【地名地誌】 十戸(じゅうご)と石井

十戸(じゅうご)

神鍋高原へ向かう国道482号は、かつては西気道といって、但馬国府から稲葉川上流まで西へ進み、蘇武峠を越えて村岡の山陰道に合流する近道として因幡へ抜ける重要な道であったようだ。

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【地名地誌】 日高村(気多郡日置郷・高田郷・高生郷)

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『国司文書 但馬郷名記抄』
孝徳天皇大化2年、いわゆる大化改新による諸制度一新の詔勅に基づき、翌3年、本郡高田邑に兵庫を建て軍団を置く。

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【地名地誌】 気多郡三方郷(三方村)

三方郷

倭名類聚抄(倭名抄)

訓:美加太
弘安大田文に、三方荘、田59町、熊野山領觀音寺の田9町。
但馬考に、今の三方荘は、芝・安良川(今の荒川)・猪子垣・廣井・殿・栗山・觀音寺・知見・三所の10邑(村は当時は邑と書く)

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【地名地誌】 高生郷の地下(じげ)

『国司文書別記 但馬郷名記抄 第一巻・気多郡郷名記抄』に、

古語は多可布(タカフ)

高生郷は、威田臣荒人(いだおみあらびと)の裔、威田臣高生在住の地なり。この故に高生と名づく。矢作部(ヤハギベ)・善威田(ヨヒダ)・善原(エバラ)・稲長(イナガ)の4邑

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【地名地誌】 気多郡の由来について

兵庫県豊岡市日高町は、2005年(平成17年)、豊岡市周辺の城崎郡城崎町・竹野町・日高町、出石郡出石町・但東町と対等合併し、兵庫県で面積が一番大きい市となった。それまでは城崎郡日高町であった。さらに、1896年(明治29年)に郡の統合があり、美含郡とともに城崎郡に編入される以前は、「気多(けた)郡」と呼ばれていた。豊岡市合併前の城崎郡日高町全域(浅倉・赤崎は昭和30年に養父郡宿南村から編入)と・中筋地区(賀陽郷)・上佐野・納屋・床瀬・椒(狭沼郷)に該当する。

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伯耆国庁・国分寺

  

鳥取市から倉吉市へは国道9号線が、鳥取バイパス、青谷羽合道路が開通し、国庁所在地で別の旧国であるが時間的に早くなった。高校時代にまだ国鉄だった頃、同級生3人と香住から夜行の山陰号でどこまで行けるかと乗った。今は時効だろうが最初で最後のキセル乗車である。誰も乗っていない客車で限界を感じて倉吉駅で降りて引き返した。深夜の倉吉駅は遠くて寂しい思いがしたことを覚えている。

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11 国臣の最後

平野次郎国臣の最後

沢卿一行は13日の夜から山中をさまよい続け、午前6時に白口(宍粟市一宮町)に辿り着き、地元民に銭を与えて間道を案内してもらい、峠を越えて美作路を使い三田尻に落ちた。

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5 生野本陣解散

生野本陣破陣

10月12日午後10時、

●多田弥太郎

南らを説得できず、諦めた多田弥太郎は黒田興一郎と共に沢卿のいる生野の陣営に戻り、沢卿に但馬脱出を勧めた。各部署巡視の名目で逃走した沢卿のために、「軍備を整え再挙を謀らねば大和と同じ運命を見る」との意見に一致し、断腸の思いで解散した。

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