第3章 2.日本はヒボコより以前から鉄の産地だった

天日槍(以下、ヒボコ)という名前から、ヒボコは鉄の技術者、もしくは製鉄に関わる人びとの総称であったり、武神を連想させる。
しかしこれは、鉾・矛が鉄製の武器である、日本にはそれまで鉄器がなかったのだとの思い込みである。記紀にはどこにも天日槍と鉄に関する記載はない。もちろんそうした祭祀の神であっても鉄、武神の意味合いも含まれていただろう。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏は、

ヤマトは「鉄」の産地だった

樋口清之氏によると、(中略)奈良盆地南東部に位置する標高467mの三輪山は、その端正な姿からヤマト一円の人びとから、神の山として崇められてきた。この大神神社には拝殿はあるが本殿はない。それは山そのものがご神体=本殿であるからだ。では何故、山がご神体なのか。

日本列島には南九州から四国、紀伊半島を通り、諏訪に至る中央構造線と呼ばれる断層が通っており、この断層に沿って鉄、銅、水銀などの貴重な鉱床が多数存在する。この断層が通る紀伊半島山中からは、丹、辰砂、水銀、鉛丹(赤色染料)がとれ、各地に丹生神社が祀られている。そして三輪山からは鉄が採れた。

(中略)

西南麓には金屋遺跡があり、ここからは前期縄文土器が発見されていて、最も早く拓けたところと判明するが、注目すべきは弥生時代の遺物とともに、同層位から鉄滓や吹子の火口、焼土が出土している。鉄滓は製鉄時に出来る文字通りの鉄の滓(かす)であるから、それが発見されるということは、必ずその付近で製鉄が行われていたことを示すわけで、だからこそ金屋と称したのであろう。また山本博氏によると、三輪山の山ノ神遺跡からも刀剣片と思われる鉄片が出土し、穴師兵主には鉄鉱の跡が見られるという。(真弓常定『古代の鉄と神々』学生社2008

古事記は、わが国を「豊葦原の瑞穂の国」と記しているが、どのような意味なのだろうか。(中略)実は、古代日本は製鉄原料に事欠かなかった。火山地帯の河川や湖沼は鉄分が豊富で、水中バクテリアの働きで葦の根からは褐鉄鉱が鈴なりに生ったからだ。
では何故、鈴なり=鈴というのか。
(中略)この褐鉄鉱は時に内部の根が枯れて消滅し、内部の鉄材の一部が剥離し、振ると音が出ることがある。鈴石などと呼ばれる。褐鉄鉱=スズが密生した状態が「すずなり=五十鈴」の原義であった。(中略)どこか銅鐸に似ているように思えないか。

(中略)

ここに至り、「豊葦原」の意味がわかった、といっていいだろう。わが国では神代の昔から鉄が作られ、人びとは製鉄職人を崇め、最初の原料はスズ=褐鉄鉱であった。
当時の人々は、「葦原」はスズを生み出す源でることを知っていた。従って、「豊葦原」とは、「貴重な褐鉄鉱を生む母なる葦原」という意味なのだ。

(中略)

高知県西部の四万十川上流、窪川町の高岡神社には五本の広峰銅矛があり、それを担いで村々を回る祭りがある。(中略)その本義は、葦の玉葉が生い茂るのを祈り、葉が茂ればその根にスズがたくさん生み出される、それを願って行われたに違いない。

また鐸とは「大鈴なり」とあるように、鈴石の象徴。これを打ち鳴らすことで葦の根にスズが鈴なりに産み出されることを祈ったのだろう。そして、祭器としての矛や鐸は、古くは神話にあるように鉄が使われていたが、青銅器を知るに及んで、加工しやすく、実用価値の低い青銅器を用いるようになっていった。このような考えに逢着したのである。

ヒボコは技術者ではなく、日本に憧れ、玉、小刀、桙、鏡、神籬を持って来た王子だった。三国史記と照らし合わせると、ヒボコは但馬出身の新羅王(=倭人)の子孫だからこそ、彼は日本語を話し、神籬を持って故郷へやって来た、可能性も否定出来ない。

(中略)

わが国では、弥生時代後期から鉄鉱石や砂鉄を用いた鉄の大量生産時代に突入していた。この製法の普及により、褐鉄鉱を用いた製鉄は次第に廃れ、スズの生成を祈る銅鐸と銅矛を用いた祭祀の意味が希薄になっていったに違いない。
そして、砂鉄タタラが本格化した2世紀前葉から埋納祭祀が行われなくなり、いつしか記憶の底に沈み、忘れ去られた。

その名残が社頭にある大鈴だった。神社に鈴があり、「願いと共に鈴を鳴らす」のも、遡れば「スズの生成を祈る」ことに繋がるのか、と納得した次第である。

天日槍のほこ(槍・矛)は、武器ではない祭器である

天日槍のほこ(槍・矛)は、武器ではない祭器であり、日は太陽、矛は葦の葉、鐸は葦の根の鈴石をあらわし、地の豊かな実りと繁栄を祈った農耕の神であり、初代多遅麻国造として、但馬が平らぎ豊かになることを大和が願った象徴として、但馬一宮出石神社に天日槍と八前大神として八つの神器であった、と思うのではないだろうか。天は海、海部のこととする説もあるが、神名に天を冠せられるのは、すなわち天皇の号であり、天照大神をはじめ天津神であることの証しなのだから、ヒボコだけ天が海部から来ているという例外は認めたくない。天皇の命によって編纂された記紀が、そのような例外または軽率な扱いをする筈はないだろう。

神社拝殿に吊るされた鈴は、銅鐸→鰐口→鈴

になったものであると思っている。鈴を鳴らしてお祈りするのはそういうことは、銅鐸にルーツがあるようです。


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第4章 1.ヒボコはいつ頃の人なのか?

天日槍はいつ頃の人なのか?

日槍の渡来時期?

天日槍(以下、ヒボコ)が実在の人物なのかは分からない。しかし記紀があえて新羅の王子ヒボコを記述しているのは、全くの架空な出来事とは言い難い。

ではヒボコはいつ頃の出来事なのだろう。年代については、数少ない史料からさぐるしかない。

  • 『古事記』応神天皇記 和銅5年(712年)では、その昔に新羅の国王の子の天之日矛が渡来した。とありはっきりとは記されていない。
  • 『日本書紀』養老4年(720年)では、垂仁天皇3年3月(実年244年) 新羅王子の天日槍が渡来した。「我が国を弟知古に譲りこの国に来ました。願わくば一畝の田を頂いて御国の民と為らん。」
  • 『古語拾遺』大同2年(807年)編纂では、垂仁天皇条において、新羅王子の海檜槍(あまのひぼこ)が渡来し、但馬国出石郡に大社(出石神社)をなした。
  • 『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記」延長3年(925) では、人皇六代孝安天皇五十三年(実年在位:60-110年)、新羅国王子天日槍帰化す。「われは鵜草葺不合命の御子、稲飯命の五世孫なり。」とあり、(『日本書紀』でいう垂仁朝は)人皇11代垂仁天皇88年(実年44年は西暦104年)

『日本書紀』と『古語拾遺』は垂仁期に渡来したとあるが、ところが『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記」延長3年(925)では、人皇六代孝安天皇五十三年(実年在位:60-110年とすれば西暦86年秋)に帰化すとある。

から、紀にあるように、実際にはそれ以前に新羅から八種神宝を携えて御船に乗り、筑紫より穴門(下関)の瀬戸を過ぎ、針間国に至り、宍粟邑に逗まる。人民らこれを孝安天皇に奏す。とあるからこのときに帰化を許されたのだろうか。天皇は播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑の2邑に天日槍の居住を許したが、天日槍は諸国を遍歴し適地を探すことを願ったので、これを許した。そこで天日槍は、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらくいたのち、近江から若狭国を経て但馬国に至って居住した。

記紀をはじめ古文書は、年月を在位天皇と春秋年で記している。古事記・日本書紀が使用している干支による年代を、現代年に書き換えている天日槍が但馬にやって来たのは、いつ頃なのかを知るのに苦労していた。
天皇の在位年代は、歴史的事実として信頼できるのは、第31代用明天皇ごろから以後であるとされ、諸説あることを先に述べておきたい。
長浜浩明氏の算定で、孝安天皇の在位は実年で西暦60~110年

まず『記』(『古事記』)第15代応神天皇の段から見ていこう。

「むかし新羅国の王子で、名は天之日矛(ヒボコ)という人が日本に渡来ワタってきた…云々」と伝えるが、来朝期を明らかにしていない。

『紀』(『日本書紀』)では、第11代垂仁天皇3年3月条に、「三年春三月、新羅の王の子、天日槍が渡来した」と記している。垂仁天皇3年を

『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記」は、延長3年(925) 人皇六代孝安天皇五十三年(実年在位:60-110年)新羅国皇子天日槍帰化す。

これは春秋年とし、実年は半分とすると、実年の在位は西暦60~110年の50年間となる。孝安天皇五十三年は半分の26.5年とすると、西暦86年の秋。弥生時代後期か。

『日本書紀』は、第11代垂仁天皇88年に新羅国皇子・天日槍が天皇の群臣に謁見したと記してあり、第7代多遅麻国造 多遅麻日高命の娘 葛城高額姫命を生み、葛城高額姫命は息長宿禰命に嫁ぎ、息長帯姫命を生む。息長帯姫命は神功皇后なり。第14代の仲哀天皇の妃となる。但し、但馬故事記では第6代孝安天皇53年に針間(播磨)国で天皇の使者、大伴主命と長尾市命の二人に会って来日した理由を述べている。もちろん但馬故事記編纂は記紀も参考にしていたのに、あえて『日本書紀』にある第11代垂仁天皇の御代ではなく、第6代孝安天皇53年としたのは、『日本書紀』が、天日槍の5世孫・5第多遅麻国造天清彦命が垂仁天皇に八種の神宝を奉じた話を天日槍来日の年代と間違えているからではないか。

この年代はあまりにもさかのぼるのだが、『竹内文書・但馬故事記』(昭和59年・1984)編纂者の吾郷清彦氏は、こう注釈している。

「『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記」延長3年(925) 人皇六代孝安天皇五十三年(前340年・縄文後期)新羅国皇子天日槍帰化す。
この年代はあまりにもさかのぼるのだが、『竹内文書・但馬故事記』(昭和59年・1984)編纂者の吾郷清彦氏は、こう注釈している。

ヒボコの帰化を、『紀』は垂仁朝3年春3月(前27年)と伝えており、『記』では、これを応神朝の段で述べている。これでは年代が合わない。本巻(『但馬故事記』)のごとく孝安朝五十三年(前340年)の方が正伝と思われる。久米邦武は、この命の帰化を孝安朝と考定する。(『日本古代史』P391)

垂仁天皇の記述については日本海周辺に関わる記述が多くなり、任那人が来訪して垂仁天皇に仕えたという逸話が残っている。海運の要路として、朝鮮半島と日本海側(出雲・但馬・丹後・越(こし)国・若狭(福井県)の重要性が増したためと考えられている。

つまりいつ頃なのかは記されていないので、垂仁天皇3年3月に渡来したと解釈する学者もいるが、これは『紀』が正史だから間違ってはいないだろうという、お上のすることはなんでも正しいと信ずるのと同じである。

『日本古代史』(久米邦武著)は、記紀の伝承を比較検討し、玄孫・田道間守タヂマモリが第12代景行天皇の在位年代の人であることから年代的にヒボコを考え、第8代孝元期(紀元前214年2月21日- 紀元前158年10月14日)に渡来したと考定する。 そして久米は、種々考証の結果、「孝元天皇の御代は、倭国大乱の最中であるから、ヒボコが但馬及び伊都の主(ぬし)となれたのは、伊都県は儺県に近接し、伊都津は女王卑弥呼の時に漢韓より亭館を設けて、交通の要津となした れば、その接近の地を占拠したるは、伊都県に去り難き所縁のありての帰化なるべし」と論述した。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏は、
『日本書紀』の編年は半年を1年とする「二中暦(倍数年)」だといわれている。しかも天皇の系譜をオーバーにするためにかなり遡ってつけられているので、垂仁天皇は、実際は紀元332年(推定)に即位したのだろうという。
垂仁天皇3年(紀元前27年)3月、新羅王子の天日槍(あめのひほこ・以下ヒボコ)が神宝を奉じて来朝」と記しているが、推定では垂仁天皇99年(紀元361年)に崩御されたとしている。

『アメノヒボコ、謎の真相』(関裕二)は、次のように書いている。

『日本書紀』を読み進め、最新の考古学情報を照らし合わせると、あるひとつの事実が浮かび上がってくる。それは、アメノヒボコに関わりの地域のことごとくが無視され、「なかった」ことにされてしまっていることだ。ヤマト建国で最も活躍した地域が、『日本書紀』の記事からすっぽり抜け落ちているのである。アメノヒボコは歴史解明の最重要人物だからこそ、実像を消し去られた可能性はないだろうか。(中略)『日本書紀』が歴史を書き換えていた可能性は高い。『紀』はヤマト建国の歴史を熟知していて、だからこそ真相を抹殺し
、歴史を改竄してしまったのだ。(中略)『紀』よりもあとに書かれた文書の中に、『紀』と異なる記述がある場合、『紀』の記事を信じるのが「当然だ」と、史学者は考える。「事件現場に最も近くにいたお役人の証言は信頼できる」という論理だ。

『校補但馬考』(桜井勉)が偽書だと決めつけている『国司文書 但馬故事記』だが、一概にそういい切れるのだろうか。そのような考え方であるといえるかも知れない。
しかし、『国司文書 但馬故事記』を読むとことの他但馬の出来事を詳細に記述しており、しかも編者らは但馬国府に赴任していた役人であり、弘仁五年(814)から天延二年(974)という160年という長い年月と79回も草稿し直して完成させた公文書だ。桜井が偽書だと言い切ったから偽書なのだというならば、国の要職を退職し出石へ帰り民間人の郷土史家として著したのが『校補但馬考』。『国司文書 但馬故事記』は役人が長い歳月をかけた公記録である。

『但馬故事記 序』には次のように記述されている。
但馬風土記が、第52代陽成天皇の御代に火災にかかり消失したことを残念に思った編纂者たちの編纂方針をこう記述している。

帝都の旧史に欠あれば、すなわちこの書(但馬故事記)をもって補うべく、但馬の旧史に漏れがあれば、帝都の旧史をもって補うべし。
ゆえに古伝・旧記によりこれを補填し、少しも私意を加えず、また故意に削らず。編集するのみ。
帝都の正史といえども、荒唐無稽のことが無きにしも在らず。まして私史家においてはなおさらである。
この書を見る者は、その用いるべきは用い、その捨てるべきを捨てて、但馬の旧事を知れば(史実)に近いであろう。

その但記『第五巻・出石郡故事記』はヒボコについて最も詳しく記述している。

第6代孝安天皇の53年、新羅の王子・天日槍命が帰化する。アメノヒボコはウガヤフキアエズの子・稲飯命の五世孫なり。
ウガヤフキアエズは、海神トヨタマヒメの娘であるタマイヒメを妻にし、五瀬命・稲飯命・豊御食沼命・狭野命を生んだ。
父が亡くなり、世継ぎの狭野命は兄たちとともに、皇都を中州(畿内)に遷そうと、浪速津(大阪湾)から大和川を遡り、まさに大和に入ろうとする時、大和国の酋長ナガスネヒコは、天津神の子ニギハヤヒを立てて兵を起こし皇軍をくさかえ坂で迎え撃った。
皇軍は利がなく、兄・御瀬命は矢に当たって亡くなった。狭野命は他の兄たちとともに海路より紀の国(和歌山)へ向かおうとしたが強く激しい風に逢った。稲飯命と豊御食沼命は小船に乗り漂流し、稲飯命は新羅に上り、国王となりとどまった。(中略)世継ぎの狭野命は熊野に上陸し、ナガスネヒコらを征伐した。ニギハヤヒの子・ウマシマジは、父にすすめてナガスネヒコを斬り、降伏した。世継ぎの狭野命は大和橿原宮で即位し天下を治めた。これを神武天皇と称しまつる。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏が算定した孝安天皇の実際の在位年代は、

第1代神武天皇 前660-585年
第6代孝安天皇 前392-前291年
第8代孝元天皇 前214-158
第11代垂仁天皇 前29-西暦70年
第15代応神天皇 270-310

孝安天皇は、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するが、その事績(旧辞)が記されない「欠史八代」の第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のひとりではあり、系譜は存在するがその事績が記されないとして、 現代の歴史学ではこれらの天皇達は実在せず後世になって創作された存在と考える見解が有力であるが、実在説も根強い。

『但馬故事記』は、記紀も含めて考察したと明記しているのに、『但馬故事記』がわざわざ、『紀』(『日本書紀』)にある、第11代垂仁天皇3年3月条に、「三年春三月、新羅の王の子、天日槍が渡来した」を採用せず、「人皇6代孝安天皇53年新羅の王子・天日槍命が帰化した」と明記したのは、編纂者らが『日本書紀』の「垂仁天皇3年(紀元前27年)3月、新羅王子の天日槍(あめのひほこ・以下ヒボコ)が神宝を奉じて来朝」とする記述年代が間違っていると判断したためであろう。

『但馬故事記』第四巻 出石郡故事記(拙者現代語訳)は次の通り。(現代語に直している)

人皇11代垂仁天皇67年夏5月、天日楢杵命の子、天清彦命をもって、第四代多遅麻国造(天日槍の4世孫)となす。

88年(実年44年)秋7月朔(陰暦の1日)、(天皇は)群臣に勅して曰く。
「我は尋ねたい。むかし新羅王子・天日槍命が初めて帰来した時に携えてきた宝物が、いま多遅麻国の出石社(出石神社)にあると聞く。我はこれをぜひ見てみたい。持って参れ。」
群臣はこの勅を受けて、使いを多遅麻に遣わし、清彦すがひこ(多遅麻国造)にこれを奉った。
清彦はそれに応じ、
羽太玉はふとのたま 一個・足高玉 一個・鵜鹿々赤石玉うかかのあかしのたま 一個・出石刀子とうす*1 一口・出石杵(ほこの誤記ではないか?) 一枝・日鏡ひのかがみ 一面・熊神籬くまのひもろき 一具・射狭浅太刀いささのたち 一口
を携え皇都に上った。

清彦は、しばらくして神宝を奉ったが、ひとつの神宝は祖先に対して申し訳がないと、出石刀子を袍中*2に隠し、残りを献上した。
天皇は大いに歓喜し、酒饌しゅせん(酒と肴)を清彦に振る舞った。たまたま出石刀子が袍中からこぼれ、帝の御前にあらわれた。

天皇はこれを見て清彦に申された。
「その刀子は、何の刀子であるか?」
清彦は隠すことができず「これもまた神宝の一つでございます」と申し上げた。
天皇は「神宝はすべて渡しなさい」と云われたので、他の神宝と共に宝庫に納めた。
それから後、天皇が宝庫を開かせると、刀子がなくなっている。使いを多遅麻に遣わして、これを清彦に問うた。
清彦は「一夜して刀子が私の家に至っていました。これを神庫に納め、翌朝はこれを改めておりません。」

天皇はこれを聞いて、その霊異をかしこみ、強いて求めることはしませんでした。
その後、刀子は自ら淡路(島)に至った。
島人は祠を建ててこれを祀った。これを世に剣ノ神と云う。*3
天清彦命は、大和・当麻のたぎまめひひめのみこと(当麻咩斐毘売命)を娶り、
多遅麻毛理命たぢまもりのみこと(第6代多遅麻国造・『日本書紀』では田道間守)・多遅麻日高命たぢまひたかのみこと(第7代多遅麻国造)・須賀諸男命すがのもろおのみこと(初代出石県主)・須賀竈比咩命すがのかまひめのみことを生む。

第11代垂仁天皇の在位は、皇紀BC29~AD70年だが、『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏が算定した垂仁天皇の実年在位期間は西暦242~290年、在位年数は49年であり、人皇7代孝霊天皇38年夏6月、天日槍命の子、天諸杉命をもって2代多遅麻国造となし、40年秋9月、天諸杉命は天日槍命を出石丘に斎き祀り、且つ八種神宝を納めている。(出石神社)

第11代垂仁天皇88年は実年在位44年だから、西暦286年となる。『但馬故事記』第四巻 出石郡故事記で

多遅麻国造を初代の天日槍命から表にすると以下のようになる。

『日本書紀』の方が正しいと思われるだろうが、ヒボコ以降の子孫が担った歴代多遅麻国造の推定在任年数を計算すると、垂仁3年では年代が合わないからだ。

『日本書紀』は国史(正史)なのだから間違っているはずはない、『国司文書 但馬故事記』が間違っているのだと歴史研究者の多くは何の証拠も示さないまま思い込んでいる。しかし史実や論理的な根拠を示す人はいない。しかも史実として克明に記す『国司文書 但馬故事記』が残っているのにである。

第一代神武天皇については記述があるのに、孝安天皇を含む綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。実在した天皇ではなく創作だとする説がある。

しかし、『日本書紀』の編纂者たちはあまりに古い出来事なので、確かな事象がなかったのか、もしくは国の正史としては都合が悪かったから、あえて触れないようにした可能性もある。後者だとすると、ヒボコの渡来時期を、第11代垂仁天皇88年、天皇が昔新羅王子天日槍が渡来したときの宝物が見たいと言われた垂仁天皇の御世に合わせて垂仁3年3月に差し入れたのではないだろうか。

垂仁天皇は他にも、同90年2月、田道間守(『古事記』は多遅麻毛理命。ヒボコの玄孫、第6代多遅麻国造)に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせているし、最初の皇后は狭穂姫命(彦坐王の女)でその後の皇后に日葉酢媛命(丹波道主王の女)、妃に日葉酢媛の妹、渟葉田瓊入媛、真砥野媛、薊瓊入媛と、丹波・多遅麻とのつながりが強い天皇だ。その後の妃は丹波・多遅麻とは関係のないかぐや姫のモデル?迦具夜比売、綺戸辺、苅幡戸辺もいるが、丹波・多遅麻・二方3国の大国主、彦坐王の勢力範囲を姻戚関係という緩やかなやり方でヤマト政権連合に決定的にしたことを意味する。垂仁天皇側からみれば、それ以前に、ヒボコが天皇側にも待っていないような八種の神宝を持っていたことが面白くないから取り上げようとし、田道間守に常世国の非時香菓を取りに行かせるという無理難題を命じたのも、ヒボコの子孫と足跡を消してしまいたかったと穿った見方もできよう。いずれにしても、田道間守は常世国で9年間にわたり非時香菓を探して、帰ってきたときには、垂仁天皇は既に崩御され、田道間守は天皇の御陵にて号泣し死んでしまう。

人皇6代孝安天皇61年の方が合っているように思う。人皇6代孝安天皇の頃、倭国は出雲・丹波の首長から、ヤマト直属の天日槍を国造にして但馬を朝鮮半島・西国の因幡・伯耆・出雲に対しての軍事基地とし、中央の支配力を強めたに違いない。

多遅麻国造を初代の天日槍命から表にすると以下のようになる。

*実年は『古代日本「謎」の時代を解き明かす』 長浜浩明の換算を参考にした

『紀』の第11代垂仁天皇3年3月条、「三年春(西暦243年)三月、新羅の王の子、天日槍が渡来した」のでは辻褄が合わないのだ。

多遅麻国造を初代の天日槍命から表にすると以下のようになる。

天皇皇紀実年(西暦)在位年数在位多遅麻国造続柄
6代孝安天皇61年90年51年1世紀中葉-2世紀前半初代天日槍
7代孝霊天皇38年130年38年2世紀前半-2世紀中葉二代天諸杉命天日槍の子
8代孝元天皇32年165年29年2世紀中葉-2世紀後半三代天日根命天諸杉命の子
9代開化天皇59年207年30年2世紀後半-3世紀前半四代天日楢杵命天日根命の子
10代崇神天皇67年240年34年3世紀前半-3世紀中葉五代天清彦命天日楢杵命の子
11代垂仁天皇89年286年49年3世紀中葉-3世紀後半六代多遅麻毛理命(田道間守命)
12代景行天皇元年291年30年3世紀後半-4世紀前半七代多遅麻日高命(田道間日高命)多遅麻毛理命の弟
13代成務天皇5年326年30年4世紀前半-4世紀中葉船穂足尼命大多牟阪命*4の子、府を夜父宮に置く
神功皇后(摂政)2年356年34年4世紀中葉-4世紀後半物部多遅麻連公武府を気多県高田邑に置く
16代仁徳天皇元年411年18年5世紀前半物部多遅麻毘古物部多遅麻連公武の子、府を日置邑に遷す
18代反正天皇3年435年2年5世紀前半物部連多遅麻公物部多遅麻毘古の子
21代雄略天皇3年482年23年5世紀前半5世紀中葉黒田大連府を国府村に遷す
25代武烈天皇3年508年8年5世紀末-6世紀初頭大鹿連黒田大連の子
28代宣化天皇3年538年3年6世紀前半能登臣気多命大入杵命祖
30年敏達天皇13年585年13.5年6世紀後半止美連吉雄大荒田別命の子
34代舒明天皇3年631年6世紀後半山公嶺男垂仁天皇の皇子五十日帯彦命の裔

入佐山いるさや ま古墳群

豊岡市出石町魚屋・下谷

方墳等  古墳期前期、4世紀後半
1号墳(方墳、径20m×16m)、2号墳
(円墳、径15m)、3号墳(方墳、径36m×23m)、及び16以上の木棺直葬墓。

家形埴輪片。後漢の方銘四獣鏡、仿製四獣鏡、直刀
2,鉄剣2,槍、鉄鏃、やりがんな、鉄斧、鉄
鎌、ガラス玉、砂鉄t、土器等。

豊岡市出石町で発見されている最大の古墳で、多遅麻国造・出石県主クラスの墳墓であることは間違いない。4世紀後半と推定されていることから、出石での最後の多遅麻国造であれば、12代景行天皇元年(実年291年)の多遅麻日高命(田道間日高命)までとすれば、表の年代は100年後にずれることになる。

 

*1 刀子(とうす) 削るなど加工の用途に用いられる万能工具
*2 中 検索で見当たらないので、儀礼的に立派な包みの意味では、あるいは胸元か)

*3 出石神社(生石おいし神社とも言う。良湊神社が管理) 兵庫県洲本市由良生石崎

*4 大多牟阪命 初代朝来県主、息長宿禰命の子

神武と応神は同一人物でアメノヒボコはヤマト建国以前に来日していた?

史学者のなかで、「記紀」において系譜は存在するがその旧辞が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人のことや孫時代を、「欠史八代」(かつては闕史八代または缺史八代とも書いた)といって、現代の歴史学ではこれらの天皇は実在せず後世になって創作されたとする見解が有力である。しかし実在説も根強い。
非実在説

『アメノヒボコ、謎の真相』(関裕二)は、「神武と応神は同一人物でアメノヒボコはヤマト建国以前に来日していた?」とクエスチョンマークを入れてこう記述している。

最初に時系列を乱したのは『日本書紀』だった。ヤマト建国の人物群を、ばらばらにして、いくつもの時代に振り分けてしまったのだ。神武も応神も、どちらも九州からヤマトに乗り込んだという。神武は神話と歴史時代の切り替わる場所に立っていたが、応神天皇は、朝鮮半島から神功皇后のお腹の中に入って対馬海峡を渡った。そして北部九州の地で誕生した。この話が「衣に包まれて九州に舞い降りたニニギ(天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊『紀』)にそっくりだという指摘がある。その後応神は瀬戸内海を東に向かって政敵を打ち倒してヤマトを建国したのだから、ひとりで天孫降臨と東征の両方を演じていたことになる。
『日本書紀』は始祖王を神武と応神にふたりに分解し、ヤマト建国の歴史を初代から第15代までの長い時間をかけて記述していたのだ。
(中略)
ここで大切なポイントは、「応神天皇はヤマト黎明期の王で、アメノヒボコの来日はそれ以前だった」ということである。
これについて同書の説明はよくわからないので別記とする。


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第4章 4.ヒボコ登場の頃に、まだ新羅国は存在しなかった

「韓国人は何処から来たか」長浜浩明

日本最初の国史である記紀も奈良時代に偏されたもので、天日槍に関わる記述も神話や伝承をもとにしている。

『日本書紀』養老4年(720年) 垂仁天皇3年3月(BC27年) 新羅王子の天日槍が渡来した

天日槍登場の孝安天皇の頃に、まだ新羅国は存在しない

新羅王子の天日槍が渡来した。

多くの人々は、日本の正史『日本書紀』に書いてあるから、「アメノヒボコは新羅国の王子で日本に渡来してきた」。つまり日本人ではなく帰化した半島人だと信じ込んでいる。私はずっと疑問を抱いていたがそれを解き明かすことはできなかった。

倭国の後継国である「大和・日本」で720年に成立した『日本書紀』では、新羅シラギ加羅カラ任那みまなが併記される。中国の史書では、『宋書』で「任那、加羅」と併記される。加羅と任那といっても入り組んでいて、その頃の半島の国は、高句麗・百済・新羅・加羅・任那が流動的に動いており、加羅・任那も、その一つののちの弁韓地域にある小さなムラというべきクニ。

天日槍の頃に、半島北部には高句麗があったが、朝鮮半島南部には国と呼べる地域は成立しておらず、三世紀の頃の新羅の前の辰韓と・加羅と任那にあたる弁韓は、ともに12カ国に分かれていたとされ、縄文時代から北部九州から南部には倭人が移り住んでいた。

3世紀ごろ、半島南東部の辰韓は12カ国に分かれていた。のちの新羅、現在の慶尚北道・慶尚南道のうち、ほぼ洛東江より東・北の地域である。辰韓と弁韓とは居住地が重なっていたとされるが、実際の国々の比定地からみるとほぼ洛東江を境にして分かれているのが実態である。

『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記に、人皇六代孝安天皇五十三年 新羅国皇子天日槍帰化す。

それは、算定で紀元前340年とされ、弥生時代中葉前半になる。まず、ヒボコが新羅からやって来たという『古事記』の「むかし」とされるころにはまだ、日本列島にも半島にも、国家といえるものはなかった。まして百済・新羅などなかったのだ。

九州北部が倭人のクニの中心地だったことはわかっているが、邪馬台国が、九州北部か大和(奈良)かの論争はさておき、ローカルな邑(ムラ)程度のクニに過ぎなかった。まして縄文人から朝鮮半島南部は、九州北部同様の土器などが半島南部から見つかっているように、むしろ九州から半島へ倭人が渡り、土器や稲作等の文化を伝播した。朝鮮半島南端部は、倭人の生活範囲であって、のちの倭国の範囲であった。縄文人以前の旧石器人の遺跡は、中国の黄河文明はじめ世界四大文明をさかのぼる時代から日本列島に人は住み着いていたことが分かってきた。韓はもともと空という字で何もない空白地域の意味だという説もある。なんでもかんでも半島の渡来人が伝えたというのはことごとく覆されて、むしろ日本列島から朝鮮半島に伝わったのである。

天日槍はおそらく伝説上の人物、または、一人をさすのではなく出石に定住した鉄の国・渡来系の人々ではないかという意見もある。

いずれにしろ時代考証から、伽耶(または任那)の人々でないとおかしいのです。第十一代垂仁天皇は、四世紀初めで、実在性の高い最初の天皇であるとされており、この頃から「記紀」は、日本海側の但馬・丹後・若狭・越前周辺に関わるものが多くなる。その時代は、朝鮮半島と日本海側の重要性が増したためだと考えられるのだ。

ともかく、新羅という記述について誤解があってあならない。記紀が記されたのは奈良時代であるので新羅や百済は建国されていたが、垂仁天皇の記述は神代のころで、まだ半島南部にクニはなく、縄文人や弥生人がいわゆる倭人と呼ばれていた九州北部および島嶼部の人びとが住んでいた未開の地が、徐々に日本の王を建てて小さなクニが誕生していった頃である。

新羅という国はないので、新羅の王子であるわけがないのだ。朝鮮半島南部は大駕洛国(大伽耶)と金官伽耶があり、新羅が金官伽耶を吸収したのが532年で、やがて安羅も新羅に降伏します。さらに最後まで抵抗していた大伽耶国も562年に新羅に滅ぼされた。

『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)編纂時代は、朝鮮半島は百済、新羅、高麗(高句麗)の古代三国時代であり、伽耶諸国は新羅に吸収されていたので、伽耶は忘れられていたか使われなかったのか?但馬、丹後などに伽倻・安羅に似た地名が残る。それはそれぞれのクニから帰国してきた倭人が、懐かしむ地名として残ったのではないかと推測できる。

事 例

・阿加流比売神を妻としている点で但馬出石神社のアメノヒボコと敦賀気比神宮の都怒我阿羅斯等は同一視されている。
・豊岡市加陽(カヤ)と大師山(だいしやま)古墳群と伽耶、近くには出石町安良(ヤスラ)=安羅?
新羅にはつくられない金官伽耶国に共通する竪穴系横口式石室という特殊な石室。竪穴系のものと横穴系のものとがある。
・丹後加悦町(与謝野町)と伽耶。日本海最大の三大前方後円墳や古墳群の多さ、加悦町明石(アケシ)・出石(イズシ)の韻が共通する?
・入江から入った地理が海運を利用していた点で似ている。
2000(平成12)年、豊岡市出石町袴狭遺跡から出土した木製品の保存処理作業中に、船団線刻画のある木製品(板材)が見つかった。
1998(平成10)年2月、舞鶴湾口部に位置する浦入遺跡群から約5300前の丸木舟を発見

縄文時代には、日本列島全域にわたるような遠隔地交易が存在し、ヒスイ製玉類をはじめ黒曜石やサヌカイトなどの石器用材などが特産地から港を経由して遠くの消費地へ運ばれていたとされています。
この広範な交易ネットワークには、外海航行用の大型丸木舟が不可欠であり、浦入の丸木舟は、その大きさなどから外海航行用であるとみられ、わが国における縄文時代の交易を論じるうえで極めて重要な発見といえます。
・日本海流は、半島南部を出ると自然に若狭湾にたどり着く(現在でも海岸にはハングル文字のゴミが多く漂着する)
・敦賀気比神宮の伽耶王子・都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)と天日槍(アメノヒボコ)は同一視されている。

『日韓がタブーにする半島の歴史』室谷克実著によると、

第一章 新羅の基礎は倭種が造った

問題の脱解について、『三国遺事』では、漂着した場所は慶尚道の同じ海岸(阿珍浦アジンポ)だが、堰そのものではなく「船に載せられた堰」になっている。それを見つけたのはただの老女ではなく、新羅王のために魚介類を獲る役にあった海女だった。この海女も倭種だったに違いない。そうでなければ、半島に到着したばかりの脱解と会話ができないではないか。この時代は「海女」という職種そのものが、倭人・倭種ならではの独特の技の発揮であり、倭人・倭種であることを示したのではないか。(中略)『三国史記』全編を通じて、「漁業」が出てくるのは、脱解に関するこの部分だけだ。

(中略)

半島は三方を海に囲まれているのに、新羅の「朴」「昔」「金」の三王室、高句麗王室、百済王室の始祖建国神話(説話)の中で、海が舞台になっているのは「昔」王室=脱解だけだ。

(中略)初期新羅の主民族も、現在の慶州市中心部ではなく、そこを取り囲む山間の盆地に住んでいた。海辺や低地は彼らが住む場所ではなかったのだ。

日本海側の地から来た賢者

『三国史記』の第一巻(新羅本紀)に、列島から流れてきた賢者が、二代王の長女を娶り、義理の兄弟に当たる三代目の王の死後、四代目の王に即く話が載っている。その賢者の姓は「昔(ソク)」、名は「脱解」だ。

「新羅本紀」は脱解王初年(57年)の条で述べている。
脱解本多婆那国所生也。其国在倭国東北一千里
(脱解はそもそも多婆那国(但馬・古くはタニハに含まれる)の生まれだ。その国は倭国の東北一千里にある。)

その生誕説話も載せている。そこには、新羅の初代王である朴赫居世パクヒョッコセの生誕説話の倍以上の文字数が費やされている。

(中略)

「新羅本紀」の記述からは、多婆那国が「ここにあった」とは特定できない。しかし、日本列島の日本海側、因幡地方から新潟県あたりまでの海沿いの地にあったことは確実に読み取れるのだ。

(中略)

『三国遺事』には、もう一カ所、脱解に触れた部分がある。巻二の最後に収められている『駕洛国記(抄録)』の中に、

駕洛カナク」は「伽耶カヤ」「加羅カラ」と同義とされる。広義の「任那」だ。(中略)『駕洛国記』とは、高麗11代王の文宗の時に、金官(現在の金海地域)の首長として赴任した文人が、滅亡した駕洛諸国に関して、地元の伝承や古史書を集めた作とされる。成立は1076年だから、『三国史記』より70年ほど前になる。(中略)

脱解に関する件は「[王完]夏国の含達王の夫人がにわかに身ごもり卵を産んだ。その卵が化して人間になったので、名前を脱解といった」と始まる。

つまり、この伝承では、脱解は船に乗せられた時、既に卵ではなく、名前もあった。脱解は駕洛に着くや、金首露の宮殿に入っていき、「王位を奪いに来た」と宣言する。しかし、王と変身の術を競って敗れると、船で鶏林(新羅)の方へ逃げていったー抄録に[王完]夏国の所在地を示す記述はない。しかし、抄録そのものを『三国遺事』全体の流れの中で見るべきだ。

「新羅本紀」『三国史記』、『駕洛国記(抄録)』の脱解に関する記事を基に大胆に想像するとこうなる。

日本列島の日本海側にあった多婆那国で、何らかの事情があり、若君を追放することになった。多婆那国には「海人の国」らしい追放の仕方があった。若君は側近、奴婢、それに相応の財宝とともに船に乗せられ、「どこにでも行ってしまえ」と追放されたのだ。

しかし、列島の北方は農耕にも不向きだ。といって対立している倭国に行くわけにもいかない。だから朝鮮半島を目指した。最初に着いた金官国では相手にされなかった。

次に着いた新羅の海岸では、王のために魚や貝を獲る役を務めている倭種の老海女にコネを付けられた。当初は海辺で網元のような仕事をしていたが、やがて市場がある慶州に移り住んだ。ここで老海女のコネを利用して朴王室に近づき、多婆那国から持ち込んだ財宝で新羅の廷臣を包摂して、「賢者」としてまんまと…権力の座に就くと、新羅の初代王にあやかって「自分も卵から生まれた」と称した。

(中略)

新羅とは、二代王の前半の時代から、すでに脱解が大輔として国政・軍事を司っていた。即ち倭種が実験を握っていたー「新羅本紀」を“素直に”読めば、そういうことになる。二代目の南解王、三代目の儒理王の治績として記されていることー当時の小さな村連合のような国での基礎づくりの大部分は、「南解王」「儒理王」の名の下で、実は倭種の「脱解政権」により実行されたのだ。

新羅最初の外交団の首席代表は倭人だった。三代目の王には息子が二人いた。しかし、脱解を四代王に即けるよう遺言して没する(57年)。脱解は王位に即くと翌年には瓠公ホゴンを大輔(総理大臣に相当。「新羅本紀」からは、軍事は脱解が掌握していたと読み取れる)に任命する。この瓠公は倭人だ。

「新羅本紀」の朴赫居世38年(前20年)の条に、こうある。

瓠公者未詳其族姓、本倭人。初以瓠繁腰、度海而来。故称瓠公。

<瓠公とは、その族姓は詳らかではないが、そもそも倭人だ。瓠(ひょうたん)を腰に提げて海を渡ってきた。それで瓠公と称された。>

(中略)脱解による瓠公の大輔起用の結果、出来上がった体制は、王は倭種、ナンバー2は倭人となった。これは「倭種・倭人が統治する国」に他ならない。新羅に《倭・倭体制》が出来上がったのだ。瓠公が海を渡ってきたのは、新羅の初代王である朴赫居世の治世のことで、彼は新羅王室で重用されていた。

(中略)

倭種とは

『三国志』の中の『倭人伝』(俗に魏志倭人伝)は、あまり良い表現ではないが、日本列島に住む人々を倭人といい、その国を倭国と記述した。倭や奴国、那国などは、今も相変わらず変わりない中華思想の他を蔑む語で、魏の直轄地だった帯方郡(ソウル付近)から倭国に至る道筋、そして女王・卑弥呼が君臨する邪馬壹国を盟主にして倭国を構成する様々な単位国家の名前を記している。

脱解は一応、紀元1世紀の人物として記されている。これに対して『三国志』は3世紀後半に成立した。(中略)『三国志』は、脱解王の下で大輔に就く人物について、「倭人」だったと明記している。それなのに脱解に関しては「倭人」とせず、その生国を「倭国の東北一千里」と紹介している。これは多婆那国が倭国の支配圏外にあったからだろう。

(中略)

『日韓がタブーにする半島の歴史』第二章「倭国と新羅は地続きだった」

安羅は倭人の国だったから列島(おそらく九州)にいた倭王には、狗邪韓国など弁韓諸国も、新羅など辰韓諸国も、在住倭種の比率に差はあれ、韓族と倭種、さらにはワイ族や中国系流民が雑居しながら混血が進むという点で、『三国志・韓伝』に「(半島の)南は倭と接し」とある。倭は「同じような国々」としか見えなかったことだろう。

『日韓がタブーにする半島の歴史』終章

新羅の四代目の王は、列島から流れていった人間だー実は、これは日本で近代的な朝鮮史研究が始まるや、すぐに唱えられた説だ。(中略)しかし、どの研究者も、多婆那国を熊本県玉名市、但馬国、あるいは丹波国に比定した程度で深入りしなかった。脱解以降の倭種王については、考察された形跡が殆ど無い(ただし、岩本義文は、「多婆那国とは但馬国の訛音」であり、「脱解は天日槍の子供」として、独自の推理を展開した)。

 

 

これをみると、ヒボコが渡来して出石にやって来たのはそのような背景だったかもしれない。

安羅・加羅というクニはすでにあったのかもしれない。欠史八代の次、10代崇神天皇は3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王とされ、6代孝安天皇は4代前なので、少なく見ても、新羅が勃興するのは前57年とされるが、『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。新羅が半島中南部の加羅諸国を滅ぼして配下に組み入れたのは6世紀中頃である。

新羅の王、天日槍とした「記紀」が編纂されたのは、古事記が712年、日本書紀が720年であるということである。したがって、当時の国号であった新羅としたのも頷けるが、ヒボコの伝承の時代は朝鮮半島南部にあった三韓の地域の一つ「辰韓」であって国はまだない。縄文時代から半島南部から対馬・壱岐・北部九州を含む国々で、倭人が定住し始め、三韓ともに倭国の属国であった。その子孫が王になっているので、日本海に接し、後の任那・加羅と重なる場所にあった南の弁韓を後に新羅が滅ぼす。加羅もすでに新羅であり、辰韓の王は倭人で、すでに加羅(伽倻)は消滅しており、天日槍=新羅の王としても時代的には合っていることになる。

まして韓国最古の国史である『三国史記』は、1145年である。その頃の日本は平安末期、千年以上も後世の書でそれまでの歴史書は現存していないのであるから千年近く経っていて信ぴょう性に欠ける。(日本書紀は百済の百済記・百済新撰・百済本紀を援用している)

出石や丹後に残る伽倻知名

ヒボコゆかりの出石川流域には、安羅に似た安良やすら、伽耶・加羅(または加羅諸国)に似た賀陽かや(今の加陽)やその大師山古墳群は朝鮮半島の横穴式石室古墳であり、半島南部にあった小国との関わりが指摘されている。


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第4章 2.一地方の国造ならば天日槍の「天」はあり得ない

「天」は、皇族以外でも考えられないのに、まして渡来人だとしたら天の神号を付与されることはありえない

アメノヒボコは新羅の王子で、帰化し出石に住み着いて初代多遅麻国造に就いた。

多くの人々は、ここの多くの疑問や矛盾があることに気づいていない。記紀でも百済国と友好関係にあり、その敵国であるはずの新羅国の王子であると淡々と記されている。

『記紀』の『古事記』『日本書紀』は、ヒボコについて詳しくは記していない。 しかし、なぜ、天日槍は、新羅の王子としながら、例外的に天皇家を表す天津神である「天」の日槍とし、皇統である神の名を与えているのだ。突如但馬に住み着いて、初代多遅麻国造に就く。ヤマトの政権のために何か役に立つことをしたとは記録されていない。これはあまりにも不自然で人為的にみえることが最大の疑問なのだ。

たとえば、天日槍を一字ずつに分けて、天は「海、海部のあま」と解釈する例がある。海を「あま」とも読み、漁業をもって仕えた朝廷や神社に御食として海産物を供進する部民を海部といった。京都府宮津市の日本三景天橋立の付け根にある丹後国一宮籠神社のご祭神は彦火明命ヒコホアカリノミコト(「天火明命アメノホアカリノミコト」、「天照御魂神アマテルミタマノカミ」、「天照国照彦火明命」、「饒速日命ニギハヤヒノミコト」ともいうとする)で、代々海部家が神職を務められる。また素潜りでサザエやアワビなどを獲る女性を海女(あま)さんというのも海を“あま”と読ませている。

しかし、だからといって神号では天は天皇家の祖神「天津神」を表す神号で、。空(天)を海部に当てるのは無理があると思う。なぜかというと、神号の天津神の天の○○は高天原(宇宙)におられる神であって、海にまつわる神は国津神となるはずだ。仮名としての漢字である万葉仮名は言葉の意味は無いのでともかくとして、神社の御祭神である神号に限れば分かることだが、天が附されている祭神は、あくまでも天皇や皇室の神(天津神)の中でも中心に位置するさらに特別な天津神のみがつけることが許される神号である。また、神号の天は“アマ”とは読まず“アメノ”◯◯命と読むので海(アマ)とは読めない。

例外的に天照大神・天照大御神はアマテラスだが、この場合、続けて読んで意味を持つので、天御中主命のように「アメノ…」は、天津神である天の◯◯命とは異なる。天満宮=天神、天神社とも呼ぶ例はあるが、菅原道真の祭神名である天満大自在天神の略称で、そもそも「天の○○」という神号は、五柱の別天津神の天之御中主神や天照大御神からはじまる高天原の神で天津神という。ましてや高天原から天降った三貴子である太陽神アマテラス、弟神で月神のツクヨミ(月読命)、下の弟神で海原の神スサノオや、その子孫である大国主などでさえも地上に降りたら国津神とされて、天が冠されていないのに、渡来人であるならば日槍に天と与えることなどあり得ないと考える。皇室以外の豪族や地方の神は「国津神」とされ、天津神と区別される。

天が海や海部であれば、天日槍も「出石(の)命、海の日槍命、海部直日槍命などとなるはずである。神号の「天」が冠される神は、皇統である天津神のなかでも、とくに中心に位置する天之御中主命や天照大神(天照大御神)などごく一部に限られる。ヒボコが新羅国の王子であっても、軽々に渡来人で皇統でもない人物に「天」ろ許したり、海を天にしたりすること、国史である『記紀』が許すはずはないのだ。

皇室は同じ倭人でさえ、妃を娶ることはあっても、皇室以外から男子を入れることは拒絶し、男子一系を守るゆえに皇統が守られてきた。渡来人の東漢氏や西文氏が帰化して漢字伝授などで文官に招かれることはあったが、決して朝廷内では高い身分は与えられていなかった。高天原から天降ったスサノオや、その子孫である出雲大社の大国主などでさえ国津神と扱われているのに、まして但馬国という一地方の国造などに、新羅の渡来人であろうとなかろうと、皇統以外から養子に入るなど長い皇族の系譜からあり得ないのである。

何んで?よそから来ていきなり国造ってなれたりするの?

あまりにも突然に、しかもヤマト朝廷以外の但馬に帰化した渡来人が、初代の多遅麻(但馬)国造となる。作為的不自然である。

『国司文書 但馬故事記』は郡ごとに八巻あるが第五巻・出石郡故事記は、他の郡と異なり、全く不自然な出来事が記述される。

それまでの出雲系国造大己貴命が多遅麻(但馬)に入り、伊曾布・黄沼前・気多・津・薮・水石の県を開く。県主(のち国造)は代々世襲制であった。それまで出雲系の世襲制であった出石県主が、なぜか突如、アメノヒボコがやってきて初代の多遅麻(但馬)国造となるのだ。しかも、その時期が県を廃して国・郡と改め、中央集権を強化したタイミングが合致しているのだ。

渡来人が朝廷内の要職に就いたりできない

まずヒボコが新羅の王子であっても、渡来人であれば、どんなに優秀で倭国に忠誠を誓って帰化しようとも、中央の要職や国造に就けたりはしなかった。何世代もたって、すっかり日本人として認知されたのならまだ理解できるが、まして、渡来人であればなおさらのことだ。

渡来人として朝廷に宗教や文化を伝え帰化した氏族には、はた氏、東漢氏 (東文氏)やまとのあやうじ西文氏かわちのふみうじなどがある。朝廷は彼らを重用はしただろうが、王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌の体制である部民(制)である職人部としての待遇で低い身分であるといえる。まして、皇統では天皇家以外から女性を妃に迎えることはあっても、男系の天皇家が、皇統以外の血筋の違う男子に「天」の称号を与えられたりはしない。

それは丹波から切り離して但馬国を置き、中央の直轄力を高めねばなければならない止むに止まれぬ緊急の事情があったのではないだろうか。

少し長くなるが、ここはポイントなので暫く『国司文書 但馬故事記』を読んでみよう。

『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記

年代

クニツクリオオナムチ(国作大巳貴命)は、出雲国より伯耆・稲葉(因幡)・二県国(二方)を開き、多遅麻(但馬)に入り、伊曾布・黄沼前(城崎)・気多・津(朝来)・藪(養父)・水石(出石)の県を開いた。

オオナムチは、この郡(出石郡)のおられた時、地上に数夜光るものが見えた。その光は地をいくつも切り裂いて、白石があらわれた。その白石は突然に女神となった。

オオナムチは女神にあなたは誰だと訪ねた。すると女神は「私は因幡のヤガミヒメ(八上姫)と申します。夫との間に御子が生まれたのですが、夫は木の間に置いて去っていきました。ですが夫をずっと愛しているのでここで夫が帰るのを待っております。子は大屋の御井のもとに置いています。」と答えた。(式内御井神社 養父市大屋町宮本)

オオナムチはそれを聞いて、「おお、なんと愛しき少女であろうか。わたしはあなたを愛しく思います。」

二人の間にミズシノクシタマ(御出石櫛玉命)が生まれました。ミズシノクシタマは、アメノホアカリ(天火明命)の娘アメノカグヤマトメ(天香山刀売命)を妻にし、アメノクニトモヒコ(天国知彦命)を生みました。

第1代神武天皇は、アメノクニトモヒコを(初代)御出石県主に命じました。

6年春3月 アメノクニトモヒコは、オオナムチとミズシノクシタマを水石の丘にまつり、御出石神社と名付けました。(式内(名神大)御出石神社の古社地は水石とされる)

アメノクニトモヒコは、小田井県主(城崎郡の古名)イキシニギホ(生石饒穂命)の娘ニギシミミ(饒石耳命)を妻にしアメノタダトモ(天多他知命)を生みました。

第2代綏靖天皇6年、アメノタダトモは、御出石県主となりました。アメノタダトモは、美伊県主(のち美含郡)の娘フクイヒメ(福井毘売命)を妻にし、アメノハガマ(天波賀麻命)を生みました。

第4代懿徳天皇7年 アメノハガマは、御出石県主となりました。アメノハガマは丹波国造の祖フトダマ(太玉命)の娘・サチヨヒメまたはユキヨヒメ(幸世毘売命)を妻にし、アメノフトミミ(天太耳命)を生みました。

第5代孝昭天皇40年 アメノフトミミは、御出石県主となりました。アメノフトミミは、小田井県主サノ(佐努命)の娘サイヒメ(佐依毘売命)を妻にし、マタオ(麻多烏命)を生みました。

(ここから何故か突然、文脈が繋がらず…)

第六代孝安天皇の53年(孝安天皇の在位期間は算定で:BC392-291年、実年:西暦60~110年)、
新羅の王子・天日槍命が帰化しました。
天日槍命は、ウガヤフキアエズ(鵜草葺不合命・神武天皇の父)の御子・稲飯命イナイノミコトの五世孫です。

(このあとは他に書いているので省略。かなりくわしくヒボコのいきさつを詳細に記述している。いかにもこの不自然な流れを説明する必要があったのか)

61年春2月 天皇は、アメノヒノコを多遅麻国造としました。ヒボコは、御出石県主天太耳命の娘マタオ(麻多烏命)を妻にし、アメノモロスギ(天諸杉命)を生みました。

第7代孝霊天皇38年 ヒボコの子アメノモロスギを多遅麻国造としました。モロスギは、丹波国造フトウマシマ(真太味間命)の娘マエツミ(前津見命)を妻にし、アメノヒネ(天日根命)を生みました。

40年秋9月 モロスギは、アメノヒボコを出石の丘にまつり、そしてヤグサノカンダカラ(八種神宝)を納めました。(式内(名神大)出石神社 豊岡市出石町宮内)

(中略)

このあと、アメノヒネ(天日根命)が多遅麻国造となり、モロスギを出石丘にまつりました。(式内諸杉神社 豊岡市出石町内町)

ヒボコは中央から派遣された?!

作為的で極めて強い権力が働いたからだと考える。それはのちに律令時代から、国造にかわり、朝廷(中央)から各国へ国司が派遣された(但馬であれば但馬守タヂマノカミ)。しかしそれも平安期には国司に任命されても、実際は京の都に住み赴任しなくなっている。それは中世以降武士が台頭し、朝廷の実権が薄れてからも守護大名に但馬守などと称号を与えて、形式的に守という称号だけは残った。

近代になって、明治新政府によって中央集権が強化され、廃藩置県を行い、県令(いまの知事)としてそのまま藩主が就いたりしたが、とくに幕府寄りだった藩や兵庫県など重要な港だった県へは、中央から旧薩長などの旧藩士を赴任させたことを照らせば、ヒボこの時代と変わっていない。

ヒボコは倭国にタニハ(丹波国・のち分国する但馬・丹後を含む。分国で丹波を残し、中心だった日本海側を丹後と改め、国府を都に近い今の亀岡市に遷した)を組み入れるために派遣された中央の臣で、しかも天皇の皇統ではないかと考えれば「天」は腑に落ちる。

ここで改めて忘れてはならないのは、日本列島と大陸を結ぶ表玄関は、つい200年前の幕末の開国まで日本海側であったことを念頭に置いてみなかえればならない。西日本から列島を統一していった倭(ヤマト=大和)にとって、朝鮮半島に九州北部や出雲の方が近いが、陸路が整備されていなかった頃には交通手段は海路から発達していた。皇都から最も近い地方国では、近江(琵琶湖)から若狭国(現在の敦賀までを含む福井県西部)・丹波(丹後)であろう。もっと早いルートとして大和川から大阪湾に出て、加古川・由良川ルート(名付ければ丹後ルート)か、市川・円山川ルート(但馬ルート)であろう。

『日本書紀』でヒボコが辿ったルートは、瀬戸内海・淀川・琵琶湖・敦賀・但馬出石(日本海ルート)

『播磨国風土記』では、瀬戸内海・揖保川・円山川・但馬出石…市川・円山川(但馬ルート)

 

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第3章 3.ヒボコより伊和大神の方が鉄集団っぽい

ヒボコより伊和大神の方が鉄集団っぽい

『播磨国風土記』にある伊和大神とヒボコの土地(国)争いを、鉄原料の奪い合いであると見て、タタラ製鉄に優れていた出雲からやって来た伊和大神の方が鉄の集団にふさわしいという説もある。

そして、この二人を祀る神社が、それぞれ但馬国一宮出石神社・播磨国一宮 伊和神社であることが、それを後世に証明している。

ここで、『播磨国風土記』をもう一度、振り返ってみよう。

ヒボコは宇頭ウズの川底(揖保川河口)に来て、国の主のアシハラシコ(葦原志挙乎命)に土地を求めたが、海上しか許されなかった。
ヒボコは剣でこれをかき回して宿った。葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべくイイボノオカ(粒丘)に上がった。

葦原志挙乎命とヒボコが志爾蒿(シニダケ=藤無山)に到り、各々が三条の黒葛を足に着けて投げた。

その時、アシハラシコの黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条(ミカタ)と云う。

ヒボコの黒葛は全て但馬の国に落ちた。それで但馬の伊都志(出石)の地を領した。

播磨国一宮 伊和神社

播磨国一宮 伊和神社

兵庫県宍粟市(旧一宮町)にある神社。宍粟市一宮町須行名407
播磨国一宮で、延喜式内社(名神大社)、旧社格は国幣中社。

伊和神社の社叢しゃそうは、「兵庫の貴重な景観」Bランクに選定されている。

祭神は伊和大神(大己貴神おおなむちのかみ)を祀る。『播磨国風土記』にその名が見え、神社周辺は豪族・伊和族の根拠地であったと考えられ、末裔の伊和一族が祭祀したとみられている。

伊和大神は、播磨国の国土開発の神として大己貴神おおなむちのかみ大国主神おおくにぬしのかみ大名持御魂神おおなもちみたまのかみとも呼ばれ、『播磨国風土記』では、葦原志許乎命あしはらしこおのみこととも記されている。『播磨国風土記』も伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神であると思わせる構成であるのだ。

播磨国の「国造り」をおこなった神とされており、『播磨国風土記』には、記紀にはないヒボコとの土地争いが記されている。

『播磨国風土記』には、宍粟郡しそうから飾磨郡しかま伊和里いわのさとへ移り住んだ、伊和君いわのきみという古代豪族の名が見えることから、この伊和氏が祖先を神格化した神とも考えられている。

同記によると、オオナムチ(大己貴命)は、出雲から来た神と記されている事から、大己貴命は出雲から宍粟邑(宍粟市一宮町伊和)あたりに住みつき、勢力を拡大し、伊和族とともに播磨統一を目指したと思われてきた。しかし最近では、オオナムチは、奈良県桜井市にある三輪山付近で勢力を伸ばしていた一族の長で、この三輪族がなんらかの理由で三輪の地を離れ、海路、播磨に辿り着いたのではないかと言われ始めている。また、播磨土着の神が、後に大国主神に習合されたという見方もある。(アメノヒボコは、西から海路瀬戸内海から播磨に上陸している)

『播磨国風土記』によれば、大己貴命が姫路平野に辿り着き、居を構えた手柄山てがらやま南方の山を、三和山と名付けたと言う。(大和の)三輪山西南麓には金屋遺跡があり、ここからは縄文時代初期の土器が発見されており、日本で最も早く拓けたところと思われるが、この遺跡からは弥生時代の遺物とともに、製鉄が行われていた事を示す遺物が発見され、近くの穴師兵主神社にも鉄工の跡が見られると言う。つまり、この三輪山は古代の鉄生産に関わる山であり、この山を御神体とする大神おおみわ神社の御祭神は大物主大神で、この神も大己貴命と同一神とされている。

鉄と穴師

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜弘明の中に、

『古代の鉄と神々』真弓常忠によると、砂鉄を含む山は「鉄穴かな山」と呼ばれ、砂鉄を採る作業を「鉄穴かんな流し」と言い、そこで働く人々を「鉄穴師かなし」と呼ぶ。つまり古代において「穴」は「鉄穴かな」の意から「鉄」を表し、オオナムチ(大己貴命)は「大穴持命」・「大穴牟遅命」とも記す事から「偉大な鉄穴の貴人」という意味で、すなわち「鉄穴」の神であり、産鉄の神であったということがわかるのだ。大己貴命という名は、新しい産鉄・製鉄の技術を持った鉄鍛冶の長が代々、継承した名前かと思われ、播磨に辿り着いた大己貴命とその一族は、市川や夢前川、揖保川流域の砂鉄を使って、鉄を作り、武器や農具に変えて、播磨を支配下に入れ、豊かな田園地帯を作り上げていった。

『播磨国風土記』には、オオナムチとともに大活躍を見せるスクナビコナ(少彦名命)という神さまが登場し、2人の神さまが競う様に市川を北上し、播磨を開拓して行く様子が描かれている。日本書紀によると、オオナムチが出雲の海岸でスクナビコナと出会った時、スクナビコナは、手のひらに乗るほど小さく、まだ言葉もしゃべれなかったという。その後、オオナムチは、スクナビコナの父神さまに会い、弟として一緒に国づくりをさせてやってくれと頼んだ。産鉄・製鉄の神さまであるオオナムチに対して、スクナビコナは、薬学や養蚕、酒造りなどの神様と言われ、日女道丘ひめじおか(姫路城のある今の姫山)に落ちた蚕子はスクナビコナの荷物かもしれず、播磨で酒造りが盛んなのもスクナビコナのお陰なのかもしれない。

アシハラシコオ(葦原志許乎命)の葦原とは

アシハラシコオ(葦原志許乎命 大己貴神の別称・葦原醜男)は同神であると思わせる構成である。葦原醜男は葦原志許乎命とも記すが、葦原とは何かを知ることが必要になってくる。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏は、

『古事記』は、わが国を「豊葦原の瑞穂の国」と記している。瑞穂の国はみずみすしい稲穂の実る国で理解できるが、豊葦原がわからない。

(中略)古代の人は鉄鉱の団塊が葦など植物の根などから長い間に褐鉄鉱が生成・蓄積され水辺に層をなすことを知っていた。これをスズ(錫)と称し、万葉集は信濃の枕詞として「みすず苅る」も用いる。ミスズ(信濃)はスズが特産であり、当時から鉄は貴重品であり、その意味でスズに「ミ(御)」をつけたのであろう。

諏訪大社は古代の製鉄に関与した社で、古代よりスズを用いた製鉄が盛んだったことが浮かび上がってくる。

実は、古代日本は製鉄原料に事欠かなかった。火山地帯の河川や湖沼は鉄分が豊富で、水中バクテリアの働きで葦の根からは褐鉄鉱が鈴なりにできたからだ。では何故、鈴なり=鈴というのか。

振ると音のする鈴石や鳴石というものがある。これも葦などの根を包むように成長し、形成された褐鉄鉱の内部の根が枯れて消滅し、内部の鉄材の一部が剥離して、振ると音を出すことがある。これが鈴石などとよばれるのである。

そして足などの根に楕円・管状になった褐鉄鉱が密生した状態が「すずなり=鈴なり=五十鈴いすゞ」の原義であった。(中略)これを横にすると何処か銅鐸に似ているように見えないか。

ここに豊葦原の意味がわかった、といっていいだろう。わが国では神代の昔から鉄が作られ、人々は製鉄職人を崇め、最初の原料はスズ=褐鉄鉱であった。

当時の人々は、「葦原」はスズを生み出す源であることを知っていた。したがって、「豊葦原」とは、「貴重な褐鉄鉱を生む母なる葦原」と云う意味なのだ。(中略)

それが各地から出土する銅矛で象徴されたと考えてよい。また鐸とは「大鈴なり」とあるように、鈴石の象徴で、これを打ち鳴らすことで葦の根にスズが鈴なりに産み出されることを祈ったのだろう。そして祭器としての矛や鐸は、古くは神話にあるように鉄が使われていたが、青銅器を知るに及んで、加工しやすく、実用価値の低い青銅を用いるようになっていった。このような考えに逢着ほうちゃくしたのである。

太古、「豊葦原」から産み出されるスズから鉄を作り、その鉄を使った農具で開墾し、「瑞穂の国」を造る。この両者は、古代より豊かな国の礎いしずえ、両輪と認識されていたゆえに、わが国の美祢となったのである。

気多神社と葦田神社

『播磨国風土記』では、「アシハラシコの黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条(ミカタ)と云う。」

気多郡にそのアシハラシコの但馬総社 気多神社(豊岡市日高町上郷)があるが、そのすぐ隣村が今の豊岡市中郷で、古くは気多郡葦田郷。式内葦田神社がある。

式内葦田神社

『但馬故事記』に葦田神社が現れるのは、人皇15代神功皇后2年のことだ。気多大県主の物部連大売布命が亡くなり、その子・物部多遅麻連公武をもって多遅麻国造とする。

それ以前は初代多遅麻国造となったアメノヒボコ以来、代々ヒボコの子孫が出石に多遅麻国の府を置いていたが、人皇十代崇神天皇十年に重大事が起きる。
丹波青葉山の賊、陸耳ノ御笠が土蜘蛛・匹女ら群盗を集めて民の物を略奪したのである。多遅麻の狂(今の豊岡市城崎町来日)の土蜘蛛ももこれに応じ、著しく猖獗ショウケツを極めた。崇神天皇は、開化天皇の皇子、彦坐命にこれを討たせた。彦坐命は子の将軍丹波道主命を補佐とし、多遅麻・丹波の国造・県主らを率いて、多遅麻美伊県伊伎佐御崎の海上で討滅した。
天皇はこれを賞し、彦坐命に丹波・多遅麻・二方の三国を与え、大国主とした。彦坐命は多遅麻粟鹿県に下向し、刀我禾鹿宮に住んだ。諸将を各地に置き鎮護となした。
丹波国造 倭得玉命、多遅麻国造 天日楢杵命、二方国造 宇津野真若命
この時多遅麻の県主がみな禾鹿宮に朝り、その徳を頒ける。故に朝来ノ県と云うなり。(それまでは比地県)
それから十三代成務天皇五年に、彦坐命の5世孫、船穂足尼命を多遅麻国造とし、夜父宮(今の養父神社)に府を置くことで、アメノヒボコから多遅麻日高命まで代々世襲制で出石県に国造と府が置かれていた時代は終わる。おそらく大国主のいる朝来から近い夜父に遷したのだろう。しかし一代にして気多県・黄沼前県、摂津河辺を賜った物部連大売布命の子、物部多遅麻連公武が多遅麻国造となる。(これ以降、律令制が瓦解するまで但馬国府は気多郡となった)

アシハラシコの黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に
『播磨国風土記』では、「アシハラシコの黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条(ミカタ)と云う。ヒボコの黒葛は全て但馬の国に落ちた。」は偶然なのか、多遅麻国造は出石から養父、気多と遷るのである。

多遅麻国造 物部多遅麻連公武は、

天目一筒命の末裔・葦田首を召し、刀剣を鍛えさせ、(→式内葦田神社:豊岡市中郷)
彦狭知命の末裔・楯縫首を召し、矛・楯を作らせ、(→式内楯縫神社:現在地ではなく鶴岡字多々谷)
石凝姥命の末裔・伊多首を召し、鏡を作らせ、(→式内井田神社:豊岡市日高町鶴岡)
天櫛玉命の末裔・日置部首を召し、曲玉を作らせ、(→式内日置神社:同日置)
天明命六世の孫、武碗根命の末裔・石作部連を召し、石棺を作らせ、(おそらく豊岡市日高町石井)
野見宿禰命の末裔・土師臣陶人を召し、埴輪・甕・ホタリ・陶壺を作らせ、(→式内須谷神社:豊岡市日高町藤井)

大売布命の御遺骸に就け、

御統玉を以て、モトドリを結い、御統五十連の珠を以てお顎に掛け、磐石の上に立て、これを石棺に納め、射楯の丘に葬る。而して(そして)埴輪を立て、御酒をほたり(徳利)に盛り、御食を陶壺に盛り、之を供え、草花を立てて、之を葬る。

またずっとのちになり、人皇37代孝徳天皇の
大化三年、気多郡高田邑に兵庫を造り、軍団を置き、出石・気多・城崎・美含を管轄する。その際に役職に隊正があり、それぞれ上記の村の男を任命している。

また、葦田氏に剣・鉾・鏑・鏃やじり
を鍛えさせている。

これらから、気多郡の気多神社、葦田神社、井田神社、楯縫神社の古社地タタノヤ(多々谷)は、タタラに通じ、ヒボコの世から神功皇后の頃、気多神社周辺が但馬の鉄の産地であったことが浮かび上がる。おそらく砂鉄が採れたので旧日高町(旧気多郡)で最も古くから記されている気多神社と、近い位置に式内社が集中するのか?井田神社、葦田神社がこの近い距離にいずれも式内社であり、なぜ但馬国府をこの周辺に置いた。

いったいこの小さい国である但馬に何が起きようとしていたのだろうか?但馬は谿間とも記され、平野部の少ない小さな国が、倭国と朝鮮半島という日本海を挟んだ接点として、極めて倭国の国家存亡の危機を握る場所になりつつあったのではないか。新羅が伽耶が百済が裏切ったのだ。


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第3章 4.アメノヒボコとツヌガアラシトは同一人物なのか?

アメノヒボコは第十代崇神天皇を慕って来日したと『日本書紀』はいう。ところが『古事記』は全く異なる伝承が残される。応神天皇の段に、「昔、新羅の国王の子有りき。名は天之日矛と云う。この人が帰化してきた。

『古事記』にはヒボコの妻が夫といさかいしたあと、日本に逃げてきて、のちに難波なにはに留まり、比売碁曾ひめこそ神社(大阪市東成区)の阿加流比売神あかるひめのかみになったことを伝えている。ヒボコは妻の逃げたことを知り、難波まで追いかけていったが、難波の神が邪魔をして入れてくれない。そこで仕方なく、ヒボコは多遅麻国(但馬)に行き、この地に留まって、俣尾(麻多烏)を娶り、子をなした。

ここで謎めく人物がもうひとり登場する。それが意富加羅国(金官伽耶)の王子・ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)だ。『日本書紀』のアメノヒボコが登場する直前の垂仁二年に記録される。

崇神天皇の時代のことだ。額に角の生えた人が船に乗って越国の笥飯浦(福井県敦賀市気比神宮付近)にたどり着いた。そこで、その男から地名が角鹿になったという。

ある人が素性を問いただすと、男は次のように答えた。

「意富加羅国(金官伽耶)の王子で、名はツヌガアラシトです。日本に聖皇がいらっしゃると聞きつけてこうしてやってきたのです。(中略)道の分からないままに海岸伝いに北海(日本海)からめぐり出雲を経て、今ここに至ったのです」

ところが、ツヌガアラシトが慕った聖皇=崇神天皇は既に亡くなられていた。そこでその後三年間、垂仁天皇に仕えた。天皇はツヌガアラシトに「自国に帰りたいか」と問うと、「ぜひとも」と答えた。そこで垂仁天皇は「もし、道を間違えずにすばやくやって来ていれば先帝に仕えることができたのに残念だ。そこでお前の国の名を改めて御間城天皇(崇神天皇)の名を取って国の名にしなさい」と述べられた。そして赤織絹を給い、本国に帰った。その国が「弥摩那国(任那)」と名乗るのはこのためだ。

また別伝によれば、はじめツヌガアラシトが伽倻にいたころ、黄牛に農具を負わせ田舎に行くと、牛が逃げてしまった。追っていくとある村のなかに入ってしまった。その牛は役人に食べられてしまったが、その代りに白い石をもらい受けた。これを寝室に置くと、石は美しい童女に化けたのである。

ツヌガアラシトは喜び、契を結ぼうとしたが、童女は隙きを見て逃げてしまった。それを追うと日本に着いてしまった。逃げた童女は難波にいたり、比売碁(語)曾神社の祭神になり、あるいは豊国(大分県)国前郡にたどり着き、そこでも比売碁(語)曾神社の祭神になった…。

この話もアメノヒボコとそっくりだ。どうやらアメノヒボコとツヌガアラシトは同一人物だったとの通説はこういうことだ。

朝鮮半島最南端の伽耶諸国は、西側が百済に、東側が新羅にかすめ取られた。記紀編纂の700年頃には、ただ単に伽倻任那を「百済」「新羅」と呼ばれ混同される

『日本書紀』には、ツヌガアラシトの妻となっており、同じように日本にやってきてからは、難波の比売碁曾神社の神となり、また豊前国国前郡(大分県国東郡姫島(東国東郡姫島村))の比売語曾神社の神ともなって二か所に祀られている、と記されている。

仲哀天皇と神功皇后の越前笥飯宮(気比神宮)行幸

アメノヒボコと人皇14代仲哀天皇2年、天皇は皇后息長帯姫命と伴に越前笥飯宮(気比神宮)に行幸される。そして皇后を笥飯宮に置き、さらに南を巡狩されていた。この時偶然、熊襲が背いたのである。

天皇は使いを越前笥飯宮に遣わし、皇后に穴門(下関海峡)で会わんことを伝え穴門に至った。皇后は、越前角鹿より船に乗り北海を若狭(湾)の加佐・与佐の竹野海を経て、多遅麻国の三島水門ミシマミナト(豊岡市津居山)に入り、内川(円山川)を遡り、粟鹿大神・夜父大神に詣で給う。ついで出石川を遡り、伊豆志大神に詣でます。(中略)皇后は下って小田井県大神に詣で、水門に帰り宿られる。ある夜越前笥飯宮に坐すイササワケノオオカミ(五十狭沙別大神)が夢に見え、皇后に教えました。

「船をもって海を渡るには、すべからく住吉大神を御船に祭るべし」と。

皇后は謹んで教えを奉じ、底筒男命・中筒男命・表筒男命を祀られた。船魂大神これなり。いま住吉大神を神倉山に祀るはこの因に依るなり。(絹巻神社=名神大 海神社)

また御食を五十狭沙別大神に奉る。故にこの地を気比浦と云う。

のち香餌大前神十三世の孫、香餌毘古命は、五十狭沙別大神・仲哀天皇・神功皇后をこの地に斎き祀ると云う(式内気比神社)

皇后の御船がまさに水門を出るとき、黄沼前県主賀都日方武田背命はその子武身主命を皇后に従わせ、嚮導をしました。武身主命は御船に、底津海童神・中津海童神・表津海童神を祀り、これに乗り、嚮導をなす。
故に武身主命を名づけて水先主命と云う。御船が美伊の伊伎佐御碕に至り日が暮れました。イササワケノオオカミの御火を御碕に灯します。これにより海面が明るくなりました。故に伊佐々の御碕といいます。御火は御船を導いて、二県国の浦曲に至り止まりました。故にその地を御火浦と云う。
皇后はついに穴門国(長門国)に達しました。水先主命は征韓に随身して、帰国ののち海童神を黄沼前山に祀り、海路鎮護の神と為す。
水先主命は水先宮に坐す(式内 深坂神社・豊岡市三坂334-5)。水先主命の子をもって海部直となすはこの因に依る。

(人皇15代)神宮皇后6年秋9月、須賀諸男命の子須義芳男命をもって出石県主と為す。須義芳男命は皇后に従い、新羅を征ち功あり。故に皇后は特に寵遇を加えました。

若狭・越前のヒボコゆかりの神社

『日本書紀』ヒボコは菟道河うぢがは(=宇治川)を遡り、近江国の吾名邑あなのむら若狭国わかさのくにを経て但馬国に住処すみかを定めた。若狭・越前にヒボコゆかりの神社がある。

越前国一宮 氣比(ケヒ)神宮

福井県敦賀市曙町11-68
越前国一宮、旧社格は官幣大社・別表神社
主祭神 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)「気比大神」または「御食津大神」とも称される。
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう) …仲哀天皇の皇后

「イザサワケ」のうち「イザ」は誘い・促し、「サ」は神稲、「ワケ」は男子の敬称の意といわれる。そのほかの名称として、史書では「笥飯」「気比」「御食津」と記されるほか、『気比宮社記』では「保食神」とも記される。これらは、いずれも祭神が食物神としての性格を持つことを指す名称であり、敦賀が海産物朝貢地であったことを反映するといわれる。
一方、『日本書紀』に新羅王子の天日槍の神宝として見える「胆狭浅大刀(いささのたち)」との関連性の指摘があり、イザサワケを天日槍にあてて新羅由来と見る説もある。

気比神宮境内摂社 式内 角鹿神社

御祭神 都怒我阿羅斯等命つぬがあらしと のみこと・松尾大神

氣比神宮の摂社に鎮座する。ご祭神のツヌガアラシトをヒボコと同一視されることがある。

ヒボコは『日本書紀』の記述によって、ツヌガアラシトと同一人物と目される。

『筑前国風土記』逸文に、「高麗の国の意呂山オロサンに、天より降りしヒボコの苗裔すえ、五十跡手イトテ是なり」とある。意呂山は朝鮮の蔚山ウルサンにある。意呂オロとは泉のこと意味するという。五十跡手は、『日本書紀』によれば、「伊都県主の祖」となっている。このようにヒボコの苗裔と称するものが、伊都国にいたという伝承は、ヒボコの上陸地が糸島半島であったことを物語る。

ツヌガアラシトはそれから日本海へ出て出雲から敦賀へと移動している。ヒボコは瀬戸内海を東遷したように思えるが、日本海から播磨の南部へ移動したという説もあって、その足跡を明瞭に辿ることは難しいが、ヒボコの妻の足取りは、ややはっきりしている。

 

福岡県糸島郡の前原町高祖たかすに高祖神社がある。もとは高磯たかそ神社と呼ばれ、ヒボコの妻を祀るとされていた。また大分県の姫島に比売語曾ひめこそ神祠(神のやしろ、ほこら)がある。先の『日本書紀』の記述に見える神社である。

式内 静志神社

福井県大飯郡おおい町父子46静志1
御祭神 「少名毘古名神」(すくなびこなのかみ) 天日槍命とする説もある

『若狭国神名帳』に「正五位志津志明神」とある古社。鎮座地の父子(ちちし)は、静石の訛りで、但馬の出石と同じものだと考えられ、本来の祭神は、天日槍命とする説もある。

式内 須可麻(すかま)神社

福井県三方郡美浜町菅浜
御祭神 「世永大明神(菅竈由良度美姫)」「麻気大明神」
『古事記』によると、菅竈由良度美姫(すがかまゆらどみひめ)は天日矛神の子孫であり、 神功皇后の祖母、応神天皇の曾祖母にあたる姫。 敦賀地方は、天日矛一族の渡来気化地とする説があり、その子孫を祀った神社と考えられる。


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第5章 2.豊岡盆地は朝鮮半島へのヤマトの軍事拠点

不自然なアメノヒボコの出現と但馬分国

『日本書紀』では、アメノヒボコは、垂仁天皇3年3月条において新羅の皇子の天日槍が渡来したとして7つの神宝を携えてきてたと記す。

ところが、唯一詳細に記しているのが『国司文書 但馬故事記』第五巻 出石郡故事記である。

『国司文書 但馬故事記』は、但馬国の旧郡ごとに全八巻に分かれる。いずれもが「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命が、田庭(タニワ)の真名井に降り、稲や五穀を植えて豊かにしてのちに、国作大巳貴命は天火明命に谿間(但馬)を開かせる。」という書き出しがほぼ一致しているのに対し、

ところが第五巻 出石郡故事記だけは、国作大巳貴命は、東に田庭(丹波)からではなく、出雲国より伯耆・稲葉(因幡)・二県国(二方国)を開き、多遅麻に入り、伊曾布・黄沼前・気多・津・籔・水石の県を開くことになっている。西から順に国作りしたことになっている(伊曾布はのちの七美郡、黄沼前は城崎郡、気多はほぼ旧日高町域、津は狭津のことで、美含郡、今の美方郡香美町佐津、籔は養父郡、水石は出石郡)

国作大巳貴命は八上姫の間に御出石櫛甕玉命を生む。
御出石櫛甕玉命は、天火明命の娘、天香山刀売命を娶り、国知彦命を生む。

人皇一代神武天皇は、御出石櫛甕玉命の子、天国知彦命を以って、御出石県主と為す。
6年春3月、天国知彦命は、国作大巳貴命・御出石櫛甕玉命を水石丘に斎き祀り、御出石神社と称し祀る。

御出石県主

御代御出石県主続柄続柄
人皇一代神武天皇1代天国知彦命御出石櫛甕玉命の子饒石耳命小田井県主 生石饒穂命の娘
〃二代綏靖天皇6年2代天多他知命天国知彦命の子福井毘売命美伊県主 武饒穂命の娘
〃四代懿徳天皇7年3代天波賀麻命天多他知命の子幸世毘売命丹波国造の祖 真太玉命の娘
〃五代孝昭天皇40年4代天太耳命天波賀麻命の子佐依毘売命小田井県主 佐努命の娘
タニハから多遅麻国分立
〃六代孝安天皇61年初代国造天日槍麻多烏命天太耳命の娘

天日槍が但馬を治めたのは偶然ではない?!

縄文海進期の豊岡盆地 Mutsu Nakanishi さんより

上の図を見ていただきたい。これはMutsu Nakanishi さんが作成された縄文時代の豊岡盆地(左)を拙者が修正・加筆したものである。

当時の豊岡盆地は黄沼前海キノサキノウミと呼ばれる日本海の入江湖であった。黄沼前県キノサキノアガタ、で後に小田井オダイ県と呼ばれるようになり→城崎郡キノサキグンとなり、現在の豊岡市。

JR山陰本線は豊岡から城崎温泉まで円山川に沿って北上し、城崎温泉を過ぎると西の鳥取までは、リアス式海岸で高低差に富んだ地形が長く続く。いくつものトンネルと日本一高い余部橋梁あまるべきょうりょうといった地形は、山陰本線最大の難工事で全開通が最後まで遅くなった箇所だ。車社会になり道路が整備される一昔前まで隣の村へは歩いて行くのは大変で船で行き来していたと聞く。これは出雲・因幡の西側から陸路で攻めようと思っても大軍が海岸線を東の豊岡盆地に向かうことは不可能だったからではないだろうか。豊岡盆地の東も久美浜湾まで三原峠があり、南方も播磨からは生野峠、丹波とは遠阪峠に阻まれている。円山川河口は両側が急峻な断崖で狭い。要塞としては敵からの攻撃を防ぐには最適な地形なのである。

ヤマトはまだヤマト政権下にない出雲圏や朝鮮半島の前線基地として但馬に注目し、半島情勢や朝鮮語(当時大和言葉と似ていたらしいが)と日本語が話せるヒボコを初代の多遅麻国造にして丹波からも分立させヤマト政権の権限を強化したのではないか。出石神社のすぐ近くにある古墳時代前期(四世紀初頭)の袴狭遺跡から、「大船団の線刻画」が出土している。長さ197cm、幅16cm、厚さ2cmの杉材に15隻の外洋船(準構造線)が巨大な船を守る陣形を作っているような絵が刻まれているのだ。

突如、よそ者で、しかも新羅の渡来人であるアメノヒボコが、大丹波のしかもその丹波の中心から離れた西の但馬に入っていて、但馬国の初代国造としてタニハ(大丹波)から分立する。そのような作為的なことが出来るのは、ヤマト政権が関与しているからに他ならないと思えてならない。

不便だから価値があった!?但馬・出石

そんなことを『アメノヒボコ、謎の真相』関裕二で、豊岡について記述している。

門脇禎二氏は但馬について、出雲を陸路で攻略するための重要なポイントだったと指摘している(『日本海域の古代史』東京大学出版会)。

(中略)

おそらく古代の人々は、因幡国と但馬国を徒歩では移動していなかったはずだ。

(中略)但馬も西から見れば陸の孤島だ。但馬から見ても、出雲への道のりは、険しく骨が折れる。山陰本線は城崎温泉(豊岡)から海岸線に沿って走るが、トンネルと鉄橋ばかりなのは、地形が複雑で高低差があるからだ。

(中略)豊岡の「不便さ」に気付いたとき、豊岡盆地の意味を再確認できた。

豊岡市は、西側から陸路で攻めようと思っても、大軍が海岸線を東に向かうことは不可能だったのだ。そして豊岡は、門脇禎二のいうような「陸路で出雲につながっているから拠点になった」わけではなかったのだ。

ならばなぜ、ヒボコは天皇から下賜かしされた土地を拒んでまでして、但馬・出石(豊岡市出石町)に固執したのだろう。もちろん、アメノヒボコがヤマト建国直前に日本にやって来たと筆者は考えるから、この時代には日本国としての「天皇」はまだ誕生していなかったし*2、ヤマトに強い王が立っていた可能性は低い。

(中略)

豊岡盆地は、女性に例えると、円山川が「産道」で、奥座敷の豊岡盆地中央部が子宮のようになっている。円山川河口部分が最も狭く、川を遡るにしたがって広大な平野が姿を現すのだ。そして、周囲を小高い山が囲んでいて、西側はリアス式海岸と起伏の激しい山並みが続き、豊岡(出石)を攻撃することは困難だ。当然西から攻めるなら、海から侵入するほかはない。ところが、「河口付近の左右が急峻な断崖」で、ここで両側から襲われる恐れがあり、されにそこを越しても、(川の)両側から矢を射かけられ、先には進めなかっただろう。だから、豊岡盆地は、海の民の止まり木であるとともに根城であり、要塞の役目を果たしたのである。

また、関裕二氏は『地形で読み解く古代史』で次の様の述べている。

アメノヒボコが日本列島に「戻って」きて豊岡(但馬)に棲みついたのは、一帯が先祖伝来の土地だったからにちがいない。
無視できない伝説が豊岡( 出石(いずし))に残されている。豊岡盆地はかつて泥海で、アメノヒボコが円山川の河口部の「瀬戸と津居(つい)山」の間の岩をくり抜き、水路を造って水を外に流し、豊岡を肥沃な土地に変えたというのだ。実際、瀬戸の切戸は、人工物としか思えない。
豊岡の郷土史家宮下豊氏は、アメノヒボコは農業発展以上に、港を整備するために干拓事業を推し進めたと指摘している(『但馬国から邪馬台国へ』新人物往来社)。

説得力のある指摘だ。ただし、豊岡は日本海を代表する「海の城」であった。穀倉地帯だから、というわけではない。

平成16年(2004)、台風23号によって、円山川とその支流出石川、稲葉川などが増水し、旧日高町内、旧出石町、旧但東町、旧城崎町で流域の民家が浸水し、市街地の円山川右岸立野大橋付近の堤防や出石川でも堤防が決壊し、市街の広い地域が浸水した。すでに1987年には建設省(現国土交通省)によってひのそ島の全面掘削に向けた調査が開始され、1995年や1997年の調査で希少な植物が生育していることが明らかとなったため、2001年9月、国土交通省は全面掘削の計画を変更し、島の左岸側1/2を除去して右岸側の1/2に希少植物を移植し、また右岸には湿地を整備することで治水効果と環境保全の両立を目指す方針を策定した。2004年の台風23号により、2003年に始まった島の掘削工事は激甚災害事業の一環としても進められ、2007年7月に掘削工事が完成した円山川河口近くのひのそという中洲を取り除く浚渫工事が行われた。島の直上流では水位が29cm低下した。パワーショベルであっても浚渫工事に数年もかかっている。川底や中洲は土砂であるが、ダイナマイトでも使用しないと急峻な硬い岩盤を人力で切り開くなど不可能なことは、誰でも分かるはずだ。どこが説得力のある指摘だというのだろう。

縄文時代から弥生時代に入り、寒冷化によって円山川の水位が下がり、いまの豊岡盆地が出来上がったのが真相だ。
説話として円山川の河口を切り開いたのはアメノヒボコだが、肝心の『出石郡故事記』には、一切触れていないのに、『城崎郡故事記』は、城崎郡司、海部直命が子の西刀宿禰命に瀬戸水門を浚渫さけたという。

但馬国は朝鮮半島南部と都を結ぶ最短ルートだった?!

『日本書紀』では、天日槍が新羅から下関海峡を通り、播磨に上陸する。宇治川を遡って近江・若狭・丹波と回って最終的に但馬・出石を選んだ。これはヤマト政権がヒボコに西国や半島との攻防基地としてどこが適しているかを視察させていたこと物語っているのかも知れない。ヤマト(大和)から山陰地方や半島へ日本海からの最短ルートは、大和川を難波へ出て加古川から由良川という日本一低い分水界の水分れを通って、由良湊から但馬の黄沼前海(豊岡)へ向かうルートだった。これは現代人でも地理にかなった政策だったとしたら頷ける話であろう。

半島へ本州の最前線基地として、由良川から丹後半島を迂回するのは時間がかかる。当初大和朝廷は、敦賀や若狭、あるいは丹波(のちの丹後)から大和から進んでいったが、琵琶湖を経由して敦賀・若狭、丹波へ出るより、大和から加古川・由良川を通り海から円山川を基地として但馬が重要になったのではなかろうか。半島に精通している天日槍はその特使として適任である。

丹波の氷上(いまの丹波市)には水分れという、95.45mの本州一低い分水嶺がある。この地点は南の瀬戸内海に注ぐ加古川と北東に流れ日本海に注ぐ由良川の源流に位置する。さらに北に進むと加古川の源流にあたる青垣川から円山川へは丹波と但馬の国境にある遠坂峠を越えれば粟鹿川が円山川に合流するが、標高380mあり、水分れから由良川へ進み、日本海を西に進み、円山川河口から出石川へ入る方が楽である。

但馬・丹後・若狭敦賀にかけての日本海が、大和から新羅への出港地として重要度が増したからではないだろうか。縄文時代から江戸期の北前船まで、日本海の季節風を利用し、日本海と沿海州、半島など大陸との表玄関で、朝鮮半島や沿海州と本州の人々・物資を運ぶ海上交通を担っていた。

また、但馬国は朝廷の奉幣を受ける官社である延喜式内社数が全国で五番目に多いことの不思議である。都や畿内周辺の大和286社、伊勢253社、近江155社、また神話の国出雲187社に次いで但馬は131社と5番目に多い。都に近い畿内でもなく、平野部が少なく陸の孤島というべきほとんど山間地帯の国であるのに異常な数だ。次いで越前の126社、延喜式の時代に平安京の置かれた山城で122社、尾張121社、河内113社である。隣国では丹後65社、丹波71社、因幡50社であり、但馬と越前が異常に多いことが分かる。

ヤマト王権に組み入れられたタニハ

ヒボコから数代あとに彦坐王がいた。彼は人皇9代開化天皇の第三皇子で、第三妃に日矛の流れを汲む近江の息長水依比売がいる。彼女との間に生まれたのが、四道将軍・丹波道主王命である。妻は、丹波之河上之摩須郎女(たんばのかわかみのますのいらつめ)。 子は日葉酢媛命ひばすひめのみこと(垂仁天皇皇后)、渟葉田瓊入媛ぬはたのにいりひめ(同妃)、真砥野媛まとのひめ(同妃)、薊瓊入媛あざみにいりひめ(同妃)、竹野媛たかのひめ朝廷別王みかどわけのみこ(三川穂別の祖)。

丹後三大古墳や但馬の池田古墳など、日本海側では巨大な前方後円墳が造られたのは、この辺りの話ではないだろうか。

『但馬故事記』には、第10代崇神天皇の御代、彦座王が丹波青葉山の陸耳・土蜘蛛と多遅麻の狂の土蜘蛛を退治した話が克明に記されている。これは大丹波を大和朝廷が完全に平定しなければならない理由によるものだと考えられる。

神功皇后は、『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后(おおたらしひめのみこと)。父は開化天皇の玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日槍の裔・葛城高媛(かずらきのたかぬかひめ)、彦坐王(ひこいますのきみ)の4世孫、応神天皇の母であり、この事から聖母しょうもとも呼ばれる。

ヒボコに似た神功皇后と新羅

初代多遅麻国造 天日槍から2代天諸杉命ー3代天日根命-4代天日楢杵命ー5代天清彦命ー6代多遅麻毛理命(田道間守命)ー7代多遅麻日高命(多遅麻毛理命の弟)と続く。

代々天日槍の子孫が代々多遅麻国造を命じられてきたが、6代多遅麻毛理命(田道間守命)のあと、子ではなく弟の多遅麻日高命になったかについては、次のように推察できる。

人皇11代垂仁天皇89年夏4月、多遅麻毛理命は多遅麻国造となる。黄沼前県主久流比命の娘、佐津毘売命を娶り、橘守命という子がいた。

90年春2月、垂仁天皇は多遅麻毛理命を常世国に遣わし、非時の香果(橘)を求めさせた。多遅麻毛理命は常世国に至り、9年経った。
人皇12代景行天皇元年春3月、多遅麻毛理命は常世国より帰ると、垂仁天皇は既に崩御された後であった。多遅麻毛理命は哀悼に堪えられず、天皇の御陵に至り、号泣して死んでしまった。
余りに突然のことで、まだ幼い子の橘守命ではなく、多遅麻毛理命の弟である多遅麻日高命が多遅麻国造となったのであろう。

多遅麻日高命は、多遅麻毛理命の娘、由良度売命を娶り、葛城高額姫命を生む。葛城高額姫命は、息長宿祢命に嫁ぎ、息長帯姫命・虚空津姫命・息長彦命を生む。
この息長帯姫命は、いわゆる神功皇后である。
多遅麻毛理命の2番めの弟に、須賀諸男命が、多遅麻日高命のあと、初代出石県主と為る。
多遅麻日高命を最後に多遅麻の府は気多へ遷る。但馬は大きな変化が見られる。

出石から気多へ

『但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記)に、
人皇12代景行天皇32年夏6月、伊香色男命の子、物部大売布命は、日本武尊に従い、東夷を征伐したことを賞し、摂津の川奈辺(大阪府河辺郡)・多遅麻の気多・黄沼前の三県を賜う。
大売布命は多遅麻に下り、気多の射楯宮(豊岡市日高町国分寺)に在り。多遅麻物部氏の祖となる。

人皇15代神功皇后の2年、大県主・物部連大売布命もののべのむらじおおめふのみことの子・多遅麻国造たぢまのくにのみやつこ物部多遅麻連公武もののべたぢまのむらじきみたけ、府を気多県高田邑に置く。(今の久斗・東構境あたり・南構遺跡か?)

45年、新羅が朝貢せず。将軍・荒田別命あらたわけのみこと(豊城入彦命4世孫)・鹿我別命しかがわけのみこと(大彦命の末裔)*1は往きてこれを破る。

(*1  将軍・荒田別命・鹿我別命  この両臣は神功皇后摂政期に、新羅鎮撫のため、征討将軍となって新羅に赴いた。この命が平定した比自[火本]ヒシホ他六国の名称は『日本書紀』と全く同じ)

比自[火本]ヒシホ南加羅アリシヒノカラ啄国トクノクニ安羅アラ多羅タラ卓淳トクジュ加羅カラの七国を平むける。兵を移して西に回り、古奚津コケツに至る。南蛮アリシヒノカラを屠はふり、もって百済クダラに賜う。

百済王は「もし草を敷いて座れば、おそらく火で焼かれ、木を取って座れば、おそらくは水で流されるであろう。もって、盟を表し、永久に臣を称する信条なり。」

新羅親征(征韓)となり、出石県主・須義芳男命は皇后に従い、新羅を征ち功を上げ、皇后は特に竃遇を加えている。(第五巻・出石郡故事記)

なんとしても日本を守らねばならない国家的危機意識があったのではなろうか?袴狭遺跡の大船団を描いた木版画は、のちの神功皇后の新羅征伐を描いたものかも知れない。

兵主神社が但馬に特に多いわけは?

軍団設置と兵主神社

『国司文書 但馬故事記』には、神功皇后よりずっとのちにも、新羅が登場する。

これ以降、但馬に気多郡・朝来郡に兵庫(やぐら)が設けられ、軍団が設置される。次いで出石郡・城崎郡・養父郡にも軍団が設けられていく。

兵庫を高橋村(豊岡市但東町)に設け、兵器を納め、大兵主神を祀る(式内大生部兵主神社 豊岡市但東町薬王寺)。

このように耐えず半島南部の情勢は、神功皇后の時代になると、倭国にとって緊々の重大事であったことが分かる。新羅の王子天日槍は、大和言葉と朝鮮語に精通していただろうし、その子孫が代々多遅麻国造に置いた時代が暫く続いている。皇統であれば信用度はあり、倭国と半島南部の外交官として適任であろう。

人皇37代孝徳天皇の大化三年、朝来郡朝来村*3と、気多郡高田郷に兵庫やぐらを造り、軍団を置く。(朝来軍団・気多軍団)

(式内兵主神社:兵庫県朝来市山東町柿坪、式内久斗寸兵主神社:兵庫県豊岡市日高町久斗)

人皇40代天武天皇白凰12年、城崎郡赤石原に兵庫を設け、兵主神を赤石原に祀る(式内兵主神社 祭神:スサノオ 兵庫県豊岡市赤石)

同年 兵庫を出石郡高橋村に設け、兵器を蔵(オサ)む。(式内大生部兵主神社:兵庫県豊岡市但東町薬王寺字宮内848)

同年 美含郡 兵庫を伊久刀丘に設け、兵主神を祀る。(兵主神社:兵庫県美方郡香美町九斗)

人皇40代天武天皇4年秋7月朔(1日)、小錦上 大伴連国麿おおとものむらじくにまろを以て大使と為し、小錦下三宅吉士入石を以て副使と為し、新羅に差遣した。

人皇41代持統天皇2年、養父郡更杵さらきね村に兵庫を設け、大兵主神を祀り、これを更杵村兵主神社 祭神:スサノオ(式内更杵兵主神社 いまの兵庫県朝来市和田山町寺内字宮谷)

人皇44代元正天皇の養老三年(719) 養父郡の兵庫を浅間邑に遷し、健児所コンデイショを置く。判官・伊久刀首武雄いくとのおびとたけおは、浅倉に兵主神を祀り、その祖雷大臣命を赤坂丘に祀る。兵主神社(式内兵主神社:兵庫県豊岡市日高町浅倉)・伊久刀神社(式内伊久刀神社:兵庫県豊岡市日高町赤崎)是れなり。

*3朝来村 式内兵主神社(祭神: 大己貴命オオナムチ)を兵庫の側に祀るとあるので、兵庫は朝来村(今の朝来市山東町柿坪)

以上のように、円山川流域にまず朝来郡・気多郡に軍団を配置し、ついで城崎郡・出石郡、翌年に養父郡で、糸井から浅間へと円山川下流へ移している。

また但馬ではないが、氷上の水分れからすぐの重要だと思われる地に兵主神社がある。

  • 加古川・由良川につながる氷上の水分れ 兵庫県丹波市春日町黒井に式内兵主神社
  • 播磨国だが、加古川上流氷上に近い。式内兵主神社:兵庫県西脇市黒田庄町岡372-2
  • 但馬のすぐ西、同じ山陰海岸線に、鳥取県岩美郡岩美町に佐弥乃兵主神社・許野乃兵主神社がある。

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第3章 5.鉄ならオオナムチにおまかせ

『但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記)は、天火明命あめのほあかりのみことから始まる。天火明命は、ここでは天照国照彦天火明命あまてるくにてるひこあめのほあかりのみことと書かれ、(田庭(丹波)を国作大巳貴命くにつくりおおなむちのみことから授かり田を実らせ、)、国作大巳貴命の勅により但馬に入り、両槻天物部命なみつきのあめのもののべのみことの子・佐久津彦命に佐々原を開かせた。(中略)気多郡佐々前ささくま村これなり。(気多郡楽々前郷=現在の佐田・知見・篠垣・伊府・道場の稲葉川南岸)

(中略)

人皇1代神武天皇9年冬10月、佐久津彦命の子・佐久田彦命を(初代)佐々前県主となす。佐久田彦命は国作大巳貴命を気立丘に斎き祀る。

これを気立神社と称す(郷社 気多神社:兵庫県豊岡市日高町上郷)。
また佐久津彦命を佐久宮に斎き祀る。(式内 佐久神社:兵庫県豊岡市日高町佐田)
御井比咩命を比遅井丘に斎き祀り(式内御井神社:兵庫県豊岡市日高町土居、古くはヒジイと読む)

ヒボコの出石神社が大己貴命の気多神社や気多郡を睨んで建てられているかのようだ。

式内 気多(氣多)神社


兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227
式内社 但馬國総社[*1] 気多大明神
御祭神 「大己貴命(オオナムチノミコト)」

境内社には、八坂神社、須知神社、八幡神社、愛宕神社等が祭られている。

伝承や神話は、現実離れした話しが多いですが、しかしまったくでたらめなら意味もなく何代にも渡って語り継がれたものではないでしょう。
太古山陰地方は「大国主命」の支配地で、命は但馬や播磨では「葦原志許男命アシハラシコノオノミコト」と称させていた。

新羅国の王子「天日槍」が宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て、「葦原志許男命」と支配地争いになったが、和解の結果、志爾蒿(シニダケ)山頂から両者三本の矢を射て支配地を決めることになった。

天日槍の放った矢は全て「但馬」に落ち、葦原志許男命の放った矢は一本が養父郡に落ち、一本は気多郡にもう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条ミカタと云う。(式内御形神社 宍粟市一宮町森添)

つまり、「葦原志許男命」=オオナムチ=伊和大神とする。播磨国一宮伊和神社 主祭神大己貴神

と当社は、同じヒボコと葦原志許男命の国争いで葦原志許男命が放った矢のうち但馬に落ちた2本の矢で気多郡に落ちたその神社である。

そこで天日槍は但馬の出石を居住地に定め、葦原志許男命は新たに建立された「養父神社」と「気多神社」に「大己貴命」(おおなむちのみこと)の神名で祭祀された。(『播磨風土記』)

「国司文書」によれば気多神社は神武天皇九年(前651)に気立(気多)の丘に創建された。大化改新後は国府地区に但馬国府が設立され、気多神社は「但馬国総社」として崇敬を受けた。中世以降は頼光寺に一郷一社の「惣社大明神」として鎮守し、当時の社殿は、檜皮葺き三社造りで、本殿は四間四面欄干造り、拝殿、阿弥陀堂、鐘楼、朱塗り山門等七堂伽藍の整った大社だったが、豊臣秀吉の但馬侵攻により灰燼に帰した。

因みに『但馬故事記別記』(但馬郷名記抄)には、こう記されている。

気多は気多都ケタツ県なり。(故事記には気立県と書くものもある)この郡の西北に気吹戸主神の釜(神鍋山噴火口跡のことだろう)あり。常にケムリを噴く。この故に気多郡と名付け、郡名となす。今その山を名づけて「神鍋山」という。
気多神この地に鎮座す。祭神は国作大巳貴命・物部多遅麻連命(公武)・大入杵命三座。(郷社 気多神社のこと)
(現在のご祭神は 大巳貴命のみ)

大己貴命と葦原志許男命、大国主(オオクニヌシ)は同一神とされ、全国の出雲神社で祀られている。

気多神社がある上ノ郷の隣に中ノ郷がある。古くは気多郡葦田村で、『但馬故事記』に、鉄の鍛冶と関係する記載がある。

人皇神功皇后の2年5月21日、気多の大県主・物部連大売布命が薨ず。射楯丘(国分寺字石立)にもがりす。(式内売布神社 豊岡市日高町国分寺)

(中略)

子・多遅麻国造・物部多遅麻連公武は、
天目一筒命の末裔、葦田首を召し、刀剣を鍛えさせ、(今の中郷)
彦狭知命の末裔、楯縫首を召し、矛・楯を作らせ、(今の鶴岡多田谷)
石凝姥命の末裔、伊多首を召し、鏡を作らせ、(今の鶴岡)
天櫛玉命の末裔、日置部首を召し、曲玉(マガタマ)を作らせ、
天明命六世の孫、武碗根命の末裔、石作部連を召し、石棺を作らせ、(石作部の末裔に気多軍団の隊正に石井がいる。今の石井か?)
野見宿祢命の末裔、土師臣陶人を召し、埴輪・甕・ホタリ・陶壺を作らせ、(陶谷=式内須谷神社のある奈佐路)
大売布命の遺骸につけ…

(中略)

人皇16代仁徳天皇2年春3月 物部多遅麻毘古は、物部多遅麻連公武の霊を気多神社に合祀す。

すでに述べたように、葦田は葦が生い茂り、そこからは褐鉄鉱が生み出されるから、製鉄、鍛冶作りの邑であったことが記されている。矛・楯を作る楯縫首の村とは、多田谷でタタノヤ=タタラの屋か谷であろう。ここも製鉄が行われていたことを思わせる。(朝来市にも多々良木がある)

第4章 3.ヒボコの時代の半島南部は倭人のクニ

1~2世紀の朝鮮  『古朝鮮』NHKブックスより「韓国人は何処から来たか」長浜浩明

『日本人ルーツの謎を解く』長浜弘明氏によると、
例えば司馬遼太郎は、『街道を行く1』(週刊朝日 1971)で次なる文言を連ねていたが、そこには腐臭が漂っていた。

「日本民族はどこからきたのでしょうね」
「我々には可視的な過去がある。それは遺跡によって見ることができる。となれば日本人の血液の中の有力な部分が朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきたことは紛れもないことである」
「日本人の血液の6割以上は朝鮮半島を伝ってきたのではないか」
「9割、いやそれ以上かもしれない」
「ともあれ縄文・弥生文化という可視的な範囲で、我々日本人の先祖の大多数は朝鮮半島から流れ込んできたことは、否定すべくもない」
(中略)
それでも20年余りの間に多くの発見がなされ、考古学、人類学、生物学、DNAから言語学まで新たな発見が積み上がっていった。
先の司馬遼太郎の言い様は、次のように言い換えなければならない。

「韓国人は何処から来たのでしょうね」
「我々には可視的な過去がある。それは遺跡によって見ることができる。となれば韓国人の血液の中の有力な部分が、玄界灘を北上し、日本から大量に流入した縄文時代の人たちに依ることは紛れもないことである」
「韓国人の血液の6割以上は玄界灘を北上して行ったのではないか」
「9割、いやそれ以上かもしれない」
「ともあれ縄文・弥生文化という可視的な範囲で、韓国人の先祖の大多数は日本から流れ込んできたことは、否定すべくもない」

旧石器時代、朝鮮半島はほぼ無人地帯だった

『韓国人は何処から来たか』長浜弘明氏によると、
先史時代、人が住んでいたことは遺跡で知ることができます。では半島の旧石器遺跡はどの程度発見されているのでしょう。
古代研究家・伊藤俊幸氏は、韓国人の祖先は遠い昔に北方から半島へたどり着き、sこから海を渡って日本へやってきたと信じていました。(中略)
しかし、韓国の前国立博物館館長、韓炳三が示す図は衝撃的である。
朝鮮半島では旧石器時代の遺跡は北朝鮮・韓国で50ヶ所程度しか発見されていなかった。このレベルの遺跡ならば、日本列島の旧石器時代の遺跡数は3,000から5,000ヶ所に上るのにである。(中略)
今、日本からは1万とも言える旧石器遺跡が発見されており、対する朝鮮半島はわずか50ヶ所程度で無きに等しかったのです。
相対的に見ると日本は人口が多く、半島はほぼ無人地帯だったのです。

韓国の歴史は4,000年に満たなかった

伊藤俊幸氏は「次の表は衝撃的である。BC1万年から5千年の間、遺跡が、すなわち人の気配が半島からなくなるのである。新たに遺跡が出てくるのは7千年前からである。
(中略)
日韓の専門家の他に、韓国の国家機関や博物館が総力を結集して作成した『韓国の歴史』(河出書房新社)に次の一文がある。
「旧石器時代人は現在の韓(朝鮮)民族の直接の祖先ではなく、直接の祖先は約4千年前の新石器時代人からである。そう推定されている」
(中略)
では7千年前、即ち前5千年頃やって来て、3千年以上の長きに渡り、韓半島の主人公だった人々は何処からやってきたのか。
その後、約4千年前、即ち前2千年頃やって来て、韓国人の直接の祖先につながる人々はどこからやって来たのか。

まず、数少ない貴重な史料である『但馬故事記』第五巻・出石郡故事記に登場する天日槍命が出石で帰化したのは、人皇6代孝安天皇の五十三年(推定年代:長浜浩明氏の算定で孝安天皇在位期間は西暦60-110年)と記されている。

孝安天皇は、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するが、その事績(旧辞)が記されない「欠史八代」の第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のひとりではあるが、倭国の後継国である「大和・日本」で720年に成立した『日本書紀』では、新羅シラギ加羅カラ任那みまなが併記される。中国の史書では、『宋書』で「任那、加羅」と併記される。加羅と任那といっても入り組んでいて、その頃の国は、高句麗・百済・新羅・加羅・任那が流動的に動いており、とくに加羅・任那には三韓の地域の一つである弁韓を母体とする。

その時代の半島南部を知っておきたい。3世紀ごろ、半島南東部の辰韓は12カ国に分かれていた。のちの新羅、現在の慶尚北道・慶尚南道のうち、ほぼ洛東江より東・北の地域である。辰韓と弁韓とは居住地が重なっていたとされるが、実際の国々の比定地からみるとほぼ洛東江を境にして分かれているのが実態である。

最初に「 日本府」の呼称を使ったのは新羅王

『知っていますか、任那日本府-韓国がけっして教えない歴史』大平 裕は

「日本府( 倭府)」 という機関名が初めて出てくるのは、『 日本書紀』 の 雄略天皇八( 四六四)年のことです。 そして注目されるべき は、 この機関名を言葉にしたのが 新羅 王( 慈悲麻立 干、 在位四五八 ~ 四 七 九)だったことです。 新羅王は、 新羅が高句麗の来襲を受け、国は累卵 の危機にあると、使を任那王に出し、「 日本府の軍将ら」の救援を願い出たのでした。 記録に残るかぎり、「日本府」という名称を使ったのは日本( 倭)人ではなく、 新羅王だったのです。

三韓

1世紀から5世紀にかけて朝鮮半島南部は、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる地域を西から馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。
天日槍命が記紀に登場する年代は、年号の解釈には諸説あり断定的なことはいえないが、孝安天皇の在位期間をおおよそ西暦60~110年とすると、建武20年(44年)が「韓」の初出とされ、馬韓の初出は建光元年(121年)であり、辰韓・弁韓も同時期に分かれたとすれば、辰韓は三韓以前の韓とよんでいた地域となる。1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部には種族とその地域があった。朝鮮半島南部に居住していた種族を「韓」と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる西から「馬韓」・「弁韓」・「辰韓」の3つの地域に分かれていったことから「三韓」といった。

したがって、記紀が記された頃は、新羅が成立していたのであるが、『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条(244年)において天日槍(ヒボコ)が渡来した頃に、半島北部は高句麗であり、朝鮮半島南部には国と呼べる地域に国家は成立していない。『日本書紀』が完成された養老4年(720年)には新羅・百済という国家といえるが、三世紀中頃は、新羅の前身の辰韓、加羅と任那にあたる弁韓は、ともに12カ国に分かれていたとされ、半島南部の海岸部は、縄文時代から北部九州から対馬・朝鮮半島最南部は、倭人が移り住んでいた倭国(任那)で、半島南部は、同じ倭国の勢力範囲だったことをまず念頭に入れなければならない。土器・稲作などの文化は半島から日本に伝わったのではなく、韓はもとの字は空(から)ともいわれ、未開の空白地域であり、九州北部から半島南部へ伝わっていったのがわかってきた。そして村々が生まれていった。倭人・倭種・半島土着民の混合であった。

『三国志』東夷伝による諸民族の住居地域 『古朝鮮』NHKブックス 『韓国人は何処から来たか』長浜浩明

 

 

この頃の半島中南部は、伽耶かやまたは伽耶諸国かやしょこくであり、弥生時代の村が発展したクニのような規模で国家とはいえない。3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。南部の金官郡(金官伽耶)だけは任那(みまな)日本府の領域として一線を画していたが、562年に新羅の圧力により滅亡した。

また、任那は伽耶諸国の中の大伽耶オオカヤ安羅アラ多羅タラなど(3世紀から6世紀中頃・現在の慶尚南道)を指すものとする説が多い。

任那(みまな)

3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)とある。4世紀初めに中国の支配が弱まると、馬韓は自立して百済を形成したが、辰韓と弁韓の諸国は国家形成が遅れた。『日本書紀』や宋書、梁書などでは三国志中にある倭人の領域が任那に、元の弁韓地域が加羅になったと記録している。任那は倭国の支配地域、加羅諸国は倭に従属した国家群で、倭の支配機関(現地名を冠した国守や、地域全体に対する任那国守、任那日本府)の存立を記述している。

任那加羅の名が最初に現れるのは、414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている。
「百済と新羅は高句麗の属民だった。故に朝貢していた。ところがその後、日本が辛卯かのとうに海を渡り来て、百済、□□、新羅を討ち破り、日本の臣民にしてしまった。」

辛卯とは391年と信じられており、応神天皇の御代と重なる。応神七年、「高麗人・百済人・任那人・新羅人らが来朝し、彼らを使って池を作らせた」とあるから、□□とは任那に違いない。この頃から、百済、任那、新羅は日本の臣民、即ち分国の民となっていたことを、高句麗は忌々しげに刻んでいたのだ。

新羅・百済は倭(日本)の臣民だった

『日本書紀』は、この時代、新羅や百済は大和朝廷に朝貢し、三国志が「倭人の地」とした半島南部の任那は「日本の分国だ」と記述している。この時代、百済や加羅(任那)を臣民としていたことがあらためて確認された。

『三国遺事』(1275年)によれば、駕洛カラ国が西暦42年から10代532年まで存在していたことになっているが、『三国史記』新羅本紀(1145年)には金官国(金仇亥)の記録しかなく、また『南斉書』加羅国伝には、建元元(477)年に、国王荷知が、遣使、朝貢を果たしたことしか遺されていない。王統が一時断絶したり、倭国人系の王がとってかわって統治したり、有力国の王家が登場したのかもしれない。

加羅カラ(大伽耶カヤ・伽耶・伽那)

『知っていますか、任那日本府 韓国がけっして教えない歴史』大平 裕氏によると、慶尚北道高霊コリョン郡に比定される。ただし、『日本書紀』に出てくる加羅は、加羅連合体、あるいは金海加羅を指す場合もある。

南加羅(金海伽耶・金官伽耶)

慶尚南道金海キメ・きんかい市に比定される。『三国史記』地理志に「金海小京、金官国(一云、伝伽落国、一云、伽耶)」とある。(中略)安羅伽耶は咸安ハマンに、古寧伽耶は咸寧ハムニョンに、星山伽耶は星州ソンジュに、小伽耶は固城コジョンに大伽耶は高霊コリョンにそれぞれ都を定めたという。

安羅アラ・やすら(阿羅・安邪)

慶尚南道咸安ハマン郡に比定される。

高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

任那は伽耶諸国の中の大伽耶オオカヤ安羅アラ多羅タラなど(3世紀から6世紀中頃・現在の慶尚南道)を指すものとする説が多い。新羅という国号と国は誕生したのは、繰り返しになるが、天日槍が渡来した時代よりずっと晩年で、新羅建国と合わないのだが、『記紀』が編纂されたのは、白村江の戦い(天智2年8月・663年10月)朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争から間もない。

 

新羅(シンラ・しらぎ)

国と言えるような百済・新羅が誕生するのは6世紀以降で、この頃の半島中南部は、弁韓地域の伽耶かやまたは伽耶諸国かやしょこくであり、弥生時代の村が発展したクニのような規模で国家とはいえない。3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。南部の金官郡(金官伽耶)だけは任那(みまな)日本府の領域として一線を画していたが、562年に新羅の圧力により滅亡した。

まず、新羅(しらぎ/しんら)の誕生期を留めておきたい。したがって、記紀が記された頃には、新羅が成立していたのであるが、新羅という国号と国は誕生したのは、天日槍が渡来した時代よりずっと晩年で新羅建国と合わないのだ。

『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆シロ国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王なもつおう以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。

新羅は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家だが、そもそも新羅国が誕生したのは、紀元356年- 935年とされる。「新羅」という国号は、503年に正式の国号となったもので、6世紀中頃に半島中南部の伽耶諸国を滅ぼして配下に組み入れた。

3世紀後半から4世紀の朝鮮半島北部は高句麗、西部は百済、東部(慶尚道)に紀元356年、新羅国が興り、935年まで存在していた。ただ、377年、前秦への朝貢の際に、新羅という国号を初めて使用したが、402年までは鶏林の国号が使用された。

『梁書』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。其人雜有華夏、高麗、百濟之屬」

(新羅、その先祖は元の辰韓(秦の逃亡者)の苗裔である。そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居している)

という事から、雑多な系統の移民の聚落が散在する国家であったと考えられる。

4世紀末の半島と高句麗軍南下に対する日本軍の反撃想定路(『日本史年表・地図』吉川廣文館
『韓国人は何処から来たか』長浜浩明

 

『梁書』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。其人雜有華夏、高麗、百濟之屬」

(新羅、その先祖は元の辰韓(秦の逃亡者)の苗裔である。そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居している)

という事から、雑多な系統の移民の聚落が散在する国家であったと考えられる。

*1 日本語では習慣的に「新羅」を「しらぎ」と読むが、奈良時代までは「しらき」と清音だった。万葉集(新羅奇)、出雲風土記(志羅紀)にみられる表記の訓はいずれも清音である。いずれにせよ、「新羅」だけで「しんら」=「しら」と読めるのに、後に「き」または「ぎ」という音が付加されている。これは「新羅奴」(憎い新羅というニュアンス)、あるいは「新羅城」ではないかという説があり、新羅と日本が敵対していた事実を反映しているとする。(ウィキペディア)

韓国の前方後円墳
『韓国の前方後円墳』森浩一 『韓国人は何処から来たか』長浜弘明

全羅南・北道に散在する日本古来の前方後円墳14基や韓国西海岸辺山ピョンサン半島の突端にある竹幕洞チョンマクドン祭祀跡から、日本との関係を示す埋葬品は、4世紀後半から6世紀にかけての鉄製武器、金銅製馬具、銅鏡、中国製陶器などの出土品、特に注目される石製模造品は、福岡県沖ノ島祭祀遺跡の出土のものと酷似していて、それらは倭国からもたらされたものと考えられている。
(中略)

 

 

 

百済、新羅は、馬韓54ヵ国、辰韓12ヵ国といった小国群をまとめながら、ようやくそれぞれ346、356年頃、一つの国として東洋史に登場する。それほど古い国ではない。一方倭国は、百済・新羅にはるか先行し、『魏志倭人伝』の記述があるように、西暦200~240年当時には慶尚南道(朝鮮半島南東地域)沿岸部を「倭地」として管理している。この地域のすぐ北方ないし周辺地の狗邪(伽耶・加羅)韓国を傘下に、鉄資源の確保から、楽浪郡・帯方郡その他の地と交易をさかんに行っていたのである。
(中略)

 

『日韓がタブーにする半島の歴史』室谷克実著によると、

「列島か流れてきた賢者が新羅の王になる」話しについても、戦後日本の朝鮮史学者たちは「そんな説話は嘘に決まっている」として、『三国史記』の前半部分を“古史書の墓場”に深く埋葬している。しかし“歴史の事実”であるかどうかはさておき、「ただの古史書ではなく、一国の正史が現にそう書いている」という“記載の事実”は、どこまでも重い。

(中略)

『三国史記』が出来上がったのは12世紀、高麗王朝の時代だ。『三国史記』そのものが、“高麗とは山賊が打ち立てた国家”ではなく、「伝統ある新羅から禅譲を受けた国・王朝」であると明示するとともに、「新羅王朝の血脈が高麗の王朝にも流れ込んでいる」と主張することを目的にした正史といえる。

そうした高麗王朝にとって、「新羅の基礎は倭人・倭種がつくった」という“危うい話”を正史に記載することに、どんなメリットがあったのか。(中略)『三国史記』の成立過程、その記載内容を慎重に検討していくと、上記の話が決して捏造ではないこと、年代については疑問があるにしても、事実の確実な反映であることが見えてくる。考古学の新しい成果や、DNA分析を駆使した植物伝播学の研究も、それを後押ししてくれる。