気多郡太多郷(西気村・清滝村)

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旧日高町東部を円山川が北流する。町西部は神鍋高原で、スキー場が多数立地する。 スキー場に行く途中に「植村直己記念館」がある。 冬には日高町全体に積雪するが、1月に集中的に積雪した後、2・3月はあまり降雪しない傾向にある。

神鍋高原はスイカとキャベツの栽培に適した気候であり、かつてはスイカ、キャベツ、いちごの特産地であった。現在は若者の田舎離れに歯止めが利かず、田畑が放置される傾向にある。

【沿革】

1889年(明治22年)4月1日、気多郡西気村が発足。
1894年(明治27年)12月15日、西気村と清滝村に分立。
1896年(明治39年)4月1日 – 気多郡が美含郡とともに城崎郡へ編入される。
1925年(大正14年)11月1日 – 町制を施行し日高町となる。
1955年(昭和30年)2月1日 – 養父郡宿南村の一部を編入。
1955年(昭和30年)3月25日 – 日高町、国府村、八代村、三方村、西気村、清滝村が合併し、新しい日高町が発足。
2005年4月1日、豊岡市および城崎郡城崎町・竹野町、出石郡出石町・但東町と合併し新しい豊岡市になった。
(ウィキペディア)

倭名類聚抄(倭名抄)に、
「弘安太田文」、伊勢大神宮領。気多郡太多(ノ)荘、田80町。

太多郷
「但馬郷名記抄」
山守郡(コオリ)…石作部(今の石井)・太多村(今の太田)・止美部(村)(今の十戸)・壬生部・稲葉(古語は以奈婆)・巨智部(今の東河内?)・秦部・的部(今の万場?)・錦部
栗栖・太刀宮(神社地から今の庄境)・田口・羽知(今の羽尻)

「倭名類聚抄」
十戸・比垣(コロガキ・今の頃垣)・漆垣・山(ノ)宮・石井・太多(今の太田)・杤本(今の栃本)・東河内(ヒガシゴウチ)・水口(ミノクチ)・稲葉(イナンバ)・萬却(マンゴウ・今の万却)・山田・萬場(今の万場)・名色(ナシキ)・栗栖野(クリスノ)・荘境(今の庄境)・久田谷・田(ノ)口・羽尻の19邑

『校補 但馬考』に、以上の記載の後、
この郷は七美・美含の隣にて、郡の西の境なり。これより三方・楽前まで三郷34村。これを西下谷(ニシノゲダニ)と称する。この内、漆垣村は、今は絶えたり。とある。

近代、田ノ口・羽尻は、三方村になっているが、太多郷であった。羽尻の東にある殿、田ノ口の南西にある広井は三方郷。田ノ口・羽尻・庄境は豊岡市立三方小学校区、久田谷は道場・夏栗に近く豊岡市立静修小学校区となっている。十戸、頃垣、石井、山宮、栃本、太田、名色は豊岡市立清滝小学校区。

田ノ口には清瀧神社が、羽尻には萬場神社があるので、不思議に感じられるが頷ける。

「太多」の由来

『但馬神話』(気多郡故事記版) 3.神功皇后と新羅征伐
にくわしく書いているが、

神功皇后45年、新羅は朝貢(1)しませんでした。将軍である荒田別命(あらたわけのみこと・豊城入彦命4世の孫)・鹿我別命(かがわけのみこと・大彦命の末裔)は、新羅に行き、征伐しました。

比自[火本](ひしほ)・南加羅・啄国(とくのくに)・安羅(やすら)・多羅・卓淳(とくじゅ)・加羅の七国を平定しました。なお兵を移して西に廻り、古奚津(こけつ)に至りました。南蛮(ありひしのから)を倒し、百済(くだら)に行きました。

百済王は古沙山に登り、磐石の上にすわり、ちかって云いました。
「もし草を敷いて座ろうとすれば、恐らくは火で焼かれるだろう。木を取って座ろうとすれば、恐らくは水のために流されるであろう。枯れ磐石にすわり、盟(ちかい)を表わし、永久に臣を称すると信じよ。」

二人の将軍は、これらにより、増封され、荒田別命に多遅摩(たじま)の太多邑(ただむら・いまの西気地区?)(2)および山口邑(いまの清滝地区?)を与えられました。

第16代仁徳天皇の元年4月に、
物部多遅麻連公武の子・物部多遅麻毘古(たじまひこ)を、多遅麻国造とし、府を日置邑に移しました。

物部多遅麻毘古は、物部多遅麻連公武を射楯丘に葬りました。

5月、将軍荒田別命は、子の多奇波世君(たけはせのきみ)の弟・田道公(たみちのきみ)を山口邑に置き、田道公の子・多田毘古を多他邑(2)に置きました。
ゆえに、多他毘古を名づけて、多他別の田道と云います。

多他の名は、この荒田別命が夜夫県主(やぶあがたぬし)(三代)・竹野彦命の娘・宇日比売命(ういひめのみこと)を娶り、多奇波世君(他に竹葉瀬公と書く)・田道公(他に田路と書く)を生んだことに基づきます。

2年春3月、物部多遅麻毘古は、物部多遅麻連公武の霊(みたま)を気多神社に合祀しました。

これにならい、葦田首(あしだのおびと)は、鍛冶(かじ)の祖・天目一箇命を鍛冶丘に合祀しました。(式内葦田神社・豊岡市中郷)
楯縫首(たてぬいのおびと)は、楯縫の祖・彦狭知命(ひこさちのみこと)を楯屋丘に祀りました。(式内楯縫神社・豊岡市日高町鶴岡(多田谷)
伊多首は、鏡造りの祖・石凝姥命(いしこりどめのみこと)を鋳含(いふく)丘に祀りました。(式内井田神社・豊岡市日高町鶴岡)
石作部連土師陶人(はじのすえびと)等は、その祖・建碗根命・野見宿祢命を陶谷(すだに)丘に合祀しました。(式内須谷神社・豊岡市日高町藤井)
日置首は、その祖・櫛玉命(くしだまのみこと)を日置丘に祀りました。(式内日置神社・豊岡市日高町日置)

49年、新羅は(またもや)朝貢しませんでした。したがって、荒田別命の子・多奇波世君を責めたので、白鹿を獲って帰り、これを献上しました。重ねて、その弟の田道公を遣わしましたが、新羅はあなどりそむきました。田道公はこれを撃破し、4邑の人民を捕虜にして帰りました。

55年、蝦夷(えぞ)がそむきました。田道公を遣わして、討たせました。しかし、田道公の軍は敗れ、奮闘して死んでしまいました。土地の人がそれを心痛めて葬りました。蝦夷はますます怒り、略奪せんとその塚をあばくと、中に大蛇がおり、死体はほとんどありませんでした。

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