物部氏ゆかりの神社

物部氏ゆかりの神社

1.物部氏(もののべうじ)

物部氏は、河内国の哮峰(現・大阪府交野市)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒ・ウマシマジを祖先と伝えられる氏族とされます。邪馬台国が九州か大和、どちらにあっても、その主催者と言われる程、日本の古代を席巻していた氏族とされいます。
物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられます。また、物部連となった氏族は時代によって幾度も交代しているからです。さらに無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがないのです。石上氏等中央の物部氏族とは別に、古代東北地方などに物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録があります。各地に多数祀られている饒速日尊の一族の物部氏、石上氏、尾張氏、海部氏等、物部神社や磐船神社は、各地にたくさんあります。

『古事記』では、ウマシマジノミコト(可美真手命)は、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場します。ナガスネヒコの妹のミカシギヤヒメ(三炊屋媛)・トミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・可美真手命)をもうけました。ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としています。

『日本書紀』にはこの人物について多くを語りませんが、物部系の文書『先代旧事本紀』によれば、神武天皇が即位した直後、ウマシマジノミコトは、朝廷の儀礼など、諸事を定めたといい、ヤマトの基礎を築いた人物として描かれています。
通説は、物部氏を五世紀に勃興した一族と見なすので、このようなヤマト建国と物部氏の活躍を、ほとんど無視します。しかしそれなら、なぜ『日本書紀』は、「物部氏の祖は神武天皇よりも先にヤマトに君臨していた」という話をわざわざ掲げたのだろうか。それは、本当のことだったからではあるまいか。

たとえば、天皇家の儀礼や宗教観には、物部の強い影響が残されているという指摘があります。
スサノヲ尊の遺命を受けた御子・大歳尊(以下、オオトシ)は、父の死後、北九州の筑紫から讃岐・播磨を経て河内から大和に東遷し、三輪山麓に戦闘なく日ノ本王朝・大和国を建国、饒速日(以下、ニギハヤヒ)と改名しました。大歳尊は、東海・関東から東北の飽田(秋田)辺りまで遠征、日本(ひのもと)国を拡大し、大和に帰還して没しました。三輪山はニギハヤヒの御陵で、死して天照御魂神として各地の天照神社に祀られました。

ニギハヤヒの死後、末娘・御歳(伊須気依)姫は日向から婿養子として磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)を迎え、磐余彦尊は初代・神武天皇として即位しました。

神武のヤマト入りを助けたことも謎めきますが、その後のウマシマジノミコトの動きも、また不可解なのです。
島根県大田市にはそのものずばりの物部神社があって、ここにはおおよそ次のような伝承が残されています。
「神武天皇のヤマト建国を助けた後、ウマシマジノミコトは尾張氏の祖の天香具山命と共に、尾張、美濃、越国を平定した。ウマシマジノミコトはさらに西に向かい、播磨、丹波を経て石見に入ると、鶴に乗って舞い降り、この地に留まった」といいます。

なぜ、石見なのかというと、近くの三瓶(さんべ)山が、ニゴハヤヒノミコトの出身地だったからといい、また、出雲を監視するためだという。物部神社のある大田市は、元々旧出雲国と石見国の境目に位置します。
よくわからないのは、ヤマト建国の功労者であるはずのウマシマジノミコトが、なぜ政権の中枢に留まらず、石見に向かったのか、ということです。

神武と同一人物とされる崇神天皇と垂仁天皇の時代、ヤマト朝廷がさかんに出雲いじめをしていたと  『日本書紀』が記録していることです。考古学的にも、ヤマト建国の直後、出雲が実際に衰弱していることが確かめられています。そして、出雲いじめの主役が、物部系の人物だったと記されているのだから、ウマシマジノミコトの石見入りも、信憑性を帯びてきます。

問題は、なぜヤマト建国の功労者が、出雲いじめに走ったのかということで、神話の出雲の国譲りも、単なる神話と無視できなくなってくるのです。
兵器の製造・管理を主に管掌していましたが、しだいに大伴氏(おおともうじ)とならぶ有力軍事氏族へと成長していきました。連の姓(かばね)、八色の姓の改革の時に朝臣(あそみ・あそん)姓を賜る。五世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになりました。
しかし果たして物部氏は単一氏族だったのでしょうか。祭祀に従事する氏族のことを概ね物部氏と呼ばれたのではなかろうかと思わせる程、この氏族は歴史の中心に立ち現れるのです。物部には八十氏とされる諸集団がおり、戦闘、兵器生産、軍神祭祀に従事し、物部連という組織によって統率されていたのではないでしょうか。

継体天皇の時代に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられたのが物部氏でした。また、後述の蘇我馬子(ソガノウマコ)と物部守屋(モノノベノモリヤ)の戦いで大きく登場します。

2.天照御魂神(あまてるみたまのかみ

ニギハヤヒは、記紀が書かれるまでは皇祖神・天照御魂大神だったことが、多くの史料や古代からの神社の祭神・縁起・伝承が証明しています。延喜式神名帳には、「天照」を名乗る神社が、山城、大和、摂津、丹波、播磨、筑紫、対馬などに記載され、記紀編纂以前の創建で古い神社です。
女神・アマテラス(天照大御神)は、日本書紀の編者の都合により、その称号を与えられたにすぎず、実状は全然違っていたのでしょう。なぜなら、全国の天照を名のる古神社は、皆一様にその主祭神を天火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊としているからなのです。

たとえば、京都府宮津市に天火明命を主祭神とする元伊勢籠神社があります。同社の説明によると、
主祭神は彦火明命、亦名天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命
とあり、相殿に豊受大神、天照大神が祀られています。
同社の説明に、「極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神(上賀茂神社)と異名同神であり・・・。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられます。古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い・・・。」と(ほんとはね…と遠慮ぎみに)あります。

出雲大社の創建は、奈良時代初頭の霊亀二(716)年だったことがわかっています。明治までは杵築大社と呼ばれて別の神様(スサノヲ・須佐社)を祀っていたらしいのですが、ちょうど、古事記(712年)と日本書紀(720年)の成立の中間に大神社として創建されたことになります。大己貴命こと、大国主が亡くなってから500年も経った後のことです。大国主命の別名として、古事記では、大穴牟遲神、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神。日本書紀では、大物主神、国作大己貴命、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顕国玉神とあり、それぞれの神名から多様な性格が連想され、一つの神ではなく、複数の神々を統合したものとみられています。ともあれ、出雲大社は記紀神話に合わせて大和朝廷によって創建されたことは間違いないようです。そして、スサノヲやニギハヤヒはじめ、出雲系の神々とその偉業を一括りにして傀儡の大国主を創作し、出雲に流竄したのだともみられています。

記紀の記述に邪魔な神々を出雲に葬り、その代償として出雲大社が建てられたとみられ、当時は50mもある国内最大の建築物として、出雲大社は万の神が集まる今でも壮大なものです。

3.石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)

大阪府東大阪市東石切町「石切劔箭神社」の「先代旧事本紀」のご説明によりますと、
当社は、我が大和民族が皇祖と仰ぎ奉る天照大神の御孫にあたられる瓊々杵尊の御兄、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)とその御子、可美真手命(宇摩志麻遅命 ウマシマデノミコト)の二柱をお祀りしています。御祭神は日本国の発祥にあたる大和建国に御功績がありました。尊は神武天皇の御東遷に先立ち、天照大神から十種の神宝をさずかり、大和建国の任務を受けて天磐船に乗り、哮ヶ峰(現在の生駒山)に天降りになりました。そのころ、大和地方にはすでに勢力を拡大している先住の人々がおりました。尊(ミコト)はその一族の家長である

ナガスネヒコ(長髄彦)の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)と結婚され、可美真手命がお生まれになりました。その後年月を経て神武天皇の東遷に際し、尊と神武天皇はお互いに御所持の天羽々矢を示し合い、共に天照大神の子孫であることがわかり、尊は長髄彦に帰服をお諭しになり、ここに大和建国は成功しました。神武天皇はその功績を称え「素より饒速日尊は天より降れる者なるを聞けり而るに今果して殊功を樹てたり」と、劔をお授けになりました。饒速日尊という御神名は「徳が高く広く活発で勇猛であらせられた」という意義をもつ御尊名です。また、可美真手命は、大和地方の治政に尽力されたのはもちろん、物部一族を率いて神武天皇の親衛を勤められ、十種の神宝によるまじないの神法で多くの人々を救いました。可美真手命とは「ご立派な御徳を有されたお方」という意味です。「はるか昔、河内と大和の一帯は鳥見(登美)の里と呼ばれ、穏やかな自然と、海や山の幸に恵まれた豊かな土地でした。 この地方を治めていた豪族、鳥見一族は、稲作や製鉄の技術はないものの、狩や漁がうまく、生活用具や住居づくりに 優れていました。また、長身の恵まれた体格は戦闘に秀で、「長髄の者」と恐れられていました。さて、神々の住む高天原では、天照大神が、孫の饒速日尊に大和の建国を命じ、『十種の瑞宝』を授けていました。 『十種の瑞宝』は、人々を治め、身や心の病を癒す霊力をそなえた瑞宝です。 饒速日尊は『フツノミタマの劔』を持ち、日の御子の証である『天羽羽矢』も携えて天磐船に乗り、船団を組んで高天原から船出しました。船団が豊前(大分県)の宇佐につくと、尊は息子の天香山命に『フツノミタマの劔』を授け、船団の半分をあずけます。 そして自らは、瀬戸内海を通って大和に向かいました。こうして饒速日尊の乗る天磐船は、鳥見の里を見渡す 哮ヶ峰(生駒山)に着きました。

その頃の鳥見の長、長髄彦は、外敵を全て討ち滅ぼす猛々しい族長でした。しかし饒速日尊の徳の高さに打たれ、 尊のもたらした稲作や織物、鉄製の道具・武具に文化の差をみると、争う事の無益さを悟り、一族こぞって饒速日尊に従った のです。このとき二人の間を取り持ったのが、長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)でした。こうして鳥見の里を治めるようになった饒速日尊は、水が豊かで稲作に適したこの地に水田を拓き、大きな実りをもたらします。 これが近畿地方の稲作文化の初めといわれています。饒速日尊はやがて、登美夜毘売と結婚して可美真手命をもうけ、一層 国の発展につくされました。

鳥見の里が繁栄をきわめていた頃、神武天皇は日向の高千穂から東へ進攻を続けていました。
河内に上陸し、孔舎衙坂(現在の石切霊園のあたり)から大和へ向かう神武天皇の軍勢を見て、長髄彦は 「平和で豊かなこの国を奪われてなるものか」と、戦をしかけます。土地に詳しく勇猛な長髄彦の 軍勢に皇軍は総崩れとなり、退却を余儀なくさせられます。哮ヶ峰の麓の高庭白庭の丘に兵をまとめた神武天皇は、かたわらの巨石を高々と蹴り上げて武運を占い、また高天原の神々をこの地に招来して祈りを捧げ、敵味方なく戦死者の霊を祀りました。

神武天皇は、「自らが日の御子であるのに、日が昇る東の方角に弓を引いたのが誤りであった」と考え、 熊野から大和へと、日を背にして入ることにしました。 ところが、熊野の女王、丹敷戸畔の軍から毒矢が放たれ、皇軍は一人残らず気を失い全滅の危機にさらされます。 そこへ馳せ参じたのが、かつて豊前の宇佐で饒速日尊と別れて熊野に入り、高倉下命と名を変えた天香山命でした。 高倉下命がフツノミタマの劔を献上すると、不思議にも熊野の荒ぶる神々はことごとく倒れ、それまで倒れ伏していた皇軍も 皆生気を取り戻しました。こうして再び、大和への行軍がはじまります。

またも現れた皇軍に驚き、兵を集めた長髄彦は、「我らの主君こそ日の御子である。神武は偽り者だ」と疑います。 この頃、既に饒速日尊は亡くなり、鳥見の長となっていたのは可美真手命でした。 可美真手命は「天羽羽矢」と歩靱を、日の御子である証として神武天皇に差し出しました。すると神武天皇からも 同じものが示されたので、ようやく互いに天照大神の子孫であることが明らかになったのです。 そこで、可美真手命は長髄彦に天皇への帰順をさとし、自らも一族を率いて天皇に忠誠を誓い、広大な稲作地や所領の すべてを捧げました。こうして大和の統一が成し遂げられたのです。

その後、可美真手命には忠誠の象徴としてフツノミタマの劔と、河内の美田が改めて授けられ、その功績は永く讃えられ ることとなります。以来、一族は物部氏として天皇の側で忠誠に励んだのです。 神武天皇が即位した翌年、出雲地方の平定に向かう可美真手命は、生まれ育った宮山に饒速日尊をお祀りしました。 これが石切劔箭神社の発祥と伝えられております。 」

安本 美典氏は、

「『先代旧事本紀』には、神武天皇よりもまえに、物部氏の祖・饒速日尊が、畿内大和へ東遷降臨した。」

この伝承は、どこまで信用できるのか。

饒速日尊と皇室の祖、瓊瓊杵(ニニギ)の尊とは、兄弟なのか。

『先代旧事本紀』は、「饒速日の尊が、河内の国の哮峰(いかるがのみね)に天下ったという。この哮峰は、どこなのか。

また、『先代旧事本紀』は、饒速日尊を、登美の白庭の邑に埋葬したという。
この登美の白庭の邑は、いったいどこなのか。」

物部氏(もののべうじ)は、大阪堺に上陸、生駒の西の日下(くさか)から大和川流域に展開した。須波摩神社や石切劔箭神社のある日下は先土器時代から縄文弥生の遺跡の多い所です。

弓削神社など饒速日命を祀る神社が大和川流域に多く分布しています。また、摂津の三島に落ち着いたとの説もあります。
「神社拾遺」石切劔箭神社


[*2]…アメノオシホミミ(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)は、日本神話に登場する神。古事記では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、日本書紀では天忍穂耳命、先代旧事本紀では正哉吾勝々速日天押穂耳尊と表記する。

4.大神(おおみわ)神社

奈良県桜井市三輪1422
式内社 大和國城上郡 大神大物主神社 名神大 大和國一宮 旧官幣大社

御祭神:大物主大神(おおものぬしのおおかみ)配祀 大己貴神(おおなむちのかみ) 少彦名神(すくなひこなのかみ)由緒遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)=大国主神が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられており、我が国最古の神社であります。大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最 高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれます。「神社拾遺」大神神社

5.石上神宮(いそのかみじんぐう)

【国宝】

石上坐布都御魂神社 名神大 旧官幣大社

奈良県天理市布留町384

御祭神 「布都御魂大神」

配祀 布留御魂大神 布都斯魂大神
宇麻志麻治命 五十瓊敷命 白河天皇 市川臣命
西暦686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみし)が本宗家の地位を得ました。同氏は守屋の兄の子孫であると称しています。

雄略朝の大連・物部目の後裔を称する石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて、西暦708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上朝臣宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は、日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残しています。

石上神宮は、飛鳥時代の豪族、物部氏の総氏神として、又大神神社(おおみわじんじゃ)と同じく日本最古の神社として有名です。元々は古来朝廷の武器庫として物部氏が守っていたようです。境内に入ると多くの鶏が放し飼いにされていました。野生化していて強そうな鶏なので、猫が目の前を通っても微動もしない不思議な光景が見れます。
元々は20年ほど前に誰かが捨てて行ったものだったそうですが 、次第にその数が増え現在に至り、神の使いとして飼われているようです。さて楼門をくぐり奥に進むと拝殿が見えます。さらにこの後ろに本殿があるのですが、禁足地であり一般に立ち入ることはできません。もともとは大神神社のように本殿はなく、拝殿からその背後の禁足地を遙拝し、禁足地には主祭神である神剣布都御魂が安置されていると伝えられてきました。明治時代に禁足地を発掘し、剣一振(素鐶頭太刀そかんとうのたち)が出土したのを期に、これを布都御魂(ふつのみたま)として、本殿が造営されました。

「神社拾遺」石上神宮

6.物部神社(もののべじんじゃ)

島根県大田市川合町川合

式内社 石見国一宮  旧社格は国幣小社

御祭神 「宇摩志麻遅命」(物部氏初代)
相殿右座 饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照大神

物部氏初代の宇摩志麻遅命を主祭神とし、相殿に物部氏祖神の饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照皇大神を祀る。
宮中でも行われる鎮魂祭を行うことで、石上神宮、弥彦神社と共に有名である。なぜか、11月22日でなく、11月24日に行われる。

石上神宮と表裏一体を為す神社。物部神社の御祭神「宇摩志麻遅命」はこの石東の地を平和な豊かな地域とするため、鶴に乗って御降臨されました。
その山を鶴降山といい、山頂には今も国見をされた場所と伝えられる遺跡が保存されています。

この国見をされたおり、平和な穏やかな里「安濃郡(旧 大田地方)」と名づけられました。
この鶴に乗って勝運を運んできた神にちなんで真っ赤な太陽を背負った鶴を全国で唯一この物部神社の御神紋と定められました。
当地の海辺には須佐之男命、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命らが半島から帰国の上陸の地との伝えがある。
須佐之男命は韓神新羅神社、五十猛命は五十猛神社に鎮座し、神別れ坂で大屋津姫命、抓津姫命と親子は別れたと云う。 大屋都比売命は大田市大屋町の大屋姫命神社に鎮座、抓津姫命が見あたらないと思っていたら、物部神社の客神としておさまっていたようです。

社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて尾張、美濃、越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。
物部神社門前から、三瓶山は、よく見える。石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引神話」に登場する。 国引神話では、「佐比売山(さひめやま)」(三瓶山)は鳥取県の「火神岳」(ほのかみだけ)大山)とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされています。

  • 新羅の岬→去豆の折絶から八穂爾支豆支の御埼(やほにきづきのみさき。杵築崎)
  • 北門(きたど)の佐伎(さき)の国→多久の折絶から狭田(さだ)の国
  • 北門の良波(よなみ)の国→宇波の折絶から闇見(くらみ)の国
  • 越国の都都(珠洲)の岬→三穂埼延喜式神名帳では小社に列し、石見国一宮として歴代領主の崇敬を受けた。かつての社家の金子氏は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。戦前は、出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。
    宇摩志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えることから、当社の神紋は赤い太陽を背景に鶴の「日負い鶴」である。

「神社拾遺」石見国一宮 物部神社

6.物部氏ゆかりの神社が多い旧國

【筑前国】19【筑後国】11【石見国】20
【但馬国】12【丹後国】11【丹波国】9
【越後国】68【伊予国】27【河内国】41
【紀伊国】26【摂津国】22【和泉国】11
【伊勢国】35【山城国】12【近江国】23
【尾張国】28【大和国】36

-出典: 『日本の思想』清水 正之 東京理科大学享受

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