第3章 4.アメノヒボコとツヌガアラシトは同一人物なのか?

アメノヒボコは第十代崇神天皇を慕って来日したと『日本書紀』はいう。ところが『古事記』は全く異なる伝承が残される。応神天皇の段に、「昔、新羅の国王の子有りき。名は天之日矛と云う。この人が帰化してきた。

『古事記』にはヒボコの妻が夫といさかいしたあと、日本に逃げてきて、のちに難波なにはに留まり、比売碁曾ひめこそ神社(大阪市東成区)の阿加流比売神あかるひめのかみになったことを伝えている。ヒボコは妻の逃げたことを知り、難波まで追いかけていったが、難波の神が邪魔をして入れてくれない。そこで仕方なく、ヒボコは多遅麻国(但馬)に行き、この地に留まって、俣尾(麻多烏)を娶り、子をなした。

ここで謎めく人物がもうひとり登場する。それが意富加羅国(金官伽耶)の王子・ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)だ。『日本書紀』のアメノヒボコが登場する直前の垂仁二年に記録される。

崇神天皇の時代のことだ。額に角の生えた人が船に乗って越国の笥飯浦(福井県敦賀市気比神宮付近)にたどり着いた。そこで、その男から地名が角鹿になったという。

ある人が素性を問いただすと、男は次のように答えた。

「意富加羅国(金官伽耶)の王子で、名はツヌガアラシトです。日本に聖皇がいらっしゃると聞きつけてこうしてやってきたのです。(中略)道の分からないままに海岸伝いに北海(日本海)からめぐり出雲を経て、今ここに至ったのです」

ところが、ツヌガアラシトが慕った聖皇=崇神天皇は既に亡くなられていた。そこでその後三年間、垂仁天皇に仕えた。天皇はツヌガアラシトに「自国に帰りたいか」と問うと、「ぜひとも」と答えた。そこで垂仁天皇は「もし、道を間違えずにすばやくやって来ていれば先帝に仕えることができたのに残念だ。そこでお前の国の名を改めて御間城天皇(崇神天皇)の名を取って国の名にしなさい」と述べられた。そして赤織絹を給い、本国に帰った。その国が「弥摩那国(任那)」と名乗るのはこのためだ。

また別伝によれば、はじめツヌガアラシトが伽倻にいたころ、黄牛に農具を負わせ田舎に行くと、牛が逃げてしまった。追っていくとある村のなかに入ってしまった。その牛は役人に食べられてしまったが、その代りに白い石をもらい受けた。これを寝室に置くと、石は美しい童女に化けたのである。

ツヌガアラシトは喜び、契を結ぼうとしたが、童女は隙きを見て逃げてしまった。それを追うと日本に着いてしまった。逃げた童女は難波にいたり、比売碁(語)曾神社の祭神になり、あるいは豊国(大分県)国前郡にたどり着き、そこでも比売碁(語)曾神社の祭神になった…。

この話もアメノヒボコとそっくりだ。どうやらアメノヒボコとツヌガアラシトは同一人物だったとの通説はこういうことだ。

朝鮮半島最南端の伽耶諸国は、西側が百済に、東側が新羅にかすめ取られた。記紀編纂の700年頃には、ただ単に伽倻任那を「百済」「新羅」と呼ばれ混同される

『日本書紀』には、ツヌガアラシトの妻となっており、同じように日本にやってきてからは、難波の比売碁曾神社の神となり、また豊前国国前郡(大分県国東郡姫島(東国東郡姫島村))の比売語曾神社の神ともなって二か所に祀られている、と記されている。

仲哀天皇と神功皇后の越前笥飯宮(気比神宮)行幸

アメノヒボコと人皇14代仲哀天皇2年、天皇は皇后息長帯姫命と伴に越前笥飯宮(気比神宮)に行幸される。そして皇后を笥飯宮に置き、さらに南を巡狩されていた。この時偶然、熊襲が背いたのである。

天皇は使いを越前笥飯宮に遣わし、皇后に穴門(下関海峡)で会わんことを伝え穴門に至った。皇后は、越前角鹿より船に乗り北海を若狭(湾)の加佐・与佐の竹野海を経て、多遅麻国の三島水門ミシマミナト(豊岡市津居山)に入り、内川(円山川)を遡り、粟鹿大神・夜父大神に詣で給う。ついで出石川を遡り、伊豆志大神に詣でます。(中略)皇后は下って小田井県大神に詣で、水門に帰り宿られる。ある夜越前笥飯宮に坐すイササワケノオオカミ(五十狭沙別大神)が夢に見え、皇后に教えました。

「船をもって海を渡るには、すべからく住吉大神を御船に祭るべし」と。

皇后は謹んで教えを奉じ、底筒男命・中筒男命・表筒男命を祀られた。船魂大神これなり。いま住吉大神を神倉山に祀るはこの因に依るなり。(絹巻神社=名神大 海神社)

また御食を五十狭沙別大神に奉る。故にこの地を気比浦と云う。

のち香餌大前神十三世の孫、香餌毘古命は、五十狭沙別大神・仲哀天皇・神功皇后をこの地に斎き祀ると云う(式内気比神社)

皇后の御船がまさに水門を出るとき、黄沼前県主賀都日方武田背命はその子武身主命を皇后に従わせ、嚮導をしました。武身主命は御船に、底津海童神・中津海童神・表津海童神を祀り、これに乗り、嚮導をなす。
故に武身主命を名づけて水先主命と云う。御船が美伊の伊伎佐御碕に至り日が暮れました。イササワケノオオカミの御火を御碕に灯します。これにより海面が明るくなりました。故に伊佐々の御碕といいます。御火は御船を導いて、二県国の浦曲に至り止まりました。故にその地を御火浦と云う。
皇后はついに穴門国(長門国)に達しました。水先主命は征韓に随身して、帰国ののち海童神を黄沼前山に祀り、海路鎮護の神と為す。
水先主命は水先宮に坐す(式内 深坂神社・豊岡市三坂334-5)。水先主命の子をもって海部直となすはこの因に依る。

(人皇15代)神宮皇后6年秋9月、須賀諸男命の子須義芳男命をもって出石県主と為す。須義芳男命は皇后に従い、新羅を征ち功あり。故に皇后は特に寵遇を加えました。

若狭・越前のヒボコゆかりの神社

『日本書紀』ヒボコは菟道河うぢがは(=宇治川)を遡り、近江国の吾名邑あなのむら若狭国わかさのくにを経て但馬国に住処すみかを定めた。若狭・越前にヒボコゆかりの神社がある。

越前国一宮 氣比(ケヒ)神宮

福井県敦賀市曙町11-68
越前国一宮、旧社格は官幣大社・別表神社
主祭神 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)「気比大神」または「御食津大神」とも称される。
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう) …仲哀天皇の皇后

「イザサワケ」のうち「イザ」は誘い・促し、「サ」は神稲、「ワケ」は男子の敬称の意といわれる。そのほかの名称として、史書では「笥飯」「気比」「御食津」と記されるほか、『気比宮社記』では「保食神」とも記される。これらは、いずれも祭神が食物神としての性格を持つことを指す名称であり、敦賀が海産物朝貢地であったことを反映するといわれる。
一方、『日本書紀』に新羅王子の天日槍の神宝として見える「胆狭浅大刀(いささのたち)」との関連性の指摘があり、イザサワケを天日槍にあてて新羅由来と見る説もある。

気比神宮境内摂社 式内 角鹿神社

御祭神 都怒我阿羅斯等命つぬがあらしと のみこと・松尾大神

氣比神宮の摂社に鎮座する。ご祭神のツヌガアラシトをヒボコと同一視されることがある。

ヒボコは『日本書紀』の記述によって、ツヌガアラシトと同一人物と目される。

『筑前国風土記』逸文に、「高麗の国の意呂山オロサンに、天より降りしヒボコの苗裔すえ、五十跡手イトテ是なり」とある。意呂山は朝鮮の蔚山ウルサンにある。意呂オロとは泉のこと意味するという。五十跡手は、『日本書紀』によれば、「伊都県主の祖」となっている。このようにヒボコの苗裔と称するものが、伊都国にいたという伝承は、ヒボコの上陸地が糸島半島であったことを物語る。

ツヌガアラシトはそれから日本海へ出て出雲から敦賀へと移動している。ヒボコは瀬戸内海を東遷したように思えるが、日本海から播磨の南部へ移動したという説もあって、その足跡を明瞭に辿ることは難しいが、ヒボコの妻の足取りは、ややはっきりしている。

 

福岡県糸島郡の前原町高祖たかすに高祖神社がある。もとは高磯たかそ神社と呼ばれ、ヒボコの妻を祀るとされていた。また大分県の姫島に比売語曾ひめこそ神祠(神のやしろ、ほこら)がある。先の『日本書紀』の記述に見える神社である。

式内 静志神社

福井県大飯郡おおい町父子46静志1
御祭神 「少名毘古名神」(すくなびこなのかみ) 天日槍命とする説もある

『若狭国神名帳』に「正五位志津志明神」とある古社。鎮座地の父子(ちちし)は、静石の訛りで、但馬の出石と同じものだと考えられ、本来の祭神は、天日槍命とする説もある。

式内 須可麻(すかま)神社

福井県三方郡美浜町菅浜
御祭神 「世永大明神(菅竈由良度美姫)」「麻気大明神」
『古事記』によると、菅竈由良度美姫(すがかまゆらどみひめ)は天日矛神の子孫であり、 神功皇后の祖母、応神天皇の曾祖母にあたる姫。 敦賀地方は、天日矛一族の渡来気化地とする説があり、その子孫を祀った神社と考えられる。


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