戦後の中国 学校で教えてくれなかった近現代史(57)

排日運動と中国政府の思惑

第二次大戦が終わり、中国共産党が国共内戦に勝利しました。中華人民共和国を樹立した初期は、現在の反日、仇日とは違い、かつての中国人はジャパン・バッシングをする必要がなかったのです。むしろ、ジャパン・ナッシングの時代でした。黄文雄氏は「無日時代」と呼んでいます。

その「無日」は、韓国人のような「恨(ハン)」から出てきた「日本はない」ものと見なすものとは違います。また、李鵬元首相が、オーストラリアの首相に、「日本は二十年後に消えゆく国家であり、取るに足らない国だ」と言ったように、呪いの気持ちから「日本はない」と言っているのでもありません。要するに、中国の「無日」時代は、ただ単に日本が眼中になかっただけです。

革命後の中国は、「世界革命、人類開放」、そして「国家死滅」の「歴史的使命感」に燃え、「東風が西風を圧倒する」と目指して、中国人が最も自信に満ち溢れた時代でした。みずから「開放」された人間という自家を持つ、はつらつとした時代だったのです。「15年以内にイギリスに追いつき、二十世紀以内にアメリカに追いつく」と、中国自身が言っていたことからも、自信のほどが分かるでしょう。日本の進歩的文化人や、エリートといわれる人々もこれを信じ、中国をあこがれの国、理想の国として、「蚊もハエもネズミも泥棒もいない地上の楽園」だと思っていました。

しかし実際、この頃の中国は、チベットに対しては「農奴解放」、朝鮮戦争では義勇軍の派遣、ベトナム戦争にもカンボジア内戦にも支援し、世界各国に革命を輸出するために狂奔していた時代でした。こうした自信溢れる時代の中国人は、反日どころか、「搾取されている日本人」に同情し、共通の敵としての米帝や、その走狗たる日本の自民党反動派の打倒に闘志を燃やし、やがて日本の「圧迫された人々を解放する」と意気込んでいました。

しかし、その予想に反して、日本は敗戦の廃墟から這い上がりました。日本は知らず知らずのうちに、いつしか世界有数の経済大国になってしまいました。それは中国人にとっては、想像を超えたことでした。そして、中国にとって日本の成長を脅威と感じるようになっていきました。

それどころか、中国は日本に「眼紅病(エンホンビン)」といわれるような、嫉妬の対象でしかなくなったのです。改革開放までずっと「無日」だった中国が、一変して日本を嫉妬し脅威と感じ、憎悪の対象としてみるようになったのです。

親日から反日へ急転した中国

しかし、社会主義、ことに大躍進(1958~毛沢東の高度経済成長政策)は失敗し、文化大革命(1966~1977年)も単なる「十年動乱」でしかなかったという惨めな結果に終わりました。

1970年代末から改革開放路線に転換すると、社会主義のイデオロギーに代わって愛国主義と大中華民族主義の運動が共産党の一党独裁を支えました。これが今日の「反日」の時代的背景です。しかし、胡耀邦総書記によって類例を見ない時代もありました。胡耀邦は中国共産党の指導者のなかではきわめて稀な明るい性格で、陰険にして風見鶏の周恩来とは対照的なもっとも互恵的、真摯で夢に溢れた時代でした。

この頃の中国は「四つの近代化」(農業、工業、国防、科学技術の現代化)を推し進めるため、どうしても日本からの投資や借款などの援助が必要でした。また、1979年1月に日中の国交が樹立され、日中友好は日米友好とアジア太平洋地域における国際関係の機軸の一環として捉えられていました。

1983年、訪日した胡耀邦はNHKテレビで「未来は日中青年の友好にかかっている」として、三千人の日本青年を中国に招待する意向を表明しました。翌年この案は実行に移され、北京では日中青年大交流の儀式が盛大に行われたのでした。
そうしたなか、中曽根元首相の靖国参拝問題をめぐって、1985年に中国各地で反日学生デモが起こりました。このときの「親日派」批判は、明らかに胡耀邦へ向けたものでした。

1989年の天安門事件以降の社会主義体制の危機と、江沢民政権の登場によって、中国は「反日」「敵日」「侮日」ムードへと急転直下していきました。天安門事件は、中国の指導者たちにとって改革開放以来最大の危機でした。世界のメディアが注目するなか、無防備な民主派の学生や民衆に対し、あえて人民解放軍を出動させ弾圧させたのも、彼らの危機意識の表れでした。

江沢民は毛沢東や鄧小平などの第一、第二世代とは違い、革命指導者としての権威はありませんでした。 そこで彼が開始したのが、反日政策でした。彼は新たな「抗日」の指導者になる道を選んだのです。

2002年末、第四世代国家指導者の胡錦濤が選ばれました。しかし、世代交代によって、これまでの「反日政策」が今後どう修正されていくかのかは、まだ不明確です。現在の中国はすでに「反日」から「仇日」へと質的変化を遂げています。胡錦濤はチベット人を弾圧し、「殺人魔王」とまでいわれている権力者です。そのため、仇日政策の執行者として、その動向が注目されます。

南京事件の真実を検証する

1927年、蒋介石の北伐軍による南京占領にともなって発生した、外国領事館と居留民に対する暴虐事件を南京事件といいます。城内に英・米両軍の砲撃事件を誘発した(「南京暴動」、「第一次南京事件(扶桑社発行の教科書)」と記述される)。

南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)は、1971年まで、東京裁判において日本と世界に大きな衝撃を与えましたが、それ以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではありませんでした。

再び注目を集めるきっかけとなったのは、日中国交樹立直前の1971年(昭和46年)8月末より朝日新聞紙上に掲載された本多勝一記者の『中国の旅』という連載記事である。南京を含む中国各地での日本軍の残虐行為が精細に描写された記事であったが、この記事で当時「百人斬り競争」が大々的に報道されていたことが取り上げられた時、“百人斬りは虚構である”という主張から論争は始まった。

日中戦争(当時は日本側は支那事変と呼んだ)初期の1937年(昭和12年)に日中間で行われた南京攻略戦後、日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間 から2ヶ月にわたって多数の中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵(民間人に扮したゲリラ兵)及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件で、日本では南京攻略戦といいます。

虐殺の根拠とする史料には、埋葬記録が水増しされているなど捏造の疑いがあります。政治宣伝でしかないものといえます。矛盾した被・加害者証言や写真記録などがあり、またその史料解釈が恣意的であるとしている。実際、朝日新聞(S59年8月4日大阪版夕刊)が「南京大虐殺の証拠写真」として掲載した生首写真が、中国軍が馬賊の首を切り落とした写真であることが判明して謝罪記事を書いたり、南京市にある南京大虐殺記念館が南京事件と無関係であると指摘された写真3枚をH20になって撤去するなど、確かに信憑性の疑わしい資料があり、そもそも南京大虐殺が史実であるのならば、なぜ捏造資料が必要なのかという声もある。

否定説は、東中野氏は、南京大虐殺を肯定する立場から記述されている書物等で掲載されている写真が捏造されたものであったと主張する。その上で、”南京大虐殺の証拠写真はすべて捏造である”と主張している。これについては南京大虐殺関連の写真を検証してきた「プロパガンダ写真研究所」も数多くの証拠写真を捏造写真と指摘している。

東京裁判における「ベイツ博士」の証言を見ると良く分かります。ベイツ博士は、1937年12月の南京陥落時は南京大学(金陵大学)歴史学の教授でした。当初から国際安全区委員会の設立に係わり、1938年の3月からはスマイス博士とともに戦争被害調査を行っています。ベイツ教授は1938年に「戦争とはなにか-日本軍の暴虐」という反日宣伝本を作成するのですが、その態度は公平なものではなく「日本叩きを目的」としたものだったようです。同書の編集者である「テインパレー」に対し上海方面での日本軍の行った残虐事件を取材するように指示を出していることからもその思想が判明します。
当時の資料からベイツ博士は「南京事件の規模を約4万」と認識していたことは明らかになっていますが、東京裁判では検察側主張に合わせて少し妙な発言をしています。国民政府が、ティンパーリーやベイツなど外国人に依頼し、大虐殺を捏造したと主張しています。

その根拠として、台湾で発見したとする『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(1941年)やアメリカのイェール大学で発見したとする新聞記事の切り抜きを挙げる。「当時南京に進軍した日本軍の武器弾薬の質・量などを検討すると、虐殺を実行するには極めて困難になる」「大虐殺に要する時間、労力。虐殺が市外に及ぶならその範囲を考えると、大虐殺を行う合理性はおろか余力もないし、日本軍の利益になることはない」と主張する。当時南京の人口は20万以下で、また「30万人もの虐殺があったとして、およそ18,000トンにおよぶ膨大な量の遺体はどこに消えてしまったのか」との疑問にも肯定説は答えていないとする。

肯定説は、南京に進軍した日本軍が総勢20万人近くいること、各兵士が銃剣や銃弾を持っていることを考えるならば、大量の殺害は可能である。また、たとえ計画性が無くても、竹やりや素手でも大量虐殺は可能だと主張している。遺体については、遺体を揚子江に流すという手段を指摘している。しかし、東京裁判の証言では、遺体15万以上が慈善団体により埋葬されたとなっているので矛盾する。

「中国はプロパガンダが巧みであり、欧米の国際世論を味方につけようと暗躍していた」としており、「南京事件は南京陥落後に中国政府が国際連盟で「南京で2万人の虐殺と数千の暴行があった」と演説したのが最初だが、国際社会からは真剣に受け止められず非難決議もなかった。それが東京裁判で30万という数字に一気に飛躍したため一時注目を浴びたが、日中友好ムードであった1970から 1980年代は全く沈静化していた。

しかし、六四天安門事件以降の江沢民政権で大々的に再び宣伝活動に利用され、対日批判プロパガンダのネタとして日本政府から外交上譲歩を引き出すカードとして利用され続けている。」と主張している。また、反日愛国教育により一次資料の公開や検証のないまま大々的に南京大虐殺が喧伝されるようになり、現に南京に建設された大屠殺記念館では30万であるが現在では中国の主張する犠牲者数は40万人以上と10万人も増加しており、年を追うごとに増加する事は異常であり、一次資料の未公開や未検証、写真の捏造問題とも相まって南京大虐殺の信憑性を疑問視する傾向にさらに拍車をかけていると主張している。

虐殺否定論というのは、南京で日本軍兵士の犯罪が一件もなかったとか、中国兵の処刑が一件もなかったという主張ではなく、中国側主張の”軍事行動とは無関係に数十万市民を殺害した”という事件の存在を否定しているのです。それが「虐殺か、合法か」という議論があることは否定するものではありません。戦争状態において中国兵に対する処刑が行われたことについては事実であり、便衣兵(民間人の服を着たゲリラ兵)もいたわけですから、否定派(まぼろし派~中間派・4-5万説)でもこれらをまったくなかった、と否定している研究者はいません。東京裁判での弁護側の主張も、犯罪がまったく無かったという主張ではなく、中国側の主張は過大であり、大部分の事件は中国側の敗残兵が行なったものではないか?という主張をしています。

「慰安婦問題と南京事件の真実を検証する会」は、アメリカ民主党内の保守系議員連盟。2007年3月に設立。 アメリカ連邦議会の下院で、戦前の慰安婦に対する日本政府の謝罪を求める決議案(アメリカ合衆国下院121号決議”United States House of Representatives proposed House Resolution 121″)が議論されていることに対し、強制連行について「旧日本軍・政府の関与はなかった」という立場から、いわゆる河野官房長官談話の見直しを内閣総理大臣に提言する議員連盟として立ち上げられている。2007年米国ワシントンポストに慰安婦に関する意見広告が掲載されたが、賛同者としてこの会からかなりの人が賛同している。 また、慰安婦問題と共に南京事件に関しても真実の検証を呼びかけており、定期的に勉強会を開いている。南京事件(南京大虐殺)に関するドキュメンタリー映画「南京の真実」にもこの会から多くの賛同者が出ている。

引用:『中国・韓国反日歴史教育の暴走』黄文雄

それではアメリカが行ったフィリピン住人への大量虐待・殺害や、日本本土への無差別爆撃・2度の原爆投下による何十万人の民間人殺害は、なぜアメリカ連邦議会は問題にしないのでしょうか。どこにも60年前の過去を掘り下げてネタにしようとするおバカな議員はいます。
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歴史の両側(2) 『占領政策と戦後処理問題』 学校で教えてくれなかった近現代史(56)

占領政策と戦後処理問題

1952年(昭和27年)に締結されたサンフランシスコ講和条約により、GHQは廃止され、戦後処理は終了しました。ただし、この戦後処理はあくまで連合国側の戦後処理であって、日本国・日本人としての戦後処理は未だに決着していないとする見解があります。

これが、国家の基幹となる歴史認識問題や日の丸問題、自衛隊と自衛権の行使問題、日本国憲法改正論議など様々な歪みを生み出しているとされています。また、この情況は必然的に靖国問題や日本の歴史教科書問題などの国内問題に、諸外国が干渉しやすい情勢をつくりだしているだけでなく、東アジア各国に対する外交への弱腰批判を生み出す要因の一つにもなっているのです。

■邦人の引揚げと復員

連合国に降伏後の1945年(昭和20年)8月当時、中国大陸や東南アジア、太平洋の島々などの旧日本領「外地」には軍人・軍属・民間人を合わせ660万の日本人(当時の日本の総人口の約9%)が取り残されていました。日本政府は外地の邦人受け入れのために準備をしたが、船舶や食糧、衣料品などが不足し用意することが困難だったため、連合軍(特にアメリカ軍)の援助を受けて進められた。しかし不十分な食糧事情による病気や、戦勝民の報復、当事国の方針によって引き揚げが難航した地域も多く、中国東北部(旧満州)では、やむを得ず幼児を中国人に託した親達も多かった(中国残留日本人)。ソ連領地では、捕虜がシベリアに抑留されて、過酷な労働に従事させられる問題も発生しました(シベリア抑留)。

軍役者の復員業務と軍隊解体後の残務処理を所管させるため、1945年11月に陸軍省・海軍省を改組した第一復員省、第二復員省が設置されました。民間人の引揚げ業務については、厚生省が所管しました。

政府は1945年9月28日にまず、舞鶴、横浜、浦賀、呉、仙崎、下関、門司、博多、佐世保、鹿児島を引揚げ港として指定しました。10月7日に朝鮮半島釜山からの引揚げ第1船「雲仙丸(陸軍の復員軍人)」が舞鶴に入港したのをはじめに、その後は函館、名古屋、唐津、大竹、田辺などでも、引揚げ者の受け入れが行われました。

■戦災国に対する賠償と戦後関係

日本は1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約により、日本は太平洋戦争に与えた被害について、日本経済が存立可能な範囲で国ごとに賠償をする責任を負いました。この賠償(無償援助)は、各国の協力に基づく日本の復興なくしては実現しませんでした。またこのことは同時に東南アジアへの経済進出への糸口となり、日本の成長を助長する転機となると共に殖民地支配をした国の中で唯一、植民地化された国に対し謝罪の意を示すこととなり、結果的にアジア諸国とのその後の外交関係に寄与することになりました。

サンフランシスコ平和条約14条に基づき、賠償を求める国が日本へ賠償希望の意思を示し、交渉後に長期分割で賠償金を支給したり、無償(日本製品の提供や、技術、・労働力などの経済協力)支援を行いました。他にも貸付方式による有償援助もありました。

戦争の評価

太平洋戦争の評価については、戦後以来、歴史家だけでなく知識人、作家、一般市民などを巻き込んだ議論の的となっています。

■加害者としての見方

加害者としての見方は、日本がアジアの近隣諸外国に対して行った軍事力を背景にした進出や併合などの行為を、誤った政策とし、太平洋戦争を否定的にとらえるものです。

この見地に立つ人々の一部には、日本が太平洋戦争の被害者の立場(長崎市・広島市の被った原子爆弾投下など)を強調し過ぎるとし、侵略者=加害者としての立場からの反省が足りないと、主張するものもあります。
これに関連して、戦争当時は国家として存在すらしていなかった中華人民共和国や韓国の日本に対する戦争責任の追及については、単なる反日教育によるアジテーションという見方は皮相的で、実際はアジア諸国に見られた閉鎖的で抑圧的な独裁体制の下にあって、権利を主張することができなかった当事国の民衆が、権利意識の高まりによって戦争の当事国である日本に国家、権力者の過ちによる戦争での被害の権利回復を求める運動の一環と主張する人もいました。

■解放者・自衛戦としての見方

解放者としての見方は、アジア諸国が第二次世界大戦後に独立を果たせたのは、アメリカやイギリスなどの植民地化政策を行った国々との間での戦争であることが要因の一つであるとし、太平洋戦争そのものを肯定的に評価する立場です。この見地にたてば、日本は加害者であるという戦争理解や、近隣アジア諸国に対する謝罪への要求といった事態は、自虐的過ぎるということになるのです。

また、自衛戦としての見方は、ABCD包囲網(日本が付けた名称で、アメリカ (America)、英国 (Britain) 、オランダ (Dutch) と、対戦国であった中華民国 (China) の頭文字を並べた)によって日本が圧迫され、これを打開するために対英米蘭戦に踏み切ったとするものである。また、アメリカが日本の大陸利権を否定することで圧力を加え、併せて人種的偏見による移民規制や、日系アメリカ人に対して人種差別的な政策を行ったことが、当時の新聞メディアに先導された日本人の反米感情を刺激し、対米戦へと踏み切らせたとの考えもあります。

■両方の面があるとする見方

この戦争には「2つの側面」があるという研究者がいました。きっかけは中華民国をはじめとする中国大陸への進出や勢力拡張を目的とした仏印への進出ですが、結果としてそれを理由にした米国の石油をはじめとする対日全面禁輸は、日本を予想だにしていなかった国家崩壊の危機に直面させました。すなわち、貿易全依存国である日本は石油がなければ船舶を動かすことはできず、船舶が動かなければ工業材料はおろか、食糧まで一切輸入することはできず、そうなれば産業崩壊はもちろんのこと餓死者さえ出かねないのです。また動かなくても排水の為に常に石油を消費する海軍は当然のことながら壊滅してしまい、もし日本が事態を放置して無抵抗状態になった時に、米西戦争の時のように、米国が何らかの口実で日本に宣戦布告をしてきた場合、日本は満足に戦闘さえできないことが懸念されました。

そのうえ、ハルノートには日本との交渉再開の条件として中国大陸からの撤退(原案では満州を除くという但し書きがあったが、米国側は手交前に敢えて削除した)というおよそ短期間には実現不可能な条件が記されており、しかもその見返りは「交渉を再開する」というだけであり、禁輸解除は記されていませんでした。したがって、ハルノート受諾を含む外交による事態打開を目指しても、日本が破滅的な状況に直面する公算は極めて高いと予想され、進退窮まった日本は強行策として欧米植民地の資源地帯の軍事力による強制奪取とその防衛を目的とした東南アジア・太平洋地域への戦争を開始しました。

このようにアヘン戦争やアロー戦争と似たような構造の侵略戦争である日中戦争と、米国や米国が指導した全面的な経済制裁に対する自衛が目的としての対米英蘭戦争という、目的・性質の異なった二つの戦争が併存していたのが太平洋戦争であるという見方です。

■戦争の評価(アジア)

中国大陸(現在は中華人民共和国)や、日本の一部であった朝鮮半島(現韓国・北朝鮮)においては、官民ともに日本の責任を厳しく問う意見が強いです。しかし、かつての植民地・占領地以外のアジア諸国からは、日本を加害者とする評価だけではなく、それ以外の評価がなされることもあります。加害者とする以外の評価があるのは、アジアには多民族国家が多く、各集団によって世界観が大きく異なるためであるとも言われていました。そのうち、直接に被害を受けていない地域では日本を評価する声があるとも、実際のところは少数派であるとも言われていました。これには、当地の人々にしてみれば独立は主として自分たちの力で達成したものという意識が反映していることに加えて、すでにそれぞれが以前に比べて国民国家化していることも関係しています。

マレーシアやインドネシア、フィリピンなどの当時ヨーロッパやアメリカの植民地であった東南アジア諸国において、日本の責任を厳しく問う意見が弱い理由については、純粋に日本の侵攻が独立に貢献したと評価されているケース、建国の功労者に日本の後押しで権力の座に就いた者がいるケース、戦後の独立戦争において旧日本軍人が指導・協力したケース、また単純に反米的なイデオロギーを持っていたケース、あるいは軍事政権の雛形として評価せざるを得ないケースなど様々であり、その理由を一概にまとめることは難しいようです。

これらの国々で日本の責任を厳しく問う意見が弱い理由として、日本の支配が強圧的であれどもイギリスやオランダ、アメリカなどの旧宗主国のそれに比べれば相対的にマシなものであったからという説もあるからです。また、そもそも旧宗主国の植民地支配によって蒙った被害があまりに甚大であるが故に支配期間においては圧倒的に短い日本による被害が問題にされにくいという面もあります。これとは逆に、日本の支配ののちに侵入してきた支配者への反感から日本への責任を問う声が比較的厳しくないという地域もあります。

また、日本に協力する人々がいた一方、イギリスやアメリカなどの旧宗主国に協力して日本と敵対する人々もいました。この場合は、戦争が終わったのち、親日派も宗主国協力派も独立のために戦ったケースが多いのです。

■台湾島一帯における評価

当時は日本による統治下であった台湾島一体では戦時中、アメリカ合衆国軍による空襲等はあったが、地上戦は行われませんでした。また、台湾自体が兵站基地であったため、食糧など物資の欠乏もそれほど深刻ではありませんでした。

第二次世界大戦後に中国大陸から入ってきて強権政治を行った中国国民党に対する批判により、相対的に日本の統治政策を評価する人もいます(「犬(煩いかわりに役には立つ)の代わりに豚(食べるばかりで役たたず)が来た」と言われている)。また、それらの大日本帝国を評価する勢力の一部には太平洋戦争についても「解放戦争」であったと位置付けている人もいました。

台湾島一帯を中華民国(ないし中華人民共和国)の一部であると主張する勢力の中には、日本の支配を「中華民国への侵略行為に過ぎない」と評し、太平洋戦争も侵略であったと評する人もいます(外省人=中国大陸出身である場合が多い)。

戦時には台湾でも徴兵制や志願兵制度などによる動員が行われ、多くの台湾人が戦地へと赴きました。これについての評価も分かれていました。当時は日本国民であったのだから当然とする人もいれば、不当な強制連行であったと批判する人々もいました。「当時は日本国民であったのに死後靖国神社に祀られないのは差別である」と批判をする人もいれば、その反対に「靖国神社への合祀は宗教的人格権の侵害である」として日本政府を提訴している人々もいました。また、戦後、軍人恩給の支給などについて日本人の軍人軍属と差別的な取り扱いがなされたことに対する批判もあります。
また、中華民国にも大韓民国、フィリピン、オランダなどと同様従軍「慰安婦」になることを強いられた女性達がいるとして、日本政府を相手に損害賠償を求める動きも出ています(日本政府は個人資産で一部中間賠償をおこなったので個人賠償は行なっていない)。

[脚注]

* 「従軍慰安婦」という言葉自体、議論の対象になっていました。つまり自発的にそれになった人、もしくは怪しげな業者にだまされたりしたものであり、日本軍が強制連行したなどの資料は一切見つかっていない。一例として当時のいわゆる従軍慰安婦・娼婦は軍票の簿価の総計だけのみで換算して「当時の日本の総理大臣をはるかに上回る収入を得ていた」とする試算もある。台湾では、太平洋戦争・その前段階の日本統治時代についてどう評価するかについては政治的な論点のひとつとなっていた。

* 台湾での戦争観を語る際に、本省人(台湾島出身)が親日であり日本支配肯定論、外省人(大陸からの移住者)が反日抗日的であるとの見方がありますが、実際はそれほど単純ではないのです。省籍矛盾については特定の政治家が選挙運動で煽ることによって起こる面も否定できず、そうした背景を理解しないで台湾の戦争観を論じると誤解が生じるおそれがあるとされます。本省人には、福建系と客家系がいること、また台湾人を語る際には台湾先住民の問題が欠けている傾向が見られること、省籍については近年外省人、福建系をはじめとした本省人の垣根が解消される傾向にあること、外省人はエリートと低所得層との格差が激しく多様であること、低所得層の外省人と台湾先住民との婚姻のケースが多いなど単純ではない、という意見もありますが、そのように詳細に見て行けばおよそ概説は不可能であり、つまるところ学問的考察は不可能になってしまいます。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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歴史の両側(1) 『東京裁判』 学校で教えてくれなかった近現代(55)

サンフランシスコ講和条約で戦争問題は終結している

基調講演に立った渡部昇一氏(上智大学名誉教授)は、次のように発言されました。

「日本はサンフランシスコ講和条約で東京裁判の諸判決を受け入れたが、講和条約とは過去についてこれ以上は問わないというのが原則だ。A級戦犯「平和に対する罪」で禁固7年に処された重光葵は鳩山内閣の外相になり、国連でも日本代表として演説し、そうした重光の死に対して国連では黙祷を捧げている。講和条約の締結から日本は全員を無罪にすることに成功した。講和が成ったため、日本は韓国や中国に一言も謝罪しなかった。
それが謝罪するようになったのは、昭和60年、外務省が土井たか子氏の質問に対し、日本は東京裁判を受諾して国際社会に復帰したとの趣旨の答弁をした頃からだ。安倍政権時の麻生外相も同じ趣旨を述べている。東京裁判を受け入れて国際社会に復帰したというのは完全な誤解である。それを政府答弁で認めたから中韓に謝罪するしかなくなった。この外務省答弁が以後の謝罪決議や村山談話にまで引き継がれており、田母神論文事件のように今も日本を縛っている」

と述べ、東京裁判に対する誤解が今も日本の外交や国益を損なっている実情を指摘しました。

続いて、シンポジウム第一部の「パネリスト提言」で、櫻井よしこ氏(ジャーナリスト)は、
「GHQは占領時に新聞・ラジオをはじめメディアを厳しく検閲し、『日本が悪かった』という歴史観を植え付けた。そのため、諸外国の一流の学者たちが東京裁判について疑問を呈している中で、日本だけが『東京裁判は正しく、重要であり、異議を唱えてはならないものである』というような解釈をし、それがまかり通っている。東京裁判史観を葬り去るために、私たちは正しい歴史認識をしなければならない。幸い東京裁判について多くの分かりやすい資料や書籍が出てきたので、私たちはまずそれらを読むことから、真の立ち直りができるのではないかと思う」
と、満州事変などを例に、東京裁判史観に対する日本人の心構えと、私たち一人ひとりができることついて提言をされました。

坂元一哉氏(大阪大学教授)は、
サンフランシスコ講和条約を結んだことで、日本が東京裁判の正当性を認めたというのは誤解だ。外務省は、判決を含めた裁判全体を、東京裁判が正しいかどうかの評価とは別にして『受諾した』と考えているようだ。しかし、当時日本が東京裁判を正しいとして受け入れたはずはない。アメリカも講和条約によって東京裁判を正当化しようとしたわけではない。吉田茂であっても戦争責任を認めて謝罪して受け入れたのではなかった。また講和条約11条も、よく条約集で見るような戦争犯罪に関する条文ではない。戦犯の処遇の問題であって、草案当初はなかったが『水漏れを防ぐ』ために加えられたものだ。朝鮮戦争を背景にして『和解と信頼の調和』として講和条約は結ばれ、日本の過去が良いとか悪いとかは一切分からない条文になっている」
と、講和条約をめぐる東京裁判の問題について誤解を除かなければならないことを主張しました。

八木秀次氏(高崎経済大学教授)は、
「今でも国際的に、ナチスドイツの行為と日本の戦前における行為を重ね合わせるような議論や発言がなされているが、その淵源は東京裁判にあると思う。

『侵略戦争は戦争犯罪である』というのは、ドイツの戦争遂行の裏にあったユダヤ人虐殺という衝撃の事実を裁くために、ニュルンベルク裁判の方針として英米仏ソにより決められたものである。このナチスドイツを裁くための枠組みが東京裁判にも適用された。日本が、ナチスドイツと同様に『計画的な大量の住民虐殺を伴う邪悪な侵略戦争』を行ったとするために出されてきたものこそが、いわゆる『南京大虐殺』である。まさに、『日本はナチスドイツのとばっちりを受けた』のである

と、ニュルンベルク裁判でナチスドイツを裁いた枠組みが、東京裁判の大きな体系を作り上げていたという事を強調されました。

また、日本国内においては、1952年、戦犯赦免運動が全国的に広がり、署名は、当時日本の全人口の約半分にも相当する4000万人に達したと言われ、1952年12月9日に衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が少数の労農党を除く多数会派によって可決された。さらに翌年、極東軍事裁判で戦犯として処刑された人々は「公務死」と認定された。

国際法からみた東京裁判は裁判と認められない

1945年、ポツダム会談で第10項の中に「我らの俘虜(捕虜)を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられるであろう」とある。同年8月8日、米英仏ソが「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」(ロンドン協定・戦犯協定)を締結。ここでという新しい戦争犯罪の概念が登場。A級戦犯「平和に対する罪」が登場した。極東国際軍事裁判所条例の第五条(イ)項の定義。ABC級は等級ではなく文字自体に罪の軽重を示す意味は含まれない項目で、日本ではイロハ項と訳されているが級と訳したことで誤解されている。つまり事件が起きた後に決められた事後法で裁くことは認められていない原則に反する裁判である。

極東国際軍事裁判(東京裁判)では、(イ)平和ニ対スル罪、(ロ)通例ノ戦争犯罪、(ハ)人道ニ対スル罪の3つに定義され、戦争犯罪者として裁かれた戦争中の指導者たち全員に有罪が宣告され、東条英機元首相以下7人が(イ)平和ニ対スル罪として絞首刑になりました。
この裁判で、被告は「A級:平和に対する罪」を犯したとされました。これは自衛戦争ではない戦争を開始することを罪とする者でした。こうした罪で国家の指導者を罰することは、それまでの国際法の歴史にはありませんでした。その行為を禁ずる法律がなかった時点でのできごとを、後からつくった法律(事後法)で裁くことはできない、というのも、それまでの世界の法律学の一致した理解でした。
東京裁判でただ一人の国際法の専門家だったインドのパール判事は、 「戦争に勝ち負けは腕力の強弱であり、正義とは関係ない。」「この裁判は国際法上の根拠を欠いている」

「現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができたのである。すなわち『ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう』。」 とA.J.ノックの言葉を紹介している。これについて、日本の保守系論者(伊藤哲夫:日本政策研究センター)は「『戦争を始めたのは日本ではなく、アメリカなのだ』ということを意図したものである」と主張している。

として、被告全員の無罪を主張しました。しかしGHQは、このパール判事の意見書の公表を禁じ、この裁判への一切の批判を許しませんでした。
また、フランスのアンリー・ベルナール判事は裁判後「すべての判事が集まって協議したことは一度もない」と東京裁判の問題点を指摘した。
オランダからのベルト・レーリンク判事は当初、他の判事と変わらないいわゆる「戦勝国としての判事」としての考え方を持っていたが、イギリス領インド帝国のラダ・ビノード・パール判事の「公平さ」を訴える主張に影響を受け、徐々に同調するようになっていった。「多数派の判事たちによる判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容であり、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱いた」とニュルンベルク裁判の判決を東京裁判に強引に当てはめようとする多数派の判事たちを批判する内容の手紙を1948年7月6日に友人の外交官へ送っている。

A級戦犯として起訴され、有罪判決を受けた重光葵は「私がモスクワで見た政治的の軍事裁判と、何等異るなき独裁刑である」と評している。
ヨーロッパなどでは判事や関係者による指摘が起こると共に国際法学者間で議論がされ、裁判に不備があったという意見が大部分であったといわれている。

なお、イギリスの『ロンドンタイムズ』などは2ヶ月にわたって極東国際軍事裁判に関する議論を掲載した。
イギリスの内閣官房長官でもあったハンキー卿は世界人権宣言第11条「行われたときには国際法でも国内法でも犯罪とされなかった行為について有罪とされることはない」を引合いに出し「東京裁判は世界人権宣言の規定と相容れず、退歩させた」と述べている。

また、当時の日本統治を担当し、裁判の事実上の主催者ともいえた連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、後にハリー・S・トルーマンアメリカ合衆国大統領と会談した際に、「戦犯裁判は、戦争防止のためには役に立たない」と述べたといわれる。

GHQは日本に於いてプレスコードなどを発して徹底した検閲、言論統制を行い、連合国や占領政策に対する批判はもとより東京裁判に対する批判も封じた。裁判の問題点の指摘や批評は排除されるとともに、逆にこれらの報道は被告人が犯したとされる罪について大々的に取上げ繰返し宣伝が行われた。
日本国内においては1952年12月9日に衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が少数の労農党を除く多数会派によって可決された。さらに翌年、極東軍事裁判で戦犯として処刑された人々は「公務死」と認定された。
東京裁判については、国際法上の正統性を疑う見解と、逆に世界平和に向けた国際法の新しい発展を示したとして肯定する意見があり、今日でもその評価は定まっていません。

将兵への戦争犯罪裁判

国家指導者たちとは別に連合国側は日本の内外で「連合軍側の将兵や民間人を違法に処刑したり虐待した」という容疑で数千名におよぶ日本軍将兵を裁判にかけ、971名を銃殺や絞首刑で判決を受けた例もあるといわれ、さらに遺族が日本の社会で差別の苦しめられることもありました。

GHQの思想政策

GHQは、占領直後から、書籍、新聞、雑誌、ラジオ、映画のすべてにわたって、言論に対する厳しい検閲を行いました。また、戦争を起こした日本は悪い国家で、連合国が正義である、とマスメディアを通じて宣伝しました。こうした宣伝は、東京裁判と並んで、戦後の日本人の自国に対する見方にさまざまな影響を与えました。

靖国神社問題

靖国神社の前身である東京招魂社は、大村益次郎の発案により明治天皇の命により、戊辰戦争の戦死者を祀るために1869年(明治2年)に創建された。後に、1853年(嘉永6年)のアメリカ東インド艦隊の司令官、ペリーの浦賀来航以降の、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀るようになる。1877年(明治10年)の西南戦争後は、日本国を守護するために亡くなった戦没者を慰霊追悼・顕彰するための、施設及びシンボルとなっている。

「国に殉じた先人に、国民の代表者が感謝し、平和を誓うのは当然のこと」という意見の一方、政教分離や歴史認識、近隣諸国への配慮からも政治家・行政官の参拝を問題視する意見がある。終戦記念日である8月15日の参拝は大東亜戦争の戦没者を顕彰する意味合いが強まり、特に議論が大きくなる。
日本兵が戦友と別れる際、「靖国で会おう」と誓ったことから、靖国神社は日本兵の心の拠り所としてのシンボルの一つであったが、中国(中華人民共和国)、韓国(大韓民国)、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の3カ国はA級戦犯が合祀されていることから、日本の首相参拝が行われる度に激しい反発を繰り返しており、外交問題となっています。

しかし、本来、靖国問題というのは、政治問題にも外交問題にもなり得ません。神道は日本の文化の問題であり、古来から中華圏の宗教観とは一致しません。宗教も祭祀も認めない国が「日本の文化」に注文を付けるべきではありませんし、日本には死者をむち打つ文化はありません。死ねば等しく神です。A級戦犯を合祀しているというが、上記のように、ABCは戦争犯罪の重さを示すものではなく単なる区分であり、そもそも東京裁判は、国際法による軍事裁判ではなく、極東国際軍事裁判所条例による裁判であり、判決自体が無効です。中国は、日中平和友好条約で戦犯問題に何の留保条件もつけていないばかりか、「内政の相互不干渉」の原則を約束していました。日韓基本条約もそうですが、条約は過去のあらゆるトラブルを解消して再出発しようという取り決めです。本音は、覇権の確立を狙っており、秦の時代からの中華思想そのもので、内モンゴル、チベット、その中に台湾同様、日本を組み込もうとしているのです。対日圧力になるものがあれば何でもいいのです。
法治国家でない国に法治国家で民主主義である日本や他の国々の価値観が通用しないことはいうまでもないのです。

引用:「今あらためて問う! 東京裁判」(主催:東京裁判判決60年シンポジウム実行委員会
:『靖国問題と中国』岡崎久彦
:『日本人の歴史教科書』自由社

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20世紀の戦争と戦時国際法 学校で教えてくれなかった近現代史(54)

戦時国際法と戦争犯罪

人間は長い歴史の中で、国家や民族の利害の衝突から、絶え間なく戦争を繰り返してきました。そこで、戦争のやり方を国際的に取り決めたルールの制約のもとに置こうとする知恵が生まれました。このルールを戦時国際法といいます。1907年にオランダのハーグで締結されたハーグ陸戦法規は、その代表例です。

戦時国際法では、戦闘員以外の民間人を殺傷したり、捕虜となった敵国の兵士を虐待することは、戦争犯罪として禁止されました。一方、軍服を着ていない者に武器を持たせたり戦闘に参加させることは禁じられ、それを捕らえた側にはスパイやゲリラとして処刑することも認められていました。しかし、二つの世界大戦を通じて、これらのルールはしばしば破られました。実際には、戦争で、非武装の人々だけに対する殺害や虐待を一切しなかった国はありませんでした。日本軍も、戦争中に侵攻した地域で、捕虜となった敵国の兵士や非武装の民間人に対しての不当な殺害や虐待をおこなって多大な惨禍を残しています。

空爆・原子爆弾投下とシベリア抑留

一方、第二次世界大戦末期には、アメリカが東京大空襲をはじめとする日本やドイツの多数の都市への無差別爆撃を行い、広島と長崎には原爆を投下し民間人を無差別に殺しました。

また、ソ連は日本の降伏後、日ソ中立条約を破って満州や南樺太および千島列島に侵入し、日本の民間人に対する略奪、暴行、殺害を繰り返しました。そして、日本兵の捕虜を含む約60万人の日本人をシベリアに連行して、苛酷な労働に従事させ、およそ1割を死亡させました。

二つの全体主義の犠牲者

ナチスドイツは、第二次世界大戦中、ユダヤ人の大量虐殺を行いました。これはナチスドイツが国家として計画的に実行した犯罪で、戦争にともなう殺傷ではありません。ナチスはまた、自国の障害者や病人を注射などで薬殺し、ジプシーと呼ばれた移動生活者も大量に殺害しました。しかし、戦前からヨーロッパのどの国でもユダヤ人を迫害していました。日本は日露戦争の際にユダヤ人が高額の戦争資金を調達してくれたこともありますが、ポーランドやシベリアのユダヤ難民を助けています。

共産党の一党独裁体制が確立したスターリン支配下のソ連では、富農撲滅の名のもとに、多数の農民が処刑され、また餓死させられました。共産党の幹部の粛清も繰り返され、多くの政治犯とその家族が強制収容所に送られましたが、ほとんどは生きて戻りませんでした。
二つの世界大戦は各国に大きな被害をもたらしましたが、そればかりでなく、ファシズムと共産主義が、戦争とは異なる国家の犯罪として、膨大な犠牲者を出したことも忘れてはなりません。

欧米のアジア植民地支配

高山正之氏(元産経新聞ロサンゼルス支局長など)は、欧米のアジア植民地支配のポイントは愚民化政策だったといいます。知恵は白人のもので植民地の民のものではありませんでした。近代化の目覚めを奪うために、ただ伝統と文化を重んじさせました。インドを支配していたイギリスは、衰退気味だったヒンズー教を復興させ、イスラム系やさらに別シーク派の人たちを同じ政治区分に住まわせることで、四億の民が宗教で対立して争っている限り、団結して宗主国イギリスに抵抗する事態を避けさせました。

しかしヒンズー教の復活はこの宗教が内包するカーストも甦らせてしまいました。李氏朝鮮は両班(ヤンバン)以下四つの身分を据えただけで深刻な停滞を招いた事を考えれば、一口に130といわれるカーストがどれほどインド社会を縛ってきたかは想像に難くありません。同じように地方言語も尊重させた結果、現在の紙幣に16種の言葉が書かれているように、インドは共通の母国語を持つ機会を完全に失ってしまいました。

共通語がなければ国家意識も連帯感も希薄になります。宗教と言語。この二つの分団の結果、イギリスはたった二千人の文官だけで四億人のインドを支配できたのです。オランダが350年支配したインドネシアも共通語を持っていませんでしたが、趣旨は同じです。

しかしインドネシアからオランダを追った日本はジャワ語を共通語に採用し、学校を作ってたった三年で定着させました。共通語が連帯意識と祖国愛を育むことは、終戦後帰ってきた宗主国オランダと四年間も戦い抜き独立を果たした事実によって見事に証明されます。

インドに次いでビルマ(ミャンマー)を支配したイギリスは、単一宗教単一民族の国を国王をインドに追い出して、インド人、華僑を送り込み、山岳民族をキリスト教化して軍、警察など治安機関に据えました。一瞬にして他民族他宗教国に変貌し、この国のビルマ族は農奴にまで落とされました。

フランスの仏領インドシナ(ベトナム)もビルマ式に倣っています。まず皇帝をアルジェリアに流して国民の心の支えを抜き、次ぐに華僑を大量に入れて代理支配させました。イギリスのアヘン貿易をうらやましく感じていたのでアヘン専売公社を設立。ハーグ条約で売買が禁止されても販売を続けました。コーヒーの強制栽培も収益を上げましたが、最大の収入源は徴税でした。人頭税、葬式税、結婚税など思いつく限りの税が課せられ、滞納すれば即刑務所行きでした。そのために「学校よりも多くの刑務所が建てられた」という仏女性記者A・ビオリスの報告書にあります。

アメリカ軍がハワイを占領する際に多くのハワイ国王や原住民を迫害し、日本との戦争が勃発すると強制的に併合しました。アメリカのフィリピン植民地化は経済的搾取を基本とする欧州諸国とは違ってアジア進出の足掛かりという戦略的政治的意図からでした。反対するフィリピン民族軍を徹底的に叩き、拠点であったパタンガスは焼き払われ数万人が餓死しました。米兵が殺された報復にレイテ、サマール両島の住民は皆殺しにされました。イギリスが印度で捕虜でありながら大砲の前に吊して吹き飛ばして見せました。それらは白人に逆らえば残忍な報復があることを植民地の民に刷り込み、恐怖で押さえ込む植民地統治法のひとつです。

そんなアジア諸国の民に大きな衝撃を与えたのが日露戦争だったと、ミャンマーのヤンゴン大タット・タン教授はいいます。

侵略国家にされた日本

欧米諸国が西から津波のように押し寄せ、アメリカが太平洋を東南から駆け上がってきます。北からはソ連が迫ってきます。そういう直接的な脅威を感じ、断固日本人のサムライの気風が立ち向かったのが、わが国の近現代史で、中国大陸との関係も満州事変以後というような短い時間尺度で見るべきではないでしょう。

清朝の時代は、中国史の中でも比較的に良い時代なのですが、それでも内乱と疫病、森の消滅と巨大水害、いなごの害など数千万単位の餓死者を出し続けた不幸な国土でした。強盗団がはびこる無法社会で、幕府治世下の法治国家を生きていた日本人が明治になっていきなり接触するにはあまりに放埒すぎました。人類史上最大の内乱といわれる太平天国の乱は十~十五年も続き、人口四億のうち五千万から八千万もの死者が出ました。中華民国になってからも内乱はやみません。中国はそのころまだ国家ではないのです。

日本はそのような状態の中国の内乱に介入すべきではありませんでした。清朝末期から国民党と中国共産党の殺し合いを経て、文化大革命に至るまで内乱の連続で、皇帝や政権が代わるたびに何百万人を虐殺してきた歴史があります。

最近でもチベット、ウイグル、内モンゴルなど、統一といって侵略によって民族を抹殺してきた歴史があり、天安門事件や農村での土地問題によって自国民でさえも民主化運動や共産党の意に添わない者は虐殺を繰り返しています。日本の文明とは異質な大陸の長い歴史に、過去のほんの一時期巻き込まれたに過ぎないのです。

ちょうど同時期に、ドイツとの戦争を始めたソ連とイギリスはそれぞれ異なる動機から、大陸に介入した日本の戦火の拡大を期待し、謀略の限りを尽くします。ソ連は日本の北進を防ぐ必要がありました。イギリスは欧州戦線にアメリカを引き込むために、中国に好意と野心を持つアメリカの反日感情を可能な限り刺激する必要がありました。イギリスとアメリカは連合して蒋介石を支援し、ソ連はルーズベルト政権の中枢にコミンテルンのスパイを送り込むことに成功しました。それらに対して日本の政治と外交の受け身の弱さでした。国際政治の修羅場で国益を守るため粘り腰でしたたかに自己主張する強さの欠如です。

満州事変以後、日本が大陸で展開したとされる国家悪など、世界史的に見れば何ほどのことでもありませんが、戦前に「侵略」という文字は欧米にのみ与えられていました。例えば『英国の世界侵略史』『白人の南洋侵略史』『米国東亜侵略史』『露西亜帝国満州侵略史』『米英東亜侵略史』『印度侵略非史』『西洋文化の支那侵略史』など数え切れぬ本がGHQによって没収、廃棄処分(焚書)されてしまいましたが、これらを見れば欧米諸国が「侵略」した側であって、それ以外ではありません。ところがいつのまにか侵略したのは日本だということにされてしまっています。

「侵略」や「天皇制」「皇国史観」も戦前は使われていません。「天皇制」はコミンテルンの指令書に出てくる「君主制」の訳語で、打倒のための革命用語が戦後に流布したものだそうです。戦前の日本人はこんな冷たく無礼な言葉を用いるはずがなく、「皇室」といっていました。日本では政治制度として「天皇制」を定めた歴史はありません。

戦後の占領支配は戦前まであった日本人の世界史を長い時間で計る目を消し去りました。日露戦争後に日本が取り込まれた英米の金融資本主義の罠、ユダヤ人の暗躍、共産党コミンテルンの陰謀など。これらすべてを歴史として描くべきです。近現代史を、日本の軍部の行動と国内政治だけを描くような歴史なら子どもたちにむしろ教えない方がよいと思います。一方の資料だけを見て、本当の意味が分かるはずはないのです。

対日戦に触れるな

中西輝政氏は、こう記しています。
第二次大戦については戦勝国側の重要資料が、未だ十分に公開されているとはいえません。ソ連崩壊によってこの十年、大戦期のソ連に関する公文書資料がほんの少しですが公開されました。その中からいくつもの驚くべき新事実が明らかになりました。

たとえば1938(昭和13)年の日ソ間で起こった「張鼓峰事件」[※1]については明らかにソ連側が仕掛けた戦いで、日本は純然たる被害者だったことが新たに分かったのです。しかし東京裁判では、これも「日本の侵略」として断罪されており関係者の処罰も行われました。また数年前に公開された旧ソ連軍の資料からは、戦後ずっと「日本側の一方的敗北」とされてきたノモンハン事件では、実はソ連側の方がはるかに大きな損害を被っていたことも明らかになりました。

そして言うまでもありませんが、現在の中国はほとんどといってよいほど資料公開をしていません。もし旧ソ連のように中国共産党体制が崩壊したときは、日中戦争についてどれほどの新事実が出てくるか、まだまだ闇の中と言わねばなりません。

情報公開に熱心なはずのアメリカやイギリスについても、ドイツの場合と比べ、なぜか日本が関わる戦争についての資料を、長く秘匿しています。たとえば、1928年の張作霖爆殺事件について、当時のイギリスの資料の中に、ソ連の関与の可能性に触れたものがあるのですが、それさえも2007年まで非公開とされてきました。1979年から90年まで足かけ12年をかけてイギリス政府の特別許可を得て、膨大な非公開文書をもとに書かれた『第二次大戦におけるイギリスの諜報活動』(全五巻)は、ドイツと米英の戦いについては、きわめて多くの新事実を明らかにしていますが、日本に関わるものについてはほとんど触れていません。同書の編集代表であったケンブリッジ大学のヒンズリー教授は、何度も「対日戦については触れてはならない、とアメリカ強く申し入れてきている。アメリカはどうして日本をもっと信用しないのか、私にはわからない」と語っています。

おそらく真珠湾関係の秘密やその他、多くの対日諜報活動が明らかになるのを恐れたのでしょう。しかしなぜ日本に対してだけ、それほど恐れるのか不可解というしかありません。またアメリカ政府は対日占領政策についても未だに大量の文書を非公開扱いにしると言われています。

いずれにしても、今後、日本の近現代史について、戦勝国側の資料公開について日本人はもっと強い関心を向けなければなりません。今ようやく初めて本来の歴史が書かれる時代を迎えており、しかもこの機会を逃すと、永遠に闇に葬られることがずい分多いと思われるからです。

[※1] 1938年(昭和13年、康徳5年)の7月29日から8月11日にかけて、満州国東南端の張鼓峰で発生したソ連との国境紛争。この激しい紛争で日本側は戦死526名、負傷者914名の損害を出した。この事件は、第一次世界大戦の激戦をほとんど経験しなかった日本にとって、日露戦争後では初めての欧米列強との本格的な戦闘であった。

皇国史観という言葉はなかった

皇国史観とは、日本の歴史を天皇中心に捉え、万世一系の天皇家が日本に君臨することは神勅に基づく永遠の正義であり、天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値であるとする価値判断を伴った歴史観そうした天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値だとする歴史観。

南北朝時代に南朝の北畠親房の『神皇正統記』がその先駆例とされ、江戸時代の水戸学や国学、幕末の尊王攘夷運動によって思想的・政治的影響力が強まり、明治維新後、政治体制によって正統な歴史観として確立した(現実の天皇家は北朝の流れであり、北朝の天皇の祭祀も行っていた)。

しかし、当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。
しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。このような変化は、神道内においては伊勢派が出雲派を放逐したことと軌を一にする。

その後大正デモクラシーの高まりを受けて歴史学にも再び自由な言論が活発になり、マルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版されたが、社会主義運動の高まりと共に統制も強化された。世界恐慌を経て軍国主義が台頭するに及び、昭和10年(1935年)、憲法学者美濃部達吉の天皇機関説が学会では主流であったにも拘らず問題視されて発禁処分となり、昭和15年(1940年)には歴史学者津田左右吉の記紀神話への批判が問題となり著作が発禁処分となった。一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。

19世紀末から1945年の終戦まで、学校で用いる歴史教科書は日本神話に始まり天皇家を中心にした出来事を述べ、歴史上の人物や民衆を、皇室に対する順逆によって賞賛あるいは筆誅を加える史観によって記述していた。(国定教科書)  戦後は、思想、信条の自由が保障されると、戦前は取り締まりの対象であったマルクス主義の唯物史観が興隆する。これにより、皇国史観下ではタブー視されていた古代史や考古学の研究が大いに進展した。これら戦後の歴史学は一般的に「戦後史学」と呼ばれ、こうした戦後民主主義の流れの中で、皇国史観も衰退することとなった。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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今ようやく本当の近現代史がうまれつつある 学校で教えてくれなかった近現代(53)

自虐史観と自由主義史観

自虐史観(じぎゃくしかん)とは、第二次世界大戦後の日本の歴史学界において主流であった歴史観を「自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価する歴史観」であるとの評価を持たせて表現する場合に用いられる呼称である。これに対して、自由主義史観は、藤岡信勝・東大教授(当時)の唱えた歴史検証法。歴史を動かす要因として「人物」を重視し、「『偉大な人物』が歴史を切り開く」との歴史観に立っている。

第二次世界大戦敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による統制の下で、歴史学界や教育界(学校教育の現場、日本教職員組合(日教組)に入っている教師ほか)などでは「なぜ敗戦に至ったのか」という視点から過去への反省がなされ、戦前の日本国民の価値観は徹底的に覆される事になった。

アメリカに比べて日本の近代化の遅れ、民主主義の未成熟などが問題とされることが多かった。また、皇国史観が歴史学研究に影響を及ぼし、その発展が阻害されたという反省からマルクス主義の影響を強く受けた歴史研究が主流となった。 しかしその反動が行き過ぎたため、日本の伝統・文化などの世界に誇るべき歴史の再評価の気運が生じ、「新しい歴史教科書をつくる会」などの運動が活発となった。

ところが、『産経新聞』紙上で連載された「教科書が教えない歴史」の反響から執筆者達によって作られた新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)は、戦後民主主義教育について、近代の戦争と植民地支配への反省を過度に強調する歴史教科書は歴史認識を誤認させ、敗戦を節目として神話時代から続いている日本の誇るべき歴史を貶める歴史認識を「自虐史観」(東京裁判史観)または「暗黒史観」であるとして、つくる会による『新しい歴史教科書』が作られた。2001年に文部科学省の教科用図書検定に合格し、2002年から一部の中学校などで使用されている。これは戦時体制下で過度に利用されたが、皇国史観それ自体は極度に否定されるものではなく、長い日本の歴史の歩みの中で国民に継承されてきた伝統、文化的な価値観として肯定的に評価するものである。

「つくる会」は、「自虐史観」は、「戦後の歴史教育は日本の歴史の負の面ばかりを強調し過ぎ、あまりにも偏った歴史観を自国民に植え付ける結果となった。」と主張する。「自虐史観教育を受けた結果、自分の国の歴史に誇りを持てない」、「昔の日本は最悪だった」、「日本は反省と謝罪を」という意識を植え付けられ、「いわゆる戦後民主主義教育によって誤った歴史観(自虐史観)が蔓延した」として、「暗黒史観」「土下座教育」の改善を主張している。

外国の文化を学びつつ独自性を維持してきた日本

日本人は、外国の進んだ文化を理解するために、あらゆる努力を惜しまずやってきた民族でした。
古くは遣隋使や遣唐使が、木の船で荒波を越える危険をおかして、留学生は中(株)グローバル奥で長い期間を学習しに費やしました。帰国できないで死亡する者、やっと帰路に就いた途中で嵐にあって遭難してしまう者も少なくありませんでした。
明治になると、留学生たちは、西洋文明を学ぶ使命を帯びてヨーロッパやアメリカに渡りました。当時はまだ飛行機がなかったので、ときには1か月以上もかけて船で渡ったのです。
このように、日本人は外国から深く学ぼうとしましたが、それによって自国の文化的な独自性を失うことはありませんでした。それは各時代の文化を見ればよくわかります。飛鳥文化から江戸の文化にいたるまで何れをとっても日本らしいユニークな個性を備えつつ、しかも世界に通用する普遍的な魅力を持っているからです。

方向性が見えない二つの理由

ところが、ここ半世紀は、必ずしもそうとはいえない時代になってきました。それはなぜでしょうか。
日本人が外国の文明に追いつけ、追い越せとがんばっているときには、目標がはっきりしていて、不安がありませんでした。ところが今や、欧米諸国に追いつくという近代日本がかかげた目標を達成し、日本はどの国も目標にはできない立場に置かれるようになってきました。これが、日本人が方向性を見失いつつある一つの理由です。
しかし、もう一つの重要な理由が別にあります。

日本は長い歴史を通じて、外国の軍隊に国土を荒らされたことがない国でした。ところが、大東亜戦争で敗北して以来、この点が変わりました。
全土で約50万人もの市民の命をうばう無差別爆撃を受け、原子爆弾を落とされました。その後の占領によって、国の制度は大幅に変更させれました。戦後、日本人は、努力して経済復興を成し遂げ、世界有数の経済大国の地位を築きましたが、いまだにどこか自信を持てないでいます。戦争に敗北した傷跡がまだ癒えません。

自国の歴史と伝統を学ぶ意味

日本人が、これからもなお、外国から謙虚に学ぶことは大切です。しかし、深い考えもなしに外国を基準にしたり、モデルに見立てたりすることで独立心を失った頼りない国民になる恐れが出てきたことは、警戒しなくてはなりません。
何よりも大切なことは、自分をしっかりと持つことです。自分をしっかり持たないと、外国の歴史を学ぶことも、実はできません。そのために、さらに深く自国の歴史と伝統を学んでほしい。

『新しい歴史教科書』

戦勝国は不利な公文書を秘匿する

良く近代史の書き換えということが言われますが、そもそも、まだ本当の意味で「書かれた歴史」というものはないのです。従って「書き換え」ということもあり得ないわけです。少なくとも、二十世紀の戦争や第二次大戦をめぐる歴史は、本当は今ようやく書かれ始めている時期を迎えているのです。

歴史は資料によって書かれるものです。「近現代史」といわれるものについては、その重要な資料は各国の政府が作成した公文書ということになります。しかしどの交戦国の政府も、戦争ではみな当事者ですから、自国に不利になるような文書の公開は可能な限り先に延ばそうとします。先の戦間期のフランスや日本、ドイツのように外国部隊に占領され押収(焚書)されない限り、容易には自国の国益に大きなマイナスとなる資料の公開はしないものなのです。

戦勝国というのは、自国に有利な戦後の国際秩序(その中には当然、歴史観も含まれる)を、どれほど必死になって守ろうとするのか、そのためには、いかに手の込んだ工作やトリックを使うものであるか、ということが如実にわかるのです。

今ようやく本当の近現代史がうまれつつある

国際政治学、国際関係史、文明史の中西輝政氏はこのように書いています。
かつて留学した西欧の大学で、指導教官から「現代史というような学問は本当はないのですよ。最低50~60年経たないと大切な資料は出てこないからです。つまりそれは、本当の歴史ではないのです。」と言われたことがあると。とくに、このことは二十世紀の世界大戦や冷戦といった世界史的な出来事についてあてはまると思います。

引用:『日本人の歴史委教科書』自由社

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国際社会における日本の役割 学校で教えてくれなかった近現代史(52)

昭和から平成へ

1989(昭和64)年1月7日、昭和天皇が崩御されました。60年あまりにおよぶ、激動の昭和時代は幕を下ろしました。皇太子明仁親王が即位し、新しい元号は、平成と定められました。

国際社会における日本の役割

1990年8月、イラク軍が突然クウェートに侵攻し、翌年1月、アメリカを中心とする多国籍軍がイラク軍と戦って、クウェートから撤退させました(湾岸戦争)。この戦争では、日本は憲法を理由にして軍事行動は参加せず、巨額の財政援助によって大きな貢献をしましたが、国際社会はそれを評価しませんでした。国内では日本の国際貢献のあり方につて深刻な議論が起きました。21世紀を迎えた2001(平成13)年、アメリカでイスラム教徒の過激派による大規模な同時多発テロ事件が起こり、これが引き金となってアフガニスタンでの過激派への攻撃やイラク戦争が起こされるなど、世界は新たな試練を迎えました。

一方、インターネットの普及により地球上の時間的距離は一気に短縮され、大量の情報を簡単に交換できるようになったことが世界を大きく変えています。豊かさと引き換えに地球全体で自然環境が大きく崩れ始めていることも心配です。
こうした中で、独自の文化と伝統をもつ日本が、自国の安全と自由をしっかりと確保しつつ、今後、世界の平和と繁栄にいかに貢献していくかが問われています。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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共産主義の崩壊 学校で教えてくれなかった近現代史(51)

社会主義

社会主義とは、生産手段の社会的共有・管理などによって、平等な社会を実現しようとする思想・運動の総称です。狭義では、生産手段の社会的共有・管理を目指す共産主義、特にマルクス主義とその潮流を指します。日本では歴史的経緯により、この狭義を指すことが多いです。しかし広義では、トマス・モア、フェビアン協会、北欧諸国などの社会改良主義や社会民主主義、一部のアナキズム(無政府主義)、上記のマルクス主義などを含めた総称です。ヨーロッパではこの広義を指すことが多いです。

政治的には「左翼」と呼ばれ、労働組合の結成と労働条件の改善、社会保障による富の再分配、教育や医療の無償化、教会権力に対する政教分離、主要産業の国営化や計画経済による近代化、帝国主義戦争に対する反対と国際主義、などを主張します。

ベルリンの壁崩壊

アメリカがベトナムから撤退したあと、ソ連は軍事力を増強して、世界各地の共産主義勢力の援助を強化し、1979年末にはアフガニスタンに軍事侵攻しました。アメリカは1981年にレーガン大統領が登場して、ソ連に対する大規模な軍備拡張(軍拡)競争に乗り出しました。ソ連はこの競争に耐えきれず、しだいに経済を破綻させていきました。

1985年、ソ連では、ゴルバチョフ政権が誕生して、市場経済の導入や情報公開によるソ連社会の再建に取り組みました。しかし、これにより国内はかえって混乱し、東欧でも自由化を要求する動きが広がりました(東欧革命)。1989年、ベルリンの壁は壊され、翌年、西ドイツは東ドイツを統合しました。

米ソ冷戦の終結

ソ連はアメリカとの軍拡競争を断念し、米ソ首脳は冷戦の終了を宣言しました。東欧諸国では次々と共産主義政権が崩壊しました。ソ連共産党は活動を停止、1991年には、新たに独立国家共同体(CIS)が結成されました。こうしてソ連は崩壊し(ソ連崩壊)、ワルシャワ条約機構も解体し、「社会主義」のイメージは世界的に失墜しました。

共産主義体制の崩壊によって、約70年間におよぶ共産主義の実験は決着をみました。この体制は、人々に豊かで安定した暮らしを保証することができず、言論の自由など、政治的権利も保証することができないことが明らかとなりました。

共産主義崩壊後のアジア

共産党独裁体制が続く中華人民共和国やベトナムは市場原理の導入を進め、事実上の混合経済体制を築いています。現在では、社会民主主義では市民主義、軍縮、反原発、環境問題、反グローバリゼーションなども主要なテーマとなっており(ただしこれらのテーマは本来の社民主義とは別の概念)、議会政治を通した民主的な変革を目指し、マルクス主義の暴力革命論を否定します(反共産主義)。社会改良主義、民主社会主義などや、広義にはマルクス主義から転じた修正主義、構造改革主義、ユーロコミュニズムなども含みます。国際組織に社会主義インターナショナルなどがあります。

主体思想(チュチェ思想)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の独自の思想で、当初はマルクス主義の発展と自称していましたが、現在では「マルクス主義を基礎にしながらもすでにそれを超克した」と称しています。
一方、狭義の社会主義政権は中南米諸国で伸張が著しい。

日本の左翼団体

社会民主党(社民党)

1996年に日本社会党が改称して発足。社会党左派を継承する。旧社会党右派は民主党に合流。はじめ社会党末期の路線を継承して「社民・リベラル」を掲げたが、野党化以降は左寄りの「社会民主主義」を押し出し、2006年決定の綱領「社会民主党宣言」では、リベラルの字句は完全に消えている。西欧・北欧などの社会民主主義政党と比べると、日本社会党時代と同様に、安全保障政策などへの姿勢は大きく異なっている。平和と福祉、環境保護、脱原子力が党の主張の中心である。日本国憲法の固持と理念の実現を呼びかけ、平和外交による紛争対処を唱える。

日本共産党

社会主義・共産主義を目指す日本の政党である。「理論的基礎」として科学的社会主義を標榜し、究極目標としての「社会主義・共産主義」を掲げているが、資本主義の枠内で、対米従属と大企業支配の打破を当面の目標としている。1922年日本社会党の元党員を中心に設立。ソ連コミンテルンに加盟していた。2009年現在国会に議席を有する日本の政党では同一の党名を維持していることでは最も古い。

民主党の支持団体

労働組合:日本労働組合総連合会(連合)(地域によっては社民党支持)、UIゼンセン同盟、全日本自治団体労働組合(自治労)、・全日本自動車産業労働組合総連合会(自動車総連)、JAM、日本教職員組合(日教組)=教育の自由化をめざす、基幹労連、情報労連、その他の単産
宗教団体:立正佼成会
業界団体:全日本遊技事業協同組合連合会(全日遊連)および日本遊技関連事業協会(日遊協)、19名の民主党議員がパチンコ・チェーンストア協会の政治分野アドバイザーを務める(自民党議員25名も所属)
2002年の日朝首脳会談で金正日が拉致を認めた後は北朝鮮との関係は凍結。朝鮮総連に対して、従来通り友好関係を維持する。社会主義インターナショナル。
その他:・部落解放同盟、在日本大韓民国民団(地方外国人参政権の獲得を目的)

出典:『日本人の歴史教科書』自由社
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米ソ冷戦下の世界と日本 学校で教えてくれなかった近現代史(50)

冷戦の進行

日本が独立を回復し、復興に努めているあいだ、米ソ両陣営の冷戦は激化していきました。両国は原子爆弾より大きな破壊力をもつ水素爆弾(水爆)の開発に成功し、核爆弾を搭載した大陸間弾道弾(ICBM)を設置して、相手国を直接破壊できる攻撃力を備えました。このためのロケット技術を使い1957年ソ連が初めて人工衛星の打ち上げに成功、アメリカもそれに続いて、両国は宇宙技術の開発でも競い合うことになりました。

ソ連では、スターリンの死後、1956年、共産党のフルシチョフ第一書記がスターリンの政策を批判し(スターリン批判)、アメリカとの平和共存を提唱して「雪解け」と呼ばれましたが、社会体制の違いに由来する米ソの冷戦はおさまりませんでした。

東西に分断されたドイツでは、1961年、東ドイツが住民の西側への脱走を阻止するため、東西ベルリンを隔てる壁を築きました(ベルリンの壁)。1962年には、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設しようとしたことから、米ソの間に核戦争が起こりかけました。この時、アメリカは強硬な姿勢を貫いたため、ソ連はミサイルを撤去しました(キューバ危機)。

1965年、アメリカはインドシナ半島の共産主義化を警戒し、ソ連や中国が支持する北ベトナムに対抗して南ベトナム政府を支えるため、直接軍隊を派遣しました(ベトナム戦争)。しかし、アメリカ本国を含む各国でアメリカの軍事介入に反対する非難が高まったので、1973年、ベトナムから撤退しました。2年後には、北ベトナムが南ベトナムを軍事力で併合し、ベトナム社会主義共和国が成立し、アメリカの威信は傷つきました。

経済復興から日米安保改定

日本では、朝鮮特需ののち、長期の好景気に恵まれました。経済は戦争前の水準に復帰し、1956(昭和31)年には、「もはや戦後ではない」といわれるようになりました。一方、ソ連を理想とする共産主義も進歩的な理想として労働者や学生、知識人を魅了するようになりました。
1957(昭和32)年に首相になった岸信介は、こうした日本の復興を背景に、日米安全保障条約の改定をめざし、1960(昭和35)年1月、新条約を調印しました。これにより日米両国は、より対等な関係に近づきました。

ところが、これに対して学生や労働者を中心に安保条約の改定を日米軍事同盟の強化になるとして反対する運動が起きました。1960年5月、自民党が新安保条約の国会承認を強行採決すると、国会周辺をデモ隊が連日のように取り囲む大きな争乱になりました(安保闘争)。岸は新安保条約成立ののち辞職しました。

岸首相のあと首相となった池田勇人は、安保をめぐっての大衆騒動が再び起きるのを避けるため、自民党が結党のときにかかげた自主憲法制定や防衛力強化という課題には手をつけず、10年間で所得を2倍にするという所得倍増政策をかかげました。

高度経済成長

日本の経済は1960(昭和35)年ごろよりほぼ10年間、年率10%という世界の歴史でもまれな奇跡といわれる成長を遂げました(高度経済成長)。1968(昭和43)年には、国民総生産(GNP)は資本主義陣営でアメリカに次ぎ世界第2位となりました。ソニーやホンダ、トヨタなど世界的な企業が成長しました。中小工場の現場における無数の人々のさまざまな工夫や発明の積み重ねも、産業の発展に大きな役割を果たしました。

また、高速道路や1964(昭和39)年、10月1日、東京と大阪の間を所要時間をそれまでの半分近くで結ぶ東海道新幹線が開通、庶民の生活にも電化製品や自動車が普及しました。農村も豊かになり、米の生産は過剰になって減反政策がとられるほどになりました。世界での日本の地位も向上し、1964(昭和39)年10月10日には東京オリンピックが開催され、1970(昭和45)年には大阪で万国博覧会が開かれました。これらはアジアで初めて開催されたものでした。

高度経済成長後の社会と経済

1960年代後半から、工場の煙や排水など産業廃棄物による公害が問題となりました。水俣病や四日市ぜんそくなどの公害病、自動車の排気ガスによる大気汚染、家庭での洗剤による河川の汚染などの解決が求められました。これに対し、1971(昭和46)年、環境庁が設置され、公害防止の対策がとられて、状況は改善されていきました。

1970年代に入ると、中東の産油諸国が、石油の輸出を規制したため、この地域の石油にエネルギーを依存する日本経済は、2度にわたって深刻な打撃を受けました(オイルショック)。しかし、これによって電気製品の消費電力を極度に減らすなどの省エネルギー技術が発達し、日本経済はかえって強くなり、その後の発展の基礎となりました。

外交関係の進展

1965(昭和40)年には、日本は韓国と日韓基本条約を結んで国交を正常化し、有償2億ドル無償3億ドルの経済協力を約束しました。

アメリカの施政化にあった沖縄では、祖国復帰運動がさかんになりました。佐藤栄作内閣は、非核三原則を表明し、核兵器抜きで基地を維持するという条件で、沖縄返還への同意をアメリカから取り付け、1972(昭和47)年5月、沖縄本土復帰が実現しました。
1970年代になるとアメリカのニクソン大統領は、北ベトナムを支援するソ連への牽制もあって、中華人民共和国に接近し、両国関係は正常化に向かいました。それを受けて、1972年9月、田中角栄首相が訪中して日中共同声明に調印し、両国の国交が正常化されました。しかし、これによって台湾の中華民国との国交は断絶しました。その後、1978年には、日中平和友好条約が結ばれました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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独立の回復 学校で教えてくれなかった近現代史(49)

国際連合と冷戦の開始

1945(昭和20)年10月、連合国は、2度の世界大戦への反省に立ち、新たな戦争を防ぐための国際組織として、国際連合(国連)を結成しました。しかし、戦争の芽はなくなりませんでした。東ヨーロッパを占領したソ連は、各国共産党の活動を通じ、西ヨーロッパにまで共産主義の影響を及ぼし始めました。アメリカは、その影響力を封じるため、西ヨーロッパに大規模な経済援助を行い、1949年にはソ連に対抗する軍事同盟として北大西洋条約機構(NATO)を結成しました。

一方、ソ連も、1949年には原子爆弾を保有し、NATOに対抗して、1955年東欧諸国とワルシャワ条約機構(WTO)を結成しました。ドイツも東西に分断され、世界はアメリカ率いる自由主義陣営とソ連が率いる共産主義陣営が勢力を争う、冷戦の時代に突入しました。

中国では日本の敗戦後、それまで抗日で手を結んでいた国民党と共産党が、国共内戦を再開しました。1949年には、毛沢東が率いる共産党が勝利し、中華人民共和国が成立しました。一方、蒋介石が率いる国民党は台湾に逃れました。朝鮮半島では1948年、南部にアメリカが支持する大韓民国、北部にソ連の影響下にある朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がちくられ対立しました。こうして冷戦はアジアへと広がりました。

占領政策の転換

冷戦が始まると、アメリカは日本の経済発展を抑える政策を転換し、共産主義に対抗するため、日本を発展した経済をもつ自由主義陣営の一員として育てる方針に変えました。

1950年6月、北朝鮮は、南北の武力統一をめざし、ソ連の支持のもと突如として韓国へ侵攻しました。韓国軍とマッカーサーが指揮するアメリカ軍主体の国連軍がこれに反撃しましたが、北朝鮮側には中国義勇軍も加わり戦況は一進一退をくり返しました。戦争は1953年に休戦協定が結ばれるまで続きました(朝鮮戦争)。日本に駐留するアメリカ軍が朝鮮に出動したあとの治安を守るために、日本はGHQの指令により警察予備隊(のち保安隊、1954年から自衛隊)を設置しました。また、日本は国連軍に多くの物資を供給し、その生産で日本経済は息を吹き返しました(朝鮮特需)。

独立の回復

朝鮮戦争をきっかけに、アメリカは基地の存続などを条件に、日本の独立を早めようと考えました。1951(昭和26)年9月、サンフランシスコで講和会議が開かれ、日本はアメリカを中心に自由主義陣営など48か国と、サンフランシスコ講和条約を結びました。さらにアメリカと日米安全保障条約(日米安保条約)を結び、米軍の駐留を認めました。

1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復しました。ただし、沖縄・小笠原諸島は引き続きアメリカの施政したに置かれました。

ソ連は、国後・択捉島など北方領土を日本領と認めないため、日ソ間で平和条約は提携できず、1956年10月に日ソ共同宣言で戦争状態を終結し、国交を回復しました。これでソ連の反対がなくなり、同年12月、日本は国連に加盟して国際社会に復帰しました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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