渡来人の活躍が蘇我氏の成長をもたらした

関裕二氏は、『古代史謎解きの「キーパーソン50」』で、蘇我氏についてこう記している。

蘇我氏の業績

蘇我氏の全盛期は、蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三代である。六世紀後半から七世紀前半にかけてのことだ。その基礎を築いたのは、馬子の父・稲目が娘たちを盛んに入内させ、天皇家と強い姻戚関係を結んでいった。この稲目の蒔いた種を刈り取ったのが、蘇我馬子で、用明、崇峻、推古という蘇我系の天皇を立て、この間大臣となって活躍した。

蘇我馬子の功績は、日本で最初の本格寺院・法興寺(飛鳥寺)を建立したこと、推古天皇と二人三脚で政局を動かし、聖徳太子と共に改革事業に邁進したことであった。憲法十七条や冠位十二階は、聖徳太子の功績として名高いが、蘇我馬子の後押しがなければ、到底成し遂げることはなかったのである。また蘇我馬子は娘を聖徳太子や舒明天皇に嫁がせ、盤石な体制を築いた。

蘇我氏は渡来人か

蘇我氏の出自は明らかになっていない。なぜ六世紀、彼らは忽然と権力の中枢に上りつめたのだろう。

『古事記』によれば、蘇我氏の祖は武内宿禰(たけのうちのすくね)で、この人物は孝元天皇の孫のあたる(『日本書紀』には曾孫)のだが、この記事はあまり重視されていない。一般に蘇我氏は渡来系ではないかと考えられているからだ。その理由は、蘇我氏が渡来系の工人を支配下において力を得たこと、蘇我氏のその中に、渡来系を連想させる人物が登場しているからである。
まず、蘇我稲目の祖父の名は韓子(からこ)、父は高麗(こま)で、どちらも朝鮮半島の「韓」「高麗(高句麗)」の名を負っている。
武光誠氏は、『大人のための古代史講座: 常識としてこれだけは知っておこう』のなかで、
六世紀には、地方豪族の多くがヤマトの文化の高さを認識し、ヤマト王権を中心に日本をまとめていくほかないと考えるようになっていったなかで「磐井の乱」が起こった。(中略)
「磐井の乱」については別項にゆずるが、
飛鳥時代の直前にあたる六世紀初めに、朝廷の勢力図に大きな変化が起こった。同等の十数個の豪族の集合体であった朝廷が、一、二の有力豪族のもとに秩序づけられていったのだ。この体制は、のちの藤原政権へと連なっていく。

ヤマト王権は、四世紀末に西日本をほぼその支配下におさめた。そして、朝鮮半島に軍勢を送って
五世紀の朝廷の構造と六世紀の朝廷のそれとが大きく異なることが注意する必要がある。

五世紀の王室は有力な王族の連合体であった。王族たちは各自の宮を構えて自立しており、王位をめぐって勢力争いをくり返していた。中央の豪族たちは、そのような王族と離合集散をくり返しながら自家の勢力を強めていこうとしていた。

そのため、五世紀には群を抜く実力をもつ豪族も現れなかった。ところが、六世紀初めに継体天皇(大王)が王位についたことをきっかけに、王位を嫡系で継承していく習慣ができ、大王を補佐する者が大きな権力を保有するようになった。

六世紀初めには、大伴氏と物部氏が諸豪族を支配下におさめて朝廷を動かした。ところが、大伴金村が外交上の失敗で失脚すると、蘇我稲目がそれに代わって力をもつようになった。
六世紀末には、物部氏が蘇我氏によって討たれたが、七世紀半ばの大化改新で蘇我氏は衰退し、七世紀末に藤原氏が成長してくる。
蘇我稲目は、今来漢人(いまきのあやひと-新たに来た渡来人の意)である王辰爾に難波の津の船賦(ふねのみつき・港湾税)を徴収させた。また、彼の甥に当たる胆津に命じて吉備の児島に広大な王室領を開発させた。このように、朝廷の財政を富ませることによって、蘇我氏は成長していったのである。

『日本書紀』は、五世紀末の雄略天皇のときに、東漢掬(やまとのあやのつか)が百済から来た今来漢人陶部(いまきのあやひとすえつくり)や鞍部(くらべ)を大和国高市郡に安置したという。また同じころ、180種の勝(すぐり・渡来系の小豪族)を秦氏に与えたと伝える。

しかし、蘇我氏はしだいに東漢、秦という渡来系の配下にない今来漢人を自己の管理下に組織して成長していった。
六世紀半ばまでは、中央豪族の構成員は、各自で館を営んでいた。ところが、六世紀末に個々の豪族の代表者の勢力が強まった。『日本書紀』は蘇我蝦夷、入鹿の父子が甘樫丘(明日香村)に大王の物に並ぶ壮大な御殿を造ったことを伝える。蘇我一族をまとめるには、朝廷並みの政治機構が必要だったのだ。
このとうな豪族勢力のなかで、支配層の服装は華やかなものになっていった。五世紀末にようやく、渡来系の工人が質の良い絹織物をつくり始めた。『日本書紀』は、五世紀末に活躍した雄略天皇が蚕を集めさせ、さらに身狭青(むさのあお)と言う者を江南に送り、呉服と呼ばれる綿や綾を織る中国人の工人を招いたと伝える。
しかし、豪族たちが華美な服装を競い合うのは好ましくない。そこで、聖徳太子が活躍した七世紀初頭に、服装に関する規則がいくつか作られた。たとえば、中国からの使者を迎えるときは、豪族はその冠位に応じた色の服を身につけよと命じた。
冠位十二階制定時に用いられた冠は、さまざまな色の織物を用いたぜいたくなものであったが、七世紀末になると位冠と呼ばれたそのような冠の着用は禁じられ、黒絹でつくった素朴な冠が使われるようになった。

蘇我入鹿と物部の関係を証明する『先代旧辞本紀』

『日本書紀』や教科書で習う限り、仏教派の蘇我氏と神道を残したかった物部氏は争いで衰退したかのように思えてくる。だが、物部系の『先代旧辞本紀』によれば、物部守屋は傍流であり、物部の主流派は生き残ったと記されている。それどころか、物部氏はこの時代、蘇我氏と姻戚関係を結び、協調体制を取っていたと記している。またこの文書は、蘇我入鹿に物部の血が入っていることを誇らしげに記録しているのである。

この物部側の証言は、大きな意味を持ってくる。なぜ大悪人蘇我入鹿と物部の関係を、物部自身が強調しているのだろう。ここに、七世紀の真実を解き明かす、ひとつのヒントが隠されている。『古事記』は蘇我氏の祖が物部氏の女系から生まれていたと支持している。蘇我氏の七世紀の特権の一つに「方墳」があった。蘇我氏の墓ではないかという飛鳥の石舞台古墳の土台が四角形なのがこれだ。そして日本で唯一方墳をつくれたのが出雲国造だった。蘇我氏が出雲=物部と同族だったからこそ、物部の伝承は蘇我氏を自慢している。

また蘇我氏が仏教支持派にまわったとされるがよくわらない。蘇我氏はスサノオとの関係が指摘され、それは出雲の偉大な神である。蘇我氏も物部氏も祖は出雲神としている。
大化の改新の前夜乙巳の変で討たれ、蘇我入鹿を悪人にされる。

関裕二氏は、
のちに藤原不比等が『日本書紀』を編纂した理由として、物部氏や蘇我氏の功績を後世に残してしまえば、「藤原氏の野望」の正当性が崩れ去ってしまう。乙巳の変、大化改新の本質を以下に改竄するかであり、不比等の父・中臣鎌足の出自をごまかすことにあった、としている。

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