日本(ひのもと) 5

気多神社以外の大己貴神の神社

大己貴神(オオナムヂ)は、スサノヲの子であるあるとも、数代後の子孫であるとも、また娘婿であるともされており、系譜は不明瞭である。また、複数の別名があるとされているが、それらがすべて同一人物であったとは考えにくい。少彦名命(すくなびこなのみこと)と共に天下をつくった神。病を癒し、害虫を駆除して、天下に繁栄をもたらしたという。 少彦名命
少彦名命の去った後、出雲国を天下統治の拠点とした。

おほな”と“すくな”は対応した名前であると考えられる。“な”は場所の意味があるから、そこから転じて後から大国主という名が付けられたのではないかともいわれている。
別名、大国主神、国作大己貴命、葦原志許男命など。

1.但馬五社 式内 小田井縣(あがた)神社


兵庫県豊岡市小田井町15-6
御祭神:国作大己貴命(くにつくりおほなむちのみこと)

1.但馬五社 名神大 養父(やぶ)神社


兵庫県養父市養父市場字宮ノ谷827-3

御祭神:倉稻魂命(うかのみたまのみこと) 少彦名命(すくなひこなのみこと) 大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命) 谿羽道主命(たにはのみちぬしのみこと) 船帆足尼命(ふなほそこねのみこと)『国司文書 但馬故事記』 上座:大巳貴命中座 中座:蒼稻魂命・少彦名命下座:丹波道主命・船穂足尼命
「神社拾遺」但馬五社 名神大 養父神社

3.式内 石部(いそべ)神社


兵庫県豊岡市出石町下谷62
御祭神:天日方奇日方命(あめひかたくしひかたのみこと)
大山積神 大己貴神 大物主神 事代主命 健御名方命 高彦根命 瀧津彦命
境内入口の右には「式内 石部神社」、左に「皇大神宮」と刻まれた社号標が建っています。創祀年代は不詳。当初は坪井村に鎮座していたといわれ、現在地は出石城跡の東700mほどの出石町下谷に遷座された。江戸時代、小出・仙石両藩主の崇敬を受けていた。祭神は、案内板によると天日方奇日方命。
『式内社調査報告』には、八柱大神と記されている。
八柱大神とは、天日方奇日方命(櫛日方命)・
大己貴神・大物主神・大国魂神・事代主命・媛踏鞴五十鈴姫命・
溝?姫命・活玉依姫命。
『平成祭データ』には、天日方奇日方命・
大山積神・大己貴神・大物主神・事代主命・
健御名方命・高彦根命・瀧津彦命と記されている。

「神社拾遺」式内 石部神社

創建年は不詳。平安時代以前に坪井村から現在地に遷座されたと伝わる出石の産土大神(氏神)。江戸時代は、出石藩藩主である小出家と仙石家から尊崇を受けていた。要するに天日方奇日方命と配祀の神々ということらしく
石邊公・久斯比加多命の祖神、天日方奇日方命を祀る神社。
また、天日方奇日方命は天日矛命の後裔であることから
天日矛命を祭神とする資料もある。天奇日方命〔素盞鳴尊の曾孫、大己貴命の孫〕は事代主命の長子である。性質は叡明仁恕で 神武天皇に事え、申食国政大夫となって天皇を助けた。悪神を治め夷賊を平らげた功功績は大へん大きい。熟美味命と二人は今の左右大臣のようである。『式内社調査報告19』の祭神は、櫛日方命、大己貴命、大物主神、大国魂神、事代主命、媛蹈鞴五十鈴姫命、溝咋耳命、活玉依姫命とする。主祭神は櫛日方命であることに差はない。
『但馬国式社考』は「考証云、櫛日方命、姓氏録云、石邊公、久斯比加多命後也。一書、作奇日方命、或云、天日矛神裔也」とある。『兵庫県近世社寺建築緊急調査表』には天日矛神とする。「先代旧事本紀巻第六 皇孫本紀」によると、
物部連(もののべのむらじ)等の先祖の宇摩志麻治命は大神君(おおみわのきみ)の先祖の天日方奇日方命(あめのみかたくしひかたのみこと)と共に食国政申大夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)となった。天日方奇日方命は皇后の兄である。食国政申大夫は今の大連・大臣である。
奇は「くし」と読み「櫛」と同じ。石部神社は近江から日本海側に分布し、特に丹波の福知山盆地から但馬の出石盆地への日子坐王の行軍路とされる道筋に点在している。素盞鳴尊の曾孫、大己貴命の孫であれば天日槍とは関係ないばかりか大国主の出雲の神社であるから、
天日槍系神社としてよいものか・・・
出石だんじり祭り – 10月中旬。諸杉神社と伊福部神社と石部神社の祭り。約20台のだんじりが参加し、出石城大手前でぶつけ合う喧嘩祭りである。
大ケヤキ「幸の大ケヤキ殿」 – 樹齢一千年、幹周囲8メートル、樹高30メートル、豊岡市指定文化財天然記念物

4.神門神社(かむとじんじゃ)


式内社 豊岡市日高町荒川
御祭神 大國主命、武夷鳥命、大山咋命

御由緒

創立年月不詳なれども延喜式の制小社に列し天和四年本殿を修理し明治三年山王大権 現の称呼を神門神社と改称し同六年十月村社に列し同三十三年瓦葺に屋根替したり。
神門神社の境内にある大きなイチョウの木には、地上5~6m上の枝から下がる『チチ』と呼ばれる気根があります。乳房を思わせるところからこの気根をとって、その汁を飲むと母乳の出が良くなるとも言われており、昭和の末頃にその気根が盗伐されて、その痕跡が痛々しく残っている。

「神社拾遺」式内 神門神社

安牟加(アムカ)神社


兵庫県豊岡市但東町虫生字箱ノ宮式内社 創祀年代は不祥。

聖大明神とも称された古社で
式内社・阿牟加神社の論社。

承和十五年(848)秋八月、安牟加首虫生を出石主政に任ず。
安牟加首虫生が饒速日命から(6代略)の物部の祖、物部十千根命を虫生(むしゅう)の丘に祀る。
これを安牟加神社という。また、丹波国天田郡・奄我神社から分祀したとの説があり、
祭神は、『姓氏録』に「奄我(アンガ)は天穂日命の後なり」
とあることから天穂日命とする。
「神社拾遺」式内 安牟加神社


農村歌舞伎舞台 県指定有形民族文化財

舞台壁面に残る墨書に1861(文久元)年のものがあり、それ以前の創建。
但馬では関宮、但東町、日高町にあり、但東町の代表的な舞台が虫生(むしゅう)の「安牟加神社}にある舞台。安牟加神社では、10月17日に太古踊り[たいこおどり]が行われる。祭の夜、公民館に引き出された太鼓屋台[たいこやたい]に新発意[しんぽち]1人と太鼓打ち2人が座る。行列は幣[しで]持ちと傘鉾[かさほこ]持ちを先頭に、笛と太鼓の囃子[はやし]も賑やかに若者が屋台を威勢よく曳[ひ]いて神社へ練[ね]り込む。神事[しんじ]のあと太古踊りが始まる。

拝殿内に囃子方[はやしかた]15人ほどが座り、歌の上手な者が音頭の頭[かしら]となり音頭出しをする。新発意[しんぽち]は扇を開いて口上[こうじょう]を述べる。音頭が歌い出すと、太鼓は歌に合せて打つ。新発意[しんぽち]の掛声を合図に太鼓打ちは、右に左、斜方向に向きを変えて打つ。音頭には入込[いりこみ]・先達[せんだち]・屋敷おどり・花・糸屋・坂本の6種類がある。
安牟加とは、安羅の伽耶ということではないかと想像。物部を最初に名乗った「物部十千根命」が最初は祀られていたので物部氏の神社であった。虫生(むしゅう)という地名は滋賀県野洲市にもある。

阿牟加(アムカ)神社


豊岡市森尾字アンガ

式内社 御祭神 「天穗日命あるいは天湯河板擧命」
あるいは 物部十千根命
あるいは 天湯河板擧命

創祀年代は不詳。中古、中嶋神社に安美郷内の4社(有庫神社・阿牟加神社・安美神社・香住神社)を合祀し「五社大明神」とも称されたが、後に安美神社(天湯河棚神)以外は分離した」とあるので、その阿牟加神社ではないかと思う。

同地区は旧出石郡神美村で「正始元年三角緑神獣鏡」が見つかった森尾古墳がある。森尾村に阿牟加谷と称する地があり、天湯河板挙命とする説もあります。鵠(クグヒ・コウノトリ)を捕獲した網に因み
阿牟(網)加(郷)の地名となったという考え。しかし、上記の安牟加神社からすれば元は「物部十千根命」を祀ったのでは。

参考資料:-『日高町史』より
兵庫県立歴史博物館

-出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

1.物部氏=気多の足取り

ヒボコと争った気多

但馬国内で物部氏ゆかりの大己貴命の神社が多い順に、城崎郡5社、出石郡3社、気多郡2社、朝来郡、養父郡、七美郡が各1社となっていて、七美郡以外は、すべて円山川水系です。円山川とは水系が異なる但馬西部の美含郡、二方郡、には物部氏ゆかりの神社はないことから、物部氏の勢力は但馬国西部には達していなかったのかも知れません。それとは反対に丹後、丹波には円山川水系同様、物部氏ゆかりの神社が点在しています。

航海術に優れている物部氏が移動に使ったのは、陸路だろうか?山間の入り組んだ地形の但馬、丹波・丹後では、整備された道といったものもまだないから、間違いなく便利な水路でしょう。しかし、出雲と越国から特有の四隅貼石墓が出土し、交流が深く、よく似た文明であるのなら、一気に出雲から船で越国まで航海したとは考えにくく、その途中の伯耆、因幡、但馬、丹後も寄港したり、定住しながら、同じ出雲文化圏を形成していったのではないかと考えられます。

但馬地方で完全な形で発見された唯一の銅鐸が発見されたのは、円山川の河口

豊岡市気比(ケヒ)溝谷で、気比の浜という共通の地名が、日本海には福井など数所存在する名前の入り江(潟湖)です。敦賀気比神社の祭神はイザサワケ(伊奢沙和気)神であったとする。『古事記』には仲哀天皇段は、このイザサワケ神で、のちにヤマト朝廷ではケヒ(笥飯)神とよばれることになる。「笥飯」は食物を意味するが『紀』『記』における角鹿(敦賀)の記述以前は気比社に隣接する浜を笥飯の浦と呼ばれていた。

現に出石町袴狭(ハカザ)で船団の様子が描かれた木簡が出土していますが、銅鐸発見場所が日本海のすぐ近くであること。寄港地として気比や出石がすでに認知されていたと思われます

「播磨風土記」・「日本書紀」は、
播磨→加古川水系(あるいは市川) 伊和大神 → 但馬国へ 円山川水系を下りながら → アサコ(アサク=阿相=朝来)国 → ヤブ(夜父=養父)国 → ケタ(気多)国 → 近江 → 出石に定着
物部氏の建国したもうひとつの日本を消し去るために、その事実を架空の人物「天日槍」に見立てて大和を中心に逆ルートで征服したように記しているのではないだろうかと考えます。

鋳型はすでに北九州の時にあったものが、複製され河内に移動するグループと出雲に移動するグループが所有していたと考えれば、航海術に優れた渡来人にとって、日本海の出雲加茂岩倉や因幡、但馬(豊岡市気比)で見つかった銅鐸は、これまで陸路を経て同じ鋳型とされる大阪府茨木市からもたらされたのとされていましたが、そうではなく日本海沿岸を辿って佐賀・出雲地方からもたらされたのではないか、と思う方が自然ではないでしょうか。加茂岩倉遺跡で見つかった銅鐸の中に気比銅鐸と同じ流水紋の兄弟銅鐸が見つかっています。

物部氏が興したとされる「日本(ヒノモト)」ができた畿内の河内や大和からの交流により、もたらされたというのであれば、なぜもっと大和で見つからないのだろうか。朝来市には物部という地名があり物部神社もあります。

日高町久田谷遺跡で見つかった粉々に破壊された銅鐸片は、組み立てれば120cmにもなる巨大な銅鐸だそうです。
物部氏は全国に大変多い系統ですから、すべてが倭(大和)の日本(ヒノモト)から弥生人(物部氏たち)が波紋のように広がっていったというような単純なものではないと思われます。中国の秦または越人(弥生人≒物部氏)は、同じ中国江南から渡来した越人がすでに一つのまとまった集団ではなくて、北九州、出雲、そして伊勢・尾張など、時代を経ながら日本列島を東方して、新しい漢字国家を形成していったではないだろうか。

また、ヤマト政権による日本が誕生する以前には、すでにこうして越人(秦でいいですが越という日本海の旧国名が中国の越と同じであるのが気になります。愛知も越と同じでしょう)の移り住んでいった対馬国、壱岐国、北九州地方の諸国が形成され、出雲国や越の国もその同じ集団である可能性が分かってきました。出雲は立地条件から日本海によって、北九州や日本海沿岸から朝鮮半島・中国と交易していた重要な基地であり、但馬弥生人のルーツは朝鮮半島南部の伽耶・任那からである可能性は高いです。

畿内ではこれ以外にも銅鐸の鋳型が見つかっており、いずれも付近に饒速日命を祀る神社が多くあることから、物部氏により統一的に銅鐸の製作・配布が行われていたのは決定的だといいます。
物部氏は、元々は兵器の製造・管理を主に管掌していて、祀りごとを担う氏と成長しました。

学術的な否定意見の例

2世紀後半から3世紀中頃にかけての庄内式土器の移動に関する研究から、吉備や畿内の人々が北部九州へ移動した事は確認されたが、北部九州の土器が吉備や畿内へ移動した痕跡はほとんど見られない。つまり、この時期に九州地方の人々が集団で畿内へ移住したとは考えにくいというものです。

4.気多氏

日高町史では、
「忍海部は、名代、子代部に関係したものと想定され、新羅よりやって来た部族ではないか」とも考えられている。忍海漢人は、神功皇后五年に俘虜として渡来してきたといわれ、製鉄技術の関係者だった。一つの目安として、『兵庫県史』では、国名や郡名と一致する皇子や皇女の名を拾い上げて、皇室との関係の濃度を調べて、ヤマト政権の勢力の浸透時期を求めている。それによると、但馬の場合、允恭天皇の皇女に但馬橘大娘皇女(タチバナオノオオイラツネ)、天武天皇の皇女に但馬皇女(タヂマイラツネ)がある。そこから、但馬地方に皇室の勢力が及んだのは、五世紀頃ではないかと想定されている。加えて、養老三年(719)死去の但馬皇女の名が見え、慶雲元年(704)に従四位下の気多王、天平神護二年(766)に従五位下の気多王の名が見えるてくるので、但馬の中でも、とりわけ気多郡と皇室との関係は七、八世紀ごろになると、緊密化してくるように見える。そのことを示すものは「部(べ)」である。部は、民衆集団で、農民・漁民・特殊技能者たちからなり、貴族に生産した品物を貢納したり、特技をもって奉仕した。皇室が所有している部を、特に名代部、子代部という。この部が設置されていることが即ち、ヤマト政権の明瞭な権力進出の証拠なのだが、気多郡の場合、名代部、子代部の名前が出てこない。しかし、準ずると考えられる部の存在が、私部(キサイベ)で、后(キサキ)の部である。次は、品冶部で、垂仁天皇のために置かれた部である。三番目は忍海部で、履中天皇の皇女飯富青(イイトヨアオ)皇女、忍海部皇女のために作られた部といわれ、三者はともに名代部、子代部に準じてもいいものである。

気多郡余部郷に私部意嶋がいて、その戸口の私部酒主が私部得麻呂を、奈良東大寺造営に塗装工として派遣している。忍海部については、大毅忍海部広庭の名が見え、品冶部には小毅品冶部君大隅の名も見える。このような使者は、国府に近い郡の郡司が任ぜられるのが通例である。

ヤマト政権に所属している部を「品部(トモベ)」と総称しているが、神社や地名が関係している。まず、日置部である。日置は戸置(ヘキ)で、税金の徴収台帳である戸数を調べるものだとか、日を置くことで、暦法-こよみに関係したものとか、日置を火置と考えて浄火を常置して神事に関係したとか、大和の石上神宮の神宝作りに関係して、楯部らと共に太刀を作っているから、武器製作にも関係したともいわれている。しかし、律令時代宮廷の日常事務に当たって、殿部の中に見る日置部は、火を灯す役を受け持っていた。気多郡には日置郷があり、式内社日置神社がある。日置部是雄、衣守の名が見える。

次は川人部だ。漁猟に関係した部である。川人部広井の名が見える。高田臣の姓を賜っているから、高田郷に在していた人だったのであろう。

三番目は楯縫(たてぬい)部だ。武具製作に従事していた部で、大嘗会に用いる楯は「丹波国の楯縫氏がこれを造る」という。文献には気多郡に関係者のことを記していないが楯縫神社が日置郷伊福(ゆう:豊岡市日高町鶴岡)にある。

日置部にしても楯縫部にしても、古い儀礼に関係した職業だということで、これは気多郡がヤマト政権に早く吸収された痕跡でもある。気多郡は、上記の皇族名からすると少なくとも八世紀ころには、皇室との接触があったようだ。気多命婦は気多郡の豪族が奉った采女(うねめ:みこ)ではなかったかと考えれば、ヤマト政権支配下にいた気多郡の豪族の一つの生き方が見える。しかし、名代部、子代部が見られ、既に五世紀の中頃から宮廷儀礼に関係し、古くから服属してしまっている痕跡を持っている。気多郡へのヤマト政権の進出の時期については、五世紀の初め円山川上流部に波及すると次第にその影響を受けていったのであろうか。

-参考『日高町史』より

しかし、これは、奈良時代にヤマト政権の律令制度以降のことなので、それ以前は資料がありませんからわかりません。新羅が誕生する以前から、全国でも唯一の107片も粉々に破壊され埋められた弥生後期と推定する銅鐸片が見つかったことを見ると、ヤマト王権に反抗した豪族(仮に気多氏)がいたのではないかということを想像します。ひたすら強調することはできませんが、気多神社の由来やわざわざ播磨風土記に気多と養父の名が記されていることからも、そう思えてくるのです。全国で式内社の兵主神(大己貴神)は、合計二十一座(十九社)で、その内の七社がなんと但馬の円山川近辺に集中していることからも、物部氏の一族で伽耶系の渡来人が半島と密接な繋がりをもちながら北但馬でヤマト政権に抵抗し、勢力を保持していたのではないかと思えるのです。▲ページTOPへ

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