第4章 1.ヒボコはいつ頃の人なのか?

天日槍はいつ頃の人なのか?

日槍の渡来時期?

天日槍(以下、ヒボコ)が実在の人物なのかは分からない。しかし記紀があえて新羅の王子ヒボコを記述しているのは、全くの架空な出来事とは言い難い。

ではヒボコはいつ頃の出来事なのだろう。年代については、数少ない史料からさぐるしかない。

  • 『古事記』応神天皇記 和銅5年(712年)では、その昔に新羅の国王の子の天之日矛が渡来した。とありはっきりとは記されていない。
  • 『日本書紀』養老4年(720年)では、垂仁天皇3年3月(実年244年) 新羅王子の天日槍が渡来した。「我が国を弟知古に譲りこの国に来ました。願わくば一畝の田を頂いて御国の民と為らん。」
  • 『古語拾遺』大同2年(807年)編纂では、垂仁天皇条において、新羅王子の海檜槍(あまのひぼこ)が渡来し、但馬国出石郡に大社(出石神社)をなした。
  • 『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記」延長3年(925) では、人皇六代孝安天皇五十三年(実年在位:60-110年)、新羅国王子天日槍帰化す。「われは鵜草葺不合命の御子、稲飯命の五世孫なり。」とあり、(『日本書紀』でいう垂仁朝は)人皇11代垂仁天皇88年(実年44年は西暦104年)

『日本書紀』と『古語拾遺』は垂仁期に渡来したとあるが、ところが『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記」延長3年(925)では、人皇六代孝安天皇五十三年(実年在位:60-110年とすれば西暦86年秋)に帰化すとある。

から、紀にあるように、実際にはそれ以前に新羅から八種神宝を携えて御船に乗り、筑紫より穴門(下関)の瀬戸を過ぎ、針間国に至り、宍粟邑に逗まる。人民らこれを孝安天皇に奏す。とあるからこのときに帰化を許されたのだろうか。天皇は播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑の2邑に天日槍の居住を許したが、天日槍は諸国を遍歴し適地を探すことを願ったので、これを許した。そこで天日槍は、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらくいたのち、近江から若狭国を経て但馬国に至って居住した。

記紀をはじめ古文書は、年月を在位天皇と春秋年で記している。古事記・日本書紀が使用している干支による年代を、現代年に書き換えている天日槍が但馬にやって来たのは、いつ頃なのかを知るのに苦労していた。
天皇の在位年代は、歴史的事実として信頼できるのは、第31代用明天皇ごろから以後であるとされ、諸説あることを先に述べておきたい。
長浜浩明氏の算定で、孝安天皇の在位は実年で西暦60~110年

まず『記』(『古事記』)第15代応神天皇の段から見ていこう。

「むかし新羅国の王子で、名は天之日矛(ヒボコ)という人が日本に渡来ワタってきた…云々」と伝えるが、来朝期を明らかにしていない。

『紀』(『日本書紀』)では、第11代垂仁天皇3年3月条に、「三年春三月、新羅の王の子、天日槍が渡来した」と記している。垂仁天皇3年を

『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記」は、延長3年(925) 人皇六代孝安天皇五十三年(実年在位:60-110年)新羅国皇子天日槍帰化す。

これは春秋年とし、実年は半分とすると、実年の在位は西暦60~110年の50年間となる。孝安天皇五十三年は半分の26.5年とすると、西暦86年の秋。弥生時代後期か。

『日本書紀』は、第11代垂仁天皇88年に新羅国皇子・天日槍が天皇の群臣に謁見したと記してあり、第7代多遅麻国造 多遅麻日高命の娘 葛城高額姫命を生み、葛城高額姫命は息長宿禰命に嫁ぎ、息長帯姫命を生む。息長帯姫命は神功皇后なり。第14代の仲哀天皇の妃となる。但し、但馬故事記では第6代孝安天皇53年に針間(播磨)国で天皇の使者、大伴主命と長尾市命の二人に会って来日した理由を述べている。もちろん但馬故事記編纂は記紀も参考にしていたのに、あえて『日本書紀』にある第11代垂仁天皇の御代ではなく、第6代孝安天皇53年としたのは、『日本書紀』が、天日槍の5世孫・5第多遅麻国造天清彦命が垂仁天皇に八種の神宝を奉じた話を天日槍来日の年代と間違えているからではないか。

この年代はあまりにもさかのぼるのだが、『竹内文書・但馬故事記』(昭和59年・1984)編纂者の吾郷清彦氏は、こう注釈している。

「『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記」延長3年(925) 人皇六代孝安天皇五十三年(前340年・縄文後期)新羅国皇子天日槍帰化す。
この年代はあまりにもさかのぼるのだが、『竹内文書・但馬故事記』(昭和59年・1984)編纂者の吾郷清彦氏は、こう注釈している。

ヒボコの帰化を、『紀』は垂仁朝3年春3月(前27年)と伝えており、『記』では、これを応神朝の段で述べている。これでは年代が合わない。本巻(『但馬故事記』)のごとく孝安朝五十三年(前340年)の方が正伝と思われる。久米邦武は、この命の帰化を孝安朝と考定する。(『日本古代史』P391)

垂仁天皇の記述については日本海周辺に関わる記述が多くなり、任那人が来訪して垂仁天皇に仕えたという逸話が残っている。海運の要路として、朝鮮半島と日本海側(出雲・但馬・丹後・越(こし)国・若狭(福井県)の重要性が増したためと考えられている。

つまりいつ頃なのかは記されていないので、垂仁天皇3年3月に渡来したと解釈する学者もいるが、これは『紀』が正史だから間違ってはいないだろうという、お上のすることはなんでも正しいと信ずるのと同じである。

『日本古代史』(久米邦武著)は、記紀の伝承を比較検討し、玄孫・田道間守タヂマモリが第12代景行天皇の在位年代の人であることから年代的にヒボコを考え、第8代孝元期(紀元前214年2月21日- 紀元前158年10月14日)に渡来したと考定する。 そして久米は、種々考証の結果、「孝元天皇の御代は、倭国大乱の最中であるから、ヒボコが但馬及び伊都の主(ぬし)となれたのは、伊都県は儺県に近接し、伊都津は女王卑弥呼の時に漢韓より亭館を設けて、交通の要津となした れば、その接近の地を占拠したるは、伊都県に去り難き所縁のありての帰化なるべし」と論述した。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏は、
『日本書紀』の編年は半年を1年とする「二中暦(倍数年)」だといわれている。しかも天皇の系譜をオーバーにするためにかなり遡ってつけられているので、垂仁天皇は、実際は紀元332年(推定)に即位したのだろうという。
垂仁天皇3年(紀元前27年)3月、新羅王子の天日槍(あめのひほこ・以下ヒボコ)が神宝を奉じて来朝」と記しているが、推定では垂仁天皇99年(紀元361年)に崩御されたとしている。

『アメノヒボコ、謎の真相』(関裕二)は、次のように書いている。

『日本書紀』を読み進め、最新の考古学情報を照らし合わせると、あるひとつの事実が浮かび上がってくる。それは、アメノヒボコに関わりの地域のことごとくが無視され、「なかった」ことにされてしまっていることだ。ヤマト建国で最も活躍した地域が、『日本書紀』の記事からすっぽり抜け落ちているのである。アメノヒボコは歴史解明の最重要人物だからこそ、実像を消し去られた可能性はないだろうか。(中略)『日本書紀』が歴史を書き換えていた可能性は高い。『紀』はヤマト建国の歴史を熟知していて、だからこそ真相を抹殺し
、歴史を改竄してしまったのだ。(中略)『紀』よりもあとに書かれた文書の中に、『紀』と異なる記述がある場合、『紀』の記事を信じるのが「当然だ」と、史学者は考える。「事件現場に最も近くにいたお役人の証言は信頼できる」という論理だ。

『校補但馬考』(桜井勉)が偽書だと決めつけている『国司文書 但馬故事記』だが、一概にそういい切れるのだろうか。そのような考え方であるといえるかも知れない。
しかし、『国司文書 但馬故事記』を読むとことの他但馬の出来事を詳細に記述しており、しかも編者らは但馬国府に赴任していた役人であり、弘仁五年(814)から天延二年(974)という160年という長い年月と79回も草稿し直して完成させた公文書だ。桜井が偽書だと言い切ったから偽書なのだというならば、国の要職を退職し出石へ帰り民間人の郷土史家として著したのが『校補但馬考』。『国司文書 但馬故事記』は役人が長い歳月をかけた公記録である。

『但馬故事記 序』には次のように記述されている。
但馬風土記が、第52代陽成天皇の御代に火災にかかり消失したことを残念に思った編纂者たちの編纂方針をこう記述している。

帝都の旧史に欠あれば、すなわちこの書(但馬故事記)をもって補うべく、但馬の旧史に漏れがあれば、帝都の旧史をもって補うべし。
ゆえに古伝・旧記によりこれを補填し、少しも私意を加えず、また故意に削らず。編集するのみ。
帝都の正史といえども、荒唐無稽のことが無きにしも在らず。まして私史家においてはなおさらである。
この書を見る者は、その用いるべきは用い、その捨てるべきを捨てて、但馬の旧事を知れば(史実)に近いであろう。

その但記『第五巻・出石郡故事記』はヒボコについて最も詳しく記述している。

第6代孝安天皇の53年、新羅の王子・天日槍命が帰化する。アメノヒボコはウガヤフキアエズの子・稲飯命の五世孫なり。
ウガヤフキアエズは、海神トヨタマヒメの娘であるタマイヒメを妻にし、五瀬命・稲飯命・豊御食沼命・狭野命を生んだ。
父が亡くなり、世継ぎの狭野命は兄たちとともに、皇都を中州(畿内)に遷そうと、浪速津(大阪湾)から大和川を遡り、まさに大和に入ろうとする時、大和国の酋長ナガスネヒコは、天津神の子ニギハヤヒを立てて兵を起こし皇軍をくさかえ坂で迎え撃った。
皇軍は利がなく、兄・御瀬命は矢に当たって亡くなった。狭野命は他の兄たちとともに海路より紀の国(和歌山)へ向かおうとしたが強く激しい風に逢った。稲飯命と豊御食沼命は小船に乗り漂流し、稲飯命は新羅に上り、国王となりとどまった。(中略)世継ぎの狭野命は熊野に上陸し、ナガスネヒコらを征伐した。ニギハヤヒの子・ウマシマジは、父にすすめてナガスネヒコを斬り、降伏した。世継ぎの狭野命は大和橿原宮で即位し天下を治めた。これを神武天皇と称しまつる。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏が算定した孝安天皇の実際の在位年代は、

第1代神武天皇 前660-585年
第6代孝安天皇 前392-前291年
第8代孝元天皇 前214-158
第11代垂仁天皇 前29-西暦70年
第15代応神天皇 270-310

孝安天皇は、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するが、その事績(旧辞)が記されない「欠史八代」の第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のひとりではあり、系譜は存在するがその事績が記されないとして、 現代の歴史学ではこれらの天皇達は実在せず後世になって創作された存在と考える見解が有力であるが、実在説も根強い。

『但馬故事記』は、記紀も含めて考察したと明記しているのに、『但馬故事記』がわざわざ、『紀』(『日本書紀』)にある、第11代垂仁天皇3年3月条に、「三年春三月、新羅の王の子、天日槍が渡来した」を採用せず、「人皇6代孝安天皇53年新羅の王子・天日槍命が帰化した」と明記したのは、編纂者らが『日本書紀』の「垂仁天皇3年(紀元前27年)3月、新羅王子の天日槍(あめのひほこ・以下ヒボコ)が神宝を奉じて来朝」とする記述年代が間違っていると判断したためであろう。

『但馬故事記』第四巻 出石郡故事記(拙者現代語訳)は次の通り。(現代語に直している)

人皇11代垂仁天皇67年夏5月、天日楢杵命の子、天清彦命をもって、第四代多遅麻国造(天日槍の4世孫)となす。

88年(実年44年)秋7月朔(陰暦の1日)、(天皇は)群臣に勅して曰く。
「我は尋ねたい。むかし新羅王子・天日槍命が初めて帰来した時に携えてきた宝物が、いま多遅麻国の出石社(出石神社)にあると聞く。我はこれをぜひ見てみたい。持って参れ。」
群臣はこの勅を受けて、使いを多遅麻に遣わし、清彦すがひこ(多遅麻国造)にこれを奉った。
清彦はそれに応じ、
羽太玉はふとのたま 一個・足高玉 一個・鵜鹿々赤石玉うかかのあかしのたま 一個・出石刀子とうす*1 一口・出石杵(ほこの誤記ではないか?) 一枝・日鏡ひのかがみ 一面・熊神籬くまのひもろき 一具・射狭浅太刀いささのたち 一口
を携え皇都に上った。

清彦は、しばらくして神宝を奉ったが、ひとつの神宝は祖先に対して申し訳がないと、出石刀子を袍中*2に隠し、残りを献上した。
天皇は大いに歓喜し、酒饌しゅせん(酒と肴)を清彦に振る舞った。たまたま出石刀子が袍中からこぼれ、帝の御前にあらわれた。

天皇はこれを見て清彦に申された。
「その刀子は、何の刀子であるか?」
清彦は隠すことができず「これもまた神宝の一つでございます」と申し上げた。
天皇は「神宝はすべて渡しなさい」と云われたので、他の神宝と共に宝庫に納めた。
それから後、天皇が宝庫を開かせると、刀子がなくなっている。使いを多遅麻に遣わして、これを清彦に問うた。
清彦は「一夜して刀子が私の家に至っていました。これを神庫に納め、翌朝はこれを改めておりません。」

天皇はこれを聞いて、その霊異をかしこみ、強いて求めることはしませんでした。
その後、刀子は自ら淡路(島)に至った。
島人は祠を建ててこれを祀った。これを世に剣ノ神と云う。*3
天清彦命は、大和・当麻のたぎまめひひめのみこと(当麻咩斐毘売命)を娶り、
多遅麻毛理命たぢまもりのみこと(第6代多遅麻国造・『日本書紀』では田道間守)・多遅麻日高命たぢまひたかのみこと(第7代多遅麻国造)・須賀諸男命すがのもろおのみこと(初代出石県主)・須賀竈比咩命すがのかまひめのみことを生む。

第11代垂仁天皇の在位は、皇紀BC29~AD70年だが、『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏が算定した垂仁天皇の実年在位期間は西暦242~290年、在位年数は49年であり、人皇7代孝霊天皇38年夏6月、天日槍命の子、天諸杉命をもって2代多遅麻国造となし、40年秋9月、天諸杉命は天日槍命を出石丘に斎き祀り、且つ八種神宝を納めている。(出石神社)

第11代垂仁天皇88年は実年在位44年だから、西暦286年となる。『但馬故事記』第四巻 出石郡故事記で

多遅麻国造を初代の天日槍命から表にすると以下のようになる。

『日本書紀』の方が正しいと思われるだろうが、ヒボコ以降の子孫が担った歴代多遅麻国造の推定在任年数を計算すると、垂仁3年では年代が合わないからだ。

『日本書紀』は国史(正史)なのだから間違っているはずはない、『国司文書 但馬故事記』が間違っているのだと歴史研究者の多くは何の証拠も示さないまま思い込んでいる。しかし史実や論理的な根拠を示す人はいない。しかも史実として克明に記す『国司文書 但馬故事記』が残っているのにである。

第一代神武天皇については記述があるのに、孝安天皇を含む綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。実在した天皇ではなく創作だとする説がある。

しかし、『日本書紀』の編纂者たちはあまりに古い出来事なので、確かな事象がなかったのか、もしくは国の正史としては都合が悪かったから、あえて触れないようにした可能性もある。後者だとすると、ヒボコの渡来時期を、第11代垂仁天皇88年、天皇が昔新羅王子天日槍が渡来したときの宝物が見たいと言われた垂仁天皇の御世に合わせて垂仁3年3月に差し入れたのではないだろうか。

垂仁天皇は他にも、同90年2月、田道間守(『古事記』は多遅麻毛理命。ヒボコの玄孫、第6代多遅麻国造)に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせているし、最初の皇后は狭穂姫命(彦坐王の女)でその後の皇后に日葉酢媛命(丹波道主王の女)、妃に日葉酢媛の妹、渟葉田瓊入媛、真砥野媛、薊瓊入媛と、丹波・多遅麻とのつながりが強い天皇だ。その後の妃は丹波・多遅麻とは関係のないかぐや姫のモデル?迦具夜比売、綺戸辺、苅幡戸辺もいるが、丹波・多遅麻・二方3国の大国主、彦坐王の勢力範囲を姻戚関係という緩やかなやり方でヤマト政権連合に決定的にしたことを意味する。垂仁天皇側からみれば、それ以前に、ヒボコが天皇側にも待っていないような八種の神宝を持っていたことが面白くないから取り上げようとし、田道間守に常世国の非時香菓を取りに行かせるという無理難題を命じたのも、ヒボコの子孫と足跡を消してしまいたかったと穿った見方もできよう。いずれにしても、田道間守は常世国で9年間にわたり非時香菓を探して、帰ってきたときには、垂仁天皇は既に崩御され、田道間守は天皇の御陵にて号泣し死んでしまう。

人皇6代孝安天皇61年の方が合っているように思う。人皇6代孝安天皇の頃、倭国は出雲・丹波の首長から、ヤマト直属の天日槍を国造にして但馬を朝鮮半島・西国の因幡・伯耆・出雲に対しての軍事基地とし、中央の支配力を強めたに違いない。

多遅麻国造を初代の天日槍命から表にすると以下のようになる。

*実年は『古代日本「謎」の時代を解き明かす』 長浜浩明の換算を参考にした

『紀』の第11代垂仁天皇3年3月条、「三年春(西暦243年)三月、新羅の王の子、天日槍が渡来した」のでは辻褄が合わないのだ。

多遅麻国造を初代の天日槍命から表にすると以下のようになる。

天皇皇紀実年(西暦)在位年数在位多遅麻国造続柄
6代孝安天皇61年90年51年1世紀中葉-2世紀前半初代天日槍
7代孝霊天皇38年130年38年2世紀前半-2世紀中葉二代天諸杉命天日槍の子
8代孝元天皇32年165年29年2世紀中葉-2世紀後半三代天日根命天諸杉命の子
9代開化天皇59年207年30年2世紀後半-3世紀前半四代天日楢杵命天日根命の子
10代崇神天皇67年240年34年3世紀前半-3世紀中葉五代天清彦命天日楢杵命の子
11代垂仁天皇89年286年49年3世紀中葉-3世紀後半六代多遅麻毛理命(田道間守命)
12代景行天皇元年291年30年3世紀後半-4世紀前半七代多遅麻日高命(田道間日高命)多遅麻毛理命の弟
13代成務天皇5年326年30年4世紀前半-4世紀中葉船穂足尼命大多牟阪命*4の子、府を夜父宮に置く
神功皇后(摂政)2年356年34年4世紀中葉-4世紀後半物部多遅麻連公武府を気多県高田邑に置く
16代仁徳天皇元年411年18年5世紀前半物部多遅麻毘古物部多遅麻連公武の子、府を日置邑に遷す
18代反正天皇3年435年2年5世紀前半物部連多遅麻公物部多遅麻毘古の子
21代雄略天皇3年482年23年5世紀前半5世紀中葉黒田大連府を国府村に遷す
25代武烈天皇3年508年8年5世紀末-6世紀初頭大鹿連黒田大連の子
28代宣化天皇3年538年3年6世紀前半能登臣気多命大入杵命祖
30年敏達天皇13年585年13.5年6世紀後半止美連吉雄大荒田別命の子
34代舒明天皇3年631年6世紀後半山公嶺男垂仁天皇の皇子五十日帯彦命の裔

入佐山いるさや ま古墳群

豊岡市出石町魚屋・下谷

方墳等  古墳期前期、4世紀後半
1号墳(方墳、径20m×16m)、2号墳
(円墳、径15m)、3号墳(方墳、径36m×23m)、及び16以上の木棺直葬墓。

家形埴輪片。後漢の方銘四獣鏡、仿製四獣鏡、直刀
2,鉄剣2,槍、鉄鏃、やりがんな、鉄斧、鉄
鎌、ガラス玉、砂鉄t、土器等。

豊岡市出石町で発見されている最大の古墳で、多遅麻国造・出石県主クラスの墳墓であることは間違いない。4世紀後半と推定されていることから、出石での最後の多遅麻国造であれば、12代景行天皇元年(実年291年)の多遅麻日高命(田道間日高命)までとすれば、表の年代は100年後にずれることになる。

 

*1 刀子(とうす) 削るなど加工の用途に用いられる万能工具
*2 中 検索で見当たらないので、儀礼的に立派な包みの意味では、あるいは胸元か)

*3 出石神社(生石おいし神社とも言う。良湊神社が管理) 兵庫県洲本市由良生石崎

*4 大多牟阪命 初代朝来県主、息長宿禰命の子

神武と応神は同一人物でアメノヒボコはヤマト建国以前に来日していた?

史学者のなかで、「記紀」において系譜は存在するがその旧辞が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人のことや孫時代を、「欠史八代」(かつては闕史八代または缺史八代とも書いた)といって、現代の歴史学ではこれらの天皇は実在せず後世になって創作されたとする見解が有力である。しかし実在説も根強い。
非実在説

『アメノヒボコ、謎の真相』(関裕二)は、「神武と応神は同一人物でアメノヒボコはヤマト建国以前に来日していた?」とクエスチョンマークを入れてこう記述している。

最初に時系列を乱したのは『日本書紀』だった。ヤマト建国の人物群を、ばらばらにして、いくつもの時代に振り分けてしまったのだ。神武も応神も、どちらも九州からヤマトに乗り込んだという。神武は神話と歴史時代の切り替わる場所に立っていたが、応神天皇は、朝鮮半島から神功皇后のお腹の中に入って対馬海峡を渡った。そして北部九州の地で誕生した。この話が「衣に包まれて九州に舞い降りたニニギ(天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊『紀』)にそっくりだという指摘がある。その後応神は瀬戸内海を東に向かって政敵を打ち倒してヤマトを建国したのだから、ひとりで天孫降臨と東征の両方を演じていたことになる。
『日本書紀』は始祖王を神武と応神にふたりに分解し、ヤマト建国の歴史を初代から第15代までの長い時間をかけて記述していたのだ。
(中略)
ここで大切なポイントは、「応神天皇はヤマト黎明期の王で、アメノヒボコの来日はそれ以前だった」ということである。
これについて同書の説明はよくわからないので別記とする。


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