出雲大社

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

出雲大社

目 次

  1. 出雲大社
  2. 相撲と埴輪(はにわ)の起源

1.出雲大社(いずもおおやしろ、いずもたいしゃ)

くわしくは出雲大社 http://www.izumooyashiro.or.jp/をご覧ください。


島根県出雲市大社町杵築東195

式内社(名神大) 出雲国一宮 旧社格は官幣大社

近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社でした。

御祭神 「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)」
古来より「国中第一之霊神」として称えられ、その本殿は「天下無双之大廈」と評されました。もともとは杵築大社(きづきたいしゃ)と呼ばれていましたが、明治4年(1871年)に出雲大社と改称しました。延喜式神名帳には「出雲国出雲郡 杵築大社」と記載され、名神大社に列しています。
出雲大社は「天日隅宮(あめのひすみのみや)、天日栖宮(あめのひすのみや)、所造天下大神宮(あめのしたつくらししおおかみのみや)、杵築大社(きずきのおおやしろ)ともいわれています。

祭神大国主命は「大己貴神(おおなむちのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)、葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)」などの別名で呼ばれています。

わが国最古の神社建築を誇り、古来より伊勢神宮と並び称されてきました。神話伝承や過去の記録に残る出雲大社は、歴史上、常に特別の神社として位置づけられ、その時代の為政者(後醍醐天皇、豊臣家、毛利家、松平家等)より社領の寄進や祈願等、加護と信仰を受けてきました。

「古事記」には大国主命の国譲り(神楽の映像)の項に「私の住む所として天子が住まわれるような壮大な宮殿を造ってくれるのなら、国を譲り、世の片隅で静かに暮らしましょう」ということで造営されたと記されています。
「日本書紀」には「汝が祭祀をつかさどらん者は天穂日命(あめのほひのみこと=天照大神の第二子)これなり」とあり、この天穂日命の子孫が出雲国造で、現在まで継承されているといわれています。

巨大な注連縄
オオクニヌシノカミは、生きとし生けるものに生きる力を与える「母なる大地」的な神であるところから「縁結びの神」と讃えられています。
むかしから大地が秘めている生成の力を「ムスビ」という言葉であらわし「産霊」という文字をこれにあてています。この神がこうしたムスビの霊威をあらわされるが故に、生きとし生けるものが栄える「えにし」を結んでいただけるのです。

「オオクニヌシノカミほど多くの苦難を克服された神はない。人生は七転び八起きと言うけれども、この神の御一生は、それに似た受難の連続であったが、常に和議・誠意・愛情・反省によって、神がらを切磋修錬され、その難儀からよみがえられたのである。あの福々しい笑顔は、こうした修行によって得られたところのものなのである。」

縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日~17日)。正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれる。


【国宝】 本殿

陰暦の10月を神無(かんな)月という。全国の神々がみな出雲大社に集まり、国々では神さまが留守になるので、むかしから10月を神無月というのだという。そこで出雲では全国の神々が来られるからこの月を神有(在)月とよんでいる。この言葉は室町時代の辞書『下学集』に見えているので、かなり古くからこういう信仰が人々の間にはあったと思われ、また十月という文字を組みあわせると「有」という字になるというので、大社の古い手箱の散らし紋にも、亀甲紋の中に「有」の字が描かれている。


創建伝承

出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られています。以下はその主なものでありますが、

  • 大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
  • 高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に対して、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命をに祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
  • 所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)
  • 神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)
  • 垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)


古代本殿 島根県立古代出雲歴史博物館展示物

これは豊岡市久々久比(ククヒ)神社や鳥取部の伝承と同じです。

  • 斉明天皇5年、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)
    o 注:熊野大社のことであるとの説もある。伝承の内容や大社の呼び名は様々ですが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえます。


島根県立古代出雲歴史博物館展示物

現在の本殿は延享元年(1744年)に作られました。高さは8丈(およそ24m)で、これも神社としては破格の大きさですが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられています。その伝承より想定される形は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものであった。この想定は東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨大であったとされる。平安時代の「口遊」(源為憲著、天禄元年・970成立)には、全国の大きな建物の順として「雲太、和二、京三」と記され、これは出雲太郎、大和二郎、京都三郎のことで「一番出雲大社、二番東大寺大仏、三番京太極殿」を意味し、その巨大性を示す有力な証となっています。

16丈の建築物が古代において建造可能であったのかに疑問を呈する意見もありますが、実際に何度も倒壊したという記録があり、当時の技術レベルを超えて建築された可能性は否定出来ないそうです。上古32丈についても、山の頂上に建てられ、その山の高さであると考えれば、不自然では無いという意見もあります。

平成12年(2000年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘されました。古代社殿の柱ではと注目を集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも宝治2年(1248年)造営の本殿である可能性が高まりました。

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100年の夢、氷ノ山越え3

●蘇武トンネルまもなく完成

時代は鉄道から自動車時代となって久しい。京都を起点として山口県まで結ぶ日本で3番目に長い国道9号が完成した。そして京都府宮津市から鳥取県米子市までを、日高町の清水豊町長が音頭を取って宮津市から米子市までの関係市町が国道482号昇格期成同盟を結成。そして国道に昇格し、難所として行き止まりだった下記の3ケ所が繋がるのである。このルートこそ、大正時代に故藤本俊郎が夢見た壮大なロマン、但馬鉄道計画そのものであり、完成するとかつて旧山陰道の最短ルートであった氷ノ山越えが百年の時を越えて復活することになる。冬季除雪もほとんどなく、国道9号の関宮町から若桜町を抜けるルートとしても期待が大きい。また、若桜、美方、関宮3町ともスキー場があり、トンネルを利用すれば30分単位での移動が可能となるし、蘇武トンネル開通によって神鍋高原も結ばれ、全く違うルートを利用してきた関西の主なスキー場の移動が、短時間でできるようになるのだ。

100年の夢、氷ノ山越え2

●氷ノ山越えと山陰本線計画

明治後期に鉄道敷設がさかんになると、舞鶴の軍港と大阪を結ぶ計画の阪鶴鉄道(現JR福知山線)が福知山まで完成。また、山陽鉄道(現JR山陽本線)、さらに姫路から和田山までを結ぶ播但鉄道(現JR播但線)が完成した。さらに京都から福知山そして福知山から舞鶴まで鉄道がつながると、舞鶴の軍港と鳥取の陸軍師団を結ぶ山陰鉄道敷設計画が持ち上がってきたのだ。豊岡駅から国鉄宮津線(現北近畿丹後鉄道)、鳥取までは、内陸部の八鹿駅から若桜へ抜けるルートである。鳥取県郡家町こおげ駅を起点として若桜町までは敷設でき(旧国鉄若桜線、現若桜鉄道)ていたが、氷ノ山を貫く大トンネル工事は、当時のトンネル技術では困難なことから、明治42年頃には和田山から城崎まで北進していた鉄道から、余部鉄橋も難工事ではあったが海岸ルートに決まったのが、現在のJR山陰本線である。

100年の夢、氷ノ山越え1

●旧山陰道の最短ルート

氷ノ山トンネル 神戸新聞連載「100年の夢」の記事に、「戦国時代末期の天正三(一五七五)年、薩摩藩主島津家久の叔父中書家久は京や伊勢の神社仏閣にもうで、帰路山陰路をとった。六月十五日の日記の記述に「やなせ(山東町梁瀬)」「たかた(和田山町高田)」を通り「八木殿の町(八鹿町八木)に着」とある。翌日は「ひほの山(氷ノ山)」を越えて「つくよね(若桜町舂米)」に至っている。」とあり、氷ノ山越えは山陰道の最短ルートであり、兵庫県では関宮町大久保から現在の国道9号線の旧道とほぼ同じである。

若桜町舂米は、氷ノ山1,510Mの麓で、因幡・但馬・播磨・美作の四ケ国で最も標高の高い集落ながら、かなりの大きな戸数であることが、かつて峠の宿場町として栄えていたことを物語っている。

舂米(つくよね)神社とわが区のつながり

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さて、平成12年11月19日(日)わたしたち日高町東構区8組(隣保)一行は、東構区舂米神社の本社である鳥取県若桜町舂米(つくよね)を訪れた。(ちょっとお恥ずかしい記念撮影おばっ)

正直に言ってそれほどすごい神さんとは子供時代から最近まで思っていなかったのであるが、氷ノ山を囲む4国の総社であったならすごい神社であるのだ。なお東構の神社では舂米の臼がなぜか旧の時になっていて、本来は若桜町の舂米神社の分社なのだから、臼が正しいのではないのかと思うのだけれど、どうしていつのまにか旧になったのであろうか。また、舂の漢字は存在するが「臼」の部分を「旧」にした漢字は第一、第二水準漢字には存在しない文字だからなのである。