出雲神政国家連合 1

出雲は神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出方墳や出雲神話への影響が認められます。

また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(カヤ((任那(みまな))とも関係が深いという指摘もあります。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られています。それは早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことは決してはずせない史実が伺えます。

弥生前期末から中期にかけて、日本列島西部には多くの変化が起こった形跡がうかがえます。北九州地方では、細型の銅剣や銅矛が出土するようになり、甕棺墓が出現します。大阪湾沿岸地方では、方形周溝墓が見られず、時期的には、紀元前二世紀末頃と推定されています。

中期以降は、甕棺墓や銅剣にしても、朝鮮半島と関係が深いものですから、朝鮮半島から身分の高い人々がやってきたものと考えられています。

紀元前108年、朝鮮半島では、漢の武帝が半島最初の国家とされる衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初めとする四郡、つまり植民地を朝鮮に置いた時代と合致しますから、この難を逃れた人々が日本列島にやってきたものとされます。

縄文時代から弥生時代早期にかけて、秦が統一によって多くの人々が避難してきたように、やはり緊急避難であったと考えられます。緊急避難で日本列島に上陸した人々は命からがらであったと推定されます。

中国史書を見ると、この後あたりから、倭人が中国へ朝貢を始めたようです。博多湾岸を中心に九州北部でクニが誕生し、中国から手に入れた漢鏡や銅剣銅矛が、宝器として使われはじめました。そして、これらの品は伝世されることなく、副葬品として墳墓に治められています。それは特別な王というべき位の高い身分であり、神として崇めたものです。

出土する遺物から、九州北部に渡ってきた一団は朝鮮半島南部(伽耶)から、近畿地方に渡ってきた一団は中国東北地方または朝鮮半島北部(楽浪郡)から来たと思われます。

出雲とは、稜威母(イズモ)という、日本国母神「イザナミ」の尊厳への敬意を表す言葉からきた語、あるいは稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説があります。ただし歴史的仮名遣いでは「いづも」であることから、出鉄(いづもの)からきたという説もあります。

1.古代出雲(いずも)

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古代出雲は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ、日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられています。特に東部出雲は律令下でいう伯耆(ほうき・現鳥取県西部)国まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆を古代出雲とする見方が濃厚です。

姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと推定出来ます。また、四隅突出型墳丘墓に代表される独自の文化を生み出しました。

考古学的見地からは、古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もあります。これらの環日本海への版図拡大の逸話は国引き神話として『出雲国風土記』に記されているとの見方も有力であります。

また出雲地方でこのことから考えても、同じ日本海側で出雲と越国(福井から新潟)が交流があったと記されているので、中間地点にある因幡・但馬・丹波も出雲からの物部氏?の一族が、海岸線から定住し始めた人々もいたのではないかと考えても何の不思議はありません。

先年、朝鮮半島北部で相当数の方形周溝墓が発見されました。日本から朝鮮半島に出かけていって、墓を造ったとは考えられないから、この時期、方形周溝墓を持った一団が日本列島にやってきたことを意味しています。北九州と近畿地方では出土遺物がかなり異なることから判断して、彼らは北九州に先にやってきていた一団(スサノオ一族)とは別の集団で、彼らを避けて、瀬戸内海を東進し、大阪湾岸にやってきたようです。これらの人々(ニギハヤヒ一族)によって、大阪湾岸の大規模な建物や近畿地方の鉄器や古式銅鐸がもたらされたものとも判断できます。

近年になって、出雲西部の「荒神谷遺跡」「加茂岩倉遺跡」で、全国のこれまでの出土総数に匹敵するほどのおびただしい銅鐸や銅剣が一度に見つかってきましたが、大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語るてがかりとして、また豊富な神話、特有四隅突出型墳丘墓から、この地域に古くから栄えた大きな勢力があったことは確実であるとされている。その謎を解明するかに見られた「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」からのこの大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説が無い。

その後、出雲西部地方は衰えを見せますが、出雲東部では妻木晩田遺跡や竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し、弥生後期には広く日本海側に展開をしたと考えられています。

1.朝鮮半島と日本海

日本の文化はすべて朝鮮半島から伝搬されたと主張する学者がいます。どうも朝鮮半島からの渡来、文化の起源説などが強調されすぎているようにも見えますが、日本列島はまだ統一されておらず、楽浪郡(紀元前108年 – 313年)との交流があったと考えられています。古代朝鮮半島は中国王朝の郡県、つまり直接支配の地域でした。後の朝鮮半島全域に出没した倭寇も含めて考えると、朝鮮半島や中国の東海岸は、実際には日中朝の人間が混在していた場所であり、また日本は文化に関しては中国に文化の起源を求めていた、と考えるのがよさそうにみえます。たしかに鉄器、焼き物をはじめ仏教や寺院建築、漢字(文字)などは朝鮮半島経由から伝来したようですが、朝鮮半島も三国時代に中国から伝搬したのであり、鉄器、稲作、焼き物、古墳などが百済や高句麗から発祥して伝わったとみるのはどうでしょうか。

DNA鑑定によれば日本のお米であるジャポニカ種は長江以南が原産であって、青森三内丸山遺跡からみつかった米も縄文時代からジャポニカ米が栽培されており、水稲栽培技術は中国江南で行われたものとする説が有力です。陸路で入って来るには朝鮮北部では米が育たないことからも、中国→朝鮮半島→日本ルートは考えにくく、中国から発祥した先端技術が、朝鮮半島を含めた中国東海岸から経由して日本列島に伝搬していったと考えれています。魏書には倭国の倭女王卑弥呼も帯方郡(たいほうぐん)[*1]を通じて中国王朝と通交しています。帯方郡は楽浪郡(らくろうぐん)の一部で、紀元前108年から西暦313年まで朝鮮半島北部に存在した中国王朝の郡県、つまり直接支配地域にありました。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や倭国の中国文明受容に大きな役割を果たしました。次の時代になって百済・伽耶・新羅という新しい国々が南方に生まれ、倭国同様に魏との冊封関係にあったわけです。したがって、朝鮮半島文化が日本の文化のルーツそのものであるとするには無理があります。銅鏡も中国から贈られたとされていますが、中国や朝鮮半島からは見つかっていないことから、日本で独自に製作されたという意見が有力視されています。

日本の長崎県壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡と壱岐、出雲の間の交流を示しています。したがって、姫原西遺跡や西谷墳墓群がある出雲平野には、強大な国があったと思われ、出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性があるとされています。

[*1] 帯方郡(たいほうぐん)とは、204~313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点。楽浪郡の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある。

たじまる まえがき

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原始時代 古代 中世 近世 近代 現代

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古墳 遺跡・遺物 神社 お寺  近代化遺産 地名地誌 交通・乗りもの

人物 その他遺産 政治史

書庫

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■はじめに
8世紀になると、偶然に発見された遺跡や遺物が注目されるようになり、また、ギリシャ・ローマへの関心が高まるなかで、ローマ時代遺跡の発掘が始まりました。火山噴火で埋没したポンペイが偶然発見されたのを契機に、大規模な発掘が行われるようになりましたが、当初は、領主による美術品の蒐集が目的の略奪でした。18世紀末から19世紀初めになると、いわゆる未開地への探検が流行し、そこから収集された考古学的遺物や民族資料が公開されて注目を浴びるようになりました。19世紀半ばになると、科学的発掘調査が成立してきました。まず、地質学の分野で、地層の順番を決め、出土する化石の年代順序を明らかにして、地球の歴史を明らかにする層位学的研究法が確立しました。
方、聖書の故郷として注目を集めていたメソポタミアでは、発掘競争を続け、今でもルーブル美術館や大英博物館の主要な展示物である膨大な石彫類を発掘しました。1871年、シュリーマンがホメロスの詩に書かれていたトロイと信じ、トルコのトロイの遺跡を発掘しました。現在では、この遺跡をトロイと断定することは出来ないというのが定説となっていますが、このように最初の発掘は聖書や神話をもとに行われていました。日本でも江戸時代にはすでに記紀や風土記による発掘が行われていたことはヨーロッパと大差はありません。
かし、明治以降は、皇国史観によって日本神話の記述が神聖視され、神話研究はそれ以前よりも後退することとなりました。大正時代に津田左右吉が『神代史の新しい研究』ほかを発表し、日本神話に科学的な観点から批評を行い、神代記は政治的な意図で作られた創作であると結論づけました。戦後になってもしばらくの間、津田の説が日本神話研究の中心となりました。
現在では津田説が細部まで正しいとは必ずしも考えられてはいませんが、日本神話を考古学などの証拠なく、弥生・古墳時代の史的事実の反映と考える説は基本的に退けられています。

だし、より正確であるといわれている中国など外国の史料や遺跡・遺物は、断片的であるために、全体の流れをつかむことができにくく、複数の解釈を生じます。信憑性に疑問があるとしても、最も詳しいのは古史・神社由来・民話などの国内資料であり、そうした国内資料を無視した状態では、複数の解釈が可能となり、正解を得ることはまず不可能と考えられます。全体の流れをつかむには、残された日本国内の資料に頼るしかないと判断し、正確である可能性の高いものを基に、その内容を、外国史料や遺跡遺物と照合することによって確認し、矛盾を生じるものはその伝承が正しくないと判断するという方法で論を進めたいと思います。

今日では、意図的な改変や創作がかなり加えられてはいるものの、そのようなものの見方をする古代の人たちがいたことに注目する文化的背景を考察する考え方が主流となっています。
まグローバル社会といわれています。しかし、あえていうまでもないことですが、かつて地球上に人類が誕生したころは国境などありませんでした。人々は自由に獲物を求めて移動をくりかえしていたのです。

■歴史の時代区分

日本の歴史における時代区分には様々なものがあります。しかしながら、一応のところ、文字の発生と記録を残すことが行われる以前を先史、それ以降を古代・中世・近世・近代・現代とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられています。この場合でも、各時代の画期をいつにおくかは論者によって大きく異なっていますが、単純に分かりやすくするためにこの時代区分によっています。
さらに、それぞれは次の通りとします。

一般に学校で習うようなよく知られている時代区分は、主として政治センターの所在地に着目した時代区分です

単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分であるといえますが、文献史料がなく発掘による考古史料のみが残る先史時代は、考古学上の時代区分に従い、旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代と区分します。文献史料がある程度残る時代以降は政治センターの所在地に従って、飛鳥時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代と区分していますが、これだけでは必ずしも十分でないため、鎌倉時代と室町時代の間に南北朝時代、1467年の応仁の乱頃から1573年に15代室町将軍足利義昭が織田信長によって追放されて室町幕府が事実上消滅するまでの時代を戦国時代という区分を設けており、これらは中国史の時代区分からの借用です。

江戸時代の次は政治センターの所在地に従うなら、「東京時代」と呼称すべきでしょうが、明治以降から天皇の在位に従って明治時代・大正時代・昭和時代・平成時代と呼ばれています。
また、北海道・北東北、南西諸島などの周縁部については、統治範囲が時代によって上記区分に及ばないため、これらとは異なる時代区分が用いられています。

また、文化面に着目して、縄文文化・弥生文化・古墳文化・飛鳥文化・白鳳文化・天平文化・弘仁貞観文化・国風文化・院政期文化・鎌倉文化・北山文化・東山文化・桃山文化・元禄文化・化政文化・明治文化・大衆文化?などとする区分もあります。

■記載について
あくまでも、自分が生まれた地域に関心がわいたのがきっかけで郷土を中心に展開しています。「すべての歴史は現代史である」という偉大な歴史哲学者(ベネデット・クローチェ)。過去の史料を評価・検証する過程を通して新しい歴史的事実、及びそれらの関連を探り、異なった見方や意見も併記するようにしました。絶えず更新しております。ご助言がございましたらこちらまでお寄せ下さい。

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日本(ひのもと) 5

気多神社以外の大己貴神の神社

大己貴神(オオナムヂ)は、スサノヲの子であるあるとも、数代後の子孫であるとも、また娘婿であるともされており、系譜は不明瞭である。また、複数の別名があるとされているが、それらがすべて同一人物であったとは考えにくい。少彦名命(すくなびこなのみこと)と共に天下をつくった神。病を癒し、害虫を駆除して、天下に繁栄をもたらしたという。 少彦名命
少彦名命の去った後、出雲国を天下統治の拠点とした。

おほな”と“すくな”は対応した名前であると考えられる。“な”は場所の意味があるから、そこから転じて後から大国主という名が付けられたのではないかともいわれている。
別名、大国主神、国作大己貴命、葦原志許男命など。

1.但馬五社 式内 小田井縣(あがた)神社


兵庫県豊岡市小田井町15-6
御祭神:国作大己貴命(くにつくりおほなむちのみこと)

1.但馬五社 名神大 養父(やぶ)神社


兵庫県養父市養父市場字宮ノ谷827-3

御祭神:倉稻魂命(うかのみたまのみこと) 少彦名命(すくなひこなのみこと) 大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命) 谿羽道主命(たにはのみちぬしのみこと) 船帆足尼命(ふなほそこねのみこと)『国司文書 但馬故事記』 上座:大巳貴命中座 中座:蒼稻魂命・少彦名命下座:丹波道主命・船穂足尼命
「神社拾遺」但馬五社 名神大 養父神社

3.式内 石部(いそべ)神社


兵庫県豊岡市出石町下谷62
御祭神:天日方奇日方命(あめひかたくしひかたのみこと)
大山積神 大己貴神 大物主神 事代主命 健御名方命 高彦根命 瀧津彦命
境内入口の右には「式内 石部神社」、左に「皇大神宮」と刻まれた社号標が建っています。創祀年代は不詳。当初は坪井村に鎮座していたといわれ、現在地は出石城跡の東700mほどの出石町下谷に遷座された。江戸時代、小出・仙石両藩主の崇敬を受けていた。祭神は、案内板によると天日方奇日方命。
『式内社調査報告』には、八柱大神と記されている。
八柱大神とは、天日方奇日方命(櫛日方命)・
大己貴神・大物主神・大国魂神・事代主命・媛踏鞴五十鈴姫命・
溝?姫命・活玉依姫命。
『平成祭データ』には、天日方奇日方命・
大山積神・大己貴神・大物主神・事代主命・
健御名方命・高彦根命・瀧津彦命と記されている。

「神社拾遺」式内 石部神社

創建年は不詳。平安時代以前に坪井村から現在地に遷座されたと伝わる出石の産土大神(氏神)。江戸時代は、出石藩藩主である小出家と仙石家から尊崇を受けていた。要するに天日方奇日方命と配祀の神々ということらしく
石邊公・久斯比加多命の祖神、天日方奇日方命を祀る神社。
また、天日方奇日方命は天日矛命の後裔であることから
天日矛命を祭神とする資料もある。天奇日方命〔素盞鳴尊の曾孫、大己貴命の孫〕は事代主命の長子である。性質は叡明仁恕で 神武天皇に事え、申食国政大夫となって天皇を助けた。悪神を治め夷賊を平らげた功功績は大へん大きい。熟美味命と二人は今の左右大臣のようである。『式内社調査報告19』の祭神は、櫛日方命、大己貴命、大物主神、大国魂神、事代主命、媛蹈鞴五十鈴姫命、溝咋耳命、活玉依姫命とする。主祭神は櫛日方命であることに差はない。
『但馬国式社考』は「考証云、櫛日方命、姓氏録云、石邊公、久斯比加多命後也。一書、作奇日方命、或云、天日矛神裔也」とある。『兵庫県近世社寺建築緊急調査表』には天日矛神とする。「先代旧事本紀巻第六 皇孫本紀」によると、
物部連(もののべのむらじ)等の先祖の宇摩志麻治命は大神君(おおみわのきみ)の先祖の天日方奇日方命(あめのみかたくしひかたのみこと)と共に食国政申大夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)となった。天日方奇日方命は皇后の兄である。食国政申大夫は今の大連・大臣である。
奇は「くし」と読み「櫛」と同じ。石部神社は近江から日本海側に分布し、特に丹波の福知山盆地から但馬の出石盆地への日子坐王の行軍路とされる道筋に点在している。素盞鳴尊の曾孫、大己貴命の孫であれば天日槍とは関係ないばかりか大国主の出雲の神社であるから、
天日槍系神社としてよいものか・・・
出石だんじり祭り – 10月中旬。諸杉神社と伊福部神社と石部神社の祭り。約20台のだんじりが参加し、出石城大手前でぶつけ合う喧嘩祭りである。
大ケヤキ「幸の大ケヤキ殿」 – 樹齢一千年、幹周囲8メートル、樹高30メートル、豊岡市指定文化財天然記念物

4.神門神社(かむとじんじゃ)


式内社 豊岡市日高町荒川
御祭神 大國主命、武夷鳥命、大山咋命

御由緒

創立年月不詳なれども延喜式の制小社に列し天和四年本殿を修理し明治三年山王大権 現の称呼を神門神社と改称し同六年十月村社に列し同三十三年瓦葺に屋根替したり。
神門神社の境内にある大きなイチョウの木には、地上5~6m上の枝から下がる『チチ』と呼ばれる気根があります。乳房を思わせるところからこの気根をとって、その汁を飲むと母乳の出が良くなるとも言われており、昭和の末頃にその気根が盗伐されて、その痕跡が痛々しく残っている。

「神社拾遺」式内 神門神社

安牟加(アムカ)神社


兵庫県豊岡市但東町虫生字箱ノ宮式内社 創祀年代は不祥。

聖大明神とも称された古社で
式内社・阿牟加神社の論社。

承和十五年(848)秋八月、安牟加首虫生を出石主政に任ず。
安牟加首虫生が饒速日命から(6代略)の物部の祖、物部十千根命を虫生(むしゅう)の丘に祀る。
これを安牟加神社という。また、丹波国天田郡・奄我神社から分祀したとの説があり、
祭神は、『姓氏録』に「奄我(アンガ)は天穂日命の後なり」
とあることから天穂日命とする。
「神社拾遺」式内 安牟加神社


農村歌舞伎舞台 県指定有形民族文化財

舞台壁面に残る墨書に1861(文久元)年のものがあり、それ以前の創建。
但馬では関宮、但東町、日高町にあり、但東町の代表的な舞台が虫生(むしゅう)の「安牟加神社}にある舞台。安牟加神社では、10月17日に太古踊り[たいこおどり]が行われる。祭の夜、公民館に引き出された太鼓屋台[たいこやたい]に新発意[しんぽち]1人と太鼓打ち2人が座る。行列は幣[しで]持ちと傘鉾[かさほこ]持ちを先頭に、笛と太鼓の囃子[はやし]も賑やかに若者が屋台を威勢よく曳[ひ]いて神社へ練[ね]り込む。神事[しんじ]のあと太古踊りが始まる。

拝殿内に囃子方[はやしかた]15人ほどが座り、歌の上手な者が音頭の頭[かしら]となり音頭出しをする。新発意[しんぽち]は扇を開いて口上[こうじょう]を述べる。音頭が歌い出すと、太鼓は歌に合せて打つ。新発意[しんぽち]の掛声を合図に太鼓打ちは、右に左、斜方向に向きを変えて打つ。音頭には入込[いりこみ]・先達[せんだち]・屋敷おどり・花・糸屋・坂本の6種類がある。
安牟加とは、安羅の伽耶ということではないかと想像。物部を最初に名乗った「物部十千根命」が最初は祀られていたので物部氏の神社であった。虫生(むしゅう)という地名は滋賀県野洲市にもある。

阿牟加(アムカ)神社


豊岡市森尾字アンガ

式内社 御祭神 「天穗日命あるいは天湯河板擧命」
あるいは 物部十千根命
あるいは 天湯河板擧命

創祀年代は不詳。中古、中嶋神社に安美郷内の4社(有庫神社・阿牟加神社・安美神社・香住神社)を合祀し「五社大明神」とも称されたが、後に安美神社(天湯河棚神)以外は分離した」とあるので、その阿牟加神社ではないかと思う。

同地区は旧出石郡神美村で「正始元年三角緑神獣鏡」が見つかった森尾古墳がある。森尾村に阿牟加谷と称する地があり、天湯河板挙命とする説もあります。鵠(クグヒ・コウノトリ)を捕獲した網に因み
阿牟(網)加(郷)の地名となったという考え。しかし、上記の安牟加神社からすれば元は「物部十千根命」を祀ったのでは。

参考資料:-『日高町史』より
兵庫県立歴史博物館

-出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

1.物部氏=気多の足取り

ヒボコと争った気多

但馬国内で物部氏ゆかりの大己貴命の神社が多い順に、城崎郡5社、出石郡3社、気多郡2社、朝来郡、養父郡、七美郡が各1社となっていて、七美郡以外は、すべて円山川水系です。円山川とは水系が異なる但馬西部の美含郡、二方郡、には物部氏ゆかりの神社はないことから、物部氏の勢力は但馬国西部には達していなかったのかも知れません。それとは反対に丹後、丹波には円山川水系同様、物部氏ゆかりの神社が点在しています。

航海術に優れている物部氏が移動に使ったのは、陸路だろうか?山間の入り組んだ地形の但馬、丹波・丹後では、整備された道といったものもまだないから、間違いなく便利な水路でしょう。しかし、出雲と越国から特有の四隅貼石墓が出土し、交流が深く、よく似た文明であるのなら、一気に出雲から船で越国まで航海したとは考えにくく、その途中の伯耆、因幡、但馬、丹後も寄港したり、定住しながら、同じ出雲文化圏を形成していったのではないかと考えられます。

但馬地方で完全な形で発見された唯一の銅鐸が発見されたのは、円山川の河口

豊岡市気比(ケヒ)溝谷で、気比の浜という共通の地名が、日本海には福井など数所存在する名前の入り江(潟湖)です。敦賀気比神社の祭神はイザサワケ(伊奢沙和気)神であったとする。『古事記』には仲哀天皇段は、このイザサワケ神で、のちにヤマト朝廷ではケヒ(笥飯)神とよばれることになる。「笥飯」は食物を意味するが『紀』『記』における角鹿(敦賀)の記述以前は気比社に隣接する浜を笥飯の浦と呼ばれていた。

現に出石町袴狭(ハカザ)で船団の様子が描かれた木簡が出土していますが、銅鐸発見場所が日本海のすぐ近くであること。寄港地として気比や出石がすでに認知されていたと思われます

「播磨風土記」・「日本書紀」は、
播磨→加古川水系(あるいは市川) 伊和大神 → 但馬国へ 円山川水系を下りながら → アサコ(アサク=阿相=朝来)国 → ヤブ(夜父=養父)国 → ケタ(気多)国 → 近江 → 出石に定着
物部氏の建国したもうひとつの日本を消し去るために、その事実を架空の人物「天日槍」に見立てて大和を中心に逆ルートで征服したように記しているのではないだろうかと考えます。

鋳型はすでに北九州の時にあったものが、複製され河内に移動するグループと出雲に移動するグループが所有していたと考えれば、航海術に優れた渡来人にとって、日本海の出雲加茂岩倉や因幡、但馬(豊岡市気比)で見つかった銅鐸は、これまで陸路を経て同じ鋳型とされる大阪府茨木市からもたらされたのとされていましたが、そうではなく日本海沿岸を辿って佐賀・出雲地方からもたらされたのではないか、と思う方が自然ではないでしょうか。加茂岩倉遺跡で見つかった銅鐸の中に気比銅鐸と同じ流水紋の兄弟銅鐸が見つかっています。

物部氏が興したとされる「日本(ヒノモト)」ができた畿内の河内や大和からの交流により、もたらされたというのであれば、なぜもっと大和で見つからないのだろうか。朝来市には物部という地名があり物部神社もあります。

日高町久田谷遺跡で見つかった粉々に破壊された銅鐸片は、組み立てれば120cmにもなる巨大な銅鐸だそうです。
物部氏は全国に大変多い系統ですから、すべてが倭(大和)の日本(ヒノモト)から弥生人(物部氏たち)が波紋のように広がっていったというような単純なものではないと思われます。中国の秦または越人(弥生人≒物部氏)は、同じ中国江南から渡来した越人がすでに一つのまとまった集団ではなくて、北九州、出雲、そして伊勢・尾張など、時代を経ながら日本列島を東方して、新しい漢字国家を形成していったではないだろうか。

また、ヤマト政権による日本が誕生する以前には、すでにこうして越人(秦でいいですが越という日本海の旧国名が中国の越と同じであるのが気になります。愛知も越と同じでしょう)の移り住んでいった対馬国、壱岐国、北九州地方の諸国が形成され、出雲国や越の国もその同じ集団である可能性が分かってきました。出雲は立地条件から日本海によって、北九州や日本海沿岸から朝鮮半島・中国と交易していた重要な基地であり、但馬弥生人のルーツは朝鮮半島南部の伽耶・任那からである可能性は高いです。

畿内ではこれ以外にも銅鐸の鋳型が見つかっており、いずれも付近に饒速日命を祀る神社が多くあることから、物部氏により統一的に銅鐸の製作・配布が行われていたのは決定的だといいます。
物部氏は、元々は兵器の製造・管理を主に管掌していて、祀りごとを担う氏と成長しました。

学術的な否定意見の例

2世紀後半から3世紀中頃にかけての庄内式土器の移動に関する研究から、吉備や畿内の人々が北部九州へ移動した事は確認されたが、北部九州の土器が吉備や畿内へ移動した痕跡はほとんど見られない。つまり、この時期に九州地方の人々が集団で畿内へ移住したとは考えにくいというものです。

4.気多氏

日高町史では、
「忍海部は、名代、子代部に関係したものと想定され、新羅よりやって来た部族ではないか」とも考えられている。忍海漢人は、神功皇后五年に俘虜として渡来してきたといわれ、製鉄技術の関係者だった。一つの目安として、『兵庫県史』では、国名や郡名と一致する皇子や皇女の名を拾い上げて、皇室との関係の濃度を調べて、ヤマト政権の勢力の浸透時期を求めている。それによると、但馬の場合、允恭天皇の皇女に但馬橘大娘皇女(タチバナオノオオイラツネ)、天武天皇の皇女に但馬皇女(タヂマイラツネ)がある。そこから、但馬地方に皇室の勢力が及んだのは、五世紀頃ではないかと想定されている。加えて、養老三年(719)死去の但馬皇女の名が見え、慶雲元年(704)に従四位下の気多王、天平神護二年(766)に従五位下の気多王の名が見えるてくるので、但馬の中でも、とりわけ気多郡と皇室との関係は七、八世紀ごろになると、緊密化してくるように見える。そのことを示すものは「部(べ)」である。部は、民衆集団で、農民・漁民・特殊技能者たちからなり、貴族に生産した品物を貢納したり、特技をもって奉仕した。皇室が所有している部を、特に名代部、子代部という。この部が設置されていることが即ち、ヤマト政権の明瞭な権力進出の証拠なのだが、気多郡の場合、名代部、子代部の名前が出てこない。しかし、準ずると考えられる部の存在が、私部(キサイベ)で、后(キサキ)の部である。次は、品冶部で、垂仁天皇のために置かれた部である。三番目は忍海部で、履中天皇の皇女飯富青(イイトヨアオ)皇女、忍海部皇女のために作られた部といわれ、三者はともに名代部、子代部に準じてもいいものである。

気多郡余部郷に私部意嶋がいて、その戸口の私部酒主が私部得麻呂を、奈良東大寺造営に塗装工として派遣している。忍海部については、大毅忍海部広庭の名が見え、品冶部には小毅品冶部君大隅の名も見える。このような使者は、国府に近い郡の郡司が任ぜられるのが通例である。

ヤマト政権に所属している部を「品部(トモベ)」と総称しているが、神社や地名が関係している。まず、日置部である。日置は戸置(ヘキ)で、税金の徴収台帳である戸数を調べるものだとか、日を置くことで、暦法-こよみに関係したものとか、日置を火置と考えて浄火を常置して神事に関係したとか、大和の石上神宮の神宝作りに関係して、楯部らと共に太刀を作っているから、武器製作にも関係したともいわれている。しかし、律令時代宮廷の日常事務に当たって、殿部の中に見る日置部は、火を灯す役を受け持っていた。気多郡には日置郷があり、式内社日置神社がある。日置部是雄、衣守の名が見える。

次は川人部だ。漁猟に関係した部である。川人部広井の名が見える。高田臣の姓を賜っているから、高田郷に在していた人だったのであろう。

三番目は楯縫(たてぬい)部だ。武具製作に従事していた部で、大嘗会に用いる楯は「丹波国の楯縫氏がこれを造る」という。文献には気多郡に関係者のことを記していないが楯縫神社が日置郷伊福(ゆう:豊岡市日高町鶴岡)にある。

日置部にしても楯縫部にしても、古い儀礼に関係した職業だということで、これは気多郡がヤマト政権に早く吸収された痕跡でもある。気多郡は、上記の皇族名からすると少なくとも八世紀ころには、皇室との接触があったようだ。気多命婦は気多郡の豪族が奉った采女(うねめ:みこ)ではなかったかと考えれば、ヤマト政権支配下にいた気多郡の豪族の一つの生き方が見える。しかし、名代部、子代部が見られ、既に五世紀の中頃から宮廷儀礼に関係し、古くから服属してしまっている痕跡を持っている。気多郡へのヤマト政権の進出の時期については、五世紀の初め円山川上流部に波及すると次第にその影響を受けていったのであろうか。

-参考『日高町史』より

しかし、これは、奈良時代にヤマト政権の律令制度以降のことなので、それ以前は資料がありませんからわかりません。新羅が誕生する以前から、全国でも唯一の107片も粉々に破壊され埋められた弥生後期と推定する銅鐸片が見つかったことを見ると、ヤマト王権に反抗した豪族(仮に気多氏)がいたのではないかということを想像します。ひたすら強調することはできませんが、気多神社の由来やわざわざ播磨風土記に気多と養父の名が記されていることからも、そう思えてくるのです。全国で式内社の兵主神(大己貴神)は、合計二十一座(十九社)で、その内の七社がなんと但馬の円山川近辺に集中していることからも、物部氏の一族で伽耶系の渡来人が半島と密接な繋がりをもちながら北但馬でヤマト政権に抵抗し、勢力を保持していたのではないかと思えるのです。▲ページTOPへ

たじまる 日本-4

一宮と但馬五社

但馬国には、ヤマト政権が但馬を平定する以前から古い神社が存在していて、延喜式神名帳ではそれを否定はせず、あるいは政権側の祭神を配祀しているのでしょうか。但馬五社のうち、大国主以外の神社は天日槍(日矛)の出石神社のみですし、出石神社も古くは別の祭神であったとする説あるそうです。養父神社対岸にある水谷神社は、かつて大社であったとされるのにもかかわらず、どういう訳か但馬五社からはずされています。

1.神社が多い但馬

全国の神社について公式に記録で現存するのは、平安時代中期(十世紀)の初頭選定された、「延喜式・神名帳」です。全国には大492座、小2604座が指定されています。相甞祭(あいなめさい)の官幣を受ける大社69座は、大和31、摂津15、山城11、河内8、紀伊4座です。新甞祭(にいなめさい)の官幣を受ける大社304座は、京中3、大和128、山城53、摂津26、河内23、伊勢14、紀伊8、近江5、播磨3、阿波2、和泉、伊豆、武蔵、安房、下総、常陸、若狭、丹後、安芸がそれぞれ1座です。大和朝廷の勢力範囲の拡大経過と見ることができるでしょう。

但馬国は131座(大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも大の位の神社数が多いのが特徴です。但馬国を旧郡名の朝來(アサコ)郡、養父(ヤブ)郡、出石(イズシ)郡、気多(ケタ)郡、城崎(キノサキ)郡、美含(ミグミ)郡、二方(フタカタ)郡、七美(ヒツミ)郡の8つに分けると、出石郡が9座2社、気多郡は4座4社置かれ、次いで養父郡が3座2社、朝来郡、城崎郡が各1座1社ずつとなっています。

大小合わせて131座というのは、例えば

  • 大和國:286座 大128 小158
  • 伊勢國:253座 大14 小235
  • 出雲国:187座 大2 小185
  • 近江国:155座 大13 小142
  • 但馬国:131座 大18 小113
  • 越前國:126座 大8 小118近隣で比べると、
  • 丹波国:71座 大5 小66
  • 丹後國:65座 大7 小58
  • 若狭国:42座 大3 小14
  • 因幡國:50座 大1 小49
  • 播磨国:50座 大7 小43
    となっているので遙かに引き離していることがわかります。それは大和朝廷の勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。
一宮(いちのみや)は、神社の格式を記した『延喜式(十世紀)』には、一宮等の区別を定める規定はありませんが、祭祀・神階などの点で、他社にまさって有力な神社とされるものが明らかに見られるので、それらの最上位のものが一宮とせられ、以下、二宮・三宮・四宮等などの順位を附けて行ったもののようです。

おそらく平安初期にその実が備わり、同中期から鎌倉初期までに逐次整った制と考えられますが、それは朝廷または国司が特に指定したというものではなく、諸国において由緒の深い神社、または信仰の篤い神社が勢力を拡大するに至って、おのずからその国の神社の階級的序列が生まれ、その首位にあるものが一宮とされ、そのことが公認されるに至ったもののようです。

出石神社は但馬一の宮で大変古い神社ですが、このあと天日槍(あめのひぼこ)の項で詳しく述べるとして、但馬国一宮は出石神社と粟鹿神社の二社とされています。但しいくつかの資料で異なっており、鎌倉時代の「但馬国大田文」では粟鹿神社を二宮としていますが、室町時代の「大日本一宮記」では粟鹿神社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていません。室町時代は山名宗全が出石神社に近い出石此隅山城を本拠として出石神社を擁護し、応仁の乱の際には出石神社に祈願して此隅山城から出陣したと伝えられているので、記載されていないのが不思議です。
ここではヤマト朝廷成立以前にすでに存在していた古い神社を弥生時代に起源を求め、ご紹介します。

名神大社(十八座)

朝来郡朝来市粟鹿神社名神大・旧県社
養父郡養父市養父神社(夜夫坐神社)名神大二座。小三座・旧県社
水谷神社名神大・旧村社
出石郡豊岡市出石町出石神社(伊豆志坐神社)名神大八座・国幣中社・別表神社
御出石神社名神大
気多郡豊岡市日高町山(やま)神社名神大・旧村社
戸(へ・との)神社名神大・旧村社
雷(いかづち)神社名神大・旧村社
豊岡市竹野町?(木偏に蜀)椒(ほそぎ・はじかみ)神社名神大・旧村社
城崎郡豊岡市海(カイ・あまの)神社名神大・旧村社

山陰道但馬国

  • 一宮 出石神社 兵庫県豊岡市出石町宮内
  • 一宮 粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
  • 二宮 粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
  • 三宮 水谷神社 兵庫県養父市奥米地字中シマ235
  • 三宮 養父神社 兵庫県養父市養父市場字宮ノ谷827-3
    粟鹿神社については、一宮とも二宮ともいわれています。
    名神大18は以下の通りで、全国的に大和国 大128、山城国 大53に次いで多い。山陰道でも圧倒的に多く、しかも自然神が他国では皆無なのに19社中5社はきわめて珍しい。3.但馬五社またこれとは別に、但馬を南北に流れる円山川沿いに絹巻神社・出石神社・小田井縣神社・養父神社・粟鹿神社、この5つの神社を総称して「但馬五社」と呼び親しまれています。各神社間は約12km、お正月にはこの五社をめぐると大変御利益があるとされ、露店も並び、多くの参拝者で賑わいます。

    粟鹿神社朝来市
    養父神社養父市
    出石神社豊岡市出石町
    小田井縣神社豊岡市
    絹巻神社豊岡市

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3.神社に見る勢力図

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4.粟鹿(あわが)神社

但馬國朝來郡 粟鹿神社
兵庫県朝来市山東町粟鹿2152式内社(名神大)。但馬國一宮。旧県社。但馬五社の一つ。
御祭神:「粟鹿大明神元記(げんき)」によると阿米弥佐利命(アメノミサリノミコト)
神紋は、茗荷と菊の合せ紋。茗荷紋は、境内社・茗荷神社に由来するらしい。
但馬国随一の古社であり、2000年以上の歴史があるとも言われる。和銅元年(708年)に祭神や歴代祭主などを詳細に記した粟鹿大明神元記の写本が残る(宮内庁所蔵)。粟鹿神社の祭主は、古代に神部(かむべ)氏が務め、その後、日下部氏(くさかべし)の祖、日下部宿禰(すくね)が務めるようになりました。そして、神部氏と日下部宿禰との接点が『粟鹿大明神元記』にある神部氏系図のなかにみえます。稗史によれば、開化天皇の第3皇子 彦坐王(ひこいますのみこ=日子坐王)の子、四道将軍のひとり谿羽(丹波)道主命(たちはみちぬしのみこと)の子孫で、但馬国造の日下部君の後裔とされます。日下部氏は美濃を領地として、子の八瓜入日子とともに治山治水開発に努めたとも伝えられますが、その後裔氏族は美濃のみならず、常陸・甲斐・三河・伊勢・近江・山城・河内・大和・但馬・播磨・丹波・吉備・若狭・因幡など広汎に分布しています。
時代は下りますが、戦国時代に大名となった越前朝倉氏は山名四天王のひとり養父郡八木氏から分かれた養父郡朝倉荘の出自で本姓日下部氏で、同じ一族である八木・太田垣、朝倉・奈佐など皆、粟鹿神社を祖神として崇敬し、越前朝倉氏などはのちに越前に移ってその居城下に粟鹿神社を勧請しています。
孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』)▲ページTOPへ
由緒 当社は但馬国最古の社として国土開発の神と称す。国内はもちろん、付近の数国にわたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。人皇第一〇代崇神天皇の時、第九代開化天皇の第三皇子日子坐王(ひこざおうのみこと)が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、丹波一円を征定して大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。粟鹿山麓粟鹿郷は、王薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡である。
粟鹿神社が時代によって一宮であったり二宮になったり変化していますが、これは推測すると、奈良時代に但馬国府・国分寺が気多郡(旧日高町)に置かれるようになると、一の宮は国府に近い出石神社に朝廷が力を入れ、一宮を代えたものの、中世武家社会になると国府・国分寺の役割が衰え、日下部君の後裔 竹田城主太田垣氏等が粟鹿神社を一宮として擁護したのではないでしょうか。
現在は両社ともが但馬国一宮を称し、全国一の宮会に加盟している。いずれにしても、但馬国随一の古社で、2000年以上の歴史があるとも言われている。和銅元年(708年)に祭神や歴代祭主などを詳細に記した『粟鹿大明神元記』の写本が残っている(宮内庁所蔵)。朝廷の信頼厚く、国家の大難に対して4度の勅使が遣わされたと伝えられており、約600年前には勅使門(市の文化財)が建立されている。本殿裏側のこんもりとした丘が、日子坐王命(ひこざおうのみこと)の墳墓という伝承もある。世人はこれを御陵と呼んであがめている。また、近年発見された『粟鹿大明神元記』和銅元年(708)八月に、大国主命を祖とする神直が当社の祭祀を執り行ったとある。創祀年代は不詳だが、天正九年(737)の『但馬国正税帳』(正倉院文書)に
「朝来郡粟鹿神戸祖代六十六束二把」とあり、粟鹿の名は、昔、粟鹿山の洞穴に住む一頭の鹿が、粟三束をくわえ、村に現われ、人々に農耕を教え、その鹿を祀ったのが、当社であるとされている。また、粟鹿山の荒ぶる神を祀ったとも。昔より御神徳の高い神社として朝廷の御尊崇(ごそんすう)も厚く、国家の大難に際し四度に亘り勅使(ちょくし)を派遣し、御加護を得られたことを記念して約600年前に建てられた勅使門はに指定されている。境内の各末社それぞれ由緒に富み、神域10,540坪の殆どを占める社叢林(しゃそうりん)は、実に聖域にふさわしい森厳(しんげん)そのもので、これもまた町の文化財に指定されている。
近年、豊岡自動車道建設工事の際に、付近で近畿でも最大規模の大型古墳が度々発見され、朝廷の配下に置かれた但馬王が治めていたとされるエリアに近く、但馬の交通の要所として人々の往来がさかんであったことを物語っているかのようだ。
「通りゃんせ」のお話し
粟鹿遺跡▲ページTOPへ

5.養父(やぶ)神社

JR山陰本線と旧山陰街道が並行する東側但馬國養父郡 夜夫(やぶ)坐神社 五座 式内社(名神大)二座 小三座。旧県社。但馬五社の一つ。

御祭神:倉稻魂命 大己貴命 少彦名命 谿羽道主命 船帆足尼命

神紋・横木瓜

兵庫県養父市養父市場字宮ノ谷

 養父は古くは夜夫とも記されています。上社・中社・下社があり大きな神社です。但馬五社の一つで参拝者が多い神社です。
子供の七五三に拝んでいただきましたが、久しぶりに訪れました。「養父の明神さん」と呼ばれ、農業の神として知られています。養父神社のある養父市場は古くから但馬牛の牛市の中心地であり、現在でも近隣の大藪で但馬牛のせり市が開かれています。但馬国府や因幡路に通じる重要な旧山陰道の宿場町として栄え、今もJR山陰本線が走るそばに鎮座して列車からも見ることができます。車で朱塗りの橋をくぐり社務所まで行くことができます。崇神天皇三十年(紀元前68年)創祀と伝えられ、天平9年(737年)の『但馬税正帳』に出石神社、粟鹿神社とともにその名が見えます。御祭神倉稲魂命--------米麦養蚕牛馬の神様少彦名命--------薬草、治病の神様大巳貴命(大国主命)--国土開発統治の神様谿羽道主命(四道将軍のひとり丹波道主命)国民生活安定の神様船帆足尼命-------地方政治の神様
『播磨風土記』には、天日槍(アメノヒボコ)命と伊和大神(葦原志許乎命(あしはらのしこおのみこと)=大巳貴命(おおなむち))が、黒土の志爾嵩(藤無山)に至りおのおの黒葛を三条(みかた)を投げて支配地を決定した。
アメノヒボコ命の投げた三条は、すべて伊都志(出石)に落ちた。
葦原志許乎命の投げた黒葛は、一条が但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、
そして、最後の一条が御方に落ちたため、
三条(みかた:御方・御形)という地名となった。

アメノヒボコ命の投げた黒葛が出石に落ち、ヒボコ命を祭神とする出石神社があり、また、気多郡に葦原志許乎命を祀る気多神社、御方にも葦原志許乎命を祀る御方神社が鎮座する。
養父郡にも、大己貴命(葦原志許乎命)を祀る当社存在するということは、古くからこの地に有力な地方豪族がいて、平定後、四道将軍の少彦名命、谿羽道主命を配祀していることからがうかがえます。

また、神功皇后が半島から帰国した時、その無事をお祝いとして「葛の葉の餅」を功のある神社に賜わった。
そのため、養父神社より斎神社へ神幸があったといい、1800年前から行われているという。
あるいは、
男神と女神の、年に一度の逢瀬であるとも。
当地の最大祭礼に「お走りさん」と呼ばれる御渡祭がある。
当社から、18Km離れた南の斎神社まで
走るように御輿が引かれる神事で
昔、円山川一帯が泥海であった時、
斎神社祭神の彦狭知命が、城崎の瀬戸の山を切り開き
泥海を美田に変えた。
その神恩に報いるため、
五社明神(粟鹿・養父・出石・小田井・絹巻)の名代として礼参に赴いたもの。
大藪古墳群

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6.但馬国一の宮 出石神社(いずしじんじゃ)

 

兵庫県豊岡市出石町宮内字芝地99
伊豆志坐神社八座座[イツシノ](並名神大)式内社 旧國幣中社 但馬國一宮【国指定重要文化財】祭神:天日槍命くわしくは「天日槍(あめのひぼこ)」をどうぞ

7.小田井縣(おだいあがた)神社

但馬國城崎郡 兵庫県豊岡市小田井町15-6
式内社 旧県社御祭神:國作大己貴命(くにつくりおほなむちのみこと)神紋は、沢瀉(オモダカ)紋流麗な春日造本殿がある。国道312号線堀川橋の手前を降りたすぐの円山川沿いにあります。豊岡市の大社で、祭神:当地開拓の祖神・国作大己貴命(おほなむちのみこと)
御由緒

小田井縣神社は、延喜式神名帳(905年)に記されている式内神社で但馬で古くからあって、ご祭神は国作大己貴命であります。大神は大昔、この豊岡附近一帯が泥湖であって、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開いて水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発されました。第十代崇神天皇の御代(前86年)の十一年甲午春の三月十日、四道将軍谿羽道主命が大神の偉徳を聞き、深くその功績をたたえられ、天皇に奏上し、勅許を得てご神霊を鎮祭したと伝えられ、この地方開拓の祖神であります。その後、代々の縣主が、この地方の開発と拓殖につとめ、祭祀を営んだと伝えられ、四方の崇敬篤く国中屈指の古社であります。

弘安年中(1278年~1287年)時の守護、太田政頼の注進による但馬太田文には、小田井社々領三十一町三反あまり神供田二十五町一反あまりと見えており、この時代には神仏習合となり。社家、(四家)社僧(四ケ寺=金剛、妙楽、正法、三坂)が祭事をとり行なっていたようです。

元弘三年(1333年)癸酉の夏第九十五代後醍醐天皇より、当社に正一位の神階と、御製のご宸筆が下されたといい、当時は祠域広壮、祠宇雄麗で社運は隆盛を極めたと伝えられています。

天正三年(1575年)十月、垣屋筑後守広秀が田結庄是義を征めた野田合戦で、当社の森に放火され、社頭を焼き拂われたために、古文書、古器物は、ことごとく灰となりました。この時ご神霊はみこしで隣の一日市(ひといち)に火難を避けられたといわれています。天正年中(1573年~1591年)羽柴秀吉が中国征伐のとき、当社に陣営をおき、神領を没収し、わずか境内一町三反、神供田一ケ所、神主屋敷七反三畝が残されました。この時より社家社僧は離散して祭祀がすたれ、社運が著しく衰微したといわれています。

貞享年中(1684年~1687年)社殿を再興し、鳥居を建て元文年中(1736年~1740年)神殿を改造しました。現今の春日造の社殿がそれであります。

明治6年(1873年)社格が定められ県社に列しました。

明治十一年(1878年)とだえていた河内神事、矛立神事など古代の神事を復古しました。

昭和6年(1930年)円山川治水工事のため現位置に移転し、約四十年後の昭和四十四年(1969年)堀川橋改築、堤防増強工事のため、境内の模様替え、えびす神社、川下神社、社務所の改築を行ないました。
昭和25年(1950年)河内神事、矛立神事の式年大祭を行ないました。


社門

拝殿
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8.絹巻神社(きぬまきじんじゃ)


但馬五社明神の一つ社 紋 あげ羽蝶
鎮座地 豊岡市気比字絹巻2585-1
御祭神:天火明命(あまのほあかりのみこと)海部直命(あまのあたえのみこと)天衣織女命(あまのえおりめのみこと)
城崎大橋を渡るとすぐに在ります。境内の絹巻山は玄武岩で形成され、その眺めは絹織反物を積み上げた様子をうかがわせています。また、神社の周囲は暖地性原生林に囲まれており、全体が県天然記念物の指定を受け、「ひめはるぜみ」の棲息地として知られています。同じく物部氏ゆかりの天火明命が祀られ、対岸には韓國神社「物部韓國連命」豊岡市城崎町飯谷50-1、物部神社 「磐船長命」 豊岡市城崎町白鳥上256があります。古くは対岸の名神大海神社は当社と同じ場所に祀られていたという。
天火明命(アメノホアカリ)は、『古事記』に天火明命、『日本書紀』に火明命、天照国照彦火明命、また『先代旧事本紀』には天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやのみこと)と記されている。▲ページTOPへ

9.但馬の国造り伝説

円山川に沿う五社の伝説は、どのようにしてできあがってきたのだろうか。その背後にあった太古の記憶は、どうすれば解き明かすことができるのだろうか。アメノヒボコノミコトは、但馬の国造りをした神様(人物?)でもあった。けれども但馬地方には、ほかにも国造りにまつわるお話がいくつか伝えられている。各々の村にも、古くから語り継がれた土地造りの神様の伝説があったのだ。

注目すべき点

注目するのは、粟鹿神社、養父神社、小田井神社は但馬の名神大社、但馬総社気多神社、気多神社のいずれも祭神は、当地開拓の祖神として大己貴命(くにつくりおほなむち)を祀っています。伊和神社祭神:伊和大神(いわおほかみ)も同一神とされます。出石神社以外の神社は、円山川河口を切り開き国を造ったヒボコのことは一切ふれていませんし、出石神社もかつての祭神は天日槍ではなかったという説もあるそうです。そうなったのは記紀・播磨風土記に但馬・丹後の話がやたらに書かれる崇神天皇・崇神天皇・神功皇后あたりからなのです。謎です。
西刀神社[せと](豊岡市瀬戸字岡746)も、円山川流域は黄沼前海と呼ばれ、沼地のような一大入江であった。この時、海部直命(但馬五社絹巻神社の祭神)は、御子・西刀宿禰に命じて瀬戸の水門を浚渫し、河水を海に流し、円山川の流域は蒼生安住の地になったと伝えられております。

円山川は暴れ川といわれ、とくに小田井神社当たりの円山川下流域は非常に水はけの悪い土地で、昭和以降もたびたび大洪水を起こしています。近代的な堤防が整備されていてもそうなのだから、古代のことは想像に難くありません。実際、円山川支流の出石川周辺を発掘調査してみると、地表から何mも、砂と泥が交互に堆積した軟弱な地層が続いています。
今から6000年ほど前の縄文時代前期は、現代よりもずっと暖かい時代でした。海面は現在よりも数m高く、東京湾や大阪湾は今よりも内陸まで入り込んでいたことが確かめられている(縄文海進)。 円山川河口部は黄沼前海(きぬさきのうみ)と呼ばれていた入江湖だったので国作大己貴命(くにつくり-)と祭神名を「国を作った大己貴命」とあえて加えているのがなんとも信憑性がありそうです。

出石神社も但馬の古社で同じように祭祀年代は不詳ですが、鎌倉時代の『但馬国大田文』では栗鹿神社を二宮としていますが、室町時代の『大日本一宮記』では栗鹿神社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていません。絹巻さんは海に近く海の神様 天火明命(あまのほあかりのみこと)で元伊勢籠神社と同じですから納得できます。大己貴命同様出雲系の神です。その他の但馬の大社は自然神なのでもっと古社でしょう。大和の天皇系は出石神社の天日槍のみなのです。

太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのでしょう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思えます。

二つの伝説に共通しているのは、「但馬(特に円山川(まるやまがわ)流域)はかつて湖だったが、神様(たち)が水を海へ流し出して土地を造った」という点で共通している点です。

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9.式内社 水谷神社


(2008.10.12)名神大 旧村社

養父市奥米地字中島235

御祭神 不詳
祭神は不詳だが、『平成祭データ』では天照皇大神、
『式内社調査報告』には、「水谷=水垂」と考え水神とする説や
保食神とする説などが記載されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

出典: 「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学教授 佐藤 信

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銅鐸金茶(きんちゃ)#f39800最初のページ戻る次へ
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たじまる 日本(ひのもと) 3

目 次

  1. 物部氏
  2. 物部氏の神社
  3. 天照御魂神
  4. 石切劔箭神社
  5. 大神(おおみわ)神社
  6. 石上神宮
  7. 物部神社
  8. 物部氏ゆかりの神社が多い旧國

1.物部氏(もののべうじ)

物部氏は、河内国の哮峰(現・大阪府交野市)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒ・ウマシマジを祖先と伝えられる氏族とされます。邪馬台国が九州か大和、どちらにあっても、その主催者と言われる程、日本の古代を席巻していた氏族とされいます。

物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられます。また、物部連となった氏族は時代によって幾度も交代しているからです。さらに無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがないのです。石上氏等中央の物部氏族とは別に、古代東北地方などに物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録があります。各地に多数祀られている饒速日尊の一族の物部氏、石上氏、尾張氏、海部氏等、物部神社や磐船神社は、各地にたくさんあります。

『古事記』では、ウマシマジノミコト(可美真手命)は、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場します。ナガスネヒコの妹のミカシギヤヒメ(三炊屋媛)・トミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・可美真手命)をもうけました。ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としています。

『日本書紀』にはこの人物について多くを語りませんが、物部系の文書『先代旧事本紀』によれば、神武天皇が即位した直後、ウマシマジノミコトは、朝廷の儀礼など、諸事を定めたといい、ヤマトの基礎を築いた人物として描かれています。
通説は、物部氏を五世紀に勃興した一族と見なすので、このようなヤマト建国と物部氏の活躍を、ほとんど無視します。しかしそれなら、なぜ『日本書紀』は、「物部氏の祖は神武天皇よりも先にヤマトに君臨していた」という話をわざわざ掲げたのだろうか。それは、本当のことだったからではあるまいか。
たとえば、天皇家の儀礼や宗教観には、物部の強い影響が残されているという指摘があります。
スサノヲ尊の遺命を受けた御子・大歳尊(以下、オオトシ)は、父の死後、北九州の筑紫から讃岐・播磨を経て河内から大和に東遷し、三輪山麓に戦闘なく日ノ本王朝・大和国を建国、饒速日(以下、ニギハヤヒ)と改名しました。大歳尊は、東海・関東から東北の飽田(秋田)辺りまで遠征、日本(ひのもと)国を拡大し、大和に帰還して没しました。三輪山はニギハヤヒの御陵で、死して天照御魂神として各地の天照神社に祀られました。

ニギハヤヒの死後、末娘・御歳(伊須気依)姫は日向から婿養子として磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)を迎え、磐余彦尊は初代・神武天皇として即位しました。

神武のヤマト入りを助けたことも謎めきますが、その後のウマシマジノミコトの動きも、また不可解なのです。
島根県大田市にはそのものずばりの物部神社があって、ここにはおおよそ次のような伝承が残されています。
「神武天皇のヤマト建国を助けた後、ウマシマジノミコトは尾張氏の祖の天香具山命と共に、尾張、美濃、越国を平定した。ウマシマジノミコトはさらに西に向かい、播磨、丹波を経て石見に入ると、鶴に乗って舞い降り、この地に留まった」といいます。
なぜ、石見なのかというと、近くの三瓶(さんべ)山が、ニゴハヤヒノミコトの出身地だったからといい、また、出雲を監視するためだという。物部神社のある大田市は、元々旧出雲国と石見国の境目に位置します。
よくわからないのは、ヤマト建国の功労者であるはずのウマシマジノミコトが、なぜ政権の中枢に留まらず、石見に向かったのか、ということです。

神武と同一人物とされる崇神天皇と垂仁天皇の時代、ヤマト朝廷がさかんに出雲いじめをしていたと  『日本書紀』が記録していることです。考古学的にも、ヤマト建国の直後、出雲が実際に衰弱していることが確かめられています。そして、出雲いじめの主役が、物部系の人物だったと記されているのだから、ウマシマジノミコトの石見入りも、信憑性を帯びてきます。

問題は、なぜヤマト建国の功労者が、出雲いじめに走ったのかということで、神話の出雲の国譲りも、単なる神話と無視できなくなってくるのです。
兵器の製造・管理を主に管掌していましたが、しだいに大伴氏(おおともうじ)とならぶ有力軍事氏族へと成長していきました。連の姓(かばね)、八色の姓の改革の時に朝臣(あそみ・あそん)姓を賜る。五世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになりました。
しかし果たして物部氏は単一氏族だったのでしょうか。祭祀に従事する氏族のことを概ね物部氏と呼ばれたのではなかろうかと思わせる程、この氏族は歴史の中心に立ち現れるのです。物部には八十氏とされる諸集団がおり、戦闘、兵器生産、軍神祭祀に従事し、物部連という組織によって統率されていたのではないでしょうか。
継体天皇の時代に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられたのが物部氏でした。また、後述の蘇我馬子(ソガノウマコ)と物部守屋(モノノベノモリヤ)の戦いで大きく登場します。

2.天照御魂神(あまてるみたまのかみ

ニギハヤヒは、記紀が書かれるまでは皇祖神・天照御魂大神だったことが、多くの史料や古代からの神社の祭神・縁起・伝承が証明しています。延喜式神名帳には、「天照」を名乗る神社が、山城、大和、摂津、丹波、播磨、筑紫、対馬などに記載され、記紀編纂以前の創建で古い神社です。

女神・アマテラス(天照大御神)は、日本書紀の編者の都合により、その称号を与えられたにすぎず、実状は全然違っていたのでしょう。なぜなら、全国の天照を名のる古神社は、皆一様にその主祭神を天火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊としているからなのです。

たとえば、京都府宮津市に天火明命を主祭神とする元伊勢籠神社があります。同社の説明によると、
主祭神は彦火明命、亦名天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命
とあり、相殿に豊受大神、天照大神が祀られています。

同社の説明に、「極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神(上賀茂神社)と異名同神であり・・・。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられます。古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い・・・。」と(ほんとはね…と遠慮ぎみに)あります。

出雲大社の創建は、奈良時代初頭の霊亀二(716)年だったことがわかっています。明治までは杵築大社と呼ばれて別の神様(スサノヲ・須佐社)を祀っていたらしいのですが、ちょうど、古事記(712年)と日本書紀(720年)の成立の中間に大神社として創建されたことになります。大己貴命こと、大国主が亡くなってから500年も経った後のことです。大国主命の別名として、古事記では、大穴牟遲神、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神。日本書紀では、大物主神、国作大己貴命、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顕国玉神とあり、それぞれの神名から多様な性格が連想され、一つの神ではなく、複数の神々を統合したものとみられています。ともあれ、出雲大社は記紀神話に合わせて大和朝廷によって創建されたことは間違いないようです。そして、スサノヲやニギハヤヒはじめ、出雲系の神々とその偉業を一括りにして傀儡の大国主を創作し、出雲に流竄したのだともみられています。

記紀の記述に邪魔な神々を出雲に葬り、その代償として出雲大社が建てられたとみられ、当時は50mもある国内最大の建築物として、出雲大社は万の神が集まる今でも壮大なものです。

3.石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)


大阪府東大阪市東石切町「石切劔箭神社」

http://www.ishikiri.or.jp/top.htmlの「先代旧事本紀」のご説明によりますと、
当社は、我が大和民族が皇祖と仰ぎ奉る天照大神の御孫にあたられる瓊々杵尊の御兄、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)とその御子、可美真手命(宇摩志麻遅命 ウマシマデノミコト)の二柱をお祀りしています。御祭神は日本国の発祥にあたる大和建国に御功績がありました。尊は神武天皇の御東遷に先立ち、天照大神から十種の神宝をさずかり、大和建国の任務を受けて天磐船に乗り、哮ヶ峰(現在の生駒山)に天降りになりました。そのころ、大和地方にはすでに勢力を拡大している先住の人々がおりました。尊(ミコト)はその一族の家長であるナガスネヒコ(長髄彦)の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)と結婚され、可美真手命がお生まれになりました。その後年月を経て神武天皇の東遷に際し、尊と神武天皇はお互いに御所持の天羽々矢を示し合い、共に天照大神の子孫であることがわかり、尊は長髄彦に帰服をお諭しになり、ここに大和建国は成功しました。神武天皇はその功績を称え「素より饒速日尊は天より降れる者なるを聞けり而るに今果して殊功を樹てたり」と、劔をお授けになりました。饒速日尊という御神名は「徳が高く広く活発で勇猛であらせられた」という意義をもつ御尊名です。

また、可美真手命は、大和地方の治政に尽力されたのはもちろん、物部一族を率いて神武天皇の親衛を勤められ、十種の神宝によるまじないの神法で多くの人々を救いました。可美真手命とは「ご立派な御徳を有されたお方」という意味です。

「はるか昔、河内と大和の一帯は鳥見(登美)の里と呼ばれ、穏やかな自然と、海や山の幸に恵まれた豊かな土地でした。 この地方を治めていた豪族、鳥見一族は、稲作や製鉄の技術はないものの、狩や漁がうまく、生活用具や住居づくりに 優れていました。また、長身の恵まれた体格は戦闘に秀で、「長髄の者」と恐れられていました。

さて、神々の住む高天原では、天照大神が、孫の饒速日尊に大和の建国を命じ、『十種の瑞宝』を授けていました。 『十種の瑞宝』は、人々を治め、身や心の病を癒す霊力をそなえた瑞宝です。 饒速日尊は『フツノミタマの劔』を持ち、日の御子の証である『天羽羽矢』も携えて天磐船に乗り、船団を組んで高天原から船出しました。

船団が豊前(大分県)の宇佐につくと、尊は息子の天香山命に『フツノミタマの劔』を授け、船団の半分をあずけます。 そして自らは、瀬戸内海を通って大和に向かいました。こうして饒速日尊の乗る天磐船は、鳥見の里を見渡す 哮ヶ峰(生駒山)に着きました。
その頃の鳥見の長、長髄彦は、外敵を全て討ち滅ぼす猛々しい族長でした。しかし饒速日尊の徳の高さに打たれ、 尊のもたらした稲作や織物、鉄製の道具・武具に文化の差をみると、争う事の無益さを悟り、一族こぞって饒速日尊に従った のです。このとき二人の間を取り持ったのが、長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)でした。

こうして鳥見の里を治めるようになった饒速日尊は、水が豊かで稲作に適したこの地に水田を拓き、大きな実りをもたらします。 これが近畿地方の稲作文化の初めといわれています。饒速日尊はやがて、登美夜毘売と結婚して可美真手命をもうけ、一層 国の発展につくされました。
鳥見の里が繁栄をきわめていた頃、神武天皇は日向の高千穂から東へ進攻を続けていました。
河内に上陸し、孔舎衙坂(現在の石切霊園のあたり)から大和へ向かう神武天皇の軍勢を見て、長髄彦は 「平和で豊かなこの国を奪われてなるものか」と、戦をしかけます。土地に詳しく勇猛な長髄彦の 軍勢に皇軍は総崩れとなり、退却を余儀なくさせられます。

哮ヶ峰の麓の高庭白庭の丘に兵をまとめた神武天皇は、かたわらの巨石を高々と蹴り上げて武運を占い、また高天原の神々をこの地に招来して祈りを捧げ、敵味方なく戦死者の霊を祀りました。

神武天皇は、「自らが日の御子であるのに、日が昇る東の方角に弓を引いたのが誤りであった」と考え、 熊野から大和へと、日を背にして入ることにしました。 ところが、熊野の女王、丹敷戸畔の軍から毒矢が放たれ、皇軍は一人残らず気を失い全滅の危機にさらされます。 そこへ馳せ参じたのが、かつて豊前の宇佐で饒速日尊と別れて熊野に入り、高倉下命と名を変えた天香山命でした。 高倉下命がフツノミタマの劔を献上すると、不思議にも熊野の荒ぶる神々はことごとく倒れ、それまで倒れ伏していた皇軍も 皆生気を取り戻しました。こうして再び、大和への行軍がはじまります。

またも現れた皇軍に驚き、兵を集めた長髄彦は、「我らの主君こそ日の御子である。神武は偽り者だ」と疑います。 この頃、既に饒速日尊は亡くなり、鳥見の長となっていたのは可美真手命でした。 可美真手命は「天羽羽矢」と歩靱を、日の御子である証として神武天皇に差し出しました。すると神武天皇からも 同じものが示されたので、ようやく互いに天照大神の子孫であることが明らかになったのです。 そこで、可美真手命は長髄彦に天皇への帰順をさとし、自らも一族を率いて天皇に忠誠を誓い、広大な稲作地や所領の すべてを捧げました。こうして大和の統一が成し遂げられたのです。

その後、可美真手命には忠誠の象徴としてフツノミタマの劔と、河内の美田が改めて授けられ、その功績は永く讃えられ ることとなります。以来、一族は物部氏として天皇の側で忠誠に励んだのです。 神武天皇が即位した翌年、出雲地方の平定に向かう可美真手命は、生まれ育った宮山に饒速日尊をお祀りしました。 これが石切劔箭神社の発祥と伝えられております。 」

安本 美典氏は、

「『先代旧事本紀』には、神武天皇よりもまえに、物部氏の祖・饒速日尊が、畿内大和へ東遷降臨した。」

この伝承は、どこまで信用できるのか。

饒速日尊と皇室の祖、瓊瓊杵(ニニギ)の尊とは、兄弟なのか。

『先代旧事本紀』は、「饒速日の尊が、河内の国の哮峰(いかるがのみね)に天下ったという。この哮峰は、どこなのか。

また、『先代旧事本紀』は、饒速日尊を、登美の白庭の邑に埋葬したという。
この登美の白庭の邑は、いったいどこなのか。」

物部氏(もののべうじ)は、大阪堺に上陸、生駒の西の日下(くさか)から大和川流域に展開した。須波摩神社や石切劔箭神社のある日下は先土器時代から縄文弥生の遺跡の多い所です。

弓削神社など饒速日命を祀る神社が大和川流域に多く分布しています。また、摂津の三島に落ち着いたとの説もあります。
「神社拾遺」石切劔箭神社


[*2]…アメノオシホミミ(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)は、日本神話に登場する神。古事記では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、日本書紀では天忍穂耳命、先代旧事本紀では正哉吾勝々速日天押穂耳尊と表記する。

4.大神(おおみわ)神社

奈良県桜井市三輪1422
式内社 大和國城上郡 大神大物主神社 名神大 大和國一宮 旧官幣大社

御祭神:大物主大神(おおものぬしのおおかみ)配祀 大己貴神(おおなむちのかみ) 少彦名神(すくなひこなのかみ)由緒遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)=大国主神が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられており、我が国最古の神社であります。大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最 高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれます。「神社拾遺」大神神社

5.石上神宮(いそのかみじんぐう)

【国宝】

石上坐布都御魂神社 名神大 旧官幣大社
奈良県天理市布留町384
御祭神 「布都御魂大神」
配祀 布留御魂大神 布都斯魂大神
宇麻志麻治命 五十瓊敷命 白河天皇 市川臣命
西暦686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみし)が本宗家の地位を得ました。同氏は守屋の兄の子孫であると称しています。

雄略朝の大連・物部目の後裔を称する石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて、西暦708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上朝臣宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は、日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残しています。

石上神宮は、飛鳥時代の豪族、物部氏の総氏神として、又大神神社(おおみわじんじゃ)と同じく日本最古の神社として有名です。元々は古来朝廷の武器庫として物部氏が守っていたようです。境内に入ると多くの鶏が放し飼いにされていました。野生化していて強そうな鶏なので、猫が目の前を通っても微動もしない不思議な光景が見れます。
元々は20年ほど前に誰かが捨てて行ったものだったそうですが 、次第にその数が増え現在に至り、神の使いとして飼われているようです。さて楼門をくぐり奥に進むと拝殿が見えます。さらにこの後ろに本殿があるのですが、禁足地であり一般に立ち入ることはできません。もともとは大神神社のように本殿はなく、拝殿からその背後の禁足地を遙拝し、禁足地には主祭神である神剣布都御魂が安置されていると伝えられてきました。明治時代に禁足地を発掘し、剣一振(素鐶頭太刀そかんとうのたち)が出土したのを期に、これを布都御魂(ふつのみたま)として、本殿が造営されました。

「神社拾遺」石上神宮

6.物部神社(もののべじんじゃ)


島根県大田市川合町川合

式内社 石見国一宮  旧社格は国幣小社
御祭神 「宇摩志麻遅命」(物部氏初代)
相殿右座 饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照大神

物部氏初代の宇摩志麻遅命を主祭神とし、相殿に物部氏祖神の饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照皇大神を祀る。
宮中でも行われる鎮魂祭を行うことで、石上神宮、弥彦神社と共に有名である。なぜか、11月22日でなく、11月24日に行われる。

石上神宮と表裏一体を為す神社。物部神社の御祭神「宇摩志麻遅命」はこの石東の地を平和な豊かな地域とするため、鶴に乗って御降臨されました。
その山を鶴降山といい、山頂には今も国見をされた場所と伝えられる遺跡が保存されています。

この国見をされたおり、平和な穏やかな里「安濃郡(旧 大田地方)」と名づけられました。
この鶴に乗って勝運を運んできた神にちなんで真っ赤な太陽を背負った鶴を全国で唯一この物部神社の御神紋と定められました。
当地の海辺には須佐之男命、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命らが半島から帰国の上陸の地との伝えがある。
須佐之男命は韓神新羅神社、五十猛命は五十猛神社に鎮座し、神別れ坂で大屋津姫命、抓津姫命と親子は別れたと云う。 大屋都比売命は大田市大屋町の大屋姫命神社に鎮座、抓津姫命が見あたらないと思っていたら、物部神社の客神としておさまっていたようです。

社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて尾張、美濃、越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。
物部神社門前から、三瓶山は、よく見える。石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引神話」に登場する。 国引神話では、「佐比売山(さひめやま)」(三瓶山)は鳥取県の「火神岳」(ほのかみだけ)大山)とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされています。

  • 新羅の岬→去豆の折絶から八穂爾支豆支の御埼(やほにきづきのみさき。杵築崎)
  • 北門(きたど)の佐伎(さき)の国→多久の折絶から狭田(さだ)の国
  • 北門の良波(よなみ)の国→宇波の折絶から闇見(くらみ)の国
  • 越国の都都(珠洲)の岬→三穂埼延喜式神名帳では小社に列し、石見国一宮として歴代領主の崇敬を受けた。かつての社家の金子氏は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。戦前は、出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。
    宇摩志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えることから、当社の神紋は赤い太陽を背景に鶴の「日負い鶴」である。

「神社拾遺」石見国一宮 物部神社

6.物部氏ゆかりの神社が多い旧國

【筑前国】19
【筑後国】11【石見国】20【但馬国】12
【丹後国】11【丹波国】9【越後国】68
【伊予国】27【河内国】41【紀伊国】26
【摂津国】22【和泉国】11【伊勢国】35
【山城国】12【近江国】23【尾張国】28
【大和国】36

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物部氏ゆかりの神社

物部氏ゆかりの神社

1.物部氏(もののべうじ)

物部氏は、河内国の哮峰(現・大阪府交野市)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒ・ウマシマジを祖先と伝えられる氏族とされます。邪馬台国が九州か大和、どちらにあっても、その主催者と言われる程、日本の古代を席巻していた氏族とされいます。
物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられます。また、物部連となった氏族は時代によって幾度も交代しているからです。さらに無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがないのです。石上氏等中央の物部氏族とは別に、古代東北地方などに物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録があります。各地に多数祀られている饒速日尊の一族の物部氏、石上氏、尾張氏、海部氏等、物部神社や磐船神社は、各地にたくさんあります。

『古事記』では、ウマシマジノミコト(可美真手命)は、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場します。ナガスネヒコの妹のミカシギヤヒメ(三炊屋媛)・トミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・可美真手命)をもうけました。ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としています。

『日本書紀』にはこの人物について多くを語りませんが、物部系の文書『先代旧事本紀』によれば、神武天皇が即位した直後、ウマシマジノミコトは、朝廷の儀礼など、諸事を定めたといい、ヤマトの基礎を築いた人物として描かれています。
通説は、物部氏を五世紀に勃興した一族と見なすので、このようなヤマト建国と物部氏の活躍を、ほとんど無視します。しかしそれなら、なぜ『日本書紀』は、「物部氏の祖は神武天皇よりも先にヤマトに君臨していた」という話をわざわざ掲げたのだろうか。それは、本当のことだったからではあるまいか。

たとえば、天皇家の儀礼や宗教観には、物部の強い影響が残されているという指摘があります。
スサノヲ尊の遺命を受けた御子・大歳尊(以下、オオトシ)は、父の死後、北九州の筑紫から讃岐・播磨を経て河内から大和に東遷し、三輪山麓に戦闘なく日ノ本王朝・大和国を建国、饒速日(以下、ニギハヤヒ)と改名しました。大歳尊は、東海・関東から東北の飽田(秋田)辺りまで遠征、日本(ひのもと)国を拡大し、大和に帰還して没しました。三輪山はニギハヤヒの御陵で、死して天照御魂神として各地の天照神社に祀られました。

ニギハヤヒの死後、末娘・御歳(伊須気依)姫は日向から婿養子として磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)を迎え、磐余彦尊は初代・神武天皇として即位しました。

神武のヤマト入りを助けたことも謎めきますが、その後のウマシマジノミコトの動きも、また不可解なのです。
島根県大田市にはそのものずばりの物部神社があって、ここにはおおよそ次のような伝承が残されています。
「神武天皇のヤマト建国を助けた後、ウマシマジノミコトは尾張氏の祖の天香具山命と共に、尾張、美濃、越国を平定した。ウマシマジノミコトはさらに西に向かい、播磨、丹波を経て石見に入ると、鶴に乗って舞い降り、この地に留まった」といいます。

なぜ、石見なのかというと、近くの三瓶(さんべ)山が、ニゴハヤヒノミコトの出身地だったからといい、また、出雲を監視するためだという。物部神社のある大田市は、元々旧出雲国と石見国の境目に位置します。
よくわからないのは、ヤマト建国の功労者であるはずのウマシマジノミコトが、なぜ政権の中枢に留まらず、石見に向かったのか、ということです。

神武と同一人物とされる崇神天皇と垂仁天皇の時代、ヤマト朝廷がさかんに出雲いじめをしていたと  『日本書紀』が記録していることです。考古学的にも、ヤマト建国の直後、出雲が実際に衰弱していることが確かめられています。そして、出雲いじめの主役が、物部系の人物だったと記されているのだから、ウマシマジノミコトの石見入りも、信憑性を帯びてきます。

問題は、なぜヤマト建国の功労者が、出雲いじめに走ったのかということで、神話の出雲の国譲りも、単なる神話と無視できなくなってくるのです。
兵器の製造・管理を主に管掌していましたが、しだいに大伴氏(おおともうじ)とならぶ有力軍事氏族へと成長していきました。連の姓(かばね)、八色の姓の改革の時に朝臣(あそみ・あそん)姓を賜る。五世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになりました。
しかし果たして物部氏は単一氏族だったのでしょうか。祭祀に従事する氏族のことを概ね物部氏と呼ばれたのではなかろうかと思わせる程、この氏族は歴史の中心に立ち現れるのです。物部には八十氏とされる諸集団がおり、戦闘、兵器生産、軍神祭祀に従事し、物部連という組織によって統率されていたのではないでしょうか。

継体天皇の時代に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられたのが物部氏でした。また、後述の蘇我馬子(ソガノウマコ)と物部守屋(モノノベノモリヤ)の戦いで大きく登場します。

2.天照御魂神(あまてるみたまのかみ

ニギハヤヒは、記紀が書かれるまでは皇祖神・天照御魂大神だったことが、多くの史料や古代からの神社の祭神・縁起・伝承が証明しています。延喜式神名帳には、「天照」を名乗る神社が、山城、大和、摂津、丹波、播磨、筑紫、対馬などに記載され、記紀編纂以前の創建で古い神社です。
女神・アマテラス(天照大御神)は、日本書紀の編者の都合により、その称号を与えられたにすぎず、実状は全然違っていたのでしょう。なぜなら、全国の天照を名のる古神社は、皆一様にその主祭神を天火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊としているからなのです。

たとえば、京都府宮津市に天火明命を主祭神とする元伊勢籠神社があります。同社の説明によると、
主祭神は彦火明命、亦名天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命
とあり、相殿に豊受大神、天照大神が祀られています。
同社の説明に、「極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神(上賀茂神社)と異名同神であり・・・。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられます。古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い・・・。」と(ほんとはね…と遠慮ぎみに)あります。

出雲大社の創建は、奈良時代初頭の霊亀二(716)年だったことがわかっています。明治までは杵築大社と呼ばれて別の神様(スサノヲ・須佐社)を祀っていたらしいのですが、ちょうど、古事記(712年)と日本書紀(720年)の成立の中間に大神社として創建されたことになります。大己貴命こと、大国主が亡くなってから500年も経った後のことです。大国主命の別名として、古事記では、大穴牟遲神、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神。日本書紀では、大物主神、国作大己貴命、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顕国玉神とあり、それぞれの神名から多様な性格が連想され、一つの神ではなく、複数の神々を統合したものとみられています。ともあれ、出雲大社は記紀神話に合わせて大和朝廷によって創建されたことは間違いないようです。そして、スサノヲやニギハヤヒはじめ、出雲系の神々とその偉業を一括りにして傀儡の大国主を創作し、出雲に流竄したのだともみられています。

記紀の記述に邪魔な神々を出雲に葬り、その代償として出雲大社が建てられたとみられ、当時は50mもある国内最大の建築物として、出雲大社は万の神が集まる今でも壮大なものです。

3.石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)

大阪府東大阪市東石切町「石切劔箭神社」の「先代旧事本紀」のご説明によりますと、
当社は、我が大和民族が皇祖と仰ぎ奉る天照大神の御孫にあたられる瓊々杵尊の御兄、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)とその御子、可美真手命(宇摩志麻遅命 ウマシマデノミコト)の二柱をお祀りしています。御祭神は日本国の発祥にあたる大和建国に御功績がありました。尊は神武天皇の御東遷に先立ち、天照大神から十種の神宝をさずかり、大和建国の任務を受けて天磐船に乗り、哮ヶ峰(現在の生駒山)に天降りになりました。そのころ、大和地方にはすでに勢力を拡大している先住の人々がおりました。尊(ミコト)はその一族の家長である

ナガスネヒコ(長髄彦)の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)と結婚され、可美真手命がお生まれになりました。その後年月を経て神武天皇の東遷に際し、尊と神武天皇はお互いに御所持の天羽々矢を示し合い、共に天照大神の子孫であることがわかり、尊は長髄彦に帰服をお諭しになり、ここに大和建国は成功しました。神武天皇はその功績を称え「素より饒速日尊は天より降れる者なるを聞けり而るに今果して殊功を樹てたり」と、劔をお授けになりました。饒速日尊という御神名は「徳が高く広く活発で勇猛であらせられた」という意義をもつ御尊名です。また、可美真手命は、大和地方の治政に尽力されたのはもちろん、物部一族を率いて神武天皇の親衛を勤められ、十種の神宝によるまじないの神法で多くの人々を救いました。可美真手命とは「ご立派な御徳を有されたお方」という意味です。「はるか昔、河内と大和の一帯は鳥見(登美)の里と呼ばれ、穏やかな自然と、海や山の幸に恵まれた豊かな土地でした。 この地方を治めていた豪族、鳥見一族は、稲作や製鉄の技術はないものの、狩や漁がうまく、生活用具や住居づくりに 優れていました。また、長身の恵まれた体格は戦闘に秀で、「長髄の者」と恐れられていました。さて、神々の住む高天原では、天照大神が、孫の饒速日尊に大和の建国を命じ、『十種の瑞宝』を授けていました。 『十種の瑞宝』は、人々を治め、身や心の病を癒す霊力をそなえた瑞宝です。 饒速日尊は『フツノミタマの劔』を持ち、日の御子の証である『天羽羽矢』も携えて天磐船に乗り、船団を組んで高天原から船出しました。船団が豊前(大分県)の宇佐につくと、尊は息子の天香山命に『フツノミタマの劔』を授け、船団の半分をあずけます。 そして自らは、瀬戸内海を通って大和に向かいました。こうして饒速日尊の乗る天磐船は、鳥見の里を見渡す 哮ヶ峰(生駒山)に着きました。

その頃の鳥見の長、長髄彦は、外敵を全て討ち滅ぼす猛々しい族長でした。しかし饒速日尊の徳の高さに打たれ、 尊のもたらした稲作や織物、鉄製の道具・武具に文化の差をみると、争う事の無益さを悟り、一族こぞって饒速日尊に従った のです。このとき二人の間を取り持ったのが、長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)でした。こうして鳥見の里を治めるようになった饒速日尊は、水が豊かで稲作に適したこの地に水田を拓き、大きな実りをもたらします。 これが近畿地方の稲作文化の初めといわれています。饒速日尊はやがて、登美夜毘売と結婚して可美真手命をもうけ、一層 国の発展につくされました。

鳥見の里が繁栄をきわめていた頃、神武天皇は日向の高千穂から東へ進攻を続けていました。
河内に上陸し、孔舎衙坂(現在の石切霊園のあたり)から大和へ向かう神武天皇の軍勢を見て、長髄彦は 「平和で豊かなこの国を奪われてなるものか」と、戦をしかけます。土地に詳しく勇猛な長髄彦の 軍勢に皇軍は総崩れとなり、退却を余儀なくさせられます。哮ヶ峰の麓の高庭白庭の丘に兵をまとめた神武天皇は、かたわらの巨石を高々と蹴り上げて武運を占い、また高天原の神々をこの地に招来して祈りを捧げ、敵味方なく戦死者の霊を祀りました。

神武天皇は、「自らが日の御子であるのに、日が昇る東の方角に弓を引いたのが誤りであった」と考え、 熊野から大和へと、日を背にして入ることにしました。 ところが、熊野の女王、丹敷戸畔の軍から毒矢が放たれ、皇軍は一人残らず気を失い全滅の危機にさらされます。 そこへ馳せ参じたのが、かつて豊前の宇佐で饒速日尊と別れて熊野に入り、高倉下命と名を変えた天香山命でした。 高倉下命がフツノミタマの劔を献上すると、不思議にも熊野の荒ぶる神々はことごとく倒れ、それまで倒れ伏していた皇軍も 皆生気を取り戻しました。こうして再び、大和への行軍がはじまります。

またも現れた皇軍に驚き、兵を集めた長髄彦は、「我らの主君こそ日の御子である。神武は偽り者だ」と疑います。 この頃、既に饒速日尊は亡くなり、鳥見の長となっていたのは可美真手命でした。 可美真手命は「天羽羽矢」と歩靱を、日の御子である証として神武天皇に差し出しました。すると神武天皇からも 同じものが示されたので、ようやく互いに天照大神の子孫であることが明らかになったのです。 そこで、可美真手命は長髄彦に天皇への帰順をさとし、自らも一族を率いて天皇に忠誠を誓い、広大な稲作地や所領の すべてを捧げました。こうして大和の統一が成し遂げられたのです。

その後、可美真手命には忠誠の象徴としてフツノミタマの劔と、河内の美田が改めて授けられ、その功績は永く讃えられ ることとなります。以来、一族は物部氏として天皇の側で忠誠に励んだのです。 神武天皇が即位した翌年、出雲地方の平定に向かう可美真手命は、生まれ育った宮山に饒速日尊をお祀りしました。 これが石切劔箭神社の発祥と伝えられております。 」

安本 美典氏は、

「『先代旧事本紀』には、神武天皇よりもまえに、物部氏の祖・饒速日尊が、畿内大和へ東遷降臨した。」

この伝承は、どこまで信用できるのか。

饒速日尊と皇室の祖、瓊瓊杵(ニニギ)の尊とは、兄弟なのか。

『先代旧事本紀』は、「饒速日の尊が、河内の国の哮峰(いかるがのみね)に天下ったという。この哮峰は、どこなのか。

また、『先代旧事本紀』は、饒速日尊を、登美の白庭の邑に埋葬したという。
この登美の白庭の邑は、いったいどこなのか。」

物部氏(もののべうじ)は、大阪堺に上陸、生駒の西の日下(くさか)から大和川流域に展開した。須波摩神社や石切劔箭神社のある日下は先土器時代から縄文弥生の遺跡の多い所です。

弓削神社など饒速日命を祀る神社が大和川流域に多く分布しています。また、摂津の三島に落ち着いたとの説もあります。
「神社拾遺」石切劔箭神社


[*2]…アメノオシホミミ(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)は、日本神話に登場する神。古事記では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、日本書紀では天忍穂耳命、先代旧事本紀では正哉吾勝々速日天押穂耳尊と表記する。

4.大神(おおみわ)神社

奈良県桜井市三輪1422
式内社 大和國城上郡 大神大物主神社 名神大 大和國一宮 旧官幣大社

御祭神:大物主大神(おおものぬしのおおかみ)配祀 大己貴神(おおなむちのかみ) 少彦名神(すくなひこなのかみ)由緒遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)=大国主神が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられており、我が国最古の神社であります。大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最 高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれます。「神社拾遺」大神神社

5.石上神宮(いそのかみじんぐう)

【国宝】

石上坐布都御魂神社 名神大 旧官幣大社

奈良県天理市布留町384

御祭神 「布都御魂大神」

配祀 布留御魂大神 布都斯魂大神
宇麻志麻治命 五十瓊敷命 白河天皇 市川臣命
西暦686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみし)が本宗家の地位を得ました。同氏は守屋の兄の子孫であると称しています。

雄略朝の大連・物部目の後裔を称する石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて、西暦708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上朝臣宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は、日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残しています。

石上神宮は、飛鳥時代の豪族、物部氏の総氏神として、又大神神社(おおみわじんじゃ)と同じく日本最古の神社として有名です。元々は古来朝廷の武器庫として物部氏が守っていたようです。境内に入ると多くの鶏が放し飼いにされていました。野生化していて強そうな鶏なので、猫が目の前を通っても微動もしない不思議な光景が見れます。
元々は20年ほど前に誰かが捨てて行ったものだったそうですが 、次第にその数が増え現在に至り、神の使いとして飼われているようです。さて楼門をくぐり奥に進むと拝殿が見えます。さらにこの後ろに本殿があるのですが、禁足地であり一般に立ち入ることはできません。もともとは大神神社のように本殿はなく、拝殿からその背後の禁足地を遙拝し、禁足地には主祭神である神剣布都御魂が安置されていると伝えられてきました。明治時代に禁足地を発掘し、剣一振(素鐶頭太刀そかんとうのたち)が出土したのを期に、これを布都御魂(ふつのみたま)として、本殿が造営されました。

「神社拾遺」石上神宮

6.物部神社(もののべじんじゃ)

島根県大田市川合町川合

式内社 石見国一宮  旧社格は国幣小社

御祭神 「宇摩志麻遅命」(物部氏初代)
相殿右座 饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照大神

物部氏初代の宇摩志麻遅命を主祭神とし、相殿に物部氏祖神の饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照皇大神を祀る。
宮中でも行われる鎮魂祭を行うことで、石上神宮、弥彦神社と共に有名である。なぜか、11月22日でなく、11月24日に行われる。

石上神宮と表裏一体を為す神社。物部神社の御祭神「宇摩志麻遅命」はこの石東の地を平和な豊かな地域とするため、鶴に乗って御降臨されました。
その山を鶴降山といい、山頂には今も国見をされた場所と伝えられる遺跡が保存されています。

この国見をされたおり、平和な穏やかな里「安濃郡(旧 大田地方)」と名づけられました。
この鶴に乗って勝運を運んできた神にちなんで真っ赤な太陽を背負った鶴を全国で唯一この物部神社の御神紋と定められました。
当地の海辺には須佐之男命、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命らが半島から帰国の上陸の地との伝えがある。
須佐之男命は韓神新羅神社、五十猛命は五十猛神社に鎮座し、神別れ坂で大屋津姫命、抓津姫命と親子は別れたと云う。 大屋都比売命は大田市大屋町の大屋姫命神社に鎮座、抓津姫命が見あたらないと思っていたら、物部神社の客神としておさまっていたようです。

社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて尾張、美濃、越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。
物部神社門前から、三瓶山は、よく見える。石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引神話」に登場する。 国引神話では、「佐比売山(さひめやま)」(三瓶山)は鳥取県の「火神岳」(ほのかみだけ)大山)とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされています。

  • 新羅の岬→去豆の折絶から八穂爾支豆支の御埼(やほにきづきのみさき。杵築崎)
  • 北門(きたど)の佐伎(さき)の国→多久の折絶から狭田(さだ)の国
  • 北門の良波(よなみ)の国→宇波の折絶から闇見(くらみ)の国
  • 越国の都都(珠洲)の岬→三穂埼延喜式神名帳では小社に列し、石見国一宮として歴代領主の崇敬を受けた。かつての社家の金子氏は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。戦前は、出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。
    宇摩志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えることから、当社の神紋は赤い太陽を背景に鶴の「日負い鶴」である。

「神社拾遺」石見国一宮 物部神社

6.物部氏ゆかりの神社が多い旧國

【筑前国】19【筑後国】11【石見国】20
【但馬国】12【丹後国】11【丹波国】9
【越後国】68【伊予国】27【河内国】41
【紀伊国】26【摂津国】22【和泉国】11
【伊勢国】35【山城国】12【近江国】23
【尾張国】28【大和国】36

-出典: 『日本の思想』清水 正之 東京理科大学享受

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たじまる 日本-2

謎の巨大豪族「物部氏」

一般には、物部氏の名は、蘇我氏の「崇仏」に反旗をひるがえした物部守屋の一族だというふうに知られてきました。神祇派が物部氏で、崇仏派が蘇我氏だと教えられてきたのです。
しかし、こんなことは古代日本史が見せたごくごく一部の幕間劇の出来事にすぎず、そのずっとずっと前に、物部の祖先たちがヤマトの建国にあずかっていたはずなのです。
饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本(ひのもと)」の本当の名付け親であるといえるのではないか?

1.『古事記』の神武東征

天皇家の初代カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話である。

『古事記』では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂でどこへ行けばもっと良く葦原中国を治められるだろうかと相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。そこから移動して、岡田宮で1年過ごした。さらに進んで阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。

神武が九州から東征してヤマトに入った時、浪速国の白肩津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった。当時はこの辺りまで入江があった)に停泊すると、生駒山麓の孔舎衛坂(くさかえのさか)で長髄彦(ながすねびこ、以下ナガスネビコ)の抵抗に遭います。

ナガスネヒコと戦っている時に、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなってしまった。

カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。するとカムヤマトイワレビコを始め兵士たちは皆気を失って倒れてしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持ってやって来ると、カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。カムヤマトイワレビコがその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、倒れていた兵士も気絶から覚めた。

カムヤマトイワレビコはタカクラジに太刀を手に入れた経緯を尋ねた。タカクラジによれば、タカクラジの夢の中にアマテラスと高木神が現れた。二神はタケミカヅチを呼んで、「葦原中国はひどく騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、タケミカヅチは「平定の時に使った太刀があるので、その刀を降ろしましょう」と答えた。そしてタカクラジに、「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とし入れるから、天津神の御子の元に持って行きなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に太刀があったので、こうして持って来たという。その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマと言い、現在は石上神宮に鎮座している。

また、高木神の命令で八咫烏が遣わされ、その案内で熊野から大和の宇陀に至った。
その後、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦った。そこに邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。
このようにして荒ぶる神たちを服従させ、畝火の白檮原宮(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。

2.『日本書紀』の神武東征

『日本書紀』では、カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降ってから179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作ろうと思うと言って、東征に出た。
ナガスネビコは、天磐船(あまのいわふね)に乗ってヤマトに降った櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと、以下ニギハヤヒ)に仕え、しかも妹のミカシキヤヒメ(三炊屋媛)はニギハヤヒと結ばれ、可美真手命(うましまでのみこと、以下ウマシマデ)を生んでいます。

そこでナガスネビコは、神武に「天神の子はニギハヤヒ一人だと思っていたのに、そう何人もいるのだろうか」と疑問を呈すと、ニギハヤヒが天神の子である証拠として、天の羽羽矢(蛇の呪力をもった矢)と、歩靱(カチユキ・徒歩で弓を射る時に使うヤナグイか)を持ち出してナガスネビコに見せます。

神武はその証拠を天神の子とのものであると認めるのと、ナガスネビコは、恐れ畏まったのですが、改心することはありませんでした。そのため、間を取り持つことが無理だと知ったニギハヤヒはナガスネビコを殺して神武に帰順します。
『日本書紀』は、このニギハヤヒが物部氏の遠祖であると書かれているのです。
記紀は、九州にいた天皇が大和を制圧するという点で、後の神功皇后・応神天皇母子との類似性が指摘される事がある。高句麗の建国神話

3.長髄彦(ながすねひこ)

『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場します。不思議に思えるのは、

『日本書紀』では、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)はナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)あるいはミカシキヤヒメ(三炊屋媛)、をの妻とし、仕えるようになる。トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・物部氏の祖)をもうけました。宇摩志麻遅尊は、物部の兵を率いて、天之香山尊と共に、尾張・美濃・越を平定し、天之香山尊を、新潟県の弥彦神社に残した後、更に播磨・丹波を経て、石見国に入り、島根県大田市にある現在の物部神社で崩じられたとされています。イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。

長髄彦は、日本神話に登場する人物。『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。

その後、八十梟帥(ヤソタケル:『古事記』では八十建と表記)や兄、磯城(シギ)を討った皇軍と再び戦うことになります。このとき、金色の鳶(とび)が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼がくらみ、戦うことができなくなりました。長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)という。私の妹の三炊屋媛(ミトヤヒメ)を娶(めあ)わせて、可美真手(ウマシマデ)という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べました。

4.もう一つの天孫降臨

古代氏族のルーツを探る場合、伝承で探るしか手段がありません。さいわい、物部氏は家記といわれる
『先代旧事本紀』というのが後世に出、これと各地に残っている伝承をあわせて探っていくと、物部氏が最初は九州にいたことが判明してくるといいます。

一番大切なのは、物部氏が神武より先に大和に来ていることです。

黒岩重吾氏は、邪馬台国は、九州からヤマトに東遷したと考えています。それは、弥生時代の近畿地方には鏡と剣と玉を祀る風習はなかったのに、九州にはそれがあった点です。鏡を副葬品として使う氏族は畿内にはなく、九州独特のものです。

九州北部遠賀川(おんががわ)流域に比定されている不弥国にいた物部氏の一部が、同じ北九州の隣国「奴国」との軋轢の中、より広い耕地を求めての旅立ちの言い伝えとされています。

物部氏に伝わる氏族伝承を中心とした『先代旧事本紀』によれば、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って、河内国の河上の地に天降りたとあります。どのあたりかというと古来諸説ありますが、おそらく石切劔箭(いしきりつるぎや)神社(東大阪市)のあたり、生駒山の西側にある「日下(クサカ)」の地でなないか、他にも天磐船の伝説が残る河南町や交野市の磐船(イワフネ)神社があります。どちらにしろ生駒山系です。なお、天磐船といっても飛行物体ではなく、これは海の船です。
古代氏族の一つとして、また蘇我氏との神仏戦争でよく知られる物部氏は、皇祖神を除いて、天孫降臨と国見の逸話をもつ唯一の氏族です。
これらは、天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原から日向国の高千穂峰に降りたニニギ(瓊瓊杵尊や瓊々杵尊)の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられます。

ニギハヤヒは、神武東征(じんむとうせい)に先立ち、河内国の河上の地に天降りているのです。
ニギハヤヒが、32の神と25の物部氏の一族を連れて大空を駆けめぐり、河内国の哮ケ峰(タケルガミネ)に天降った。
とされています。
この哮ケ峰は、どこなのか定かではありません。
また、『先代旧事本紀』は、饒速日尊を、登美の白庭の邑(とみのしらにわのむら)に埋葬したといいます。

この登美の白庭の邑も、いったいどこなのでしょう。

ところが、日本神話において、天照大神の孫のニニギが葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。
とされながら、高天原神話にはこの、大和への天孫降臨神話が見当たりません。

5.東征ルート

物部氏の足取りを先に系統づけてみたいと思います。まったくの想像です。

饒速日命を祖とする物部族の一族は、東征からすると、

    中国江南地方(越あるいは秦)脱出
      	  ↓
  	  北九州遠賀川流域
 	┏━━━━━┻━━━━┓
  (瀬戸内海)	 (山陰沿岸)
	↓		   ↓
   伊予国		出雲国・丹波国(但馬国・丹後国含む)
	↓		   ↓
   河内国		   ┣ 越国
    ↓		   ↓
紀伊国 ┫		近江国・山城国 → 尾張国
	↓		   ↓
     河内・日下の草香江
       ↓   
   大和で日本(ひのもと)を建国
     饒速日命 長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)と結婚
		  ↓
  日向 神武東征 × 長髄彦との戦い
	   ↓

伝説上神武天皇が納めると物部氏神武天皇に帰順 →宇摩志麻遅命 石見国に御降臨
さらに円山川沿いに20キロメートル離れた円山川河口付近の豊岡市気比(旧城崎郡気比)の地で、但馬で初めて銅鐸が発見されたが、最近、出雲加茂岩倉遺跡の銅鐸と兄弟銅鐸であることがわかりました。

粉々に破壊された久田谷銅鐸片が見つかった気多郡(日高町)の地

神武東征は、天皇家の初代神武天皇(かむやまといわれびこ)が日向(ひむか)国を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話。

この神話の解釈としては、全くの創作であるという説と、九州にあった勢力が大和に移ってきてヤマト王権を築いたという史実を神話化して伝えたものであるという説があるそうですが、信用すべき同時代の文字資料が現れない限り、神武東征を学問的に立証するのは困難であろうとされています。

弥生末期に南九州は熊襲・隼人として北部九州の倭国連合に習合されていない。

いずれにせよ、ニギハヤヒ大和へ向かう。船を使って河内まで四国の北岸を通っていったのは、どうやらすでに地域国家を形成していた吉備の勢力を避けて海運ルートで行ったからではないかと思われています。
記・紀においては、「天磐船」(アマノイワフネ)に乗り、天上から下ったとされながら、高天原神話には天孫降臨神話が見当たらないのです。

6.出雲と但馬の類似点

  • スサノヲ、オオナムチの神社が多い
  • 因幡宇部神社(武内宿禰)の伊福部氏:出石伊福部神社(出石町鍛冶屋)天香久山命を祀る。
  • 出雲意宇(おう)郡。意宇(おう):気多郡伊福(ゆう)村多々谷(たたのや)・楯縫神社、朝来市伊由(いう)の類似。付近に物部や多々良木(たたらぎ)集落。:出雲たたら製鉄
  • 物部神社(石見):物部韓国神社(城崎郡飯谷)
  • 久々比(ククヒ)神社・中嶋神社の祭神:田島守、摂社:天湯河板拳命:鳥取部=天湯河板拳命(あまのゆかわたな)
  • 楯縫郡(現在の旧平田市の大半及び旧簸川郡大社町(現・出雲市)) 出雲国風土記によれば、郡名はこの地で杵築大社(出雲大社)の神事道具として楯を造り始めたことに因むとしている。一方、古代日本語で「段丘上の平地」や「高地の端にある崖」を指すという説もある。:楯縫神社(但馬気多郡)円山川の段丘上の平地に鎮座。円山川対岸に多々谷(タタノヤ)=たたら? 井田神社 大己貴命の但馬総社「気多神社」
  • 平成12年4月、出石町袴狭遺跡から出土した木製品の船団の線刻画のある木製品(板材)が浮かび上がります。
  • 「太加王」(たかおう)→高生平野(気多郡たこうへいや)、和田山町高生田(たこうだ)▲ページTOPへ

謎の巨大豪族「物部氏」

謎の巨大豪族「物部氏」

一般には、物部氏の名は、蘇我氏の「崇仏」に反旗をひるがえした物部守屋の一族だというふうに知られてきました。神祇派が物部氏で、崇仏派が蘇我氏だと教えられてきたのです。

しかし、こんなことは古代日本史が見せたごくごく一部の幕間劇の出来事にすぎず、そのずっとずっと前に、物部の祖先たちがヤマトの建国にあずかっていたはずなのです。

饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本(ひのもと)」の本当の名付け親であるといえるのではないか?<

1.『古事記』の神武東征

天皇家の初代カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話である。

『古事記』では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂でどこへ行けばもっと良く葦原中国を治められるだろうかと相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。そこから移動して、岡田宮で1年過ごした。さらに進んで阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。

神武が九州から東征してヤマトに入った時、浪速国の白肩津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった。当時はこの辺りまで入江があった)に停泊すると、生駒山麓の孔舎衛坂(くさかえのさか)で長髄彦(ながすねびこ、以下ナガスネビコ)の抵抗に遭います。

ナガスネヒコと戦っている時に、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなってしまった。カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。するとカムヤマトイワレビコを始め兵士たちは皆気を失って倒れてしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持ってやって来ると、カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。カムヤマトイワレビコがその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、倒れていた兵士も気絶から覚めた。

カムヤマトイワレビコはタカクラジに太刀を手に入れた経緯を尋ねた。タカクラジによれば、タカクラジの夢の中にアマテラスと高木神が現れた。二神はタケミカヅチを呼んで、「葦原中国はひどく騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、タケミカヅチは「平定の時に使った太刀があるので、その刀を降ろしましょう」と答えた。そしてタカクラジに、「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とし入れるから、天津神の御子の元に持って行きなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に太刀があったので、こうして持って来たという。その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマと言い、現在は石上神宮に鎮座している。
また、高木神の命令で八咫烏が遣わされ、その案内で熊野から大和の宇陀に至った。
その後、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦った。そこに邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。
このようにして荒ぶる神たちを服従させ、畝火の白檮原宮(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。

2.『日本書紀』の神武東征

『日本書紀』では、カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降ってから179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作ろうと思うと言って、東征に出た。

ナガスネビコは、天磐船(あまのいわふね)に乗ってヤマトに降った櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと、以下ニギハヤヒ)に仕え、しかも妹のミカシキヤヒメ(三炊屋媛)はニギハヤヒと結ばれ、可美真手命(うましまでのみこと、以下ウマシマデ)を生んでいます。そこでナガスネビコは、神武に「天神の子はニギハヤヒ一人だと思っていたのに、そう何人もいるのだろうか」と疑問を呈すと、ニギハヤヒが天神の子である証拠として、天の羽羽矢(蛇の呪力をもった矢)と、歩靱(カチユキ・徒歩で弓を射る時に使うヤナグイか)を持ち出してナガスネビコに見せます。

神武はその証拠を天神の子とのものであると認めるのと、ナガスネビコは、恐れ畏まったのですが、改心することはありませんでした。そのため、間を取り持つことが無理だと知ったニギハヤヒはナガスネビコを殺して神武に帰順します。
『日本書紀』は、このニギハヤヒが物部氏の遠祖であると書かれているのです。
記紀は、九州にいた天皇が大和を制圧するという点で、後の神功皇后・応神天皇母子との類似性が指摘される事がある。

3.長髄彦(ながすねひこ)

『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場します。不思議に思えるのは、
『日本書紀』では、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)はナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)あるいはミカシキヤヒメ(三炊屋媛)、をの妻とし、仕えるようになる。トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・物部氏の祖)をもうけました。宇摩志麻遅尊は、物部の兵を率いて、天之香山尊と共に、尾張・美濃・越を平定し、天之香山尊を、新潟県の弥彦神社に残した後、更に播磨・丹波を経て、石見国に入り、島根県大田市にある現在の物部神社で崩じられたとされています。イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。
長髄彦は、日本神話に登場する人物。『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。その後、八十梟帥(ヤソタケル:『古事記』では八十建と表記)や兄、磯城(シギ)を討った皇軍と再び戦うことになります。このとき、金色の鳶(とび)が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼がくらみ、戦うことができなくなりました。長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)という。私の妹の三炊屋媛(ミトヤヒメ)を娶(めあ)わせて、可美真手(ウマシマデ)という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べました。

4.もう一つの天孫降臨

古代氏族のルーツを探る場合、伝承で探るしか手段がありません。さいわい、物部氏は家記といわれる
『先代旧事本紀』というのが後世に出、これと各地に残っている伝承をあわせて探っていくと、物部氏が最初は九州にいたことが判明してくるといいます。

一番大切なのは、物部氏が神武より先に大和に来ていることです。

黒岩重吾氏は、邪馬台国は、九州からヤマトに東遷したと考えています。それは、弥生時代の近畿地方には鏡と剣と玉を祀る風習はなかったのに、九州にはそれがあった点です。鏡を副葬品として使う氏族は畿内にはなく、九州独特のものです。

九州北部遠賀川(おんががわ)流域に比定されている不弥国にいた物部氏の一部が、同じ北九州の隣国「奴国」との軋轢の中、より広い耕地を求めての旅立ちの言い伝えとされています。

物部氏に伝わる氏族伝承を中心とした『先代旧事本紀』によれば、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って、河内国の河上の地に天降りたとあります。どのあたりかというと古来諸説ありますが、おそらく石切劔箭(いしきりつるぎや)神社(東大阪市)のあたり、生駒山の西側にある「日下(クサカ)」の地でなないか、他にも天磐船の伝説が残る河南町や交野市の磐船(イワフネ)神社があります。どちらにしろ生駒山系です。なお、天磐船といっても飛行物体ではなく、これは海の船です。
古代氏族の一つとして、また蘇我氏との神仏戦争でよく知られる物部氏は、皇祖神を除いて、天孫降臨と国見の逸話をもつ唯一の氏族です。
これらは、天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原から日向国の高千穂峰に降りたニニギ(瓊瓊杵尊や瓊々杵尊)の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられます。

ニギハヤヒは、神武東征(じんむとうせい)に先立ち、河内国の河上の地に天降りているのです。
ニギハヤヒが、32の神と25の物部氏の一族を連れて大空を駆けめぐり、河内国の哮ケ峰(タケルガミネ)に天降った。
とされています。
この哮ケ峰は、どこなのか定かではありません。
また、『先代旧事本紀』は、饒速日尊を、登美の白庭の邑(とみのしらにわのむら)に埋葬したといいます。

この登美の白庭の邑も、いったいどこなのでしょう。

ところが、日本神話において、天照大神の孫のニニギが葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。
とされながら、高天原神話にはこの、大和への天孫降臨神話が見当たりません。

5.東征ルート

物部氏の足取りを先に系統づけてみたいと思います。まったくの想像です。

饒速日命を祖とする物部族の一族は、東征からすると、

    中国江南地方(越あるいは秦)脱出
      	  ↓
  	  北九州遠賀川流域
 	┏━━━━━┻━━━━┓
  (瀬戸内海)	 (山陰沿岸)
	↓		   ↓
   伊予国		出雲国・丹波国(但馬国・丹後国含む)
	↓		   ↓
   河内国		   ┣ 越国
    ↓		   ↓
紀伊国 ┫		近江国・山城国 → 尾張国
	↓		   ↓
     河内・日下の草香江
       ↓   
   大和で日本(ひのもと)を建国
     饒速日命 長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)と結婚
		  ↓
  日向 神武東征 × 長髄彦との戦い
	   ↓

伝説上神武天皇が納めると物部氏神武天皇に帰順 →宇摩志麻遅命 石見国に御降臨
さらに円山川沿いに20キロメートル離れた円山川河口付近の豊岡市気比(旧城崎郡気比)の地で、但馬で初めて銅鐸が発見されたが、最近、出雲加茂岩倉遺跡の銅鐸と兄弟銅鐸であることがわかりました。

粉々に破壊された久田谷銅鐸片が見つかった気多郡(日高町)の地

神武東征は、天皇家の初代神武天皇(かむやまといわれびこ)が日向(ひむか)国を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話。

この神話の解釈としては、全くの創作であるという説と、九州にあった勢力が大和に移ってきてヤマト王権を築いたという史実を神話化して伝えたものであるという説があるそうですが、信用すべき同時代の文字資料が現れない限り、神武東征を学問的に立証するのは困難であろうとされています。

弥生末期に南九州は熊襲・隼人として北部九州の倭国連合に習合されていない。

いずれにせよ、ニギハヤヒ大和へ向かう。船を使って河内まで四国の北岸を通っていったのは、どうやらすでに地域国家を形成していた吉備の勢力を避けて海運ルートで行ったからではないかと思われています。
記・紀においては、「天磐船」(アマノイワフネ)に乗り、天上から下ったとされながら、高天原神話には天孫降臨神話が見当たらないのです。

6.出雲と但馬の類似点

  • スサノヲ、オオナムチの神社が多い
  • 因幡宇部神社(武内宿禰)の伊福部氏:出石伊福部神社(出石町鍛冶屋)天香久山命を祀る。
  • 出雲意宇(おう)郡。意宇(おう):気多郡伊福(ゆう)村多々谷(たたのや)・楯縫神社、朝来市伊由(いう)の類似。付近に物部や多々良木(たたらぎ)集落。:出雲たたら製鉄
  • 物部神社(石見):物部韓国神社(城崎郡飯谷)
  • 久々比(ククヒ)神社・中嶋神社の祭神:田島守、摂社:天湯河板拳命:鳥取部=天湯河板拳命(あまのゆかわたな)
  • 楯縫郡(現在の旧平田市の大半及び旧簸川郡大社町(現・出雲市)) 出雲国風土記によれば、郡名はこの地で杵築大社(出雲大社)の神事道具として楯を造り始めたことに因むとしている。一方、古代日本語で「段丘上の平地」や「高地の端にある崖」を指すという説もある。:楯縫神社(但馬気多郡)円山川の段丘上の平地に鎮座。円山川対岸に多々谷(タタノヤ)=たたら? 井田神社 大己貴命の但馬総社「気多神社」
  • 平成12年4月、出石町袴狭遺跡から出土した木製品の船団の線刻画のある木製品(板材)が浮かび上がります。
  • 「太加王」(たかおう)→高生平野(気多郡たこうへいや)、和田山町高生田(たこうだ)

もう一つの日本(やまと) 1

もう一つの日本(やまと)

1.饒速日命(ニギハヤヒノミコト)

ニギハヤヒは、それぞれの駐留地点を中心に、水稲の栽培を始め、麦・黍・栗などの栽培を拡めたといいます。

とするとよく似た話が徐福伝説です。つまり秦の始皇帝の圧政に耐えかね、日本列島に活路を求めた人々こそが縄文人と融合して弥生人となった渡来人ではないかというのです。

さて、オオナムチ(大己貴命)は、オオクニヌシ(大国主)という別名があります。一般的には、こちらの方がよく知られているのですが、但馬郷土史研究の基礎『校補但馬考』の著者であり、日本の天気予報の創始者でも知られる桜井勉氏が偽書としている『但馬故事記』には、「彦坐王」(ひこいますおう)が、「丹波」・「但馬」の二国を賜り「大国主」の称号を得たとの記述があります。従って、オオクニヌシとは、今で言えば県知事のような職制上の称号であったのでしょう。オオナムチはスサノオから、オオクニヌシの称号をもって、「出雲」の自治権を許されたということです。同様に他の地方には、その地方のオオクニヌシ(国造のようなもの)がいたのであり、『記紀』に記される、オオクニヌシの別名が、異常に多いのもこれで説明がつきます。

『記紀』では、スクナヒコナ(少彦名)は、タカミムスビ(高御産巣日神・高皇産霊尊)の子であると言いますが、タカミムスビの別名に「高木の神」があります。
『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけた。

『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)といい、アメノオシホミミ[*2]の子でニニギの兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。

『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照の系)とし両者を別とする。
『播磨国風土記』では、国作大己貴命(くにつくりおほなむち)・伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神=大汝命(大国主命(オオクニヌシノミコト))の子とする。

ニギハヤヒ(饒速日命・邇藝速日命)[*3]は、日本の祖であり、神武はその養子だといいます。この事実を抹殺し、出雲王朝とヤマト王朝の関係を抹殺するために、『日本書紀』は、イザナギとイザナミによって創造されたのであるとしています。その証拠に、「石上神宮」(いそのかみじんぐう)と「大神神社」の古文書と十六家の系図を没収し、抹殺したという資料をつかんだとも述べています。それは、691年のことであるらしいのです。

ニギハヤヒも、父・スサノオ同様、さまざまな別名を与えられています。

フルネームは、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」ですが、「天照国照彦命(あまてるくにてるひこんもみこと)」・「天火明命(ほあかりのみこと)」・「彦火明命(ほあかりのみこと)」は、フルネームの一部であり、ニギハヤヒ(饒速日命・邇藝速日命)のことです。
別名としては、

  • 櫛玉命(くしたまのみこと)
  • 「大物主大神」(おおものぬしのおおかみ)
  • 「布留御魂大神」(ふるのみたまおおかみ)
  • 「日本大国魂大神」(やまとおおくにたまおおかみ)
  • 「別雷命」(わけいかずつのみこと)→上賀茂神社
  • 「大歳御祖大神」(おおとしみおやおおかみ)などです。
    古代、韓国の人々は、天上界の神々は、山岳にそびえ立つ高木から降臨すると信じていました。「高木の神」とは、きわめて朝鮮的な神です。スクナヒコナとタカミムスビの関係は、どうでしょうか。『富士宮下文書』は、スクナヒコナは、タカミムスビの曽孫(ただし養子である)であるとし、「祖佐之男命、朝鮮新羅国王の四男・太加王」

    と具体的に記しています。

    この「太加王」(たかおう)説の真偽のほどは、諸説あり定かではありませんが、スクナヒコナとタカミムスビとの関係の深さはわかります。タカミムスビは、実在した人物ではなく、観念的な神でしょうが、スクナヒコナに代表される「昔(ソク)」族とスサノオの親密ぶりを、伺い知ることができます。

    スサノオが、「出雲」に侵攻して以来、「統一奴国」の本拠地は「出雲」であったはずです。従って、「統一奴国」の国土経営は、「出雲」に政庁をおいて繰り広げられていました。「出雲」のオオクニヌシであったオオナムチは、「統一奴国」の総理大臣的な存在であったのでしょう。その上に君臨していた人物、「牛頭天王」ことスサノオであり、文字通り、天皇です。

    しかし、スポンサーであったスクナヒコナの死により、この法則は崩れ始めました。朝鮮半島での基盤を失ったのです。さらに、オオナムチに、追い打ちをかける衝撃の事件が起こりました。スサノオの死です。

    『記紀』には、去っていったスクナヒコナのことを、オオナムチが嘆いていると、海を照らして神がやって来たと記しています。この神は、「大和」の三諸山に住みたいと言い、三輪山の神だといいますが、この物語こそ、スサノオ尊の死を暗示していると思われます。

    『日本書紀』は、この神は次のように述べたとしています。

    「もし私がいなかったら、お前はどうしてこの国を治めることができたろうか。私があるからこそ、お前は大きな国を造る手柄を立てることができたのだ。」

    これはスサノオが死に際して、オオナムチに述べた最後の言葉です。そして、スサノオは、自らを三諸山に祀るように、オオナムチに依頼したのでしょう。もちろん、「大和」の三諸山ではなく、オオナムチが国土経営を成功させたのは、「出雲」です。そこに、おおよそ関係がないと思われる、三輪山の神が、どうして入り込んでくるのでしょうか。つじつまを合わせるために他ならないのです。

    確かに、「ヤマト」は勢力範囲であったかもしれありませんが、三輪山の神に比定するにはかなり無理があります。

    三諸山は三諸山でも、「出雲」の三室山すなわち、八雲山ではないでしょうか。そこは、スサノオが住居を定めていた場所であり、出雲発祥の地であるからです。

    2.日本の名付け親

    2世紀後半の北九州で起きた「倭国大乱」の頃には、すでに河内・大和を中心とした地域に勢力が確立していきました。生駒山周辺には、天磐船の伝説が残る河南町や交野市の磐船(イワフネ)神社、石切劔箭(いしきりつるぎや)神社など、物部氏ゆかりの神社が数多く、それ以上に谷川健一氏が注目するのは、この河内平野一体から多数の銅鐸が出土し、石切劔箭神社に近い鬼虎川(キトラ)遺跡から、弥生中期のものと見られる銅鐸製作の跡が見つかっている点です。

    さて、手がかりになるのが、神武東征で軍勢が日向から大阪湾の白肩之津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった)に上陸して生駒山の西側にある孔舎衛坂(くさえさか)[*1]の戦いで、ニギハヤヒに使えた土地の豪族である長髄彦(ナガスネヒコ)に負かされたという。孔舎衛坂は河内国草香邑(大阪府東大阪市日下町))の地だろうとされています。この場所は、ニギハヤヒが神武東征に先立ち、河内国の河上の地に天降りた場所です。「日下」「ヒノシタ」と書いてなぜ「クサカ」と読むのでしょう?

    それは、枕詞の転化であるとしています。
    たとえば、明日香の枕詞は飛鳥であり、「トブトリ ノ アスカ」と呼び慣わしていたのが、時代が下るに従って、枕詞の飛鳥だけでアスカと読むようになったのと同様に、草香の枕詞は日下であり、元々「ヒノモト ノ クサカ」と呼んでいたものが日下だけでクサカと呼ぶようになったということです。
    しだいに日本(ひのもと)という字が当てられ、倭国から日本という国名に変わったというのです。

    『記紀』の天孫降臨コースは、アマテラスオオミカミという一番えらい神様が、(自分の孫の)ニニギノミコトという神様に、
    「この稲の穂と、神の三つの宝の鏡・曲玉・剣をもって地上に降りていきなさい。そして、日本の国(葦原中国)がもっといい国になるように頑張ってきなさい。」
    といい、それでニニギノミコトは神様の国を離れて、筑紫の日向の高千穂という場所に降り立つのですが、『先代旧事本紀』の降臨コースは全然違っています。

    ところが物部氏に伝わる氏族伝承を中心とした『先代旧事本紀』によると同じような内容が記されています。

    谷川健一氏によると、

    「新唐書」にかかれている「日本(ヒノモト)」とは、まさにこの物部氏の王国であり、4世紀に入ってきた新たな勢力「倭=ヤマト政権」によって征服された過程こそが、神話にある神武東征だったのではないかと推理しています。

    「日本書紀」に書かれている「神武東征(じんむとうせい)」の物語に登場する東の美地とは、ニギハヤヒが建てて消えた銅鐸文化の国、すなわち物部氏の「日本(ひのもと)」に他ならない。
    としています。
    4世紀に入ってきた新たな勢力「倭=ヤマト王権」である神武が再び日本を襲い、物部氏の小国「日本」を征服した際に、王国のシンボルであったおびただしい銅鐸は、土中に隠され、あるいは破壊された、というのが氏の結論です(石野博信館長は時代的に50年のタイムラグがあることを指摘)

    その後、物部氏の主流はヤマトに屈服してヤマト王朝に重用されますが、なかには長髄彦蝦夷(エニシ)と呼ばれる同盟異族とともに、北へ東へ奔った者もいました。それについては何故か正史「日本書紀」には残されていません。ヤマト朝廷の誕生は、敗者を再び日の当たる場所=日本(ヒノモト)に登場させることはありませんでした。
    饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本」の本当の名付け親であるといえるのではないか?

    という想像が浮かび上がるのです。

    3.二つの日ノ本

    ニギハヤヒ亡き後、末娘・伊須氣余理姫命は、日向から従兄弟の狭野(伊波礼昆古)命を婿養子に迎え、大和国王を継いだ。初代・神武天皇でスサノオ尊の孫にあたります。

    また、ニギハヤヒが子のウマシマジノミコトを有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれています。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。

    神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。

    [*1]草香江 当時の大阪湾は、旧淀川からずいぶん上流までが大きな入江でした。河内湾は河内湖、河内潟へと変化し、すなわち草香江(くさかえ)呼ばれていた。草香江は淀川・大和川の2つの大河川が流入してくる反面、排水口は上町台地北方の1箇所のみであり、しばしば洪水を起こしていた。4世紀後期もしくは5世紀初期のオオササギ王(仁徳天皇)は上町台地上の難波に宮殿を置いたが、草香江の水害を解消するため難波の堀江という排水路を築いて現在の大阪平野の姿ができた。その後、河内湖の干拓・開発が急速に進んでいき、湖から湿地へと変わったが、完全に陸域化したのは、豊臣秀吉が大坂城築城の際に、淀川を大改修し、江戸時代の大和川付け替え工事以降のことである。

    [*2]…古事記では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、日本書紀では天忍穂耳命、先代旧事本紀では正哉吾勝々速日天押穂耳尊と表記する。葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)。

    [*3]…『日本書紀で』は饒速日命、『古事記』では邇藝速日命