人をが縄文人になったのであり、縄文人が大陸からやって来たのではありません。

古モンゴロイド系であることは調査研究からわかってきました。南方系ポリネシア人と共通の民族です。ポリネシア人の祖(モンゴロイド)は、中国雲南地方(南部)辺りから南下して、インドシナ半島などに定住していきます。今でもポリネシア地方で見られるような、船の横にやや小さい木船が付いたアウトリガー・カヌーと呼ばれる船などであり、せいぜい2、3人乗りの小さな木船だったから、そんなに長距離は無理です。長い時間の間に南下していき、オセアニア(オーストラリア)やポリネシアの島々に渡りました。

そしてまた別のグループは、中国南部やフィリピン、台湾へ、また、対馬海流に乗った別のグループが壱岐、対馬、九州北部や出雲へと辿り着いたのではないだろうかといわれています。

やがて別のグループが、シベリアから北海道、・本州東北部、また、アラスカ(エスキモー)、アメリカ(インディアン)、南アメリカ(インディオ、マヤ、インカなどの文明)へと南下していったのでしょう。
誰だって大陸を後にして、他民族の侵略による避難なのか獲物を追って新たな新天地を求めたのかは分からないが、出航した船団にとって、充分な装備も持たず、ただでさえ心細いのに陸地が見えたら、一目散に上陸したいに決まってる。現在のように地理が分かっていても、飛行機でさえ何時間もかかる移動距離。

まさに命がけの亡命をしたボートピープルです。船団は農産物の種など、これからの新天地での生活に必要な物資も積みながら、まほろばの国、「日本列島」。何日も洋上を航海しながら、飢えに耐え、多くの者は航海中に死亡した者もいたであろうし、彼らの冒険心には本当に頭が下がるのです。(私は少なくとも無理です。

植村直己さんという我が町が生んだ世界的冒険家は、まさに縄文人の血が流れているのではないでしょうか?!すいません)
やがて氷河期は終わり、水位が上昇します。紀元前1万2千年頃から紀元前4千年にかけて約8千年間にわたる海面上昇により、タイ湾から南シナ海へかけて陸地は海底に没してしまいます

4.縄文文化

縄文時代は一万年を超える長い時代なので、その間の文化社会の変化は大きく、一括した縄文文化という言い方が適当でないことが多いのですが、土器形式を基準にして大きく6つに分けられています(草創期・早期・前期・中期・後期・晩期)。各時期の継続年数は均等ではなく、古い時期ほど長い傾向にあります。

縄文文化は日本列島全体で一様のものではなく、土器や生活形態の違いが相当大きいのですが、土器の系統的つながりを見ると、北海道の土器は本州からの流れの支流といってもよい位置づけができ、縄文土器の特徴である縄を転がしてつけた紋様は、北海道で縄文時代を通じて盛んに用いられたのに、宗谷海峡を越えたサハリンではほとんど見られません。一方、南では沖縄本島の土器は北の九州方面の縄文土器の流れを汲むもので、決して中国や台湾から北上したものではないそうです。また、縄文文様は九州や沖縄では見つかっていませんが、したがって、文化的つながりとしては沖縄本島までは日本列島の縄文文化の範囲であったと認められます。

縄文人は特定の場所に集落を構え、それぞれ孤立していて、相互の交流はあまりなかったと想像しがちですが、そうではなかったのです。自然のガラスとして鋭い割れ口を持ち、石器の材料として非常に好まれた黒曜石が、交易によって100kmも運ばれた例は珍しくなく、霧ヶ峰(長野県)の鷹山では黒曜石を掘った鉱山跡が多数残存し、その盛んな採掘を物語っています。日本では新潟県の姫川にしか産出が知られていないヒスイは、装飾品の材料として遠く関東や北海道まで運ばれていました。海の魚の骨が内陸の遺跡で検出されたり、ときには食料まで運ばれたことがわかります。後・晩期には、海水を煮つめて塩を作った遺跡が、関東や東北地方の海岸近くに知られていますが、その製造に用いられた粗雑な作りの土器が海から離れた内陸の遺跡でも発掘されています。
縄文早期の日本の人口は、2万人だったといわれています。

5.日本の文化的起源

日本という思想とは、日本語で展開されてきた思想です。人々が日本列島固有の意識を持ち始めた起源ががどのような様相をとっていたかを知ることは、難しいです。日本の自己意識を持つ人間のあり方は、長く文字を持たなかったために、他者すなわち中国大陸との関わりのなかで、大陸の列島にむける見方のなかに、文字(漢字)に残されることで、最初にあらわれました。

二千六百万年前、原日本海ができ、陸続きであった日本列島の原型が姿を見せたのは、一千万年前でした。その後人類が誕生し、造山・火山活動が活発になりました。氷河時代の中期には沖縄諸島がまず大陸から分離し、ついで列島が大陸から分離しました。氷河期と間氷期がくりかえされ、二万年前とされる最終のウルム氷期に海面が下がり、大陸と列島を結ぶ最後の陸橋が現れました。そのとき、人類動物が大陸から移住してきたとされます。その後再び海面が上昇し、一万八千年前には朝鮮海峡が、一万二千年前には宗谷海峡がひらき、今の日本列島のかたちが定まりました。沖縄諸島が本州や他の島よりも先に大陸から分離していたことは、現在日本とよぶ領域の中での言語・文化の面で沖縄諸島がもつ文化的独自性と深く関わっているといえます。

万物を神と捉えるアミニズムの原点が芽生え、縄文人が墓を造営した様子からは、先祖崇拝の原型が伺えます。縄文人の自然崇拝と先祖崇拝が融合したものが、弥生時代からさらに発展し、現在の神道につながっています。記紀の世界観は縄文時代にすでに土台ができあがっていたといえます。
そして世界最古の土器をつくり、集団の結束と人々の平等性を重視した高度な社会を築いた縄文文化こそ、「日本文明」の起源と呼ぶにふさわしいのです。稲作の開始や弥生文化自体字体、以前よりも時代がさかのぼる見解がいわれています。弥生時代で後述しますが、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説がでてきました。岡本太郎は、縄文文化の美意識の復興を説いています。弥生式土器と比較して縄文式土器は、縄目文様(撚糸(よりいと)を土器表面に回転させてつけたもの)の多様な模様が見られることがその特徴に挙げられますが。しかし実際には縄文を使わない施文法(例えば貝殻条痕文)や装飾技法も多く、これは土器型式によって様々です。 縄文土器は表面を凹ませたり粘土を付加することが基本で、彩色による文様は少ないですが、文様が変化に富み多く用いられ、装飾は時には容器としての実用性からかけ離れるほどに発達しました。この特徴は、日本周辺の土器にはみられないものです。

縄文土器の形は深鉢が基本ですが、中頃から淺鉢のような器形が現れ、、続いて注口付き、香炉形、高杯、壺形、皿形など様々な形が現れた。とくに東北地方晩期は器形の変化が多様です。信仰に関わる土製品には代表的な土偶のほか、土器片を再利用して人形状土製品や鏃状土製品、土製円盤、土器片錘などが作られました。

6.縄文人はグルメ?

縄文人は、太陽、風、雷、雨と雪、地震や台風などの自然の恐怖は、神々の行いであるとして恐れると同時に敬い、神がいると信じていた。狩猟民族である彼らは、旬な恵みを接収して、家族が一つに寄り添い、人々が助け合いながら暮らし、次の世代へ智慧を伝承していった。いま我々が想像する以上にある意味では豊かな暮らしをしていたのではないだろうか? 多くの動植物と同じく自然に適応しながら進化していった。自然との共生であり、天変地異との戦いであった。しかし、境界線もなく、国という意識もない。まさにボーダーレス社会です。テリトリーにこだわず平和に自由に暮らしていた社会は、今を生きる我々よりもある意味でははるかに文化的で人間らしい生活だったのではないのでしょうか(多分・・・)。

先日パプア・ニューギニアで暮らす人々がテレビの番組(ウルルン滞在記)で紹介されていました。必要最低限の獲物をとり、椰子からデンプンをとって餅のように丸めて焼きます。家族や村単位で仲良く暮らす姿は、縄文時代の人類の暮らしぶりが想像出来ます。

食料の入手は人間が生きるための基本条件であり、縄文人にとっても最も大きな課題でした。動物や鳥の狩猟、海・川・湖での漁労、貝の採集、植物質食料の採集に大きく分けられますが、イノシシの一時的な飼育や有用な植物の栽培も行われていました。地理的に北の地域では狩猟や漁労の占める役割が大きく、南の地域では植物質食料の果たす役割が大きかったと見られますが、もちろん個々の遺跡を取り巻く環境によって生業の形は違いました。
狩猟の最も重要な対象はシカとイノシシですが、その他にも様々なほ乳類や鳥類が獲物とされ、食肉ばかりではなく毛皮や骨角器の材料として利用されました。弓矢が一般的ですが陥穴も広く用いられました。狩の補助に用いるために飼われた犬の墓も各地で発掘されています。

漁労は湖、川、入り江、外洋などの環境や魚の種類に合わせ、網、釣り、ヤス、銛(モリ)などが使い分けられました。縄文時代には氷河時代に浸食された谷の中に上昇する海が入り込んできました(縄文海進)。北海道や東北地方では、秋になると産卵のために群をなしてさかのぼってくるサケが特別な重要性をもつ食料源でした。北海道石狩市紅葉山遺跡で、小川に作られたエリと呼ばれる縄文中期の柵の跡が発掘されています。集中的に捕獲されたサケは干物や薫製などに保存処理して利用されました。

植物質食料としてはクリ、クルミ、ドングリ、トチなどのナッツ類が主ですが、ヤマイモ、ユリなどの根茎類、山菜の類も大いに利用されたでしょう。キノコや海草が利用された証拠もあります。遅くとも縄文前期にはリョウトウ、エゴマ、ヒョウタンなどの有用な植物の栽培が始めらていたことが、福井県鳥浜遺跡の調査などで確認されています。最も重要なのは、クリの木を集落の周りに増やしていくことが行われるようになったことです。青森県三内丸山遺跡の調査では、人が来る前にはブナの林であったものが、人が来ると集落の周りはクリの林になったことがわかります。クリと人の生活が緊密に結びついていたことを示しています。クリの実はおいしく食べやすい食料になるだけでなく、クリの木は耐久性が強く、建築材として最適であり、薪として火持ちが良いので、縄文人にとって最も重要な樹木でした。

後・晩期は、地域によって違いはありますが、停滞ないし衰退の時期と捉えられています。とくに中部高地や西関東の急激な衰退は、その主な原因が植物質食料の減少にあったと思われています。しかし、多くの入り江に恵まれた東関東では海の資源に支えられ、しばらくは繁栄が維持されました。近年、各地で縄文後・晩期のトチの実のアク抜き施設が発掘されています。埼玉県の赤山陣屋遺跡など、谷あいに木を組んで水槽を作り、水を溜めたもので、周辺には貝塚のようにトチの実の殻が堆積しています。トチの実の粒は大きいけれど強い渋味があり、これを除くには水でさらしたり木炭を水に溶かして漬けたりするなど相当な手間がかかります。この時期にはなぜかクリの収穫が減ったようで、それを補うために、当時の環境変化で増加したトチの実の利用が盛んになったようです。

7.お酒の発見

人類がいつごろお酒を知るようになったのかははっきりわかりませんが、世界各地に伝わる「猿酒」の伝説のように、気候が温暖な地方では自然発生的にできた酒に猿が出会い、やがてお酒を自分らの手で造ることを学び、嗜むようになったのでしょう。でも何かの中に溜まらなければ飲めるほどの酒にはならない・・・。ある南の島の伝説にこのようなお話があります。

猿が落とした椰子の実など、木の実が割れてそのまま放って置いたままにしていた。それを翌日猿が旨そうに飲んでいるのを見た人間が恐る恐る飲んでみたら、こりゃ旨い!不思議な気分になって寝てしまった。それを翌日王様に報告し献上すると、王様も飲んでみたらこりゃ旨い。こうした伝説が世界各地に残っています。

木の実の汁や果汁を何かに溜めるために、中国では石器を、また別の国では貝殻や土器を使うようになりました。こうして人類は、液体を容器に入れて保存することを発明したのです。日本でも俗にいわれる自然発酵を応用した「猿酒」が最初のようです。
秋田県池内(イケナイ)遺跡では、ヤマブドウやクワの実と一緒に絞られたニワトコの絞りカスの塊が発掘されました。ニワトコの表面には自然のコウジ菌が繁殖するので、今でもヨーロッパの一部では酒の材料として用いられています。

それを証明するものとして、長野県富士見町の井戸尻古墳で「有孔つば付土器」というう珍しい土器が出土しています。

どうやら中期縄文人たちは、自生した山ブドウやクサイチゴ、サルナシなんかの果物をそのままこの土器に仕込んで、軽くつぶした後フタをして孔(あな)にツルを通し、住居の柱などにくくりつけたのではないかといわれています。

しばらくの間すると液果類は糖分が含まれとるので、「野生酵母」の働きで温度が上昇し、果汁が炭酸ガスとともに吹き上がりますが、中身がこぼれない深さになっていて、主発酵が終わるころには酒も出来あがり、芳しい香りが漂うようになりました(これはブドウ酒などの果実酒造りと同じ原理だ!)。

したがって、縄文中期(紀元前三千年)には酒造りがすでに人間の手によって計画的に行われていたのでないかと考えられるます。また縄文晩期には日本に原生するお米の陸稲作が始まり、米による酒や粟、稗などによる雑穀酒作りが口噛み酒として始められました。

8.自然との共存

縄文時代は1万年という長い期間に渡った為、大規模な気候変動も経験しています。また日本列島は南北に極めて長く、地形も変化に富んでいる為、現在と同じように縄文時代においても気候や植生の地域差は大きかったのです。縄文時代の文化形式は歴史的にも地域的にも一様ではなく、多様な形式を持つものとなりました。

縄文中期の安定を物語るもう一つの証拠が貝塚です。中期になると東京湾沿岸、利根川下流域などに、集落の形を反映した馬蹄形や環状の貝塚が多数形成されました。貝殻以外に魚や動物の骨、壊れた土器や石器も捨てられました。なかでも東京都北区中里貝塚は、当時の海岸線に沿って500m以上も続き、厚さも4mに達する巨大なもので、土器や石器がほとんど残されておらず、海岸にあるのに魚の骨さえ稀です。海岸で貝の身を殻から外して保存加工するような特殊な作業の跡と考えられています。その貝のほとんどはハマグリとカキという味の良いものに限られ、しかも大型のものだけが選択されているのです。おいしい貝だけを採集するという自然の資源保護の姿勢を見ることができます。

縄文人の狩猟、漁労、植物の採集、その様々な方法を見ると、彼らが日本列島の多様な環境と食糧資源をきめ細かく開発し、その自然によく適応する生活の形を作り上げていたことが分かります。それは自然の営みをよく理解し、乱獲を避け、自然と共存するものであり、できればその資源を増やしていこうとするものでした。このような縄文人の知恵と生き方は現代の我々にも大いに学ぶべき点があります。

9.縄文人の精神

縄文時代には生活に必要な実用の道具以外にも、さまざまな儀礼のための道具と思われるものが作られました。土で女性の姿を表現した土偶は草創期からありましたが、後・晩期に盛んになります。男性性器をかたどった石棒は前期からありましたが、この時期には石剣などの形を生み出し、さらに儀礼に用いられた見られる土面、土版、石版などが大量に作られるようになりました。透谷地方の亀ヶ岡式土器では、さまざまな形が作り分けられ、その表面は複雑な文様で埋め尽くされました。生活に息詰まった縄文人がその打開を願って神に祈ることが多くなったのでしょうか。集団墓地に石組みを加えたストーンサークルや、北海道に見られる墓地の周りを円形の土手で囲った周提墓のような大きな建造物も多くなります。祖先とのつながりを重んじ、その庇護を求める気持ちの表れかと思われます。このような後・晩期のありかたに、縄文文化というものの限界が認められるものであるといえるでしょう。

しかし、目を移して西日本をみると、後・晩期になると増加や拡大など一定の上昇傾向が見られます。土器で見ると初め東日本の影響が強いのですが、やがて文様が質素になり、黒色に焼き上げた表面を磨き上げるものが増えていきます。ドングリや栗は秋の一時期に集中的に収穫される為、比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となる為、土偶を用いた祭祀を行うことで社会集団を統合していたのではないかという考え方もあります。

九州西北部の佐賀県や長崎県のリアス式海岸では、縄文時代を通じて外洋での漁労が盛んな地域でした。シカの角で作った軸の部分とイノシシの牙で作った針先の部分を結びつけた西北九州型と呼ばれる独特の釣り針が作られました。この特徴的な釣り針が韓国の南岸の遺跡で発見されています。また、韓国独特のオサンリ型と呼ばれる結合式の釣り針が九州側で見つかっています。このように縄文時代にも朝鮮海峡を越えての交渉が両方にわたって分布しています。

このように、縄文時代にも九州や北海道では大陸との交渉を示す遺物が発見されています。しかし、弥生時代や古墳時代における朝鮮半島や中国との活発な文化的政治的な交渉から受けた大きな影響に比較するなら、縄文時代における大陸とのつながりはずっと弱いものでした。日本列島の中で独自に育った文化という点にこそ、縄文文化の基本的特徴があるといえます。
縄文文化の伝統は、弥生時代に薄まりながらも、東日本ではやや強く残り、北海道ではさらに強く、そのまま維持され「続縄文文化」と呼ばれるものに移行します。また、南の沖縄でも弥生文化の影響に比べ、縄文の伝統が比較的強く残ったと考えられています。こうして日本列島は大きく三つの文化地域に分かれることになります。

10.但馬の貝塚

円山川(まるやまがわ)は、兵庫県北部を流れて日本海に注ぐ但馬最大の河川。朝来市円山から豊岡市津居山(ついやま)に及ぶ延長は67.3km、流域面積は1,327平方キロメートル。流域には平野が発達し、農業生産の基盤となっている。河川傾斜が緩やかで水量も多いため、水上交通に利用され、鉄道が普及するまでは重要な交通路となっていた。

太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのでしょう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思えます。二つの伝説に共通しているのは、円山川が流れる国府平野以北の下流域は水面下でした。その頃豊岡盆地は、「黄沼前海(キノサキノウミ)」といわれる入り江でした。「神様(たち)が水を海へ流し出して土地を造った」という点です。

実はこの「かつて湖だった」というくだりは、必ずしも荒唐無稽(こうとうむけい)な話ではなさそうなのです。縄文時代で書いたように、今から6000年ほど前の縄文時代前期は、現代よりもずっと暖かい時代でした。海面は現在よりも数m高く、東京湾や大阪湾は今よりも内陸まで入り込んでいたことが確かめられています(縄文海進)。但馬の中でも円山川下流域は非常に水はけの悪い土地で、昭和以降もたびたび大洪水を起こしています。近代的な堤防が整備されていてもそうなのだから、古代のことは想像に難くありません。実際、円山川支流の出石川周辺を発掘調査してみると、地表から何mも、砂と泥が交互に堆積した軟弱な地層が続いているそうです。豊岡市中谷や同長谷では、縄文時代の貝塚が見つかっています。中谷貝塚は、円山川の東500mほどの所にある縄文時代中期~晩期の貝塚ですが、現在の海岸線からは十数kmも離れています。長谷貝塚はさらに内陸寄りにありますが、縄文時代後期の貝塚が見つかっています。これらの貝塚は、かつて豊岡盆地の奥深くまで汽水湖が入り込んでいたことを物語っています。縄文時代中期だとおよそ5000年前、晩期でもおよそ3000年前のことである。「神様たちが湖の水を海に流し出した」という伝説は、ひょっとするとこういった太古の記憶を伝えているのではないでしょうか。

中谷貝塚(なかのたにかいづか)

豊岡市中谷に所在する縄文時代中期~晩期の貝塚。1913年に発見された、但馬地域を代表する貝塚の一つである。出土する貝はヤマトシジミが98%を占めており、ほかにハマグリ、アサリ、マガキなどが見られる。また、クロダイ、タイ、ニホンジカ、イノシシ、タヌキなどの骨、トチ、ドングリなども出土している。ヤマトシジミは海水と淡水が入り混じる汽水域に生息することから、縄文時代の豊岡盆地が、入り江となっていたことがわかる。

長谷貝塚(ながたにかいづか)

豊岡市長谷に所在する縄文時代後期の貝塚。出土する貝はヤマトシジミが80%を占め、サルボウ、マガキ、ハマグリなども見られる。また、タイ、フグ、ニホンジカ、イノシシ、タヌキなどの骨、トチ、ノブドウなども出土している。中谷貝塚同様、豊岡盆地が汽水域の入り江であったことを示す遺跡である。

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