独立の回復 学校で教えてくれなかった近現代史(49)

国際連合と冷戦の開始

1945(昭和20)年10月、連合国は、2度の世界大戦への反省に立ち、新たな戦争を防ぐための国際組織として、国際連合(国連)を結成しました。しかし、戦争の芽はなくなりませんでした。東ヨーロッパを占領したソ連は、各国共産党の活動を通じ、西ヨーロッパにまで共産主義の影響を及ぼし始めました。アメリカは、その影響力を封じるため、西ヨーロッパに大規模な経済援助を行い、1949年にはソ連に対抗する軍事同盟として北大西洋条約機構(NATO)を結成しました。

一方、ソ連も、1949年には原子爆弾を保有し、NATOに対抗して、1955年東欧諸国とワルシャワ条約機構(WTO)を結成しました。ドイツも東西に分断され、世界はアメリカ率いる自由主義陣営とソ連が率いる共産主義陣営が勢力を争う、冷戦の時代に突入しました。

中国では日本の敗戦後、それまで抗日で手を結んでいた国民党と共産党が、国共内戦を再開しました。1949年には、毛沢東が率いる共産党が勝利し、中華人民共和国が成立しました。一方、蒋介石が率いる国民党は台湾に逃れました。朝鮮半島では1948年、南部にアメリカが支持する大韓民国、北部にソ連の影響下にある朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がちくられ対立しました。こうして冷戦はアジアへと広がりました。

占領政策の転換

冷戦が始まると、アメリカは日本の経済発展を抑える政策を転換し、共産主義に対抗するため、日本を発展した経済をもつ自由主義陣営の一員として育てる方針に変えました。

1950年6月、北朝鮮は、南北の武力統一をめざし、ソ連の支持のもと突如として韓国へ侵攻しました。韓国軍とマッカーサーが指揮するアメリカ軍主体の国連軍がこれに反撃しましたが、北朝鮮側には中国義勇軍も加わり戦況は一進一退をくり返しました。戦争は1953年に休戦協定が結ばれるまで続きました(朝鮮戦争)。日本に駐留するアメリカ軍が朝鮮に出動したあとの治安を守るために、日本はGHQの指令により警察予備隊(のち保安隊、1954年から自衛隊)を設置しました。また、日本は国連軍に多くの物資を供給し、その生産で日本経済は息を吹き返しました(朝鮮特需)。

独立の回復

朝鮮戦争をきっかけに、アメリカは基地の存続などを条件に、日本の独立を早めようと考えました。1951(昭和26)年9月、サンフランシスコで講和会議が開かれ、日本はアメリカを中心に自由主義陣営など48か国と、サンフランシスコ講和条約を結びました。さらにアメリカと日米安全保障条約(日米安保条約)を結び、米軍の駐留を認めました。

1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復しました。ただし、沖縄・小笠原諸島は引き続きアメリカの施政したに置かれました。

ソ連は、国後・択捉島など北方領土を日本領と認めないため、日ソ間で平和条約は提携できず、1956年10月に日ソ共同宣言で戦争状態を終結し、国交を回復しました。これでソ連の反対がなくなり、同年12月、日本は国連に加盟して国際社会に復帰しました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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