【出雲神政国家連合】 古代出雲6/6 西谷古墳群

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3号墳

四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)は、弥生時代中期から吉備・山陰・北陸の各地方で行われた墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態です。四隅突出型弥生憤丘墓とも呼称します。


出雲市の南東にある西谷墳墓群は山陰地域独特の形をした四隅突出型墳丘墓が集中しています。発掘調査の行われた3号墓では墓の上で祭祀が行われた様子がわかっており、出土品からは葬られた王が吉備や北陸地方とも交流をもっていたと考えられています。ここからは斐伊川や出雲平野を一望することができます。

また、神戸川の東には日本最大級の家形石棺を持つ今市大念寺古墳、精美な石室を持つことで知られる上塩冶築山古墳など、この地に君臨した王を葬った古墳を見ることができます。
山陰~北陸にわたる日本海沿岸の文化交流圏ないしはヤマト王権以前に成立していた王権を想定する論者もいます。また、島根県安来市(旧出雲国)に古墳時代前期に全国的にも抜きん出た大型方墳(荒島墳墓群の大成、造山古墳)が造営されていますが、四隅突出型墳丘墓の延長線上に築かれたものと考える人もあり、出雲国造家とのつながりを指摘されています。

2009/02/15

【出雲神政国家連合】 古代出雲5/6 日本神話のスサノオ

◇神話の比較

江戸時代までは官選の正史として記述された『日本書紀』の方が重要視され、『古事記』はあまり重視されていなかった。江戸中期以降、本居宣長の『古事記伝』など国学の発展によって、『日本書紀』よりも古く、かつ漢文だけでなく日本の言葉も混ぜて書かれた『古事記』の方が重視されるようになり、現在に至っています。
今日では、意図的な改変や創作がかなり加えられてはいるものの、そのようなものの見方をする古代の人たちがいたことに注目する文化的背景を考察する考え方が主流となっています。

『古事記』と『日本書紀』を併せて『記紀』といいますが、『日本書紀』のある天地開闢(てんちかいびゃく)は渾沌が陰陽に分離して天地と成ったという世界認識が語られ物語ははじまりますが、天皇の史書『古事記』の「天地初発之時」(あめつちのはじめのとき)という冒頭は天と地となって動き始めたときであり、天地がいかに創造されたかを語っていません。『古事記』は、「高天原」「国産み」「神生み」からはじまります。

『古事記』は、開闢神話から高天原神話、そして有名な出雲神話の「イザナギとイザナミ」「スサノオ」「ヤマタノオロチ」やオオクニヌシノカミ(大国主神)の「因幡の白うさぎ」「国造り」「国譲り」など、そして日向神話の「天孫降臨」し、神武が大和に東征するが多く占めています。

また、記紀神話で描かれる出雲神話の「ヤマタノオロチ退治」「国譲り」は、『出雲国風土記』には記載されず、逆に「国引き神話」は、『出雲国風土記』だけに記された神話なのです。

「風土記」は「記紀神話」とは異なり、その土地ならではの神話・伝承を伝えています。 『播磨風土記』はアメノヒボコト伊和大神の話し、『出雲国風土記』は、唯一ほぼ写本で残り、総記、意宇・島根・秋鹿・楯縫・出雲・神門・飯石・仁多・大原の各郡の条、巻末条から成る。各郡の条には現存する他の風土記にはない神社リストがある。神祇官に登録されている神社とされていないものに分けられ、社格順に並べられていると推察される(島根郡を除く)。大和の史官たちの手の入らない古代出雲人が伝承してきた純粋なものとして、出雲地方の言い伝えを正確に残しています。

記紀での日本神話には、イザナギとイザナミが国つくり・神つくりをして、アマテラスとスサノオの天岩戸やヤマタノオロチなど出雲神話に続きます。それから、スサノオの子孫である大国主はスサノオの娘と結婚し、スクナビコナと葦原中国の国づくりを始めました。出雲神話とはいうものの、これらの説話は『出雲国風土記』には収録されていませんが、神々の名は共通するものが登場するのです。

大国主の子である事代主・タケミナカタが天津神に降ると、大国主も大国主のための宮殿建設と引き換えに、天津神に国を譲ることを約束します(葦原中津国平定・国譲り)。この宮殿は後の出雲大社です。

そして出雲の話から、アマテラスと高木神は、アマテラスの子であるアメノオシホミミに、「葦原中国平定が終わったので、以前に委任した通りに、天降って葦原中国を治めなさい」としてアメノオシホミミは、「天降りの準備をしている間に、子のニニギが生まれたので、この子を降すべきでしょう」とと答え、ニニギに葦原中国の統治を委任し、天降りを命じます。が筑紫の日向(ヒムカ)の高千穂に天孫降臨し、神武東征へと移ります。

■日本神話のスサノオ

スサノオ(スサノヲ、スサノオノミコト)は、日本神話に登場する一柱(はしら)の神です。
『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記されています。

伊邪那美命(いざなみのみこと)━━━┳━━━伊邪那岐命(いざなきのみこと)
伊弉諾神宮(兵庫県淡路市)    ┃     多賀神社/白山比咩神社

[三貴神]  ┏━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┓
須佐之男命      月読命       天照大御神
(すさのおのみこと)   (つくよみのみこと)  (あまてらすおおみかみ)
海を支配         月の神、夜を支配    日の神、高天原を支配
●須佐神社/八重垣神社        ●伊勢神宮(皇大神宮)
氷川神社/八坂神社/日御碕神社など
■スサノオ系図

『古事記』青は男神、赤は女神

『古事記』では三貴子の末子に当たります。また、日本においてはインドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)と素戔嗚尊(以下スサノオ)と習合し同一視されることもあります。しかしながら、スサノオの与えられた役割は、太陽を神格化した天照大神(あまてらすおおみかみ)、月を神格化した月夜見尊(つくよみのにこと)とは少々異なっており、議論の的となっています。

『古事記』によれば、神産みにおいてイザナギが黄泉の国(よみのくに)から帰還し、日向橘小門阿波岐原(ひむかのたちばなのをどのあはきはら)で禊(みそぎ)を行った際、鼻を濯いだ時に産まれたとする。『日本書紀』ではイザナギとイザナミの間に産まれたとしている。

天照大神は高天原を、月夜見尊は滄海原(あおのうなばら)または夜を、スサノオには夜の食国(よるのおすくに)または海原を治めるように言われたとあり、それぞれ異なる。『古事記』によれば、スサノオはそれを断り、母神イザナミのいる根の国に行きたいと願い、イザナギの怒りを買って追放されてしまう。そこでスサノオは根の国へ向う前に姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、天照大神はスサノオが高天原に攻め入って来たのではと考えて武装してスサノオに応対し、スサノオは疑いを解くために誓約を行う。誓約によって潔白であることが証明されたとしてスサノオは高天原に滞在するが、そこで粗暴な行為をしたので、天照大神は天の岩屋に隠れてしまった。そのため、スサノオは高天原を追放されて葦原中国へ降った。

スサノオの神社

雲国一の宮熊野大社(くまのたいしゃ)
島根県松江市八雲町熊野2451
式内社 出雲國意宇郡 熊野坐神社(名神大)
旧國幣大社
出雲國一宮
祭神 神祖熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみ くしみけぬのみこと)と尊称し奉る
素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭祀奉る

熊野大神櫛御気野命の御神名は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別神名である。
古来出雲国一の宮として知られる熊野大社は松江市の中心から南に約15㎞、車で約30分の山間の地に鎮座している。神社の前には清らかな意宇川が流れ、お参りにはそこに架けられた朱塗りの八雲橋をわたり手水舎で心身を清め石段を上る。やがてそこに境内の全景が見えてくる。 当社は神祖熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけぬのみこと)を主祭神として境内中央正面の御本殿にお祀りしており、この御神名は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別神名である。 ほか、境内には右手に御后神の稲田姫をお祀りしている稲田神社、左手に御母神の伊邪那美命をお祀りしている伊邪那美神社、また荒神社や稲荷神社がある。ほかに、随神門、鑽火殿、舞殿、環翠亭(休憩所)などさまざまな建物がある。 特に鑽火殿は当社独特の社殿であり、萱葺きの屋根に四方の壁は檜の皮で覆われ、竹でできた縁がめぐらされており発火の神器である燧臼(ひきりうす)、燧杵(ひきりきね)が奉安されている。毎年の鑽火祭(さんかさい)や出雲大社宮司(出雲國造)の襲職時の火継式斎行の大切な祭場になる社殿である。 「今中」の今に至るまでに熊野大神のミハタラキによって人の世の豊楽幸栄のムスヒを蒙っている。

雲国二の宮佐太神社(さたじんじゃ)

島根県松江市鹿島町佐陀宮内73
式内社 出雲國秋鹿郡 佐陁神社
旧國幣小社

祭神 正殿:佐太大神(さだのおおかみ)、伊弉諸尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまおのみこと)、事解男命(ことさかおのみこと)
北殿:天照大神(あまてらすおおかみ)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)
南殿:素盞鳴尊(すさのおのみこと) 秘説四柱の神

佐太神社は松江市の北、鹿島町佐陀宮内に鎮座する出雲二宮である。出雲国風土記に佐太大神社、あるいは佐太御子社ともあり、大社造りの本殿が三殿並立する。 このような社殿構えが成立したのは中世の末ごろであったようである。現在の御社殿は文化年間の造営であるが、その様式は元亀(げんき)年間に造営されたものを踏襲してきたもののようである。現在は国・県の指定する文化財も多数有している。 三殿に十二柱を祀るが、主神佐太大神(さだのおおかみ)=猿田毘古(さるたひこ)大神は日本海に面した加賀の潜戸(かかのくけど)で御誕生され、導きの神、道開の神、交通・海上安全、長寿の神として信仰れている。 祭りの主なものは、5月3日の猿田三番ノ舞(さださんばんのまい)が獅子舞をおこなう直会(なおらい)祭。 9月24日の御座替(ござかえ)祭、25日の例祭には、国の重要無形文化財に指定されている佐陀神能(さだしんのう)を演舞する。11月20日から25日まで八百万神が集う神在祭がある。この祭には神々の参集の先触として龍蛇(りゅうじゃ)が現れるということがある。これは火難、水難をはじめ一切の災厄を除き、豊作、商売、魚漁を守護する霊物として信仰されている。

素鵞社(すがしゃ)

出雲大社式内社
大国主の父(または祖先)の素戔鳴尊を祀る。 大国主大神を祀る出雲大社本殿の正奥に座する荒垣内摂社

須佐神社(すさじんじゃ)

通称 須佐大宮

島根県出雲市佐田町須佐730
式内社 出雲國飯石郡 湏佐神社
旧國幣小社
御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)稲田比売命(いなたひめのみこと)、足摩槌命(あしなづちのみこと)、手摩槌命(てなづちのみこと)
須佐之男命が諸国を開拓し須佐の地にこられ、最後の国土経営をされ、「この国は小さいけれどよい国なり、我名を岩木にはつけず土地につける」と仰せられ大須佐田、小須佐田、を定められたので須佐と言う、と古書に見えています。 須佐之男命の御終焉の地として御魂鎮の霊地。

須我神社

(すがじんじゃ) 通称 日本初宮(にほんはつのみや)
島根県雲南市大東町須賀260
御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)
簸の川上に於いて八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した須佐之男命(すさのおのみこと)は、稲田姫と共にこの須賀の地に至り、美しい雲の立ち昇るのを見て、「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる この八重垣を」と歌い、日本で始めての宮殿を作り、鎮った。
天照大神の弟神。簸の川上にて八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、 須賀の地に至り、宮造をした勇猛な神。

日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)

島根県出雲市大社町日御碕455
式内社 出雲國出雲郡 御碕神社
旧國幣小社
御祭神 日沈宮(ひしずみのみや) 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
神の宮(かみのみや)   素盞嗚尊(すさのおのみこと)
出雲の国造りをなされた素盞嗚尊は、根の国にわたり熊成の峰に登ると、「吾の神魂はこの柏葉の止る所に住まん」と仰せられ、柏の葉を投げ、占いをされた。すると柏の葉は風に舞い、やがて日御碕の現社地背後の「隠ヶ丘」に止った。これにより素盞嗚尊の五世の孫、天葺根命(あめのふきねのみこと)はここを素盞嗚尊の神魂の鎮まる処として斎き祀ったといわれています。日御碕神社の神紋、三ツ柏もこれに由来し、神域の付近からは柏の葉を印した「神紋石(ごもんせき)」と称される化石も出土しています。

八重垣神社(やえがきじんじゃ)

島根県松江市佐草町227
式内社 出雲國意宇郡 佐久佐神社
旧県杜
祭神 素盞嗚尊(すさのをのみこと)・稲田姫命(いなたひめのみこと)
八岐大蛇退治で名高い素盞嗚尊と、国の乙女の花と歌われた稲田姫命の御夫婦が主祭神である。
当地は素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した時、稲田姫命を佐久佐女の森(現境内、奥の院、鏡の池がある森。小泉八雲は神秘の森と称している)の大杉を中心に八重垣を造って稲田姫命を隠された避難地の中心とも言われている。 八岐大蛇を退治された後、須賀の里よりさらに稲田姫命の避難地であった当地にも宮造りされ、「八雲立つ 出雲八重垣 妻込みに 八重垣造る その八重垣を」との御歌の八重垣をとって八重垣の宮とされ、此処で御夫婦生活を始められた所であり、我が国の縁結びの大祖神、家庭和楽、子孫繁栄の大神、和歌の祖神とし、また一面災難除け、国家鎮護の守護神として、第六十四代円融天皇の御代には全国に三十の社を選定され三十番神と称して崇敬された。 御神階も四回昇叙の社は出雲では当社を含め三社しかなく、他に類例のない格別の社で、白河天皇承暦四年六月社司に中祓の儀を命ぜられるなど、朝廷の御祟敬社で、爾来出雲国司代々神領を寄進され、社頭の宏大、結構、近郷に比類なしと当時の古書「懐橘談」にも記されている。

美保神社(みほ じ ん じ ゃ)

島根県松江市美保関町美保関608
式内社 出雲國嶋根郡 美保神社
旧國幣中社
御祭神 三穂津姫命(みほつひめのみこと)
高天原の高皇産霊神の御姫神、大國主神の御后神
事代主神(ことしろぬしのかみ)
須佐之男命の御子孫、大國主神の第一の御子神

三穂津姫命(みほつひめのみこと)は大國主神の御后(おきさき)神で、高天原から稲穂を持ち降り耕作を導き給うた農業及び子孫繁栄の守り神。事代主神(ことしろぬしのかみ)は大國主神の第一の御子神(みこがみ)で、「ゑびすさま」すなわち漁業・商業を始め広く生業の守護神として敬仰され、美保神社も全国各地にあるゑびす社3385社の総本社として、ことに水産・海運に携わる人々から広く敬い親しまれてきた。

古来、「ゑびすさまは鳴り物がお好き」との信仰があり、海上安全をはじめ諸処の祈願とともに、夥(おびただ)しい数の楽器が奉納され、その内846点が現在、国の重要有形民俗文化財に指定され、日本最古のアコーディオンや初代萩江露友(おぎえろゆう)が所有していた三味線など、名器、珍品もその中に含まれている。
当社の本殿は「美保造(みほづくり)」と称し、大社造(たいしゃづくり)の本殿を左右二棟並立させ、その間を装束の間でつなぎ、木階を覆う向拝(こうはい)を片流れに二棟通しでつけるという特殊な様式として、また屋根についても桧皮葺(ひはだぶき)の共皮蛇腹(ともがわじゃばら)で国の重要文化財に指定されている。

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【出雲神政国家連合】 古代出雲3/4 出雲神話 「国引き神話」

出雲の「国引き神話」

その昔スサノオノミコト(素戔鳴尊)は、出雲の国を経営なされ、子孫も次第に増え、その御一門は非常に盛んになりました。ここに素戔鳴尊の四代の孫で八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)と呼ばれる神様は、国土の経営に就いてご苦労を積まれたのであります。

ずっと大昔のこと、このあたりに八束水臣津野命(ヤツカミズオミヅノミコト)というとても力の強い男の神様がおられました。出雲の神様、ヤツカミヅオミヅヌノミコトは「この国は幅の狭い若い国だ。 初めに小さくつくりすぎた。 縫い合わせてもう少し大きな国にしよう」と言いました。

そこで、「朝鮮半島の新羅の岬を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。 その土地が小津(こづ)の切れ目からの支豆支の御埼(きづきのみさき)で、引いてきた綱が薗の長浜、そして綱の杭にしたのが三瓶山です。

次に、「北方の佐伎の国(さきのくに)を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。 その土地が多久川の切れ目からの狭田の国(さだのくに)です。

その次に、「北方の良波の国(よなみのくに)を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。その土地が宇波(うなみ)の切れ目からの闇見の国(くらみのくに)です。

最後に、「北陸の都都(つつ)の岬を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。 その土地が三穂の埼(みほのさき)で、引いてきた綱が弓ヶ浜半島、そして綱の杭にしたのが大山です。

こうして4度の国引きで大事業を終えたヤツカミヅオミヅヌノミコトは、意宇(おう)の杜に杖を突き、「おゑ」と言いました。そのときからこの地を「意宇(おう)」と呼ぶようになりました。

オオクニヌシノカミは、にぎやかになった出雲で、高天原(たかまがはら)から降りて来たスクナヒコナノミコトとともに、国づくりに励みました。 山に植林したり、堤防をつくったり、橋を架けたりと、人々が住みやすい国にしていったのです。 また、馬や牛も増え、アワもよく実るようになり、出雲は豊かな国へと発展していきました。

オオクニヌシノカミ(大国主命)は、 ヤカミヒメ(八上姫)やスセリヒメ(須勢理毘売命)だけでなく、何人ものヒメとも結婚し、たくさんの子どもたちをもうけました。

オオクニヌシノカミは、にぎやかになった出雲で、高天原(たかまがはら)から降りて来たスクナヒコナノミコトとともに、国づくりに励みました。 山に植林したり、堤防をつくったり、橋を架けたりと、人々が住みやすい国にしていったのです。 また、馬や牛も増え、アワもよく実るようになり、出雲は豊かな国へと発展していきました。

その昔、素戔鳴尊(すさのおのみこと)は、出雲の国を経営なされ、子孫も次第に増え、その御一門は非常に盛んになりました。ここに素戔鳴尊の四代の孫で八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)と呼ばれる神様は、国土の経営に就いてご苦労を積まれたのであります。

はじめ伊邪那伎(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の神様が、御苦心の末にお産みになった日本の国は、いまだ幼く国が小さいばかりか、足りないところもありましたが、その子孫の神々はよく二柱の神様の御志を継がれて、たえず国土の修理を心がけられ、足らぬところを補われ、損じたところをつくろわれて、次第に立派な国となったのであります。

ところが素戔鳴尊の経営なされた出雲の国はまだ小さい国であるばかりか、帯のようにその幅が狭いので、ある時八束水臣津野命がとくとこれをご覧になって、「どうにもこれではあまりにも狭い、こんなに狭くては思うように大きな事業が出来ない。他の国に余ったところがあれば縫い足すようにしていかなくては」とお考えになりました。

さっそく海岸に出て一段高い山の上によじ登って立ち、小手をかざしながら「さてどこかに国の余りがありそうなものじゃ」と、はるか彼方に雲か山かと見えるのは新羅のみ崎でありました。

命(みこと)は、こおどりして喜ばれ、「あれは確かに新羅のみ崎じゃ、あれをこの国に縫い足せば、いくらか広くなって人々もさぞ喜ぶだろう。よしよし、すぐに取りかかろう」と、にわかに人々を駆り集められました。

そして大きな広い鋤(すき)で、新羅の余りの御崎をザクリザクリと鋤取られ、大縄をこれに打ちかけて、そろりそろりと引き寄せながら、命は「国来い国来い、こちらへ来い」と音頭取りをしながら、だんだんと綱をたぐりよせられました。こうして首尾よく縫い合わされたのが、取りも直さず杵築のみ崎であります。

こうして新羅のみ崎は杵築のみ崎となりましたが、この時綱をつなぎ止めるために立てた杙(くい)は出雲と石見とのさかいにある佐比賣山(さひめやま)(三瓶山:さんべさん)となり、またたぐり寄せた綱は園の長濱という砂浜となって、今も大社の稲佐の小浜から石見までの東西に延びた海辺となって続いています。

さて、これで出雲の国もだいぶ大きくなったのですが、それでもまだまだ国を引き寄せなくてはならないようです。

そこで命は再び海岸の山の上に登られて北の方をご覧になりました。すると、はるか海の彼方にかなり広い陸地が見えるので、命はたいそうお喜びになり、「オオ、あそこにも国の余りがあるようだ。あの辺りの土地を少し切り取って縫い付けるとしよう」と仰って、大きい鋤でザクリザクリと鋤きとられ、そこに大縄を打ちかけて再び「国来い、国来い、こちらへ来い」と音頭を取りながら、その大縄をそろりそろりとたぐり寄せました。すると、そこが狭田(さた)の国(島根半島中央部)になりました

命は再び北の方をご覧になると、「あそこにも国の余りがあるではないか。よし、今度はあの国を引き寄せてやろう」と大縄を打ちかけて、またまた「国よ来い、国よ来い」と大縄をたぐり寄せ始めました。すると、そこが闇見(くらみ)の国になりました。
こうして出雲の国もほぼ完成に近付きました。そして、命は最後に東の方をご覧になると、高志(こし)の都々(つつ)のみ崎(能登半島辺り)の方に余っている土地を見つけられました。そこでまた同様にして大縄を打ちかけて「国よ来い、国よ来い」とたぐり寄せられました。こうして首尾よく縫い合わされたのが、三穂の崎(美保関)であります。

そして、このときに打ちかけた大縄は夜見(よみ)の島(弓ケ浜)となり、大縄をつなぎ止めた機は伯耆の国の火神岳(ひのかみだけ、伯耆大山)となったのであります。
広大な出雲の国をお造りになられた命は、これでやっとお仕事を済まされて、ホッと一息つかれました。しかしながら、さすがに怪力の命も何せ四度にわたる国引きでありましたので、だいぶお疲れのご様子でした。

そして、「ヤレヤレ、まず安心した。国引きも思うようにできたし、出雲の国も充分広くなった。これなら大きな事業もできるであろう。何とはなしに心がのびのびして愉快じゃ。今、国引きが終わったぞ」と仰せになり、とある森の木陰に神の御杖を突き立てて「オウ」と声高らかにお喜びになったのでありました。

そこで、後にこの地を意宇(おう)と呼ぶこととなりました。それで昔からこのあたり一帯を意宇(オウのちにはイウ)郡と呼び、出雲の国では一番大きい郡でした。明治の中頃新しい郡制になった時、この意宇郡は近くの島根、秋鹿の2郡と合併したが、その新しい郡は八束水臣津野命の名を忘れぬため八束郡と名付けられました。現在の島根県松江市南郊で、かつて国府の所在した大庭(おおば)の地がこれで、意宇の杜があります。

神々のふるさとであります出雲の国は、このように八東水臣津野命の「国引き」という大きなご功績によって、その基盤が築かれたのでありました。この後は、いよいよ大国主大神(だいこくさま)によって、より一層すばらしい国に造られていくのです。

2009/09/06

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【出雲神政国家連合】 古代出雲2/4 スサノオは「砂鉄」を採る男だった

スサノオは「砂鉄」を採る男だった

また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(カヤ((任那(みまな))とも関係が深いという指摘もあります。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られています。それは早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことは決してはずせない史実が伺えます。

ここでは先史のことなので史実は残されていませんが、神政国家連合体「出雲王国」について、考えてみたいと思います。

黒岩重吾氏は、出雲の東西の争いが『日本書紀』崇神紀にある、出雲振根と飯入根の兄弟の争う話に結晶したと述べています。

荒神谷遺跡から出土した銅鉾は、九州佐賀のケンミ谷遺跡から出ている銅鉾と同じものです。したがって、西部の王は九州北部と交流があったと考えていいとしています。要するに、西の荒神谷周辺の王「振根」と、東の安来の王「飯入根、甘美韓日狭」との闘争です。出雲振根はスサノオの原型で、近畿や吉備勢力に味方して、東の意宇(おう)から出雲を統一したと思われる甘美韓日狭(うましからひさ)らがオオクニヌシであると考えてもそんなに不自然ではないといいます。

弥生後期、吉備と近畿地方とは密接な関係にありましたが、出雲進出は吉備独自の判断だったのかも知れません。吉備津彦は吉備国の王で、ヤマトと同名を結んでいたとは思われますが、『日本書紀』のように、吉備津彦が崇神の命を受けて出雲を討ったとなると、“初めにヤマトありき”となってしまいます。崇神の命で出雲に向かったというのは創作でしょう。

さて、黒岩重吾氏は、問題なのは、出雲を支配していた振根=スサノオ、甘美韓日狭=大国主の王一族の出自としています。

ヒトデのような特異な形の四隅突出型方墳は出雲独特で、倭人が手がけたとはどうにも思えない、高句麗の将軍塚古墳、新羅の土廣墓にも四隅が突出した墳墓がありますが、弥生前期に高句麗から出雲へ渡ってきた一族かも知れない。

スサノオ神話でも、斐伊川上流へ新羅から天降ったという点です。振根、飯入根らの出雲一族も、渡来系が渡来系と婚姻関係を結んだ一族の可能性がある。わざわざスサノオを新羅から天降ったとしない、といいます。

もちろん、秦から徐福が渡来してきたのと同様に、スサノオが一人で渡来したわけではなく、一族(スサノオ族とする)による集団渡来であったはずである。渡来した原因は、日本海側の鉄資源を求めての渡来であったのかも知れないが、朝鮮半島を南下してくる高句麗族に、抵抗しきれなくなったのが最大の原因だと考えられる。
東シナ海を船に乗って、たどり着く地と言えば海流に乗って、済州(チェジュ)島・壱岐・対馬を経て、まず九州北部のどこかへ落ち着いたとするのが自然でしょう。

『魏志東夷伝』をみると、紀元前2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部は、三韓といわれる「馬韓」・「弁韓」・「辰韓」に分かれており、その弁韓は12国に分かれており、後に伽耶(任那)となる南朝鮮では鉄の一大産地であり、「倭」や「楽浪郡」などもこの地で鉄を求めていたようです。スサノオ一族は、南朝鮮にいて製鉄に従事していた一族であり、支配階級であったのでしょう。

関裕二氏『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』では、
八世紀に成立した朝廷の正史『日本書紀』によれば、スサノオははじめ天皇家の祖神・アマテラス(天照大神)同様、高天原に住んでいたが、いち早く日本列島に舞い降りていたという。つまり、天皇家のみならず、出雲神・スサノオにも降臨神話があったわけだが、問題は、『日本書紀』には「一書~」という形で遺伝が残されていて、そこには、次のような不思議な話が記されていることだ。すなわち、スサノオは日本に舞い降りる以前、朝鮮半島の新羅に降臨していて、そのあとに新本にやってきた、というのである。

『日本書紀』神代第八段一書第四によると、高天原で乱暴狼藉を働いたスサノオは、追放され、子どものイタケル(五十猛神)を率いて、新羅国のソシモリ(曾戸茂梨)に舞い降りたという。

ところがスサノオは何を思ったか、「この地にはいたくない」といいだし、埴土(はにつち・赤土)で船を造って東に向かい、出雲の斐伊川の川上の鳥上峰(船通山)に至ったのだという。

このように、『日本書紀』の別伝には、はっきりと、「スサノオははじめ新羅に住んでいて、そのあと日本にやってきた」と書き残されている。

通説は、スサノオが新羅からやってきたという『日本書紀』の記事から、「出雲と朝鮮半島のつながり」について、肯定的に受け止めているようなところがある。漠然とした形ながら、「出雲は朝鮮半島の影響を強く受けた」と考えているようだ。

「出雲」は神話の三分の一を占めながら、絵空事というのが、かつての常識であった。八世紀のヤマト朝廷が、「ヤマト=正義」の反対概念としての「悪役としての出雲」を、神話の中で大きく取り扱ったのであって、現実に出雲に巨大な勢力がいたわけではないと考え、出雲を無視してきたのだ。

その一方で、スサノオが新羅からやってきたという記事には注目し、スサノオ=出雲は新羅からの渡来人を象徴していたと考えられてきたのである。実際、『日本書紀』のくだりの記事以外にも、出雲と朝鮮半島を結びつける要素は、いくつも見出すことができるし、地理的に見ても、出雲と朝鮮半島がつながっていたと考えるのは、ごく自然のことなのかもしれない。

新羅系渡来人の祖神がスサノオだった?

出雲と朝鮮半島を結びつける例として、まず最も分かりやすいのは、『出雲国風土記』の出雲国意宇郡(おうぐん)の段の「国引き神話」ではなかろうか。この地を「意宇」と名付けた由縁は、その昔、ヤツカミヅオミツノノミコト(八束水臣津野命)が、「出雲の国は狭く、できて間もない国なので、よその余った土地を持ってきて、縫い合わせよう」といったとあり、「志羅紀(しらぎ)の三埼(みさき)(=新羅の岬)」が余っているからと、綱を掛けそろりそろりと、「土地よ来い」といいながら引き寄せた。それが「八穂爾支豆支(やほにきづき)の御埼(大社町日御碕)」だったという。そののち、北陸地方の土地などをやはり出雲に引っ張り込んで、最後に「意宇」の地に杖を突き立てて「オウ」と述べたところから、この地名ができたというのである。

新羅の土地を持ってきてしまったという話は、事実であるはずがない。しかし一方で、島根半島の西はずれ、出雲大社にほど近い岬が新羅の土地だったという伝承は無視することはできない。出雲と新羅は、強い縁でつながっていたことは間違いないだろう。

それだけでなない。出雲神といえば、スサノオだけではなく、オオナムチ(大己貴神だが、そのほかに大国主神(おおくにぬしのみこと)、大穴持命(おおあなもちのみこと)、大国魂命(おおくにたまのみこと)、顕国玉神(うつくしくにたま)、大物主命(おおものぬしのみこと)などの多くの別名がある)が有名だが、この神も朝鮮半島出身だったのではないかとする考えは、根強いものがある。というのも、平安時代以降、宮中では、「韓神(からかみ)」を祀っていたが、その正体は出雲に関わりの深いオオナムチとスクナヒコナ(少彦名命)だったからである。

出雲神をわざわざ「韓神」と定義づけて宮中で祀っていたのだから、「出雲の神々」が朝鮮半島からやってきたと考えるのは当然だった。

ならば、スサノオは「日本人」ではなく、新羅からの渡来人だったのだろうか。すでに江戸時代中期には、考証学者・藤井貞幹が、「スサノオは朝鮮半島南部(辰韓)からやってきた」と推理している。同様の考えは今日に引き継がれている。

たとえば、水野祐氏は、スサノオを新羅系の客神とみなしている。「新羅の神=スサノオ」を奉斎して日本にやってきた人びとは、「新羅系の一団であり、砂鉄を求めて移動する、いわゆる「韓鍛冶(からかぬち)」だったといい、次のように指摘している。
だが、「スサノオが気になる」と述べておいたのは、これほど単純で明解な「出雲=韓」という図式だけではない。

朝鮮半島南部の人びとのみならず、「倭人」も、競って鉄を求めて集まっていた様子が、記事からつかめる。弁韓の地域では、原三国時代の初期から、鉄の素材が各地に搬出されていたことが分かってきている。「韓の金銀(鉄)」が、当時貴重な資源であり、「お宝」だったことは間違いない。

これに対し、日本の「浮宝」とは、「船」のことで、「浮宝がなければ」というのは、材料となる樹木(しかも巨木)が欲しい、といっているわっけだ。太古構造船のない時代の交通手段は、木をくり抜いて作る丸太舟だったから、海の民にとって巨木はなによりも大切な宝物だった。長野県の穂高地方に、日本を代表する海の民・安曇氏が拠点を造り神を祀っているのも、「造船」と山(森)が、深く関わっていたからだろう。(拙者註:諏訪大社の御柱祭り)、という。

ヒボコの出石神社に近い兵庫県豊岡市(出石)ハカザ遺跡から2000年に巨大船団を描いた板が見つかり話題となった。新羅からやってきた集団を描いたものではなく、むしろ出石にいた集団が造船して伽耶の人びとに鉄の代価に渡していたのかも知れない。

日本は鉄の見返りに何を韓に渡していたのか

たしかに「木材=船」は貴重な財産だっただろう。しかし、朝鮮半島の「金銀(鉄)」と比べるとそうしても見劣りがする。一見して不釣り合いな「金銀」と「木」を等式で結んでいるのはなぜだろう。実をいうと、この神話の意味するところは重大だったと思われる。

朝鮮半島からもたらされた「鉄」の量に見合うだけの日本側からの「代価」が何だったのか、その正体が分からず、帳簿上の日本側の「輸入超過」状態が続いているのである。いったい、古代の列島人は、何を手みやげに大量の鉄を手に入れていたというのだろう。

朝鮮半島南端に位置し、三世紀前後の北部九州や畿内のヤマトと盛んに交渉を持っていた地域・狗邪韓国・金官伽耶(時代によって呼び方がからっているが同じ地域)の墳墓から、日本製の銅矛、巴形銅器、碧玉製石製品といった「日本的な宝器」が大量に発掘されたことを受けて、これらの儀器が、貿易の代価として支払われた可能性が指摘されている。もっとも、それでも大量の鉄に見合うだけの「宝器」であるはずもなく、この点は(まだまだわからない)。

たしかに日本は極東の島国であって、ここから先はないのだから、つねに朝鮮半島や中国大陸に向かって立っていたことは間違いのないことだ。また一方の伽耶にしても、日本だけを重視していたわけではないこと、隣には、新羅(辰韓)や百済(馬韓)が存在したし、されに向こう側には、高句麗や中国の諸王朝の圧力が控えていた。
だから日本人が考えるほど、伽耶は日本を重視していたわけではなく、日本的な文化と宗教観を喜んで受け入れたかというと疑わしい。だが逆に考えると、つねに北からの圧迫を受けていた半島南部の人びとが、最後の逃げ場書として日本列島という「保険(シェルター)」がほしかったことも一方の事実であろう。鉄の見返りに目に見えない「保険」を手に入れたという可能性も捨てきれないし、もう一歩踏み込んで、倭国の軍事力を、いざというときに活用しようと目論んでいた可能性も否定できない。


西谷古墳 島根県出雲市

スサノオ一族の文明は、魏(中国)の影響を受け、その当時の日本列島の縄文文明よりも発達していたことは間違いなく、農業・漁業・航海術に長けていたスサノオ一族が、ようやく計画的な稲作もはじめかけていたものの、漁労や狩猟中心で暮らしてきた九州の土着の勢力らを包括していくには、そう時間のかかることではなかったと思われます。

当時の日本列島の文明よりも、発達していた朝鮮半島の、農業・漁業・製鉄・航海術に長けていたスサノオ一族が、九州北部や出雲の豪族間との合議・融合によって連合体としてクニ連合を形成していったのではないでしょうか。もし、武力鎮圧によって隷属的に支配下においたのならば、必ずや中国の歴史のように、王が変わると、日本列島へ逃亡・離散するような歴史が残っているはずだからです。

砂鉄は日本のような火山列島には、それこそ腐るほど埋蔵されています。だから、兵庫県出石の墳墓に砂鉄が埋葬されてあったということは、出石の豪族が砂鉄に感謝したからに他ならないのです。

このことは、出雲のスサノオをめぐる神話からも読みとれます。一般に「出雲神は新羅系」とする考えがありますが、そうではなく、スサノオは朝鮮半島に群がった倭人を象徴的に表しているようです。

なぜなら、出雲でのスサノオは、朝鮮半島の「鉄の民」の要素を持っていますが、それは決して大陸や半島の人々の発想ではないからです。

吉野裕氏は、『出雲風土記』に登場するスサノオをさして、海や川の州に堆積した砂鉄を採る男だから「渚沙(すさ)の男」なのだと指摘しています。

スサノオはヤマタノオロチ退治をしていますが、この説話が製鉄と結びつくという指摘は多いです。砂鉄を採るために鉄穴流し(かんなながし)によって真っ赤に染まった河川をイメージしているというのです。

2009/09/06

半島南部の鉄と商人の小国家が日本を建国したのではない

関裕二氏『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』によると、
伽耶諸国は六世紀に至るまで統一国家というものを望まず、小国家の連合体のままの状態で滅亡していったということだ。それはなぜかというと、彼らは優秀な証人だったからで、地の利と鉄資源を生かし、海を股にかけた通商国家が伽耶連合だったと考えると判りやすい。

その名うての商人たちが、いざというときの「保険」や「空手形」だけをもらうという不公平な貿易を行ったかというと、実に怪しく、彼らは冷徹に鉄の見返りを求めたに違いないのだ。

それでは日本に何を求めたのだろう。わずかな青銅器や碧玉の儀器だけで、彼らは満足したのだろうか。そうではあるまい。

彼らが求めてやまなかったのは、「木」ではなかったか。
ただの「木」ではない。鉄を精製するために欠かせない燃料の「木炭」である。
なぜ「木」が重要なのか。

青銅器や鉄の技術は中国文明からの贈り物である。その中国では、殷(イン)の時代、青銅器の文明が花開いた。その一方で、森林破壊も徐々に進み、秦の始皇帝の精力的な国土開発と金属冶金事業が、中国の砂漠化の端緒を開いたとされている。と書いている。

なんと今日問題化している砂漠化はすでに始まっていた…
関裕二氏はさらに、ちゅうごくのミニチュアである朝鮮半島でも、同様のことが起きた。青銅器や鉄という文明の利器を盛んに生産したから、貪欲に燃料を求めたのは当然のことだ。

(中略)
そうなると、スサノオの宮の決め方にも、「鉄」を意識したのもと捉えることが可能だ。

吉野裕氏は、『東洋文庫 145 風土記』のなかで、スサノオは、海や川の州に堆積した砂鉄を取る男「渚沙の男」の意味だとしている。

スサノオ最大の活躍、ヤマタノオロチ話も、「鉄」とのつながりで語られることがしばしばだ。草薙剣が現れ、これが天皇家の三種の神器のひとつになるわけだが、「金属」が神話のモチーフになっていることから、スサノオが金属冶金と関わりがあるとされ、さらに、舞台となった簸川(ひかわ)が、砂鉄産地として名高く、ヤマタノオロチの流した血が川を赤く染めたのは、砂鉄の色を暗示しているという指摘もある。

このように、スサノオの周囲には「鉄」の要素が満ちている。
さらに、スサノオの子(あるいは末裔)のオオナムチも、鉄との関わりをもっている。オオナムチの別名に「大穴持命」があって、「穴」は「鉄穴山」からきているという。鉄穴山とは、砂鉄の産地になる山で、土砂を大量の水で流し、比重が重く下に沈んだ砂鉄を採るわけである。この作業を「鉄穴流し」といい、従事する者達を「鉄穴師(かなし)」と呼んだ。したがって、大穴持命は、「偉大な鉄穴の貴人」であるという(『古代の鉄と神々』真弓常忠)。

これらの伝承は、当然の事ながら、中国地方で盛んにたたら製鉄が行われたからこそ語り継がれたのだろう。出雲地方では、砂鉄採取によって生じる土砂が下流に堆積し、地形が変わるほど製鉄が盛んだったのである。

もっとも、だからといって、現在のところ日本最古の製鉄遺跡は、五世紀末~六世紀にかけての丹後半島の遠所遺跡(京丹後市弥栄町)なのだから、神話が弥生時代から三世紀のヤマト建国当時の出雲の姿を活写しているかどうかは、はっきりとはしていないのだが…。

出雲神話と鉄が結びつくとはいっても、ヤマト建国以前に日本で製鉄が行われていたと考えることはできない。今のところ弥生時代の組織的な製鉄が日本で行われていたことを裏付ける物証は見つかっていないのが本当のところだ。

これに対し、いやいや、日本では弥生時代から、すでに製鉄が行われていた可能性が高いちする説もある。

まず、日本に鉄器が現れるのは、稲作とほぼ同時だったようだ。ととえば、福岡県・曲がり田遺跡では、弥生時代早期の遺跡から、鉄器片が見つかっている。鉄器は、中国から稲作文化の伝播ルート(江南→山東半島→朝鮮半島)をなぞって日本にたどり着いたと考えられているから、稲作民が「鉄」とともに日本列島に渡ってきたということになる。

日本最古の製鉄遺跡は遠所遺跡で、古墳時代後期から平安時代にかけての複合遺跡だ。ここからは炭窯が五世紀末に造られ、やはり五世紀末の土器が見つかっていて、製鉄もその頃はじめられた可能性が強いのである。

では、それ以前、日本では製鉄は行われていなかったのだろうか。まず。森浩一氏らは、製鉄の痕跡が見つかっていないのだから、弥生時代の鉄は輸入され、その上で加工されていたと主張している。見つかっていないのに予測することは、考古学的な発想ではないからである。

このような考えに対し、弥生時代の鉄器の普及と生産の開始は、ほぼ同時だったとする考えがある。まず第一に、「日本の製鉄は六世紀から」という考古学の指摘はさらに遡る可能性を秘めていること(もっと古い製鉄遺跡が発見されるかもしれない)、第二に、日本における製鉄開始の年代が早まるとしたら、ひとつの仮説が導き出せる、ということなのである。

すなわち、古墳時代はじめの大量の渡来人の流入は、彼らの一方的で腕力にものを言わせた仕業ではなかったということだ。彼らは「利」を求め、あるいは、日本側に求められて来日したのではなかったか、ということなのである。

そう思うのは、古代渡来系豪族を代表する秦氏や東漢(やまとのあや)氏らが、想像を絶する数の人びとを伴って日本にやってきていること、しかも彼らは、「金属冶金」に精通した技術者を多く抱えていたという事実があるからである。

しかも彼らの渡来は、混乱や政変による亡命ではなく、迎える側も渡来する方も、あたかも前もって契約していたかのような整然とした移住であった。この理由えお考えるに、やはり彼らは、「双方の合意」のもとに、来日したのではなかったか。すなわち、彼らは金属冶金の燃料を求めてやってきたのであり、迎え入れる側は「燃料」を供給することで「鉄製品」を手に入れることができるわけであり、どちらもメリットがあったのである。

渡来人の来日には、何回かの波があったと言われているが、弥生時代の渡来は「農地」を求めた人びとのなかば移住であったとしても、古墳時代に入ってからの秦氏や東漢氏らの移住は、「燃料確保」という朝鮮半島の切迫した事情が隠されていたとはいえないだろうか。

いずれにせよ、出雲神話に記されたスサノオの姿は、「燃料」を求めて来日した渡来人たちの姿と重なってくるのであり、秦氏らが渡来したという「応神天皇の時代」とは、じつはヤマト建国の前後だった可能性があり、つまりは、「朝鮮半島の鉄の民の動向」が、ヤマト建国と大いに関連していたのではないかと、筆者はひそかに勘ぐっているのである。

そしてもちろん、秦氏や東漢氏らが、鉄の技術を持って来て、ヤマトを圧倒したのではないかと言っているのではないことは、くり返す必要はあるまい。あくまでもギブアンドテイクであり、鉄と商人の民であった朝鮮半島南部の人びとの行動原理を、もっと「利」というもので見直す必要も出てくるのではないか、といいたいのである。

記紀神話に現れたスサノオと鉄の関係を追っていくと、日本列島の森林資源が燃料として貴重だったこと、そして、朝鮮半島の人びとがこれを求めて大量に渡来していたのではないかと思えてきた。

それでは、天皇家がもし海の外からやってきたのであれば、やはり彼らも「森林」を求めてやってきたのだろうか。いや、そもそも本当に天皇家は朝鮮半島からの渡来人なのであろうか。

天皇家の祖が海の外からやってきたのではないかと疑わせるきっかけを作ったのは、八世紀に編纂された記紀に記された二つの神話や説話なのである。それがいわゆる「天孫降臨神話」と「神武東征説話」である。

【出雲神政国家連合】 古代出雲1/4 プレ魏志倭人伝 スサノオ

次:スサノオは「砂鉄」を採る男だった

放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信氏の『日本の古代』の冒頭を要約してみれば、

日本列島の古代史像は、近年大きな進展を見せている。その背景には、古代の遺跡についての考古学的な発掘調査の成果が積み上げられ、木簡をはじめとする出土文字史料など様々な新資料が発見されて、新しい知見が得られてきたことである。また、世界がグローバル化する動向の中で、改めて東アジア的な視点から中国・朝鮮半島・日本列島・北方・南方の歴史を幅広く見直すようになったこと、日本列島のそれぞれの地域の歴史が掘り起こされて、多元的な地域間の交流が注目されるようになったことなど、古代史を古代国家中心の一元的な歴史観で割り切ってしまわないという姿勢が広まっていることも大きな動きといえよう。

(中略)

東アジアの国際関係に留意しつつ、それぞれの時期・地域の古代史像を雄弁に物語ってくれる「史料」と「史跡」(遺跡)に焦点をあてることに重点を置きたいと思う。

日本列島古代史を展望する上で留意しておきたいのは、まず第一に、古代史を(ヤマト政権という)古代国家中心の一元的な歴史に限定してとらえるわけにはいかないという点である。近代の「国民国家」とは異なって、日本列島には日本列島には琉球王国の歴史や、北海道(東北含む)のアイヌの人々の歴史なども存在しており、あらかじめ単一の日本国家が存在していたわけではなかった。「日本」という国号も七世紀以前の「倭」にかわって歴史的に形成されたものであるし、近代的な意味での「国境」もなく、多様なレベルの地域間交流が展開していた。

◇概 要

出雲とは、稜威母(イズモ)という、日本国母神「イザナミ」の尊厳への敬意を表す言葉からきた語、あるいは稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説があります。ただし歴史的仮名遣いでは「いづも」であることから、出鉄(いづもの)からきたという説もあります。

はじめて日本に関するまとまった記事が書かれているとされる3世紀末(280年-290年間)に書かれた中国の正史『三国志』中の『魏書東夷伝』(略称:魏志倭人伝)は、当時の倭(後の日本)に、邪馬台国を中心とした小国(中国語でいう国邑=囲われた町)の連合が存在し、また邪馬台国に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書により当時の倭人の風習や動植物の様子がある程度判明しており、弥生時代後期後半の日本を知る第一級史料とされている。

しかし、必ずしも当時の日本の状況を正確に伝えているとは限らないこと、多様な解釈を可能とする記述がなされていることから、邪馬台国に関する論争の原因になっている。

魏より後の梁(502年から557年)の歴史を記した歴史書『梁書』にはじめて倭・文身国・大漢国・扶桑国など、倭国らしき国名があらわれます。それには倭には古代は奴国(九州北部?)・文身国(出雲・伯耆・因幡?)、大漢国の一部で、丹国(但馬・丹後・丹波)と若狭・越国?と比定して各国(クニ)へと大陸文化が伝わっていったと考えられます。

出雲は神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出方墳や出雲神話への影響が認められます。

スサノオ

『記紀』神話中、最大にして最強の巨神、出雲の荒ぶる神スサノオ尊(素戔嗚尊・須佐之男尊)(すさのおのみこと、以下、スサノオ)です。スサノオは「尊」[*1]としています。本文で、大悪人のごとく記述しているにもかかわらず、スサノオやオオクニヌシの記載が多いのはどういうわけなのでしょうか。

弥生時代の1世紀ころ、百余国もあった日本列島のクニ(といっても日本の一部であろうが)の中で、スサノオ族を中心に結束した九州北部の「奴国?」が、徐々にクニとして頭角を現してきたのです。現在の博多付近に存在したと推定されています。

スサノオの建国した国は、まだ中央集権国家ではなく、豪族の合議・クニの連合体でした。『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与されたとあり、江戸時代に農民が志賀島から「漢委奴国王」と刻まれていた金印を発見し、倭奴国が実在したことが証明されました。委国の委は、倭の人偏を省略したもので、この場合は委=倭です。

スサノオ尊は、小諸国を統一して国造りに努めただけでなく、住民の生活向上に心を配り、様々な事柄を開発・創始し、御子や部下たちを各地に派遣して国土開発や殖産興業を奨励し、人材を適材適所に登用する優れた指導者でもありました。思えば、スサノオは日本列島に初めて国らしき国を創建した建国の始祖王だったのかもしれません。

筑紫では日向を連合させたとき、伊弉諾尊(いざなぎ)の娘・向津姫(むかつひめ、記・紀の天照大神)を現地妻として娶(めと)り、豊国の宇佐や日向の西都に政庁を置きました。そして、各地に御子・八島野(やしまぬ)尊・五十猛(いたける)尊・大歳(おおとし)尊・娘婿の大己貴(おおなむち)尊(大国主)や部下を配置して統治させました。

政情がほぼ安定したのを見定めて、筑紫(ちくし)から讃岐(さぬき)に遷(うつ)って、北九州から瀬戸内地方を統治していた大歳(おおとし)尊に、河内・大和に東遷(とうせん)して、以東の国々を統合するよう命じ、故郷・出雲に帰って亡くなられた。ときに65歳、BC124年頃とみています。

スサノオの御陵は八雲村大字熊野(現・松江市八雲町熊野)にある元出雲国一の宮・熊野大社の元宮の地とされ、「神祖熊野大神櫛御気野尊(かむおやくまのおおかみくしみけぬのみこと)」の諡号(しごう)で祀られています。神のなかの祖神(おやがみ)です。

大同五(810)年正月、嵯峨天皇は、「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として、スサノオ尊を祀る津島神社(愛知県津島市)に日本総社の号を奉られ、また一条天皇は、同社に天王社の号を贈られました。  当時の天皇は、『記紀』に
中国の史書・「宋史」の日本伝は、神武天皇(記・紀では初代天皇)の六代も前に、スサノオを国王としてはっきりと記しています。

ようやく九州北部にもクニが誕生しきて、大陸の統一国家「漢」への朝貢は、満を持してのことだったはずです。そして、初代奴国王こそ、スサノオの父でしょう。当然、他に百余国もあるのだから、妨害工作や、先に朝貢を試みた諸国は他にもあったと考えられますが、『漢書』に、「奴国」以外の朝貢の記述が無いことから、諸国も納得せざるを得ないほど、「奴国」は強大な国になっていたのでしょう。また、稲作が九州北部ではじまったことなどから、スサノオは、九州で生まれていると思われます。

そして、初代奴国王である父から、王位を引き継いだスサノオの時代がおとずれます。推定、紀元前97年のことです。九州北部から中国地方の出雲に勢力を広げます。

『古代日本正史』の著者、原田常治氏は、『記紀』という人造亡霊からは、真の古代史などわからない、という一念から、その資料を奈良県の「大神神社」(おおみわじんじゃ)に始まり、全国の『記紀』以前の、創建の神社に求めたのです。

原田氏は、神社名と主祭神との比較検討から、本来祀られていた真実の神を発見し、それら神社の由来を調査した結果、一本の歴史ストーリーを完成させています。同様の手法は、『消された覇王』の著者、小椋一葉氏も採用され、同じ結論に到っています。

それによれば、スサノオは、ヤマト朝廷が成立する以前に、出雲王朝を成立させていた、日本建国の始祖であり、讃え名を「神祖熊野大神奇御食野尊」(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)と言います。

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【たじま昔ばなし】 おりゅう柳(養父市八鹿町九鹿)

むかしむかし、今の養父市高柳(やぶしたかやなぎ)の北の山に一本の大きな柳の木がありました。もう何百年もそこに立っているような、とても大きな木でした。

山の北側にある九鹿(くろく)には、おりゅうという近所でも評判のきれいな娘がいました。おりゅうは高柳の造り酒屋へつとめに通っていて、その行き帰り、いつも決まってこの大きな柳の下でひと休みをし、長い髪(かみ)をとかしなおしていたのでした。

ある日のこと、いつものように髪をとかしていたおりゅうは、ふと人の気配を感じて顔をあげました。そこには若い侍(さむらい)が立っていて、おりゅうにほほえみかけていました。その日から、二人はこの柳の下で毎日出会うようになりました。楽しげな二人の様子は、いつしか村の人々のうわさにもなっていました。

ところがそのころ、都で三十三間(さんじゅうさんげん)のお堂を建てるために、材木を諸国から集めるとのうわさが流れ、まもなく、この柳の大木を切り出すようにとの命令が届きました。その日から柳の大木は、風もないのに枝をふりみだし、ごうごうと大きな音をたてて鳴りひびくようになりました。

やがて、国の役所から大勢の人々が村に着き、柳の切り出しをはじめました。しかし、斧(おの)を入れたはずの切り口が、次の日になるといつの間にかふさがっていて、仕事は一向にはかどりません。おかしいと思った人々が、夜通し柳を見はっていると、切りくずがひとりでに飛んでいって、切り口をもと通りにうめてしまっていたことがわかりました。

そこで人々は、次の日から夜になる前に、切りくずを焼いてしまうようにしました。それから仕事ははかどり、とうとう数日後に柳は切りたおされました。それに合わせるように、おりゅうも体調をくずしていきました。

切りたおされた柳を都まで運ぶために、また大勢の人々がやってきて、柳を引きはじめました。しかし、いくら人数を増やして引いても、柳はびくとも動きませんでした。困った人々は村の長老に相談しました。すると長老は、「おりゅうを呼んでくれば、動くかもしれない。」と言いました。

呼ばれてやってきたおりゅうは、病みつかれた姿で、そっとやさしく柳の木はだをなでました。すると柳は静かに坂を降りはじめました。おりゅうが毎日会っていた若い侍は、この大きな柳の精霊(せいれい)だったのです。

兵庫県歴史博物館「ひょうご歴史ステーション」

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【たじま昔ばなし】 粟鹿山 「大山」の地名伝説(朝来市山東町粟鹿)

遠い昔のことです。

但馬(たじま)の山東(さんとう)や和田山(わだやま)のあたりは、向こう岸が見えないほど広い湖でした。粟鹿山(あわがやま)や、まわりの高い山々も、その湖の上に頭を出した島でした。人々は、粟鹿山のことを、大山(おおやま)と呼んでいたそうです。

ある日のこと、アマツヒダカヒコホホデミノミコトという神様が、天から粟鹿山の頂上に降りてきました。そして山の上からあたりを見回して、「この広い湖の水を海へ流し出して、広い土地を造ったならば、人々が住みやすくなるだろう」と考えました。

ここで、この長い名前の神様のことを、少しだけお話ししておきましょう。

アマツヒダカヒコホホデミノミコトは、天の上にある、高天原(たかまがはら)という神様の国から下ってきたニニギノミコトが、地上でコノハナサクヤヒメと結婚(けっこん)して生まれた三人の子(ホデリノミコト・ホスセリノミコト・ホオリノミコト)の一人、ホオリノミコトの別名だということです。

ホオリノミコトにはもう一つ名前があって、山幸彦(やまさちひこ)とも呼ばれていました。お兄さんのホデリノミコトは、海幸彦(うみさちひこ)と呼ばれています。『古事記』という本には、山幸彦が兄の海幸彦との争いに勝って、海の神のむすめ、豊玉姫(とよたまひめ)と結婚し、ウガヤフキアヘズノミコトという子供が生まれたと記されています。そしてこのウガヤフキアヘズノミコトの子供が、日本で最初の天皇である、神武天皇(じんむてんのう)になったという神話へと続いてゆくのです。

さて、粟鹿山の頂上から下りると、アマツヒダカヒコホホデミノミコトは、水をせき止めていた山をけりくずしました。水はごうごうと音を立てて、みんな日本海へと流れ出してしまいました。そのあとには広い土地ができましたが、まだ水気が多くてぬかるんでいたところもありましたので、そこには大きな石のお地蔵様をうめこんで、土地を固めたそうです。

それからというもの、この土地にはたくさんの人が住み着いて、あちこちに豊かな村ができました。人々は、アマツヒダカヒコホホデミノミコトが国を見わたした山を、見国岳(みくにだけ)と呼んで毎日拝んでおりました。

ある日のこと、アマツヒダカヒコホホデミノミコトが見国岳で休んでおりますと、一頭の美しい牝鹿(めじか)が、三本の粟(あわ)の穂(ほ)を角の上にのせてやって来て、うやうやしくささげました。これが粟鹿山という名の始まりになったのです。その後人々は、山のふもとに粟鹿神社(あわがじんじゃ)を建てて、アマツヒダカヒコホホデミノミコトをお祭りするようになったということです。


粟鹿神社

兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行-妖怪・自然の世界-

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【たじま昔ばなし】 妙見の臼 (養父市八鹿町妙見)

はるかに遠い昔。八鹿(ようか)の妙見山(みょうけんさん)に、妙見菩薩(みょうけんぼさつ)がお下りになったころのことです。

網場村(なんばむら)に森木三右衛門(もりきさんえもん)という人が住んでいました。三右衛門は妻と二人暮らしでしたが、信心のあつい働き者でした。

ある夜のことです。三右衛門が仕事を終えてねようとしていたところ、とんとんと戸をたたく音が聞こえました。

「こんな夜ふけにだれだろうか」

三右衛門がふしぎに思いながら戸を開けてみると、暗やみの中に一人の少年が立っています。

「夜おそく申しわけありませんが、一晩、とめてもらえないでしょうか」

少年のつかれきったようすを見て、気の毒に思った三右衛門は、家に招き入れました。

「何のおもてなしもできんが、休んでいきなされ」

家の明かりであらためて少年を見ると、どうもただの人とは思えません。顔だちはまだ少年ですが、何とも神々しい気配がします。

少年を部屋へ案内した後も、三右衛門はどうも落ち着きませんでした。何か大切なことを忘れているような気がしてならないのです。そのうちどうしたわけか、蔵の中にしまってある木の臼(うす)のことが気にかかりはじめました。

そこで、三右衛門は妻と相談して、臼を少年の部屋まで運びこみました。すると少年は、当たり前のようにその臼に座ってこう言ったのです。
「私はこれから休ませてもらいます。けれど、私が休んでいる間、けっして部屋の中をのぞかないでください」

そう言われると、三右衛門は、ますます気になってしかたがありません。布団に入っても、なかなかねつかれないまま考えこんでいましたが、夜中をすぎるころ、とうとうがまんできなくなってしまいました。ねどこをそっとぬけ出すと、少年の部屋に近づいて、戸のすきまから中をのぞいてしまったのです。するとそこには、臼にぐるぐると巻きついてねむっている、一ぴきの大きな白い蛇(へび)の姿がありました。

あまりのことに、三右衛門は気を失うほどおどろきました。ふるえながら自分の布団にもどり、そのまま朝までねむることもできませんでした。
ようやく東の空が白みかけたころ、少年は起きてきて、三右衛門に声をかけました。

「とめていただきありがとうございました。私はこれから帰ることにいたします」

支度をととのえて、少年は出て行きました。しかしきみょうなことに、街道ではなく、道のない山の方へと向かってゆきます。神社の森がある山へ向かってまっすぐに進み、やがて、尾根(おね)をこえるところで、その姿が夜明け前の空にくっきりとうかんで見えたのでした。三右衛門はようやく気づきました。

「そうか、妙見さまのお使いだったのだ」

そこで三右衛門は、少年の姿が最後に見えた尾根の上に鳥居を建てて、妙見様をおがむ場所にしました。それからは、三右衛門の家は栄えて、お金持ちになったといいます。これを聞いた村人たちは、鳥居がある場所を、富貴が撓(ふきがたわ)と呼ぶようになりました。
しかし、言いつけに背いて部屋をのぞいたためか、その後、この家のあととりに生まれた人は、みんな生まれつき右の目が見えなかったということです。

三右衛門から何代か後、信心のない人がこの家の主になりました。妙見様を信心せず、鳥居が古くなってたおれても、知らん顔をしていたところ、だんだんと貧しくなって、とうとう家は絶えてしまったのです。

けれどもあの臼だけは、分家の三吉(さんきち)があずかっていました。
文化4(1807)年の秋、網場村に大火事がおきました。村中の家が焼けてしまいましたが、臼をしまってあった三吉の蔵だけは焼けませんでした。
「きっと、妙見様が臼を守っておられるのだろう」
そう考えた三吉は、この臼を日光院(にっこういん)へ納めて、供養してもらうようにとたのみました。
こうして、いまでもこのふしぎな臼は、日光院にお祭りされています。

兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行 - 神と仏 ‐

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【たじま昔ばなし】 難儀にあったお大師様(朝来市山東町楽音寺)

何百年か昔、楽音寺(がくおんじ)というお寺にどろぼうが入りました。「何か金目のものはないか」と探しているうちに、お祭りしてあった一尺二寸(四十センチほど)ばかりの金のお薬師様が目につきました。お薬師様は、病気を治してくれる仏様で、手には薬が入った小さな壺(つぼ)を持っています。

「よしよし、こいつは金になるぞ」

どろぼうはそう言うと、お薬師様をつかんでそのままにげてしまいました。

どろぼうは、遠くまでにげると、お薬師様を鍛冶屋(かじや)に持っていって売り飛ばしました。この鍛冶屋も悪い人だったので、買い取ったお薬師様をとかして、金のかたまりにしてしまおうと考えました。

さっそく火をおこしましたが、どんなに火をたいてあぶっても、お薬師様は少しもとけません。おこった鍛冶屋は、それなら金づちでたたいてつぶしてやろうと、大きな金づちを持ち出しました。そして大金づちをふりあげると、力いっぱいお薬師様をたたきました。ところがお薬師様は少しもへこんだりしません。「ええい、このやろう」と、たたくと、こんどはたたくたびに、お薬師様が「がっこんじ、がっこんじ」とおっしゃるではありませんか。

鍛冶屋はびっくりしてこしをぬかしました。

「こんな仏様をつぶしたりしたら、ひどいばちがあたるかもしれん」

こわくなった鍛冶屋は、日が暮れるのを待って、お薬師様をかかえるとこっそり楽音寺までやってきました。そして、お堂のそばにあった弁天池に、お薬師さまを放りこんでにげてしまいました。

それから何日か後のことです。ちょうど日暮れ時に遠坂峠(とおざかとうげ)を歩いていた旅人が、楽音寺のあたりをながめていると、何かぴかぴかと光るものが見えます。「いったい何だろう」と思いながら、その光るものを目指して歩いていると、弁天池に行き当たりました。
光は、池の中からさしています。

旅人はおどろいて、お寺のお坊(ぼう)さんのところへ飛んでゆきました。話を聞いたお坊さんが、村人にたのんで池の底をさらってみると、なんと先日ぬすまれたお薬師様が見つかったではありませんか。

お坊さんはさっそく、お薬師様のために新しいお堂をたてて、ていねいにお祭りしました。

火で焼かれたり、金づちでたたかれたり、たいへんな難儀(なんぎ)にあったのに、無事にもどってきたお薬師様です。きっとどんな病気でも、けがでも助けてくださるだろうという話が、遠くまで伝わりました。それからというもの、近所だけでなくずっと遠い村からも、お参りする人が絶えなくなったということです。

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http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/legend2/html/002/st04.html
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