【もう一つの日本】秦氏 日本の文化経済発展の先導者たち

「秦野エイト会 」さんのサイトとでなるほどと思った。というのはスサノオやニギハヤヒ、アメノヒボコも、天皇家の史書「記紀」の中で主役から遠ざかってるが、地名や神社に秦氏や漢氏に関するのではないかと感じられるものが散見し、物部氏系と秦氏の関係がよくわからなかったからである。というのも、秦氏に関しては史料が少なく、知っているのは京都の太秦や広陵寺、八幡神社、丹波の武家・波多野氏などは秦氏ではないかという程度だったが、「はた」や「あや」ではじまる地名は全国的にみられるが、これは渡来系有力豪族の秦氏と漢氏によってつけられたものが多い。

大和のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、機織・酒つくりなどの技術を発揮して栄えた。山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が各地の秦部、秦人の統率者となったという。欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となり大蔵掾に任ぜられたといい、本宗家は朝廷の財務官僚として活動したらしい。

この氏族に出自を有するとされる後代の有名氏族としては、薩摩の島津氏 対馬の宗氏、四国の長曽我部氏、伏見稲荷社家、松尾神社社家、雅楽の東儀、林、岡、薗家らの楽家と称される氏族などである。
一般的には、日本各地の富裕な土豪として各地の殖産事業に貢献したとされている。

また京都府・丹波地方に多い「部」のつく地名、姓も秦氏と強い関係があるとされている。
例えば戦国武将「物集女氏」、丹波出身の「波多野氏」。また「綾部」「園部」「六人部」「物部」「曽我部」「土師部」など職人部にあたる地名が多く残っている。但馬・丹後にも秦氏とゆかりのありそうななどの地名が多い。綾部は昔は「漢部」と書いたという。「郡是」の地名があり、この地に誕生し名をとった「グンゼ」となった。

元は同じ丹波だった丹後には、「加悦(カヤ)」「六万部」(与謝郡伊根町)、「辛皮(カラカワ)」(粉ザンショウ、辛皮(しんぴ)かも)、「畑」(久美浜町)にもある。
伽耶に通じる豊岡市加陽(カヤ)、「加悦(カヤ)」(与謝野町)、福知山市三和町加用(カヨウ)、南丹市美山町萱野(カヤノ)
但馬には阿羅伽耶(安羅)に通じる安良(出石町)、安牟加(アムカ)神社、韓国物部神社、畑上、飯谷(はんだに)、但東町唐川、畑山、朝来市物部
古寧伽耶(居昌(コチャン)に通じる石生、射添(イソウ、読み同じ)、小伽耶(慶尚南道固城郡(コソンぐん))に通じる小代(オジロ)

京都の中心にある上賀茂神社、下鴨神社、嵐山の酒の神・松尾大社、南の伏見稲荷、大分県の宇佐八幡などの八幡神社などは全て秦氏の勧請とされている。これらの神々は、新羅に仏教が伝来する以前の古い神々であるようです。秦氏の末裔はこれらの社家となった。

奈良県橿原市に所在する日本史上最初で最大の都城である藤原京や、唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造されたとされる平城京や長岡京・平安京を造営したのも秦氏・漢氏の財政面とノウハウだろう。中央で伊勢神宮や法隆寺・四天王寺・東大寺の大仏などの社寺の巨大な建物の建造にも寄与したとされる。
またこのころ秦氏をはじめ有力渡来系氏族は、主に書紀では外来系使節の翻訳仲介者・導者あるいは、遣隋使・遣唐使など外国へ使節としてみられることが多い。外来系使節への仲介、外国使節などを通して、秦氏等の渡来系氏族は、諸外国の技術・知識を調べ出すことを、当時の政権のため、あるいは氏族自身の朝廷での優位性をたもつために、熱心におこなっていただろうことが想像される。

kitunoの謎シリ-ズで、
縄文時代以来、日本にはすべての「もの」に神が宿るという「アミニズム」が存在していましたが、このアミニズムと秦氏が持ち込んだ「神道」が結びついて、「日本神道」が生まれたのではないでしょうか?
と言うのは、神社と言うのは日本の文化そのものと思っていたが、 何と京都や全国に神社を作ったのは、秦氏らしいのだ。
秦氏の宗教は、もともと景教と言われているから、 古代イスラエルの風習が日本の神社の風習になっていると言うのだ。

この説は納得できる。もともと、神が宿る山・川・木・磐座(いわくら)などを祀る神域に社はなかった。秦氏が持ち込んだ信仰・建築技術で社殿をつくるようになったのだ。そのころから神社は、自然物や自然現象を神格化した「精霊信仰」から、祖先はすべて神となり、自然現象を司り、子孫を見守るとするものである「祖霊信仰」へと発展した過程と合致している。

「秦氏が日本の文化・経済発展のルーツか?」
「秦野エイト会 」さん
秦野の歴史を調べると、日本の歴史になってしまう。 どうも秦氏は政治の表舞台に出ないで経済面や文化面で活躍しているらしく、 目立たないのだが日本の経済や文化のルーツらしいのだ。
戦後の首相の名前すら覚えられないのに、歴史教科書で時の政治面での権力者の名前を覚えても あまり意味がないのではないか。
歴史教科書には出てくる政治面の権力者(=さまざまに変化する)の歴史ではなく、 歴史教科書には出てこない経済面・文化面の権力者(=秦氏)の歴史を追って見たい。
政治的な権力なしになぜ秦氏が経済面・文化面の権力者になれるかが不思議な点であるが、 それは天皇制の維持と同じ理由によるのではないか。

つまり、秦氏は陰で(主に文化面で)天皇制の維持に貢献することで、 経済面・文化面の陰の権力者になれているのだと思う。

秦氏が作った文化は、日本の心の故郷でもあるのである。
秦氏は、朝鮮東部の新羅経由で日本に来たが、 新羅は中国大陸からの漢族以外の逃亡民(秦人、新羅は元、秦韓と言った)で構成されており、 五胡十六国時代の前秦滅亡(394)、後秦滅亡(417)と時代が一致している。
すなわち、秦氏は、チベット系(前秦・(てい)、後秦・羌(きょう))の民であり、 羌は、アミシャブ(イスラエルの10部族調査機関)が発見した、
現在の中国四川省のチベット系少数民族の羌岷(チャンミン)族と同じであり、 彼らは失われたイスラエル10部族のひとつであるマナセ族の末裔であると自称し、 アミシャブからも認められている。

これはそこまでさかのぼって考えるのは、いささかまだ納得しづらいが、牧畜や養蚕、醍醐(チーズ)を伝えたのも彼らではないだろうか。酒造りもチーズも発酵のメカニズムを知っているからだ。

秦氏のルーツを探る
日本書紀の記述に、日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が、 朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったという。
しかし、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている説もある。 新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある。
いすれにせよ、彼らの出身地は朝鮮半島ではなく、朝鮮半島は単なる経由地であった。

日本列島が弥生時代と呼ばれる頃、半島南部は紀元前2世紀から4世紀にかけて「三韓」とよばれ、風俗や言語によって大きく三つに分かれていた。「韓」の由来については諸説あり、山東半島にいた韓族ともいうが、明確でない。
馬韓(ばかん)は、帯方郡の南、黄海に接し、後の百済と重なる場所にあった地域である。西部に位置し、五十数カ国に分かれていた。馬韓人は定住民であり、言語は辰韓や弁韓とは異なっていた。
弁韓は、12カ国に分かれ言語は馬韓と異なり、辰韓と類同していた。のちの伽耶・任那(みまな)。
朝鮮半島南部の洛東江下流地域には、紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて無紋土器を用いる住民が定着しはじめた。彼らは農耕生活をしながら支石墓を築造し、青銅器を用いる文化を所有していた。
紀元前1世紀頃に青銅器と鉄器文化を背景に社会統合が進み、慶尚北道の大邱・慶州地域に辰韓諸国が現われ始めた。紀元前後にこれらの製鉄技術が慶尚南道海岸地帯に普及したことで、この地域は豊かな鉄産地の保有と海運の良好な条件によって相当な富と技術を蓄積するようになった。それによって社会統合が進み、弁韓諸国が登場してくる。2世紀から3世紀に至って半島東南部の諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。

伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)は、弁韓を母体とし、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。新羅においては伽耶(カヤ)・加耶という表記が用いられ、中国・日本(倭)においては加羅(カラ)又は任那(ニンナ・みまな)とも表記された。当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な勢力は金海市付近の駕洛国(金官加羅)。大伽耶・任那加羅とも書く。

伽耶の前身である弁韓の言語については、『三国志』東夷伝は辰韓の言語(朝鮮語の直接の先祖である新羅語の前身)と似ている(相似)と記すが、『後漢書』東夷伝は違いがある(有異)と述べており、相反する記述となっている。
辰韓は馬韓(のちの百済)の東方に位置し、12カ国に分かれ言語は馬韓と異なり、中間の弁韓と類同していた。
辰韓と弁韓とは居住地が重なっていたとされるが、実際の国々の比定地からみるとほぼ洛東江を境にして分かれているのが実態である。

2世紀から3世紀に至って半島東南部の諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な勢力は金海市付近の駕洛国(金官伽耶)であり、金官伽耶を盟主として前期伽耶連盟を形成し、対外的に周辺地域と交易を行い、斯盧(新羅)を中心とする辰韓と勢力を争ったりした。

『後漢書』の中の辰韓伝、『三国志』中の「魏書」の辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦の遺民ががおり、馬韓はその東の地を割いて、彼らに与え住まわせ辰韓人と名づけたという。また、『三国志』中の「魏書」の弁辰伝によると、馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたという。朝鮮南部の三韓の「韓」の由来については諸説あり、山東半島にいた韓族ともいうが、定かではない。と記している。

上記の『後漢書』辰韓伝、「馬韓はその東の地を割いて住まわせ…」「魏書」弁辰伝、「馬韓人と辰韓人は言語が異なっていた」に注目すると、馬鹿を除いた辰韓・弁韓は、もともと同じ言語・と風俗をもっていたようだ。弁韓を母体とする伽耶は、漢の読みから来ているように思われ、文字(漢字)と中国青銅器・養蚕・機織りが伝わっただろう。
朝鮮半島も日本列島も漢字が伝わるまでは文字を持たなかった。日本人が漢字の意味を日本語(大和言葉)に当てはめて訓読みをつくった。同じ人名や地名でも書物によって表記が異なるのがざらである。同じように、半島でも土地土地の言葉を漢字で表記したように、シンカン(ハン)を、ルーツである祖国、秦とそのあとの国家である漢を合わせたと考えても不思議ないと思う。シンカン(ハン)を、辰韓と書いたり、秦韓と書いたりしたであろう。

というよりも、文字とさまざまな技術を有した古代中国から亡命なのか、船に乗って半島南西部に上陸した。なぜ彼らがそこではなく東部に移住したのかは、上記の『後漢書』辰韓伝、「馬韓はその東の地を割いて住まわせ…」でわかる。

その後、数百年も半島に居住していたのであって、当然言葉や習慣は周辺の民族との交流によって変化していったであろう。

しかし、「馬韓人は定住民であり、言語は辰韓や弁韓とは異なっていた。」とあるように、半島の三国で、百済人が朝鮮民族の特色が一番濃いとすれば、ヤマト建国のルーツは朝鮮半島であると主張する根拠は薄い。なぜならば、秦氏や東漢氏は、伽耶や新羅に移住した秦・漢人を祖とする人びとなのであり、伽耶・辰韓(新羅)国も、中国から文字や文明が伝わり、長い歴史において見れば、ほぼ経由して列島に伝わったと考えられるからである。

したがって、秦氏・東漢氏や、もっと古くスサノオ、アメノヒボコなどの渡来人たちが、中国人なのか朝鮮半島人なのか、辰韓(のちの新羅)なのか伽耶(のち新羅)なのか、どこを基準にするのか、そこにこだわり本質を見失いたくないと思う。そんなこと言いだしたらアジア人はみな同じだし、古代イスラエルまでさかのぼると範囲がわからなくなる。せめて弥生時代の到来期に留めておきたい。もっと大きくいえば、世界中の人類はみな人類発祥の地とされるアフリカ人ということになり、日本人のルーツをどこにおくべきかの文化人類学に留まりたくないからだ。

綾織りの意味が分かった

東漢氏は、『記・紀』の応神天皇の条に渡来したと記されている阿智使主(あちのおみ)を氏祖とする帰化系氏族集団である。

『古事記』には、4世紀末の応神天皇の時代に、倭からの要請もあり、新羅や百済から技術者・文人が多く渡来し、その中に「秦造の祖、漢直の祖、が渡来した」と。『日本書紀』応神天皇20年9月の条に、「倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した。」と伝える。

しかし、東漢氏は集団の総称である。東漢氏は「倭漢氏」とも記述された。六世紀末頃までには河内国を本拠地としていた漢氏と区別するために両氏はともに、東西を氏上につけて区別した。それまではどちらも漢氏であったと思われる。秦氏も一度に渡来したというのではなく渡来した集団の総称だ。

両氏とも「漢」と書いて「アヤ」と読ませていることから実際は朝鮮南部にあった加羅諸国のうちの安羅国(現在の慶尚南道咸安郡)を中心とした氏族が渡来してきた可能性が提唱されている。

つまり「安羅」が「アヤ」となり呼称となったということである。そして、それらのアヤ氏のなかで伝わっていた「先祖は朝鮮北部にあった漢帝国に属した帯方郡から渡来した」という伝説から「漢」という文字をあてるようになったのではないかと考えられている。

また、漢氏の漢を「あや」と読ませたのが、秦氏の「はた」が機織りを意味することから、綾織りのあやであるなら、東漢氏も「漢からヤマトに来た綾織りの上手な民」をさして、だんだん縮めてそう呼ぶようになったのではないだろうか。枕詞の「飛ぶ鳥の明日香」が縮まって「飛鳥」を「あすか」「日下(ひのもと)の草香(くさか)」が日下(くさか)となり、日下が日本に字が変わったとされるように、日本人は何でも縮めて改良するのが好きな民族ではある。

秦氏は、中央で伊勢神宮や東大寺の大仏などの巨大な建物の建造にも寄与したが、 日本全国にも散らばり、稲荷神社や八幡神社などを作り、 彼らの文化と技術(景教、建築、絹、薬など)を日本に広めた。
京都は秦氏に丹波(京都府中部)は、秦氏にゆかりがある。

これで「綾部」の地名の意味がつかめた。
秦氏・東漢氏は、同時に文字(漢字)と稲作・機織り土木建築などを伝えた、と考えるのが弥生時代の到来として最も可能性があると思うのである。
前出の、「新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある。」を思い出してもらいたい。

秦氏と漢氏は、中国の時代によって出身地名から、一族をそう名乗ったのであり、ルーツは同じと考える。

半島南部伽耶と日本列島の鉄の関連性を追う

いずれにしても、日本列島に青銅器が伝わったのは鉄の産地である伽耶だろう。その輸出商品は、自国で生産する大量の”鉄”だったのである。じつは、伽耶が古代東アジア有数の”鉄”の国であったらしい。
海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ 著者: 関裕二氏は、

記紀神話に現れたスサノオと鉄の関係を追っていくと、日本列島の森林資源が燃料として貴重だったこと、朝鮮半島の人びとがこれを求めて大量に渡来してきたのではないかと思えてきた、と記している。

製鉄には大量の木(炭)が必要だ。当然木材はすぐには育たないから枯渇していく。彼らは優秀な商人でもあった。彼らは鉄の見返りに何を求めたかというと、日本列島の豊富な木だ。輸出のために日本列島に往来するうちに、豊かな森林に惹かれて、だんだん製品化して木材を持ち帰るよりも、日本列島に鉄原料を運び、生産拠点を移して現地生産するようになったのではないか。

日本民族の祖先とされる縄文人も、長い年月の間に北方や南方から他種類の民族が日本列島に集まってきたものだ。国境がない時代だから、人びとは獲物を求めて自由に往来していたのである。彼らは、定住するようになり土地への執着心が強い現代風に考えるほど、出自は問題ではなかっただろう。「三代住んだら江戸っ子といっていい」というが、だいたい三代以上そこに住んでいたら、そこの住民と見る方が自然だ。みんな最初はどこからか移り住んできたのだから。

弥生人誕生のルーツとなる渡来人は、最初から海をまっすぐに、いまだ知らない日本列島を目指していたわけではないだろうし、秦は紀元前206年に滅亡して漢となる。そして後漢も220年に滅亡した。したがって、半島に定着した人びとの中に、さらに島嶼やそれを経由して九州北部に渡って来た。それがいつごろなのかわからないが、一度に渡来したのではなく、たびたび渡来した人びとがいたと考えられる。したがって、秦族であり漢族でもあり、半島人の韓族でもある。それが自然だと拙者は思うのだ。

蘇我氏や物部氏もルーツは秦氏や漢氏だろう。しかし秦・漢氏を名乗った一族の行動は、政治や神道の権力よりも、「名よりも実利」と思える実業分野でエンジニア・ビジネスのエキスパートだった。また文化面でも雅楽・猿楽・歌舞伎など。だから、歴史の表舞台に立たなかったから生きながらえることが出来たのかも知れない。徐福・浦島太郎、鼻が高い猿田彦・天狗、また、垂仁天皇が床に伏せて、常世の国にときじく(ダイダイ?)の実を10年も探しにいって帰ってきた田道間守(たじまもり)も、海洋航海術に長けたそれは、現在もたくましいビジネス魂の「華僑」と呼ばれるイメージとつながる感がある。

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