たじまる 近代-4

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日清戦争

目 次

  1. 清国の半植民地化と滅亡
  2. 朝鮮をめぐる日清の抗争
  3. 日清戦争の経緯
  4. 日清戦争
  5. 下関条約
  6. 日清戦争と三国干渉
  7. 辛亥革命
  8. 三国干渉とその後
19世紀なかばから東アジアの中国・日本・朝鮮は、相次いで欧米列強による開国を迫られていました。

アヘン戦争、清仏戦争(1884年 – 1885年)、日清戦争(1894年 – 1895年)、義和団の乱(19世紀末 – 20世紀初頭)といった事件が起こっていき、帝国主義列強に侵略されていくことになります。イギリスに香港島を割譲、九竜・新界租借地、威海衛租借地を与え、ロシアに旅順大連租借地(後に日本が譲渡され関東州租借地)や東清鉄道利権を与え、ドイツに膠州湾(こうしゅうわん)租借地を、フランスに広州湾租借地を与えた他、日本に台湾を割譲しました。上海に共同租界やフランス租界が設置され、半植民地となっていきます。

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1.清国の半植民地化と滅亡

19世紀の中国は、清の支配が衰え、繁栄が翳(かげ)った時代です。清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいた。これらの理由に関しては様々な説明がなされるが、基本的な見解は、清は、この世紀の間ずっと、従来の官僚組織、経済システムでは対処しきれない人口問題と自然災害に直面したということである。19世紀の中国にとっての主要な問題の一つはどのようにして外国と付き合うかということでした。

伝統的に、中国は東アジアにおいて覇権を握っており、中華思想に基づいて、歴代王朝の皇帝が『天下』を支配し、冊封体制の下で東アジアの国際秩序を維持するものと考えていた。しかし、18世紀後半になると、ヨーロッパ諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった。イギリス商人は18世紀末にヨーロッパの対中国貿易競争に勝ち残って、中国の開港地広州で茶貿易を推進した。

まず1872年、日本の琉球併合により冊封国琉球を事実上失った。琉球につづいて、1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対しベトナム宗主権を維持しようと清仏戦争(- 1885年)が起きたが、これによってもう一つの朝貢国越南(ベトナム)がフランスの支配下に入りました。アジアの盟主の地位が激しく揺らいだ。続く1894年、朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争)が起こり清が宗主国として介入すると、朝鮮支配を狙う日本も対抗して出兵して日清戦争(- 1895年)に発展したが、清の敗北に終わり、下関条約によって台湾割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、冊封国朝鮮に対する影響力も失った。

ウイグルでは、ヤクブ・ベクが清朝に反旗を翻した(ヤクブ・ベクの乱)。その中で、ロシアが1871年中央アジアからウイグルに派兵しイリ地方を占領した。漢人官僚の左宗棠の努力により、ヤクブ・ベクの乱は鎮圧され、最終的には、曾国藩の息子である曾紀沢の手によって1881年にはロシアとの間で不平等なイリ条約を締結し、イリ地方をロシアに割譲することになった。

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2.朝鮮をめぐる日清の抗争

日本は、朝鮮の開国後、その近代化を助けるべく軍隊の制度改革を援助しました。ところが1882(明治15)年、改革に取り残され、冷遇された事に不満を持った一部の朝鮮軍人の暴動が起きました(壬午事変)。清はこれに数千の軍隊を派遣し、ただちに暴動を鎮圧し、日本の影響力を弱めました。
1884(明治17)年には、日本の明治維新に倣って近代化を進めようとした金玉均らのクーデターが起きましたが、このときも清の軍隊がこれを鎮圧しました(甲申事変)。
朝鮮における清朝との勢力争いに二度敗北した日本は、清との戦争を予想して急速に軍備を拡張し、ほぼ対等な軍事力を蓄えるようになりました。

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3.日清戦争の経緯

大久保らが実権を握った日本は、1875年に江華島事件を起こして圧力をかけ、1876年に不平等条約である日米修好通商条約を参考に作られた日朝修好条規(江華条約)を締結し、朝鮮半島を開国させた。朝鮮は当時清国の冊封国であったが、この条約では冊封を近代的な意味での属国・保護国とは見做さなかったため、朝鮮は独立国として扱われました。
李氏朝鮮との国交問題が暗礁に乗り上げている中、朝鮮の宗主国である清との国交締結を優先にすべきとの考えから、1871年9月13日(明治4年7月29日)に、日本と清の間で「日清修好条規結」が結ばれました。日本側大使は大蔵卿伊達宗城、清側大使は直隷総督李鴻章であった。平等条約でしたが、その内容は両国がともに欧米から押し付けられていた不平等条約の内容を相互に認め合うという極めて特異な内容であった。日清戦争勃発まではその効力が続いていました。
その後、日本と清国の間で領土問題(台湾出兵参照)が発生し、日本の強硬な態度に驚いた清国は朝鮮に国書の受け入れ交渉をするよう指示しました。ここで交渉は再開されるはずであったが、1872年(明治5年)5月外務省官吏・相良正樹は、交渉が進展しない事にしびれを切らし、それまで外出を禁じられていた草梁倭館(対馬藩の朝鮮駐在事務所)を出て、東莱府へ出向き、府使との会見を求めた(倭館欄出)。
さらに同年9月、それまで対馬藩が管理していた草梁倭館を日本公館と改名し外務省に直接管理させることにしました。これは草梁倭館は、朝鮮政府が対馬藩の為に建て使用を認めた施設だったこと、対馬藩は日本と朝鮮に両属の立場にあったからである。 この日本側の措置に東莱府使は激怒して、10月には日本公館への食糧等の供給を停止、日本人商人による貿易活動の停止を行いました。日本側の感情を逆撫でする効果は十分にあり、「征韓論」が巻き起こるに至りました。

1875年(明治8年)9月20日、日本側が測量等のために朝鮮側の官僚と面会しようとして武装端艇でその陣営近くまで遡航し、さらに朝鮮側に断ることなく奥(ソウル方面)へと進もうとして江華島付近でで砲台から砲撃されたと記されていました。軍船が他国の河川を無断で遡航することは国際法違反であり、この場合さらに首都方面に行こうとしたことから、日本軍の行動は挑発だったと考えられています。
朝鮮からの砲撃の翌日、今度は日本側が艦砲射撃を行ったうえで、陸戦隊と海兵隊を上陸させて第2砲台を放火し、3日目には第1砲台も放火し、朝鮮側の35名を殺害しています。一方日本側の死傷者は雲揚の2名でした。
この事件が朝鮮政府に与えた衝撃は大きく、変革を拒否する鎖国攘夷勢力の反対をおさえて日本との国交回復を検討することになり、翌1876年に日朝修好条規(江華条約)が締結されました。
江華島事件後の朝鮮では、急進的欧米化を進めようとする親日的な開化派(独立党)と、漸進的改革を進めようとする親清的な守旧派(事大党)との対立が激しくなっていった。それとともに、開化派を支援する日本と守旧派を支援する清との対立も表面化してきました。
1882年7月23日に壬午事変が起こり、清と日本の軍隊が朝鮮の首都である漢城に駐留することになりました。日本の朝鮮駐留軍より清の駐留軍の方が勢力が強く、それを背景に守旧派が勢力を拡大していった。巻き返しを図った開化派は、日本の協力を背景に1884年にクーデターを起こし、一時政権を掌握した(甲申事変)。しかし、清の駐留軍が鎮圧に乗り出したため、日本軍は退却、クーデターは失敗しました。

1885年に日本と清とは天津条約を締結、両国は軍を撤退させ、今後朝鮮に出兵する際にはお互いに事前通告することがさだめられました。
1886年8月1日に長崎事件が起こった。清国海軍の北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が長崎港に日本政府の許可なく上陸。長崎市内で暴動を起こし、警官隊と激しく衝突、双方に死傷者を出す騒ぎとなりました。この事件によって日本国民の対清感情は著しく悪化しました。
甲午農民戦争の停戦後、朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請したが、どちらも受け入れなかった。それどころか、日本は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府や清がこれを拒否すると、7月23日に王宮を占拠して、親日政府を組織させた。清がこれに対して抗議して、対立が激化しました。

日本は開戦に備えてイギリスの支持を得ようと条約改正の交渉を行い、7月16日に調印に成功した(日英通商航海条約)。この直後から日本政府は開戦に向けての作戦行動を開始し、7月25日豊島沖の海戦で、日清戦争が始まりました。なお、宣戦布告は8月1日です。なお、日本政府の強引な開戦工作に対して、明治天皇は「これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり」との怒りを発していました。

日本政府が、国民に伝えた宣戦の理由(清国ニ対スル宣戦ノ詔勅)の要旨は次のようなものでした。

「そもそも、朝鮮は日本と日朝修好条規を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清国は朝鮮を属邦と称して、内政干渉し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。日本は済物浦条約に基づき、出兵して変に備えさせて、朝鮮での争いを永久になくし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清国に協同して事に従おうと提案したが、清国は様々な言い訳をしてこれを拒否した。日本は朝鮮の独立を保つため朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。しかし、清国はそれを妨害し、朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖で日本の軍艦を攻撃した(豊島沖海戦)。日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と天津条約とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清国の計画は明白である。清国は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。戦争を早期に終結し、平和を回復させたいと思う。」
7月25日の豊島沖海戦の後、陸上でも7月29日成歓で日本軍は清国軍を破りました。9月14日からの平壌の陸戦、9月17日の黄海海戦で日本軍が勝利し、その後朝鮮半島をほぼ制圧しました。10月に入り、日本軍の第1軍が朝鮮と清との国境である鴨緑江を渡り、第2軍も遼東半島に上陸を開始しました。11月には日本軍が遼東半島の旅順・大連を占領しました。1895年2月、清の北洋艦隊の基地である威海衛を日本軍が攻略し、3月には遼東半島を制圧、日本軍は台湾占領に向かいました。

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4.日清戦争

 日清戦争は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に李氏朝鮮をめぐる日本と、1860年代から洋務運動による近代化を進める清朝(中国)との間で行われた、日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。中国では甲午戦争、第一次中日戦争、英語:First Sino-Japanese War)。

日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。日本の戦費総額は日本円で3億円、死者1.3万人。この戦争期間は10か月であった。
大日本帝国と清国殿戦争で、支持勢力として、日本側は李氏朝鮮 独立党(開化派)、清国側は李氏朝鮮 事大党(保守派)。
1894年(明治27年)、朝鮮南部に甲午農民戦争とよばれる暴動が起きました。農民軍は、外国人と腐敗した役人を追放しようとし、一時は朝鮮半島の一部を制圧するほどでした。わずかな兵力しか持たない朝鮮王朝は、清に鎮圧のための出兵を求めましたが、日本も清との申し合わせを口実に軍隊を派遣し、日清両軍が衝突して日清戦争が始まりました。

戦場は朝鮮の他、満州南部などに広がり、日本は陸戦でも海戦でも清を圧倒し、勝利しました。日本の勝因としては、新兵器の装備に加え、軍隊の規律・訓練に勝っていた事があげられますが、その背景には、日本人全体の意識が、国民として一つにまとまっていたことがあります。

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5.下関条約

1895(明治28)年3月下旬からアメリカの仲介で、日本側が伊藤博文と陸奥宗光、清国側が李鴻章を全権に下関で講和会議が開かれました。3月24日に李鴻章が日本人暴漢に狙撃される事件が起こり、このため3月30日に停戦に合意しました。4月17日 日清講和条約が調印され、5月8日に清の芝罘で批准書の交換を行いました。

条約の主な内容は次の通り

  • 1. 清は朝鮮が独立国であることを認める。
  • 2. 清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲渡する。
  • 3. 清は賠償金2億両(テール:約3億円)を金で支払う。
    清は朝鮮の独立を認めるとともに、日本政府の財政収入の約3倍に当たる賠償金3億円あまりを支払い、遼東半島や台湾などを日本に譲り渡しました。このほかにもイギリスが清に要求して、まだ実現していなかった工場を建てる特権が含まれており、イギリスの立場を日本が代弁していた様子があります。
    当時ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発しました。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを要求した(三国干渉)。日本政府には、列強三か国に対抗する力は無かったため、これを受け入れ、その代償として清から2億両を金で得た。以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金で八幡製鉄所を建てるなど国力充実をはかった。
    また同年には、日英通商航海条約を結び、イギリスに日本国内での治外法権の撤廃(領事裁判権の撤廃)を認めさせます。

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6.日清戦争と三国干渉

日清戦争は、欧米流の近代国家として出発した日本と伝統的な中華秩序との対決でした。結果としてこの戦争により日本も諸列強の仲間入りをし、欧米列強に認められることとなりました。他方、「眠れる獅子」とよばれてその底力を恐れられていた清は、世界の予想に反して新興の日本にもろくも敗れ、古代から続いた東アジアの秩序は崩壊しました。
「眠れる獅子」と畏れられた清が、新興国日本に敗北する様子を見た欧州列強は、1896年から1898年にかけて勢力分割を行い、満洲からモンゴル・トルキスタンをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、広東省・広西省をフランスが勢力圏としました。同じく、イギリスは香港の九龍半島と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島(膠州湾租借地)、ロシアが旅順と大連を租借地として、それぞれ要塞を築いて東アジアの拠点としました。アメリカは南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、中国市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発しました。これに対し康有為・梁啓超ら若い知識人が日本の明治維新にならって、清も立憲君主制を取り国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱えはじめた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取することに成功する(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派の反撃にあって打倒された(戊戌の政変)。その後、西太后は愛新覚羅載儁(保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発をうけ、3日で廃されました。

1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンにかかげて外国人を攻撃しつつ北京に進出しました。翌1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京進駐を認める北京議定書を結ばされた。こうして清の半植民地化はますます進みました。

その後、義和団の乱の影響もあって清朝政府はついに近代化改革に踏み切り、科挙を廃止し、六部を解体再編し、憲法発布・国会開設を約束し、軍機処を廃止して内閣を置きました。しかし、清朝は求心力を失いつつあり、孫文らの革命勢力が次第に清朝打倒運動を広げていた。1911年、武昌での武力蜂起をきっかけに辛亥革命が起こり、清は完全な内部崩壊を迎えました。

翌1912年1月1日、南京に中華民国が樹立した。清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は2月12日、正式に退位し、ここに清は完全に滅亡しました。

戦争後、欧米列強各国は清の弱体化を見て取り、諸列強の中国大陸の植民地化の動きが加速され、中国分割に乗り出した。ロシアは旅順と大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借した。

下関条約の結果、清の朝鮮に対する宗主権は否定され、ここに東アジアの国際秩序であった冊封体制は終焉を迎えることになりました(李氏朝鮮は1897年(明治30年)大韓帝国として独立)。
しかし、ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発しました。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを4月23日日本政府に要求しました(三国干渉)。独力で3国に対抗する力を持たない日本は、やむを得ず代償として3000万両と引き替えに、返還させられました。

結果、国民に屈辱感を与え、中国の故事「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合い言葉に、官民挙げてロシアに対抗するための国力の充実に努めるようになりました。
以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金および利子3億6千万円を、日清戦争戦費(2億2247万円)の3割(7900万円)の補填と、次のより大規模な戦争のための軍備拡張費(2億円)とし、その他八幡製鉄所の建設と鉄道・電信事業の拡充および台湾の植民地経営など、国力充実と対外拡張のために使用しました。

加えて、1897年(明治30年)の金本位制施行の源泉となり、戦果は経済的にも影響を与えました。

台湾では、清朝の役人と台湾人達を先導して台湾民主国を建国、日本軍と乙未戦争を戦ったが日本軍の優秀な装備と圧倒的兵力の前に敗北しました。最終的に清朝の役人は資金を持ち逃げし、日本は台湾を併合し統治を開始しました。
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2.辛亥革命(しんがいかくめい)

 1911(明治44)年に起こった辛亥革命は、日本の東アジア政策に大きな影響を与えました。日本はいくつかの選択肢が考えられました。

  • 清朝を援助して満蒙権益を強化する
  • 革命派を援助して権益強化を図る
    しかし、日本は権益強化の視点にとらわれすぎたために、何を選択すべきかの政策判断を明確に下すことを躊躇せざるをえませんでした。
    辛亥革命そのものは、袁世凱が臨時大総統となり、中華民国の成立という一つの着地点を1912(明治45)年に迎えます。しかし、翌13(大正2)年には第二革命が勃発し、袁一派と国民党との対立は激しさを増し、中国の保全を願うイギリスのプレゼンスがある限り、日本も国民党も袁世凱に付け入ることはできませんでした。
    この状況を一気に変えたのは、またしても1914(大正3)年の第一次世界大戦でした。ヨーロッパ各国を本土で釘付けにし、そのためヨーロッパ各国はアジアを留守にせざるをえず、戦前よりはるかに日本の動向を気にかける有様となりました。日本にとってはまさに「大正の天佑」、千載一遇のチャンス到来と思われました。
    時の第二次大隈内閣は、外相加藤高明の強力な指導の下、東アジア情勢を変えるべく参戦しました。1915(大正4)年1月の中国に対する21ヶ条要求の主な内容としては、山東省のドイツ権益の譲渡、満蒙権益の強化、中国沿岸部の不割譲宣言などがあります。
    しかし、ポイントはあくまでも満蒙権益の強化に絞られました。明文化を求める日本とさらなる譲歩を恐れる中国との間に摩擦が続いたものの、最終的に半年後、中国は日本の要求を受け入れました。後発帝国主義国家日本のやや強引なこの外交手法は、中国そしてアメリカの強い批判を浴び、後まで日本の悪いイメージを残す結果となってしまいました。
    戦争は革命を育みました。1917(大正6)年、ロシアに十月革命が勃発。帝政を打倒したボルシェヴィキ政権は、帝国主義戦争を悪と見なし、直ちに講和の姿勢を示しました。帝政ロシアから一挙に共産主義ロシアへの大転換の前に、日本はまたもなす術を持ちませんでした。ここで二十世紀への遺産として残された恐露論は、緩和されるどころか、共産主義という「赤色」イデオロギーによって一層強化されることになりました。
    寺内内閣はロシアへの対抗上、日中提携強化を図り、西原借款という巨額の借款供与に踏み切りました。またボルシェヴィキ政権がアジアへ進出するのを抑止するため、1918(大正7)年にはシベリア出兵に踏み切りましたが、この二つの政策はいずれも失敗を運命付けられていました。▲ページTOPへ

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たじまる 鎌倉-3

鎌倉時代

鎌倉時代(1185年頃-1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したことからこう呼ばれる。武士階級による政権が本格的に実力を発揮し始めた時代である。

5.国衙から守護へ

やがて、国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する時代に入ります。 鎌倉期の守護は、1180年(治承4)、源頼朝が挙兵し、鎌倉へ入った後、諸国に置いた守護人に始まるとされています。

守護は、鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官です。1185(文治元)年、後白河上皇は、平家を壇ノ浦で壊滅させた源義経の軍事的才能に着目し、頼朝の対抗者に仕立てました。しかしこの企ては京都へ軍を送った頼朝により一撃され、頼朝に逃亡した義経を探索することを名目に、守護・地頭を全国に配置しました。現在では同年十一月の守護地頭設置をもって、鎌倉幕府の成立と見なす研究者が多くなっています。

通常、守護は、京都か鎌倉に常駐していて、任国には代官を置いて事務を執務させました。

設立当時の守護の主な任務は、在国の地頭の監督で、鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代は守護職(しゅごしき)といいました。のちに守護大名と発展し、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきました。

平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられています。

なお、諸国ごとに設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めたのは、1190年前後とされています。だが、当初の頼朝政権の実質支配権が及んだ地域は日本のほぼ東側半分に限定されていたと考えられており、畿内以西の地域では後鳥羽天皇を中心とした朝廷や寺社の抵抗が根強く、後鳥羽天皇(退位後は院政を行う)の命令によって守護職の廃止が命じられたり、天皇のお気に入りであった信濃源氏の大内惟義(平賀朝雅の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことです。

1185年に、源頼朝は大江広元の献策を受け容れて弟の源義経の追討を目的に全国に守護・地頭を設置します。守護は一国に1人ずつ配置され、謀反人の殺害など大犯三ヶ条や国内の御家人の統率が役割の役職で、地頭は公領や荘園ごとに設置され、年貢の徴収や土地管理などが役割でした。

鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

そして守護や地頭は、守護大名として、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきます。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期~16世紀初頭ごろには、一部は戦国大名となり、一部は没落していきました。

その後、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚(せんそ)(天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる)、後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に両朝が合一するまでの期間を南北朝時代と指し、室町時代の初期に当たる。この間、日本には南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれ正当性を主張しました。

6.但馬国司

■守護

  • 1185年~?  小野時広(惣追捕使)
  • 1197(建久8)~1221(承久3)年 安達親長 のち出雲兼任
  • 1221年~1223年 常陸坊(太田)昌明
  • 1285年~1321年 太田政頼
  • ?~1333年 – 太田氏
  • 1336年 今川頼貞
  • 1336年~1338年 桃井盛義
  • 1338年~? 吉良貞家 但馬・因幡兼任
  • 1340年~1351年 今川頼貞
  • 1361年~1365年 仁木頼勝
  • 1366年~1372年 長氏
  • 1372年~以降1536年まで 山名氏■国司但馬守
  • 960年頃 源経基
  • 1010年頃 源頼光
  • 1110年頃 平正盛
  • 平経正
  • 1130年頃 平忠盛
  • 1182年 平重衡(権守)
  • 矢沢頼康
    柳生宗矩 剣術家、のち大和国柳生藩主
    戸田氏西 美濃大垣藩主
    山口弘豊 常陸牛久藩主
    浅野長晟 安芸国広島藩初代藩主
    遠藤慶隆 美濃八幡藩初代藩主但馬介
  • ? 源満頼
  • 1224年 平有親
  • 714(霊亀元)年 安部安麻呂
  • 737(天平九)年 大津連船人(おおつむらじふねひと)
  • 741(天平十三))年 陽胡史真身(やこのゑびとまみ) 記録の上では、最初に但馬国司に任じられたのは、霊亀元年(714)、安部安麻呂で、国司制がほぼ形を成してきた頃でした。その後約三十年近くの間は判明しない。天平九年(737)になって、大津連船人(おおつむらじふねひと)の名前があります。

    7.陽胡史真身(やこのゑびとまみ)

    その次に見えるのが、陽胡史真身(やこのゑびとまみ)です。天平勝宝二年(750)、壬生使主宇太麻呂、但馬守に任ず。陽胡氏は、隋陽(火偏)帝の後、達率楊侯阿子王より出たといわれ、亡命した帰化系の氏族であった。彼が但馬守に任じられたのは、天平十三年(741)で、二期の間但馬国司を勤めています。 聖武天皇が奈良に大仏を造ろうとした時に、国民の協力を呼びかけ、高額の募財に応じた人々には、現在の位階に関わりなく、外従五位下に任じようといいました。『東大寺要録“起草章”』の『造寺校本知識記』に、大口献金者の名前が十人記され、陽胡史真身は、その6人目に記されています。外従五位上に任じられたばかりなのに、ただちに従五位下に昇進しています。そればかりか、翌天平勝宝元年には、四人の子息がそれぞれ一千貫を寄進し、一足飛びに外従五位下に昇進しています。恐らく真身が四人のこの名義で献金したものでしょう。

    この頃、律令制の位階を氏姓の尊卑で内位と外位とに分けていました。中央の官人に与えるのが内位で、従五位下に任じられたというのは内位に進んだということです。さまざまな貴族的特権を手に入れることが出来る。地方豪族や中央下級官にとっては、憧れの地位でしました。また、勲十二等にも叙せられています。真身はもともと法律専門の文官畑の出身者らしく見えるが、時には軍役にも駆り出されたのだろうか。

    地方官の給与だけでは、このような寄進が不可能と思われるような莫大な金額を調達しています。何らかの抜け道がなければ手に出来ない金額です。法律を拡大解釈したり、法律の盲点をついたり、逆用したりして、蓄財を果たすのが、当時の国司のやり方でした。法律畑出身の真身にとっては、まさに法律とは金儲けさせてくれるものだったろう。

    ではどのように行ったのだろう。大化改新によって、制度的には土地は国有化し、私有地はなくなった筈であります。戸籍に基づいて豪族だろうと一農民だろうと同じように口分田を受けることになっています。従五位下を手にすると、百町歩開墾の権利を手に出来る。但馬国司という地位を利用して、百町歩開墾を行ったとしたら、郡司たちが開墾に精力を注ぎ制限面積を超えた場合でも、国司として黙認し、その余剰分を蓄えたのではなかったのでしょうか。

    8.安達親長

    安達親長は、のち出雲(いずも)(島根県)の守護も兼任。安達氏は、鎌倉幕府の有力御家人の氏族。祖の藤九郎盛長は、平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉幕府の樹立に尽力した。 豊岡市日高町赤崎にある進美寺で、建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」(進美寺文書 県指定重要文化財)が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文です。

    源平合戦の直前まで、但馬は平家一門による知行国で、当時の世情の激変がしのばれます。承久の乱に際して、れっきとした鎌倉武士でありながら、後鳥羽上皇に味方したため、地位を追われ、代わって太田昌明が守護となりました。

    9.源頼光と頼光寺

    3.頼光寺(らいこうじ)

    曹洞宗 但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え、武勇に優れた弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。

    頼光寺は、豊岡市日高町上郷の山側にあります。平安中期の武将で、 大江山の鬼退治の伝説でも有名な源頼光(みなもと・よりみつ 948年(天暦2年)~1021年(治安元年))が1000年(長保2年)前後、但馬守に任じられました。豊岡市日高町上郷の頼光寺は、その邸宅跡と伝えられています。金葉和歌集に頼光夫妻が国府館で口ずさんだという「朝まだき空櫨(からろ)の音の聞こゆるは蓼刈る舟の過ぐるなりけり」の連歌が紹介されています。
    気多神社は、かつては頼光寺のご領地に鎮座していたそうです。

    10.太田氏の繁栄と滅亡

    むかし、比叡山の西塔谷というところに、常陸坊昌明という荒法師がいました。武芸に通じた荒法師として、この人の右に出るものはありませんでしました。

    ところが、文治元年(1185)のこと。後鳥羽上皇は、源頼朝に叔父の行家や弟の義経を捕らえるように命じる。常陸坊はこのとき比叡山を下り、行家を討つ仲間に入った。行家は捕らえられ、この手柄によって常陸坊昌明は、摂津の葉室荘と但馬の大田荘(豊岡市但東町)を賜り、大田荘に移って、それからは大田昌明と名乗ることになりました。

    その範囲は今の出石郡全体にあたるといわれていますが、昌明は何を考えたのか、この大田荘の一番奥の但東町木村の大将軍に館をつくったのです。そのころは、まだこの土地を大将軍とは呼ばなかったそうですが、文治五年、源頼朝が奥州の征伐をしたとき、はるばるこの遠征に従軍した昌明は、凱旋して自分で征夷大将軍といって自慢していたので、いつの間にか「大将軍の親方さま」と呼ばれるようになって、この地名が生まれたと伝えられています。

    昌明は、晩年に出城の築城にとりかかりました。亀が城の川上に仏清寺、川下に岩吹城を築き、一族や重臣を城主にして守らせました。また館を堀之内の台地に新築し、ここを代々の館としました。本城の亀が城を中心にして、仏清、岩吹の二城と、姫の段、堀の内などの館は、うまくつながって結ばれており、どの地点に立ってもすべての地点が必ず見渡せるようになっています。

    前但馬守護安達親長の子息の所領を没収して、進美寺に寄進したりしたこともありましたが、進美寺領に対して、干渉も行い始めました。たまりかねた進美寺では、本寺である比叡山延暦寺に保護を申し入れ、寺領を保全しようとしました。進美寺は末寺の中でも但馬随一の有力な寺院でした。延暦寺が但馬を寺院知行国としている限り、進美寺を厚く保護してやらねばならない。座主の令旨を昌明に伝えて、みだりに国衙や守護所が、進美寺領を違乱することがないようにいさめたり、六波羅探題に訴え出ました。

    このように昌明は、国衙がある気多郡に所領を持ちたいような行動をたびたび行っています。進美寺領や荘園が多かった気多郡は、なかなか奪えなかったのだろうか。

    昌明が亡くなった後も、太田氏は代々但馬守護職の地位にあり、一族は但馬各地の地頭になって栄えました。その様子は四代政頼が鎌倉の命により差し出した「但馬太田文」にうかがえます。また六代守延は検非違使に任ぜられ、京に上り、後醍醐天皇の第六子恒良親王をお預かりすることになります。しかし、元弘二年後醍醐天皇が隠岐の島を出て、太田氏の古い親戚にあたる名和氏をたより、船上山に幸されたと聞くと、守延も官軍に味方します。そして山陰の兵と合流し、親王をいただいて京都に攻め上がりましたが、敗走の途中、壮烈な戦死を遂げたと伝えられます。

    以後主を失い、残された一族は百姓になり、太田荘に住んだそうです。

    武士の時代、出石郡は、朝廷直轄領であり但馬の重要な拠点となっていたことが伺われます。

    11.大岡山と進美寺

    東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、大岡山は、気多郡の西になだらかな稜線をした山です。『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっている事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。 古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。

    日高町の南東に位置する須留岐山は、山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもあった。進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。

    山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されています私寺だったのであります。

    『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多い。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。

    大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でした。進美寺も同じく天台宗です。

    山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのだろう。

    大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の名が流れで、朝来郡で優勢な人で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。

    進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。

    但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中していますからです。

    しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙に国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。

    大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。

    12.承久の乱と雅成親王(まさなりしんのう)


    十二所神社 豊岡市日高町松岡

    承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱です。武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていましたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになります。 首謀者である後鳥羽上皇は隠岐の島へ、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流されました。後鳥羽上皇の皇子の六条宮(雅成親王)、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃され、行助法親王の子が即位しました(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになります。

    雅成親王は、後鳥羽上皇の第四皇子で、配流先は豊岡市高屋とされています。但馬守護太田昌明の監視を受ける身となりました。妃の幸姫が夫君の跡を慕って、懐妊の身にもかかわらず、三十余里の道程を歩み続けて、気多郡松岡村の里まで辿り着かれました。妃は急に産気づかれて皇子を分娩されましたが、侍女をとある農家に立ち寄らせて、親王の配所までの道のりを聞かせたところ、その家の老婆が意地悪く、

    「配所高屋までは、九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市で、合わせて二十日はかかりましょう」
    といったので、これを聞かれた妃は泣き崩れて、
    「これ以上三日も歩けば気力は尽きてしまうのに、二十日もまだ歩けとは、到底生きる望みはありません」

    と申されて、生まれたばかりの王子を石の上に寝かせ、せめて守り袋を王子の身許へ添え遣わされた上で、「死後南風になって高屋に達しましょう」といわれて、蓼川に入水され、侍女もこれに従いました。この事を聞き知った村の若者は、この老婆を火あぶりにしました。

    この後毎年この頃になると、決まったように洪水が起きて、村人が苦しんだので、これを妃のたたりとなして、その霊を慰めんがため、妃の霊を産土神として十二所神社に祀ったといいます。

    今でも松岡地区で旧暦三月十四日、「婆焼き祭り」が行われます。

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

たじまる 鎌倉-2

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

鎌倉時代

鎌倉時代(1185年頃-1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したことからこう呼ばれる。武士階級による政権が本格的に実力を発揮し始めた時代である。

5.国衙から守護へ

やがて、国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する時代に入ります。 鎌倉期の守護は、1180年(治承4)、源頼朝が挙兵し、鎌倉へ入った後、諸国に置いた守護人に始まるとされています。

守護は、鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官です。1185(文治元)年、後白河上皇は、平家を壇ノ浦で壊滅させた源義経の軍事的才能に着目し、頼朝の対抗者に仕立てました。しかしこの企ては京都へ軍を送った頼朝により一撃され、頼朝に逃亡した義経を探索することを名目に、守護・地頭を全国に配置しました。現在では同年十一月の守護地頭設置をもって、鎌倉幕府の成立と見なす研究者が多くなっています。

通常、守護は、京都か鎌倉に常駐していて、任国には代官を置いて事務を執務させました。

設立当時の守護の主な任務は、在国の地頭の監督で、鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代は守護職(しゅごしき)といいました。のちに守護大名と発展し、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきました。

平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられています。

なお、諸国ごとに設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めたのは、1190年前後とされています。だが、当初の頼朝政権の実質支配権が及んだ地域は日本のほぼ東側半分に限定されていたと考えられており、畿内以西の地域では後鳥羽天皇を中心とした朝廷や寺社の抵抗が根強く、後鳥羽天皇(退位後は院政を行う)の命令によって守護職の廃止が命じられたり、天皇のお気に入りであった信濃源氏の大内惟義(平賀朝雅の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことです。

1185年に、源頼朝は大江広元の献策を受け容れて弟の源義経の追討を目的に全国に守護・地頭を設置します。守護は一国に1人ずつ配置され、謀反人の殺害など大犯三ヶ条や国内の御家人の統率が役割の役職で、地頭は公領や荘園ごとに設置され、年貢の徴収や土地管理などが役割でした。

鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

そして守護や地頭は、守護大名として、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきます。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期~16世紀初頭ごろには、一部は戦国大名となり、一部は没落していきました。

その後、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚(せんそ)(天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる)、後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に両朝が合一するまでの期間を南北朝時代と指し、室町時代の初期に当たる。この間、日本には南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれ正当性を主張しました。

6.但馬国司

■守護

  • 1185年~?  小野時広(惣追捕使)
  • 1197(建久8)~1221(承久3)年 安達親長 のち出雲兼任
  • 1221年~1223年 常陸坊(太田)昌明
  • 1285年~1321年 太田政頼
  • ?~1333年 – 太田氏
  • 1336年 今川頼貞
  • 1336年~1338年 桃井盛義
  • 1338年~? 吉良貞家 但馬・因幡兼任
  • 1340年~1351年 今川頼貞
  • 1361年~1365年 仁木頼勝
  • 1366年~1372年 長氏
  • 1372年~以降1536年まで 山名氏■国司但馬守
  • 960年頃 源経基
  • 1010年頃 源頼光
  • 1110年頃 平正盛
  • 平経正
  • 1130年頃 平忠盛
  • 1182年 平重衡(権守)
  • 矢沢頼康
    柳生宗矩 剣術家、のち大和国柳生藩主
    戸田氏西 美濃大垣藩主
    山口弘豊 常陸牛久藩主
    浅野長晟 安芸国広島藩初代藩主
    遠藤慶隆 美濃八幡藩初代藩主但馬介
  • ? 源満頼
  • 1224年 平有親
  • 714(霊亀元)年 安部安麻呂
  • 737(天平九)年 大津連船人(おおつむらじふねひと)
  • 741(天平十三))年 陽胡史真身(やこのゑびとまみ) 記録の上では、最初に但馬国司に任じられたのは、霊亀元年(714)、安部安麻呂で、国司制がほぼ形を成してきた頃でした。その後約三十年近くの間は判明しない。天平九年(737)になって、大津連船人(おおつむらじふねひと)の名前があります。

7.陽胡史真身(やこのゑびとまみ)

その次に見えるのが、陽胡史真身(やこのゑびとまみ)です。天平勝宝二年(750)、壬生使主宇太麻呂、但馬守に任ず。陽胡氏は、隋陽(火偏)帝の後、達率楊侯阿子王より出たといわれ、亡命した帰化系の氏族であった。彼が但馬守に任じられたのは、天平十三年(741)で、二期の間但馬国司を勤めています。

聖武天皇が奈良に大仏を造ろうとした時に、国民の協力を呼びかけ、高額の募財に応じた人々には、現在の位階に関わりなく、外従五位下に任じようといいました。『東大寺要録“起草章”』の『造寺校本知識記』に、大口献金者の名前が十人記され、陽胡史真身は、その6人目に記されています。外従五位上に任じられたばかりなのに、ただちに従五位下に昇進しています。そればかりか、翌天平勝宝元年には、四人の子息がそれぞれ一千貫を寄進し、一足飛びに外従五位下に昇進しています。恐らく真身が四人のこの名義で献金したものでしょう。

この頃、律令制の位階を氏姓の尊卑で内位と外位とに分けていました。中央の官人に与えるのが内位で、従五位下に任じられたというのは内位に進んだということです。さまざまな貴族的特権を手に入れることが出来る。地方豪族や中央下級官にとっては、憧れの地位でしました。また、勲十二等にも叙せられています。真身はもともと法律専門の文官畑の出身者らしく見えるが、時には軍役にも駆り出されたのだろうか。

地方官の給与だけでは、このような寄進が不可能と思われるような莫大な金額を調達しています。何らかの抜け道がなければ手に出来ない金額です。法律を拡大解釈したり、法律の盲点をついたり、逆用したりして、蓄財を果たすのが、当時の国司のやり方でした。法律畑出身の真身にとっては、まさに法律とは金儲けさせてくれるものだったろう。

ではどのように行ったのだろう。大化改新によって、制度的には土地は国有化し、私有地はなくなった筈であります。戸籍に基づいて豪族だろうと一農民だろうと同じように口分田を受けることになっています。従五位下を手にすると、百町歩開墾の権利を手に出来る。但馬国司という地位を利用して、百町歩開墾を行ったとしたら、郡司たちが開墾に精力を注ぎ制限面積を超えた場合でも、国司として黙認し、その余剰分を蓄えたのではなかったのでしょうか。

8.安達親長

安達親長は、のち出雲(いずも)(島根県)の守護も兼任。安達氏は、鎌倉幕府の有力御家人の氏族。祖の藤九郎盛長は、平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉幕府の樹立に尽力した。 豊岡市日高町赤崎にある進美寺で、建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」(進美寺文書 県指定重要文化財)が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文です。

源平合戦の直前まで、但馬は平家一門による知行国で、当時の世情の激変がしのばれます。承久の乱に際して、れっきとした鎌倉武士でありながら、後鳥羽上皇に味方したため、地位を追われ、代わって太田昌明が守護となりました。

9.源頼光と頼光寺

頼光寺(らいこうじ)
曹洞宗

但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え、武勇に優れた弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。

頼光寺は、豊岡市日高町上郷の山側にあります。平安中期の武将で、 大江山の鬼退治の伝説でも有名な源頼光(みなもと・よりみつ 948年(天暦2年)~1021年(治安元年))が1000年(長保2年)前後、但馬守に任じられました。豊岡市日高町上郷の頼光寺は、その邸宅跡と伝えられています。金葉和歌集に頼光夫妻が国府館で口ずさんだという「朝まだき空櫨(からろ)の音の聞こゆるは蓼刈る舟の過ぐるなりけり」の連歌が紹介されています。
気多神社は、かつては頼光寺のご領地に鎮座していたそうです。

10.太田氏の繁栄と滅亡

むかし、比叡山の西塔谷というところに、常陸坊昌明という荒法師がいました。武芸に通じた荒法師として、この人の右に出るものはありませんでしました。

ところが、文治元年(1185)のこと。後鳥羽上皇は、源頼朝に叔父の行家や弟の義経を捕らえるように命じる。常陸坊はこのとき比叡山を下り、行家を討つ仲間に入った。行家は捕らえられ、この手柄によって常陸坊昌明は、摂津の葉室荘と但馬の大田荘(豊岡市但東町)を賜り、大田荘に移って、それからは大田昌明と名乗ることになりました。

その範囲は今の出石郡全体にあたるといわれていますが、昌明は何を考えたのか、この大田荘の一番奥の但東町木村の大将軍に館をつくったのです。そのころは、まだこの土地を大将軍とは呼ばなかったそうですが、文治五年、源頼朝が奥州の征伐をしたとき、はるばるこの遠征に従軍した昌明は、凱旋して自分で征夷大将軍といって自慢していたので、いつの間にか「大将軍の親方さま」と呼ばれるようになって、この地名が生まれたと伝えられています。

昌明は、晩年に出城の築城にとりかかりました。亀が城の川上に仏清寺、川下に岩吹城を築き、一族や重臣を城主にして守らせました。また館を堀之内の台地に新築し、ここを代々の館としました。本城の亀が城を中心にして、仏清、岩吹の二城と、姫の段、堀の内などの館は、うまくつながって結ばれており、どの地点に立ってもすべての地点が必ず見渡せるようになっています。

前但馬守護安達親長の子息の所領を没収して、進美寺に寄進したりしたこともありましたが、進美寺領に対して、干渉も行い始めました。たまりかねた進美寺では、本寺である比叡山延暦寺に保護を申し入れ、寺領を保全しようとしました。進美寺は末寺の中でも但馬随一の有力な寺院でした。延暦寺が但馬を寺院知行国としている限り、進美寺を厚く保護してやらねばならない。座主の令旨を昌明に伝えて、みだりに国衙や守護所が、進美寺領を違乱することがないようにいさめたり、六波羅探題に訴え出ました。

このように昌明は、国衙がある気多郡に所領を持ちたいような行動をたびたび行っています。進美寺領や荘園が多かった気多郡は、なかなか奪えなかったのだろうか。

昌明が亡くなった後も、太田氏は代々但馬守護職の地位にあり、一族は但馬各地の地頭になって栄えました。その様子は四代政頼が鎌倉の命により差し出した「但馬太田文」にうかがえます。また六代守延は検非違使に任ぜられ、京に上り、後醍醐天皇の第六子恒良親王をお預かりすることになります。しかし、元弘二年後醍醐天皇が隠岐の島を出て、太田氏の古い親戚にあたる名和氏をたより、船上山に幸されたと聞くと、守延も官軍に味方します。そして山陰の兵と合流し、親王をいただいて京都に攻め上がりましたが、敗走の途中、壮烈な戦死を遂げたと伝えられます。

以後主を失い、残された一族は百姓になり、太田荘に住んだそうです。

武士の時代、出石郡は、朝廷直轄領であり但馬の重要な拠点となっていたことが伺われます。

11.大岡山と進美寺

東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、大岡山は、気多郡の西になだらかな稜線をした山です。『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっている事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。

古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。

日高町の南東に位置する須留岐山は、山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもあった。進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。

山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されています私寺だったのであります。

『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多い。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。

大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でした。進美寺も同じく天台宗です。

山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのだろう。

大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の名が流れで、朝来郡で優勢な人で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。

進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。

但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中していますからです。

しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙に国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。

大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。

12.承久の乱と雅成親王(まさなりしんのう)


十二所神社 豊岡市日高町松岡

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱です。武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていましたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになります。

首謀者である後鳥羽上皇は隠岐の島へ、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流されました。後鳥羽上皇の皇子の六条宮(雅成親王)、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃され、行助法親王の子が即位しました(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになります。

雅成親王は、後鳥羽上皇の第四皇子で、配流先は豊岡市高屋とされています。但馬守護太田昌明の監視を受ける身となりました。妃の幸姫が夫君の跡を慕って、懐妊の身にもかかわらず、三十余里の道程を歩み続けて、気多郡松岡村の里まで辿り着かれました。妃は急に産気づかれて皇子を分娩されましたが、侍女をとある農家に立ち寄らせて、親王の配所までの道のりを聞かせたところ、その家の老婆が意地悪く、

「配所高屋までは、九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市で、合わせて二十日はかかりましょう」

といったので、これを聞かれた妃は泣き崩れて、

「これ以上三日も歩けば気力は尽きてしまうのに、二十日もまだ歩けとは、到底生きる望みはありません」

と申されて、生まれたばかりの王子を石の上に寝かせ、せめて守り袋を王子の身許へ添え遣わされた上で、「死後南風になって高屋に達しましょう」といわれて、蓼川に入水され、侍女もこれに従いました。この事を聞き知った村の若者は、この老婆を火あぶりにしました。

この後毎年この頃になると、決まったように洪水が起きて、村人が苦しんだので、これを妃のたたりとなして、その霊を慰めんがため、妃の霊を産土神として十二所神社に祀ったといいます。

今でも松岡地区で旧暦三月十四日、「婆焼き祭り」が行われます。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

たじまる 鎌倉-1

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

鎌倉時代

概 要

目 次

  1. 鎌倉時代設定のむずかしさ
  2. 武士政権の誕生
  3. 関東武士政権
  4. 二つの王権
 鎌倉時代(1185年頃-1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したことからこう呼ばれる。武士階級による政権が本格的に実力を発揮し始めた時代である。

1.鎌倉時代設定のむずかしさ

 日本の中世社会は600年という長きにわたる社会です。平安時代後期の平氏政権の成立(1160年代)から1568(永禄十一)年の織田信長の上洛(統一権力の成立)までを中世とするのが一般的です。院政時代、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代という時期区分が用いられてきました。これは権力の所在からの時期区分ですが、しかし、その長い年月は権力の分裂が著しく、たとえば、院政が終わって鎌倉幕府が成立したわけではないし、南北朝時代にはすでに室町幕府が成立していました。このように所在地による時期区分では捉えきれないのです。近世の始まりはいつとするのかが、成立期と末期とでは大きな違いも存在し、中世と一括りにできないですが、五味文彦氏は中世の時代的特徴を次の五つとしています。

  • 古代の中央集権に対し権力が統合されておらず、分権化の傾向が著しかった
  • 人々は自立による生存を求めていった
  • 神仏への信仰の広がりと文化活動の活発化
  • 日本列島各地の地域社会形成
  • 主従関係を基本とした多様な人間関係 始期については、従来源頼朝が将軍(征夷大将軍)に任じられた1192年とするのが一般的ですが、頼朝が平家打倒のために挙兵し御家人を統率する侍所を設置した1180年説、寿永二年十月宣旨で東国(東海道および東山道)の支配権を朝廷に公認された1183年説、対立する弟・源義経追討の名目で惣追捕使(後の守護)・地頭の設置権を獲得した1185年説、頼朝が上洛し権大納言・右近衛大将に任命された1190年説、また一部では1196年説など様々な考え方があります。この中で、壇ノ浦において平家を滅ぼし、さらに全国統治の基礎となる守護・地頭の設置権を獲得した1185年を画期とする考え方が現在では比較的有力です。

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2.武士政権の誕生

 1179(治承)年11月、福原(神戸市)に引退していた前太政大臣・平清盛は、突如として数千の兵を率いて入京。後白河上皇の院政を強引に停止し、政治の実権を掌握しました。日本史上初めて、武士の政権が誕生したのです。

関白以下、多くの貴族が解任され、平家と良好な関係を持ち者が代わってその座を占めました。日本全国(六六ヶ国)のほぼ半数にあたる三二ヶ国が、平家とその与党の知行国となりました(その前は十七ヶ国)。たがて清盛の外孫にあたる幼い安徳天皇が即位し、福原への遷都が強行されました。

まず清盛の祖父正盛と父忠盛は、西国の受領を歴任しながら勢力を蓄えました。平家との縁が薄い東国と西国の境界、現在の中部地方に強固な防衛ラインを築きます。それ以西、畿内と西国を直接の地盤とした政権でした。

正盛・忠盛は、瀬戸内海沿岸の海に生きる武士団を勢力下に組み込む努力を重ねてきました。そのため、清盛の代になると、瀬戸内海を一括して掌握することが可能となりました。福原の外港として大輪田の泊が修造されました。海運の要衝である厳島(宮島)には平家一門の祈りを捧げる厳島神社がありました。
九州の海の玄関である博多には太宰府を平家が実質支配しました。厳島・博多からさらに中国大陸に向かいました。

宋からは絹織物・陶磁器・香料、それに大量の銭が輸入され、日本の金・水銀・硫黄や蒔絵・日本刀などが輸出され、これらの交易が平家に膨大な富をもたらしました。

知行国重視を明確に打ち出し、当時のすでに国衙を核として、留守所を形成していた在地領主たちに従属と忠誠を要求しました。見返りとして、国衙領における彼らの本領を保護・安堵しました。

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3.関東武士政権

 「源平の戦い」といわれる一連の戦乱は、一体何だったのか。どちらが朝廷を守護するにふさわしい「武士の棟梁」であるかを決定する戦いだったと、また皇位をめぐる朝廷内の争いであるとか、いわれています。しかし、内乱の真の主役は、在地領主、すなわち武士たちであると考えられています。地方で生活する彼らは中央の朝廷の支配に不満を募らせていました。多くの税(米や特産物)を課せられ、大番役といって、しばしば膨大な費用で京都に上がり、朝廷の警備に当たらされる。隙を見せれば国衙に領地を奪われてしまいます。

誰も自分たちの利益を護ってくれる権力がないならば、自立するしかない。自立を勝ち取るための戦い、武士たちのいわば独立戦争、それが「源平の争乱」の実体なのです。

小さな各地の勢力は、その過程で武士の棟梁になるべき候補者が明らかになってきました。西国を中心とし、さらに宋との交易を重視した平家と、それに対し、東国武士の支持を得た関東の棟梁が源頼朝です。「一所懸命(一つの土地に命を懸ける)」という言葉があるように、御家人たちは土地に根ざして生活していた、動産よりも不動産が重視され、土地が主従関係をつないでいたのです。

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4.二つの王権

 王権とは、周囲に従属を要求し、かつ他者の助力を必要としない自立した存在です。つまり、王は自らの統治に属する地域を掌握し、そこに生きる人々を自らの働きかけを因果関係として能動的に認識することです。

王権を維持するには、官僚組織と、強制力を行使する軍事力の常備が有効となります。ただし、官僚組織も軍事力も、王権の必要不可欠な要件ではありません。むしろ、自らの統治力を過不足なく服する人々を率いて立つ強固な決意を持つことこそが、中世の王たる証しです。

東の王たる将軍は、官僚組織(鎌倉幕府)と、強力な軍隊を有していました。これに対し、西の王たる天皇は、官僚組織は育成したが、軍事力を持っていませんでした。1221(承久三)年の承久の乱の敗戦により、朝廷の軍事力は幕府の手によって解体されてしまったのです。

多くの庄園を集積した後鳥羽上皇は、庄園の下司職や官職を与えることによって忠誠を誓う武士を京都に集め、朝廷の軍事力を形成しました。京都周辺の治安維持に多大な威力を発揮し、自信を深めた上皇は鎌倉幕府の打倒を目指しました。しかし、朝廷軍は関東の武士たちに敗北し、京都は占拠されました。上皇は捕らえられ、隠岐の島に流されてしまいました。

幕府は京都に六波羅探題を設置して、天皇が軍事力を再建できないよう監視の目を光らせました。朝廷は王権を支える要素として、伝統と祭祀権を強調する他はなくなりました。こうして天皇は伝統を体現する歴史的権威として、また仏教の法会や神事を主催する祭祀王として振る舞ったのです。

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鎌倉藤紫(ふじむらさき)#a59aca最初のページ戻る次へ
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北近畿鉄道物語-宮津線

北近畿鉄道物語

宮津線

舞鶴は、京都府で京都市に次ぐ第二の都市であるとともに、日本海側屈指の貴重な軍港で、日露戦争を控え、舞鶴市までの鉄道敷設が緊急の課題となっていた。 明治25年ごろ、宮津・福知山間鉄道敷設の運動が起こる。1923年(大正12年)9月、北丹鉄道が福知山~河守間営業開始する。1924年(大正13年)4月12日、峰山線、舞鶴・宮津間営業開始。1933年(昭和7年)8月10日、丹後木津・久美浜間が開通し、峰豊線全線完成。これにより峰豊線と連接、舞鶴・豊岡間全通し、「宮津線」と線名を変更。現在は、北近畿タンゴ鉄道宮津線として運行されています。

また、丹後由良駅、丹後神崎駅、丹後大宮駅、丹後神野駅、但馬三江駅など丹後○○駅という駅名が多いのは、旧国鉄に同じ駅名が多いためで特徴的だ。野田川駅(丹後山田駅)、木津温泉駅(丹後木津駅)もかつて
は丹後○○駅だった。

宮福線

宮福線は、福知山と宮津を結ぶ鉄道計画は古くからあり、1887年(明治20年)には関西鉄道が由良を経る経路で測量するが実現しなかった。1892年(明治25年)には宮津側で敷設運動が起るが、実現しなかった。他方、北丹鉄道が福知山 – 河守間を1923年(大正12年)に開業させていた。しかし河守駅以北の建設は資金難から断念され、日本鉄道建設公団が宮守線として計画を引き継いだ。北丹鉄道は経営悪化により1971年(昭和46年)に休止、1974年に廃止となったため、福知山 – 河守(大江)間も鉄道建設公団が建設することになり宮福線として工事が続けられたが、1980年(昭和55年)の国鉄再建法施行により工事は中断されました。その後、第三セクターの宮福鉄道(現在の北近畿タンゴ鉄道)が1982年(昭和57年)に設立され、1983年(昭和58年)に工事再開、1988年(昭和63年)7月に宮福線として開業し悲願が達成されました。これにより、京都・大阪から宮津・天橋立へ向かう直通ルートができたことで北近畿の鉄道事情が大きく改善された(従来は、たとえば京都→天橋立の移動は、綾部駅と西舞鶴駅で二度のスイッチバックを伴うこととなり、時間的・心理的な遠さが存在した)。現在は、北近畿タンゴ鉄道宮福線として運行されています。

KTR北近畿タンゴ鉄道

タンゴエクスプローラー(KTR) 北近畿タンゴ鉄道は、京都府で旧日本鉄道建設公団が建設した宮福線と、旧国鉄特定地方交通線の鉄道路線宮津線を運営している京都府などが出資する第三セクター会社である。京都府舞鶴市の西舞鶴駅から宮津市の宮津駅を経由して兵庫県豊岡市の豊岡駅に至る宮津線と宮福線(宮津~福知山)がある。北近畿タンゴ鉄道路線(北近畿タンゴ鉄道)

普通ワンマン1両。丹後半島の付け根を通り、日本三景の天橋立などへの観光の足となっています。のどかな風景は見どころがいっぱいだ。
特急には宮福線経由の以下の列車が運行されています。

  • 特急「はしだて」(京都~天橋立)183系電車
  • 特急「文殊」(新大阪から天橋立)183系電車
  • 特急「タンゴエクスプローラー」(新大阪~宮津・豊岡、宮津 – 西舞鶴間快速・普通列車扱いあり)KTR001形気動車
  • 特急「タンゴディスカバリー」(京都~福知山~豊岡、久美浜 – 豊岡間快速列車扱いあり)KTR8000形気動車
    宮福線経由

沿 革
明治25年ごろ宮津・福知山間鉄道敷設の運動おこる。
1923年(大正12年)9月北丹鉄道福知山~河守間営業開始
1924年(大正13年)4月12日峰山線、舞鶴・宮津間営業開始
1925年(大正14年)7月31日峰山線、宮津・丹後山田間開通
同 11月3日丹後山田・峰山間開通し、峰山線全線完成
1926年(昭和元年)12月25日峰豊線、峰山・網野間開通
1930年(昭和4年)12月15日峰豊線、久美浜・豊岡間開通
1932年(昭和6年)5月25日峰豊線、網野・丹後木津間開通
1933年(昭和7年)8月10日丹後木津・久美浜間開通し、峰豊線全線完成、これにより峰山線と連接、舞鶴・豊岡間全通し、「宮津線」と線名を変更
1953年(昭和28年)8月宮津・河守間(宮守線)鉄道敷設法別表予定路線に追加
1964年(昭和39年)4月宮守線基本計画の決定
1966年(昭和41年)3月宮守線工事実施計画の認可
同年10月宮守線工事着手
1971年(昭和46年)2月北丹鉄道、福知山・河守間営業休止
1975年(昭和50年)7月河守・福知山間(宮福線)鉄道敷設法別表予定路線に追加
1978年(昭和53年)12月宮津・福知山間(宮福線)基本計画の変更
1980年(昭和55年)12月27日「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」(国鉄再建法)公布、施行
1982年(昭和57年)9月20日宮福鉄道(株)創立総会
同年9月22日会社設立(登記)
同年10月4日宮福鉄道(株)、運輸大臣に宮福線地方鉄道事業免許申請
同年12月24日運輸大臣、同上免許
1983年(昭和58年)1月20日工事施行認可、公団工事の申出
同年2月28日工事着手
1986年(昭和61年)4月7日国鉄、宮津線など第3次特定地方交通線12線の選定承認申請
1987年(昭和62年)1月19日京都府知事、運輸大臣に意見書を提出
同年2月 3日運輸大臣、宮津線など第3次特定地方交通線8線の選定承認
同年9月22日宮津線特定地方交通線対策協議会 第1回会議開催
同年12月21日宮津線特定地方交通線対策協議会 第2回会議開催
1988年(昭和63年)3月26日宮津線問題対策協議会臨時総会開催、宮津線は第三セクター方式による鉄道として存続との決議
同年3月31日京都府公共交通網整備研究会鉄道部会から、「宮津線の代替輸送は、第三セクターによる鉄道として選択することが地域の活性化に貢献する」旨の「提言」
同年4月4日宮津線問題対策協議会会長から京都府・兵庫県知事あて第三セクター鉄道による存続実現要請
同年4月7日宮津線特定地方交通線対策協議会第3回会議開催、鉄道(第三セクター)として存続を全会一致で合意決定
同年4月28日宮福鉄道(株)第14回取締役会開催、宮津線の運営引き受け決議
同年6月4日地元3市10町の首長会議開催、宮津線の運営主体について、宮福鉄道(株)が一体運営を行うことで基本合意
同年6月22日宮福鉄道(株)第6回定時株主総会開催、「転換計画」合意決定時には宮津線の運営を引き受け決議
同上宮津線特定地方交通線対策協議会第4回会議開催、宮津線の代替輸送事業者として、宮福鉄道(株)が運営を引き継ぐこと等を内容とする「転換計画」を全会一致で合意決定
同年7月16日開 業
同年12月24日宮福鉄道(株)宮津線引き受けに伴う増資
1989年(平成元年)8月1日宮福鉄道(株)が北近畿タンゴ鉄道(株)に商号変更
同年9月5日北近畿タンゴ鉄道(株)、運輸大臣に宮津線第一種鉄道事業免許申請
同年9月29日運輸大臣、同上免許
1990年(平成2年)4月1日転換開業
1992年(平成4年)1月10日列車無線運用開始
同年6月30日鉄道施設資産取得
1993年(平成5年)4月16日宮津・天橋立間電化の事業基本計画及び鉄道施設変更認可申請
同年5月13日同 事業基本計画変更認可
同年5月14日同 鉄道施設変更認可
同年6月10日同 工事実地計画の指示、鉄道整備基金事業認定
同年7月21日同 起工式
1994年(平成6年)4月15日福知山駅付近連続立体交差事業 都市計画決定
1996年(平成8年)3月16日宮津・福知山間電化・高速化開業

沿線の見どころ


如意寺・日切不動尊(京丹後市久美浜町)


豪商稲葉家(京丹後市久美浜町)

日本三景天橋立(宮津市)


内部には美しい古いステンドグラス。


丹後一の宮籠神社(宮津市)


カトリック宮津教会 日本で2番目に古い天主堂(宮津市)

加悦鉄道

会社概要・沿革
1926年(大正15年)12月5日丹後山田(現在の野田川)~加悦間が開業。路線距離(営業キロ):5.7km、# 軌間:1067mm、駅数:6駅(起終点駅含む。専用線除く)
1930年(昭和5年)12月5日三河内口駅開業。
1970年(昭和45年)4月8日加悦谷高校前駅開業。
1984年(昭和59年)2月1日貨物営業廃止。
1985年(昭和60年)5月1日丹後山田~加悦間廃止。


京都府与謝郡野田川町(現・与謝野町)の丹後山田駅(現在の北近畿タンゴ鉄道宮津線野田川駅)

丹後山田駅から、同郡加悦(かや)町(現・与謝野町)の加悦駅までを結んでいた私鉄である。1985年(昭和60年)5月1日に全線が廃止された。

当初は沿線の特産品である丹後ちりめんを京阪神地区に輸送することを主目的として開業し、旅客営業も行いた。その後、加悦駅の南西にある大江山でニッケルの採掘が開始されたため、1940年(昭和15年)に大江山ニッケル鉱山への貨物専用線が開業し、1942年(昭和17年)には丹後山田駅から北東の岩滝町にある精錬所(日本冶金大江工場)への専用線も開通した。

戦後、大江山でのニッケル採掘が中止されたため加悦~大江山間の専用線は撤去されたが、大江工場への専用線は同工場で精錬する輸入ニッケル鉱を輸送するため存続した。

モータリゼーションの進行により旅客輸送量が減少する一方であったが、明治・大正時代に製造された古典蒸気機関車をはじめ、「マッチ箱」と呼ばれる木造2軸客車、国鉄から購入した客車改造のキハ08形気動車など希少車・珍車の宝庫として知られ、多くのファンを集めた。会社側もやがて観光鉄道を目指すようになり、グッズ類の販売等にも力を入れるようになりました。しかし、1985年(昭和60年)3月14日の国鉄ダイヤ改正で宮津線の貨物輸送が廃止され、同線でのニッケル鉱輸送が不可能となったため、丹後山田~大江工場間の専用線も廃止を余儀なくされました。これにより、鉄道収入の6割を占めていた専用線の輸送業務委託料が失われ、赤字額の大幅な増大が見込まれたため、同年5月1日に全線が廃止された。

なお、運営会社の加悦鉄道株式会社は鉄道路線廃止後、カヤ興産株式会社と社名を変更し、代替となる路線バスの運行や鉄道保存展示施設「加悦SL広場」の運営などを行っていたが、1999年にバス部門を加悦フェローラインに分社し、会社設立時のニッケル鉱輸送の関連から日本冶金工業のグループ会社となっています。

北近畿鉄道年表

北丹鉄道

京都府北部、福知山市の福知山駅から加佐郡大江町(現在は福知山市の一部)の河守駅(現在の北近畿タンゴ鉄道宮福線大江駅近傍)までを結ぶ鉄道を運営していた。1923年(大正12年)9月22日開業、設立当時は、北丹軽便鉄道株式会社という名称だったが開業前に改称しています。本来は国鉄福知山駅から宮津線を短絡する目的であったが、宮津線の由良川架橋点が当初の予定より河口近くに変更されたため、河守(こうもり)駅から先の建設は断念した。その後、日本鉄道建設公団が河守駅から宮津駅までを結ぶ路線を宮守線として建設することになり、1966年(昭和41年)に着工されました。ルートは由良川沿いから山中をほぼ直線に抜けるものに変更されています。

しかし、1969年(昭和44年)に沿線の河守鉱山が閉山したことによって北丹鉄道の貨物輸送は激減したため経営が成り立たなくなり、宮守線完成を待つことなく、1971年(昭和46年)3月2日に由良川治水事業を名目に運行休止、程なくバス事業も営業休止に追い込まれた。

1974年(昭和49年)に鉄道路線が正式に廃止されるとともに会社は解散、バス事業については京都交通株式会社に譲渡しています。

宮守線の建設工事は国鉄再建法施行により中断するものの、第三セクターに引き継がれることとなり、1988年(昭和63年)に宮福鉄道(現在の北近畿タンゴ鉄道)宮福線として開業した。

会社概要
社名北丹鉄道株式会社
本社所在地京都府福知山市(福知山西駅構内)
設立1920年(大正9年)2月1日 設立時は「北丹軽便鉄道株式会社」
事業内容地方鉄道事業 道路運送事業他
資本金1,500千円
従業員数43名(鉄道部門24名)
大株主不明
沿 革
1919年(大正8年)路線免許交付。
1921年(大正10年)当初の北丹軽便鉄道から北丹鉄道に社名変更。
1923年(大正12年)9月22日路線距離(営業キロ):12.4km、# 軌間:1067mm、駅数:8駅(起終点駅含む)で福知山~河守(こうもり)間が開業。
1971年(昭和46年)3月2日福知山~河守間休止。
1974年(昭和49年)2月28日福知山~河守間廃止許可。

ウィキペディアなどを参考にさせていただきました。

気多郡の地名

但馬国

旧郡名現行政名
朝来郡朝来市
養父郡養父町、朝来市(大蔵・糸井地区)、豊岡市(日高町赤崎・日高町浅倉地区)
出石郡豊岡市(出石地域、但東地域、神美地区)
気多郡豊岡市(日高地域、豊岡市中筋地区・佐野以南、竹野町三椒地区)
城埼郡豊岡市(城崎地域、豊岡・八条・三江・田鶴野・五荘・新田・奈佐・港地区)
美含郡美方郡香美町(香住区)、豊岡市(竹野町竹野・竹野町中地区)
七美郡美方郡香美町(村岡区、小代区)、養父町(熊次地区)
二方郡美方郡新温泉町(旧浜坂町、旧温泉町)

気多(ケタ)郡の地名

気多郡とは、但馬国(兵庫県北部(日本海側))にかつて存在した郡で、北から豊岡市中筋地区の伏、八社宮から、今の豊岡市日高町(浅倉・赤崎は旧養父郡)と豊岡市竹野町床瀬、椒までのエリア。昭和30年(1955)に、美含郡とともに城崎郡に吸収し郡名は消滅。
気多郡は、奈良時代に律令制が行われた後の時代に記された「和名抄」によると、八つの郷で構成されていた。西から太多(タダ)、三方(ミカタ)、楽前(ササクマあるいはササノクマ)、高田(タカダ)、日置(ヒオキ)、高生(タコウ)、狭沼(サヌマ)、賀陽(カヤ)で、これはずっと後になって律令制度が整備された郷。ちなみに山間部が多い太多(タダ・太田)と狭沼(サノ)、三方(ミカタ)の3郷は広大で、気多郡の平野部を除いた比較的山間部に位置し、約3/4を占める。弥生時代までに、こうした国境(邑境)は、地理的条件で、ある程度自然に分けられたのであろうが、これらが後に郡・郷(庄)として郷名であり、首長名になった。最も大きな太多郷は兵庫県でも鉢伏と並んで最も古くから人が住み着いた遺構が発見された土地であり、気多郡は東部を南北に流れる円山川と、稲葉(いなんば)から久田谷(くただに)までの円山川の支流稲葉川水系である。狭沼郷は円山川の支流八代川水系と現在の竹野町椒、三原から八代川下流の豊岡市佐野までで狭沼(サノ)は佐野の旧字である。

    • 1889年(明治22年)4月1日 – 町村制施行(7村)

中筋村(賀陽郷)・日高村・国府村・八代村・三方村・西気村・三椒村

  • 1894年(明治27年)12月15日 – 清滝村が西気村より分立。
  • 1896年(明治29年)4月1日 – 美含郡とともに城崎郡へ編入され消滅。
  • 1925年(大正14年)11月1日 – 町制を施行し日高町となる。
  • 1955年(昭和30年)2月1日 – 養父郡宿南村の一部を編入。
  • 1955年(昭和30年)3月25日 – 日高町、国府村、八代村、三方村、西気村、清滝村が合併し、新しい日高町が発足。
  • 2005年(平成17年)4月1日 – 豊岡市、出石町、但東町、城崎町、竹野町と合併して新たな豊岡市が発足し、日高町消滅。

『和名類聚抄』承平年間(931年 – 938年) 気多郡 郡八
太多、三方、楽前、高田、高生、日置、狭沼、賀陽

国司文書別記第一巻 『気多郡郷名記抄』 天延三年(975)

陽候史 真志訶 選

気多
気多は気多都県なり。この郡の気吹戸主神の釜あり。常に烟を噴く。この故に気多郡と名づけ、郡名となす。今その山を名づけて『神鍋山』という。気多神この地に鎮座す。祭神は国作大巳貴命・物部多遅麻連命・大入杵命三座。

■太多郷=旧西気村・清滝村

太多郷は、将軍田道公の御子太多毘古命在住の地なり。この故に名づく。
止美トベ己呂訶伎コロカキ漆垣ウルシカキ山守部ヤマノモリベ石作部イシツクリベ太多タダ壬生部ミブベ稲葉イナンバ巨智部コチベ・秦部・的部イクハベ錦部ニシキベ栗栖クリス太刀宮タチノミヤ田口タノクチ羽知ハジ

『太田文』村数19
十戸ジゥゴ比垣コロカキ・漆垣・山ノ宮・石井・太多・栃本・東河内ヒガシカウチ水口ミノクチ・稲葉・萬却マンゴウ・山田・萬場マンバ名色ナシキ・栗栖野・庄境・久田谷・田ノ口・羽尻ハジリ

三方郷

三方郷は、馬方郷の転訛、軍馬操練の地なり。この故に名づく。馬工連ウマタクミノムラジ刀伎麿、その祖平郡(群)木兎ヘグリノツク宿祢命を祀る。これを馬工神社という(今の馬止神社:豊岡市日高町観音寺)
柴垣・麁香アラカ亥子民部イノコノカキベ廣井ヒロイ・志貴・栗山・馬工・守山・智々見チヂミ餐所サムソ

『太田文』村数10
芝・安良川アラカワ・猪子垣・廣井・殿村・栗山・観音寺・森山・知見チミ三所サンショ

佐々前ササクマ

佐々前郷は、いま楽前ササノクマ郷と書す。献神の義なり。この故に名づく。
伊布イフ篠民部シノカキベ・佐田・伊原・野中

『太田文』村数5
伊府・篠垣・佐田
右北庄と云う。
野村・伊原
右東方と云う。
伊原は今道場ドウジョウと云う。

高田郷

高田郷は高機郷なり。雄略天皇の御世16年夏6月、秦の伴部を置く。養蚕・製糸の地なり。
矢集ヤヅメ久斗クト禰布ニョウ射楯イダテ威田イダ

『太田文』村数6
夏栗・久斗・禰布・石立イシダチ・國分寺・水上ミノカミ

日置郷

日置郷は日置部在住の地なり。日置神社この地にあり。天櫛玉命を祀る。玉作部は日置村にあり。
日置ヘキ楯屋タテノヤ伊福イフ気多ケタ葦田アシダ

『太田文』今の村数
日置・多田谷タタノヤ・伊福・上郷カミノゴウ中郷ナカノゴウ

高生タカフ

高生郷は、威田臣荒人の裔威田臣高生在住の地なり。この故に高生と名づく。
矢作部ヤハギベ善威田ヨヒダ善原エハラ稲長イナガ

『太田文』村数4
地下ヂゲ岩中イハナカ・宵田・江原

国府コフ

国府在住の地なり。またの名は気多郷。

山本(元は八上)・土居ヒヂヰ・伊智・堀部・美努ミノ・熊野・芝垣・池上イキノエ上石アゲシ

『太田文』今の村数
山本・松岡マツノオカ土居ドヰ手邊テヘン國府コフノ市場・堀・野々庄・池上・芝・上石・タカヌキ竹貫

狭沼サノ

狭沼は狭き沼なり。この故に名づく。

狭沼・鷹貫・葛井フジヰ陶谷スタニ国棺クノギ・谷・大炊山代オオヒヤマシロ・八代・河合カワヒハジカミ・三原・猪爪イノツメ

『太田文』今の村数
佐野・上石・竹貫
右佐野庄と云う。
藤井・奈佐路ナサヂ・谷・八代中村・猪爪・奥八代・河江・椒・三原
右八代谷と云う。

賀陽カヤ

賀陽郷は、舒明天皇の皇子、賀陽王の子代部の民所住の地なり。この故に賀陽部という。三島真人の裔、三木島宿祢在住の地なり。故に賀陽王を中山に鎮座す。

低野・土淵ヒヂフチ・三木島・布勢・八社宮ハサミ・大岡山

『太田文』今の村数
引野ヒキノ土淵ヒヂフチ賀陽カヤ八社宮ハサミフシ清冷寺シャウレイジ


目次

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気多郡の地名

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

気多(ケタ)郡の地名

気多郡とは、但馬国(兵庫県北部(日本海側))にかつて存在した郡で、今の豊岡市日高町と中筋地区から、伏、八社宮、豊岡市竹野町床瀬、椒までのエリア。昭和30年(1955)に、美含郡とともに城崎郡に吸収し郡名は消滅。

気多郡…狭沼郷、太多郷、三方郷、楽前郷、

高田郷、高生郷、日置郷、賀陽郷

但馬国

旧郡名現行政名
朝来郡朝来市
養父郡養父町、朝来市(大蔵・糸井地区)、豊岡市(日高町赤崎・日高町浅倉地区)
出石郡豊岡市(出石地域、但東地域、神美地区)
気多郡豊岡市(日高地域、豊岡市中筋地区・佐野以南、竹野町三椒地区)
城埼郡豊岡市(城崎地域、豊岡・八条・三江・田鶴野・五荘・新田・奈佐・港地区)
美含郡美方郡香美町(香住区)、豊岡市(竹野町竹野・竹野町中地区)
七美郡美方郡香美町(村岡区、小代区)、養父町(熊次地区)
二方郡美方郡新温泉町(旧浜坂町、旧温泉町)

 

気多郡は、奈良時代に律令制が行われた後の時代に記された「和名抄」によると、八つの郷で構成されていました。西から太多(タダ)、三方(ミカタ)、楽前(ササクマ)、高田(タカダ)、日置(ヒオキ)、高生(タコウ)、狭沼(サヌマ)、賀陽(カヤ)ですが、これはずっと後になって律令制度が整備された郷なので、縄文時代は違ったかも知れませんが、これが邑(ムラ:今の区単位)を集合させた小国の単位であると思います。ちなみに山間部が多い太多(タダ・太田)と狭沼(サノ)、三方(ミカタ)の3郷は広大で、気多郡の平野部を除いた比較的山間部に位置し、約3/4を占めます。弥生時代までに、こうした国境(邑境)は、地理的条件で、ある程度自然に分けられたのでしょうが、これらが後に郡・郷として気多氏の支配下にある郷名であり首長名になったのでしょう。最も大きな太多郷は兵庫県でも鉢伏と並んで最も古くから人が住み着いた遺構が発見された土地であり、稲葉(いなんば)から久田谷(くただに)までの円山川の支流稲葉川水系であり、気多氏にとって重要な中心部でした。狭沼郷も円山川の支流八代川水系と現在の竹野町椒、三原から八代川下流の円山川に注ぐ地点です。

■沿革

気多郡…狭沼郷、太多郷、三方郷、楽前郷、高田郷、高生郷、浅間郷、日置郷、賀陽郷

    • 1889年(明治22年)4月1日 – 町村制施行(7村)

中筋村(賀陽郷)・日高村・国府村・八代村・三方村・西気村・三椒村

  • 1894年(明治27年)12月15日 – 清滝村が西気村より分立。
  • 1896年(明治29年)4月1日 – 美含郡とともに城崎郡へ編入され消滅。
  • 1925年(大正14年)11月1日 – 町制を施行し日高町となる。
  • 1955年(昭和30年)2月1日 – 養父郡宿南村の一部を編入。
  • 1955年(昭和30年)3月25日 – 日高町、国府村、八代村、三方村、西気村、清滝村が合併し、新しい日高町が発足。
  • 2005年(平成17年)4月1日 – 豊岡市、出石町、但東町、城崎町、竹野町と合併して新たな豊岡市が発足し、日高町消滅。

■太多郷=旧西気村)

神鍋(かんなべ)

神鍋は、マオリ語の

「カネ・ナペ」、KANE-NAPE(kane=head;nape=ligament of a bihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifulhttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife)、「(V字形に開いた山脈=口を開いた貝の間を連結している)貝柱の(中にある)頭(のような山)」 の転訛。
または、「人里近く、姿優美な山、神々が降臨され、鎮まる山を「神奈備(かむなび)」というが、神体山信仰のかんなび(神奈備)が訛っって「カンナベ」になったものではないかと思っていましたが、噴火口が大きなお鍋のように見えるから「神様の鍋」のだとか。「カンナビ」が、このマオリ語のカネ・ナペとしても意味が通じるのだ。

太田(ただ)==古:太多兵庫県下でも関宮町別宮遺跡 (海抜6~700m、縄文早期までの複合遺跡) とともに爪型文土器が発見された、神鍋遺跡(神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡)のある区

「タタ」、TATA(stalk,stem,fence)、または「タ・タ」、TA-TA(ta=the…of;ta=dash,beat,lay,sprinkle by means of a branch or bunch of leahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifes dipped in water)

「垣根のような(長く延びている。岬)」

神鍋山の形状の事ではないでしょうか。

または  「タタ」、TATA(bail water out of a canoe,bailer)、「舟の中に滲み出すあか水(湿地の水)を汲み出す(川。佐陀川を開削した神。その神が鎮座する場所)」

鶴岡字多田谷(タタノヤ)もある。楯谷が変化した?楯縫神社。

岩倉(いわくら)

神鍋の小字である岩倉は、

IWA-KURA(iwa=nine(numerous);kura=red feathers,precious,treasure)、「大量の宝物(を埋蔵した場所)」

実際に神鍋の岩倉は現在神鍋スキー場のゲレンデ名で知られていますが、火山活動による風穴があり、地元の人が現在でも冷蔵庫代わりに食糧を貯蔵したりしています。古代人が住み着いたり物資を貯蔵するにはもってこいです。
また、「イワ・クラエ」、IWA-KURAE(iwa=nine;kurae=headland)、「沢山の尾根が出ている(土地)」の転訛。

稲葉(いなんば)

後述の雷神社がある区。旧気多郡の中心的な円山川の支流、稲葉川の最上流部

この「いなは」は、マオリ語の
「イ・ナ・パ」、I-NA-PA(i=beside;na=belonging to;pa=block up,prehttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifent,screen,stockade)、「交通の障害となっているもの(蘇武岳と三川山)の付近の地域」
、または
「イ・ナ・パ」、I-NA-PA(i=beside,past tense;na=satisfied,belonging to;pa=stockade)、「ゆったりとした巨大な集落のそば(の地域)」の転訛と解します。 →太田

山田(やまた)

奥神鍋スキー場のある区

「イア・マタ」、IA-MATA(ia=indeed,current;mata=face,eye,flint,obsidiam)、「実に・眼がある(溜め池がある。地域)」または「実に・(火打ち石や石器に使える)堅い石(サヌカイトなど)がある(屋島がある。地域)」
の転訛と解します。

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万却(まんごう)

「まんぼう」は、マオリ語の「マナ・ポウ」、MANA-POU(mana=power,psychic force;pou=pau=consumed,exhausted)、「生命力を消耗した(ような鈍重な魚)」(「マナ」の語尾のA音が脱落して「マン」に、「ポウ」が「ボウ」に変化した)

の転訛と解します。 「まんぼう」が訛って「まんごう」になった?

栗栖野(くりすの)

この「くり」は、マオリ語の「クリ」、KURI(=kurikuri=fusty,ehttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifil smelling)、「(花に)悪臭がある(木)」

または「ク・フリ」、KU-HURI(ku=silent(whakakuku=beach a canoe);huri=seed)、「静かな(貯蔵する)種子(=栗実。またはその実をつける木)」(「ク」と「フリ」の語頭のH音が脱落した「ウリ」が結合して「クリ」となった)

の転訛と解します。
「すのこ」は、「ツ・(ン)ガウ・コ」、TU-NGAU-KO(tu=fight with,energetic;ngau=bite,hurt,attack;ko=to gihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife emphasis)、「実に・たくさん・(食いちぎられて)隙間が空いているもの(簀の子)」(「ツ」が「ス」と、「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となつた)または「ツ・(ン)ゴコ」、TU-NGOKO(tu=fight with,energetic;ngoko=itch,tickle)、「盛んに・(足の裏を)刺激するもの(簀の子)」(「ツ」が「ス」と、「(ン)ゴコ」のNG音がN音に変化して「ノコ」となつた)

の転訛と解します。
それらの複合語で「クリ+スノコ」が訛って縮まった。

万場(まんば)

この「まんぼ」は、マオリ語の「マノ・ポウ」、MANO-POU(mano=interior,heart,ohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.giferflow;pou=pour out)、「水が流れ出す地中(のトンネル)」の転訛(「マノ」の語尾のO音が脱落して「マン」と、「ポウ」の語尾のU音が脱落して「ポ」から「ボ」となった)と解します。 →さらにまんばになったのでは?
東河内(ひがしこうち)

「コウ・チ」、KOU-TI(kou,koukou=anoint,sprinkle;ti=throw,cast)、「(笹竹で清めの)水を振りかけたような(僅かに湿っている)土地が・放り出されている(地域)」の転訛と解します。

名色(なしき)
「ナチ」、NATI(pinch or contract)、「(圧縮したように皮や果肉が)堅い(果実。梨)」
梨の木の転訛と解します。

■太多郷=旧西気村・清滝村)

清滝(きよたき)マオリ語の 「キオキオ・タキ」、KIOKIO-TAKI(kiokio=lines in tatooing;taki=track,lead)、「(顔の)入れ墨の線を辿る(ような川)」 の転訛(同音反復の語尾「キオ」を省略した)と解します。
栃本(とちもと)「ト・チ(ン)ゴ(ン)ゴ・キ」、TO-TINGONGO-KI(to=be pregnant,drag;tingongo=cause to shrink,shrihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifel;ki=full,http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifery)、「縮み上がる(肝を冷やすような険しい)ところが・たくさん・中にある(峠)」(「チ(ン)ゴ(ン)ゴ」のNG音がN音に変化して「チノノ」となり、反復語尾が脱落して「チノ」となった)
の転訛と解します。山宮(やまのみや)

「イア・マ」、ia-ma(ia=indeed;ma=white,clean)、「実に・清らかな場所(山)」
石井(いしい)

「イ・チ」、i-ti(i=past tense;ti=throw,cast)、「(大地から切り離されて地上に)放り出され・たもの(石)」の
井。または、
「イ・チヒ」、I-TIHI(i=beside;tihi=summit,top)、「(多布施川の最上流部)頂点の・近くの(樋)」(「チヒ」のH音が脱落して「チイ」から「シイ」となった)
の転訛と解します。
頃垣(ころがき)

「コロ」、KORO(old man)、「(老人の白髪のような)白い(粉を吹いた干し柿。枯露柿)」
十戸(じゅうご)

「トウ」、tou(posteriors,lower end of anything,tail of a bird)、「(尻尾の)最後の(数。十)」

戸は、音読みでは「ヘ」と読みます。

「ノ・ヘア」、NO-HEA(no=from,belonging to,of;hea=what place?,any place,elsewhere)、「(一から九までの)いずれかの・場所(地域)」(「ヘア」の語尾のA音が脱落して「ヘ」となった)

の転訛と解します。

「コ」、ko(descendant)、「子孫(となるもの。卵)」

「戸」は「べ」で部の意味であるなら十人の、十番目の部
延喜式神名帳の名神大の戸神社があり、へじんじゃ、このじんじゃとも呼びます。

庄境(しょうざかい)

「しょう」は、マオリ語の

「チホウ」、TIHOU(an implement used for cultihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifating)、「(耕作の道具である)鍬。または鍬で耕す耕地。または(ある人が支配する)耕地の広がり」(原ポリネシア語の「シホウ、 SIHOU」のH音が脱落して日本語では「シオウ」から「ショウ」と、マオリ語ではS音がT音に変化して「チホウ」となった)

の転訛と解します。

「さかい」は、マオリ語の「タ・カイ」、TA-KAI(ta=the,lay;kai=reach,arrihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife at)、「(その果てのところまで)到達した(場所。境界の地)」の転訛と解します。
椒(はじかみ) 竹野町椒(旧気多郡)

「パチ・カミ」、PATI-KAMI(pati=ooze,spurt,splash;kami=eat)、「はじけた(実を)・食べる(野菜)」(「パチ」のP音がF音を経てH音に変化し「ハチ」から「ハジ」となった)または「パチチ・カミ」、PATITI- KAMI(patiti=warm oneself;kami=eat)、「食べると・(体が)熱くなる(野菜)」(「パチチ」のP音がF音を経てH音に変化し、反復語尾が脱落して「ハチ」から「ハジ」となった)
床瀬(とこせ) 竹野町床瀬(旧気多郡)

「トコ」、TOKO(pole,push or force to a distance,begin to mohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife)、「(さあ)始めは」

「(正面の)反対側(背)」(AI音がE音に変化して「テ」から「セ」となった)

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■三方地区(みかた:旧三方村、郷)

「ミヒ・カタ」、MIHI-KATA(mihi=greet,admire,show itself;kata=opening of shellfish)、「貝が口を開いたような地形(潟のある地形)を・見せつけている(誇示している。地域)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)の転訛と解します。
実際に楓の葉のように五方に谷が広がっています。
金谷(かなや)「カナ・イア」、KANA-IA(kana=stare wildly,bewitch;ia=current,indeed)、「川の流れ(流れの早さ、水量・水深など)を・じっと目を凝らして見る。
昔、金山があった所で、金が採集されていました。
垣屋氏がそれを治めていました。河畑(かばた)

「カパ・タ」、KAPA-TA(kapa=row,rank,stand in a row or rank;ta=dash,dash water out of a canoe,lay)、「段になったところ(河岸段丘)を激しく流れる(川、または河岸段丘にある渓谷)」
の転訛と解します。

殿(との)

「トノ」、TONO(tono=bid,command,send,demand)、「灯を灯して・送った(送使)」
の転訛と解します。反対側に垣屋氏の鶴ヶ峰城があったので垣屋殿の居館があったのではないでしょうか。

室(むろ)

マオリ語の 「ム・ロ・フ」、MU-RO-HU(mu=silent;ro=roto=inside;hu=swamp,hollow,hill)、「静かな内側(山奥)の丘(または穴のように開けた場所)」 または  「ムフ・ロ」、MUHU-RO(muhu=grope,push one’s way through bushes;ro=roto=inside)、「(暗いので)手探りで中の方へ進む(場所。室)」
の転訛(「ムフ」の語尾の「フ」が脱落した)と解します。
田ノ口(たのくち)

奥深くに田園がありその入口に集落があります。

広井(ひろい)

「ヒロウ」、HIROU(rake,net for dredging shellfish)、「熊手で均したような(平野)」
猪子垣(いのこがき)

「いのしし」は、マオリ語の

「イ・ナウ・チチ」、I-NAU-TITI(i=ferment,be stirred;nau=come go;titi=go astray)、「(山中を)徘徊していて突然遭遇する(動物)」(「ナウ」のAU音がO音に変化して「ノ」となった)
猪の子の
の転訛と解します。

猪が多く垣根をしたことから地名になったのではないかと思います。

芝(しば)

「チパ」、TIPA(dried up)、「(もと湿地が)乾燥した(場所)」

野(の)

「ノア」、NOA(free from tapu or any other restriction.ordinary,indifinite)、「(墓場のような禁忌がない)野(原)」または「なにも束縛がない(野人など)」(語尾のA音が脱落して「ノ」となった)

荒川(あらかわ)

稲葉川が流れ、氾濫した。

栗山(くりやま)

この「くり」は、マオリ語の「クリ」、KURI(=kurikuri=fusty,ehttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifil smelling)、「(花に)悪臭がある(木)」

または「ク・フリ」、KU-HURI(ku=silent(whakakuku=beach a canoe);huri=seed)、「静かな(貯蔵する)種子(=栗実。またはその実をつける木)」(「ク」と「フリ」の語頭のH音が脱落した「ウリ」が結合して「クリ」となった)

の転訛と解します。
観音寺(かんのんじ)

「カネ・オ(ン)ゲ」、KANE-ONGE(kane=head;onge=scarce,rare)、「珍しい頭(のような峰)」
の転訛と解します。
「カネ」が「カン」に、「オノ」が「オン」となった)
篠垣(しのがき)

「チ(ン)ゴ(ン)ゴ」、TINGONGO(cause to shrink,shrihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifel)、「(全体が)縮んだように小さい(竹)」(NG音がN音に変化し、反復語尾が脱落して「チノ」から「シノ」となった)または「チノヒ」、TINOHI(put heated stones upon food laid to cook in a earth-ohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifen)、「(地面に掘った蒸し焼き穴で)食物の上にかぶせてその上に焼けた石を載せるための植物(篠竹)」(H音が脱落して「チノ」から「シノ」となった)
「(ン)ガウ・リウ」、NGAU-RIU(ngau=bite,hurt,attack;riu=bilge of a canoe,http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifallay,belly,chest)、「(東側は鹿島川の源流のシラタケ沢、西側は黒部川の支流の餓鬼谷と東谷の)谷が・浸食されている(谷が深く・岩壁がそそり立っている。山)」または「(ン)ガキ・ヒ(ン)ガ」、NGAKI-HINGA(ngaki=clear off,cultihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifate,ahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifenge;hinga=fall from an errect position,be killed,lean)、「削られて・(頂上から谷底まで一気に)落ち込んでいる(岩壁がある。山)」(「(ン)ガキ」のNG音がG音に変化して「ガキ」と、「ヒ(ン)ガ」のH音が脱落し、NG音がG音に変化して「イガ」となり、「ガキ」と連結して「ガキガ」とった)
「篠の垣」。
森山(もりやま)

「マウリ」、mauri(a http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifariety of totara timber http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifalued for making canoes)、「(カヌーを造るのに適した)大木(その大木の集まり。森)」(AU音がO音に変化して「モリ」となった)

知見(ちみ)

小さくまとまっている、こじんまりとしているさま。

チヒ・マ→チ・マ(「ヒ」が脱落)、TIHI-MA(tihi=top,point,topknot of hair;ma=white,clean)、きれいに結い上げた頭上のまげ→小さくまとまっている

佐田(さた)

「タタ」、TATA(dash down,strike repeatedly,stem,fence)、「垣根のような(岬)」

の転訛と解します。

伊府(いぶ)

「イ・ノペ」、I-NOPE(i=past tense,beside;nope=constricted)、「(山と山に挟まれて)押し潰されて・いる(地域)」
の転訛と解します。
とありますが、日高町伊府は、まさに低い丘と佐田の山々に挟まれた細長い地域です。

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■日高地区(ひだか:旧日高村、日置郷)

■日高地区(ひだか) 日置郷(村)と高田郷(村)が明治に合併し、日高村→日高町となる。「日置」の日と「高田」の高を合わせて新しい日高村とした。久田谷(くただに)

太多郷の最東端で銅鐸が発見されたところ。クタはケタが訛った?!のかもしれないとすれば、気多へ向かう谷、または気多氏の住む谷ではないか。
辺坂(へんざか)

「ノ・ヘア」、NO-HEA(no=from,belonging to,of;hea=what place?,any place,elsewhere)、「(一から九までの)いずれかの・場所(地域)」(「ヘア」の語尾のA音が脱落して「ヘ」となった)の転訛と解します。
-の坂
夏栗(なつくり)

「ナハ・ツ」、NAHA-TU(naha,nahanaha=well arranged,in good order;tu=fight with,energetic)、「(動植物が)生き生きと・活動する(季節。夏)」(「ナハ」のH音が脱落して「ナ」となった) 、夏の栗
道場(どうじょう)

「トウ・チオ」、TOU-TIO(tou=dip into a liquid,wet;tio=cry,call)、「潮騒が聞こえる(海水に浸かって泣いているような海岸)」
気多氏の兵の道場があった?

久斗(くと)=久刀

マオリ語の

「ク・ツ」、KU-TU(ku=silent;tu=stand,settle)、「静かに暮らしている(人々。その住む土地)」

の転訛か 「クタオ」、KUTAO(cold)、「寒い(場所)」

の転訛と解します。
また久刀兵主神社が置かれているが、気多氏とヤマト政権側が戦ったと戦地を伝えるではないか。
高田(たかた)郷

和妙抄では「多加多」と訓じている。但馬考…夏栗、久斗、祢布、石立、国分寺、水上

「タカ(高)・タ(処)」で「台地、丘陵」など「高地」野医とする説があります。
「タカ・タ」、TAKA-TA(taka=heap,lie in a heap;ta=dash,beat,lay)、「浸食されている・高台(の地域)」
の転訛と解します。
水上(みのかみ)

「ミナカ・ミ」、MINAKA-MI(minaka=desire;mi(Hawaii)=urine,stream)、「(何かを)求めるように(噴流する川。噴流する温泉)」
山本(やまもと)

「イア・ママオ・ト」、IA-MAMAO-TO(ia=indeed,current;mao,mamao=distant,far away;to=drag,open or shut a door or a window)、「実に・遠くまで・(雄物川を)遡った(場所にある。地域)」(「ママオ」のAO音がO音に変化して「マモ」となった)

または「イア・ママウ・ト」、IA-MAMAU-TO(ia=indeed,current; mau,mamau=grasp,wrestle with;to=drag,open or shut a door or a window)、「実に・(悪戦苦闘して)やっと・辿り着いた(地域)」(「ママウ」のAU音がO音に変化して「マモ」となった)

の転訛と解します。

祢布(にょう、にお)
当店があるところで、旧役場など日高町の中心機関が集まる。かなり広い地名で、祢布ヶ森遺跡など但馬国府と関係があったのではないかという事が分かってきた。祢布城があった城山の裾に楯石神社。

但馬国分寺に近く売布神社も近い。
舞鶴市赤野は同じ祢布村だった。高野女布の祢布神社。

舞鶴市女布の金峰神社(上路神社)に祢布神社(奥の院)
祭神 天之御中主命
女布(にょう)は、古くは「祢布」と記し、アイヌ語の村の意。

「ニオ」、NIO((Hawaii)highest point,pinnacle,to reach the summit)、「最高の(精選した。麻の繊維)」(この「熟麻(にお)」の語源は、刈稲を円錐形に高く積み上げた「堆(にお)」の語源と同じと解します。

「ニアオ」、NIAO(gunwale of a canoe,rim of any open http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifessel)、「(三崎(荘内)半島をカヌーに見立ててその)船縁(にある。土地)」(AO音がO音に変化して「ニオ」となった)

または、
「ニウ」、NIU(dress timber with an axe,mohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife along,glide)、「滑るように流れる(川。その河口の港)」 または、「ヌイ・フ」、NUI-HU(nui=large,many;hu=promontory,hill)、「(岬のような)細長くて低い山が・たくさんある(地域)」(「ヌイ」が「ニ」となった)
「ニウ」、NIU(dress timber smooth with an axe,mohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife along;(Hawaii)niu=spinning)、「(粒となつてころころと流れる)水銀(朱を産する。地域)」または「(斧で表面を削ったような)小さい起伏がある(地域)」
石立(いしだち)

現在はほぼ国分寺区。賣布神社[ヒメフ][めふ]

大賣布命 配 毘沙門天、稻荷大明神

兵庫県豊岡市日高町国保字山ノ脇797
祢布区に隣接し、丹(水銀)と関係するのか?
京丹後市網野町木津女布谷にある賣布神社(ひめふじんじゃ)神名小 豐宇賀能咩命、素盞嗚命(とようかのめのみこと)由緒
『竹野郡誌』に次の様に記載されている。
垂仁天皇九十年春、田道間守勅を奉じて常世国に渡航し、不老不死の香菓たる橘を得、景行天皇元年無事帰国し、田神山(屋船山)に神籬を設けて礼典を挙げられしより、此の地に奉祀せしを以て創始とする。

賣布神社は京丹後市久美浜町女布初岡にある賣布神社 祭神豐受姫命、大屋媛命、抓津媛命。しかも神社の読みは島根県松江市に鎮座する式内社と同名。深い谷。似た地名に丹生舞鶴市女布(ニョウ)があり、日本の水銀鉱床は中央構造線沿い、当地に関係深いところなら特に紀ノ川・吉野川流域にあるのだが、そのずっと北側にも、当地の女布あたりを中心に大きな楕円を描いて但馬から近江・越前を含む範囲、若狭湾岸地域とも呼ばれているが、そこにも集中分布しているのが以前から知られている。

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国分寺(こくぶんじ)

但馬国分寺があったところ。国分寺城。
伊福(いう)村

鶴岡区のかつての村名。
製鉄の部、伊福部に由来している。
鶴岡(つるおか)

古くは伊福村。

「ツル」、TURU(post,pole,upright)、「(頸と足が長くて)直立している(鳥。鶴)」(なお、植物の「つる(蔓)」は、「ツ・フル」、TU-HURU(tu=stand,settle,fight with,energetic;huru=contract,draw in,gird on as a belt)、「しっかりと・巻き付くもの(蔓)」(「フル」のH音が脱落して「ル」となった)の転訛と解します。さらに、弓の「つる(弦)」も同じ語源で、「しっかりと・(弓の両端を)引っ張るもの(弦)」と解します。)
「オカ」、OKA(prick,stab)、「(突き刺したように海が)細長く入り込んでいる(場所。湾がある地域)」

多田谷(たたのや)

円山川右岸で谷が深い。伊福とたたら製鉄と関係があるのか?川沿いに楯縫古墳がある。現在鶴岡区

楯縫神社[タテヌイ]

彦狹知命、譽田別命、息長足姫命

兵庫県豊岡市日高町鶴岡字保木177

御由緒

白鳳時代、今から千三百年の往昔出雲国から、丹波国を経て当国で栄えた楯縫連(た てぬいのむらじ)が、遠祖(とおつおや)彦狭知命を楯屋丘(たてやのおか)多田谷 にまつる。西暦千九百四十七年此地に遷座奉祀す。

「タタ(ン)ガ・ツク」、TATANGA-TUKU(tanga,tatanga=be assembled,row,tier,company of persons,proximity,nearness;tuku=let go,lrahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife,allow,send,settle down,side,shore,ridge of a hill)、(1)「列をなして並んでいる・山の峰々(記歌謡)」または(2)「いたって近いところに・寄り添う(2-194)」(「タタ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「タタナ」となった) 。-の谷。

日置(ひおき)、郷(ヘキ)

日置郷…和妙抄は「比於岐」。日置、多田谷、伊福、上郷、中郷

マオリ語の
「ヒオ・キ」、HIO-KI((Hawaii)hio=a sweep or gust of wind,lean,incline;ki=full,http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifery)、「強い風が・しばしば吹く(地域)」の転訛と解します。
「ヒキ」、HIKI(lift up,raise,carry in the arms,remohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife)、「高くなつた丘陵(岩殿丘陵のある地域)」 の転訛と解します。
式内日置神社がある。日置は戸置で、税金の徴収台帳である戸数を調べるものとか、日を置くことで、暦に関係したものとか、火置と考えて、浄火を常置して神事に関係したとか、楯部らとともに、太刀を作っていたから、武器製作にも関係していたとか言われている。しかし、律令時代に日常業務にあたって殿部(とのもり)の中に名を見せる日置氏は、火を灯す役を受け持っているから、代々朝廷に仕えていたのではないか。
江原(えばら)=荏原

マオリ語の

「エパ・ラ」、EPA-RA(epa=pelt,throw,hindrance;ra=wed)、「(円山川の氾濫で)痛めつけられた場所が連なる(地域)」

の転訛と解します。
宵田(よいだ)

「イオ・イ」、io-i(io=stand firm;i=past tense,be stirred of the feelings(whakai=self-conceited))、「しっかりと・自惚れた(満足した。良い)」

岩中(いわなか)

「イ・ワ」、i-wha(i=past tense;wha=be disclosed)、「(大地からその先端を)現わし・たもの(岩)」と対比した表現と解します。)

岩がある土地の真ん中か?
地下(じげ)

消滅。所在地不明。岩中と祢布の一部で日高小辺りか?

淺倉(あさくら)

旧養父郡宿南村

「アタ・クラ」、ATA-KURA(ata=gently,clearly,openly;kura=red,ornamented with feathers,precious)、「羽根で飾ったような(美しい)・清らかな(土地。地域)」

の転訛と解します。
赤崎(あささき)

旧養父郡宿南村

「アカ・タキ」、AKA-TAKI(aka=clean off,scrape away,http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifine of any climbing plants;taki=take out of the way,track with a line from the shore)、「(岸から)はみ出した表面が拭い去られたような(場所)」

■八代地区:旧八代村=狭沼郷(さぬま)

「トウ・マ」、TOU-MA(tou=posteriors,lower end of anything,dip into a liquid,dip frequently into liquid;ma=white,clean)、「しばしば水に漬かる(洪水に見舞われる)清らかな(地域)」
藤井(ふじい)この「ふじい」は、マオリ語の
「フチ」、HUTI(hoist,pull out of the ground,fish with a line)、「(持ち上げた)垂れた(花を付ける植物。藤)」
奈佐路(なさじ)奈佐に向かう道。
奈佐は豊岡市奈佐。「なせ」は、マオリ語の「ナ・テ」、NA-TE(na=by,indicate parentage or descent,belonging to,by reason of;te=emphasis,crack)、「(主人公と)離れている(疎遠になっている人間)」

の転訛と解します。
谷(たに)

中(なか)

「ナカ」、NAKA(mohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife in a certain direction:(Hawaii)to quihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifer,shake,to crack open)、「震動しながら(または割れ目をつくって)流れる(川。その流域の土地)」

かつて国府平野(高生平野から豊岡盆地までは円山川の入り江で国府駅付近は海抜0メートルと日高町で最も低地)から円山川に注ぐ八代川は大雨のときには氾濫していたのでしょうし、洪水のときには円山川から逆流したりで被害が大きかった地域が、狭沼郷東部です。
谷(たに)

猪ノ爪(いのつめ)

天日槍の子多遅摩比那良岐を祭る古社・多麻良岐(たまたき)神社がある。
八代

「実に・(フォークのような)二股に分かれている(土地)」
河江(かわえ)

小河江(こがわえ)

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■国府地区(旧国府村、高生郷、気多郷)

高生(たこう)消滅。所在地不明。国府平野を高生平野と言っている。

高生郷…和妙抄は「多加布」。地下、岩中、宵田、江原

山本、松岡、土居、手辺、国府市場、堀、野々庄、池上、芝、上石の十区が所属不明。国府の所在地には、行政上の特別処置として郷を設置しなかったものか、あえて国があるから郷名が忘れられてしまったものか。

上石の国府駅以西は海抜0メートル地帯。

「タ・カウイ」、「編んだレースのような(川の流れが縦横に入り組んでいる九頭竜川の河口付近一帯の)土地を・(九頭竜川の洪水が)襲う(地域)」

竹貫(たかぬき)

「タクヌイ」、TAKUNUI(wide)、「広い(浦)」

鷹貫神社[タカヌキ] 鷹野姫命

兵庫県豊岡市日高町竹貫字梅谷429

御由緒

創立年月不詳なるも祭神鷹野姫命は神功皇后の御生母にましませり延喜式の制鷹貫神 社と記して小社に列し明治六年十月村社に列せらる。

「タケケ」、TAKEKE(denoting exhaustihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife character of the action indicated.consumed,completely acquired,etc.)、「消耗した(中が空(から)になった植物。竹)」(反復語尾が脱落して「タケ」となった)
水生(みずのお)
上石区の小字名。水生城があった山、水生寺
中世頃はすぐ下は沼地だったといわれる。

「ミ・ツ」、mi-tu(mi=stream;tu=stand)、「(流れる)水が・静止している(水)」

「アウ」、AU(string,cord)、「糸(繊維。その繊維を採る植物)」(AU音がO音に変化して「オ」となった)
上石(あげし)

「ア(ン)ガイ」、ANGAI(north-north-west wind,on the west coast)、「西に河岸がある(土地)」(NG音がG音に、AI音がEI音に変化して「アゲイ」となった)

「ア・(ン)ゲル」、a-ngeru(a=the…of,belonging to;ngeru,ngerungeru=smooth,soft)、「関係を円滑にする・もの(贈り物をする。(物を)上げる)」(「(ン)ゲル」のNG音がG音に変化して「ゲル」となった)

石を上にした。?

西芝(にししば)

上記参照。
池上(いけがみ)

「イケ」、IKE(strike with a hammer or other heahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gify instrument)、「(金槌で叩いた跡のような)穴(その穴に水が溜まった。池)」

または「イケ・(ン)ガミ」、IKE-NGAMI(ike=high,strike with a hammer;ngami,wahkangami=swallow up)、「高く隆起した(丘)」
野々庄(ののしょう)

古くは大将野庄という荘園だった。

「ノア」、NOA(free from tapu or any other restriction.ordinary,indifinite)、「(墓場のような禁忌がない)野(原)」または「なにも束縛がない(野人など)」(語尾のA音が脱落して「ノ」となった)
「しょう」は、マオリ語の「チホウ」、TIHOU(an implement used for cultihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifating)、「(耕作の道具である)鍬。または鍬で耕す耕地。または(ある人が支配する)耕地の広がり」

掘(ほり)

「ホウ・ル」、hou-ru(hou,houhou=dig up;ru=shake,agitate)、「掘り・上げる(掘る)」(「ホウ」のOU音がO音に変化して「ホ」となつた)
国府の掘割りに由来しているという。

府中新(ふちゅうしん)

府中は律令制の下で但馬国の国府所在地であったことによります。

古くは地名がなく、現在は存在しない手辺という地域ではないか。

府市場(ふいちば)

国府のそばに市場が開かれていたという。古くは下郷だと思う。

土居(どい)

国府の土居があったと伝えられている。古くは下郷だと思う。
御井神社[ミヰ]

御井神 配 菅原道眞

兵庫県豊岡市日高町土居字天神228

御由緒

創立年月不詳にして延喜式の制小社に列し近世天満宮と崇めしも明治三年御井神社と 改称す同六年十月村社に列せらる。

松岡(まつおか)

円山川西岸の土手に松の木があったのでは。古くは下郷だと思う。

上郷(かみのごう)

日置村上郷。気多神社があり、幻の気多郷か?
気多神社[けた]

大己貴命

兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227 天日槍命と気多氏

御由緒

創立年月不詳なるも大己貴命(葦原志許男命)と(天日槍命と)国占の争ありし時、命の黒葛此地に落 ちたる神縁によりて早くより創立せられしものならむ。延喜式の制小社に列し中世以 降総社気多大明神と仰ぎ鎌倉時代社領として大般若田、三十講田其他の神領田を有し たりき明治三年社名を現在の通りに改め同六年十月郷社に列せらる。

■賀陽(かや)郷 (豊岡市)

旧気多郡賀陽や丹後に加悦町がありますが、この「かや」は、
朝鮮伽耶か?「カイ・ア」、KAI-A(kai=eat,quantity,fulfil its proper function;a=drihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife,collect,well)、「浸食された土地が・集まっている(地域)」 、または「カ・イア」、「集落(群)」 の転訛と解します。
土渕(ひじうち)「ピヒ・チヒ」、PIHI-TINI(pihi=begin to grow,sprout;tini=summit,top)、「(峰の)頂上まで・木が生える」(P音がF音を経てH音に変化して「ヒヒ」となり、「チヒ」とともにH音が脱落して「ヒチ」から「ヒジ」となった)
「フチ・ノペ」、HUTI-NOPE(huti=pull up;nope=constricted)、「引き上げられて圧縮された(土地)」

の転訛と解します。
引野(ひきの)

「ヒ・ク」、hi-ku(hi=raise,draw up;ku=silent)、「静かに・引き上げる(引く)」

佐野(さの)
清冷寺(せいれいじ)
木内(きなし)

「キヒ」、KIHI((Hawaii)edge,tip,sharp point of a leaf)、「(葉の)先が鋭く尖っている(野菜。ねぎ)」

井上夢間さんの「夢間草廬(むけんのこや)-ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源」

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たじまる 縄文3 神 (神道)

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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神 (神道)

概 要

目 次

  1. 神 (神道)
  2. 分類
  3. 神名(しんめい
  4. 神道の研究
 神道は、太古の日本から信仰されてきた固有の文化に起源を持つ宗教。日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立していきました。 なお、神道には明確な教義や教典がなく、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『宣命』などといった「神典」と称される古典を規範とします。森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊を祀り、祭祀を重視します。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目と、他宗教と比べて、現世主義的であり、性善説的であり、祀られるもの(神)と祀るもの(信奉者)との間の連体意識が強い、などといった特徴が見られます。

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1.神 (神道)

 日本では気象、地理地形に始まり、あらゆる事象に「神」の存在を認める八百万(やおよろず)の神といい、万物に精霊が宿るというアミニズムから発展した多神教で、そこいら中に神がいて、どの神が正しいというはっきりとした基準がありません。 多神教の神には二つの顔があります。人々に恵みをもたらすありがたい福の神「豊饒(ほうじょう)の神」、そして、祟りのような災難をもたらす神です。これは、良い神と悪い神の二種類いるというわけではなく、一柱の神に、「神」と「鬼」の二面性があるのです。

つまり、神と鬼は表裏一体であり、神は祟るからこそ祀られ、そして、祟る神=鬼は祀られることで、恵みをもたらす豊饒の神へと変身します。このような複雑で原始的な図式が多神教の特色であり、一神教世界は、この混沌から抜け出し発展したと自負しています。また、先進国で多神教を信奉しているのは日本だけです。おそらくこの辺にも、「日本は異質だ」、といわれる原因があるのでしょうか。

これに対し、キリスト教世界では、神は一人であって、だからこそ絶対的存在とみな信じているのです。「唯一絶対の神がこの世を想像し、その教えが絶対的に正しい…」、これがいわゆる一神教というものです。

神道と仏教の違いについては、神道は神話に登場する神々のように地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村etc)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教は主に個人の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく異なります。

日本の神道は、多神教で神道の神々は、別の宗教の神を排斥するより、神々の一人として受け入れ、他の民族や宗教を自らの中にある程度取り込んできたとして、その寛容性が主張されることがあります。しかし、世界各地に仏教が広まった際、土着の信仰との間に起こった現象です。日本に552年(538年説あり)に仏教が公伝した当初には、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識されていました。

神道は多神教だが、祖霊崇拝性が強いため、古いものほど尊ばれる。1881年の神道事務局祭神論争における明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利し、天照大神が最高の神格を得たが、敗北した出雲派的なものが未だに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い。

明治の神仏分離令によって分離される以前は、神道と仏教はしばしば神仏や社寺を共有し寺院の境内に社があったり、神社の境内に神宮寺が併設されたり、混じりあっていました。それは人と同じような姿や人格を有する「人格神」であり、現世の人間に恩恵を与える「守護神」ですが、祟る(たたる)性格も持っています。災害をもたらし、祟るからこそ、神は畏れられました。神道の神は、この祟りと密接な関係にあります。

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2.分類

自然物や自然現象を神格化した神 最も古い、自然物や自然現象を神格化した神です。古代の日本人は、山、川、巨石、巨木、動物、植物などといった自然物、火、雨、風、雷などといった自然現象の中に、神々しい「何か」を感じ取っていました。自然は人々に恩恵をもたらすとともに、時には人に危害を及ぼします。古代人はこれを神々しい「何か」の怒り(祟り)と考え、怒りを鎮め、恵みを与えてくれるよう願い、それを崇敬するようになりました。これが後に「カミ(神)」と呼ばれるようになりました。

古代の指導者・有力者の神格化

日本において天皇のことを戦前は現人神と呼び、神道上の概念としてだけでなく、政治上においても神とされていました。現在では、昭和天皇によるいわゆる人間宣言により政治との関わり、国民との関係は変わりました。しかし、神道においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)の血を引くとされる天皇の存在は現在も大きな位置を占め、信仰活動の頂点として位置付けられています。

また、その時代の有力者を死後に神として祭る例(豊臣秀吉=豊国大明神、徳川家康=東照大権現ど)や、権力闘争に敗れまた逆賊として処刑された者を、後世において「怒りを鎮める」という意味で神として祭る例(菅原道真、平将門など)もこの分類に含まれます。

さまざまな部族が個々に固有の神を信仰していました。それらの部族が交流するにしたがって各部族の神が習合し、それによって変容するようになっっていきました。この神神習合が、後に仏教をはじめとする他宗教の神々を受け入れる素地となっていきました。

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3.神名(しんめい

 神名は、大きく3つの部分によって構成されています。

例えば天日槍命(アメノヒボコノミコト)の場合

  1. 「アメ」ノ
  2. 「ヒボコ」ノ
  3. 「ミコト」

となります。

神名は、1.の部分を省略して呼ぶことがある。また、民俗学・神話学など学術的な場面では3.の神号を略すことが多い。

1.神の属性(「アメ」ノ)

最も多い「アメ」「アマ」(天)は天津神であること、または天・高天原に関係のあることを示す。「クニ」(国)は国津神を表すこともあるが、多くは天を表わす「アメ」のつく神と対になって地面もしくは国に関係のあることを示す。

天津神(あまつかみ)は高天原(たかまがはら)にいる、または高天原から天降った神の総称。

別天津神(ことあまつがみ)古事記において、天地創発の時にあらわれた五柱の神々を云う。

三柱の神(造化の三神という)

  • 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
  • 高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
  • 神産巣日神(かみむすひのかみ) その次に、国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになった時に以下の二柱の神が現われた。この二柱の神もまた独神(対となる夫婦神を持たない神)として身を隠した。
  • 宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)
  • 天之常立神(あめのとこたちのかみ) 別天津神の次に神世七代の神が現れた。最も初期に誕生し、その神性も特別扱いされる別天津神は、本来ならば天照大神(あまてらすおおみかみ)を凌駕するはずである。天照大神を高天原の最高神であるとし、またその子孫であると主張することによって自らの王権を権威付けたい天皇、ひいては朝廷にとって、これはいかにも都合が悪い。この矛盾を解消するために、古事記・日本書紀編纂の過程において別天津神は隠れたことにされた、と考えることができるだろう。つまり、存在はするが影響力は持たない“別格”としたのである。同様に、神世七代の神である伊弉諾尊(いざなきのみこと)は素盞嗚尊(すさのおのみこと)を黄泉の国へ追放した後に身を隠しているし、伊弉冉尊(いざなみのみこと)は天照大神が生まれる前に亡くなっているため、やはり天照大神の最高神としての地位を脅かすことはない。国津神(くにつかみ)は地に現れた神々の総称とされています。日本神話においては、国津神のほとんどが天津神に支配される対象として扱われています。ヤマト王権によって平定された地域の人々が信仰していた神が国津神に、皇族や有力な氏族が信仰していた神が天津神になったものと考えられます。特に国津神については、日本神話に取り入れられる際に変容し、元々の伝承があまり残っていないものも多いです。日本書紀ではしきりにある文として伝承等を引用している点から、その記録文書は後世で失われてしまったようです。「つ」は現代語の「の」のことで、天の神・国の神という意味です。「天つ神」「国つ神」と書くこともあります。漢字二字で天津神を「天神」(てんじん)、国津神を「地祇」(ちぎ)とも言い、併せて「天神地祇」「神祇」と言います。
    ただし、高天原から天降ったスサノオの子孫である大国主などは国津神とされている。2.神の名前(「ヒボコ」ノ)末尾が例えば「チ」「ミ」「ヒ」「ムス」「ムツ」「ムチ」「ヌシ」「ウシ」「ヲ」「メ」「ヒコ」「ヒメ」などである。これらは、神神習合が起こる前の各部族での「カミ」を指す呼び名であったとも考えられる。「チ」「ミ」「ヒ」(霊)は自然神によくつけられ、精霊を表す(カグツチ、オオヤマツミなど。ツは「の」の意味)。「チ」より「ミ」の方が神格が高いとされている。「ヌシ」(主)「ウシ」(大人)は位の高い神につけられる(オオヒルメノムチ(アマテラスの別名)、大国主など。「ムス」(産)「ムツ」(親)「ムチ」(祖)は何かを産み出した祖神を表し「キ」「ヲ」(男)「シ」「コ」(子)「ヒコ」(彦・比古・毘古)は男神、「メ」(女)「ヒメ」(媛・姫・比売・毘売)は女神につけられるものである。特に「メ」のつく神は、巫女を神格化した神であるとされることが多い。「コ」は国造(ミヤツコ)小野妹子など、元は男性を表したが、藤原氏が女性名として独占し、近世までは皇后など一部の身分の高い女性しか名乗れなかった事から、現代では女性名として定着した。

    3.神号(ミコト)

    代表的なのは「カミ」(神)と「ミコト」(命・尊)です。「ミコト」は「御事」すなわち命令のことで、何かの命令を受けた神につけられるもの。現れた時の神号は「神(カミ)」です。

    特に貴い神に「尊」、それ以外の神に「命」の字を用いています。特に貴い神には大神(おおかみ)・大御神(おおみかみ)の神号がつけられています。また、後の時代には明神(みょうじん)、権現(ごんげん)などの神号も表れました。

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4.神道の研究

平安時代以前より、出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃く見ることが出来る。 鎌倉時代に伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った。そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって、知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。

一方で、本居宣長が江戸期には解読不能に陥っていた、『古事記』の解読に成功し、国学の源流を形成していった。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派の果したことは、それに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。

現代の神道は、延喜式(特に「神名帳」)に見られる古くから大和朝廷(ヤマト王権)が祀ってきた神々を中心に統制され、仏教や地方の神々(元は氏神など)を習合し、全国的な一大ネットワーク及び独特の世界を形成しているように見える。

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縄文2 南と北の古代史

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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南と北の古代史

概 要

目 次

  1. 南の古代
  2. 北の古代
  3. 松前藩
 日本列島の古代史は、近年大きな進歩をみせています。新たな遺跡発掘調査の成果や木簡をはじめとする出土文字史料などさまざまな新発見が蓄積され、新しく豊かな歴史像を提供しました。 世界がグローバル化するなかで、改めて東アジア的な視点から中国・朝鮮半島・日本列島・北方・南方の諸地域の古代史を、多面的に地域間の交流の歴史が注目されるようになったことなど、古代史を古代国家中心の一元的な歴史館のでみに限定してしまうのではなく、客観的な姿勢でとらえようという姿勢が広まっていることも大きな動きです。列島の各地域の人々の間で、国境やさまざまな境界を越えた交流が盛んであった様子が明らかになってきました。

国境が存在しなかった古代には、活発に越境した国際関係がありました。また、掘り起こされた各地域の歴史が明らかにされるなかで、古代には近代とは違って、日本列島に一元的な日本国家が存在していたわけではありません。かつては環日本海として海を通じて大陸・朝鮮との交流が盛んであった日本海側が表日本であったといわれるように、丹波・但馬は出雲・越地方と並ぶ古代からの文化地帯でした。近畿を中心に本州・四国・九州のかなりの範囲を支配下に取り込んだ古代国家においても、「倭」にかわる「日本」という国号は七世紀後半の国家機構確立の過程を通して確立されたものでした。したがって、近代国家の国家観をそのままさかのぼらせてしまうことには注意が必要です。それは小都市国家がしだいに併合し合い成立したイタリアをはじめ、ヨーロッパ諸国の建国の歴史もよく似ています。

古代から前近代まで、琉球王国や北海道のアイヌの人々の独自の歴史・文化が「日本」という国家機構確立前には同時に併存していました。

近年の遺伝子研究では日本人(本州、北海道アイヌ、沖縄県の3地域を比較)の遺伝子はほぼ同じで、北アジアを起源に持つことが明らかにされ、従来定説化されてきた縄文人(アイヌ含)を南方系・弥生人を北方系とする埴原和郎の「二重構造説」は否定されています。(しかし日本語の地名がポリネシア系言語のマオリ語に似ているという説があります。)

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1.南の古代

 まず、琉球の歴史の時代区分は、いわゆる「本土」の時代区分とはかなり異なっています。ここで琉球とは、現在の沖縄県と鹿児島県の奄美諸島を合わせた範囲です。さらに地理的に大きく分けると、奄美諸島・沖縄諸島と先島諸島(宮古・八重山諸島)とに分けられます。

沖縄県那覇市山下町第一洞穴で、1968年に発見された「山下町洞穴人」は、約3万2000年前とされる6~7歳の子供の大腿骨と脛骨で、国内では最古級の人骨です。最近の検討によると、初期現代型新人の特徴に一致するといいます。

その他、沖縄県で発掘され報告されている人骨化石

  • 沖縄県宜野湾市大山洞穴(ぎのわん)
  • 沖縄県国頭郡伊江村真謝カダ原洞穴(くにがみぐんいえそんまじゃかだばる)
  • 沖縄県中頭郡北谷町桃原洞穴(なかがみぐんちゃたんちょうとうばる) さて、旧石器時代以後の奄美・沖縄諸島は、漁労を中心とした貝塚文化の時代を迎え、本土の縄文・弥生文化の影響を受けたり、交易を行っていました。一方・先島諸島では、南方系の先史時代が展開しました。本土における古墳時代~平安時代の時期になると、奄美・沖縄諸島では、狩猟・漁労・採集を中心とした社会が続くなかで、七~八世紀の本土の古代国家との間に入貢(にゅうこう)[*1]や遣唐使通過の交流をもちました。10世紀に東アジアの諸国が盛んな交易の時代を迎えると、琉球でも10~12世紀に海外交易を介して農耕が始まり、奄美・沖縄諸島と先島諸島の文化も一体となります。そして、共同体を率いる首長の按司(あじ)[*2]たちが各地に割拠するようになりました。12~15世紀には、各地の按司たちは支配の拠点としてグスク(城)を築いて勢力争いをおこないました。(グスク時代)グスクは丘や谷の地形を利用して石垣で囲まれた郭群によって構成される按司たちの城郭であるとともに、御嶽(うたき)・拝所のような祭祀の場を持っていました。首長たちの統合が進むにつれて、単純な郭(くるわ)の配置からやがて複雑な郭群の後世へと発達し、琉球石灰岩の石垣の積み方や、中心建物である正殿前の儀礼のための御庭(広場)なども、立派になりますが、最後期の整備されたグスク群が世界遺産に登録されています(首里城)。各地に割拠した按司たちの争いの中から、やがて沖縄本島では、北山国・中山国・南山国の三国による三国時代を迎えます。北山国は北部(国頭郡)の今帰仁(なきじん)城、中山国の浦添城(うらぞえじょう・のちに首里城)、南山国は南部(島尻郡)の南山城をそれぞれ拠点として、競って中国の明に朝貢使を派遣して、皇帝からそれぞれ国王として冊封(さくほう)[*3]を受けました。その後、中山国を抑えた佐敷の按司 尚巴志(しょう はし・1372~1439)が、ようやく北山国・南山国の二国を破って、1429年に三山統一が実現します。これが第一尚氏による琉球王国の成立です。

    しかし、第一尚氏の時代には、まだ各地に有力な按司たちが勢力を保っていました。尚 泰久王の時代に、中城城(なかぐすくじょう)の護佐丸や勝連城の阿麻和利(あま わり)などの有力按司あちをようやく倒すことができましたが、王権への求心力の柔さとともに王位継承のもつれなどから、1470年には新しい王統の第二尚氏が誕生することになります。沖縄本島北西の伊是名島(いぜなじま)出身で、尚泰久に仕えて頭角を表した役人の金丸(1415~76)が王位に就き、尚 円王となりました。
    その後、この第二尚氏王統の琉球王国は、中国皇帝からの冊封を受け続けて、1609年の「島津入り」ののちも明治時代まで独立国の体裁を保ち続けました。

    北山国の王城であった今帰仁城は、日本・中国・朝鮮半島だけでなく、遠くベトナム・タイなどの陶磁器も出土しており、海上交易による北山国の繁栄の様子を知ることができます。

    第二尚氏三代の尚 真王(1465~1526)の時代になると、琉球王国は中央集権体制を確立して統一国家の体裁を整え、充実した国力を背景に先島諸島や奄美諸島へと支配権を拡大しました。尚真王は、いまだ各地に居を構えて独立性を保っていた按司たちを首里城下に集住させて王権のもとの中央官僚制に編成し、地方には地方官を派遣して地方官僚制を形成しました。また、各地のノロ(神女)たちをピラミッド型に階層編成して集権的な神女組織を整備しました。そして、王族の編成を確立して王陵を造るなど、首里城やその城下の首里の町並み、外港である那覇港を整備しました。

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2.北の古代

 北海道には数万年前の氷河期にシベリアから人類が渡り、温暖となってからは本州からも渡来したようで、旧石器時代を経て、土器を中心とした縄文文化が興りました(縄文時代)。

古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、日本やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指しました。統一した政治勢力をなさず、次第に日本により征服・吸収されました。蝦夷(えみし)と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は日本人につながったと考えられています。ただし、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は、別ものです。蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は同じ漢字を用いていることから混同されやすいのですが、歴史に登場する時代もまったく異なり、両者は厳密に区別されなければならないとされています。

古くは『日本書紀』に渡島(わたりしま)として登場し、阿倍比羅夫と接触を持ち、奈良時代、平安時代には出羽国と交易を行ないました。当時の住民は、東北地方北部の住民と同じく蝦夷(えみし)と呼ばれていました。おそらく両者は同一民族で、北海道側の蝦夷が後の蝦夷(えぞ)、現在のアイヌの先祖だと考えられています。

アイヌは、アイヌ語で「人間」を意味しますが、和人がアイヌを蝦夷(えぞ)と読んだのに対し、呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことです。アイヌは和人のことを「シサム」「シャモ」と呼称していました。シサムは隣人という意味のアイヌ語アイヌモシリ( 「人間の住む土地」:日本列島の北海道・千島列島および樺太島)の先住民族の一つであるアイヌのことです。形質人類学的には縄文時代の日本列島人と近く、本州以南が弥生時代に入った後も、縄文文化を保持した人々の末裔であると考えられています。アイヌの歴史は、考古学上の概念としてのアイヌ文化が成立した時に始まりますが、後にアイヌと呼ばれるようになるエスニック・グループ[*4]は、アイヌ文化が成立する遙か以前から存在していた点に注意が必要です。

アイヌ文化はアイヌモシリ(北海道・樺太)で13世紀に成立したと考えられていますが、史料が十分ではないため、アイヌ文化成立の経緯について考古学や文献でその経緯を十分に跡付けることは未だ困難です。

本州以南は多数の渡来人(帰化人)が移住することで弥生時代を迎えましたが、本州をはじめとした「本土」の多くの地域が水田耕作を受け入れ弥生文化を迎えた時代に、北海道にまでは弥生文化が伝播せず、サケ・マスをはじめとした自然の恵み豊かな北海道では、狩猟・漁労・採集・栽培を中心とする生活が続いており、縄文文化が続きました(弥生・古墳時代に相当する続縄文時代は、紀元前2世紀から7世紀まで続いた)。この文化は、北はサハリン南端部、東は国後島・択捉島、南は東北地方から新潟県西部にまで及んでいます。これを続縄文文化と呼んでいます。この時代の土器が北東北にも影響を与える一方、七世紀には本格的に本土の文化も北海道に及ぶようになって、石狩地方では「北海道式古墳」が営まれたり和同開珎が出土するなど、交易・交流が盛んになります。

八世紀~九世紀には、木片の刷毛で擦ったような文様の擦文土器[*5]が成立し、13世紀にかけて北海道で擦文土器が展開します。竪穴住居群によって構成される集落が各地に営まれ、つづいて、土師器の影響を受けて縄文がなくなり、北東北からも擦文土器が出土して、交流の実態を物語ります。

一方、道北からオホーツク海沿岸地方では、北東アジア的性格をもつオホーツク文化が展開しました。オホーツク海に面した海岸沿いに、五角形・六角形の大型竪穴住居を営み、熊などの骨を積み上げて祭る生活をしていました。10~11世紀には擦文土器になりますが、12~13世紀には本州その他との交易が展開するなかで、擦文土器は衰えていきます。

オホーツク文化の基盤の元に、本州の和人の文化を受容しながら、やがてコタン(集落)・チャシ(砦)・ユーカラ(口承文芸)・イオマンテ(熊祭り)などのアイヌ文化の時代を迎えます。倭人は本州から米・酒・鉄などの物品をもたらし、アイヌ側は北方産の獣皮・海産物などを交易しました。14世紀には、本州北端の十三港(とさみなと)に拠点を置く安東氏[*6]が蝦夷代官職になって北海道との交易を統轄するようになります。道南の渡島半島(おしまはんとう)南部海岸沿いには、展開した和人たちによって「道南十二館」と呼ばれる巨館群などが営まれました。

しかし、こうした和人とアイヌ人との交易の際に、また新しく進出してきた和人によるアイヌ人圧迫により、しばしば両者の間に衝突が起きるようになりました(1457年コシャマインの戦いなど)。コシャマインの勢力は道南にあった和人の館を次々と落ちしましたが、上ノ国[*7]の蠣崎氏(かきざきし)らによって制圧されました。

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3.松前藩

 蠣崎氏が勢力を広げ、松前氏と改姓して徳川幕府からアイヌとの交易権の独占を認められ、大名化していきます。1669年には、和人の横暴に対抗し、首長シャクシャインが各地のアイヌ勢力とともに蜂起して松前氏と戦いましたが、結局制圧されました。こうして、各地のアイヌが統合して国家のような政治勢力を確立していく道は閉ざされ、松前藩に従属する交易を強いられていきました。

松前藩

松前氏は、もと蠣崎氏(かきざきし)、さらにその前は若狭武田氏(一説には陸奥国の南部氏の一族)の出で、戦国時代に武田信廣が現在の渡島半島の南部に支配を確立しました。豊臣秀吉に臣従し、慶長4年(1599年)に徳川家康に服して蝦夷地[*8]に対する支配権を認められ、江戸初期には蝦夷島主として客臣扱いでしが、五代征夷大将軍徳川綱吉の頃に交代寄合に列して旗本待遇になります。さらに、享保4年(1719年)より1万石格の柳間詰めの大名となりました。

当時の北海道では米がとれなかったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格にすぎません。慶長9年(1604年)に家康から松前慶廣に発給された黒印状は、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていました。蝦夷地には藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認めるという形でなされました。松前藩は、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとりました。江戸時代のはじめまでは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていましたが、しだいに取り締まりが厳しくなりました。

松前藩の直接支配の地である和人地の中心産業は漁業でしたが、ニシン(鰊)が不漁になったため、蝦夷地への出稼ぎが広まりました。城下の松前は天保4年(1833年)までに人口一万人を超える都市となり、繁栄しました。

藩の直接統治が及ばない蝦夷地では、寛文9年(1669年)にシャクシャインの戦いに勝って西蝦夷地のアイヌの政治統合の動きを制圧し挫折させました。

[編集] [以後の主な出来事]
  • 1679年、松前藩の穴陣屋が久春古丹(後の樺太大泊郡大泊町楠渓)に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる。
  • 1711年 – ロシア人アンツィフェーロフとコズイレフスキー、千島最北端の占守島に上陸。1713年には住民にサヤーク(毛皮税)を献納させ、ロシアの支配を認めさせた。
  • 1739年 – ロシア人シパンベルク、色丹島に上陸。
  • 1758年 – 弘前藩により津軽半島(外が浜など)に居住していたアイヌの同化政策が進む。
  • 1786年 – 最上徳内択捉島探検。日本人として最初に択捉島を探検した徳内は、このときロシア人が居住していること、択捉島現地人の中にキリスト教を信仰する者がいる事を確認している。
  • 1789年 – クナシリ・メナシの戦い。
  • 1798年 – 近藤重蔵が東蝦夷を探検、択捉島に「大日本恵土呂布」の標柱を立てる。
  • 1799年 – 東蝦夷地を幕府が直轄化。
  • 1800年 – 伊能忠敬が蝦夷を測量。
  • 1801年 – 最上徳内や富山元十郎などが千島列島の得撫島を探検し、「天長地久大日本七属島」の標柱を立てる。
  • 1802年 – 江戸幕府、蝦夷奉行を置く。後に箱館奉行となる。
  • 1804年 – ニコライ・レザノフが日露の通商を求めて長崎に来日、通商を拒絶される。
  • 1807年 – ニコライの部下、フォボストフらが択捉島や樺太に上陸、略奪や放火などを行う(フォボストフ事件)。幕府は東北諸藩の兵で警備を強化。西蝦夷地を幕府直轄化。箱館奉行を廃止し松前奉行を置く。アイヌに対する和風化政策がおこなわれる。
  • 1808年
  • 幕府が、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで樺太に派遣。松田伝十郎が樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の標柱を建てる。
  • 長崎でフェートン号事件。
  • 1809年、間宮林蔵が樺太が島であることを確認し、呼称を北蝦夷と正式に定める。また、山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。
  • 1811年 – ゴローニン事件。日露の緊張が高まる。
  • 1813年 – ゴローニン事件が解決するものの日露の緊張が残る。
  • 1821年 – 日露関係の緩和を受け、幕府は蝦夷地を松前藩に返還する。このころ以後、蝦夷地への和人移住が増加し、アイヌの生活・文化の破壊が顕著となる。
[註]

[*1]…外国から使節が貢ぎ物を持って来ること。

[*2]…按司(あじ、または、あんじ)は、琉球諸島に存在した琉球王国の称号および位階の一つ。王族のうち、王子の次に位置し、王子や按司の長男(嗣子)がなった。按司家は国王家の分家にあたり、日本の宮家に相当する。古くは王号の代わりとして、また、地方の支配者の称号として用いられていた。

[*3]…中国王朝の皇帝がその周辺諸国の君主と「名目的」な君臣関係を結ぶこと。これによって作られる国際秩序を冊封体制と呼ぶ。

[*4]…一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体

[*5]…土器の表面を整えるため木のへらで擦ってつけたものと考えられており、これが擦文の名の由来。本州の土師器の影響を受けたことがうかがえる。

[*6]…日本の中世に本州日本海側最北端の陸奥国津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配した武家。津軽安藤氏とも。本姓は安倍。鎌倉時代には御内人として蝦夷沙汰代官職となり、室町時代には京都御扶持衆に組み入れられたと推定され、後に戦国大名となった。近世以降は秋田氏を名乗り近世大名として存続し、明治維新後は子爵となった。

[*7]…北海道南西部、檜山支庁管内最南端松前町に隣接する町
[*8]…蝦夷地(えぞち)は、日本人がアイヌの居住地を指して用いた言葉で、江戸時代に使われた。和人地の対語である。渡島半島を除く現在の北海道を中心に、樺太と千島列島を含む。

参考文献:「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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