杞柳細工は、但馬の地で生まれ、但馬の風土に育まれて今日に至った伝統ある地場産業です。行李柳(コリヤナギ)を材料にし、強靱でしなやかな風合い、柳の持つ柔らかさと粘りを生かしながら、杞柳細工は、職人の手によってひとつひとつ編み上げていきます。伝統の技と人のぬくもりを感じさせてくれます。飯ごおり、バスケット、買い物かご、マガジンラック、果物かご、花篭など種類も多く、素朴さと上品さで根強い人気があります。柳行李、小行李、柳・籐籠の三部門が国の伝統的工芸品に指定されています。
起源は西暦27年、日本に帰化し但馬の国を開いたといわれる、新羅国の王子天日槍命(あめのひぼこのみこと)が杞柳製造技術が伝えられたとの伝承があり、奈良・正倉院の「柳筥」は豊岡から献上されたものであるといわれています(実際には当時、新羅はまだ存在していないので百済か伽耶だ)。
正親町天皇時代にも、垂柳ではあるが、「絲を垂すること一丈にあまれり、此の種養父、気多に多し」とあり「京都には、六角、堀河、ことに名高きは正親町殿の別館の柳なり。これを一年天覧を賜る」とあります。また「一種行李柳いうものであり、一根数茎を生し、亭々として枝なし、恰もメドキノアツマリ生きるがごとし。高きものは、7~8尺にすぎず、短きものは、2~3尺、土人刈りて水に浸し、皮をはぎ、これを編み、大小の器となる」と昔の人は言っています。
このように、既に豊岡でも古来より作っていたことが判ります。また、1473年の、「応仁記」には、「九日市場」が開かれ、商品として売買されている記述があり、この時期から、おそらく地場産業として家内手工業的な杞柳産業に発展したことが予想されます。杞柳製品の中で、現在のような柳行李は、豊岡市森津の人・成田広吉が江戸で武家奉公しているとき門前にあった柳の木の細枝を用いて飯行李を作った経験を生かし、帰郷後、荒れ地を開いて柳を栽培し、柳行李を製造したのが最初と言われています。
兵庫県の豊岡盆地は日本海岸から15キロの内陸にありながら、海面との高低差は約2メートルにすぎません。このため但馬地方を北流する円山川は、豊岡盆地に入って淀み、蛇行して流れ、荒原(あわら)と呼ばれる湿地帯を随所に形成しましました。この荒原地帯には杞柳の原料となる「コウリヤナギ」が多く自生していましました。
行李を編む時に使用する麻糸は、但馬麻苧として全国に知られて多く生産されており、行李に使う縁竹も多くあった。杞柳材料が地元で容易に手に入った当地方は、冬期には積雪で農業等ができず、また耕地が狭小で新田開発の余地が少ないことなどの自然制約によって生み出された余剰労働力がありましました。この農民余剰労働力が、副業として生計の助けになる杞柳製品作りが盛んになりましました。
「行李」は本来は中国語で、他国への「使者」を指したのが、いつの間にか、「旅人」や「旅」を指すようになり、さらには、「旅の荷物」のことを言うようになったようです。現代中国語の『行李』はその「旅の荷物」義を引き継いだものです。
一方、日本語の「行李」もほぼこの変遷をたどったようですが、日本語ではさらに、「旅の荷物を入れる箱」に転じましました。行李(こうり)とは、竹や柳、籐などを編んでつくられた軽くて通気性がよく、蓋付きの箱で、旅行用の荷物入れや衣類の収納に用いられた道具。半舁(はんがい)ともいいます。飛脚行李(飛脚が郵便物を入れて運んだもの)、 薬屋行李(薬品類の行商に用いられたもの)、弁当行李などもありましました。
もともと、大日本帝国陸軍の「行李」は、戦場に携行する弾薬、糧秣、器具その他を運ぶ追随部隊の名称。大行李(だいこうり)と小行李(しょうこうり)とがありましました。
円山川の荒れ地に自生する「コリヤナギ」で籠を編むことから始まり江戸時代、京極伊勢守高盛が豊岡に地を移してから柳の栽培と加工技術を保護し、販売にも力を入れたため産業として成立し、全国に豊岡の柳ごおりの名を広めましました。
また、杞柳産業の発展には、江戸時代に京極藩の保護奨励によるところが大きいです。
1668年、京極藩伊勢守高盛が丹後国から豊岡に移封され、柳の栽培並びに製造販売に力を注ぎ、土地の産業として奨励したのが始まりとされています。その後、京極藩は三万石から一万五千石に減知となり、藩財政が困窮しその一助にと、1763年に「触書八ヶ条」を布告し、杞柳製品の専売をはかりましました。取引の活発化に伴い、大阪問屋との間に軋轢が生じ、積極的に藩財政の立て直しを図るため、1822年に地元で骨柳問屋の設立を許し、上方筋への直売りを禁じて、柳行李の専売性を強化した、さらに、骨柳師に対して、縁かけ・藤引きなどの一切の杞柳製法の秘密保持、原材料jの移出禁止を行った。この方針はやがて1823年の産物会所設立に発展していきましました。
宵田町に設立されたこの産物会所は、現在の組合指導的な役割を持ち、柳行李の生産者、商人達への資金援助、原料の斡旋、製造販売指導などを行っていましました。
一方、播州印南部魚崎村網干屋与衛地2名柳行李播州陸出運送の特権を与えて、大阪までの運送にあたらせ、荷物の分散、個数の減少も防ぎましました。
1829年、独自の立場で新たな市場開発を狙い、物産会所より分離した大阪登骨柳物産会所を設けましました。これは藩政改革の一環として、大阪市場依存を排して全国の消費地と直結をはかったものと思われます。その後、中町の船屋良平が、骨柳引合いのため、参勤上府に従い、江戸で市場の開拓に従事したり、幕末には、大骨柳屋・飯骨柳屋・仲買・縁掛屋などの生産・販売機構も整い、全国的名声の基礎を築きましました。
明治4年頃の行李の生産高は約18万個で、その内飯行李が全体の75%を占め、次が荷行李の17%あまり、以下帳行李、文庫、上下行李の順になっていましました。
豊岡は東京・大阪等の大消費地から遠く離れており、製品の出荷に大きなハンディーがありましました。当時、陸上輸送手段の駄馬賃は割り高でしたが、柳行李は容量は大きいが軽いため、また、大きな行李の中にだんだんと小さい行李をつめ込む入子方式が可能だったので割安につき、遠隔地にあるにも関わらず、一度に大量な製品を出荷することを可能にしましました。
柳行李は、通気性・容量性・耐久性に優れており、生活の向上に伴い衣料などの保存容器としての実用性が高く評価されましました。さらに、交通手段の発達とともに、人の往来が頻繁となり、網掛けをすれば直ちに運搬道具ともなる柳行李の運搬性の利点が認められ、庶民的共感を呼び需要が増大していきましました。
皇太子殿下の徳仁親王(浩宮様)が学習院初等科に入園されたとき、入園をお祝いして、兵庫県の豊岡市が柳ごおりのバスケットをお贈りしたことがありますが、このバスケットを非常にお気に召され、いつもご愛用されたとのことです。当時の皇太子殿下の徳仁親王のご愛称から「なるちゃんバッグ」と呼ばれましました。2001年12月1日は皇太子妃の雅子さまに女のお子様がお生まれになった日として、日本全国がお祝い一色に包まれたことは記憶に新しいところです。皇太子殿下のお子さまのご誕生に合わせて、同じように雅子様にお贈りしましました。親子2代でご使用されることになり、大変名誉なことですと関係者は語っています。
かばん産業のおこり
兵庫県の豊岡市は、但馬柳行李(こうり)の産地として知られており、杞柳製品の生産量としては全国一で、鞄の生産も全国の6-7割を占めています。
明治14年、八木長衛門が第2回内国勧業博覧会に2尺3入子、3本革バンド締めの「行李鞄」を創作出品したと伝えられており、また明治35年の第5回内国勧業博覧会出典目録には遠藤嘉吉朗の「旅行鞄」が見られる。
この3本革バンド締めの柳行李は、外観はトランクと同じであったが、トランクと呼ばれずに柳行李と呼ばれていた。このことは、これが従来の杞柳製品の改良品で、一般杞柳製品技術が応用されたものであり、また、柳行李で名高い豊岡で作られたことが、鞄と呼ばれず行李と呼ばれた原因と言われています。
交通手段の発達にとまなう内外旅行者の増加により、携帯運搬用の容器の需要が起こり、それに応じるさまざまな工夫発明がなされた。明治39年、服部清三郎の「鞄型柳行李」、明治42年、宇川安蔵のドイツ製品を模倣した「バスケット籠」等の創案が相次いだ。「バスケット籠」は底編みをし、立てりを差し、引き籐を巻き上げて合い口を付けてまとめた籠と思われます。この携帯に便利な鞄型、バスケット型の小型篭の多くは輸出されました。
杞柳産業を基盤に大正末期から昭和にかけてファイバー鞄が製造され始め、柳行李の販売網に乗って急速に伸び、昭和10年頃には鞄(かばん)産業は当地の主産業となりましました。生産高は日本において8割を占め 「日本一」 の伝統産業となっています。
昭和11年に開催されたベルリンオリンピックの選手団のかばんとして、豊岡のファイバー鞄が採用されるなど、この頃には、「ファイバー鞄」が、豊岡かばんの主流を占めるようになった。
引用-豊岡鞄協会ページ、その他
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