【新説丹後史】 神殿と神政王権の出現

『倭の古王国と邪馬台国問題上』 著者: 中島一憲

※中島の原文は「神聖王権」だが、拙者は太古の政治は神を崇めるマツリゴトから発生し政治の中心を占めていたことから、関裕二氏が使用している「神政王権」に統一する。

邪馬台国が九州説と大和説が二分している。拙者はひとまずそのテーマには距離を置いている。というのも邪馬台国が天皇を大王とするヤマト王権に移行した可能性は低いと思っている。(私は無関係だと思うので、九州だろうが大和だろうが、九州北部、出雲、吉備、ヤマト、丹後、北陸、尾張などが乱立していたころの西日本の一神政王権であるなら、そんなにその後の日本にとっては大した関心事ではない)

逆に近年めざましい発掘調査による事実を集めることで、弥生時代から古墳時代までの列島の様子をさぐることが、むしろ邪馬台国の所在地をしぼることができるのではないだろうか。最初から九州だ、大和だという視点では列島全体が見えなくなりそうだから。

ということで、中島一憲氏は、兵庫県出身、元豊中市役所勤務、退職後歴史研究に専念されているプロアマ歴史家だそうだから、専門分野に囚われないユニークな面白い視点があります。

神殿と神政王権の出現

九州北部で青銅器の交易権をめぐる争いが始まっていたころ、近畿地方にいち早く強大な神聖王権が出現している。

大阪平野西部、東六甲山系から大阪湾に注ぐ武庫川に近い兵庫県尼崎市武庫庄遺跡で、弥生中期前半の大規模高床建物群が見つかったのである。考古学上ではこれまで知名度が低かった地域であるが、肥沃な沖積平野を後背地として、大阪湾から瀬戸内ルートを通じて海洋交易で栄えた港市国家の存在を予想させる絶好の立地条件を備えていることをまず指摘しなければならない。

朝鮮半島や大陸との距離を別とすれば、近畿地方は気候が温暖で広大な平野部や盆地に恵まれ、大阪湾や琵琶湖、淀川といった水運にも至便であり、文化の発展にとってことさら九州に引けをとるという条件にはない。むしろ瀬戸内に強大な対抗勢力が出現しない限り、近畿は後背地のお陰で九州地方より、いっそう豊かな土地柄であった。

この建物は間口は8.6mもあり、奥行きは調査区の外に広がっているためわからないが、柱穴は東側で三本、西側で五本が柱間2.4mの等間隔で整列しており、中に直径50cm、長さ50cm~1mのヒノキの柱根が残っていた。柱の太さは弥生中期後半の池上曽根遺跡(大阪府和泉市・泉大津市)の神殿のもの(70cm)より細いが、吉野ヶ里遺跡の弥生後期の高床建物に匹敵し、間口は池上曽根遺跡の7mを大きく上回っているので、弥生時代最大級の高床式建築があるとされた。

さらにこの建物の8mほど外側を、五本の柱が見つかった西側の奥行きに平行して長さ35m、幅30cm、深さ15cmで一直線に延びる溝状遺構が見つかったが、これも建物を取り囲む板塀の跡と考えられた。

この建物の周囲には別の小規模な掘立柱建物三棟と円形竪穴住居跡があり、この遺跡を中心とする一帯が武庫川流域の地域国家の王都であった可能性が想定されたのである。

近畿地方ではこれより先に、池上曽根遺跡で1995年に発掘された大型高床式掘立建物が、正面を南に向けて東西方向に等間隔の柱で整然と建てられた長方形の建物で、両端に棟持柱をもつ神明造りの神殿であることがわかり、これも当初は紀元後50年代とされていたが、年輪年代測定の結果、実年代はそれより百年古い紀元前50年代であることが判明した。

北西九州の戦略的地位

九州地方ではまだ紀元前二世紀代の大型掘立柱建物は出土していない。しかしこの地方ではこの時代、甕棺葬がさかんに行われ、青銅器を大量に副葬するという習慣があったため、それによってこの地方のこの時代の政治的・文化的状況を推定することができる。

古代の日本列島における金属器の製造と使用の実態を追いかけてみると、いくつかの興味ある事柄が浮かび上がってくる。

まず第一に、縄文後期までは金属器は東北地方の港市国家が大陸から直接に移入していたらしいが、縄文晩期から弥生時代にかけては九州地方の港市国家が輸入の元締めとなったらしいことである。このことはこの頃から大陸交易の拠点として九州地方、とくに玄界灘から博多湾沿岸部にかけての戦略的地位が列島以外とともに重要視されるようになったことを意味しているのではないか。

第二に、縄文晩期以降の金属器では吉武遺跡や今川遺跡の例のように鉄鏃、銅剣などを金属製武器を好んで移入していることである。

第三に、曲がり遺跡や斎藤山貝塚のように鉄斧という形状の鉄素材を移入していることである。このことは有明町の製鉄炉遺跡や今川遺跡のリサイクル技術、吉野ヶ里遺跡や鶏冠井遺跡の青銅器鋳型、扇谷遺跡の精錬製鉄技術などから考えて、すでに鍛造や鋳造の高度な金属製造・加工技術をもち、武器はもちろん農具や工具など生産用具としても祭祀具としても金属器を活用していたことを意味しないだろうか。

第四に、今川遺跡出土の銅製品については、その起源が遼寧地方に求められるとされていることである。

列島の弥生前期・中期前半といえばおよそ紀元前300~100年にかけてのことである。大陸では戦国時代(紀元前403~221年)の前半にかけての時代にあたる。とくに戦国時代後半の紀元前三世紀中ごろは「戦国の七雄」の一つに数えられた強国に「燕(エン)」があり、そのころの 国は今日の遼寧省地方を根拠地に、南は山東省から東は遼東半島にかけて勢力を築いていた。

そうすると今川遺跡の銅製品の出土は玄界灘沿岸部の港市国家と燕国との交渉を想定させないだろうか。いわゆる「魏志倭人伝」の冒頭には、かつて朝鮮半島におかれた魏の直轄領である帯方郡(郡治は現在のソウル付近とされる)から倭国へいたる行程が述べられている。半島南部の弁韓(狗耶韓国)から対馬、壱岐を経由して九州北西部に達するという航路の記録である。

三世紀当時の倭国から大陸への交易ルートは、この逆の行程をたどったと考えるのが自然だろう。

しかし、旧石器時代の1万3千年前、原倭人はすでに伊豆諸島の黒曜石を関東地方などに海上輸送している。
縄文早・前期(1万年~5千年前)の前倭人(原倭人に次いで古い祖先)は、島根県の隠岐諸島の黒曜石を、50km無寄港で山陰地方へ海上輸送している。
また、伊豆諸島南端の下田から伊豆七島南端の八丈島までは直線距離で190km離れており、御蔵島と八丈島の間には黒潮本流が時速7ノット(約13km)の急流となって流れているが、当時の前倭人はこの航路を乗りこなして交易している。

この「八丈島航路」の距離は、博多-釜山間とほぼ同じで、ともに島づたいながらも急流を横切るところは「対馬海峡ルート」に等しい。

そして縄文後期(4千年~3千年前)には福岡県宗像郡玄海町の土器と佐賀県伊万里市の腰岳産の黒曜石が「対馬海峡ルート」で、釜山市の外港がある影島に運ばれている。

倭人(現代日本人の大多数の祖先)は、このようにして前倭人の時代から航海技術を駆使して大陸文化と交流してきた。

その交易先は古くはロシア共和国の沿海州地方であったが、やがて古代の大陸文化が中国大陸の長江(揚子江)下流域の「江南地方」で栄えるようになる7千年前ころには、「対馬海峡ルート」の先に「江南航路」が開拓され、大陸の南方系文化が列島に移入されるようになる。

この「江南航路」による大陸交易は、縄文時代全期を通じておもに東北地方から日本海沿岸にかけての港市的な集落によって担われたことが、考古学的な遺跡や遺物から推定できる。

これらの港市的集落が交易を通じて富を集積する社会経済システムを発展させ、やがて縄文中期(5千年前)以降、いくつかの拠点集落を核として通商交易権を独占的に支配する港市国家が登場するようになるのだ。

ところで縄文後期(4千年前)になると、その港市国家は九州地方にも出現し始めたと考えられる。さきほどみたように、まず玄界灘に面した福岡県宗像郡玄海町の港市王が直接、釜山と交易している。

縄文晩期の2千5百年前には、同県糸島郡二丈町曲がり田遺跡で大陸製の「板状鉄斧」が出土しているが、二丈町は糸島半島の南の付け根、唐津湾に面した「伊都国」地域の海港で、「対馬海峡ルート」を制するに適した港市国家の候補地のひとつに考えられる。

列島最古の製鉄炉跡が見つかった長崎県有明町も、当時は島原半島の有明海に面する海港でこのルートとの連絡が容易である。

同時代のことであるので、二丈が「国際貿易港」で、有明町が「工業都市」といった関係にあったかもしれないが、それを証明する史料はない。

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弥生文化圏の成立とタニハ

『倭の古王国と邪馬台国問題上』 著者: 中島一憲から。

三千年前からはじまって二千五百年前に「真冬」となる大気候の寒冷期は、紀元後八世紀(1300年前)まで続き、ちょうどこの時期に「製鉄」が世界に普及するので「鉄器時代初期の寒気」と呼ばれている。

二千五百年前といえば列島では縄文晩期の「葉畑・曲り田段階」である。列島の平均気温は現代より二度低く、11度ほどであったという。

早期稲作が瀬戸内海地方や東北地方に始まったことを考えると、この時期に西北九州地方に稲作が普及するのは、「渡来人」が新たに優れた(水)稲作技術を朝鮮半島からもたらしたからではなく列島の大気候の寒冷化と関係があるのではないだろうか。
だが「鉄器時代初期の寒気」には、世界的にも紀元前後を通じて例外的に温暖な時期があった。

中国大陸では戦国時代のはじめ(紀元前403年・2400年前)から、後漢時代のはじめ(紀元25年・2000年前)までのおよそ400年間が寒冷期の谷間の温暖期となった。日本では尾瀬ヶ原の泥炭層の花粉分析の結果、紀元前約400年から紀元20年にかけて「弥生暖期」の名がつけられている。

しかし、つかの間の温暖期も大陸の内陸部から崩れはじめる。中国の文献には、すでに紀元前1世紀から内陸部に寒冷化と乾燥化が同時進行し、旱害とと鍠害と飢饉と疫病がきょう奴の社会文化を壊滅させたことが記録されており、紀元48年の南北分裂後、南きょう奴は後漢に帰順したが、北きょう奴は91年の後漢の攻略によって西方へ逃散し、古代中国史から姿を消している。

黄河流域の中原(ちゅうげん)でも後漢の桓帝(147~167年)の時代の184年には数十万人の飢餓農民の反乱である「黄巾の乱」が勃発する。

ちょうどこの時期が『後漢書』「倭伝」や『太平御覧』にのる『魏志』逸文に記録された「倭国大乱」という列島の内乱時代と重なっているのは、列島の大気候が寒冷化したためか、大陸の動乱の直接・間接の影響によるもの寡欲検討する必要がある。列島の本格的な「冬」はもう少し遅れて240年ころに始まったとされているからである。

大陸内陸部の冷涼寒冷化は黄河中原の冷害はまだ予兆的なもので、魏王朝(220~264年)時代の225年には黄河と長江(揚子江)の間を流れる准河(ワイガ)が凍結し、227年には「連年穀麦不収」という記事がある。

弥生時代600年間の列島の大気候は、前半暖かく後半はやや寒かったと要約できるだろう。

豊葦原の瑞穂の国

佐原真氏は、福岡県遠賀郡水巻町立屋敷遺跡は福岡県中央部を北流して響灘に注ぐ遠賀川の川底にある。1931年、この遺跡から豊富な文様をもつ弥生土器が発掘され、遠賀川式土器と命名された。

その後の発掘調査で、この土器は弥生前期(紀元前300~同200年)に太平洋側では愛知県西部の名古屋、日本海側では京都府丹後半島を東限とする西日本一帯に分布していることがわかった。

この土器が出土する遺跡にはコメや稲もみ、農具類が伴出するので、この土器は農民の生活道具であり、遺跡の性格は農村集落であるとされている。

ところが1982年ごろ、青森県八戸市松石橋遺跡で「遠賀川式と見まごうばかりの完全な壺が発見されて以来、八戸市是川、山形県酒田市地蔵田B、秋田市生石2、福島県会津盆地の三島町荒屋敷などの遺跡でも、続々と遠賀川式そっくりの土器が出土した。

なかにもみ跡がついているものがあり、東北でのこの時期の水田遺跡の発掘が期待されていたが、1187年に弘前市砂沢遺跡でその水田が発掘された。
このようにして日本列島では弥生前期には、すでに北は青森県から南は鹿児島県にいたる稲作と土器を共有する文化圏が成立していた。北海道と南西諸島、沖縄を除く本州、四国、九州がきわめて均質な稲作文化圏を形成しているのである。(佐原2000)

記紀の神話で、天照大神が孫のニニギノミコト(邇邇芸命)を降臨させた、豊葦原のチアキナガイホアキ(千秋長五百秋)の水穂國(瑞穂国)、アシハラノナカツクニ(葦原中国)というのは、おそらくこのように水稲耕作が普及した時代の日本列島主部のことだろう。(中略)

主な縄文前期の遺跡

■縄文草創期~早期(1万2千年前~6千年前)
紀元前8000年頃
静岡県富士宮市若宮遺跡(最古の集落)
福井県三方郡鳥浜遺跡(海港・農耕遺跡)
島根県隠岐諸島島後宮尾・中村湊遺跡(黒曜石コンビナート・海港)
京都府京丹後市丹後町平遺跡(海港)
同 6000年頃
函館市函館空港遺跡(大規模定住集落)

■縄文前期(6千年前~5千年前)
紀元前3800年
山形県米沢市一の板遺跡(石器のコンビナート的集落)
東京都伊豆諸島八丈島樫立(海港)
長崎県多良見町伊木力遺跡(海港・丸木船出土)

京都府京丹後市峰山町は、丹後半島を流れて日本海に注ぐ竹野川の中流域に位置する。そこの扇谷遺跡は深さ4m、最大幅6mの濠が直径270m、短径250mの範囲をめぐる弥生時代の前期後半から中期初頭にかけての丘陵上の環濠遺跡である。
濠の底から土器、碧玉やメノウなどの玉造りの遺物とともに鉄斧と鉄滓が出てきた。鉄斧は鋳鉄で原料は砂鉄ではないかと考えられている。

「チタン、バナジウムの量が多く、砂鉄系の原料を使った可能性が強い。鉄滓も砂鉄系の鍛冶滓の感じがする」ということであるから、私は弥生前期後半にはすでに列島内で砂鉄原料による精錬製鉄が行われていたと考えている。

この峰山町を含む丹後半島一帯は「記紀」伝承に登場する「丹波の県」の地であり、古くからひとつの政治文化圏を形成していた特別な地域である。ここには今に残る「丹波」という小字があるし、隣の弥栄町との町境にまたがる4世紀後半の大田南五号墳からは、1994年に紀年銘鏡としては最古の「青龍三年」(235年)という魏の紀年銘のある青銅鏡が出土している。

また弥栄町の遠所遺跡では1987年に、いまのところ列島最古とされる五世紀末のタタラ・コンビナート遺跡が発見されている。

森浩一氏、門脇氏は、

さらに峰山町には、扇谷遺跡とほぼ同時期の途中ヶ丘遺跡という高地性集落がある。扇谷遺跡から2km程しか離れていない。「これほど接近して二つの大きな高地性集落があるところなんて、全国的にもまれ」である。

そしてこれも同時期に、弥栄町には奈具岡遺跡という「弥生中期の玉造り遺跡があって、緑色の凝灰岩に加えて、そんなに古くから水晶が使われていたのかと思うほど、たくさんの水晶の玉を造っている。

竹野川上流にある「大宮町には弥生時代の小さな古墓がたくさんある。ガラスの玉がたくさん(7~8千)出て、それがブルー系のきれいなガラス玉なんです。弥生時代に限れば、ガラス玉があんなにたくさん墓から出るところは珍しい」(森浩一氏、門脇氏)。

こうしてみてくると、古代タニハ国は、弥生中期から砂鉄製鉄を行ってきた伝統的な「工業国」で、八世紀の『古事記』に「大県主」として記録されたユゴリの名は、門脇氏が指摘されるように「湯凝」すなわち、哲也青銅などの金属素材を熱で溶かして精錬した四世紀代の技術集団の指導者の名ではなかったか。

またヒコ・ユムスビのユブスビも「湯結」すなわち製鉄王の孫にふさわしい命名だと思われる。このようにして弥生中期以来、製鉄とガラス工芸の一大コンビナート地帯であったことがうかがえる仮称「タニハ国」は、三世紀末には畿内の大王と緊密な関係を結ぶようになる。

もちろん「記紀」に基づく系図は後世的なものでとりわけ婚姻関係や血縁関係をそのまますべて史実とするわけにはいかないが、伝統的な政治関係がそこに投影されていると考えることはできるだろう。

私はそのことからさかのぼって、弥生中期の仮称「タニハ国」は、日本海と近畿の中心を関係づける重要な軍事的・経済的戦略拠点として栄えたのではないかと想像している。

これも後世のことになるが、「大和へ結ぶ道も、丹後(タニハ)には、現在のように京都市から出ていく道と、丹後の加悦谷から福知山の方へ出て、山越えで神戸の垂水に出る。系図で見たタケトヨ・ハズラワケの母のワシッヒメは葛城垂見宿禰の娘とされているが、垂見は垂水でしょう。そして大阪湾をわたって堺から上陸し、葛城に出る。このルートの意味をもっている。

「そういう点で、丹後(タニハ)というのは、古くは、大和からいえば、西の瀬戸内へ出ていくルートに加え、近江を経て敦賀へ出るルートとは別に、かなり重視されていたと思っているわけです」(門脇氏)。

門脇氏はそれを古墳時代のこととして述べておられるが、弥生中期の近畿中心部の発展状況と、仮称「タニハ国」

の発展状況に技術的な格差が見られないことや、仮称「タニハ国」の地政学的条件から考えると、私は両者の緊密な関係はすでにこの時期からはじまっているのではないかと思うのである。

丹後町竹野遺跡で、弥生前期の地層から外洋とつながる直径1kmほどの潟湖が見つかった。同じ地層から大陸製と思われる磁器も出土し、個々に古くから開かれた港市国家が成立していたことが裏付けられた。

拙者はこの野田川から元伊勢神宮を通り天田郡(福知山)から由良川上流、石生(水分かれ)という日本一低い分水嶺からそして加古川へというルートが信憑性があると思う。またこのルートと前後してまた別のルートでより近い但馬・出石の沖の気比から朝鮮半島に出向いていたとも考えられる。天日槍や神号皇后のルートにほぼ一致していることが、記紀が単なる神話ではなく、当時のヤマト政権の勢力範囲を示していると考えられるからだ。

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弥生文化圏の成立

『倭の古王国と邪馬台国問題上』 著者: 中島一憲から。

三千年前からはじまって二千五百年前に「真冬」となる大気候の寒冷期は、紀元後八世紀(1300年前)まで続き、ちょうどこの時期に「製鉄」が世界に普及するので「鉄器時代初期の寒気」と呼ばれている。

二千五百年前といえば列島では縄文晩期の「葉畑・曲り田段階」である。列島の平均気温は現代より二度低く、11度ほどであったという。
早期稲作が瀬戸内海地方や東北地方に始まったことを考えると、この時期に西北九州地方に稲作が普及するのは、「渡来人」が新たに優れた(水)稲作技術を朝鮮半島からもたらしたからではなく列島の大気候の寒冷化と関係があるのではないだろうか。

だが「鉄器時代初期の寒気」には、世界的にも紀元前後を通じて例外的に温暖な時期があった。

中国大陸では戦国時代のはじめ(紀元前403年・2400年前)から、後漢時代のはじめ(紀元25年・2000年前)までのおよそ400年間が寒冷期の谷間の温暖期となった。日本では尾瀬ヶ原の泥炭層の花粉分析の結果、紀元前約400年から紀元20年にかけて「弥生暖期」の名がつけられている。

しかし、つかの間の温暖期も大陸の内陸部から崩れはじめる。中国の文献には、すでに紀元前1世紀から内陸部に寒冷化と乾燥化が同時進行し、旱害とと鍠害と飢饉と疫病がきょう奴の社会文化を壊滅させたことが記録されており、紀元48年の南北分裂後、南きょう奴は後漢に帰順したが、北きょう奴は91年の後漢の攻略によって西方へ逃散し、古代中国史から姿を消している。

黄河流域の中原(ちゅうげん)でも後漢の桓帝(147~167年)の時代の184年には数十万人の飢餓農民の反乱である「黄巾の乱」が勃発する。
ちょうどこの時期が『後漢書』「倭伝」や『太平御覧』にのる『魏志』逸文に記録された「倭国大乱」という列島の内乱時代と重なっているのは、列島の大気候が寒冷化したためか、大陸の動乱の直接・間接の影響によるもの寡欲検討する必要がある。列島の本格的な「冬」はもう少し遅れて240年ころに始まったとされているからである。
大陸内陸部の冷涼寒冷化は黄河中原の冷害はまだ予兆的なもので、魏王朝(220~264年)時代の225年には黄河と長江(揚子江)の間を流れる准河(ワイガ)が凍結し、227年には「連年穀麦不収」という記事がある。
弥生時代600年間の列島の大気候は、前半暖かく後半はやや寒かったと要約できるだろう。

豊葦原の瑞穂の国

佐原真氏は、福岡県遠賀郡水巻町立屋敷遺跡は福岡県中央部を北流して響灘に注ぐ遠賀川の川底にある。1931年、この遺跡から豊富な文様をもつ弥生土器が発掘され、遠賀川式土器と命名された。

その後の発掘調査で、この土器は弥生前期(紀元前300~同200年)に太平洋側では愛知県西部の名古屋、日本海側では京都府丹後半島を東限とする西日本一帯に分布していることがわかった。
この土器が出土する遺跡にはコメや稲もみ、農具類が伴出するので、この土器は農民の生活道具であり、遺跡の性格は農村集落であるとされている。

ところが1982年ごろ、青森県八戸市松石橋遺跡で「遠賀川式と見まごうばかりの完全な壺が発見されて以来、八戸市是川、山形県酒田市地蔵田B、秋田市生石2、福島県会津盆地の三島町荒屋敷などの遺跡でも、続々と遠賀川式そっくりの土器が出土した。
なかにもみ跡がついているものがあり、東北でのこの時期の水田遺跡の発掘が期待されていたが、1187年に弘前市砂沢遺跡でその水田が発掘された。

このようにして日本列島では弥生前期には、すでに北は青森県から南は鹿児島県にいたる稲作と土器を共有する文化圏が成立していた。北海道と南西諸島、沖縄を除く本州、四国、九州がきわめて均質な稲作文化圏を形成しているのである。(佐原2000)

記紀の神話で、天照大神が孫のニニギノミコト(邇邇芸命)を降臨させた、豊葦原のチアキナガイホアキ(千秋長五百秋)の水穂國(瑞穂国)、アシハラノナカツクニ(葦原中国)というのは、おそらくこのように水稲耕作が普及した時代の日本列島主部のことだろう。(中略)

主な縄文前期の遺跡

■縄文草創期~早期(1万2千年前~6千年前)
紀元前8000年頃
静岡県富士宮市若宮遺跡(最古の集落)
福井県三方郡鳥浜遺跡(海港・農耕遺跡)
島根県隠岐諸島島後宮尾・中村湊遺跡(黒曜石コンビナート・海港)
京都府京丹後市丹後町平遺跡(海港)
同 6000年頃
函館市函館空港遺跡(大規模定住集落)

■縄文前期(6千年前~5千年前)
紀元前3800年
山形県米沢市一の板遺跡(石器のコンビナート的集落)
東京都伊豆諸島八丈島樫立(海港)
長崎県多良見町伊木力遺跡(海港・丸木船出土)

京都府京丹後市峰山町は、丹後半島を流れて日本海に注ぐ竹野川の中流域に位置する。そこの扇谷遺跡は深さ4m、最大幅6mの濠が直径270m、短径250mの範囲をめぐる弥生時代の前期後半から中期初頭にかけての丘陵上の環濠遺跡である。

濠の底から土器、碧玉やメノウなどの玉造りの遺物とともに鉄斧と鉄滓が出てきた。鉄斧は鋳鉄で原料は砂鉄ではないかと考えられている。
「チタン、バナジウムの量が多く、砂鉄系の原料を使った可能性が強い。鉄滓も砂鉄系の鍛冶滓の感じがする」ということであるから、私は弥生前期後半にはすでに列島内で砂鉄原料による精錬製鉄が行われていたと考えている。

この峰山町を含む丹後半島一帯は「記紀」伝承に登場する「丹波の県(あがた)」の地であり、古くからひとつの政治文化圏を形成していた特別な地域である。ここには今に残る「丹波」という小字があるし、隣の弥栄町との町境にまたがる4世紀後半の大田南五号墳からは、1994年に紀年銘鏡としては最古の「青龍三年」(235年)という魏の紀年銘のある青銅鏡が出土している。また弥栄町の遠所遺跡では1987年に、いまのところ列島最古とされる五世紀末のタタラ・コンビナート遺跡が発見されている。

森浩一氏、門脇氏は、
さらに峰山町には、扇谷遺跡とほぼ同時期の途中ヶ丘遺跡という高地性集落がある。扇谷遺跡から2km程しか離れていない。「これほど接近して二つの大きな高地性集落があるところなんて、全国的にもまれ」である。

そしてこれも同時期に、弥栄町には奈具岡遺跡という「弥生中期の玉造り遺跡があって、緑色の凝灰岩に加えて、そんなに古くから水晶が使われていたのかと思うほど、たくさんの水晶の玉を造っている。

竹野川上流にある「大宮町には弥生時代の小さな古墓がたくさんある。ガラスの玉がたくさん(7~8千)出て、それがブルー系のきれいなガラス玉なんです。弥生時代に限れば、ガラス玉があんなにたくさん墓から出るところは珍しい」(森浩一氏、門脇氏)。

こうしてみてくると、古代タニハ国は、弥生中期から砂鉄製鉄を行ってきた伝統的な「工業国」で、八世紀の『古事記』に「大県主」として記録されたユゴリの名は、門脇氏が指摘されるように「湯凝」すなわち、哲也青銅などの金属素材を熱で溶かして精錬した四世紀代の技術集団の指導者の名ではなかったか。

またヒコ・ユムスビのユブスビも「湯結」すなわち製鉄王の孫にふさわしい命名だと思われる。このようにして弥生中期以来、製鉄とガラス工芸の一大コンビナート地帯であったことがうかがえる仮称「タニハ国」は、三世紀末には畿内の大王と緊密な関係を結ぶようになる。

もちろん「記紀」に基づく系図は後世的なものでとりわけ婚姻関係や血縁関係をそのまますべて史実とするわけにはいかないが、伝統的な政治関係がそこに投影されていると考えることはできるだろう。

私はそのことからさかのぼって、弥生中期の仮称「タニハ国」は、日本海と近畿の中心を関係づける重要な軍事的・経済的戦略拠点として栄えたのではないかと想像している。

これも後世のことになるが、「大和へ結ぶ道も、丹後(タニハ)には、現在のように京都市から出ていく道と、丹後の加悦谷から福知山の方へ出て、山越えで神戸の垂水に出る。系図で見たタケトヨ・ハズラワケの母のワシッヒメは葛城垂見宿禰の娘とされているが、垂見は垂水でしょう。そして大阪湾をわたって堺から上陸し、葛城に出る。このルートの意味をもっている。

「そういう点で、丹後(タニハ)というのは、古くは、大和からいえば、西の瀬戸内へ出ていくルートに加え、近江を経て敦賀へ出るルートとは別に、かなり重視されていたと思っているわけです」(門脇氏)。
門脇氏はそれを古墳時代のこととして述べておられるが、弥生中期の近畿中心部の発展状況と、仮称「タニハ国」の発展状況に技術的な格差が見られないことや、仮称「タニハ国」の地政学的条件から考えると、私は両者の緊密な関係はすでにこの時期からはじまっているのではないかと思うのである。

丹後町竹野遺跡で、弥生前期の地層から外洋とつながる直径1kmほどの潟湖が見つかった。同じ地層から大陸製と思われる磁器も出土し、個々に古くから開かれた港市国家が成立していたことが裏付けられた。
拙者はこの野田川から元伊勢神宮を通り天田郡(福知山)から由良川上流、石生(水分かれ)という日本一低い分水嶺からそして加古川へというルートが信憑性があると思う。またこのルートと前後してまた別のルートでより近い但馬・出石の沖の気比から朝鮮半島に出向いていたとも考えられる。天日槍や神号皇后のルートにほぼ一致していることが、記紀が単なる神話ではなく、当時のヤマト政権の勢力範囲を示していると考えられるからだ。

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【新説丹後史】 丹後の巨大前方後円墳と前方後円墳国家

ヤマト政権が統一に向かうまで、旧石器、縄文、弥生時代といっても1万年以上にも及ぶ、記紀編纂から今日までの約千四百年をはるかに上回る膨大な年月である。

弥生時代、日本海に面した出雲、伯耆、丹後などに諸勢力が形成されていった。それはどのように半島南部との交易を行っていたのだろうか。近年、青森の三内丸山遺跡、出雲一か所でこれまでの全国で見つかった総数を上回るような大量の銅剣・銅鐸が見つかり、吉野ヶ里遺跡を上回る規模の伯耆・妻木晩田遺跡、因幡・青谷上寺地遺跡の倭国乱のようすを示す発見など、これまでの考古学の常識を覆す発見が相次いでいる。

かれらは韓半島と日本海を交易を通じて東アジア共同体を形成していたのだ。丹後としているが、かつては丹波が丹波・但馬・丹後に分立するまで丹波の中心が日本海に面した丹後地域だった。なぜ水稲稲作が人口拡大を進めるまでは、人びとは海上ルートを利用して交易をしながら、安全な丘陵や谷あいに集団で暮らし始めた。丹後に巨大な前方後円墳が多く造られた背景は何だったのだろう。

記紀は、実際の初代天皇といわれている崇神天皇と皇子の垂仁天皇と四道将軍の派遣、丹後からの妃の婚姻関係や天日槍と但馬、出雲大社建設など日本海とのかかわりで占めるように記されている。

『前方後円墳国家』 著者: 広瀬和雄

弥生・古墳時代には縄文時代以来の伝統をもった丸木船を底板とし、その両側面に板材を組み合わせて大型化をはかった準構造船しかなかったから、特定の勢力による制海権などはとても考えがたい時代であった。しかがって、海外の文物を入手するための航路は、いうならば誰に対しても公平に開かれていた。

筑紫などの諸勢力に加えて、日本海に面した出雲、伯耆、丹後など、諸地域の首長層が南部朝鮮各地の諸勢力と個々に交易していた。つまり、前一世紀ごろを境として時期が下がるとともに徐々に増えながら、複数の政治勢力(首長層)がそれぞれ独自に南部朝鮮のどこかの勢力、もしくは漢王朝と交渉していた。そして、それらに連なって吉備、讃岐、播磨、畿内など各地の首長層が交錯しながら合従連合していた、というのがこのころの実態ではなかろうか。

そうした自体を直接的に誘因せしめたのは、鉄器とその政策技術の普及に伴う獲得要求であった。南部朝鮮における複数の首長層や日本列島のいくつかの首長層は、鉄をめぐっての互酬システム的交易関係を結んでいたが、いっぽうで高次元の政治的権威を求めて各々が個別に漢王朝に朝貢していた。つまり漢王朝を中核にし、そこに日本列島や朝鮮半島の各地に誕生した各支配共同体(首長層)が放射状に連なった関係と、それらが相互に対等に結んだ関係との重層的な構造をもった「東アジア世界」が、前一世紀ごろ四郡設置を直接的契機として形成されていった。

そしてそうした構造は、四~六世紀には高句麗が中国北朝に、倭、新羅、百済が中国南朝に朝貢するという二元的な状態を施しながらも連綿と続いていたのである。
東アジア世界とは、西嶋定生氏によれば、律令、仏教、儒教、文字などを共通した世界を示す。

丹後の巨大前方後円墳

網野銚子山古墳(京都府京丹後市網野町網野)


画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

「大きな平野は可耕地が広いからコメの生産性が高い。だから人口支持力が高くて、余剰も多く生み出され、王権も育つ」というのが王権誕生の言説であった。奈良盆地や大阪平野のような広大な平地に、箸墓古墳や大山古墳などの巨大前方後円墳が多数築かれているのがその根拠であった。そこには生産力発展史観とでもいうべき歴史観が強く作用していて、それはそれで動かしがたい事実ではあるけれども、丹後地域では従来の巨大古墳の存在に加えて「弥生王墓」のあいつぐ発見が、いまそうした通説的解釈に一石を投じている(広瀬編2000)。


神明山古墳(京都府京丹後市丹後町竹野)
画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

日本海沿岸の京都府北部、丹後半島にはまとまった平野はまったくない。ここには幅員が広くても2~3kmほどの谷底平野が、西から川上谷川、佐濃谷川、福田川、竹野川、野田川流域の五か所に分散するに過ぎないのに、かねてより「日本海三大古墳」とよばててきた墳長198mの網野銚子山古墳、190mの神明山古墳、145mの蛭子山古墳の日本海沿岸では群を抜いた大きさのものに加えて、数多くの古墳が見つかっている。


蛭子山古墳(京都府与謝郡与謝野町加悦明石)

0357NH23-A.tif

釧(くしろ:腕輪) 画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

コバルト・ブルーの色調をもったガラス製の釧(くしろ:腕輪)や貝輪の腕輪類をはじめ、じつに11本もの鉄剣などを副葬していた弥生後期後半の大風呂敷南1号墳、後期末で一辺40mの方形墳墓、赤坂今井墳墓などは「王墓」とひろく認められている。このほか後期初頭になって丘陵尾根に営まれだした首長墓は、かならずといっていいほど剣・刀・鏃(やじり)の鉄製武器を副葬していた。三坂神社3号墓では、後漢王朝からの下賜品かと推測される素環頭太刀に鉄鏃やヤリガンナが加わるし、浅後谷南墳墓でも、中心主体に2本の鉄剣がヤリガンナとともに副葬されていた。

(大風呂敷南1号墳の釧は、奈良国立文化財研究所が行った成分分析の結果から、中国製のアルカリ珪酸塩ガラス(カリガラス)製である可能性が高い。鉄で着色したカリガラス製品は、奈良県・藤ノ木古墳で見つかった「なつめ玉」などわずかしか確認されていない。)

弥生時代後期の墳墓に副葬されていた鉄剣・鉄刀などの大型武器はいまや50本の多さに達していて、旧国単位
では丹後地域が一頭抜きんでて堂々の第一位を占めている(野島2000)。多量の鉄製品副葬という事実は、南部朝鮮からの鉄素材の獲得、鉄器を加工する技術の保持、製作された鉄器の流通機構など、それを補完しうる鉄器武器の再生産システムがはやくもこの時期に完備されていたことを想定させる。
谷底平野しかないにも関わらず首長墓や「王墓」がみられ、多量の鉄器や漢王朝からのガラス管玉などの副葬に加えて、日本海に面しているという立地を考慮すれば、南部朝鮮首長層を相手にした鉄資源の交易という共通の利益によって、丹後各地の首長層が政治同盟を結んでいた可能性が高い。
もしそうだとすれば、交易で得られた富をテコに王権を確立していった、という王権形成のひとつのコース、農業生産を基盤にしたものとは違ったプロセスをみることができるのではないか。『魏志倭人伝』に描かれた三世紀の国々には含まれなかった丹後においても、そのころの北部九州や畿内などに何ら遜色のない「王墓」が築造されていたわけだが、そうした時代状況とはいったいどのようなものだったのか。
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玉の生産と「輸出」

弥生時代中期末の奈具岡遺跡での玉生産が注目される。ここでは碧玉や緑色凝灰岩製の管玉や勾玉(まがたま)、水晶製の勾玉、なつめ玉、そろばん玉、小玉、ガラス製の小玉などが多量に生産されていた。なかでも水晶の玉生産が注意を惹く。この時期の水晶製玉類の製作は、島根県西高江遺跡、同平所遺跡、富山県江上A遺跡で知られているが、奈具岡遺跡では数キログラムもの未製品や生産残滓が出土していて、まさしく突出した生産量を誇っている。さらに、玉つくりのための鉄製道具を製作した四基の鍛冶炉と10kgもの鉄素材は、漢代に盛行した鋳鉄脱炭鋼であることが分析されており、(野島2000)、その輸入先には設置されて間もない楽浪郡の可能性が示唆されている。

さて個々で生産された玉類、なかでも水晶でつくられた玉類はいったいどこへ供給されたのであろうか。長野県の再葬墓で水晶玉の副葬例が二例ほどみられるだけで、後期にいたってもまだ日本列島においては一般的ではなかったし、地元丹後の首長墓にもみられない。ここで候補地として登場してくるのが楽浪郡に派遣されて客死した官人の墳墓、や朝鮮原三国時代の首長墓である。しかし若干年代的に新しい墳墓が多い。今後の十分な検証が必要だが、有力な候補にあげたい。

北部九州だけではなかった弥生時代の王


大田南5号墳 「青龍三年」銅鏡 画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

弥栄町と峰山町の境にある古墳時代前期に築かれた方墳。納められていた銅鏡には、日本で出土した中では最古の紀年「青龍三年」(235年)が記されていた。卑弥呼が魏に遣いを送ったとされる239年の4年前にあたり、魏が卑弥呼に贈った鏡の候補とされている。銅鏡は、現在、宮津市の丹後郷土資料館に展示されている。
後期初め頃からの丹後首長墓で顕著になってくる鉄製武器・工具の素材の問題がある。奈具岡遺跡で鍛冶炉が見つかったように、鉄器製作は丹後で行われていたが、六世紀後半ごろまでの間、鉄生産は一部を除くと日本列島では実施されず、資源としての鉄は「輸入」せざるを得なかった。多くは弁韓や辰韓から入手したようだ。それが互酬システムでまかなわれたとすれば、いったいなにが見返りとして提供されたのか。中期後半は水晶玉が候補の一つだったと推奨されるが、後期になると不明である。

しかし、鉄素材交易の一分野を丹後首長層が掌握していたことは、墳墓への副葬量の多さからみても否定しがたい。南部朝鮮首長層から独自に獲得した鉄資源を、他地域首長層、たとえばヤマト首長層などと交易することで、丹後首長層は富を蓄えていったのではないか。武器はいうまでもなく、農具や工具の材料として、鉄素材は権力の実質的基盤となったがために、それを媒介した首長層の政治的地位が上昇したことは推測に難くない。

弥生時代中期の「王」といえば、これまでは北部九州首長層の専売特許のようなものであった。『漢書』や『後漢書』などへの再登場などが相乗して、さらには志賀島で発見された「漢委奴國王」の金印などが相まって、王権成立の先がけとしての地位を独占していた。しかし、古代の王権を考えるとき、その時々の特産物の生産と交易を視野におさめないと、食糧生産力の強弱だけでは説明がつかない事態に今や立ち至っている。広い平野などなくとも、南部朝鮮との鉄素材の交易をテコにした王権誕生のコースがあった、という仮説を提起しておきたい。そもそもコメはいくら増産されようとも、人口増にはつながっていくが、他の物資と交換されない限り富にはならない。分業生産と交易が社会システムの要になっているのだから、最も高度な交換価値の高い物資をどれだけ確保しているか、それが富の集積につながっていくのは当然のことであった。

首長層の利益共同体が前方後円墳国家

領域と軍事権と外交権とイデオロギー的共通性をもち、ヤマト王権に運営された首長層の利益共同体を前方後円墳国家を提唱したい。前方後円墳の成立をもって国家形成期とみなす意見には同意するし、異論はないが、ただ私は首長層が政治的にまとまって形成した利益団体が国家である、という視点をもつ。
つまり、「もの・人・情報の再分配システム」の保持という共通の利益に基づいて、その絶えることのない再生産を目的に結合し、ほかの政治的統合体から利益を侵害されないため領域を定め、軍事と外交でそれを防衛していく共通の価値観を持った政治団体、それを国家とよぶ。(拙者は関裕二氏の神政国家連合というのが適当に思う)

すなわち、分業生産と交易の再配分という共通利益を保持した人びとがつくりあげた共同体、その秩序を堅持していくための権力-内的には国家の成員たる首長層の利害対立時に、外的には朝鮮半島での利益保持に際して、主に武力として発動された-と、自己利益を他者から守っていくための軍事権と外交権とイデオロギー装置をもつ団体を国家とよぶならば、三世紀中ごろに形成されたヤマト政権を中軸に据えた列島首長層の支配共同体は、まさしく国家というべき結合体であった。それは魏王朝や朝鮮半島の政治集団に対して、自らの社会の再生産のために不可欠な「もの・人・情報」の獲得をめぐっての一個の利益共同体に仕上げ、続縄文文化や貝塚後期文化の集団との交易に際しても、統一した政治勢力として対峙し始めたのである。

最大で岩手県南部から鹿児島県までと、国家フロンティアが時期によって多少の出入りがあるファジーな国境概念=近代国家のように国境は線引きされてはいない-をもち、民衆支配のためだけというには膨大すぎる量の鉄製武器を所有し、「倭の五王」に象徴されるような外交権を確立した政治的共同体が「前方後円墳国家」である。

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但馬最大の前方後円墳 池田古墳は誰の墳墓なのか?

但馬にある前方後円墳は、現時点で朝来市平野にある池田古墳とその次に大きい朝来市桑市の船宮古墳円墳の2基のみである。

池田古墳

墳形:前方後円形

前方部を北東に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は約136メートル。築造時期は古墳時代中期の5世紀初頭とされている。
後円部 – 3段築成。直径:約76メートル
前方部 – 3段築成。幅:約72メートル

前方後円墳では但馬地方では最大規模、兵庫県内では第4位の規模になる。埴輪・葺石・周濠を備えた古墳は但馬地方では池田古墳と船宮古墳(朝来市桑市)のみになる。また池田古墳からは水鳥形埴輪が23体分確認されており、全国最多の出土数を誇る。

墳丘長はかつて141メートルとされていたが、2007年(平成19年)の後円部の調査で約136メートル程度と見積り直されている。前方部の調査が不十分なため、正確な値は未だ明らかでない。池田古墳は南北但馬地方を統合する最初の王墓に位置づけられ、その地位は茶すり山古墳(朝来市和田山町筒江)・船宮古墳へと継承される。(Wikipedia)


現地説明会 2008.3

池田古墳は誰の墳墓なのか?

四道将軍 彦坐命と丹波道主命

そもそも彦坐命とは一体誰なのかに触れておきたい。ひこいますのみこ、あるいはひこいますのおうと読む。『日本書紀』では「彦坐王」、『古事記』では「日子坐王」、他文献では「彦坐命」とも表記される。第9代開化天皇の第三皇子で、第12代景行天皇の曾祖父である。

『日本書紀』では子の丹波道主命が四道将軍の1人として丹波に派遣されたとしている。

『古事記』崇神天皇段では、日子坐王は天皇の命によって旦波国(丹波国)に遣わされ、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を討ったという。

『但馬故事記』では、陸耳(玖賀耳)之御笠との戦いについて、気多郡・朝来郡・城崎郡では実に詳しく記している。そのうち第二巻・朝来郡故事記では、

第10代崇神天皇天皇十年秋九月、丹波国青葉山の賊・陸耳ノ御笠が群盗を集め、民の物を略奪し、天皇は彦坐命に命じて、これを討たせた。

その功を賞し、彦座命に丹波・多遅摩・二方の三国を与える。
十二月七日、彦坐命は、諸将を率いて、多遅摩粟鹿県に下り、刀我禾鹿(とがのあわが)の宮に居した。
天皇は彦坐名に日下部足泥(宿祢)という姓を与え、諸国に日下部を定めた。諸将を各地に置き、鎮護とした。丹波国造 倭得玉命、多遅麻国造 天日楢杵命、二方国造 宇津野真若命、その下知に従う。

人皇11代垂仁天皇84年9月、丹波・多遅麻・二方、三国の大国主、日下部宿祢の遠祖・彦坐命は禾鹿宮で死去。禾鹿の鴨ノ端ノ丘に葬る。(兆域東28間、西11間、北9間、高直3間余、周囲57間、後人記して、これに入れるなり)守部二烟を置き、これを守る。

前方が東北を向いているので、兆域の東とは前方部、西は後円部、北9間はわからないが、造出(つくりだし)というくびれ部裾付近に作られた墳頂へ登ったり祭祀を行うところだろうか。1間は約1.818メートル。東28間=50.9メートル、西11間=約20メートル、北9間=約16.4メートルを西11間に合わせると36.4メートルとなる。

禾鹿宮の禾とは訓読みでイネ、ノギと読む。穀物の総称。特に、イネ・アワことをさす。『但馬故事記』第二巻・朝来郡故事記では禾鹿と粟鹿を同じ文中に混同して使用しており、粟鹿あわがのことであると思って間違いはないだろう。粟鹿神社もしくはその付近であるが、のちの第43代元明天皇の頃に山陰道の朝来郡の駅が粟鹿に設置され、朝来郡の中心地だった。前期のものは,多く丘陵など自然地形を利用したが、古墳時代中期は、平地に造られ巨大化し、土地の守護神としてその権力の階層の大きさを外に見せるためであったとされる。これだけの規模の前方後円墳は粟鹿神社の後背地の朝来山は自然の稜線で、その付近から大規模な前方後円墳が発見されたという報告は未だない。

禾鹿(粟鹿)の鴨ノ端(加茂端)という呼称から、鴨がたくさんいたようだ。今の但馬では川にいるとしたらサギで鴨がいたとは今では想像しにくいのであるが、そのような川幅が広い場所を南但で探すとすれば、古墳の前に円山川が流れ、但馬最大の前方後円墳であるこの古墳となる。粟鹿神社の前を流れる円山川の支流である粟鹿川は小さい川であり、鴨や水鳥がたくさんたわむれていたような場所だったとは想像しにくい。

*(日子坐命墓の別の説)墓は、宮内庁により岐阜県岐阜市岩田西にある日子坐命墓(ひこいますのみことのはか)に治定されている。宮内庁上の形式は自然石。墓には隣接して伊波乃西神社が鎮座し、日子坐命(彦坐王)に関する由緒を伝える。

彦坐命を葬った「禾鹿の鴨ノ端ノ丘」が今のどこになるかだが、粟鹿神社から池田古墳までは直線距離で7.1kmもあり、池田古墳よりも茶すり山古墳の方がまだ近いが円墳である。彦坐王を祀る粟鹿神社のある朝来山の東麓で、池田古墳や城の山古墳より濃厚だ。

また茶すり山古墳も円墳で、豊岡自動車道の道の駅「但馬のまほろば」の反対側にあり、豊岡自動車道は春日ICで舞鶴若狭自動車道につながり、丹後や篠山方面へつながる。禾(粟)鹿宮である粟鹿神社から茶すり山古墳までは約4kmである。巨大な円墳で、大量の武器・武具が副葬されていたこと、粟鹿神社に近いことから、彦坐命が葬られた禾鹿の鴨ノ端ノ丘とはこの場所をさすのではないかと思うのである。この時期で日本海側最大の前方後円墳、池田古墳がふさわしいのだが、禾鹿の鴨ノ端ノ丘は粟賀地区でなければなら

船宮古墳

兵庫県朝来市桑市

5世紀代 全長約80 m 日本最古の牛形埴輪

船穂足尼命の墳墓ではないかと朝来市(旧朝来町)の案内板にはあるが、おそらく船宮古墳という名称か但馬国造船穂足尼命との連想によるのであろうが、これは単なる連想であって、何の根拠もないものと思われるのは以下の『国史文書 但馬故事記』である。

息長宿祢命の子・大多牟阪命を以って、朝来県主と為す。
大多牟阪命は、墨坂大中津彦命の娘・大中津姫命を娶り、船穂足尼命を生む。
人皇13第成務天皇5年、竹野君同祖の彦坐王五世孫の船穂足尼命は多遅麻国造となり、大夜夫宮に遷る。(中略)神功皇后元年、多遅麻国造船穂足尼命薨ず。大夜夫船丘山に葬る。
物部連大売布命の子・物部多遅麻連公武を以って、多遅麻国造と為す。

とある。物部多遅麻連公武から以降は北但馬の気多郡に多遅麻連→但馬国の国府は固定される。

前方後円墳はヤマト政権に近い皇統の連合体国造である

物部多遅麻連公武は気多郡高田郷に府を置き、それ以降但馬国府まで気多郡に遷るので、円山川を挟んだ対岸にある大藪古墳群は古墳時代後期で、大夜夫宮が大藪にあるとしたら、船穂足尼命の古墳は大藪古墳群にあるということにほぼ間違いない。

『但馬故事記』に
人皇3代成務天皇の御世に竹野君同祖の彦坐王五世孫の船穂足尼が多遅麻国造となる。人皇15代神功皇后からは気多郡に府が遷り、物部連大売布命の子・公武が多遅麻国造となり府を気多郡高田邑に置いた。父・物部連大売布命は伊香色男命の子で、人皇12代景行天皇の御世に戦功により多遅麻の摂津の川奈辺と気多・黄沼前三県を与えられ、多遅麻の気多に下ったが、成務天皇の御世は景行天皇の東国遠征に随行し、大売布命の子・公武から多遅麻国造になっているので、ほとんど多遅麻の政は行っていなかったと思われる朝来市山口と船宮古墳のある朝来市桑市は、直線で4.4kmとわりと近距離にある。大多牟阪命の墳墓かも知れない。

長浜浩明氏は『古代日本「謎」の時代を解き明かす』で、古代の歴代天皇在位年の実年を計算している。前代の天皇崩御年を起点として若干の誤差が生じる御代のあることを承知していただきたいと述べている。

これによると、池田古墳の築造年代は5世紀前半となっているが、3世紀後半ではないかと思うのだ。

前方後円墳は、古墳時代3世紀中頃から7世紀初頭頃というのが定説で、畿内の大王墓は6世紀中頃までで終わり、6世紀後半になると全国各地で造られないようになっていく。
『但馬故事記』の朝来郡故事記は、神功皇后まではくわしいが、古墳時代に相当する第15代応神天皇、第17代履中天皇、第27代安閑天皇(531-535)の朝来県主を淡々と記すのみであり、18代から20代、22代から26代まで記載なく、また、第27代安閑天皇以降は用明天皇まで記載がない。
したがって、巨大古墳にふさわしい但馬王は、彦坐命、その子・丹波道主命以外に見当たらないのである。その頃の朝来郡では三国の大国主であった地位から、第13代成務天皇(131-190)に、多遅麻国のみを治める多遅麻国国造となって、養父郡1代を経て、気多郡に遷っていることである。

全くもって素人が、築造推定年が正しいのかどうか失礼ではあるが、古墳の築造年代の推定は約100年遡っての誤差があるのではないかと思えるに至るのである。

『但馬故事記』は偽書だといえるのかどうかは、別としてこれほど詳細な記録はない。但馬風土記が焼失したことで、平安初期、残念に思った国衙・国学寮の地元出身ではない中央からの国司(役人)たちが長い年月をかけて公正に調べあげた全国にもあまり類がない国司文書である。

名称所在地築造年代形式外形主な埋蔵品
赤坂今井墳墓京都府京丹後市峰山町赤坂弥生時代終末期前後(3世紀前半頃)方墳南北51m、東西45m、高さ3.5m
粟鹿神社方形貼り石墓兵庫県朝来市山東町粟鹿弥生時代中期末~後期初頭方形貼り石墓南北1辺20m以上、 東西15m以上但馬地方では今回初めて
銚子山古墳京都府京丹後市網野町4世紀末前方後円墳全長198m
神明山古墳京都府京丹後市丹後町4世紀末前方後円墳全長190m
蛭子山古墳京都府与謝郡与謝野町加悦4世紀末前方後円墳全長145m
城ノ山古墳兵庫県朝来市和田山町東谷4世紀後半円墳南北径30m、東西径36m、高さ5m銅鏡三面 三角縁獣文帯三神三獣鏡・唐草文帯重圏文鏡
船宮古墳兵庫県朝来市桑市5世紀代前方後円墳全長約80m日本最古の牛形埴輪
池田古墳兵庫県朝来市和田山町平野5世紀前半前方後円墳全長約141m水鳥型埴輪23体
茶すり山古墳兵庫県朝来市和田山町筒江5世紀前葉円墳東西約35m、南北約30mの楕円形近畿地方最大級の円墳、大量の鉄製品を副葬
禁裡塚古墳兵庫県養父市大藪6世紀後半~7世紀代円墳32m装飾付須恵器の破片
西の岡古墳兵庫県養父市大藪6世紀後半から7世紀代円墳13.6m
箕谷古墳群兵庫県養父市八鹿町小山7世紀前半(630年ごろ)円墳2号墳から出土した戊辰年銘大刀

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渡来人の活躍が蘇我氏の成長をもたらした

関裕二氏は、『古代史謎解きの「キーパーソン50」』で、蘇我氏についてこう記している。

蘇我氏の業績

蘇我氏の全盛期は、蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三代である。六世紀後半から七世紀前半にかけてのことだ。その基礎を築いたのは、馬子の父・稲目が娘たちを盛んに入内させ、天皇家と強い姻戚関係を結んでいった。この稲目の蒔いた種を刈り取ったのが、蘇我馬子で、用明、崇峻、推古という蘇我系の天皇を立て、この間大臣となって活躍した。

蘇我馬子の功績は、日本で最初の本格寺院・法興寺(飛鳥寺)を建立したこと、推古天皇と二人三脚で政局を動かし、聖徳太子と共に改革事業に邁進したことであった。憲法十七条や冠位十二階は、聖徳太子の功績として名高いが、蘇我馬子の後押しがなければ、到底成し遂げることはなかったのである。また蘇我馬子は娘を聖徳太子や舒明天皇に嫁がせ、盤石な体制を築いた。

蘇我氏は渡来人か

蘇我氏の出自は明らかになっていない。なぜ六世紀、彼らは忽然と権力の中枢に上りつめたのだろう。

『古事記』によれば、蘇我氏の祖は武内宿禰(たけのうちのすくね)で、この人物は孝元天皇の孫のあたる(『日本書紀』には曾孫)のだが、この記事はあまり重視されていない。一般に蘇我氏は渡来系ではないかと考えられているからだ。その理由は、蘇我氏が渡来系の工人を支配下において力を得たこと、蘇我氏のその中に、渡来系を連想させる人物が登場しているからである。
まず、蘇我稲目の祖父の名は韓子(からこ)、父は高麗(こま)で、どちらも朝鮮半島の「韓」「高麗(高句麗)」の名を負っている。
武光誠氏は、『大人のための古代史講座: 常識としてこれだけは知っておこう』のなかで、
六世紀には、地方豪族の多くがヤマトの文化の高さを認識し、ヤマト王権を中心に日本をまとめていくほかないと考えるようになっていったなかで「磐井の乱」が起こった。(中略)
「磐井の乱」については別項にゆずるが、
飛鳥時代の直前にあたる六世紀初めに、朝廷の勢力図に大きな変化が起こった。同等の十数個の豪族の集合体であった朝廷が、一、二の有力豪族のもとに秩序づけられていったのだ。この体制は、のちの藤原政権へと連なっていく。

ヤマト王権は、四世紀末に西日本をほぼその支配下におさめた。そして、朝鮮半島に軍勢を送って
五世紀の朝廷の構造と六世紀の朝廷のそれとが大きく異なることが注意する必要がある。

五世紀の王室は有力な王族の連合体であった。王族たちは各自の宮を構えて自立しており、王位をめぐって勢力争いをくり返していた。中央の豪族たちは、そのような王族と離合集散をくり返しながら自家の勢力を強めていこうとしていた。

そのため、五世紀には群を抜く実力をもつ豪族も現れなかった。ところが、六世紀初めに継体天皇(大王)が王位についたことをきっかけに、王位を嫡系で継承していく習慣ができ、大王を補佐する者が大きな権力を保有するようになった。

六世紀初めには、大伴氏と物部氏が諸豪族を支配下におさめて朝廷を動かした。ところが、大伴金村が外交上の失敗で失脚すると、蘇我稲目がそれに代わって力をもつようになった。
六世紀末には、物部氏が蘇我氏によって討たれたが、七世紀半ばの大化改新で蘇我氏は衰退し、七世紀末に藤原氏が成長してくる。
蘇我稲目は、今来漢人(いまきのあやひと-新たに来た渡来人の意)である王辰爾に難波の津の船賦(ふねのみつき・港湾税)を徴収させた。また、彼の甥に当たる胆津に命じて吉備の児島に広大な王室領を開発させた。このように、朝廷の財政を富ませることによって、蘇我氏は成長していったのである。

『日本書紀』は、五世紀末の雄略天皇のときに、東漢掬(やまとのあやのつか)が百済から来た今来漢人陶部(いまきのあやひとすえつくり)や鞍部(くらべ)を大和国高市郡に安置したという。また同じころ、180種の勝(すぐり・渡来系の小豪族)を秦氏に与えたと伝える。

しかし、蘇我氏はしだいに東漢、秦という渡来系の配下にない今来漢人を自己の管理下に組織して成長していった。
六世紀半ばまでは、中央豪族の構成員は、各自で館を営んでいた。ところが、六世紀末に個々の豪族の代表者の勢力が強まった。『日本書紀』は蘇我蝦夷、入鹿の父子が甘樫丘(明日香村)に大王の物に並ぶ壮大な御殿を造ったことを伝える。蘇我一族をまとめるには、朝廷並みの政治機構が必要だったのだ。
このとうな豪族勢力のなかで、支配層の服装は華やかなものになっていった。五世紀末にようやく、渡来系の工人が質の良い絹織物をつくり始めた。『日本書紀』は、五世紀末に活躍した雄略天皇が蚕を集めさせ、さらに身狭青(むさのあお)と言う者を江南に送り、呉服と呼ばれる綿や綾を織る中国人の工人を招いたと伝える。
しかし、豪族たちが華美な服装を競い合うのは好ましくない。そこで、聖徳太子が活躍した七世紀初頭に、服装に関する規則がいくつか作られた。たとえば、中国からの使者を迎えるときは、豪族はその冠位に応じた色の服を身につけよと命じた。
冠位十二階制定時に用いられた冠は、さまざまな色の織物を用いたぜいたくなものであったが、七世紀末になると位冠と呼ばれたそのような冠の着用は禁じられ、黒絹でつくった素朴な冠が使われるようになった。

蘇我入鹿と物部の関係を証明する『先代旧辞本紀』

『日本書紀』や教科書で習う限り、仏教派の蘇我氏と神道を残したかった物部氏は争いで衰退したかのように思えてくる。だが、物部系の『先代旧辞本紀』によれば、物部守屋は傍流であり、物部の主流派は生き残ったと記されている。それどころか、物部氏はこの時代、蘇我氏と姻戚関係を結び、協調体制を取っていたと記している。またこの文書は、蘇我入鹿に物部の血が入っていることを誇らしげに記録しているのである。

この物部側の証言は、大きな意味を持ってくる。なぜ大悪人蘇我入鹿と物部の関係を、物部自身が強調しているのだろう。ここに、七世紀の真実を解き明かす、ひとつのヒントが隠されている。『古事記』は蘇我氏の祖が物部氏の女系から生まれていたと支持している。蘇我氏の七世紀の特権の一つに「方墳」があった。蘇我氏の墓ではないかという飛鳥の石舞台古墳の土台が四角形なのがこれだ。そして日本で唯一方墳をつくれたのが出雲国造だった。蘇我氏が出雲=物部と同族だったからこそ、物部の伝承は蘇我氏を自慢している。

また蘇我氏が仏教支持派にまわったとされるがよくわらない。蘇我氏はスサノオとの関係が指摘され、それは出雲の偉大な神である。蘇我氏も物部氏も祖は出雲神としている。
大化の改新の前夜乙巳の変で討たれ、蘇我入鹿を悪人にされる。

関裕二氏は、
のちに藤原不比等が『日本書紀』を編纂した理由として、物部氏や蘇我氏の功績を後世に残してしまえば、「藤原氏の野望」の正当性が崩れ去ってしまう。乙巳の変、大化改新の本質を以下に改竄するかであり、不比等の父・中臣鎌足の出自をごまかすことにあった、としている。

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初代天皇と物部の関わり

『古代史の秘密を握る人たち: 封印された「歴史の闇」に迫る』 著者: 関裕二によると(一部改訂)、
『日本書紀』の記述に従えば、神武天皇は今から二千年(2600年)以上も前にヤマトにやってきて、一大王朝を築いたということになる。しかしそうなると、縄文時代突入してしまい、このころ日本列島の大半を統一したことなど考古学的に想定できない。そこで、神武天皇は一種の「神話」だった、という発想につながる。では本当の初代の大王は誰かというと、崇神天皇が濃い、ということになる。年代的にはこちらの方が相応しいからだ。
その一方で、神武と崇神は、もともとは同一人物だったのではないか、とする有力な説もある。なぜかというと、二人とも「ハツクニシラスノミコト」と記されているためだ。神武天皇の場合、ヤマト入りの直後から晩年までの間に、ぽっかりと記事が抜け落ちていて、逆に崇神は、即位直後の記事が希薄で、二つの記述を合わせて一つの記事になるのではないか、というのだ。
この奇をてらったかのように思える推理も、考古学的には裏付けが得られるのだが、気になるのは二人のハツクニシラス天皇(まだ大王であるが名称だけでその内容に変わりはないのため、一般的に天皇とされているので、以下天皇と記す)と「出雲」の関係なのだ、と記している。
その前に、近年の研究では、「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力である。伝統的に「てんおう」と訓じられていた。明治期、連声により「てんのう」に変化したとされる。
7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち唐の高宗皇帝の用例の直後とするのが、平成10年(1998年)の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡発見以後の有力説である。それ以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王(治天下大王)あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称されていた。
いろいろ調べるうちに、各地方の大国主のような大王が、ヤマトの纏向に宮を立ててヤマト王権が成立する。そしてその中から選ばれた大王を、「治天下大王または天王」とかのではなかろうかと思っている。
本題に戻る。
神武天皇はヤマトに入ってから物部氏の祖・ニギハヤヒ(饒速日命)は野卑の一族から王権を禅譲され、出雲神(物部系)の娘の妃に選んでいる。一方神武天皇は、出雲神の祟りに悩まされ、のちに出雲神を手厚く祀っている。(中略)
ヤマト建国と前方後円墳
神武と崇神の問題は、ヤマト建国とは何かという問いかけでもある。考古学の進展によって、これまで三世紀末から四世紀初頭と思われてきた前方後円墳の出現が、三世紀半ばのものと分かって、ヤマト建国もこの頃と考えられるようになったということ、そして、いくつかの地域の埋葬文化を寄せ集めて完成したということだ。
次に前方後円墳の出現年代が繰り上がったのは、これまで三世紀後半のものと思われていた副葬品の鏡が、実際には三世紀半ばのものであったことがはっきりしたからだ。秀麗な姿で名高い箸墓古墳も、このころつくられていたことが分かってきた。纏向遺跡や箸墓は、邪馬台国論争でも取り上げられるようになって、卑弥呼の墓ではないかとも疑われ始めている。邪馬台国は二世紀後半から三世紀にかけてのことで、卑弥呼の死が、ちょうど三世紀の半ばのことだったからだ。
前方後円墳のもうひとつ大切なことは、西日本のおおよそ四つの地域の埋葬文化が集合したということで、それはヤマト・出雲・吉備¥北部九州だった。
具体的には、ヤマトの方形周溝墓の周囲をめぐる溝が前方後円墳の堀に、出雲の四隅突出型墳丘墓の四角い出っ張りが前方後円墳の「方」に、また、吉備の特殊器台形土器と北部九州の鏡が採用された、という具合である。
こうしてみると、前方後円墳の意味というものがはっきりしてくる。前方後円墳はその巨大さが「売り物」だが、一見して強大な権力の象徴のように見える代物が、実際には天皇(大王)の弱さを象徴していたということになる。西日本の四つの地域(国)の首長がそれぞれの埋葬文化を寄せ集めて、合意のもとで新たな王権が生まれたからだ。
そしてここからが大切なのだが、この前方後円墳がヤマトから東方に向けて混乱なく一気に広まっていった点がヤマト王権の性格を明らかにしている。四世紀、前方後円墳は東北南部まで広まっていった。しかもそれは、ヤマト王権の武力による征服とはとても考えれず、そうすれば、東国がヤマト王権を追認し、平和裡にその枠組みの中に収まったということになる。このようなヤマト王権誕生のいきさつが分かってきてみて初めて、神武天皇と崇神天皇の正体というものが理解できてくる。
神武・崇神の二人の「ハツクニシラス天皇」の業績を重ねてみることで、ヤマト建国の過程を正確に再現できることになる。とすれば、二人の初代天皇という『日本書紀』の不可解な記述は、本来一人の業績であったものを、わざわざ二人に分けてしまったというのが本当のところらしい。
それにしても、なぜ『日本書紀』は、こんな手の込んだカラクリを用意する必要があったのだろうか。
一つの理由は、ヤマト王権誕生時の「天皇家の弱さ」というものをひた隠しにしたかったからだろう。そしてもっと重要なことは、「出雲」や「物部・蘇我」の歴史に占める大きさを秘匿したかったからではなかったか。としている。
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【もう一つの日本】秦氏 日本の文化経済発展の先導者たち

「秦野エイト会 」さんのサイトとでなるほどと思った。というのはスサノオやニギハヤヒ、アメノヒボコも、天皇家の史書「記紀」の中で主役から遠ざかってるが、地名や神社に秦氏や漢氏に関するのではないかと感じられるものが散見し、物部氏系と秦氏の関係がよくわからなかったからである。というのも、秦氏に関しては史料が少なく、知っているのは京都の太秦や広陵寺、八幡神社、丹波の武家・波多野氏などは秦氏ではないかという程度だったが、「はた」や「あや」ではじまる地名は全国的にみられるが、これは渡来系有力豪族の秦氏と漢氏によってつけられたものが多い。

大和のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、機織・酒つくりなどの技術を発揮して栄えた。山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が各地の秦部、秦人の統率者となったという。欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となり大蔵掾に任ぜられたといい、本宗家は朝廷の財務官僚として活動したらしい。

この氏族に出自を有するとされる後代の有名氏族としては、薩摩の島津氏 対馬の宗氏、四国の長曽我部氏、伏見稲荷社家、松尾神社社家、雅楽の東儀、林、岡、薗家らの楽家と称される氏族などである。
一般的には、日本各地の富裕な土豪として各地の殖産事業に貢献したとされている。

また京都府・丹波地方に多い「部」のつく地名、姓も秦氏と強い関係があるとされている。
例えば戦国武将「物集女氏」、丹波出身の「波多野氏」。また「綾部」「園部」「六人部」「物部」「曽我部」「土師部」など職人部にあたる地名が多く残っている。但馬・丹後にも秦氏とゆかりのありそうななどの地名が多い。綾部は昔は「漢部」と書いたという。「郡是」の地名があり、この地に誕生し名をとった「グンゼ」となった。

元は同じ丹波だった丹後には、「加悦(カヤ)」「六万部」(与謝郡伊根町)、「辛皮(カラカワ)」(粉ザンショウ、辛皮(しんぴ)かも)、「畑」(久美浜町)にもある。
伽耶に通じる豊岡市加陽(カヤ)、「加悦(カヤ)」(与謝野町)、福知山市三和町加用(カヨウ)、南丹市美山町萱野(カヤノ)
但馬には阿羅伽耶(安羅)に通じる安良(出石町)、安牟加(アムカ)神社、韓国物部神社、畑上、飯谷(はんだに)、但東町唐川、畑山、朝来市物部
古寧伽耶(居昌(コチャン)に通じる石生、射添(イソウ、読み同じ)、小伽耶(慶尚南道固城郡(コソンぐん))に通じる小代(オジロ)

京都の中心にある上賀茂神社、下鴨神社、嵐山の酒の神・松尾大社、南の伏見稲荷、大分県の宇佐八幡などの八幡神社などは全て秦氏の勧請とされている。これらの神々は、新羅に仏教が伝来する以前の古い神々であるようです。秦氏の末裔はこれらの社家となった。

奈良県橿原市に所在する日本史上最初で最大の都城である藤原京や、唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造されたとされる平城京や長岡京・平安京を造営したのも秦氏・漢氏の財政面とノウハウだろう。中央で伊勢神宮や法隆寺・四天王寺・東大寺の大仏などの社寺の巨大な建物の建造にも寄与したとされる。
またこのころ秦氏をはじめ有力渡来系氏族は、主に書紀では外来系使節の翻訳仲介者・導者あるいは、遣隋使・遣唐使など外国へ使節としてみられることが多い。外来系使節への仲介、外国使節などを通して、秦氏等の渡来系氏族は、諸外国の技術・知識を調べ出すことを、当時の政権のため、あるいは氏族自身の朝廷での優位性をたもつために、熱心におこなっていただろうことが想像される。

kitunoの謎シリ-ズで、
縄文時代以来、日本にはすべての「もの」に神が宿るという「アミニズム」が存在していましたが、このアミニズムと秦氏が持ち込んだ「神道」が結びついて、「日本神道」が生まれたのではないでしょうか?
と言うのは、神社と言うのは日本の文化そのものと思っていたが、 何と京都や全国に神社を作ったのは、秦氏らしいのだ。
秦氏の宗教は、もともと景教と言われているから、 古代イスラエルの風習が日本の神社の風習になっていると言うのだ。

この説は納得できる。もともと、神が宿る山・川・木・磐座(いわくら)などを祀る神域に社はなかった。秦氏が持ち込んだ信仰・建築技術で社殿をつくるようになったのだ。そのころから神社は、自然物や自然現象を神格化した「精霊信仰」から、祖先はすべて神となり、自然現象を司り、子孫を見守るとするものである「祖霊信仰」へと発展した過程と合致している。

「秦氏が日本の文化・経済発展のルーツか?」
「秦野エイト会 」さん
秦野の歴史を調べると、日本の歴史になってしまう。 どうも秦氏は政治の表舞台に出ないで経済面や文化面で活躍しているらしく、 目立たないのだが日本の経済や文化のルーツらしいのだ。
戦後の首相の名前すら覚えられないのに、歴史教科書で時の政治面での権力者の名前を覚えても あまり意味がないのではないか。
歴史教科書には出てくる政治面の権力者(=さまざまに変化する)の歴史ではなく、 歴史教科書には出てこない経済面・文化面の権力者(=秦氏)の歴史を追って見たい。
政治的な権力なしになぜ秦氏が経済面・文化面の権力者になれるかが不思議な点であるが、 それは天皇制の維持と同じ理由によるのではないか。

つまり、秦氏は陰で(主に文化面で)天皇制の維持に貢献することで、 経済面・文化面の陰の権力者になれているのだと思う。

秦氏が作った文化は、日本の心の故郷でもあるのである。
秦氏は、朝鮮東部の新羅経由で日本に来たが、 新羅は中国大陸からの漢族以外の逃亡民(秦人、新羅は元、秦韓と言った)で構成されており、 五胡十六国時代の前秦滅亡(394)、後秦滅亡(417)と時代が一致している。
すなわち、秦氏は、チベット系(前秦・(てい)、後秦・羌(きょう))の民であり、 羌は、アミシャブ(イスラエルの10部族調査機関)が発見した、
現在の中国四川省のチベット系少数民族の羌岷(チャンミン)族と同じであり、 彼らは失われたイスラエル10部族のひとつであるマナセ族の末裔であると自称し、 アミシャブからも認められている。

これはそこまでさかのぼって考えるのは、いささかまだ納得しづらいが、牧畜や養蚕、醍醐(チーズ)を伝えたのも彼らではないだろうか。酒造りもチーズも発酵のメカニズムを知っているからだ。

秦氏のルーツを探る
日本書紀の記述に、日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が、 朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったという。
しかし、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている説もある。 新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある。
いすれにせよ、彼らの出身地は朝鮮半島ではなく、朝鮮半島は単なる経由地であった。

日本列島が弥生時代と呼ばれる頃、半島南部は紀元前2世紀から4世紀にかけて「三韓」とよばれ、風俗や言語によって大きく三つに分かれていた。「韓」の由来については諸説あり、山東半島にいた韓族ともいうが、明確でない。
馬韓(ばかん)は、帯方郡の南、黄海に接し、後の百済と重なる場所にあった地域である。西部に位置し、五十数カ国に分かれていた。馬韓人は定住民であり、言語は辰韓や弁韓とは異なっていた。
弁韓は、12カ国に分かれ言語は馬韓と異なり、辰韓と類同していた。のちの伽耶・任那(みまな)。
朝鮮半島南部の洛東江下流地域には、紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて無紋土器を用いる住民が定着しはじめた。彼らは農耕生活をしながら支石墓を築造し、青銅器を用いる文化を所有していた。
紀元前1世紀頃に青銅器と鉄器文化を背景に社会統合が進み、慶尚北道の大邱・慶州地域に辰韓諸国が現われ始めた。紀元前後にこれらの製鉄技術が慶尚南道海岸地帯に普及したことで、この地域は豊かな鉄産地の保有と海運の良好な条件によって相当な富と技術を蓄積するようになった。それによって社会統合が進み、弁韓諸国が登場してくる。2世紀から3世紀に至って半島東南部の諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。

伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)は、弁韓を母体とし、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。新羅においては伽耶(カヤ)・加耶という表記が用いられ、中国・日本(倭)においては加羅(カラ)又は任那(ニンナ・みまな)とも表記された。当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な勢力は金海市付近の駕洛国(金官加羅)。大伽耶・任那加羅とも書く。

伽耶の前身である弁韓の言語については、『三国志』東夷伝は辰韓の言語(朝鮮語の直接の先祖である新羅語の前身)と似ている(相似)と記すが、『後漢書』東夷伝は違いがある(有異)と述べており、相反する記述となっている。
辰韓は馬韓(のちの百済)の東方に位置し、12カ国に分かれ言語は馬韓と異なり、中間の弁韓と類同していた。
辰韓と弁韓とは居住地が重なっていたとされるが、実際の国々の比定地からみるとほぼ洛東江を境にして分かれているのが実態である。

2世紀から3世紀に至って半島東南部の諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な勢力は金海市付近の駕洛国(金官伽耶)であり、金官伽耶を盟主として前期伽耶連盟を形成し、対外的に周辺地域と交易を行い、斯盧(新羅)を中心とする辰韓と勢力を争ったりした。

『後漢書』の中の辰韓伝、『三国志』中の「魏書」の辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦の遺民ががおり、馬韓はその東の地を割いて、彼らに与え住まわせ辰韓人と名づけたという。また、『三国志』中の「魏書」の弁辰伝によると、馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたという。朝鮮南部の三韓の「韓」の由来については諸説あり、山東半島にいた韓族ともいうが、定かではない。と記している。

上記の『後漢書』辰韓伝、「馬韓はその東の地を割いて住まわせ…」「魏書」弁辰伝、「馬韓人と辰韓人は言語が異なっていた」に注目すると、馬鹿を除いた辰韓・弁韓は、もともと同じ言語・と風俗をもっていたようだ。弁韓を母体とする伽耶は、漢の読みから来ているように思われ、文字(漢字)と中国青銅器・養蚕・機織りが伝わっただろう。
朝鮮半島も日本列島も漢字が伝わるまでは文字を持たなかった。日本人が漢字の意味を日本語(大和言葉)に当てはめて訓読みをつくった。同じ人名や地名でも書物によって表記が異なるのがざらである。同じように、半島でも土地土地の言葉を漢字で表記したように、シンカン(ハン)を、ルーツである祖国、秦とそのあとの国家である漢を合わせたと考えても不思議ないと思う。シンカン(ハン)を、辰韓と書いたり、秦韓と書いたりしたであろう。

というよりも、文字とさまざまな技術を有した古代中国から亡命なのか、船に乗って半島南西部に上陸した。なぜ彼らがそこではなく東部に移住したのかは、上記の『後漢書』辰韓伝、「馬韓はその東の地を割いて住まわせ…」でわかる。

その後、数百年も半島に居住していたのであって、当然言葉や習慣は周辺の民族との交流によって変化していったであろう。

しかし、「馬韓人は定住民であり、言語は辰韓や弁韓とは異なっていた。」とあるように、半島の三国で、百済人が朝鮮民族の特色が一番濃いとすれば、ヤマト建国のルーツは朝鮮半島であると主張する根拠は薄い。なぜならば、秦氏や東漢氏は、伽耶や新羅に移住した秦・漢人を祖とする人びとなのであり、伽耶・辰韓(新羅)国も、中国から文字や文明が伝わり、長い歴史において見れば、ほぼ経由して列島に伝わったと考えられるからである。

したがって、秦氏・東漢氏や、もっと古くスサノオ、アメノヒボコなどの渡来人たちが、中国人なのか朝鮮半島人なのか、辰韓(のちの新羅)なのか伽耶(のち新羅)なのか、どこを基準にするのか、そこにこだわり本質を見失いたくないと思う。そんなこと言いだしたらアジア人はみな同じだし、古代イスラエルまでさかのぼると範囲がわからなくなる。せめて弥生時代の到来期に留めておきたい。もっと大きくいえば、世界中の人類はみな人類発祥の地とされるアフリカ人ということになり、日本人のルーツをどこにおくべきかの文化人類学に留まりたくないからだ。

綾織りの意味が分かった

東漢氏は、『記・紀』の応神天皇の条に渡来したと記されている阿智使主(あちのおみ)を氏祖とする帰化系氏族集団である。

『古事記』には、4世紀末の応神天皇の時代に、倭からの要請もあり、新羅や百済から技術者・文人が多く渡来し、その中に「秦造の祖、漢直の祖、が渡来した」と。『日本書紀』応神天皇20年9月の条に、「倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した。」と伝える。

しかし、東漢氏は集団の総称である。東漢氏は「倭漢氏」とも記述された。六世紀末頃までには河内国を本拠地としていた漢氏と区別するために両氏はともに、東西を氏上につけて区別した。それまではどちらも漢氏であったと思われる。秦氏も一度に渡来したというのではなく渡来した集団の総称だ。

両氏とも「漢」と書いて「アヤ」と読ませていることから実際は朝鮮南部にあった加羅諸国のうちの安羅国(現在の慶尚南道咸安郡)を中心とした氏族が渡来してきた可能性が提唱されている。

つまり「安羅」が「アヤ」となり呼称となったということである。そして、それらのアヤ氏のなかで伝わっていた「先祖は朝鮮北部にあった漢帝国に属した帯方郡から渡来した」という伝説から「漢」という文字をあてるようになったのではないかと考えられている。

また、漢氏の漢を「あや」と読ませたのが、秦氏の「はた」が機織りを意味することから、綾織りのあやであるなら、東漢氏も「漢からヤマトに来た綾織りの上手な民」をさして、だんだん縮めてそう呼ぶようになったのではないだろうか。枕詞の「飛ぶ鳥の明日香」が縮まって「飛鳥」を「あすか」「日下(ひのもと)の草香(くさか)」が日下(くさか)となり、日下が日本に字が変わったとされるように、日本人は何でも縮めて改良するのが好きな民族ではある。

秦氏は、中央で伊勢神宮や東大寺の大仏などの巨大な建物の建造にも寄与したが、 日本全国にも散らばり、稲荷神社や八幡神社などを作り、 彼らの文化と技術(景教、建築、絹、薬など)を日本に広めた。
京都は秦氏に丹波(京都府中部)は、秦氏にゆかりがある。

これで「綾部」の地名の意味がつかめた。
秦氏・東漢氏は、同時に文字(漢字)と稲作・機織り土木建築などを伝えた、と考えるのが弥生時代の到来として最も可能性があると思うのである。
前出の、「新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある。」を思い出してもらいたい。

秦氏と漢氏は、中国の時代によって出身地名から、一族をそう名乗ったのであり、ルーツは同じと考える。

半島南部伽耶と日本列島の鉄の関連性を追う

いずれにしても、日本列島に青銅器が伝わったのは鉄の産地である伽耶だろう。その輸出商品は、自国で生産する大量の”鉄”だったのである。じつは、伽耶が古代東アジア有数の”鉄”の国であったらしい。
海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ 著者: 関裕二氏は、

記紀神話に現れたスサノオと鉄の関係を追っていくと、日本列島の森林資源が燃料として貴重だったこと、朝鮮半島の人びとがこれを求めて大量に渡来してきたのではないかと思えてきた、と記している。

製鉄には大量の木(炭)が必要だ。当然木材はすぐには育たないから枯渇していく。彼らは優秀な商人でもあった。彼らは鉄の見返りに何を求めたかというと、日本列島の豊富な木だ。輸出のために日本列島に往来するうちに、豊かな森林に惹かれて、だんだん製品化して木材を持ち帰るよりも、日本列島に鉄原料を運び、生産拠点を移して現地生産するようになったのではないか。

日本民族の祖先とされる縄文人も、長い年月の間に北方や南方から他種類の民族が日本列島に集まってきたものだ。国境がない時代だから、人びとは獲物を求めて自由に往来していたのである。彼らは、定住するようになり土地への執着心が強い現代風に考えるほど、出自は問題ではなかっただろう。「三代住んだら江戸っ子といっていい」というが、だいたい三代以上そこに住んでいたら、そこの住民と見る方が自然だ。みんな最初はどこからか移り住んできたのだから。

弥生人誕生のルーツとなる渡来人は、最初から海をまっすぐに、いまだ知らない日本列島を目指していたわけではないだろうし、秦は紀元前206年に滅亡して漢となる。そして後漢も220年に滅亡した。したがって、半島に定着した人びとの中に、さらに島嶼やそれを経由して九州北部に渡って来た。それがいつごろなのかわからないが、一度に渡来したのではなく、たびたび渡来した人びとがいたと考えられる。したがって、秦族であり漢族でもあり、半島人の韓族でもある。それが自然だと拙者は思うのだ。

蘇我氏や物部氏もルーツは秦氏や漢氏だろう。しかし秦・漢氏を名乗った一族の行動は、政治や神道の権力よりも、「名よりも実利」と思える実業分野でエンジニア・ビジネスのエキスパートだった。また文化面でも雅楽・猿楽・歌舞伎など。だから、歴史の表舞台に立たなかったから生きながらえることが出来たのかも知れない。徐福・浦島太郎、鼻が高い猿田彦・天狗、また、垂仁天皇が床に伏せて、常世の国にときじく(ダイダイ?)の実を10年も探しにいって帰ってきた田道間守(たじまもり)も、海洋航海術に長けたそれは、現在もたくましいビジネス魂の「華僑」と呼ばれるイメージとつながる感がある。

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八幡神について

[catlist categorypage=”yes”] 八幡神とは?

ちなみに、同じく武神である八幡神(はちまんしん、やはたのかみ、やわたのかみ)は、日本独自で信仰される神です。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも言います。

八幡神を祀る神社は八幡神社(八幡社・八幡宮・若宮神社)と呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位です。一方、岡田荘司氏らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるといいます。

祭神は、現在では、応神天皇を主神として、神功皇后、比売神(ひめのかみ)を合わせて八幡神(八幡三神)ともしています。神功皇后は応神天皇の母親であり、親子神(母子神)信仰に基づくものだといわれます。比売神(ひめのかみ)[*1]は八幡神の妃神と説明されることも多いですが、その出自はよく分かっていないそうです。 八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)です。元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であったと考えられています。農耕神あるいは海の神とされますが、柳田國男氏は鍛冶(かじ)の神ではないかと考察しています。

宇佐神宮は全国の八幡神社の総本社で八幡大神を祭っている。周辺の神社がほとんどスサノオやオオトシを祭っているのにその中心にある神社が別の人物を祭っているのはどうも解せない。八幡大神はスサノオのことであると考えられる。宇佐の地は瀬戸内から九州への足がかりとなりうる地であり,スサノオ一族はこの地を拠点にして北九州地方を統一したものと考えられる。 諏訪の八剣神社を始め方々の神社にスサノオの別称であると記されている。  東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749年)、宇佐八幡の禰宜の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかります。天応元年(781年)には仏教保護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号が与えられました。これにより、全国の寺の守護神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなりました。後に、本地垂迹においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされました。

また、応神天皇が八幡神であるとされていることから皇室の祖神ともされ、皇室から分かれた源氏も八幡神を氏神としました。源頼義は、河内国壷井(大阪府羽曳野市壷井)に勧請し、壷井八幡宮を河内源氏の氏神とし、その子の源義家は石清水八幡宮で元服したことから、八幡太郎義家と呼ばれました。

源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の主護神として自分の領内に勧請しました。それ以降も、武神として多くの武将が崇敬しました。

とくに関東・東北地方に多く、兵主神とは対照的に関西では多くありません。
-出典: 「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学教授 佐藤 信
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2009/08/28