女代(めしろ)神社と女代遺跡


兵庫県豊岡市九日市上町460-1
但馬国城崎郡 式内社
御祭神:タカミムスビ「高皇産靈神」(タカミムスビノミコト)

かつて円山川と出石川合流の西窪地田園に囲まれ数百年の老樹の繁げれた宮地でした。

御由緒 当社は延喜式神名帳に載する城崎郡二十一座の一社なり。 円山川と出石川合流の西窪地田園に囲まれ数百年の老樹の繁げれた宮地なり。御祭神 は造化三神(天御中主神、神産巣日神、高皇産霊神)と賛えられ、高天原に在せられし神である。葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(タカギノカミ)という名で登場する。子に八意思兼神(ヤゴコロオモイカネノカミ=知恵の神)、萬幡豊秋津師比売命(ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト)がいる。往古祝融の災害により創立年月詳不明ですが古社であることは確か。

仁寿元年正月(文徳帝御宇・西暦八五一年) 、当時境内地は五町四面と伝えられており、広大なものでした。古くは浮島明神と称せられ、神殿が田圃の低地にありながら、円山川の氾濫に際しても未だ浸水したことはなく、ことから浮島の名称が付けられたようです。


摂社 八神社

天正五年(安土桃山時代)に社頭は没収せられ、祭祀は衰えました。寛永六年( 江戸時代初期)、神主住宅並に社務所・宝庫焼失し、当時の古文書はことごとくなくなりました。その後明和三年(徳川時代中期)、古社改築。

文化五年(徳川時代後期)、神祇伯白川資延王殿より社号の染筆を賜わる。神祇官 西院に八神殿を設けられ宮中を始めて崇敬者篤かりしが神祇官荒廃後には白川、吉田家において共に八神殿を建てて奉斎せられしこと史実にあります。当社の祭神は八神殿奉斎の御一座にあらせられるがため、現在の御本殿掲載の社号の染筆を賜わったものです。

女代遺跡銅鐸片

女代遺跡から銅鐸片が見つかった。但馬で発見された銅鐸3箇所のひとつ。

1992年、女代神社前から鞄団地にかけての工事では、周知の遺跡(女代神社遺跡)の近接地で、豊岡市教委が現状確認に出向いた際、女代神社南遺跡の土から銅鐸の鰭部分の破片を発見しました。同時に採集した遺物は、弥生時代から中世までの時期幅のある土器片が若干みつかりました。その時の遺物散布状況や急遽実施した簡易な試掘による所見では、銅鐸片を含む採集遺物は遺跡の緑辺部にあたる比較的希薄な包含層のものと見られた。

破片は、銅鐸の側面に取り付く鰭の一方の下端部分。両面に文様が鋳出されており、表面は緑青がふいて、淡い緑色を呈している。文様は明確に観察でき、2条の突線で縁取りがされた内部に鋸歯状の文様が1 1単位連続している。破片の中ほどの外部には、半円を2個並べた飾り耳が付いている。本体の長さは約1 3㎝、幅約2㎝、厚み1 . 5?3m mを測り、飾り耳は幅2㎝、高さ1 . 3㎝のものが2連取り付いている。重さは約4 0gであった。上端の折れ曲がりは比較的新しい可能性もあるが、本体と接合していた部分の破断面の状態をみると錆も古く、破損の際の力の作用からか一方向にわずかな盛り上がり(歪み)が観察できる。こうしたことから、意識的に破砕された銅鐸の例(いわゆる破砕銅鐸)である可能性がきわめて強い。

この段階の例としてはかなり小型である。聞く銅鐸から見る銅鐸への変換時期の資料として貴重な例である。時期的には気比銅鐸より新しく、日高町久田谷銅鐸より古く位置付けられ、但馬地方では新形式の銅鐸である。破片で見つかった例は全国に約20例あり、突如銅鐸が用いられなくなることの意味を考える上で、こうした破砕銅鐸の実態が注目されている。

-豊岡市教育委員会-

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