米ソ冷戦下の世界と日本 学校で教えてくれなかった近現代史(50)

冷戦の進行

日本が独立を回復し、復興に努めているあいだ、米ソ両陣営の冷戦は激化していきました。両国は原子爆弾より大きな破壊力をもつ水素爆弾(水爆)の開発に成功し、核爆弾を搭載した大陸間弾道弾(ICBM)を設置して、相手国を直接破壊できる攻撃力を備えました。このためのロケット技術を使い1957年ソ連が初めて人工衛星の打ち上げに成功、アメリカもそれに続いて、両国は宇宙技術の開発でも競い合うことになりました。

ソ連では、スターリンの死後、1956年、共産党のフルシチョフ第一書記がスターリンの政策を批判し(スターリン批判)、アメリカとの平和共存を提唱して「雪解け」と呼ばれましたが、社会体制の違いに由来する米ソの冷戦はおさまりませんでした。

東西に分断されたドイツでは、1961年、東ドイツが住民の西側への脱走を阻止するため、東西ベルリンを隔てる壁を築きました(ベルリンの壁)。1962年には、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設しようとしたことから、米ソの間に核戦争が起こりかけました。この時、アメリカは強硬な姿勢を貫いたため、ソ連はミサイルを撤去しました(キューバ危機)。

1965年、アメリカはインドシナ半島の共産主義化を警戒し、ソ連や中国が支持する北ベトナムに対抗して南ベトナム政府を支えるため、直接軍隊を派遣しました(ベトナム戦争)。しかし、アメリカ本国を含む各国でアメリカの軍事介入に反対する非難が高まったので、1973年、ベトナムから撤退しました。2年後には、北ベトナムが南ベトナムを軍事力で併合し、ベトナム社会主義共和国が成立し、アメリカの威信は傷つきました。

経済復興から日米安保改定

日本では、朝鮮特需ののち、長期の好景気に恵まれました。経済は戦争前の水準に復帰し、1956(昭和31)年には、「もはや戦後ではない」といわれるようになりました。一方、ソ連を理想とする共産主義も進歩的な理想として労働者や学生、知識人を魅了するようになりました。
1957(昭和32)年に首相になった岸信介は、こうした日本の復興を背景に、日米安全保障条約の改定をめざし、1960(昭和35)年1月、新条約を調印しました。これにより日米両国は、より対等な関係に近づきました。

ところが、これに対して学生や労働者を中心に安保条約の改定を日米軍事同盟の強化になるとして反対する運動が起きました。1960年5月、自民党が新安保条約の国会承認を強行採決すると、国会周辺をデモ隊が連日のように取り囲む大きな争乱になりました(安保闘争)。岸は新安保条約成立ののち辞職しました。

岸首相のあと首相となった池田勇人は、安保をめぐっての大衆騒動が再び起きるのを避けるため、自民党が結党のときにかかげた自主憲法制定や防衛力強化という課題には手をつけず、10年間で所得を2倍にするという所得倍増政策をかかげました。

高度経済成長

日本の経済は1960(昭和35)年ごろよりほぼ10年間、年率10%という世界の歴史でもまれな奇跡といわれる成長を遂げました(高度経済成長)。1968(昭和43)年には、国民総生産(GNP)は資本主義陣営でアメリカに次ぎ世界第2位となりました。ソニーやホンダ、トヨタなど世界的な企業が成長しました。中小工場の現場における無数の人々のさまざまな工夫や発明の積み重ねも、産業の発展に大きな役割を果たしました。

また、高速道路や1964(昭和39)年、10月1日、東京と大阪の間を所要時間をそれまでの半分近くで結ぶ東海道新幹線が開通、庶民の生活にも電化製品や自動車が普及しました。農村も豊かになり、米の生産は過剰になって減反政策がとられるほどになりました。世界での日本の地位も向上し、1964(昭和39)年10月10日には東京オリンピックが開催され、1970(昭和45)年には大阪で万国博覧会が開かれました。これらはアジアで初めて開催されたものでした。

高度経済成長後の社会と経済

1960年代後半から、工場の煙や排水など産業廃棄物による公害が問題となりました。水俣病や四日市ぜんそくなどの公害病、自動車の排気ガスによる大気汚染、家庭での洗剤による河川の汚染などの解決が求められました。これに対し、1971(昭和46)年、環境庁が設置され、公害防止の対策がとられて、状況は改善されていきました。

1970年代に入ると、中東の産油諸国が、石油の輸出を規制したため、この地域の石油にエネルギーを依存する日本経済は、2度にわたって深刻な打撃を受けました(オイルショック)。しかし、これによって電気製品の消費電力を極度に減らすなどの省エネルギー技術が発達し、日本経済はかえって強くなり、その後の発展の基礎となりました。

外交関係の進展

1965(昭和40)年には、日本は韓国と日韓基本条約を結んで国交を正常化し、有償2億ドル無償3億ドルの経済協力を約束しました。

アメリカの施政化にあった沖縄では、祖国復帰運動がさかんになりました。佐藤栄作内閣は、非核三原則を表明し、核兵器抜きで基地を維持するという条件で、沖縄返還への同意をアメリカから取り付け、1972(昭和47)年5月、沖縄本土復帰が実現しました。
1970年代になるとアメリカのニクソン大統領は、北ベトナムを支援するソ連への牽制もあって、中華人民共和国に接近し、両国関係は正常化に向かいました。それを受けて、1972年9月、田中角栄首相が訪中して日中共同声明に調印し、両国の国交が正常化されました。しかし、これによって台湾の中華民国との国交は断絶しました。その後、1978年には、日中平和友好条約が結ばれました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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