【地名地誌】 日高村(気多郡日置郷・高田郷・高生郷)

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『国司文書 但馬郷名記抄』
孝徳天皇大化2年、いわゆる大化改新による諸制度一新の詔勅に基づき、翌3年、本郡高田邑に兵庫を建て軍団を置く。

高田郷は高機郷なり。大初瀬幼武天皇(雄略)の御世十六年夏六月、秦の伴部を置く。養蚕・製糸(糹糹)の地なり。

矢集村(ヤヅメ、今の夏栗)
久斗 古くは久刀とも書す。
(郡是(グンゼ)日高工場が久斗にあったわけが分かった。遅いか。。。)

故に大兵主神、名は武搭神・鹿島神・香取神・物部神・大伴神らをこの処に鎮座す。軍団守護の霊神なり。
禰布(ネフ)・射楯(イダテ)・威田(ヰタ)

禰布(ネフ)はにょうと発音し、今の祢布(にょう)。
射楯(イダテ)は、石立(いしだち)村。今の国分寺区内字石立
威田(ヰダ)は井田神社の井田であるのは間違いないだろう。伊福(イウ)であり、今の鶴岡。

倭名類聚抄(倭名抄)に、
訓:多加多(タカタ)
23年紀、気多郡高田郷において但馬の国治を遷す。

弘安太田文に、高田郷田67町。地頭・高田忠貞。国分寺領34町。
但馬考に、今の高田郷
夏栗・久斗・禰(祢)布・石立・国分寺・水上の6邑(ムラ)。

日置郷(ヒオキ)

訓:比於岐
弘安太田文に、田146町。
但馬考に、
日置・多田(ノ)谷・伊福・上(ノ)郷・中(ノ)郷の5邑。

高生(タカフ)郷

訓・多加布(タカフ) 発音は「たこう」
弘安太田文に、田107町。
但馬考に、地下・岩井(今の岩中)・宵田・江原の4邑。

日高村

郷土誌日高村の「日高村の村名起源」に、日高村の村名起源について記されている。(現代文表記に修正した)
第三章 村名起源P6
「日高村は往時日置・高生・高田・気多・太田・楽前の6郷に分属していたが、近古、日置・高田2郷の頭文字を取りて日高村と改称するなり。」
とある。文章がややこしいが「日高村は往時(気多郡の・・・6郷」とすれば分かるので「気多郡の」が脱落していると考えられる。→日高村は日置と高田2郷の頭文字とする。

ところがP8に桜井舟山(勉)著『但馬考』を引用し、「日高村は往古これら各郷に分属していたが、近古、日置・高生両村の所属に帰し、しかして日置・高生両村をまた合したる事明らかなり。」も併記されている。
桜井勉は日置と高生の2郷の頭文字であるのは明らかだとしているが、上記の2説あり、近古(江戸時代)、日置郷と高生郷は人家は増え郷境が不明確になり、郷名は曖昧で同じ郷といっても差し支えないようだったとしても、日高村発足時は、高田郷も含んだものなので、狭い地域のみを指して日高村としたとするのは、桜井氏の憶測にすぎないと思う。

【沿革】
(明治14)、(高生郷)地下村、岩中村と合併
1889年(明治22)4月1日、気多郡日置郷と高田郷・高生郷がひとつになり、気多郡日高村発足。

1896年(明治29)4月1日、気多郡7村、美含郡8村が城崎郡に編入。両郡は消滅。
1925年(大正14)11月1日、城崎郡日高村が町制施行し日高町が発足。
1955年(昭和30)2月1日、養父郡宿南村が分割して、養父郡八鹿町新設。城崎郡日高町に赤崎・浅倉を編入。
〃   〃  ) 3月25日、日高町、国府村、八代村、三方村、西気村、清滝村が合併し、日高町が発足。
1958年(昭和33)1月1日 – 日高町上佐野地区が分町し豊岡市に編入。
1976年(昭和51)9月1日 – 日高町西芝字大向野の一部が豊岡市と境界変更。
2005年(平成17)4月1日 城崎郡城崎町、日高町、竹野町出石郡、出石郡出石町、但東町と豊岡市が合併し新豊岡市が発足、郡より離脱。城崎郡・出石郡は消滅。

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