初代天皇と物部の関わり

『古代史の秘密を握る人たち: 封印された「歴史の闇」に迫る』 著者: 関裕二によると(一部改訂)、
『日本書紀』の記述に従えば、神武天皇は今から二千年(2600年)以上も前にヤマトにやってきて、一大王朝を築いたということになる。しかしそうなると、縄文時代突入してしまい、このころ日本列島の大半を統一したことなど考古学的に想定できない。そこで、神武天皇は一種の「神話」だった、という発想につながる。では本当の初代の大王は誰かというと、崇神天皇が濃い、ということになる。年代的にはこちらの方が相応しいからだ。
その一方で、神武と崇神は、もともとは同一人物だったのではないか、とする有力な説もある。なぜかというと、二人とも「ハツクニシラスノミコト」と記されているためだ。神武天皇の場合、ヤマト入りの直後から晩年までの間に、ぽっかりと記事が抜け落ちていて、逆に崇神は、即位直後の記事が希薄で、二つの記述を合わせて一つの記事になるのではないか、というのだ。
この奇をてらったかのように思える推理も、考古学的には裏付けが得られるのだが、気になるのは二人のハツクニシラス天皇(まだ大王であるが名称だけでその内容に変わりはないのため、一般的に天皇とされているので、以下天皇と記す)と「出雲」の関係なのだ、と記している。
その前に、近年の研究では、「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力である。伝統的に「てんおう」と訓じられていた。明治期、連声により「てんのう」に変化したとされる。
7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち唐の高宗皇帝の用例の直後とするのが、平成10年(1998年)の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡発見以後の有力説である。それ以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王(治天下大王)あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称されていた。
いろいろ調べるうちに、各地方の大国主のような大王が、ヤマトの纏向に宮を立ててヤマト王権が成立する。そしてその中から選ばれた大王を、「治天下大王または天王」とかのではなかろうかと思っている。
本題に戻る。
神武天皇はヤマトに入ってから物部氏の祖・ニギハヤヒ(饒速日命)は野卑の一族から王権を禅譲され、出雲神(物部系)の娘の妃に選んでいる。一方神武天皇は、出雲神の祟りに悩まされ、のちに出雲神を手厚く祀っている。(中略)
ヤマト建国と前方後円墳
神武と崇神の問題は、ヤマト建国とは何かという問いかけでもある。考古学の進展によって、これまで三世紀末から四世紀初頭と思われてきた前方後円墳の出現が、三世紀半ばのものと分かって、ヤマト建国もこの頃と考えられるようになったということ、そして、いくつかの地域の埋葬文化を寄せ集めて完成したということだ。
次に前方後円墳の出現年代が繰り上がったのは、これまで三世紀後半のものと思われていた副葬品の鏡が、実際には三世紀半ばのものであったことがはっきりしたからだ。秀麗な姿で名高い箸墓古墳も、このころつくられていたことが分かってきた。纏向遺跡や箸墓は、邪馬台国論争でも取り上げられるようになって、卑弥呼の墓ではないかとも疑われ始めている。邪馬台国は二世紀後半から三世紀にかけてのことで、卑弥呼の死が、ちょうど三世紀の半ばのことだったからだ。
前方後円墳のもうひとつ大切なことは、西日本のおおよそ四つの地域の埋葬文化が集合したということで、それはヤマト・出雲・吉備¥北部九州だった。
具体的には、ヤマトの方形周溝墓の周囲をめぐる溝が前方後円墳の堀に、出雲の四隅突出型墳丘墓の四角い出っ張りが前方後円墳の「方」に、また、吉備の特殊器台形土器と北部九州の鏡が採用された、という具合である。
こうしてみると、前方後円墳の意味というものがはっきりしてくる。前方後円墳はその巨大さが「売り物」だが、一見して強大な権力の象徴のように見える代物が、実際には天皇(大王)の弱さを象徴していたということになる。西日本の四つの地域(国)の首長がそれぞれの埋葬文化を寄せ集めて、合意のもとで新たな王権が生まれたからだ。
そしてここからが大切なのだが、この前方後円墳がヤマトから東方に向けて混乱なく一気に広まっていった点がヤマト王権の性格を明らかにしている。四世紀、前方後円墳は東北南部まで広まっていった。しかもそれは、ヤマト王権の武力による征服とはとても考えれず、そうすれば、東国がヤマト王権を追認し、平和裡にその枠組みの中に収まったということになる。このようなヤマト王権誕生のいきさつが分かってきてみて初めて、神武天皇と崇神天皇の正体というものが理解できてくる。
神武・崇神の二人の「ハツクニシラス天皇」の業績を重ねてみることで、ヤマト建国の過程を正確に再現できることになる。とすれば、二人の初代天皇という『日本書紀』の不可解な記述は、本来一人の業績であったものを、わざわざ二人に分けてしまったというのが本当のところらしい。
それにしても、なぜ『日本書紀』は、こんな手の込んだカラクリを用意する必要があったのだろうか。
一つの理由は、ヤマト王権誕生時の「天皇家の弱さ」というものをひた隠しにしたかったからだろう。そしてもっと重要なことは、「出雲」や「物部・蘇我」の歴史に占める大きさを秘匿したかったからではなかったか。としている。
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