【地名地誌】 高生郷の地下(じげ)

『国司文書別記 但馬郷名記抄 第一巻・気多郡郷名記抄』に、

古語は多可布(タカフ)

高生郷は、威田臣荒人(いだおみあらびと)の裔、威田臣高生在住の地なり。この故に高生と名づく。矢作部(ヤハギベ)・善威田(ヨヒダ)・善原(エバラ)・稲長(イナガ)の4邑

「太田文」は、同じ4村で、地下(じげ)・宵田・江原・岩中

とあるから、矢作部であろうが、それは現在のどこなのだろう?
宵田・江原・岩中はそのまま残っている。岩中以南は浅倉でもとは養父郡浅間郷、江原以北は日置郷で違う郷となる。現在もそのまま区は存在する。地下というからには、他より低所ではなかっただろうかと思う。「ならば現在の東構区内なのだろうかと思うが、東構区は、祢布南部(中川右岸南部)と岩中字東柳の一部が明治に独立し地番は、祢布と岩中と判明している。

地下とは、宵田城下の中川をはさんだ東部で、今は岩中区であり、公民館がある道筋である。中川(稲葉川)が円山川に合流する地点で、海抜が低い低湿地帯であることが、「地下」と名付けられる場所はここしかない。

因みに、「江戸時代に『古今和歌集』を伝授する「古今伝授」を受けた松本貞徳が、「地下伝授」の系譜を作った。「地下」とは、貴族に対する庶民を意味する言葉である。」とある。大田文には、矢作部(ヤハギベ)が消滅し地下村と呼ばれるようになっていた。宵田城築城以後なら城から見て直下の庶民の村を地下と呼ぶのはわかる。大田文は鎌倉期の1285年(弘安8年)であるので、それ以前には、すでに地下であったのだ。

『国司文書 但馬故事記 第一巻・気多郡故事記・上』に、気多軍団が記されている。

葦田氏は、剣(つるぎ)・鉾(ほこ)・鏑(かぶらや)・鏃(やじり)を鍛え、(今の豊岡市中郷)
矢作(やはぎ)氏は、弓矢を作り、
楯縫(たてぬい)氏は、革楯・木楯を作る。(鶴岡区多々谷、楯縫神社)
箭竹(やだけ)は竹貫氏これを調進し、(今の竹貫区)
矢羽は、鳥取部これを調進す。
矢作の檀(まゆみ)は、真弓氏これを調進し、
鞘柄(さやつか)は、栗栖氏これを調進す。(栗栖野区)
石矛・石鎚は、石作氏これを調進す。(石井区)
すべて鋳物は、伊多氏これを調進す。(井田→鶴岡区)
矢作連(やはぎのむらじ)は経津主命(ふつぬしのみこと)の裔なり。大穀、矢集連高負(矢集村・高負神社→夏栗区)

これを大和国に召し、多田(太田)村に置く。

地下は、真竹が群集し、矢の真竹を採集するにふさわしいこと。このうちの残る不明なものに矢作、矢羽がある。

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