生野義挙 2/8 国臣 黒船来航から西郷との出会い

平野次郎の生い立ち

平野次郎(1828~64)は、 文政11(1828)年、福岡地行下町(福岡市中央区)で福岡藩足軽・平野吉郎右衛門能栄の二男に生まれる。誕生地は現在今川一丁目となっており、二〇二号線に面し、平野神社が建つている。

父吉郎右衛門は千人もの門人を抱える神道夢想流杖術の遣い手で役務に精勤して士分取り立てられている。二歳の時に、父平野吉郎右衛門を亡くした。十一歳で黒田家足軽平野吉郎右衛門の跡を相続した。名は種言、種徳、のち国臣、号は月迺舎・友月庵等。通称は源蔵・次郎。一般には「平野次郎国臣」と呼ばれることが多い。

十代の頃から国学と和歌に通じていた。11歳の時大塩平八郎の乱が起き、13歳にはアヘン戦争(~1842年) が起きている。次郎は14歳で足軽鉄砲頭小金丸彦六の養子になった。小金丸氏は、大蔵春実の三男の大蔵種季の子の小金丸種量の子孫で、本姓は大蔵氏であり、平野国臣の正式名は大蔵種徳(おおくらのたねのり)。

20代のころ、江戸勤務のさなか、黒船が来襲。幕府のその場しのぎの対応に不信感を抱いた。次いで長崎勤務。駐留外国人の非礼さに憤りは頂点に達した。外国の真の目的は日本の富を持ち出すことにある。今の幕府にはそれに対抗する力はない。幕府を倒し、天皇を中心に日本を統一する。強い危機感を抱いた国臣は独自の倒幕論を形成していった。
しかし、福岡藩は佐幕派。国臣は「国の臣下」を意味する名に変え、31歳で脱藩。京都に出て西郷隆盛らと知り合い、活動を始める。最初に表舞台に登場するのは西郷の自殺未遂にかかわる経緯だ。

発端は幕府大老井伊直弼が尊皇攘夷派を弾圧した安政の大獄だ。西郷は、薩摩藩と反井伊派の公家勢力との橋渡し役を務め、追われる身となった僧月照と京都を脱出。自身は先に薩摩に向かう。月照を警護する命がけの任務を国臣は快諾。山伏姿に変装し知略で追っ手を逃れた。

ところが、保守色に転じた藩は月照の薩摩入りを拒否。暗に殺害を命じる。途方に暮れた西郷は月照と入水自殺を図った。月照は死亡。西郷は国臣らの懸命の介抱で息を吹き返す。逃げ延びる国臣の後ろ姿にこうべを垂れ、見送ったのが大久保利通だ。一連の経緯は司馬遼太郎や海音寺潮五郎の作品にも登場する。

追われながら支援者の商家で番頭になりすまし、身を隠した国臣は薩摩に倒幕の決意を促すため再度入国を試みる。だが、薩摩はようやく公武合体に踏み出したばかりで倒幕とはギャップがあった。鹿児島の近くで待つと大久保から「入国不可能」の伝言が届く。このとき、薩摩藩を桜島になぞらえ、無念の思いを刻んだのが冒頭の「我が胸の」の歌だ。

国臣はそれでもあきらめない。身を潜めながら、今度は薩摩藩の最高権力者である藩主島津忠義の父、久光宛に建白書をまとめ上げると、飛脚を装い、薩摩入りに成功。大久保に会い、懸命に説得した。しかし、一脱藩浪士の働きかけだけでは簡単に動くはずもない。薩摩が公武合体から倒幕に転じ、維新を達成するのは、それから7年後のことになる。

その後、国臣は福岡藩に捕らわれ、投獄される。驚くのはその間の執念だ。政治犯には筆墨は与えられない。そこで、落とし紙でつくった「こより」を飯粒で紙に貼りつける「こより文字」を編み出し、牢内で総文字数3万字に上る和歌や論考を書き綴った。食事につくゴマ塩の黒ゴマで「天地」の文字を描き、壁に掲げて悦に入ったりもした。自らの境遇を決してあきらめない。ある種の痛快ささえ感じる。

1年後、朝廷の命により釈放される。直後に公武合体派の薩摩・会津両藩が尊攘派の長州を京都から追放する8・18の政変が勃発。国臣は但馬の生野で挙兵を企てる(生野の変)。勝算はなかったが、藩同士で争う状況を打開し、国内統一を訴える覚悟の挙兵だった。最後は捕らわれ、未決のまま処刑された。早くから独自の倒幕論を唱え、何ら後ろ盾を持たず、独力で駆けめぐった活動はわずか7年で幕を閉じるのだ。享年37。

幕末維新の英傑といえば、普通は坂本龍馬や西郷隆盛らが浮かぶ。ファンの多い人たちだ。が、それと並んで平野国臣の名を挙げるのは、たとえ有名ではなくとも、最初に行動を起こした人々を大切にしたいという思いが強くあるからだ。

福岡藩士
弘化2年(1845年)、18歳の時、普請方手付に任命され、太宰府天満宮の楼門の修理を手がけ、弘化2年に江戸勤番を命じられ江戸に出た。
福岡へ帰国後、小金丸の娘のお菊と結婚し、一男(六平太)をもうける。福岡では漢学を亀井暘春、国学を富永漸斎に学び、尚古主義(日本本来の古制を尊ぶ思想)に傾倒する。
それでは、次は平野国臣について、いよいよくわしく追跡してみる。

黒船来航と脱藩

6月3日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。
嘉永6年(1853年)、再び江戸勤番になり、江戸で剣術と学問に励んだ。ちなみに同じ年に17歳の坂本龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許され、北辰一刀流の千葉定吉道場(現:東京都千代田区)の門人となる。
この頃に国臣の尚古主義は本格的になっており、安政元年(1854年)に帰国する際に古制の袴を着て、古風な太刀を差して出立した。当時の人々の目からはかなり異様な姿で、見送る人々は苦笑したが、本人は得意満面だったという。
平野と接点はないが龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の、6月23日、龍馬も15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。

離縁と脱藩

24歳の時、普請方手付として宗像神社の中津宮の修理役として宗像郡大島に出張、そこで薩摩藩を脱藩してきた勤王家・北条右門(木村仲之丞が本名)と出会う。北条は島津斉彬に早く島津家を嗣がせようと運動したことが災いとなり、仲間の多くは捕らえられ処刑されたが、運良く逃れ福岡黒田家にかくまわれた。当時の黒田家の当主は斉溥(なりひろ)・長溥(ながひろ)で薩摩藩からの養子、斉彬の大叔父にあたる人であった。

安政2年(1855年)に長崎勤務となり、ここで有職故実家坂田諸遠の門人となり、その影響で国臣の尚古主義はさらに激しいものとなり、福岡に戻ると仲間とともに烏帽子、直垂の異風な姿で出歩くようになった(現代ならば侍の姿で街を歩くようなもの)。これには養家も迷惑し、国臣を咎めるようになった。

国臣は純粋で、かつ行動家だった。彼は国事に奔走する覚悟を決めた。そして養家に迷惑はかけたくないと考え、離縁を決意する。妻の菊と三人の子どもを捨てて養家を飛び出した。安政三(1856)年、29歳の時である。初め養父と妻は、国臣の離縁の申し出に驚愕した。夫婦仲はうまくいっていて、分かれる理由が分からない。二人はかたくなに拒んだ。

国臣は尋常な手段では別れられないことを悟る。そこで、太宰府天満宮への参拝を理由に家を出た。養父も妻も、国臣が数冊の書籍を包んだ風呂敷を手にしているのを見て少しも疑わなかった。

この時に藩務を辞職して脱藩した。結局、平野家へ戻った。無役の厄介となっている。この頃に梅田雲浜と出会い、国事についての知識を得た。

国臣の尚古主義は止まず、安政4年(1857年)には藩主に犬追物の復活を直訴し、無礼として幽閉されている。この時に、月代を伸ばしたままにして総髪にした。月代は古制ではないというのが平野の考えであり、後には浪士を中心に総髪が流行ったが、この時期、一応は武士の国臣が月代を置かないのは異様である。国臣は優れた学才とこのような過激な言動から、人望を集めるようになった。

草莽志士時代

安政5年(1858年)6月、島津斉彬の率兵上洛の情報が北条右門から入り、国臣は菊池武時碑文建立願いの名目で上京。
ところが7月16日、斉彬は急逝し、率兵上洛は立ち消えとなった。国臣は京で北条右門を通じて斉彬の側近だった西郷隆盛と知り合い、善後策を協議、公家への運動を担当することになった。31歳で脱藩し、国臣の志士活動のはじまりである。
その後、国臣は藩主への歎願のために福岡へ戻る。通名・国臣についてはわからないが、同じく先駆者だった真木保臣(まきやすおみ)(久留米藩)から「恋闕(れんけつ)第一等の人」とたたえられた人物で、闕(けつ)とは皇居の門のこと。恋闕とは天皇を深く敬い慕う尊皇の心である。維新の志士の中で、平野は後世に残る最もすぐれた尊皇愛国の名歌を詠んだ歌人でもあったから、尊皇愛国の僕(しもべ)たらんと自ら名のったのだろう。生野で親しくなった但馬草莽の志士・北垣晋太郎ものちに国道と名乗っている。

僧月照と国臣

西郷は安政5年(1858年)7月27日、京都で斉彬の訃報を聞き、殉死しようとしたが、月照らに説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意した。

8月、近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸藩・尾張藩に渡すため江戸に赴いたが、できずに京都へ帰った。以後9月中旬頃まで諸藩の有志および有馬新七・有村俊斎・伊地知正治らと大老井伊直弼を排斥し、それによって幕政の改革をしようとはかった。

しかし、9月9日に梅田雲浜が捕縛され、尊攘派に危機が迫ったので、結局、西郷たちの工作は失敗し、近衛家から幕府から逮捕命令が出された勤王僧月照の保護を依頼された月照を伴って伏見へ脱出し、伏見からは有村俊斎らに月照を託し、大坂を経て鹿児島へ送らせた。

9月16日、再び上京して諸志士らと挙兵をはかったが、捕吏の追及が厳しいため、9月24日に大坂を出航し、下関経由で10月6日に鹿児島へ帰った。捕吏の目を誤魔化すために藩命で西郷三助と改名させられた。11月、筑前で平野国臣に伴われて月照が鹿児島に来たが、幕府の追及を恐れた藩当局は月照らを東目(日向)へ追放すること(これは道中での切り捨てを意味していた)に決定した。

藩情が一変して難航。国臣と月照は山伏に変装して、関所を突破し、11月にようやく鹿児島に入った。
藩庁は西郷に月照を幕吏へ引き渡すべく、東目(日向国)への連行を命じる。暗に斬れという命令であった。西郷は月照、国臣とともに船を出し、前途を悲観して月照とともに入水してしまう。月照は水死するが、西郷は国臣らに助け上げられた。西郷は運良く蘇生したが、回復に一ヶ月近くかかった。藩当局は死んだものとして扱い、幕府の捕吏に西郷と月照の墓を見せたので、捕吏は月照の下僕重助を連れて引き上げた。藩当局は幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにした。、国臣は追放され筑前へ帰った。

『尊攘英断録』

平野一行が薩摩領に入ったのは、万延元(1860)年十月だった。
村田新八らの手引きで薩摩へ入ることに成功するが、国父島津久光は浪人を嫌い、精忠組の大久保一蔵も浪人とは一線を画す方針で、平野は大久保(利通)を信用し、期待して待っていたが、大久保は平野忌避の急先鋒であり、三つ先輩の親友西郷を氏に追いつめるほどの男であることを見抜いてはいなかった。平野一人で久留米城下の旅宿に泊まった時、盗賊改め方の池野に先手をとられる。ここで捉えられては万事休すと、池野の一瞬のすきに灰神楽を浴びせ、脱兎の如く飛び出し、友人宅に走り込む。その後離島に潜入する。ここで執筆したのが、島津久光公への上洛の希望を託した建白書『尊攘英断録』であった。
この一文は平野のかねてからの持論で、尊皇攘夷につき、藩主として断行すべき事を述べたものであった。その要点としては、
・航海術の習得
・罪人による離島開発
・海軍の増強
・清国と同盟を結ぶ(他は省略)
この書の中で国臣は、日本の武士は天皇のために忠誠を尽くすべきだとして、そのための行動決起を促している。
久光の返答を待つ間、国臣が宿で詠んだのが、国臣の歌で最も有名な次の歌である。
「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」
日本と天皇を想う国臣の熱い思いが、この歌からひしひしと伝わってくる。
だが国臣苦心の『尊攘英断録』も、結局老中小松帯刀の手に留め置かれ、久光の目には触れなかった。結局、国臣は退去させられることになった。久光の素志は「公武周旋(公武合体)」にあり、幕府を倒そうなどという過激な了見はさらさらない。久光が上京を決意したのは、薩摩藩の代表として、堂々と京に上り、朝廷と幕府の間を取り持ち、国政のイニシアチブを握りたいというのが第一の理由なのであったからだ。しかし、大久保は金10両を旅費として与えて帰還させた。


平野家親族の田中氏が生野資料館に寄贈された。田中氏は昭和12年頃、三菱合資会社生野鉱山営林技術者として勤務されていた。
[catlist ID = 35] 参考資料
【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
プレジデント
幕末史蹟研究会
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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生野義挙 平野国臣1/8 恋闕(れんけつ)第一等の人


「平野国臣」像 福岡市中央区西公園内

「生野義挙」は生野の変ともいう。

平野次郎国臣は、幕末三大義挙のひとつ、「生野義挙」の中枢人物である。福岡脱藩士 平野国臣は、攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や久留米の勤王志士真木和泉、清河八郎(将軍家茂警護役・浪士隊(のちの新選組)の進言者)ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。幕末の但馬に関わる出来事として桂小五郎の但馬潜伏は有名だが、但馬・生野で起こったこの義挙を最初に起こした人としてもっと知られていいと思う。

彼は、幕末の動乱期に活躍した志士として、「幕末の三大豪傑」として知られる木戸孝允(桂小五郎)、西郷隆盛、大久保利通が有名だが、またあまりにも有名な坂本龍馬らの影に隠れた人物の一人である。有名ではなくとも、明治維新の礎となった行動を最初に起こした人々の一人で、同じく先駆者だった真木保臣(まきやすおみ)(久留米藩)から「恋闕(れんけつ)第一等の人」とたたえられた人物である。

平野国臣 ひらの・くにおみ●1828~64年。福岡藩士として江戸、長崎に赴任する。31歳で脱藩し、志士として活動、僧月照と入水した西郷を助け出した。薩摩藩主への建白書『回天管見策』を著すが、下関で捕縛され、出獄ののち生野にて挙兵。京都に護送され、37歳で斬首された。

闕(けつ)とは皇居の門のこと。恋闕とは天皇を深く敬い慕う尊皇の心である。維新の志士の中で、平野は後世に残る最もすぐれた尊皇愛国の名歌を詠んだ歌人でもあった。

《大内(おおうち)の山の御(み)かま木樵(ぎこ)りてだに仕(つか)へまほしき大君の辺(へ)に》
《大内のさまを思へばこれやこの身のいましめのうきはものかは》
《君が代の安けかりせばかねてより身は花守となりけむものを》
《わが胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山》
《年老いし親のなげきはいかならん身は世のためと思ひかへても》
《わが心岩木(いわき)と人や思ふらむ世のため捨てしあたら妻子(つまこ)を》
《国のため世のためなればいかにせんゆるしたまひね年月のつみ》
《青雲のむかふすきはみ皇(すめらぎ)のみいつかがやく御代(みよ)になしてん》
《大王(おおきみ)にささげあまししわがいのちいまこそ捨つる時は来にけれ》

平野はじめ志士たちの絶唱は、西行や定家らの名歌とは趣が異なるが、彼らの歌以上に私たち日本人の心魂を強く打ってやまない。それは天皇を敬い、国を愛する心こそ日本人の奥底にある最も深い心であるからである。(日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦 産経新聞2010.2.10 07:44 一部加筆した)

神戸製鋼所社長・工学博士 佐藤廣士氏は、「幕末維新の人物学―一歩前に出る勇気、決断(4)」『「自らの境遇を決してあきらめない」』(プレジデント2010年1月 19日)『平野国臣:「最初に種をまいた人々の思いと行動」』(プレジデント2010年 1月 18日(2009年6.15号)で、

我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 煙はうすし 桜島山
幕末維新に関心がある方ならどこかでこの歌に出合っているはずだ。胸にたぎる思いを噴煙たなびく桜島の姿と重ねた堂々たる作風が胸に響く。私がこの歌の作者である一人の勤王志士と出会ったのは、九州大学に通う学生時代だった。
博多湾に突き出た丘陵地にある西公園に今も銅像が立つ福岡藩士、平野国臣。一般にはあまり知られていない。隣の大分出身の私もそうだったが、「我が胸の」の歌の作者と知り、足跡をたどるにつれ、その情熱と行動力に引かれてしまった。

我が心 岩木と人や思ふらむ 世のため捨てしあたら妻子を

国臣が志士として活動するため、離別した妻子を思って詠んだ歌だ。岩や木のように心のない人間と思われても妻子を捨てる。決断をさせたのは外国の脅威だった。その生涯をなぞってみたい。

[catlist ID = 35] 参考資料
【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
プレジデント
幕末史蹟研究会
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山名持豊と九日市守護所

「武家列伝」さんの山名氏によると、
山陰地方に大勢力を築いた時氏らは、南朝方と呼応して文和二年(1353)には京に攻め入り、京を支配下においた。そして、直義の養子である直冬に通じて義詮方と対抗した。以後、直冬党として幕府と対立を続けたが、貞治二年(1363)、安芸・備後で直冬が敗れて勢力を失うと大内氏につづいて幕府に帰順した。帰順の条件は、因幡・伯耆・丹波・丹後・美作五ケ国の守護職を安堵するというもので、「多くの所領を持たんと思はば、只御敵にこそ成べかれけれ」と不満の声が高かったと伝えられる。いずれにしろ、幕府の内訌、南北朝の動乱という難しい時代を、山名時氏はよく泳ぎきったのである。

時氏には嫡男の師義を頭に多くの男子があり、子供らの代になると山名氏の守護領国はさらに拡大されることになった。
山名時義の時代に山名一族は大きく躍進し、 応安三年(1370)、時氏は師義に家督を譲ると翌年に死去、山名氏の惣領となった師義は但馬と丹後の守護職を継承、あとは弟氏清らに分かった。永和二年(1376)、師義が死去したのち、家督は弟の時義が継承した。時義は若年より父時氏に従って兄師義らとともに行動、いちはやく上洛を果たして幕府の要職の地位にあった。師義死去のときは伯耆守護であったが、家督を継いだ時義は但馬守護職にも任じ、さらに、備後・隠岐の守護職も兼帯した。

この時義の時代に山名一族は大きく躍進、次兄義理は紀伊・美作守護職、四兄氏清は丹波・山城・和泉三ケ国の守護職、師義の実子で甥の満幸が丹後・出雲守護職、同じく甥の氏家が因幡守護職に任じられ、一族で守護領国は十二ヶ国*を数えた。それは、室町時代の日本全国六十八州のうち六分の一にあたり、山名氏は「六分一殿」とか「六分一家衆」と呼ばれる大勢力になった。

しかし、「満つれば欠くる」のたとえもある如く、一族が分立したことは内訌の要因になった。さらに、三代将軍足利義満は強大化した山名氏の存在を危惧するようになり、ついにはその勢力削減を考えるようになった。そのような状況下の康応元年(1389)、惣領の時義が四十四歳の壮年で死去した。時義のあとは嫡男の時熙が継いだが、将軍義満は時熙・氏之(幸)兄弟に我意の振るまいがありとして、一族の氏清と満幸に討伐を命じた。義満が山名氏の勢力削減を狙った策謀であることは明白だったが、氏清は「一家の者を退治することは当家滅亡の基であるが、上意故随わざるを得ぬ。しかしいずれ二人が嘆願しても許されることはないか」と確認したうえで出陣した。

追放された時熙・氏之に代わって、但馬守護職には氏清が、伯耆・隠岐守護職には満幸が任じられた。これで山名氏の内訌は一段落したものと思われたが、なおも山名氏の分裂を策する将軍義満は、許しを乞うた時熙・氏之らを赦免、氏清・満幸らを挑発した。義満の不義に怒った氏清は満幸・義理らを誘い、南朝方に通じて大義名分を得ると、明徳二年の暮に京へと進撃した。明徳の乱であり、この乱により氏清は戦死、満幸は敗走、義理は出家という結果になった。

乱後、幕軍として戦った、時熙に但馬国、氏幸に伯耆国、氏冬に因幡国の守護職がそれぞれ安堵された。こうして、さしもの隆盛を誇った山名氏も、将軍義満の巧みな謀略にのせられて大きく勢力を後退させたのである。とはいえ、但馬・伯耆・因幡は山名氏の勢力が浸透していた地域であったことは、山名氏にとっては不幸中の幸いであった。

時義のあとは嫡男の時熙が継いだが、将軍義満が山名氏の勢力削減を狙った策謀によって一族の内訌により追放された時熙・氏之に代わって、但馬守護職には氏清がなったが、伯耆・隠岐守護職には満幸が任じられた。

時熙のあとは二男の持豊が家督を継承して、但馬・安芸・備後・伊賀の守護職を与えられた。
山名氏といえば「六分一殿」と言われた山名氏清が、全国の国の約六分の一に当たる十一か国を所領したことから呼ばれたのですが、ほんの一時期であって、すぐに八か国ぐらいになっている。しかも代ごとにころころ国や数も変わっている。室町時代の守護職とは、いわゆる近世守護大名のような存在ではなく、一円的に国を支配しているわけではない。但馬の一国をもらってそこで領主にあったのではない。そのような支配体制を「守護分国制」あるいは「守護領国制」といいますが、原則的に言えば「守護職」とは、つまり領主ではなく幕府から与えられた「職」です。「職」であるからいつでも首になる。律令時代の国司(国衙)に近いもので武士が国司の替わりに守護職を与えられるようになったのである。つまり守護所とは国府に代わる武士が国単位で設置された軍事指揮官・行政官である国の出先機関です。

守護職(守護大名)

鎌倉時代

平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられている。

その後、守護の職務内容が次第に明確化されていき、1232年(貞永1)に制定された御成敗式目において、守護の職掌は、軍事・警察的な職務である大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)と大番役の指揮監督に限定され、国司の職権である行政への関与や国衙領の支配を禁じられた。
しかし、守護が国内の地頭や在庁官人を被官(家臣)にしようとする動き(被官化)は存在しており、こうした守護による在地武士の被官化は、次の室町時代に一層進展していくこととなる。

室町時代

次に成立した室町幕府も、守護の制度を継承した。当初、守護の多くは在地の有力者が任じられていたが、次第に足利氏一門と交代させられて、その地位を保持していたのは、播磨の赤松氏(赤松則村)などごく僅かだった。これは、鎌倉期の得宗専制を引き継いだものである。

1352年(文和1)には、軍事兵粮の調達を目的に、国内の荘園・国衙領の年貢の半分を徴収することのできる半済の権利が守護に与えられた。当初は、戦乱の激しい3国(近江・美濃・尾張)に限定して半済が認められていたが、守護たちは半済の実施を幕府へ競って要望し、半済は恒久化されるようになる。1368年(応安1)の半済令(寺社本所領事)は、年貢だけでなく土地自体の半分割を認める内容であり、守護による荘園・国衙領への侵出が著しくなっていった。さらに、守護は荘園領主らと年貢納付の請け負い契約を結び、実質的に荘園への支配を強める守護請(しゅごうけ)も行うようになった。また、税の一種である段銭や棟別銭の徴収なども行うなど、経済的権能をますます強めていったのである。

守護はこのように強化された権限を背景に、それまで国司が管轄していた国衙の組織を吸収すると同時に、強まった経済力を背景に、国内の地頭、在地領主(当時、国人と呼ばれた)、さらに有力名主らを被官(家臣)にしていった。この動きを被官化というが、こうして守護は、土地の面でも人的面でも、国内に領域的かつ均一な影響力を次第に及ぼしていく。こうした室町期の守護のあり方は、軍事・警察的権能のみを有した鎌倉期守護のそれと大きく異なることから、室町期守護を指して守護大名と称して区別する。また、守護大名による国内の支配体制を守護領国制という。ただし、守護大名による領国支配は必ずしも徹底したものではなく、畿内を中心に、国人層が守護の被官となることを拒否した例は、実は多く見られる。

室町中期までに、幕府における守護大名の権能が肥大化し、幕府はいわば守護大名の連合政権の様相を呈するようになる。当時の有力な守護には、足利将軍家の一族である斯波氏・畠山氏・細川氏をはじめ、外様勢力である山名氏・大内氏・赤松氏など数ヶ国を支配する者がいた。これら有力守護は、幕府に出仕するため継続して在京することが多く、領国を離れる場合や、多くの分国を抱える場合などに、国人を守護の代官としたり、直属家臣の中から守護代を置いた。さらにその守護代も小守護代を置いて、二重三重の支配構造を形成していった。

守護の恩典には、将軍の諱から一字をもらう一字拝領などがあった。また、守護の格式として白傘袋・毛氈鞍覆を許され、守護代には唐傘袋・毛氈鞍覆、塗輿が免許された。また、守護・守護代ともに塗輿の使用が免許され、有力な武士としての権威性を認められていた。管領・探題に達する者や有力守護にのみ許された特典としては、屋形号と朱の采配の免許があり、屋形号を持つ者の家臣は烏帽子と直垂を着用することが許された。特に鎌倉公方足利家では関東の有力武士のうち、8家に屋形号を授け関東八館などといわれた。

戦国時代

応仁の乱の前後から、守護同士の紛争が目立って増加しており、それに歩調を合わせるように、在地領主である国人の独立志向(国人一揆など)が見られるようになる。これらの動きは、一方では守護の権威の低下を招いたが、他方では守護による国人への支配強化へとつながっていった。そして、1493年(明応2)の明応の政変前後を契機として、低下した権威の復活に失敗した守護は、守護代や国人などにその地位を奪われることになり、逆に国人支配の強化に成功した守護は、領国支配を一層強めていった。

こうして、室町期の守護のうち領国支配の強化に成功した守護や、守護に取って代わった守護代、国人は、戦国大名へと変質・成長していった。しかし、室町時代、世襲という家柄や既得権として権威があった守護職は戦国時代でも、戦国大名の称号としてそれなりに意味を持っており、実力者の称号となることでそれなりの意味を持った。多くの戦国大名が幕府から守護に補任されていることはその証左である。このことから、戦国期守護という概念を提示する論者もいる。

九日市守護所


「但馬山名氏在所の移転を巡って」豊岡市 山口久喜氏

『但馬史研究 第31号』「但馬山名氏在所の移転を巡って」豊岡市 山口久喜氏によると、こう記されている。
桜井勉氏が『校補但馬考』で「山名氏の居所、初は豊岡に住し、漸次式微に至り、此隅に蟄し、更に出石に移りしかと思はる。応仁武鑑に、持豊(宗全)の居城は出石郡出石なりと云ふに至りては無稽の最も甚だしきものと謂へきなり。」と断言している。

「武家列伝」によると、時義は師義に家督を譲ると翌年に死去、山名氏の惣領となった師義は但馬と丹後の守護職を継承したとあるので、、師義以前の時氏のころには但馬守護職も担っていたと思われる。時氏の京に住んでいたと思われるので但馬は守護代が九日市(豊岡市)を根拠地とし、時義から時熙、持豊(宗全)の三代のいつごろからかが不明だが、その後、当地を但馬守護所としたと思われる。

山口久喜氏によると、九日市守護所の防衛体制について考察を加えたい。
九日市には在所の中核を示唆する「御屋敷」の他、「丁崎(庁先)」などの小字名や地名を残すが、さらに「大堀」「堀通(堀道?)」の地名がある。円山川西岸の自然堤防の一区画を堀とともに囲む形である。この中に「御屋敷」や、当時の山名氏菩提寺と伝える妙経寺(現存)と九日市上ノ町、中ノ町、下ノ町がある(現存)。
この囲みの西側は「荒原」と呼ばれる低湿地で、西部丘陵間に展開する後背湿地である。円山川から引く水は堀を満たして、溢れた水は荒原に満ちて囲みの中を水城化したものであろう。円山川と堀群は、西部丘陵上の城砦群と結んで九日市守護所の惣構えを構成した。
丘陵上の城砦群は、北から正法寺城(山王山)、城崎城(神武山)、大門砦、妙楽寺城、(戸牧山)、びくに城、戸牧城、佐野城と記してある。

従来の九日市在所否定論は、「強固な詰め城」がないからとしてきたが、以上の「惣構」が南北朝・室町時代の防御体制の一面を示唆し得ないだろうか。

山名氏が本拠地を出石に変えたワケ

出石郡西部(旧出石町)はもともと山名氏の直轄領であった。したがって但馬一宮出石神社の所在地としても、直轄領中の重要地点であった。その守りとしてすでに出石神社を見下せて円山川と出石川の平野部を見渡せる位置の此隅山に城か砦が築かれていても不思議はないし充分想定できるが、最近の研究では要塞としての此隅山城の構築時期は比較的新しく、永禄12(1569)年の織田氏の命による豊臣秀吉軍の但馬征伐に至る情勢の中で織田氏対策として着手されたと説いている。

永正二(1505)年六月、山名氏と垣屋氏が乱入して出石神社が焼失した事件は、近傍の此隅山山下の山名致豊勢を垣屋氏が襲ったとみられるが、この時点で山名氏が在所を此隅山に移したと断定できるかどうか(山口久喜氏の文を加筆した)。
したがって、他に出石へ移った根本の理由があったからではないか。

「武家列伝」によると、
嘉吉の乱以降、播磨赤松氏との対立をくり返し、文明十一年、赤松政則は播磨に下向すると播磨・備前・美作三国の支配に乗り出した。政則は山名氏の分国因幡の有力国衆毛利次郎を援助して、山名氏の後方攪乱をはかった。毛利次郎は因幡一国を席巻し、山名氏にとって看過できない勢力となった。

山名氏の後方攪乱をはかる政則は、山名氏の分国である因幡・伯耆の有力国衆を抱き込んで山名氏への反乱を起させた。因幡では私部城に拠る毛利次郎が赤松氏に通じ、他の国衆も次郎に加わって反乱は内乱の状況を呈した。因幡の状況を重くみた政豊は但馬に帰国すると、ただちに因幡に出撃し、守護山名豊氏とともに次郎を因幡から追放した。ところが翌年、伯耆国で南条下総入道らが政則に通じて伯耆守護山名政之から離反、一族の山名元之とその子小太郎を擁して兵を挙げた。政豊は政之を応援して出兵、反乱は文明十三年におよんだが、元之らを追放して内乱を鎮圧した。

赤松政則の策謀による因幡・伯耆の反乱に手を焼いた政豊は、政則の介入を斥け、播磨の奪還を目指して出兵の準備を進めた。一方、政豊の嫡男で備後守護の俊豊は、父に呼応して備前から播磨への進攻を狙った。俊豊は備前の有力国衆松田氏元成を味方に引き入れると、文明十五年、赤松氏の守護所福岡城を攻撃した。松田一族は一敗地にまみれたものの、俊豊は太田垣氏らの兵を率いて備前に進撃した。かくして、但馬の政豊は俊豊の動きに合わせて、播磨へ向けて出陣すると、国境の生野に布陣した。
ときに京にいた赤松政則は、ただちに播磨に下向したが、生野方面と福岡城方面との両面作戦を迫られた。重臣の浦上則宗は備前福岡の救援を説いたが、政則は生野方面を重視し、主力を率いて生野へと出陣した。両軍は真弓峠で激突、結果は山名方の大勝利で、敗走する赤松軍を追って播磨に雪崩れ込んだ。政則の敗報に接した福岡城救援軍も播磨に引き返したため、福岡城の守備兵は四散した。戦後、赤松政則は播磨を出奔、浦上氏ら重臣は政則を見限って赤松一族の有馬氏から家督を迎えた。ここに、山名氏は播磨・備前を支配下に置き、垣屋氏、太田垣氏らを代官に任じて播磨の支配に乗り出した。

政則が出奔したあとの赤松軍は浦上則宗が中心となり、備前方面で山名軍と泥沼の戦いを展開した。山名氏が備前方面に注力している隙を狙って、文明十七年(1485)、細川氏の支援を得た政則は播磨に帰国すると旧臣を糾合、垣屋一族が守る蔭木城を急襲した。不意を討たれた垣屋勢は 越前守豊遠 左衛門尉宗続父子、平右衛門尉孝知ら主立った一族が討死する大敗北を喫し、辛うじて城を脱出した田公肥後守が書写坂本城の政豊に急を報じた。蔭木城の陥落は、赤松政則の動きにまったく気付いていなかった政豊の油断であった。

蔭木合戦で細川氏の支援を得た政則は播磨に帰国すると旧臣を糾合、垣屋一族が守る蔭木城を急襲した。不意を討たれた垣屋勢は 越前守豊遠 左衛門尉宗続父子、平右衛門尉孝知ら主立った一族が討死する大敗北を喫し、辛うじて城を脱出した田公肥後守が書写坂本城の政豊に急を報じた。

従来から宗全は出石此隅山を本拠地として応仁の乱へと出陣していったと思われていたが、但馬山名氏在所の出石移転(此隅山)の背景には応仁の乱以降に、衰退していった山名氏と筆頭家老・守護代・垣屋氏との相克がある。

蔭木合戦ののち、赤松政則と浦上則宗との間に妥協が成立、一枚岩となった赤松軍は勢力を増大、それまでの守勢から攻勢に転じるようになった。そして、文明十八年正月、山名勢は英賀の合戦に敗北、垣屋遠続らが戦死した。さらに同年四月、坂本の戦いにも敗北した山名政豊は、書写坂本城を保持するばかりに追い詰められた。長享二年(1488)、坂本城下で激戦が行われ、敗れた山名方は結束を失っていった。

窮地に陥った政豊は但馬への帰還を願ったが、垣屋氏をはじめ但馬の国衆らはあくまで播磨での戦い継続を求めた。さらに嫡男の俊豊も撤収に反対したため、追い詰められた政豊は、ついに坂本城を脱出して但馬に奔った。かくして山名勢は総退却となり、赤松勢の追尾によって散々な敗走となった。

但馬に逃げ帰った政豊に対して、但馬国衆まもとより俊豊を擁する備後国衆らは背を向けた。なかでも一連の敗北で、多くの犠牲を払った山名氏の有力被官で播磨守護代の垣屋氏と政豊の間には深刻な対立が生じた。備後守護代であった大田垣氏や備後衆は俊豊を擁する動きをみせ、俊豊が政豊に代わって家督としおて振舞ったようだ。ところが、明応の政変によって将軍足利義材が失脚、義材に従って河内に出陣していた俊豊は窮地に陥った。ただちに但馬に帰った俊豊であったが、与党であったはずの垣屋・太田垣氏らが政豊方に転じたため、但馬は俊豊の意のままにはならない所となった。

明応二年(1493)、俊豊は政豊の拠る九日市城を攻撃、どうにか俊豊の攻撃をしのいだ政豊は、逆に俊豊方の塩冶・村上氏を打ち取る勝利をえた。以後、政豊と俊豊父子の間で抗争が繰り返された。情勢は次第に政豊方の優勢へと動き、ついに山内氏の進言をいれた俊豊は備後に落去していった。明応四年、政豊は九日市城から此隅山城に移り、翌年には俊豊を廃すると次男致豊に家督を譲り、備後守護も譲ったことで山名氏の内訌は一応の終熄をみせた。

しかし、この政豊と俊豊父子の内訌は、確実に山名氏の勢力失墜を招く結果となった。乱において政豊・俊豊らは、垣屋氏・大田垣氏ら被官衆への反銭知行権の恩給を濫発、みずから守護権力を無実化し、結果として垣屋氏・大田垣氏らの台頭が促したのである。とくに垣屋続成は俊豊と対立、政豊・致豊の重臣として領国の経営を担うようになった。
(以上)

足利将軍家後継争いにより垣屋氏が勝利した結果、義稙派の垣屋氏と義澄派の山名氏とのバランスが微妙に関わり合ったとみられている。さらに後世代になって此隅山城から有子山(子有山)へと後退していったようだ。

大生部兵主神社(奥野・市場)

郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造と池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。

天日槍ゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。

その中で大が冠せられているのは式内更杵村大兵主神社(養父郡糸井村寺内字更杵=現朝来市寺内)だけだが、更杵神社以外にも村が分離して近世にいたり、更杵集落が衰退し当社は取り残されて荒廃していた。幕末の頃、当社の再建と移宮をめぐって寺内と林垣の対立があったが、結局、現在地に遷座された。室尾(字更杵)には式内桐原神社がある。古社地は不明だが、かつての更杵集落は、現在の和田山町室尾あたりであったという。

また同じ更杵村(寺内)には、佐伎都比古阿流知命神社という式内社がある。この神社は、中世には山王権現を祭神とし、山王社と呼ばれていたが、主祭神は、社号の通り、佐伎都比古阿流知命。『日本書記』垂仁天皇八十八年紀に以下の一文がある。「新羅の国の王子、名を天日槍という」と答えた。その後、但馬国に留まり、但馬国の前津耳の娘・麻挓能烏を娶り但馬諸助を産んだ。この前津耳が、佐伎都比古命であり佐伎都比古阿流知命は、その妻であるという。一説には、佐伎都比古命は前津耳の祖であり、佐伎都比古阿流知命は、佐伎都比古命の御子であるという。いずれにしろ、延喜当時の祭神は、佐伎都比古命と阿流知命の二柱だったのだろう。

豊岡市神美地区(旧出石郡神美村)と朝来市寺内(旧養父郡糸井村寺内字更杵)はとくに天日槍ならびに兵主神社があり、また渡来人にゆかりがある地名・神社・遺跡が多い。

  
右側の低い丘が森尾古墳地

2000(平成12)年、神美地区に近い豊岡市出石町袴狭(はかざ)遺跡から出土した木製品の保存処理作業中に、船団線刻画のある木製品(板材)が見つかった。

中嶋神社の穴見川をはさんで東に隣接する森尾地区の北端に位置する小山で但馬で最も早く大正時代に発見された森尾古墳は謎の多い古墳で、そこから中国の年号である「正始元年」で始まる文字が刻まれている「三角緑神獣鏡」と、また、同時に見つかった鏡の一つが1世紀に中国でつくられた近畿で最古級の「方格規矩四神鏡」であることがわかって大きな話題になった。

出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造 新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。

三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡神美村三宅(豊岡市三宅)のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。
三宅地区のすぐ北に隣接する出石郡穴見郷には、奥野の大生部兵主神社は有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの有庫神社を祀るようになった。

また三宅地区に鎮座する穴見郷戸主大生部兵主神社(出石郡穴見市場村=現豊岡市三宅)がある。
いずれも中古からいくたびか分離のたびに遷座もしくは並立されており、それだけ由緒がある証しだ。

奈良県田原本町には鏡作りに関係する神社として、『延喜式』では鏡作伊多神社(祭神の石凝姥命は鏡製作に関する守護神)、鏡作麻気神社(祭神の天糠戸命は鏡作氏の祖神)がある。鏡作りは、弥生時代後期後半から唐古・鍵遺跡にいた銅鐸鋳造の技術者集団が、五世紀初めに新羅から伝えられた鋳造・鍛造技術を吸収していったとされ、その技術集団は倭鍛冶(やまとかぬち)と称し、この集団が鏡作氏につながる(『田原本町史』)。

また工芸品の製作技術だけでなく、大規模な土木工事に生かす技術も渡来人によってもたらされ、その技術によって造営されたと考えられる池についての伝承もある。

穴見川、奥野には土師口という字がついたバス停もあり、他の兵主神社とは異なり大生部兵主神社とわざわざ大生部と冠しているのは何か意味がありそうだ。大生部(おおうべ)とは品部(王権に特定の職業で仕える集団)のひとつではないかと想定できる。生部は生産、製造する品部とすれば穴見は鉄資源に関係する穴師、土師は須恵器(陶器)の陶部、謎の多い森尾古墳の造営と銅鏡などは、須恵器焼き上げに必要な高温生成の技術は、鉄鉱石や砂鉄の溶解を可能にするから製鉄技術集団でもあるとみなすことができると、歴史学者の上田正昭氏はいう。一連の三宅氏による、大生部は陶器、鉄器、土木などの広範囲な偉大さを誇るのかも知れない。

土師器

土師器(はじき)とは、弥生式土器の流れを汲み、古墳時代~奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけ(土師器本来の製法を汲む手づくね式の土器で、主として祭祀用として用いられた)に取って代わられるまで生産された素焼きの土器である。須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、土師器のほうが品質的に下であった。埴輪も一種の土師器である。古墳時代に入ってからは、弥生土器に代わって土師器が用いられるようになった。

多く生産されたのは甕等の貯蔵用具だが、9世紀中頃までは坏や皿などの供膳具もそれなりに生産されていた。炊飯のための道具としては、甑がある。

小さな焼成坑を地面に掘って焼成するので、密閉性はなく酸素の供給がされる酸化焔焼成によって焼き上げる。そのため、焼成温度は須恵器に劣る600~750度で焼成されることになり、橙色ないし赤褐色を呈し、須恵器にくらべ軟質である。

須恵器

高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられた。『日本書紀』には、百済などからの渡来人が製作したの記述がある一方、垂仁天皇(垂仁3年)の時代に新羅王子天日矛とその従者として須恵器の工人がやってきたとも記されている。そのため新羅系須恵器(若しくは陶質土器)が伝播していた可能性が否定しきれないが、現在のところ、この記述と関係が深いと思われる滋賀県竜王町の鏡谷窯跡群や天日矛が住んだといわれる旧但馬地方でも初期の須恵器は確認されていない。結局、この技術は百済から伽耶を経て日本列島に伝えられたと考えられている。

天日槍という渡来技術集団が出石神社を中核として天日槍系の神社と集中する兵主神社、出石郡全域と城崎郡、気多郡、養父郡に基盤を固めていた事が、崇神、垂仁天皇のころには大和(奈良県)へ拠点を移す三宅氏や糸井氏の一族といい、ヤマト王権と深く結びついていた所作であるように思える。

兵主神社
兵主とは、「つわものぬし」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。大己貴命(おほなむち)も大国主の別名で、他には素盞嗚尊・速須佐之男命(スサノオ)を祭神としている。
兵庫(ひょうご)とは、古代の武器庫である兵庫(つわものぐら)に由来する言葉。
このことから転じて、歴史的には武器を管理する役職名として使用されていた。兵庫県も神戸市内の地名で大輪田泊(兵庫港)から。
兵主神ゆかりの神社は延喜式に19社ある。
大和 城上(桜井市) 穴師坐兵主神社 「兵主神、若御魂神、大兵主神」
大和 城上 穴師大兵主神社※
穴師坐兵主神社は、穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社)の3社で、室町時代に合祀された。現鎮座地は穴師大兵主神社のあった場所である。
和泉 和泉 兵主神社
参河 賀茂 兵主神社
近江 野洲 兵主神社 「国作大己貴神」
近江 伊香 兵主神社
丹波 氷上 兵主神社 「大己貴神、少彦名神、蛭子神、天香山神」
因幡 巨濃 佐弥之兵主神社
因幡 巨濃 許野之兵主神社 「大国主命、素戔嗚命」
播磨 餝磨 射楯兵主神社二座
播磨 多可 兵主神社 「大己貴命」
壱岐 壱岐 兵主神社
延喜式に19社のうち但馬の式内兵主神社
但馬國朝來郡 朝来市山東町柿坪 兵主神社 大己貴命 旧村社 一説には、持統天皇4年(690)
但馬國養父郡 朝来市和田山町寺内 更杵村大兵主神社 祭神不詳・十二柱神社
但馬國養父郡 豊岡市日高町浅倉 兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國氣多郡 豊岡市日高町久斗 久刀寸兵主神社 素盞嗚尊、大己貴命 旧村社
但馬國出石郡 豊岡市奥野 大生部兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國城崎郡 豊岡市山本字鶴ヶ城 兵主神社 速須佐男神 旧村社 天平18年(746)
但馬國城崎郡 豊岡市赤石 兵主神社二座 速須佐之男命 旧村社 年代は不詳
また、薬王寺に近い但東町虫生(ムシュウ)にも式内社・阿牟加(アムカ)神社の論社安牟加神社があるが、全国で3か所「正始元年」三角縁神獣鏡がみつかっている森尾古墳の森尾にも阿牟加(アムカ)神社があるがここも奥野に近く、この二か所が似ている。
大生部兵主(おおうべひょうず)神社
但馬の式内兵主神社巡りもいよいよ最後になった。
分かりにくい場所にあって数回通っているが、対岸にあるため気づかなかった。
県道703号線(永留豊岡線)と160号線が合流する地点から穴見川を越えて南へ渡った場所に境内がある。
豊岡市奥野1
旧村社
御祭神 大己貴命
いつもお世話になっている「玄松子」さんのページによると、
創祀年代は不詳。
一説に、弘仁元年(810)、当地に兵庫を建て在庫の里と呼ばれて兵主の神を祀り、兵主神社と称したという。
後に、有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの有庫神社を祀るようになった。
延暦二年(1674)本殿を改築、
寛政三年(1791)火災により焼失したため再建された。
式内社・大生部兵主神社の論社の一つ。
祭神は大己貴命だが、異説として素盞嗚尊を祀るという。
また、常陸国鹿島からの勧請とする説もある。
社殿の左右に境内社の祠が二つ。
それぞれに三社が合祀されているようだ。
社殿左の祠には、愛宕神社、秋葉神社、金刀比羅神社。
社殿右には、稲荷神社、皇大神宮、有庫神社。
ただし、大生部兵主神社として有力な論社は二つある。
豊岡市(旧出石郡)但東町薬王寺にある同名社と、この奥野にある同名社。
しかし、薬王寺の大生部兵主神社は延喜式式内社にはないから、奥野の方が古いのではないか。
薬王寺の読み方は「おおいくべひょうすじんじゃ」だが、それは時代によって変化したものだろう。
祭神として素盞嗚命を祀り、用明天皇の皇子麻呂子親王勅を奉 じて牛頭天王も祀っている。
薬王寺は但東町から丹後へ抜ける国境の峠の一つで、東側には京街道だった。

  
鳥居                   木造りの鳥居と参道

  
社殿                   拝殿

境内の西側に舞殿があり、舞殿に向かい合う形で社殿がある。
拝殿は瓦葺・入母屋造、後方の本殿は瓦葺・流造。

有庫神社

兵庫県豊岡市市場85
祭神は、武甕槌神・奧津彦神・奧津姫神・軻遇槌神・菅原道眞。
有庫神社としての祭神は、武甕槌神。
つまり鹿島からの勧請ということになる。
菅原道真公は、天神社を、
その他の神々は、荒神社を合祀したもの。
社格は、旧村社。

  
鳥居                   神門

  
社殿

穴見郷 戸主 式内 大生部兵主神社(あなみごう へぬしおおうべひょうず)
兵庫県豊岡市三宅字大森47

 
鳥居とと神門

  
本殿覆屋

式内社
田道間守を祀る式内社中嶋神社に近いところにあるが、古くて小さな社。上記の大生部兵主神社や有子神社は村の氏子の方によって手入れが行き届いているが、この社はあまり参拝者が多くないように見える。
大生部兵主神社として有力な論社は薬王寺にある同名社と、奥野にある同名社。

郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造と池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。

糸井造と三宅連

天日槍ゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。その中で大が冠せられているのは式内更杵村大兵主神社(養父郡糸井村寺内字更杵=現朝来市寺内)だけだが、更杵神社以外にも村が分離して近世にいたり、更杵集落が衰退し当社は取り残されて荒廃していた。幕末の頃、当社の再建と移宮をめぐって寺内と林垣の対立があったが、結局、現在地に遷座された。室尾(字更杵)には式内桐原神社がある。古社地は不明だが、かつての更杵集落は、現在の和田山町室尾あたりであったという。

出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造 新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。『川西町史』は、この姓(カバネ)を与えられた氏族は五世紀末におかれた新しい型の品部(王権に特定の職業で仕える集団)を掌握する伴造であり、より古い型の品部を掌握する連姓氏族より概して地位は低かった。以上から三宅氏の「三宅」が前述の倭のミヤケを指し、そのミヤケの管理を担当した有力な氏族であるとすれば、糸井氏と三宅氏の関係は、三宅氏が天日槍の直系の子孫に当たる氏族で、その三宅氏から分かれた一分族が糸井氏であると推測できる。

三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡(豊岡市)三宅のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。

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豊岡市神美地区の兵主神社

郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造いといのみやつこと池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。

天日槍あめのひぼこゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。

『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)と書くことから、天日槍(天日矛)を武神とみなし、兵主と同一視する研究者や歴史家がおられる。

別記にくわしく書いているので割愛するが、天日槍は初代但馬国造となった人物で、権力は掌握できたのかも知れないが、天日槍≠兵主です。

 
右側の低い丘が森尾古墳地

2000(平成12)年、神美地区に近い豊岡市出石町袴狭はかざ遺跡から出土した木製品の保存処理作業中に、船団線刻画のある木製品(板材)が見つかった。

森尾古墳群は、中嶋神社のそばを流れる穴見川をはさんで、東に隣接する森尾地区の北端に位置する小山で但馬で最も早く大正時代に発見された森尾古墳は謎の多い古墳で、そこから中国の年号である「正始元年」で始まる文字が刻まれている「三角緑神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう」と、また、同時に見つかった鏡の一つが1世紀に中国でつくられた近畿で最古級の「方格規矩四神鏡ほうかくきくししんきょう」であることがわかって大きな話題になった。

出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造 新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。

三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡神美村三宅(豊岡市三宅)のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。
三宅地区のすぐ北に隣接する出石郡穴見郷には、奥野の大生部兵主神社は有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの有庫神社を祀るようになった。

また三宅地区に鎮座する穴見郷戸主大生部兵主神社(出石郡穴見市場村=現豊岡市三宅)がある。
いずれも中古からいくたびか分離のたびに遷座もしくは並立されており、それだけ由緒がある証しだ。

奈良県田原本町には鏡作りに関係する神社として、『延喜式』では鏡作伊多神社(祭神の石凝姥命は鏡製作に関する守護神)、鏡作麻気神社(祭神の天糠戸命は鏡作氏の祖神)がある。鏡作りは、弥生時代後期後半から唐古・鍵遺跡にいた銅鐸鋳造の技術者集団が、五世紀初めに新羅から伝えられた鋳造・鍛造技術を吸収していったとされ、その技術集団は倭鍛冶(やまとかぬち)と称し、この集団が鏡作氏につながる(『田原本町史』)。

また工芸品の製作技術だけでなく、大規模な土木工事に生かす技術も渡来人によってもたらされ、その技術によって造営されたと考えられる池についての伝承もある。

穴見川、奥野には土師口という字がついたバス停もあり、他の兵主神社とは異なり大生部兵主神社とわざわざ大生部と冠しているのは何か意味がありそうだ。大生部(おおうべ)とは品部(王権に特定の職業で仕える集団)のひとつではないかと想定できる。生部は生産、製造する品部とすれば穴見は鉄資源に関係する穴師、土師は須恵器(陶器)の陶部、謎の多い森尾古墳の造営と銅鏡などは、須恵器焼き上げに必要な高温生成の技術は、鉄鉱石や砂鉄の溶解を可能にするから製鉄技術集団でもあるとみなすことができると、歴史学者の上田正昭氏はいう。一連の三宅氏による、大生部は陶器、鉄器、土木などの広範囲な偉大さを誇るのかも知れない。

土師器

土師器(はじき)とは、弥生式土器の流れを汲み、古墳時代~奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけ(土師器本来の製法を汲む手づくね式の土器で、主として祭祀用として用いられた)に取って代わられるまで生産された素焼きの土器である。須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、土師器のほうが品質的に下であった。埴輪も一種の土師器である。古墳時代に入ってからは、弥生土器に代わって土師器が用いられるようになった。

多く生産されたのは甕等の貯蔵用具だが、9世紀中頃までは坏や皿などの供膳具もそれなりに生産されていた。炊飯のための道具としては、甑がある。

小さな焼成坑を地面に掘って焼成するので、密閉性はなく酸素の供給がされる酸化焔焼成によって焼き上げる。そのため、焼成温度は須恵器に劣る600~750度で焼成されることになり、橙色ないし赤褐色を呈し、須恵器にくらべ軟質である。

須恵器

高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられた。『日本書紀』には、百済などからの渡来人が製作したの記述がある一方、垂仁天皇(垂仁3年)の時代に新羅王子天日矛とその従者として須恵器の工人がやってきたとも記されている。そのため新羅系須恵器(若しくは陶質土器)が伝播していた可能性が否定しきれないが、現在のところ、この記述と関係が深いと思われる滋賀県竜王町の鏡谷窯跡群や天日矛が住んだといわれる旧但馬地方でも初期の須恵器は確認されていない。結局、この技術は百済から伽耶を経て日本列島に伝えられたと考えられている。

天日槍という渡来技術集団が出石神社を中核として天日槍系の神社と集中する兵主神社、出石郡全域と城崎郡、気多郡、養父郡に基盤を固めていた事が、崇神、垂仁天皇のころには大和(奈良県)へ拠点を移す三宅氏や糸井氏の一族といい、ヤマト王権と深く結びついていた所作であるように思える。

兵主神社

兵主とは、「つわものぬし」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。大己貴命(おほなむち)も大国主の別名で、他には素盞嗚尊・速須佐之男命(スサノオ)を祭神としている。
兵庫(ひょうご)とは、古代の武器庫である兵庫(つわものぐら)に由来する言葉。
このことから転じて、歴史的には武器を管理する役職名として使用されていた。兵庫県の兵庫も神戸市内の地名で大輪田泊(兵庫港)から。

兵主神ゆかりの神社は延喜式に19社ある。
大和 城上(桜井市) 穴師坐兵主神社 「兵主神、若御魂神、大兵主神」
大和 城上 穴師大兵主神社※
穴師坐兵主神社は、穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社)の3社で、室町時代に合祀された。現鎮座地は穴師大兵主神社のあった場所である。
和泉 和泉 兵主神社
参河 賀茂 兵主神社
近江 野洲 兵主神社 「国作大己貴神」
近江 伊香 兵主神社
丹波 氷上 兵主神社 「大己貴神、少彦名神、蛭子神、天香山神」
因幡 巨濃 佐弥之兵主神社
因幡 巨濃 許野之兵主神社 「大国主命、素戔嗚命」
播磨 餝磨 射楯兵主神社二座
播磨 多可 兵主神社 「大己貴命」
壱岐 壱岐 兵主神社
延喜式に19社のうち但馬の式内兵主神社
但馬國朝來郡 朝来市山東町柿坪 兵主神社 大己貴命 旧村社 一説には、持統天皇4年(690)
但馬國養父郡 朝来市和田山町寺内 更杵村大兵主神社 祭神不詳・十二柱神社
但馬國養父郡 豊岡市日高町浅倉 兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國氣多郡 豊岡市日高町久斗 久刀寸兵主神社 素盞嗚尊、大己貴命 旧村社
但馬國出石郡 豊岡市奥野 大生部兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國城崎郡 豊岡市山本字鶴ヶ城 兵主神社 速須佐男神 旧村社 天平18年(746)
但馬國城崎郡 豊岡市赤石 兵主神社二座 速須佐之男命 旧村社 年代は不詳
また、薬王寺に近い但東町虫生(ムシュウ)にも式内社・阿牟加(アムカ)神社の論社安牟加神社があるが、全国で3か所「正始元年」三角縁神獣鏡がみつかっている森尾古墳の森尾にも阿牟加(アムカ)神社があるがここも奥野に近く、この二か所が似ている。

大生部兵主(おおうべひょうず)神社

但馬の式内兵主神社巡りもいよいよ最後になった。
分かりにくい場所にあって数回通っているが、対岸にあるため気づかなかった。
県道703号線(永留豊岡線)と160号線が合流する地点から穴見川を越えて南へ渡った場所に境内がある。
豊岡市奥野1
旧村社
御祭神 大己貴命
いつもお世話になっている「玄松子」さんのページによると、
創祀年代は不詳。
一説に、弘仁元年(810)、当地に兵庫を建て在庫の里と呼ばれて兵主の神を祀り、兵主神社と称したという。
後に、有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの有庫神社を祀るようになった。
延暦二年(1674)本殿を改築、
寛政三年(1791)火災により焼失したため再建された。
式内社・大生部兵主神社の論社の一つ。
祭神は大己貴命だが、異説として素盞嗚尊を祀るという。
また、常陸国鹿島からの勧請とする説もある。
社殿の左右に境内社の祠が二つ。
それぞれに三社が合祀されているようだ。
社殿左の祠には、愛宕神社、秋葉神社、金刀比羅神社。
社殿右には、稲荷神社、皇大神宮、有庫神社。
ただし、大生部兵主神社として有力な論社は二つある。
豊岡市(旧出石郡)但東町薬王寺にある同名社と、この奥野にある同名社。
しかし、薬王寺の大生部兵主神社は延喜式式内社にはないから、奥野の方が古いのではないか。
薬王寺の読み方は「おおいくべひょうすじんじゃ」だが、それは時代によって変化したものだろう。
祭神として素盞嗚命を祀り、用明天皇の皇子麻呂子親王勅を奉 じて牛頭天王も祀っている。
薬王寺は但東町から丹後へ抜ける国境の峠の一つで、東側には京街道だった

鳥居


木造りの鳥居と参道


社殿

境内の西側に舞殿があり、舞殿に向かい合う形で社殿がある。
拝殿は瓦葺・入母屋造、後方の本殿は瓦葺・流造。


拝殿

有庫神社

兵庫県豊岡市市場85
祭神は、武甕槌神・奧津彦神・奧津姫神・軻遇槌神・菅原道眞。
有庫神社としての祭神は、武甕槌神。
つまり鹿島からの勧請ということになる。
菅原道真公は、天神社を、
その他の神々は、荒神社を合祀したもの。
社格は、旧村社。


鳥居


神門


社殿

穴見郷 戸主 式内 大生部兵主神社

あなみごう へぬしおおうべひょうず?
兵庫県豊岡市三宅字大森47

式内社
田道間守を祀る式内社中嶋神社に近いところにあるが、古くて小さな社。上記の大生部兵主神社や有子神社は村の氏子の方によって手入れが行き届いているが、この社はあまり参拝者が多くないように見える。
大生部兵主神社として有力な論社は薬王寺にある同名社と、奥野にある同名社。

  
鳥居とと神門

  
社殿

郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造と池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。

糸井造と三宅連

天日槍ゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。その中で大が冠せられているのは式内更杵村大兵主神社(養父郡糸井村寺内字更杵=現朝来市寺内)だけだが、更杵神社以外にも村が分離して近世にいたり、更杵集落が衰退し当社は取り残されて荒廃していた。幕末の頃、当社の再建と移宮をめぐって寺内と林垣の対立があったが、結局、現在地に遷座された。室尾(字更杵)には式内桐原神社がある。古社地は不明だが、かつての更杵集落は、現在の和田山町室尾あたりであったという。

出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造 新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。『川西町史』は、この姓(カバネ)を与えられた氏族は五世紀末におかれた新しい型の品部(王権に特定の職業で仕える集団)を掌握する伴造であり、より古い型の品部を掌握する連姓氏族より概して地位は低かった。以上から三宅氏の「三宅」が前述の倭のミヤケを指し、そのミヤケの管理を担当した有力な氏族であるとすれば、糸井氏と三宅氏の関係は、三宅氏が天日槍の直系の子孫に当たる氏族で、その三宅氏から分かれた一分族が糸井氏であると推測できる。

三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡(豊岡市)三宅のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。

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古代但馬の地名

歴史の手がかりになるものに「神社」と「地名」があると考えるようになった。しかしそれは、どうやら当然で間違っていないことが最近意を強めたのだ。歴史家の谷川健一氏は早くからそれに興味を持った人のひとりであったからだ。谷川氏は私に久田谷銅鐸と物部氏についての歴史の興味を導いた大恩人だった。

わたしは、兵庫県城崎郡日高町に生まれた。日高町はかつて城崎郡に併合される前は気多郡という意味の分からないところである。粉々に破壊された久田谷銅鐸が昭和50年ころ発見された。子供の頃から祢布周辺から土器片がごろごろしていて、それなりに興味はあったが、東中学校建設工事現場から水上遺跡の石棺や集落跡などがみつかり、周辺の但馬国府、国分寺など、谷川氏からなんだろうなと思い、どうやら自分の住んでいるところはただものではないと歴史に興味を抱かせたのだ。

但馬の歴史学において、先駆的役割を果たされたのは、桜井勉先生『校補但馬考』であるが、時代は昭和に移り但馬の歴史を研究された功労者として石田松蔵・田中忠雄両氏が知られている。瀬戸谷氏は、両氏の分析により、奈良時代以降に残った人名・地名関係資料から、律令社会以前の但馬の優勢者たちの状況に一定の見通しが得られている。彼らは、出石・多遅麻・気太・竹野・朝来・海部・但馬国造・二方国造などの氏や一族である。また、養父・神部(三輪)などの有力氏族の存在も想定されている。

朝来から養父にかけての地域で、まず朝来地域に有力な勢力を得たのが大和の三輪と結んだと考えられる神部氏であろう。この氏と朝来の関係は不明。さらに、やや遅れて養父の地に力を得るのが多遅麻氏であろう。この氏と但馬国造、養父氏の関係も現状では不明である。ただし、朝来・養父両郡が但馬の支配層の地であったことは考古学の研究成果から明らかである。出石氏も、「記紀」のアメノヒボコ伝承からすれば並々ならぬ渡来集団を想定できそうだが、考古学や文献史学の成果はわずかに「秦」関係の木簡や墨書土器の発見が挙げられる程度である。

そうした発想から律令期の但馬国府を考えると、その地を南但馬の朝来や養父でも出石の地ではなく気多の地に置いたのは、旧勢力の排除という点が優先された結果と考えられなくもない。
これはちょっと、地名に至る書きかけです。後日更新予定です。ではでは。


目次

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中嶋神社と三宅

中嶋神社と三宅

中嶋神社は豊岡市三宅に鎮座する。豊岡市三宅は、古くは出石郡安美郷で、屯倉が置かれたことに由来する。

宿南保先生「但馬史研究」第31号 平成20年3月 の考察を抜粋してみた。

天日槍命(あめのひぼこのみこと)の五世の子孫で、日本神話で垂仁天皇の命により常世の国から「非時(ときじく)の香の木の実」(橘)を持ち返ったと記される田道間守命(たじまもりのみこと)を主祭神とし、天湯河棚神(あめのゆがわたなのかみ)を配祀する。そこから菓子の神・菓祖として崇敬される。また、現鎮座地に居を構えて当地を開墾し、人々に養蚕を奨励したと伝えられることから養蚕の神ともされる。

天湯河棚神は中古に合祀された安美神社の祭神である。天湯河棚神(天湯河板挙命)は鳥取造の祖である。一説には、日本書紀に記される、垂仁天皇の命により天湯河板挙命が鵠を捕えた和那美之水門の近くに天湯河棚神を祀ったものであるという。

中嶋神社は、天日槍(日矛)を祀る但馬一宮・出石神社とともに立派な社で、この地が古くから屯倉(三宅)としてヤマト政権の直轄地にあることが重要であろう。また、但馬の出石・城崎(豊岡)・気多(日高町)には天日槍ゆかりの神社が多い。

現在の社殿は、応永年間の火災の後、正長元年(1428年)に再建されたもので、室町中期の特色をよく示しているものとして重要文化財に指定されている。
国司文書 但馬故事記によれば、第33代推古天皇15年(607年)、田道間守の七世の子孫である三宅吉士*1が、祖神として田道間守(たじまもり)を祀ったのに始まる。「中嶋」という社名は、田道間守の墓が垂仁天皇の御陵の池の中に島のように浮んでいるからという。中古、安美郷内の4社(有庫神社・阿牟加神社・安美神社・香住神社)を合祀し「五社大明神」とも称されたが、後に安美神社(天湯河棚神)以外は分離した。

中島神社と田道間守(たじまもり)については別ページに詳しく触れているのでミヤケについてにしぼる。

拙者註
*1 『但馬故事記』文
人皇36代推古天皇15年秋10月、屯倉を出石郡に置き、米粟を蔵し、貧民救恤きゅうじゅつの用に供う。多遅麻毛理の七世孫・中島公その屯倉を司る。故に家を三宅と云い、氏と為せり。(「世継記」には10世)
34年秋10月、天下大いに餓ゆ、故に屯倉を開き、救恤す。
中島に三宅吉士の姓を賜う。中島公はその祖・多遅麻毛理命を屯倉丘に祀り、中島神社と云う。

(救恤 貧乏人・被災者などを救い、恵むこと。)

豊岡市三宅と奈良三宅周辺

垂仁天皇と但馬

さて垂仁天皇は、実在する初代天皇とされる崇神天皇の第3皇子で、『記・紀』には崇神天皇と垂仁天皇の代に、他の天皇では記述がないのに、丹波(いまの丹後が中心)と但馬の記述が圧倒している。しかし、それらの事績は総じて起源譚の性格が強いと、その史実性を疑問視する説もある。

しかし、他には残された史料がないから、それに従い記述すると、崇神天皇の第3皇子。生母は御間城姫命(みまきひめのみこと)。皇后は丹波からで最初の皇后は垂仁天皇5年に焼死したとされる狭穂姫命(彦坐王の女)で、口が利けなかった誉津別命をもうけている。そして全国で唯一のコウノトリにゆかりの久久比(クグヒ)神社が低い山の北の豊岡市三江にある。狭穂姫命の後の皇后には同じく丹波から日葉酢媛命(彦坐王の子・丹波道主王の女)、妃は丹波からは日葉酢媛の妹の渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。)、真砥野媛(まとのひめ)、薊瓊入媛(あざみにいりひめ)と3人が続きそのあと他にも3名あるが本題に関係ないのでここでは割愛する。

奈良県垂仁天皇御陵

垂仁天皇は、『延喜式』諸陵寮に拠れば、菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)に葬られた。『古事記』に「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、『日本書紀』に「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」、『続日本紀』には「櫛見山陵」として見える。現在、同陵は奈良県奈良市尼辻西町の宝来山古墳(前方後円墳、全長227m)に比定される。

現在の宝来山古墳の濠の中、南東に田道間守の墓とされる小島がある。この位置は、かっての濠の堤上に相当し、濠を貯水のため拡張して、島状になったと推測される。しかし、戸田忠至等による文久の修陵図では、この墓らしきものは描かれていない。

唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)
唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)は奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地、奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。

現在知られている遺跡面積は約30万平方メートル。規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。平成11年(1999年)に国の史跡に指定され、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている。
全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。

弥生時代中期後半から末にかけての洪水後に環濠再掘削が行われ、環濠帯の広さも最大規模となる。洪水で埋没したにもかかわらず、この期に再建された。ここに唐古・鍵遺跡の特質がみられる。

集落南部で青銅器の製作。古墳時代前期に衰退している。遺跡中央部に前方後円墳が造られ、墓域となる。

但馬と奈良との天日槍の因果関係の謎を解明する

ここでの本題は出石と大和に共通する三宅という地名である。奈良県三宅町と田原本町には天日槍と但馬に関わりのありそうな事跡が多いことである。
郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造と池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。
平成16年5月に『和田山町史』を執筆した筆者は、『川西町史』と『田原本町史』の古代編に惹かれていて、読みふけった。両町には、半島からの渡来人の足跡が色濃く残っていることを知った。その中には天日槍伝承をもつ氏族集団もいる。その後、同氏族に関して、

1,彼らの渡来は古墳時代のことであるのに、出石には日槍の伝承を持つ氏族の古墳と伝えられるもおのはない。ヤマトに存在するのだろうか。

2,日槍伝承を持つ氏族がヤマトへ移住するに至った理由は何であっただろうか。その間に斡旋者が介在していたのだろうか。
上記の疑問がフツフツとわいてきて、その解明に取りかかりたいと思うようになった。この思いを導き出したのは『川西町史』に盛られた諸項である。(中略)

1.大和盆地における古墳の分布状況

(大和の)主要古墳群は盆地の周辺部に集中的に分布している。ヤマト朝廷を構成した大和の古代氏族は早くにこの地を占拠して開拓し、やがてはヤマト国家の基を築く。そして巨大古墳群を築造する。

これに対し、地図の中央部、川西、三宅、田原本の三町が所在する中央部は古墳の分布がほとんどないところから、古墳の空白地帯といった感すらする。前時代までは低湿地であったため大規模な古墳を造る在地勢力の存在は考えにくいとみられていた。そこへいきなり「島の山古墳」「河合大塚山古墳」といった巨大古墳が出現しているものであるから、『川西町史』は驚きの口調をもって解説している。

「島の山古墳」は川西町の西方域に所在し、満々と水を貯えた周濠の中に大きな島が横たわっている状態にあるところから「島の山古墳」と呼ばれてきたのであった。東西から西北に延びる標高48mの微高地の北端に営まれていて、墳丘の全長190m、後円部の径98m、同高17.42mの前方後円墳である。築造時期は古墳時代前期末、年代でいうと四世紀末ごろに相当するという。200m近い規模をもつ規模で、(大和地方で)宮内庁の陵墓及び陵墓参考地や国の史跡にも指定されていないものは、この島の山古墳が唯一のものといわれており、逆にそのことからもこの古墳が大王もしくはそれに準ずる程度の人の古墳と推定されている。

しかし大王もしくはそれに準ずる程度の人びとの墳墓が集まっているとされる大和・河内の他の墳墓と大きく異なるところがある。それはかなり低地にあること、島の山古墳の一帯では同古墳につづく同規模のものが造営されていないこと、他の古墳では、その地域にすでに在地勢力が存在していたことを窺わせる小規模な古墳が存在するものであるが、またそれに続く大型古墳もなく、系譜的に断絶していることを表しているという。

では「島の山古墳」は、どのようなねらいをもってこの場所に築造したのだろうか。『川西町史』はそのことを詳しく論述している。

2.「倭のミヤケ」と川西・三宅・田原本三町域

「島の山古墳」の被葬者像については、これまでに出されている見解の多くが、「倭のミヤケ」よの関係に言及しているところから、『川西町史』でも「倭のミヤケ」との関係に解析の重点が置かれている。

ミヤケとは、「ヤマト王権が多様な目的を果たすために地方官である国造(くにのみやつこ)等の領内に置いた政治的(軍事も含む)・経済的拠点である。ミヤケが設置された歴史的意義については、ヤマト王権が初めて地方に打ち込んだくさびであり、ここを拠点に国造・伴造(とものみやつこ)などの地方官制を運用し、王権が必要とする物資の調達・集積や、よう役労働・兵役への徴発を行ったとされる(熊谷公男『大王から天皇へ』講談社)」との定義と歴史的意義を紹介したうえ、ミヤケが設置された時期は、ヤマト王権が誕生した四世紀末から、ヤマト王権の機構が整う六世紀中ごろまでの間であると述べている。

つづいて、多くの場合、それぞれのミヤケで地域や管理形態の特徴から類型化されている前期・後期の二つのタイプを挙げたのち、倭のミヤケの性格・位置・範囲等を述べている。

1)前期(開墾地系)ミヤケ

四世紀末から六世紀までに設置されたミヤケで、特徴としては大王によって開発された直轄的性格をもつことから、開墾地系といわれ、その管理は現地の国造もしくは地方豪族に委ねられている形態である。

2)後期(貢進地系)ミヤケ

その特徴は、国造等の地方豪族がヤマト王権にいったん反抗し、その後制圧されるに及んで改めて恭順の意を表すために、それまで自分が支配していた領地の一部を献上し王権のものとする。このタイプのミヤケは貢進地系といわれ、その管理については王権から直接管理者が派遣されて行われることになり、このことが律令的地方支配
の前提をなしたとされる。

川西・三宅・田原本の三町域が関係するミヤケとしては、「倭(ヤマト)のミヤケ」が考えられている。このことについて『川西町史』は次のように述べている。

「仁徳天皇即位前記には、“倭の屯田”の来歴について知っている人物として、“倭の直(やまとのあたい)”とは倭国造のことであるから、この一族がミヤケの来歴について尋ねられるということは、倭国造一族が倭のミヤケの管理を担当していたためであろう。このことから“倭のミヤケ”は前期ミヤケの一つに位置づけられる。」
(中略)
糸井造(みやつこ)や三宅連(むらじ)の出自や役割については後に述べるが、天日槍の伝承をもつ集団の中から、抜きん出て名の現れているこの両名は、造・連といった姓(カバネ)から、伴造に補せられた可能性が考えられるところから、彼らがミヤケ古墳群のいずれかの古墳に葬られていることの確証が得られたなら、天日槍伝承をもつ氏族の古墳は出石地域には確認されていないけれども、大和盆地のミヤケ古墳群が彼らの葬地ということができることになる。

ミヤケの開発に当たって、ヤマト王権は意図的にそこに渡来人の集団を設置していたことが隋所に見られる。渡来人は大陸や朝鮮半島からそれまでにない技量や知識などを携えて来ているので、その新しい技量を生かした生産活動の拠点をミヤケ周辺に構えさせて、ヤマト政権はその勢力を利用して組織や経済基盤を強固なものとする狙いがあったと考えられる。川西町域およびその周辺には渡来人に関係する神社や土木工事などの史跡がかなり濃密に分布しており、それらをつぶさに考察してみると、ミヤケの歴史的役割や意義、この地域の特色が浮かび上がってくるように思うので、改めて取り上げることにしよう。

3.三町域にみられる渡来人の足跡

さらに『川西町史』から引用させていただこう。

渡来人は朝鮮半島の情勢変化に伴い、ある程度まとまった集団を形成して来航する場合が多いと見て、その集中渡来の時期として、『川西町史』は次の三つピークを挙げている。

第一波は四世紀末から五世紀初めに、高句麗が「広開土王」の名をもつ好太王に率いられて南方に領土を拡大したことにより、主に朝鮮半島南部の人びとが五世紀前半にかけて渡来したもので、『日本書紀』では応神天皇のころにそれに関する記事が見られる。その時渡来したとされる人びとには、後に有力な豪族となる東(倭)漢(やまとのあや)氏の祖・阿知使(あちのおみ)主や西文(かわちふみ)氏の祖・王仁(ワニ)、秦氏の祖・弓月(ゆづき)君がいる。この時伝えられたとされるものや渡来談話を見ると、本来この時代にはないものがあるので、次に紹介する第二波の渡来に関係した氏族が、自分たちの始原を古いものであると示すために作った説話がかなり混じっている可能性がある。しかし第二波の渡来人を「今来(いまき・新しくやって来たの意)の漢人」と呼び、東漢氏や西文氏、秦氏が支配下においていることから、やはり五世紀後半以前に日本列島に渡来し、ヤマト王権のもとに組織されていたグループがあったものとされている。その人たちの出身地は、東漢氏や西文氏の場合は朝鮮半島南部の伽耶(加羅)(『日本書紀』では任那)、秦氏は新羅と考えられている。

渡来の第二波は、五世紀後期に高句麗が百済の漢城(現ソウル)とう都を陥落させたことにより圧迫を受けた多くの人びとの渡来が顕著な時期で、『記・紀』にいう雄略天皇の治世に当たる。この時期の渡来人は須恵器や鞍(くら)といった生活や武具関係の工業技術を持った人びとが多く、ヤマト王権は東漢氏や西文氏等の渡来氏族の支配下に置き、部民制をとり陶部(すえつくりべ)や鞍作部(くらつくりべ)という職業部を組織し、労働と製品を確保する体制をとった。

渡来の最後の波は、七世紀中ごろになり、唐が勢力を拡大し、それと組んだ新羅が強大化することで、高句麗・百済が相次いで滅亡し、白村江(はくすきえ)の戦いで敗れ、王族も含む各種の階層の人びとがわが国に政治亡命してきた時期である。
渡来人が太子道沿いの地域に設置され、その技術を活用して開発や生産が行われたことを示す列証を『川西町史』が挙げている。

田原本町には鏡作りに関係する神社として、『延喜式』では鏡作伊多神社(祭神の石凝姥命は鏡製作に関する守護神)、鏡作麻気神社(祭神の天糠戸命は鏡作氏の祖神)がある。鏡作りは、弥生時代後期後半から唐古・鍵遺跡にいた銅鐸鋳造の技術者集団が、五世紀初めに新羅から伝えられた鋳造・鍛造技術を吸収していったとされ、その技術集団は倭鍛冶(やまとかぬち)と称し、この集団が鏡作氏んいつながる(『田原本町史』)。

また工芸品の製作技術だけでなく、大規模な土木工事に生かす技術も渡来人によってもたらされ、その技術によって造営されたと考えられる池についての伝承もある。『日本書紀』応神天皇七年九月の条に、「高麗人・任那人・新羅人、並びに来朝り。時に武内宿禰に命じて、諸々の韓人等を領ゐて池を作らしむ。因りて、池を名づけて韓人池(からひといけ)と号ふ」とある。

川西町域にも渡来人の活動を推定させる史跡が二つある。糸井神社と比売久波(ひめくわ)神社である。現在は結崎市場垣内の寺川の右岸に鎮座する。『奈良県史』は、「古来、当社の祭神や創祀について諸説があって判然としない面もある」としている。糸井神社の社務所が出している「由来について」には、「ご祭神については豊鋤入姫命、また一説には綾羽呉羽の機織りの神とも伝えている」と微妙な表現をしている。豊鋤入姫命とは、崇神天皇の時代にそれまで宮殿に祀られていた天照大神を、倭の笠縫邑に移して祀らせた祭にその祭祀を託されたとされる姫命である。

糸井造と三宅連

出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造

新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。『川西町史』は、この姓(カバネ)を与えられた氏族は五世紀末におかれた新しい型の品部(王権に特定の職業で仕える集団)を掌握する伴造であり、より古い型の品部を掌握する連姓氏族より概して地位は低かった。以上から三宅氏の「三宅」が前述の倭のミヤケを指し、そのミヤケの管理を担当した有力な氏族であるとすれば、糸井氏と三宅氏の関係は、三宅氏が天日槍の直系の子孫に当たる氏族で、その三宅氏から分かれた一分族が糸井氏であると推測できる。

三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡(豊岡市)三宅のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。

豊岡市三宅は、旧名穴見村で、土師口という字がついたバス停があり、天日槍ゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。その中で大が冠せられているのは式内更杵村大兵主神社(養父郡糸井村寺内字更杵=現朝来市寺内)だけだが、更杵神社以外にも村が分離して近世にいたり、更杵集落が衰退し当社は取り残されて荒廃していた。幕末の頃、当社の再建と移宮をめぐって寺内と林垣の対立があったが、結局、現在地に遷座された。室尾(字更杵)には式内桐原神社がある。古社地は不明だが、かつての更杵集落は、現在の和田山町室尾あたりであったという。

また同じ更杵村(寺内)には、佐伎都比古阿流知命神社という式内社がある。この神社は、中世には山王権現を祭神とし、山王社と呼ばれていたが、主祭神は、社号の通り、佐伎都比古阿流知命。『日本書記』垂仁天皇八十八年紀に以下の一文がある。「新羅の国の王子、名を天日槍という」と答えた。その後、但馬国に留まり、但馬国の前津耳の娘・麻挓能烏を娶り但馬諸助を産んだ。この前津耳が、佐伎都比古命であり佐伎都比古阿流知命は、その妻であるという。一説には、佐伎都比古命は前津耳の祖であり、佐伎都比古阿流知命は、佐伎都比古命の御子であるという。いずれにしろ、延喜当時の祭神は、佐伎都比古命と阿流知命の二柱だったのだろう。

『古事記』には、「昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、アメノヒボコと出会った。ヒボコは、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。

ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾神社に逃げた。ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見と結婚した」としている。であるから、佐伎都比古命は天日槍で阿流知命は阿加流比売神(アカルヒメ)だと思う。

この神社の祭神がヤマトへ渡って糸井造になった人と関係があるように解するのは、『校補但馬考』の著者の桜井勉である。「日槍の子孫、糸井姓とせしもの漸次繁殖し、その大和に移りしものは、大和城下郡に糸井神社を建立し、但馬に留まりしものは、本郡(養父郡)にありて本社(佐伎都比古阿流知命神社)を建立し、外家の祖先を祭りしものならんか」としている。実のところ、よく分からないというのが本音といってよかろう。

ただし、日槍伝承をもつ集団の子孫が大和と但馬に分かれ、大和へ渡った者達がヤマトに糸井神社を建立、但馬に残った者達が寺内に佐伎都比古阿流知命神社を建立したとは考えられるところである。豊岡の三宅に落ち着いた者達についても同様の経過があったとみれば、豊岡市の人たちは納得が得られよう。(中略)

更杵村大兵主神社は中世にはほとんど廃絶に近い状態となっていたのだろう。このため明治期の式内社指定からははずれ、隣の林垣区の十六柱神社が式内社に指定医されている。いまでは寺内区の七、八戸が氏子となって更杵神社と称する小社を建立し、寺内区内に祀っている。

以上のように、更杵村という小さな村の村域とその隣接地に三社もの式内社が存在していたというのは、更杵村が古代にはきわめて重要な役割を果たしていたことを物語る証であろうか。円山川を隔てた対岸に但馬最大で近畿地方でも5本の指に入る規模の前方後円墳である池田古墳が存在している。但馬の首長が埋葬されたのではないかといわれているが、そのお膝元ともいっていい場所に更杵村は存在する。この地理的条件が、更杵村に多くの式内社を存在させる理由になったと考える。

この場合、畿内中枢部から派遣されてきたヤマト王権の首長が、天日槍伝承集団の分派をヤマトへ移住させる仲介役を果たしたとの仮説を立ててアプローチしてみてはどうだろう。

中島神社が鎮座する豊岡市三宅はかつては出石郡神美村ですぐ北に隣接する出石郡穴見郷には、穴見郷戸主大生部兵主神社(出石郡穴見市場村=現豊岡市市場)がある。奥野にはもう一つの大生部兵主神社があり、一説に、弘仁元年(810)、当地に兵庫を建て在庫の里と呼ばれて兵主の神を祀り、兵主神社と称したという。後に、有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの穴見郷戸主大生部兵主神社と有庫神社を祀るようになったようだ。

どちらも中古からいくたびか分離のたびに遷座もしくは並立されており、それだけ由緒がある証しだ。

また、出石郡但東町薬王寺にも大生部兵主神社があり奥野とともに論社であるとしている。出石町鍛冶屋には伊福部神社、気多郡伊福(いふ・現豊岡市日高町鶴岡)という鍛冶に関わる神社・地名が残り、入佐山古墳の石棺からは被葬者とともに納められたであろう砂鉄が見つかっていて、鉄に関わる渡来系の由来が残るのである。

天日槍伝承をもつ集団のヤマト移住先は大和盆地の中央部、川西町など三町域のあたりだろうということは前に述べた。ヤマト王権の支配という面から見たこの辺りの政治・経済的な立地条件について『川西町史』は、次のように述べている。「この地が五世紀のヤマト王権の直接的な支配が及ぶ最先端部にあたり、それまでほとんど手つかずのまま残されている広大な平地であったため、灌漑・水利の面等で新しい技術やそれを身につけた人たちを投入すれば、未開の低湿地は肥沃な耕地に生まれ変わり、王権にとって重要な経済的拠点になる、ということである」。

天日槍の伝承をもつ集団はこの地に打ってつけの人たちであったことが理解できよう。この地に投入された人を語る一つになるか知れないのが、大和盆地に散在する国名集落である。三宅町には上但馬・但馬といった地名が現存する。同町には他の国名集落として石見・三河が存在する。

(中略)

以上のような展開は、五世紀初頭のころを意識して想定を試みた。以上のような空想的経過が、もし部分的にも認められるところがあったなら、天日槍の(円山川開削という架空の)開発伝承は、但馬では神話という架空に近い単なる物語であるけれども、大和盆地においては彼らの活動が実施に移された史実であったということができよう。

実はこの投稿を見たのが昨日であった。しかし、それまで勝手に素人で数年間進めてきた但馬史というほどのものではないが、歴史探索は遠からず近いものであったと思う。田原本町に但馬や石見・三河などという国名地名があることは少年時代から地図好きだったので不思議に思って知っていた。

おそらく『記・紀』編集当時、このようなヤマトに根付いた地方集団の伝承を多く取り入れたのではないかと考えれば、神功皇后や崇神・垂仁天皇などの時代の主たる節目に当たり、丹波(但馬・丹後を含む)が頻繁に登場することがむしろ納得がいくのである。

(一部補正しています)

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日本三大義挙 生野義挙

[wc_button type=”primary” url=”http://webplantmedia.com” title=”Visit Site” target=”self” position=”float”]生野義挙(生野の変)[/wc_button]

江戸時代後期の文久3年(1863年)10月、但馬国生野(兵庫県生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件が起きた。「生野の乱」、「生野義挙」とも言う。
この静かな農村地帯であった但馬で、幕末にそのような大事件があったことは、くわしくは知らなかったので、調べてみることにした。


生野代官所跡

《概 要》

生野義挙(生野の変)は、平野国臣、長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、公卿沢宣嘉を主将に迎える生野での挙兵を計画した。あっけなく失敗したが、この挙兵は天誅組の挙兵とともに明治維新の導火線となったと評価されている。幕末の文久3年(1863年)8月17日に吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団(天誅組)が公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件である大和義挙(天誅組の変)、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作が長州藩俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター回天義挙(功山寺挙兵)とともに日本三大義挙といわれる。

【新設丹後史】 開化天皇と古代丹波

『古代史の真相』 著者: 黒岩重吾

『古事記』、また後に『日本書紀』となる『日本紀』を天武が作らせた目的は、天皇の現人神(あらひとがみ)化と、万世一系による天皇家の絶対化です。そこで天武が最も嫌ったのは、氏族が違う大王家(天皇家)が並列することであり、大王家を凌駕しかねない勢力の存在だった。こういう天武の思想の下、四世紀の一時期、大王家と婚姻を重ね崇神王朝と並立していた葛城氏の首長たちの名は容赦なく改竄され、彼らに代わって創作された大王たちが登場したのです。とりわけ、応神・仁徳天皇が出現する直前の葛城氏について「記紀」が目して語らないのは、はなはだ興味深いものがあります。

葛城氏とは何者か

『古事記』によれば、葛城氏は蘇我氏と同族で、武内宿禰の末裔とされている。
その葛城氏がいつ頃勃興したかということですが、まず大和の東南部に日本最古の前方後円墳といわれる箸墓古墳および石塚古墳を含む纏向(まきむく)古墳群というのがあります。ここは崇神王朝の勢力下です。箸墓古墳については卑弥呼の墓とする人もいますが、築造年代を三世紀半ばに推定するのはやはり無理でしょう。三世紀の終わりが妥当だと思います。

その時代、残念ながら葛城にはそれに匹敵する大きな前方後円墳はありません。ところが、葛城の室の大墓の近くに名柄遺跡があり、そこから弥生時代の終わり、三世紀末の銅鐸や多紐細文鏡が出ています。この多紐細文鏡は非常に珍しい鏡で、これと同じ鋳型でとった鏡が大阪府柏原市、山口県下関市、佐賀県唐津市、それに新羅の領有していた慶州からも出土しています。

これは極めて重要なことで、葛城氏を渡来人と見るかは別として、弥生末期に葛城に居住していた人びとは、瀬戸内海ルートを通じて、朝鮮半島と交易を結んでいたことがうかがえるわけです。

葛城氏の人物中、もっとも有名なのは葛城襲津彦(そつひこ)ですが、この襲津彦とは関係なしに、葛城垂見宿禰というのが『古事記』に出てくるのです。垂見宿禰の娘のわし比売が開化天皇の妃です。その間に生まれた建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけ)が、忍海部造(おしぬみべのみやつこ)の祖であるとされています。忍海というのは、今の奈良県北葛城郡新庄町です。もとより伝承上の話で、実在したかどうかはわからないのですが、門脇禎二さんの話によれば、垂見宿禰の垂見は兵庫県の垂水であるという。

河内から葛城に入るには、竹内峠を利用するのと、水越峠を通るのと、もう一つ吉野川をさかのぼって紀路をたどる。この三つがありますが、おそらく三世紀の終わりころから、葛城氏は水越峠を越えて河内に出て、垂水を押さえて但馬と交渉した。これが門脇説ですが、私もその通りだと思います。但馬というのは、東に丹後王国がある。これは崇神王朝系が、絶えず妃を求めていた場所です(拙者は但馬に出るには険しい遠阪峠があり、本州で最も低い分水嶺の氷上から福知山を経て加悦街道への方が近いと思う)。

そうすると葛城氏は瀬戸内海航路を利用して朝鮮半島と交渉する一方、河内、垂水に進出して丹後とも交渉していたことになる。だからそのあたりで大王家と競合するわけです。

この大王家と競合する時期は、四世紀の終わりころと考えられます。北葛城郡の馬見丘陵に葛城氏の墓があるとされているのですが、同丘陵の佐味田宝塚古墳、その南に位置する新山古墳などは、いずれも四世紀後半に築造されたものでしょう。新山古墳からは三四面の銅鏡、勾玉、管玉などが出ています。注目すべきは、直弧文といって円と直線とで描かれる日本独特の文様の鏡が出ていることです。

新山古墳よりやや古い佐味田宝塚古墳からは、30面以上の銅鏡が出土しているけれど、その中で特筆すべきは、平地式、高床式など四種類の家屋が描かれていることで有名な家屋文鏡です。高床式の家は、多分、その首長の家だろうけど、そこに蓋(きぬがさ)のようなものが描かれている。のちの大王家がもつ蓋とほぼ同じものです。だから、四世紀後半の佐味田宝塚古墳の被葬者は、北部葛城の首長であったと考えていい。

つぎに、南部葛城についてですが、どうも葛城襲津彦の出自は南部葛城のようです。葛上郡です。北部は葛下郡になります。佐味田、新山の両古墳とも100mクラスの古墳だけど、南部にはまだこれに対抗し得るだけの古墳は造られていません。

ただ強調しておきたいのは、もうそのころすでに崇神系の三輪山麓に、200mから300m級の巨大古墳が築かれていたということです。四世紀前半において、葛城氏は三輪王家に対立拮抗する力はなかったのです。

葛城氏が台頭してくるのは、四世紀後半から五世紀にかけてですが、突然、巨大な力になる。その原因は、朝鮮半島との交易でしょう。その頃の交易国はだいたい朝鮮半島南部から新羅(356~935年)が主で、次が百済です。この葛城氏の急成長ぶりを見ていると、三輪王家、俗にいう崇神王朝の勢力が葛城氏をなぜ潰してしまわなかったのか、なぜ拱手傍観していたのか不思議です。三輪王家は木津川を通って山科、それから但馬の方に勢力を伸ばしていった。婚姻関係から見るとそうなっています。彼らの目は北方へ、北方へと向いている。葛城氏は河内に出て、有馬の方に行った。だから三輪王家は葛城氏の存在をとりあえず利害的にも衝突しないし、それほど気には留めていなかったのだと思います。

『新版邪馬台国の全貌』 著者: 橋本彰

いわゆる「魏志倭人伝」に記された邪馬台国と諸国の所在地については諸説あり、ここでは触れませんが、日本海ルート説でいくと「投馬国」とは「出雲国」でありとされます。

次はこの「出雲国」を出発し、さらに十日間も進航すると、そこは舞鶴湾の辺りに到着することになると思われます。次にそこから南に向かって陸行する事30日にして目的地の邪馬台国に到着するのですが、当時の陸行といっても、舟で河を進んでいくのが主流ですから、舞鶴地方から陸行するとなると丹後一の大河・由良川という水量が豊富な河が内陸の奥深いところまで入り込んでいますから、舟で遡ることは十分にできます。

その河を40kmほどさかのぼったところに大江町があります。この大江町には「丹波美知能宇斯王(たにはのみちのうしのきみ)」が自分の祖母の「天御影命」を祀った「弥加宣(みかみ)神社」を造営されています。さらに「天照大神の御神体が一時滞在された事を証明する「元伊勢の皇大神社」も祀られていて、この地域が古代の歴史上における非常に重要な地域であったことがうかがえます。

この大江町からさらにさかのぼっていくと福知山市があり、さらには綾部市から和気町辺りまでは舟で進むことができます。この和気町から南にひと山越えれば、丹波町、さらにもうひと山越えれば園部町で、桂川が流れて、亀岡から有名な「保津川下り」で下っていくと、嵐山までは一気に下れます。

拙者註:といっても保津川は急流であり角倉了以によって開削されたのはずっとあとですが…。丹後半島の東に浦島太郎の伝説地のほとつの伊根町があります。その南に丹後一宮・籠神社と天橋立の宮津湾があり、野田川をさかのぼると日本海でも最大規模である丹後三大前方後円墳のひとつ蛭子山古墳や、おびたたしい数の古墳が集まった加悦(カヤ)から大江町を通り福知山に至り、さらに加古川を下れば前記の葛城垂見宿禰であろう垂水(神戸市)に至ります。海運に長けた人びとが、例えば鉄製品など運ぶのに舟を利用しない可能性の方がきわめて低い。

弥加宣(みかみ)神社

余談になりますが、京都嵯峨野に「御髪(みかみ)神社」があります。天御影神ではなかったことは確かでした。これは後世になって当て字ではないかとそんな思いがするのですが。

もしこのコースを邪馬台国の使者が通ったとなると、由良川に入ってすぐの大江町に「弥加宣神社」が祀られており、内陸に入るに従って難所が控えていて、その難所を過ぎて大和国も近くなり、再び穏やかな行程となる場所に、天御影神を祭祀した「みかみ神社」が存在していた、となれば因縁浅からぬ思いがするのは私だけの思い過ごしでしょうか。

拙者註:日本唯一の髪の神社。祭神は藤原鎌足の末孫、藤原采女亮政之公(ふじわらうねめのすけまさゆき)。その三男の政之公が生計のために髪結職を始めたのが髪結業の始祖とされる。天御影神とは関係ないようです。

この嵐山から桂川を下っていくと山崎で琵琶湖から流れる宇治川と、木津方面から流れてくる木津川とが合流して、淀川になります。この合流地点をさかのぼって行けば、「卑弥呼」の鏡ではないかと言われている「三角縁神獣鏡」が32面も副葬されて騒がれた「椿井大塚山古墳」があるのです。このことから考えても、日本海回りのコースが邪馬台国の都に通じていたことを暗示している、そんな思いが強く感じられます。

木津町で下船した一行は、ここから陸上を邪馬台国の都まで徒歩で進行していったとしてもそんなに長い日数ではなく、せいぜい2~3日あれば充分足りるかと思われます。あるいは山崎から淀川を下り、かつては大きな入り江であった枚方当たりから当時の大和川を遡ったとしても、これも2~3日あれば充分かと思います。

『古事記』「開化天皇」の段に、「日子坐王(ひこいますのきみ)」と野洲三上地区に鎮まっている「天御影神」の姫である「息長水依比売(おきながのみずよりひめ)」との婚姻が語られています。この二人は五人の子宝に恵まれ、そのうち女性は二人ですが、この二人についてはその後の消息が記されていないので分かりませんが、男子の三人については次のように記されています。

長男の「丹波美知能宇斯王(たにはのみちのうしのきみ)」については、父王の「日子坐王」によって丹波国に派遣された事が、丹波地方の舞鶴市と大江町に「弥加宣神社」が祀られていたことから、丹波地方をその後支配されたことが確認できるのです。
次男は「水穂真若王(みずほのまわかのきみ)」といわれていますがこの人は、「近つ淡海安の値の租(ちかつあふみやすのあたえのおや)」と記されていて、近江盆地の東南部に広がっている野洲平野にあった「安の国」一帯の支配が考えられると思います。

そこで言えることは、この「水穂真若王」は祖母の「天御影命」や母「息長水依比売」等と共に、この「安の国」に留まっていてこれらの地域を統治していたと考えられます。
三男の「神大根王(かむおおねのきみ)」ですが、この人は和名が、「八瓜入日子(やつりのいりひこ)」と記され、「三野(美濃)木巣の国造の租」、「長幡部の連の租」とあります。この和名の読み方については私も初めは「やつりのいり日子」と読んでいましたが、これは間違った読み方で、正しくは「やすの入日子」と読むのをある本で知りました。

「丹波美知能宇斯王」が丹波を支配するようになったのは、多分成人後に、父王の「日子坐王」によって丹波国に派遣された事が、丹波を支配するそもそもの始まりだったと思います。しかし、この丹波地方は祖父の「開化天皇」と、丹波の「竹野比売」との通婚が「記紀」に記されてあることからも、昔から丹波地方は「開化天皇」によってその支配下に組み込まれていたことが判るのです。

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