日本人はどこから来たのか? 2/5 日本人北方起源説の根拠

『日本古代史入門』 著者: 佐藤裕一氏によると、

5 北から「原倭人」登場

紀元前2500年頃にかけて冷涼期間が続いたといいます。この期間に東日本の植生は変化し、日本海側ではスギ・ブナなどが増え、ナラ・クリなど照葉樹林が減少します。

小山修三氏(1939~、国立民族博物館名誉教授)らは、縄文時代の後半には、大陸から新しい文化を持った人々が渡来し、それまでの縄文人には免疫のない新しい病気をもたらしたであろうと主張しています。

また、小山氏らは、気候の変化と食糧事情の悪化、疫病などのために、日本の人口は減少し、縄文晩期の全人口は、7万6000人程度に落ち込んだとといいます。

東日本の人口は減少しますが、九州を中心とする西日本の人口は、あまり落ち込まず、東日本に比べると相対的に人口は多くなったとみられます。それは、大陸から渡来した人々が、芋・豆・雑穀を内容とする焼畑農耕文化をもたらしたことによるものと考えられます。

紀元前1500~1000年頃、大陸から押し出される形で朝鮮半島南部・壱岐・対馬・北部九州に住み着いた焼畑農耕民が、日本人の直接的な祖先である「原倭人」で、その「原倭人」は人口を増加していったとみられます。

「原倭人」の文化は、それまでの縄文人の文化と混じり合いました。

安本美典氏(1934~、元産能大学教授)は、「原倭人」は、遺伝的に「北方型」の「Gm遺伝子」で、すでに朝鮮語とは異なる言語を話しており、その「原倭人」の言語は現代日本語と関連性のある「日本語祖語」であった、と述べています。また、軽量言語学によれば、現代朝鮮語と現代日本語とは、分裂してから5000~6000年以上が経過している、ともいいます。

縄文時代を通して、何回も何回も日本列島に人々が渡ってきたと考えられますが、その中でも大きな流れがこの「原倭人」の流入です。

6 日本人北方起源説の根拠:「Gm遺伝子」

松本秀雄氏(1924~、元大阪医科大学学長)は、人間の抗体(細菌やウイルスなど異物を排除・破壊する)がもっている「Gm遺伝子」(Gm:ガンマ・マーカー)のデータから、日本民族は北方型蒙古系民族に属し、その起源はシベリアのバイカル湖畔と推定した上で、概ね次のように述べています(『日本人は何処から来たか』の内容を要約した)。

①「Gm遺伝子」の分布によって、蒙古系民族は、南方型と北方型とに大別でき、日本民族は北方型である。南方型蒙古系民族との混血率は、7~8%であって、高いものではない。

②日本民族は、「Gm遺伝子」に関する限り、北海道から沖縄に至るまで驚くほど均質である。

③アイヌも、遺伝子構成においては、一般日本人とほとんど変わりがない。

④アイヌと沖縄・宮古の人々は、まったく等質で、日本の一般的な集団に比べて、より北方的特徴を示す。

⑤朝鮮民族は、日本民族と同様等質的だが、日本民族との間にはかなり高い異質性がある。朝鮮民族は、北方型の「Gm遺伝子」パターンを持ちながら、それよりはるかに強く漢民族などの影響(混血)を受けていると見られる。中国と陸続きであることの影響と思われる。

⑥中国は、「Gm遺伝子」の頻度分布に、南北方向の地理的勾配がある。漢民族の場合は、北方型・南方型の二つの型の存在を考えないと、分布パターンの説明が難しい。

⑦日本民族に高頻度にみられる遺伝子特徴は、バイカル湖畔のブリアートをピークとして四方に流れていることである。蒙古、オロチョン、朝鮮、日本、アイヌ、チベット、コリヤーク※1、エスキモーなどが高頻度である。

以上から、北方型蒙古系民族が日本人の中核をなしていたことは原初以来一貫しており、また、それほど大きくは異民族の血を受けていない、といえるようです。
北方型「Gm遺伝子」をもち、日本語と同じ語順の言語を話す「原倭人」が、約3500~3000年前に、北部九州を中心に現れ、その後、日本列島全体を覆っていったのです。

※1…カムチャツカ半島および隣接するシベリア,一部ナバリン岬にすむコリヤーク語を話す人びと

7 日本人北方起源説の根拠:語順

日本語と同じように、原則として「私は・本を・読む」「主語S-目的語O-動詞V」という語順をしている言語には、安本美典氏によれば、次のようなものがあります。

(a)日本列島及び周辺の言語=日本語、琉球語、アイヌ語、朝鮮語、ギリヤーク語(黒竜江下流域とサハリンに住む民族の言語)

(b)アルタイ諸言語=ツングース、モンゴル、トルコ語など

(c)ウラル諸言語=フィンランド、ハンガリー、ラップ語など

(d)チベット・ビルマ系諸言語=チベット、ビルマ、ロロ、レプチャ語など

(e)インド・イラニア語=ヒンズー、ペルシャ、ベンガル、ネパール、シンリハー(スリランカの主要言語)など

(f)その他=シュメール、ドラヴィタ諸言語(タミル語他)

これらをよくみると、日本語と同じ語順(S+O+V)の言語が、中国諸言語を取り囲む形で分布しています。そして、北方型蒙古系民族に属する「Gm遺伝子」パターンをもつ人々の分布は、ほとんど日本語と同じ語順の言語の分布地域と重なり合っています。

(中略)

「言語年代学」は、二つの言語がいつ分裂したかを調べる学問で、その方法で、アイヌ語と朝鮮語が分裂した時期を推定すると、5000~6000年程度前となります。

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日本人はどこから来たのか? 1/5 旧石器に日本列島にやってきた人々

『日本古代史入門』 著者: 佐藤裕一氏によると、

1 人類の誕生と出アフリカ

分子人類学は、DHAのもつ「分子時計」で計測した結果、現世人類が今から15万年前に、アフリカ中央部・大地溝帯の東側で「一人のイブ」から誕生したといいます。「アフリカ起源説」です。

現在の進化論は、自然淘汰とは無関係に、分子レベルの突然変異により起こり、重要なものほど進化が遅く、余り重要でないものほど進化が早い、という「中立説」によっています。

この「中立説」が確立され、遺伝子レベルでの進化の速度は一定であるという「分子時計」を利用することにより、人類とチンパンジーとの分岐年代を推定するとともに、現代人の集団間の近縁度を計算できるようになりました。

伝統的な形態人類学では決め手がなかった現代人類の起源について、ミトコンドリアDNAなどの遺伝子のデータを用いる分子人類学の手法によって、ジャワ・北京など複数の地域で同時に複数の人類が進化してきたとする「多地域進化説」は成立しないらしいことが分かってきたのです。

人類学者の根井正利氏(1931~、ペンシルバニア州立大学教授)によれば、15万年前にアフリカで誕生した私たちの祖先は、10万年前にアフリカを出て(第二次出アフリカ)、ユーラシア大陸を拡散していったと考えられています。その過程において、ネアンデルタール人と共存していた痕跡もあります。

人類は遅くとも500万年前までに、類人猿(チンパンジー・ゴリラなど)と分かれ、大まかに次のような段階を経て、現世人類に至っていると考えられているそうです。

①猿人:ラッミドゥス猿人、アファール猿人、アウストラロピテクスなど。
②原人(ホモエレクトス):ジャワ原人、北京原人など。人類は、100万年前のこの段階で、アフリカを出ています(第一次出アフリカ)。
③旧人:ネアンデルタール人
④新人(ホモ・サピエンス):クロマニヨン人や現世人類。

アフリカで生まれ、10万年前にユーラシア大陸へ広がった「新人」の一部が、6~7万年の後、日本列島に現れます。

2 日本人は大陸から歩いてきた

最初の日本人は、日本列島が大陸と陸続きだった頃、動物を追って日本列島にやってきました。根井正利氏は、それを今から約3万年前の旧石器時代のこととしているようです。

この先土器(旧石器)時代に、列島内で自分たちの石器を開発してナイフ型石器を誕生させていますが、最古の遺跡とされる確実な例は、3~4万年前の武蔵野台地のものとされます(群馬県岩宿遺跡)。

最終的に日本列島が大陸から離れたのは、1万8000年前とも、1万3000年前ともいわれますが、諸説を総合すると、次のようになるものと思われます。

1)約20万年以上前頃まではリス氷河期で、対馬海峡・津軽海峡・宗谷海峡は陸続きで、日本列島は大陸とつながっていた。

2)約2万年前のウルム氷河期にも、対馬海峡・津軽海峡・宗谷海峡はは陸続きで、大陸とつながっていた。

3)その後、氷河が溶け、海水面が上昇して、対馬海峡・津軽海峡ができたが、宗谷海峡はさらに長期間陸地化して、北海道と樺太(サハリン)とは陸続きであった。

3 旧石器時代の細石刃文化

(中略)
竪穴住居は、長い縄文時代を通じて、最も基本的な住居形態で、関東地方の縄文時代草創期後半に初源的な形態が出現し、早期前葉には全国的に定着し始め、前期には各地に定住的集落が出てきます。

竪穴住居は、夏は涼しく冬は暖かいのですが、湿気が多いのが欠点です。ユーラシア大陸から北アメリカにかけて広く分布しており、日本では弥生時代を経て、古墳、奈良、平安時代まで使われています。

縄文文化の南方的要素の一つは、高床建築で、晩期の石川県金沢市チカモリ遺跡では、直径40~50センチの柱径をもった神殿の祖型ともいわれる大型遺構が発見されています。

7000年ほど前の中国シ折江省の河母渡遺跡から、高床建築の部材が発見されており、高床建築は、縄文時代前期に、長江流域から海流や季節風に乗って日本海沿岸に渡来・漂流した人々によってもたらされたと思われます。

南方的要素のもう一つは植物です。前期の福井県鳥浜貝塚から、南方起源のヒョウタンや緑豆など栽培作物の種子が見つかっています。インドから東南アジアに分布するエゴマは、長野県大石遺跡などから出土しています。

また、漆製品は、中国では河母渡遺跡から出ていますが、縄文後期の埼玉県寿能遺跡や晩期の青森県是川遺跡などからは、漆塗りの木器・土器・竹篭・櫛、弓などが出土しています。

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丹後(京都府北部)の秦氏系神社 2/2

“ 三井寺HP  連載 新羅神社考 京都府の新羅神社(2)

京都府の新羅神社(2)

更に、北にある多久神社の北西八百m程の所の矢田の集落の西端に矢田神社がある。この北方、弥栄町との境の山上には太田南古墳群があり、平成二年(一九九〇)から六年にかけての発掘調査で、後漢時代の鏡などが出土している。平成六年の発掘では青龍三年(二三五)の年号入りの青銅鏡が発見された。年号が刻まれた鏡としては日本最古のものである(青龍三年は中国・魏の年号で、邪馬台国の女王卑弥呼が景初三年〈二三九〉に魏に朝貢した際に皇帝から下賜された鏡の可能性が強いといわれている)。

また、竹野郡網野町には銚子山古墳(弥栄町の太田古墳から五~六㎞の距離)がある。全長一九八mの前方後円墳で、日本海側に存在する古墳としては最大のもの(五世紀前半の築造)である。

丹後半島は海人族が住んでいたと思われる。その海人族は九州の豊後(大分)国とつながりが深く、いくつかの共通性が見られる。和歌山県に古代の怡土(いと)国(福岡県)に因む地名が多いのと同様であるが、これは九州にあった国の氏族が、丹後や紀伊地方へ移住した痕跡ではあるまいか。あま、大野、やさか、竹野、矢田、はた、等。

「ひじのまない」については、丹後は「比治の真名井」、豊後では国東半島の近くの速水郡日出(ひじ)町に「真那井(まない)」がある。また、丹後の伊根町の漁師の家と同じ構造の家が、豊後の南、海部(あまべ)郡に見られる。海部氏(海人族)が九州から中部地方に至る間に広く分布していたことの証拠である。なお、海部郡は紀伊や尾張にもあり、阿曇(あずみ)の海人として朝鮮半島や江南の古代海人と関係が深い。

(二)溝谷神社

溝谷神社のある場所は外(との)村といわれ、溝谷の集落から車で約十分ほど。両側は山に囲まれた谷間のようなところの道である。道路の脇にはわずかであるが田んぼが見られる。(中略)

境内地の奥にある七十~八十段の石段を登った最も高い場所に、杉や楠木の林に囲まれた神社の本殿がある。祭神は新羅(しらぎ)大明神(須佐之男命)、奈具大明神(豊宇気能売命)、天照皇大神の三神で、旧溝谷村三部落の氏神である。本殿と拝殿よりなるが、本殿は瓦屋根の覆屋内に保護されている。拝殿は入母屋造、正面は格子戸、側面は板で覆われている。本殿の扉には菊の紋章と桐の紋が彫ってあり、周辺には高欄つきの回縁がついている。古いがりっぱな建物である。(中略)

当神社の創建年代については、当神社の火災により古文書が焼失し往古の由緒は不明であるが、延喜式(九二七年)記載の神社であることや、崇神天皇の時代の四道将軍の派遣と関係があること、新羅牛頭山の素盞鳴命を祭ったということ、四道将軍の子・大矢田ノ宿禰が新羅征伐の帰途、海が荒れて新羅大明神を奉じたこと、神功皇后が新羅よりの帰途、着船したこと、などから考えれば、当社は古代から存在し、かつ新羅系渡来人と深いつながりがあったことが判る。

溝谷神社に掲げてある『溝谷神社由緒記』には次のように記載されている。

「当社は延喜式所載の古社にして、社説によれば、人皇第十代崇神天皇秋十月、将軍丹波道主命、当国へ派遣せられ、土形の里に国府を定め居住あり。或時、神夢の教あり、眞名井ノト(トはウラ又はキタとも云ふ)のヒツキ谷に山岐神(やまのかみ)あり、素盞鳴尊の孫、粟の御子を以って三寶荒神とし斎き奉らば、天下泰平ならんと。道主命、神教に従ひ丹波国眞名井ノトヒツキ山の麓の水口に粟の御子を以て三寶荒神と崇め奉る。其の御粟の御子は水口の下に新宮を建てて斎き奉る。因て、水の流るゝ所を溝谷庄と云ふ。溝谷村、字溝谷を旧名外(との)邑と云ひしは眞名井名ノトと云ふ字を外の字に誤りて云ひしものなりと。その後丹波道主命の子、大矢田ノ宿禰は、成務・仲哀・神功皇后の三朝に仕えて、神功皇后三韓征伐に従ひ、新羅に止まり、鎮守将軍となり、新羅より毎年八十艘の貢を献ず。

其の後帰朝の時、風涛激浪山をなし航海の術無きに苦しみしに、素盞鳴尊の御神徳を仰ぎ奉り、吾今度無事帰朝せば、新羅大明神を奉崇せんと心中に祈願を結びければ、激浪忽ち変じて蒼々たる畳海となりて無恙帰朝しけれぱ、直ちに当社を改築せられ、新羅大明神と崇め奉る。因て今に至るも崇め奉して諸民の崇敬する所なり」

「従って当社の創祀は丹波道主命の勧請によるもので、新羅(しらぎ)将軍大矢田宿禰の改築祭祀されたと伝えられ、今でも航海の神として海辺の崇敬篤く、現在絵馬堂にある模型船は間人漁師の寄進したものである」

溝谷神社の由緒についての記載は、他にも見られる。『竹野郡誌』によれば、各文献の記述を次のように記載している。

溝谷神社村社字ヒツイ鎮座
『延喜式』溝谷(みぞたに)神社
『丹哥府志』溝谷神社は今新羅大明神と称す
『丹哥舊事記』
溝谷神社 溝谷庄外村
祭神 新羅大明神 素盞鳴命
延喜式小社牛頭天皇新羅国より皈朝有けるを祭りし神号なり、勧請の年暦いつよりと言事を知らず

京都府の新羅神社(3)

出石族とか出石人といわれている天日槍族が、但馬から(京丹後市)熊野・竹野地方を含めた地域に拡がって大きな勢力を張っていたものであろうか。

山陰地方に四道将軍の一人、丹波道主命が遣わされたことは、丹後地方が早くから大和朝廷と政治的に密接に結びついていたことが考えられる。大和朝廷の全国統一の過程で、丹後地方をはじめ山陰地方に重点が置かれたことは、逆にこの地方に大和朝廷に対抗するほどの勢力を持った豪族が政治、経済に強大な権力を持って存在していたことを意味し、丹後地方に雄大な前方後円墳が残された所以を示すものである(『弥栄町史』)。

三、その他の新羅(しらぎ)神社について

大宮売(め)神社の古代祭祀の地

当地方を訪ねるに際し、弥栄町の隣町に当る中郡大宮町字周枳(すき)の大宮売(め)神社(周枳の宮―祭神天鈿女(あめのうずめの)命・豊受大神)の宮司・島谷氏に教示を受けた。島谷氏によれば、「丹後には新羅大明神を奉祭していた社はあちこちにあったのではないかと思われます。……当地方の地名や伝承等からみると、古代朝鮮との係りを強く感じざるを得ません。……」。丹後地方は、古代渡来系(特に新羅系)の人々を中心とした文化が栄えた土地であったようである。

島谷氏の話によれば、大宮売神社のある土地の周枳というのは、スキ国=新羅国(※1)の意であり、竹野郡の間人から竹野川沿の中郡大宮町にかけては、弥生時代には竹野川文化圏を形成しており、古代に渡来した人達の文化が栄えた地域であった。いわゆる出石族・出雲族が居住していた。そしてこの一帯にはキのつく地名(内記、周枳)や、荒・新(安羅)などの地名が多い。周枳は又主木・周木にも通じ、古書には主木殿ありといわれている。

当地方からは弥生時代後期の遺跡が多く発見され、大宮売神社でも明治十二年に二の鳥居の下から壷や曲玉・勾玉が発見されたが、これらの品は祭事の跡(三世紀頃)を物語っている。大宮売の神は巫女(シャーマン)であり、曲玉や勾玉は木の枝につけて祈祀の道具とした。大宮は大国の意である。大宮売神社の周囲は濠となっていた。

大宮売神社のある大宮町は竹野川に沿って古くから開拓された地域であり、竹野川の丘陵地帯には多くの古墳が発見されている。大宮売神社には境内とその周辺から弥生時代から中世にかけての複合遺跡があり、大宮売神社遺跡といわれ、神社の周辺には左坂古墳群(九十三基)、外尾古墳群(二十四基)、新戸(しんと)古墳、宮ノ守古墳群、平太郎古墳群などがある。

大宮売神社の祭神は天鈿女命・豊受大神であるが、これは五穀豊穣を願う、いわゆる祖神である。そして当地の式内社は全部豊受神(天女の一人が豊受の神)、大宮女は八神の一座、機織と酒造り(風土記には比治の真奈井、奈具社)の神であり、丹波道主命米の稲作は天女が降り、奈具の社にとどまったことから、稲作民族が定住したことを意味し、これが祖神となった。なお、豊受神は九州から来たという説もある。
出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)

周枳(すき)というのは白村江(はくすきのえ)の戦いで有名なスキで村のこと、朝鮮語で村とか城のことだそうである。隠岐国に周吉(すき)郡がある。ス・キど分離すれば、ソの村とか国のこととなる。このあたりはスとかソあるいはシと呼んだのだろうと思われる。(丹後の地名)

■周枳井溝

周枳村(現在の大宮町周枳)は、竹野川より土地が高く、谷も浅いため水が少なく、やむを得ず畑にしている農地が多くありました。
「なんとか竹野川の上流から水が引けないものか」と言う農民たちの願いが、時の宮津藩の役人の耳に入り、藩主京極守高の時(1660年代)に竹野川から取水し、谷内から周枳に至る用水路づくりが始められました。
工事は10年の歳月を費やし、寛文11年(1671)完成しました。
周枳の人々はこの用水路のことを「井溝」と呼んで大切にしてきました。
周枳の井溝は、近年コンクリート製の水路として整備され、その大部分は、国道バイパスや府営ほ場整備事業により水路の場所が変わっており、現在は、集落周辺にかつての水路の場所を認めることができます。
集落周辺では、防火用水の水源となったり、「井溝」に洗い場が設けられ、野菜の洗浄などにも利用されています。(京丹後市)

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豊岡市神美地区の兵主神社

郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造いといのみやつこと池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。

天日槍あめのひぼこゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。

『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)と書くことから、天日槍(天日矛)を武神とみなし、兵主と同一視する研究者や歴史家がおられる。

別記にくわしく書いているので割愛するが、天日槍は初代但馬国造となった人物で、権力は掌握できたのかも知れないが、天日槍≠兵主です。

 
右側の低い丘が森尾古墳地

2000(平成12)年、神美地区に近い豊岡市出石町袴狭はかざ遺跡から出土した木製品の保存処理作業中に、船団線刻画のある木製品(板材)が見つかった。

森尾古墳群は、中嶋神社のそばを流れる穴見川をはさんで、東に隣接する森尾地区の北端に位置する小山で但馬で最も早く大正時代に発見された森尾古墳は謎の多い古墳で、そこから中国の年号である「正始元年」で始まる文字が刻まれている「三角緑神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう」と、また、同時に見つかった鏡の一つが1世紀に中国でつくられた近畿で最古級の「方格規矩四神鏡ほうかくきくししんきょう」であることがわかって大きな話題になった。

出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造 新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。

三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡神美村三宅(豊岡市三宅)のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。
三宅地区のすぐ北に隣接する出石郡穴見郷には、奥野の大生部兵主神社は有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの有庫神社を祀るようになった。

また三宅地区に鎮座する穴見郷戸主大生部兵主神社(出石郡穴見市場村=現豊岡市三宅)がある。
いずれも中古からいくたびか分離のたびに遷座もしくは並立されており、それだけ由緒がある証しだ。

奈良県田原本町には鏡作りに関係する神社として、『延喜式』では鏡作伊多神社(祭神の石凝姥命は鏡製作に関する守護神)、鏡作麻気神社(祭神の天糠戸命は鏡作氏の祖神)がある。鏡作りは、弥生時代後期後半から唐古・鍵遺跡にいた銅鐸鋳造の技術者集団が、五世紀初めに新羅から伝えられた鋳造・鍛造技術を吸収していったとされ、その技術集団は倭鍛冶(やまとかぬち)と称し、この集団が鏡作氏につながる(『田原本町史』)。

また工芸品の製作技術だけでなく、大規模な土木工事に生かす技術も渡来人によってもたらされ、その技術によって造営されたと考えられる池についての伝承もある。

穴見川、奥野には土師口という字がついたバス停もあり、他の兵主神社とは異なり大生部兵主神社とわざわざ大生部と冠しているのは何か意味がありそうだ。大生部(おおうべ)とは品部(王権に特定の職業で仕える集団)のひとつではないかと想定できる。生部は生産、製造する品部とすれば穴見は鉄資源に関係する穴師、土師は須恵器(陶器)の陶部、謎の多い森尾古墳の造営と銅鏡などは、須恵器焼き上げに必要な高温生成の技術は、鉄鉱石や砂鉄の溶解を可能にするから製鉄技術集団でもあるとみなすことができると、歴史学者の上田正昭氏はいう。一連の三宅氏による、大生部は陶器、鉄器、土木などの広範囲な偉大さを誇るのかも知れない。

土師器

土師器(はじき)とは、弥生式土器の流れを汲み、古墳時代~奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけ(土師器本来の製法を汲む手づくね式の土器で、主として祭祀用として用いられた)に取って代わられるまで生産された素焼きの土器である。須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、土師器のほうが品質的に下であった。埴輪も一種の土師器である。古墳時代に入ってからは、弥生土器に代わって土師器が用いられるようになった。

多く生産されたのは甕等の貯蔵用具だが、9世紀中頃までは坏や皿などの供膳具もそれなりに生産されていた。炊飯のための道具としては、甑がある。

小さな焼成坑を地面に掘って焼成するので、密閉性はなく酸素の供給がされる酸化焔焼成によって焼き上げる。そのため、焼成温度は須恵器に劣る600~750度で焼成されることになり、橙色ないし赤褐色を呈し、須恵器にくらべ軟質である。

須恵器

高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられた。『日本書紀』には、百済などからの渡来人が製作したの記述がある一方、垂仁天皇(垂仁3年)の時代に新羅王子天日矛とその従者として須恵器の工人がやってきたとも記されている。そのため新羅系須恵器(若しくは陶質土器)が伝播していた可能性が否定しきれないが、現在のところ、この記述と関係が深いと思われる滋賀県竜王町の鏡谷窯跡群や天日矛が住んだといわれる旧但馬地方でも初期の須恵器は確認されていない。結局、この技術は百済から伽耶を経て日本列島に伝えられたと考えられている。

天日槍という渡来技術集団が出石神社を中核として天日槍系の神社と集中する兵主神社、出石郡全域と城崎郡、気多郡、養父郡に基盤を固めていた事が、崇神、垂仁天皇のころには大和(奈良県)へ拠点を移す三宅氏や糸井氏の一族といい、ヤマト王権と深く結びついていた所作であるように思える。

兵主神社

兵主とは、「つわものぬし」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。大己貴命(おほなむち)も大国主の別名で、他には素盞嗚尊・速須佐之男命(スサノオ)を祭神としている。
兵庫(ひょうご)とは、古代の武器庫である兵庫(つわものぐら)に由来する言葉。
このことから転じて、歴史的には武器を管理する役職名として使用されていた。兵庫県の兵庫も神戸市内の地名で大輪田泊(兵庫港)から。

兵主神ゆかりの神社は延喜式に19社ある。
大和 城上(桜井市) 穴師坐兵主神社 「兵主神、若御魂神、大兵主神」
大和 城上 穴師大兵主神社※
穴師坐兵主神社は、穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社)の3社で、室町時代に合祀された。現鎮座地は穴師大兵主神社のあった場所である。
和泉 和泉 兵主神社
参河 賀茂 兵主神社
近江 野洲 兵主神社 「国作大己貴神」
近江 伊香 兵主神社
丹波 氷上 兵主神社 「大己貴神、少彦名神、蛭子神、天香山神」
因幡 巨濃 佐弥之兵主神社
因幡 巨濃 許野之兵主神社 「大国主命、素戔嗚命」
播磨 餝磨 射楯兵主神社二座
播磨 多可 兵主神社 「大己貴命」
壱岐 壱岐 兵主神社
延喜式に19社のうち但馬の式内兵主神社
但馬國朝來郡 朝来市山東町柿坪 兵主神社 大己貴命 旧村社 一説には、持統天皇4年(690)
但馬國養父郡 朝来市和田山町寺内 更杵村大兵主神社 祭神不詳・十二柱神社
但馬國養父郡 豊岡市日高町浅倉 兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國氣多郡 豊岡市日高町久斗 久刀寸兵主神社 素盞嗚尊、大己貴命 旧村社
但馬國出石郡 豊岡市奥野 大生部兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國城崎郡 豊岡市山本字鶴ヶ城 兵主神社 速須佐男神 旧村社 天平18年(746)
但馬國城崎郡 豊岡市赤石 兵主神社二座 速須佐之男命 旧村社 年代は不詳
また、薬王寺に近い但東町虫生(ムシュウ)にも式内社・阿牟加(アムカ)神社の論社安牟加神社があるが、全国で3か所「正始元年」三角縁神獣鏡がみつかっている森尾古墳の森尾にも阿牟加(アムカ)神社があるがここも奥野に近く、この二か所が似ている。

大生部兵主(おおうべひょうず)神社

但馬の式内兵主神社巡りもいよいよ最後になった。
分かりにくい場所にあって数回通っているが、対岸にあるため気づかなかった。
県道703号線(永留豊岡線)と160号線が合流する地点から穴見川を越えて南へ渡った場所に境内がある。
豊岡市奥野1
旧村社
御祭神 大己貴命
いつもお世話になっている「玄松子」さんのページによると、
創祀年代は不詳。
一説に、弘仁元年(810)、当地に兵庫を建て在庫の里と呼ばれて兵主の神を祀り、兵主神社と称したという。
後に、有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの有庫神社を祀るようになった。
延暦二年(1674)本殿を改築、
寛政三年(1791)火災により焼失したため再建された。
式内社・大生部兵主神社の論社の一つ。
祭神は大己貴命だが、異説として素盞嗚尊を祀るという。
また、常陸国鹿島からの勧請とする説もある。
社殿の左右に境内社の祠が二つ。
それぞれに三社が合祀されているようだ。
社殿左の祠には、愛宕神社、秋葉神社、金刀比羅神社。
社殿右には、稲荷神社、皇大神宮、有庫神社。
ただし、大生部兵主神社として有力な論社は二つある。
豊岡市(旧出石郡)但東町薬王寺にある同名社と、この奥野にある同名社。
しかし、薬王寺の大生部兵主神社は延喜式式内社にはないから、奥野の方が古いのではないか。
薬王寺の読み方は「おおいくべひょうすじんじゃ」だが、それは時代によって変化したものだろう。
祭神として素盞嗚命を祀り、用明天皇の皇子麻呂子親王勅を奉 じて牛頭天王も祀っている。
薬王寺は但東町から丹後へ抜ける国境の峠の一つで、東側には京街道だった

鳥居


木造りの鳥居と参道


社殿

境内の西側に舞殿があり、舞殿に向かい合う形で社殿がある。
拝殿は瓦葺・入母屋造、後方の本殿は瓦葺・流造。


拝殿

有庫神社

兵庫県豊岡市市場85
祭神は、武甕槌神・奧津彦神・奧津姫神・軻遇槌神・菅原道眞。
有庫神社としての祭神は、武甕槌神。
つまり鹿島からの勧請ということになる。
菅原道真公は、天神社を、
その他の神々は、荒神社を合祀したもの。
社格は、旧村社。


鳥居


神門


社殿

穴見郷 戸主 式内 大生部兵主神社

あなみごう へぬしおおうべひょうず?
兵庫県豊岡市三宅字大森47

式内社
田道間守を祀る式内社中嶋神社に近いところにあるが、古くて小さな社。上記の大生部兵主神社や有子神社は村の氏子の方によって手入れが行き届いているが、この社はあまり参拝者が多くないように見える。
大生部兵主神社として有力な論社は薬王寺にある同名社と、奥野にある同名社。

  
鳥居とと神門

  
社殿

郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造と池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。

糸井造と三宅連

天日槍ゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。その中で大が冠せられているのは式内更杵村大兵主神社(養父郡糸井村寺内字更杵=現朝来市寺内)だけだが、更杵神社以外にも村が分離して近世にいたり、更杵集落が衰退し当社は取り残されて荒廃していた。幕末の頃、当社の再建と移宮をめぐって寺内と林垣の対立があったが、結局、現在地に遷座された。室尾(字更杵)には式内桐原神社がある。古社地は不明だが、かつての更杵集落は、現在の和田山町室尾あたりであったという。

出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造 新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。『川西町史』は、この姓(カバネ)を与えられた氏族は五世紀末におかれた新しい型の品部(王権に特定の職業で仕える集団)を掌握する伴造であり、より古い型の品部を掌握する連姓氏族より概して地位は低かった。以上から三宅氏の「三宅」が前述の倭のミヤケを指し、そのミヤケの管理を担当した有力な氏族であるとすれば、糸井氏と三宅氏の関係は、三宅氏が天日槍の直系の子孫に当たる氏族で、その三宅氏から分かれた一分族が糸井氏であると推測できる。

三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡(豊岡市)三宅のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。

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縄文的であるがゆえに広まった大国主命信仰

神道は、太古の日本から信仰されてきた固有の文化に起源を持つ宗教。日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立していった。

なお、神道には明確な教義や教典がなく、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『宣命』などといった「神典」と称される古典を規範である。森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊を祀り、祭祀を重視する。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目と、他宗教と比べて、現世主義的であり、性善説的であり、祀られるもの(神)と祀るもの(信奉者)との間の連体意識が強い、などといった特徴が見られる。

日本では気象、地理地形に始まり、あらゆる事象に「神」の存在を認める八百万(やおよろず)の神といい、万物に精霊が宿るというアミニズムから発展した多神教で、そこいら中に神がいて、どの神が正しいというはっきりとした基準はない。

多神教の神には二つの顔があるのだ。ひとつは、人々に恵みをもたらすありがたい福の神「豊饒(ほうじょう)の神」、そして、祟りのような災難をもたらす神である。これは、良い神と悪い神の二種類が存在するということではなく、一柱の神に、「神」と「鬼」の二面性があるという意味である。

つまり、神と鬼は表裏一体であり、神は祟るからこそ祀られ、そして、祟る神=鬼は祀られることで、恵みをもたらす豊饒の神へと変身する。このような複雑で原始的な図式が多神教の特色であり、一神教世界は、この混沌から抜け出し発展したと自負しているのだ。また、先進国で多神教を信奉しているのは日本だけで、おそらくこの辺りにも、「日本は異質だ」、といわれる特性の根本があるのだろうか。

これに対し、キリスト教世界では、神は一人であって、だからこそ絶対的存在とみな信じているのである。「唯一絶対の神がこの世を想像し、その教えが絶対的に正しい…」、これがいわゆる一神教というものである。

神道と仏教の違いについては、神道は神話に登場する神々のように地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村etc)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教は主に個人の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく異なる。

日本の神道は、多神教で神道の神々は、別の宗教の神を排斥するより、神々の一人として受け入れ、他の民族や宗教を自らの中にある程度取り込んできたとして、その寛容性が主張されることがある。しかし、世界各地に仏教が広まった際に、土着の信仰との間に起こった摩擦だ。日本に552年(538年説あり)に仏教が公伝した当初には、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識されていた。

神道は多神教だが、祖霊崇拝性が強いため、古いものほど尊ばれる。1881年の神道事務局祭神論争における明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利し、天照大神が最高の神格を得たが、敗北した出雲派的なものが未だに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い。

明治の神仏分離令によって分離される以前は、神道と仏教はしばしば神仏や社寺を共有し寺院の境内に社があったり、神社の境内に神宮寺が併設されたり、混じりあっていた。それは人と同じような姿や人格を有する「人格神」であり、現世の人間に恩恵を与える「守護神」ですが、祟る(たたる)性格も持っている。災害をもたらし、祟るからこそ、神は畏れられました。神道の神は、この祟りと密接な関係にある。

縄文的であるがゆえに広まった大国主命信仰

『古代出雲王国の謎: 邪馬台国以前に存在した“巨大宗教国家”』 著者: 武光誠氏などを参考にすれば、
縄文時代中期にあたる紀元前1000年ごろまでは、出雲の遺跡数は少ない。その時期の出雲は後進地帯であったと考えてよい。さて、吉備政権もヤマト朝廷も、九州北部の人びとが瀬戸内海を東進して作り出したものだ。ゆえに大和、吉備、北九州の勢力は、縄文文化との縁を絶ち切った上に生み出されたといえる。

しかし、古代にあっても現在にあっても、日本人の多くは間違いなく縄文時代の日本の住民の系譜を引いている。弥生時代に朝鮮半島や南方から渡ってきたのは、ひと握りの有力者であった。

出雲でより強く縄文的信仰の伝統を受けついだ大国主命信宏が生まれた。出雲の神は北九州の神やヤマト朝廷の神より、古代の庶民層の支持を受けやすいものであったといえる。それゆえに、大国主命信仰が九州から東国に至る各地で受け入れられることになった。古代にあってその広まりは、邪馬台国連合の信仰の系譜を引く宗像信仰、宇佐信仰やヤマト朝廷の天照大神信仰のそれよりはるかに勝っている。

分類

武光誠氏は、日本固有の信仰は、精霊信仰、祖霊信仰、首長霊信仰の三層から成ると述べた。
精霊信仰は縄文人の信仰で、山・川・風・動物・植物など、あらゆる事象に精霊が宿るとする考えである。

自然物や自然現象を神格化した神

最も古い、自然物や自然現象を神格化した神。古代の日本人は、山、川、巨石、巨木、動物、植物などといった自然物、火、雨、風、雷などといった自然現象の中に、神々しい「何か」を感じ取っていました。自然は人々に恩恵をもたらすとともに、時には人に危害を及ぼします。古代人はこれを神々しい「何か」の怒り(祟り)と考え、怒りを鎮め、恵みを与えてくれるよう願い、それを崇敬するようになっていった。これが後に「カミ(神)」と呼ばれるようになった。

祖霊信仰は、弥生時代中期に江南(中国長江以南)からもたらされたもので、亡くなった祖先はすべて神となり、自然現象を司り、子孫を見守るとするものである。

そして、首長霊信仰は弥生時代のごく末に、ヤマト朝廷によってつくられた。それは、大王や大王に仕える首長たちの祖先の霊は 、庶民の霊よりはるかに強い力をもつとする信仰である。そこで、朝廷は民衆に自分の祖先を祀るとともに、王家の祖神の祭りに参加する事を命じるようになった。

古代の指導者・有力者の神格化

武光誠氏は、祖霊信仰は、ヤマト朝廷によってつくられたとしているが、これはくわしくいうとそうとは限らない。一族が祖先の霊を祀ることは、ヤマト朝廷が成立する以前からあった。もともと祀られていた各地域の首長を祀っていたので必ずしも天皇家を合祀していない神社の方が圧倒的に多いからだ。

日本において天皇のことを戦前は現人神と呼び、神道上の概念としてだけでなく、政治上においても神とされていました。現在では、昭和天皇によるいわゆる人間宣言により政治との関わり、国民との関係は変わりました。しかし、神道においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)の血を引くとされる天皇の存在は現在も大きな位置を占め、信仰活動の頂点として位置付けられている。

その時代の有力者を死後に神として祭る例(豊臣秀吉=豊国大明神、徳川家康=東照大権現ど)や、権力闘争に敗れまた逆賊として処刑された者を、後世において「怒りを鎮める」という意味で神として祭る例(菅原道真、平将門など)もこの分類に含まれる。

ヤマト朝廷が成立する以前から、さまざまな部族が個々に固有の神を信仰していました。祖霊信仰と首長霊信仰を合わせたものとして、それらの部族が交流するにしたがって各部族の神が習合し、それによって変容するようになっていった。この神神習合が、後に仏教をはじめとする他宗教の神々を受け入れる素地となっていく。
主祭神の他に、時代によって祭神が増えていき、また摂社としてあらゆる祭神が祀られていく。

神政国家だった出雲政権

出雲が邪馬台国の卑弥呼の出現の約三十年前に出雲を統一できた…につては、出雲という土地の特殊性をつかむことによってその答えが明らかになると思われる。
首長霊信仰の発生が日本統一のきっかけになった。天皇家は、大和や河内の有力豪族の祖神を天皇家の祖神の下位に位置づける。それとともに地方豪族の祖神も朝廷がつくる神々を組織した秩序の中に組み込んでいく。

これによって、全国の首長は天皇家の祖神の保護下におかれることになった。そして、首長支配下の民衆は、首長霊を祀ることを通じて、その上にいる天皇家の祖神に従う。そのようなヤマト朝廷の支配のもとでは、天皇家への貢納物は、天皇家の祖神へのささげ物とされた。
ヤマト朝廷は武力で各地の首長を討って日本を統一したのではない。自家の祖神が日本列島の住民すべてを治めるべきだとする信仰上の動機によって、天皇家は地方豪族を次々に従えていった。

ならば、そのような首長霊信仰が生まれる前の邪馬台国や出雲の、小国に対する支配は、どのような名目でなされたものであろうか。
九州北部の小国は、古代ギリシャで栄えた城壁都市ポリスに近い交易国家であった。彼らは、遠距離の交易によって他地域から来る有益な物品を独占し、周辺の小国に分け与えることを通じて豊かな生活を享受することに満足し、領域を広げて統一国家になろうとする野望はもたない。

それゆえに、交易国家の段階では小国分立の状況になり、小国同士が相手の内政に干渉しない形がつくられる。したがって、国の統一の機運は生じない。九州北部の小国は、紀元前一世紀末にしきりに朝鮮半島北部にあった中国の植民地・楽浪郡と交易した。その段階で北九州に公益国家が芽生えたといえる。やがて、魏の洛陽に使者を通じて奴国が巨大化した。

しかし、出雲氏を中心とするまとまりは、交易のためにつくられたものではない。彼らは荒神谷での祭祀を通じてまとまった。ゆえに出雲政権を「神政国家」とよぶのがふさわしい。と記している。

大国主は出雲氏の祖神ではない

したがって、ヤマト朝廷以前の出雲の小国連合は、出雲氏の祖神であるアメノホヒノミコト(天穂日命)を、小国の首長たちの祖神と同列におく形をとった。そして、自家の祖神の上に新たに有力な神をつくりだした。出雲氏は祖神である天穂日命を重んじずに、大国主命の祭祀をその職務にした。これは、出雲氏が大国主命の祭祀により出雲の豪族をまとめたが、彼らの内政に関与しなかったことを意味する。出雲氏が、自家の祖神を配下の豪族に拝ませる形をとったなら、出雲の統一はこれほど早く行われなかったろう。

そのため、『出雲国風土記』に数多くの神の活躍がみられることになった。ヤマト朝廷の支配が強化される段階で、出雲の神のいくつかは中央の神統譜に組み込まれた。スサノオにはじまる系譜も、出雲氏がつくったものではなく、朝廷の指導のもとに形づくられていったものである。としている。

【出雲神政国家連合】 一宮にみる日本海勢力図

弥生時代に繁栄を支えた潟湖

山陰地方の古代に繁栄したところは、潟湖や湾であること、温泉があることが多いことに関心を持っていた。元同志社大学教授の森浩一氏は、環日本海地方は「潟」を中心として古代文化が栄えた、という説を述べています。

恵美嘉樹氏『全国「一の宮」徹底ガイド』によると、
弥生時代に山陰地方は日本有数の豊かな地だった。それを経済的に支えたのが無数の潟湖だった。いまよりずっと温暖だった縄文時代に深い入り江だったこうした場所は、弥生時代になって気温が下がると海が引いていき、潟湖や自然の港になった。
武光誠氏『古代出雲王国の謎: 邪馬台国以前に存在した“巨大宗教国家”』には、
日本海航路が開けた理由は、次の二点に求められる。第一に日本海沿岸に、自然の地形のままで良港になる潟湖とよばれる砂州が多いことである。第二に対馬海流の存在である。

出雲周辺には、波根潟、神西湖、淀江潟の三つの潟湖がある。しかも、中海と宍道湖の中に安全な港がいくつもできる。そして神戸川、斐伊川、日野川をさかのぼることによって、出雲の海岸部と内陸部との交流がなされる(ちなみに斐伊川と日野川は「肥の川」であり、それは砂鉄が多いことを意味しているという)。
北九州の文化は、間をとばして真っ先に良港の多い出雲に入る。そして、東郷湖、湖山池と久美浜湾・浅茂川湖(離湖)・竹野湖の二か所の中継地を経て能登半島に達する。

(補足すれば、一宮との関連から、因幡と丹後の間の但馬は出石神社と円山川・津居山湾が、籠神社と宮津湾が、若狭彦神社と小浜湾、気比神宮と敦賀湾などもある。)
このような航路を通じて、出雲政権は越までの日本海沿岸をその指導下におくことになった。

航海技術の未発達な古代にあっては、海流に乗ることが効率よく船を進めることにつながった。日本海側の寒流であるリマン海流は海岸から遠いところを流れており、暖流である対馬海流は沿岸部にある。

そのため、日本海航路では南西から北東に行くのは容易であったが、北東から南西に進むのは手間がかかった。その結果、北九州から出雲に多くのものがもたらされ、されに対馬海流を利用して南方の文物も伝わった。

出雲に残る海蛇信仰は、南方の文化への憧れから来るものである。出雲大社には、神官が十月に、沖縄から対馬海流に乗ってきたセグロウミヘビを稲佐浜で捕らえて神前に奉る習慣が見られる。出雲の日御碕神社や佐太神社にも、セグロウミヘビを三方にのせて祀る神事が見られる。佐太神社では「あやしき光、海を照らす」という祝福を行う。

古くは出雲では海蛇だけでなく、南方から海路で伝わった異文化をすべて「あやしき光、海を照らす」と言って重んじた。美保神社には、島根半島に漂着した沖縄の漁具とフィリピンのくり船を収めた倉があるが、そこに「あやしき光、海を照らす」と書かれている。

海流を利用できる出雲には、海流のない瀬戸内海航路上にある吉備や大和より早く、北九州の先進文化が伝わったのだ、と記している。
弥生時代に山陰地方は日本有数の豊かな地だった。それを経済的に支えたのが無数の潟湖だった。いまよりずっと温暖だった縄文時代に深い入り江だったこうした場所は、弥生時代になって気温が下がると海が引いていき、潟湖や自然の港になった。

倭文神社の近くには、弥生人の脳がはじめて見つかった青谷上寺地遺跡がある。今でこそ平野になっているが、弥生時代には内陸まで海が入り込んだ良港だった。渡来人の技術者が様々な工芸品を作り出し、豊かな暮らしの村があったことが考古学の調査でわかっている。羽合温泉がある。

一宮(いちのみや)

一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。通常単に「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多い。準公的な一種の社格として機能した。一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼ぶ。
1.原則的に令制国1国あたり1社を建前にした。

2.祭神には国津神系統の神が多く、開拓神として土地と深いつながりを持っており、地元民衆の篤い崇敬対象の神社から選定されたことを予測できる。
3.全て『延喜式神名帳』の式内社の中から選定された1社であるが、必ずしも名神大社に限られていない。
必ずしも神位の高きによらないで、小社もこれに預かっている。

一宮の起源

江戸時代後期の国学者である伴信友は、天保8年(1837年)の著書 『神社思考』の中で、一宮を定めた事は信頼できる古書類には見えず、いつの時代に何の理由で定めたか詳しく分からないと前置きした上で次のように考察した。それによれば、『延喜式神名帳』が定められた後の時代に神祇官あるいは国司などより諸国の神社へ移送布告などを伝達する神社を予め各国に1社定め、国内諸社への伝達および諸社からの執達をその神社に行わせたのではないか。また、それらの神社は便宜にまかせ、あるいは時勢によるなどして定められた新式ではないか。以上のように考察しながらも、伴信友は自説に対して「なほよく尋考ふべし」と書き添えた。
現在、一宮の起源は国司が任国内の諸社に巡拝する順番にある、とするのが通説になっている。

一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼ぶ。
二宮、三宮の起源も国司の神拝順とする説があるが、『時範記』に国内をぐるりと一周してくる国司神拝順路が記述されている因幡国では二宮が不詳である。それとは逆に九宮まである上野国では、地図上で一宮から九宮までを順番に線で結ぶと同じ道を行ったり来たりすることになり、『一宮ノオト』では国司神拝の順路として変ではないかと指摘している。通説では11世紀~12世紀にかけて成立したとされる。

■山陰道

出雲国 「出雲大社」「熊野大社」
出雲大社 島根県出雲市 名神大 官大 勅祭社 別表 主祭神 大国主大神
社家 千家・北島両家
本殿様式:大社造

まず日本海国家連合体を語るなら、ここからはじめなければならない。出雲大社は平安時代の『口遊(ずさみ)』は、巨大な様を「雲太、和二、京三」と形容していた。出雲大社が一番大きく、大和の東大寺大仏殿が二番目、京都へ案教の大極殿が三番目だったと伝えている。さらに本殿の高さは十八丈(約48m)とも、三十二丈(約97m)ともいい、このような巨大建造物が平安時代、しかも出雲にあるはずがないといわれていた。ところが近年、本殿近くから巨大神殿の三本柱が見つかったことで証明されたのである。

出雲大社(杵築大社)は、古代の有力豪族は、おおむね一族の祖神を祀っている。ところが、出雲氏の祖神である「天穂日命」を重んじずに大国主の祭祀を職務とした。
別ページに書いているので、詳細は省くが、出雲の一宮はオオクニヌシの「国譲り」神話にあるように、オオクニヌシが出雲大社(杵築大社)へ鎮まることを約束して出雲は平定したと伝える。ではどこからなのか。それはもう一つの一宮・熊野大社からとなるだろう。

熊野大社 島根県松江市 名神大 国大 別表
主祭神 熊野大神櫛御気野命
本殿様式:大社造

全国に熊野神社は多く、紀伊国の熊野三山が有名だが、この熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。

『出雲国風土記』には熊野大社と記されていた。その後『延喜式神名帳』では熊野坐神社と記された。
祭神名は「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」とし、素戔嗚尊の別名であるとしている。「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」は「イザナギが可愛がる御子」の意、「加夫呂伎(かぶろぎ)」は「神聖な祖神」の意としている。「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたものであり、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」ということになる。「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である。
本来、櫛御気野命は素戔嗚尊とは無関係であったものとみられるが、『先代旧事本紀』「神代本紀」には「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、かなり古い時代から櫛御気野命が素戔嗚尊と同一視されるようになったと考えられる。明治に入り、本来の形に復するとして祭神名を「神祖熊野大神櫛御気野命」として素戔嗚尊の名を廃したが、後の神社明細帳では「須佐之男命、またの御名を神祖熊野大神櫛御気野命」となり、元に戻っている。

二宮 佐太神社 島根県松江市鹿島町 式内小社、国幣小社、別表
主祭神 正殿:佐太御子大神、北殿:天照大神、南殿:素盞嗚尊

石見国 「物部神社」

物部神社 島根県大田市 名神小社 国小 別表 主祭神 宇摩志麻遅命
社家 金子家
本殿様式:春日造変形
物部氏初代の宇摩志麻遅命を主祭神とし、相殿の右座に物部氏祖神で主祭神の父神である饒速日命と所有していた剣の霊神である布都霊神、左座に天御中主大神と天照皇大神、客座に別天津神と見られる五神と鎮魂八神を祀る。
宇摩志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えることから、当社の神紋は赤い太陽を背景に鶴の「日負い鶴」である。
社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて美濃国・越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年(514年)、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。
景行天皇の時代に物部竹子連が石見国造に任ぜられ、その子孫は川合長田公を名乗り代々祭祀を行っていたというが、文治4年(1184年)金子家忠が安濃郡の地頭として赴いたときに子の道美が取って代わって当社の神主となり、以降金子氏が代々の祭祀を行うようになったという。戦前に金子氏は出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。
石見銀山(大田市)に近い。石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山(火山)は、『出雲国風土記』が伝える「国引き神話」に登場する。 国引き神話では、三瓶山は鳥取県の大山とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされている。 『出雲国風土記』では、三瓶山は「佐比売山(さひめやま)」の名で記されている。

隠岐国 「水若酢神社」「由良比女神社」

水若酢神社 島根県隠岐郡隠岐の島町 名神 国中 別表
本殿様式:隠岐造茅葺
祭神 水若酢命
由良比女神社 島根県隠岐郡西ノ島町 名神 村社 主祭神 主祭神 由良比女命

名前に残る織物技術 伯耆一宮「倭文(しとり)神社」

倭文神社 鳥取県東伯郡湯梨浜町 名神小社 国小 別表
祭神 タケハズチ

安産の神として有名な倭文神社は、美しい東郷湖を見下ろす山の中にひっそりとある。
祭神のタケハズチは、古代にこの地方の主産業だった「倭文(しずおり)」という織物技術を持っていた一族の祖先神なのだが、むしろ妻の祭神シタテル姫の方が隅々まで浸透している。

伝承によれば、シタテル姫は出雲のオオクニヌシの娘で、海を伝ってこの地に嫁入りした(山陰海岸の孤立集落では、隣の集落から船で行き来することは、つい戦前まで続いていた)。助産婦のような技術を持った女性だったのだろう。そのまま定住して死ぬまで多くの子どもを取り上げた。地場産業の織物は消えて、安産の信仰だけが残ったという。

このことは、倭文の祭神が実は女神であるシタテル姫そのものだった可能性を示している。古代には男系継承だけでなく女系継承する豪族がいたことがわかっている。天皇家の祖先神・アマテラス(天照大神)が女神であったように、始祖が女性であるのは一般的なことだった。何より織物の技術を持つのは女性であることが多い。

二宮 大神山神社 主祭神 大己貴命 名神小社・伯耆国二宮・国幣小社・別表神社
(本社)鳥取県米子市尾高1025
(奥宮)鳥取県西伯郡大山町大山

蘇我氏を鎮める因幡一宮「宇部神社」

宇倍神社 鳥取県鳥取市国府町 名神大 国中 別表
タケノウチスクネ(武内宿祢)を祀る。
本殿様式:三間社流造檜皮吹

神功皇后は、夫の仲哀天皇の喪に服してから、タケノウチスクネを従え住吉の三神を守り神として新羅征伐に行った。この遠征の帰途に生まれたのが応神天皇だ。この苦難を乗り越えた母子をさせた、端午の節句「こどもの日」に掲げる幟には、応神天皇を抱くタケノウチスクネが描かれるのが定番である。それゆえに子どもを守る神でもある。上り昔の五円札には、タケノウチスクネの肖像画と宇部神社の本殿が描かれていたそうである。当時の五円札は家が建つほどの高額紙幣だった。ここから商売繁盛の神としての性格も加わるようになった。

山陰地方の東端である因幡にタケノウチスクネが祀られているのは、じつは大化改新で滅ぼされた蘇我氏の先祖がタケノウチスクネなのだ。蘇我氏が政治の表舞台で活躍するきっかけとなったのは、出雲を制圧した功績とも言われている。

山陰地方の中心には出雲があり、その東には因幡と伯耆が、反対の西には石見(島根県)がある。歴史・考古学的に見ると、どうやら六世紀ころに蘇我氏の勢力が東から、ライバルの物部氏が西から出雲をめざして争っていたことが読みとれる。それを裏付けるように、因幡一の宮の神は蘇我氏であり、一方の石見一の宮は「物部神社」なのである。こうしてみると大化改新の三年後に宇部神社が創建されたのも、蘇我氏を鎮魂するという深い理由がありそうだ。

二つの但馬国一宮 「出石(いずし)神社」「粟鹿(あわが)神社」

出石神社 兵庫県豊岡市出石町 名神大  国中 別表 主祭神 天日槍命(あめのひぼこのもこと)、出石八前大神
本殿様式:三間社流造
社家 長尾家

粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町 名神大  県社 本殿様式:流造
主祭神 彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)あるいは 日子坐王
但馬国一宮は出石神社と当社の二社とされる。粟鹿神社の近くに但馬最大の前方後円墳 池田古墳や円墳など大きな古墳が多い。鎌倉時代の但馬国大田文では当社を二宮としているが、室町時代の大日本国一宮記では当社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていない。出石を本拠とした応仁の乱西軍大将・山名宗全が関係しているのだろうか?)

三宮 水谷神社/養父神社

天皇家よりも古い系図国宝「海部系図」の丹後国 
「元伊勢 籠(この)神社」

丹後国一宮 籠神社 京都府宮津市 名神大 国中 別表 本殿様式:神明造
主祭神 彦火明命(ほあかりのみこと)
社家 海部家

彦火明命(ひこほあかりのみこと、別名:天火明命、天照御魂神、天照国照彦火明命、饒速日命)を主祭神とし、豊受大神(とようけのおおかみ、別名:御饌津神)、天照大神(あまてらすおおかみ)、海神(わたつみのかみ)、天水分神(あめのみくまりのかみ)を相殿に祀る。
祭神には諸説あり、『丹後国式社證実考』などでは伊弉諾尊(いざなぎ)としている。これは、伊弉諾尊が天に登るための梯子が倒れて天橋立になったという伝承があるためである。

社伝によれば、元々真名井原の地(現在の境外摂社・奥宮真名井神社)に豊受大神が鎮座し、匏宮(よさのみや、与佐宮とも)と称されていた。『神道五部書』の一つの「豊受大神御鎮座本紀」によれば、崇神天皇の時代、天照大神が大和笠縫邑から与佐宮(当社と比定)に移り、豊受大神から御饌物を受けていた。4年後、天照大神は伊勢へ移り、後に豊受大神も伊勢神宮へ移った。これによって、当社を「元伊勢」という。したがって、天皇家の菊の御紋が掲げられているのは、山陰では出雲大社と当神社。

二宮 大宮売神社 名神大 府社 京都府京丹後市大宮町
日本海側の丹後国は丹波国の中心であったが、のち丹波国は丹波国・但馬国・丹後国に分立
■北陸道
若狭国 若狭彦神社 福井県小浜市 上社 名神大  国中 別表 本殿様式:三間社流造
二宮 下社 若狭姫神社 名神大 本殿様式:三間社流造
主祭神 (若狭彦神社)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
(若狭姫神社)豊玉姫命(トヨタマヒメノモコト)
越前国 氣比神宮 福井県敦賀市 名神大 官大 別表 主祭神 伊奢沙別命(気比大神)  二宮 劔神社
加賀国 白山比咩神社 石川県白山市 名神小社 国中 別表 主祭神 白山比咩大神(白山比咩神)
伊邪那岐尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ) 二宮 菅生石部神社
能登国 気多大社 石川県羽咋市 名神大 国大 単立 主祭神 大己貴命
二宮 伊須流岐比古神社/天日陰比咩神社
越前国から、のちの加賀国、能登国は分立
引用:恵美嘉樹氏『全国「一の宮」徹底ガイド』、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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【出雲神政国家連合】 山陰の弥生時代を塗り替えた鳥取県の歴史

『「出雲抹殺」の謎』関裕二氏

近年、考古学史上の最大級の発見が相次いだ。吉野ヶ里遺跡(佐賀県)や三内丸山遺跡(青森県)などがよく知られている。だが、日本海側の出雲では西谷古墳群についで、荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡などの大発見は、古代出雲王国が実在した可能性を浴びているが、鳥取県でも二つの遺跡、青谷上寺地遺跡(鳥取市青谷町青谷)と妻木晩田遺跡(米子市淀江町・大山町)の発見も同等かあるいはそれ以上の意味を持っている。

二つの遺跡は、これまでの古代史観を根底から覆すほどの意味を持っていた。二つの遺跡共に日本海に面し、天然の良港を持ち、朝鮮半島から出雲、そして越へという流通の要にあったこと、邪馬台国や大和建国の直前、弥生時代後期に繁栄を誇っていたことである。これらの遺跡は、弥生後期の山陰地方の交流が、「出雲」という点から、日本海づたいに「線」でつながっていたことを今に伝えている。

さらには、青谷上寺地遺跡から大量の傷ついた遺骸(殺傷人骨)が出土し、しかもこれが、『魏志』倭人伝などに記される「倭国乱」の時代にあたることがわかった。つまり、鳥取県周辺で何かしらの争乱が起きていた可能性が出てきたのである。
鳥取県は、これまで古代史の空白地帯といっても過言ではなかった。

大仙の麓に位置する妻木晩田遺跡はとにかく広大である。邪馬台国ではないかと一時騒がれた佐賀県の環濠集落・吉野ヶ里遺跡の1.3倍という日本最大の弥生集落である。標高100~150mの丘陵地帯全体に、ありとあらゆる遺跡が散らばっている。眼下には、かつて日本海から潟が入り込んだ地形が広がっていた。つまりこの地も、交易を主体とした可能性が強いのである。そして妻木晩田遺跡でも青谷上寺地遺跡同様、200点以上という大量の鉄器が発見されている。

鉄器は農具や工具が中心で、朝鮮半島や北部九州のものや、この地でつくられたものが混じっていた。これほどの鉄器を保有し生産していた地域は、この当時、北部九州を除いて考えられず、山陰地方の特殊性を明らかにする遺跡となったのである。

島根県の西谷墳墓群、そして鳥取県の両遺跡の出現は、ひとつの事実を示している。三つの遺跡が、これまで「なにもない」と信じ込まれてきた出雲やその周辺の地域から出てきたこと、そして繁栄の時期が弥生後期の「倭国乱」の時代と重なっていたことである。

大和建国の前夜、「出雲」は、たしかに「そこにあった」のであり、記紀神話を単純な絵空事と切り捨てるのではなく、その裏に、何かしらの史実が隠されていたのではないかという好奇心を、もう一度もつ必要があるということである。

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但馬に式内社が異常に多い謎は日本海の防衛基地だった

式内社(延喜式神名帳記載の神社)が多い但馬で触れたように、但馬国は式内社の数が、畿内ではないし、他の旧国と比べて決して面積的にみても特別大きいといえないにも関わらず、式内社の数が大和・伊勢・出雲や近江に次いで、131座で全国で5番めと異常に多いのである。

さて、なぜ延喜式神名帳が重要なのか。「式」とは、天皇の命により編纂された格式(律令の施行細則)で、弘仁式は、701年(大宝元年)から819年(弘仁10年)、次の貞観式は871年(貞観13)完成。そして延喜式は、平安時代中期の905年(延喜5年)に編纂され、三代格式の一つである。三代格式のうちほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけであり、かつ細かな事柄まで規定されていることから、古代史の研究では重要な文献となっている。つまり、延喜式の前の二つの格式を引き継いでさらに改編していると考えられるから、八世紀(奈良期)の神社の位置づけが判る。

式内社は当時朝廷が認定した官社・国社で、日本の律令制下において、地方の要として重要視された神社であることを示している。但馬国は131座(名神大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも名神大社の位の神社数は大和に次いで多い。名神(みょうじん)大社というのは、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。名神は神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神に対する称号で、名神祭(みょうじんさい)は国家的事変が起こり、またはその発生が予想される際に、その解決を祈願するための臨時の国家祭祀である。

旧丹波として丹波・丹後を合わせると267座・大30座。
大和國:286座 大128 小158
伊勢國:253座 大14 小235
出雲國:187座 大2 小185
近江國:155座 大13 小142
但馬國:131座 大18 小113
越前國:126座 大8 小118
このことが朝廷から見て消し去ることのできない重要な場所であったのではないかと思えるのだ。それは関裕二氏の神と鬼から、天皇家が神であり、多くの豪族を鬼として抹殺した祟りを恐れていたことに他ならないのではないだろうか。
しかも但馬国は近隣で比べてみても、
但馬國:131座 大18 小113
丹波國:71座 大5 小66
丹後國:65座 大7 小58
若狭國:42座 大3 小14
因幡國:50座 大1 小49
播磨國:50座 大7 小43
となっていて異常な数なのだ。
但馬が決して大和や出雲に比べて華やかな歴史が残っているわけではないのに、全国で5位、近隣を遙かに引き離していることがわかった。平安京の近くばかりと思わなくもないが、22年の歳月を掛けて全国の神社を調べている。しかも延喜式は三大格式の初期から260年も経て編纂されたのが三代格式で、その最後のものが延喜式であり、唯一ほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけである。
それは大和朝廷が確立したころは、その勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。ただし、古くは丹後國、但馬国もかつての丹波国の一部ですから、旧丹波国を合わせると267座は、大和に次ぐ全国2位なのだ。
ここではヤマト朝廷成立以前にすでに存在していた古い自然神・出雲系などの神社を、どうしても無視できなかったのではないか、大和・伊勢は天皇家の本拠であり当然だろうけれども、その他の但馬、丹後、越前、近江などは出雲系神社が多い。しかもそれは神功皇后と天日槍=ツヌガアラシトにゆかりがある国ばかりである。
記紀は、天日槍の末裔とされる神功皇后から、実際の初代大王とされる崇神天皇、その子の垂仁天皇の時代になると但馬や丹後の記載が圧倒的に多くなる。
武光誠氏は、日本固有の信仰は、精霊信仰、祖霊信仰、首長霊信仰の三層から成ると述べた。
但馬国も縄文時代のから弥生、そして天皇家のヤマト朝廷になって以降の三段階があるとする。
まず精霊信仰である神奈備(神鍋山)の自然神が祀られている神名大社は気多郡四社と城崎に海神社一社
次の時代の祖霊信仰である物部系出雲系神社が先であり一宮が二つあるが、粟鹿神社が先にあった。
だとすると、天日槍の出石神社は、天皇家の首長霊信仰となる。

縄文時代-精霊信仰

死火山神鍋山を神奈備とする自然神が祀られている神名大社は、気多郡(日高町)四社「山神社」「雷神社」薬の神「椒神社」火之神「戸神社」と城崎(豊岡市港地区)に「海神社」一社。

弥生時代-祖霊信仰

・弥生時代 出雲神政国家連合
秦漢から半島や北部九州に渡来人が移住してきて、稲作と青銅器、祖神を祀る人間神信仰をもたらした。
縄文人と渡来人は融和しながら弥生人が形成される。
ニギハヤヒ、オオナムチなど出雲系・物部系が日本海や朝鮮半島との交易と越(北陸)までに住み着いていった。
古社である粟鹿(日下部)、養父、小田井神社は、沼地だった但馬を開削したとしている。

ヤマト王権時代-兵主信仰

ヤマト政権が誕生する有史以前に、出雲系物部一族の吉備・山陰・丹後・若狭・北陸の出雲神政国家連合の祖、ニギハヤヒが大和に東征した。一族は纏向宮を建て諸国は連合体の日本を建国した。
但馬及び丹後が重要なポジションに位置していたのではないか。ヤマトに穴師兵主神社を建て、天日槍を祀る出石神社、崇神・垂仁両天皇との関わりが濃密になっていたことが『日本書紀』の記述から伺えます。
記紀では但馬を開削したのは天日槍となった。銅鐸は埋められ粉々にして放棄された。気比銅鐸、久田谷銅鐸片
ヒボコ系神社や兵主神社が但馬に集中して造られた。
天日槍系および兵主神社はすべて式内社であるから、延喜式以前には古社として確固たる神社であったことは間違いない。各郡に1社という割で、交通の要所に均等に配置されたのではないだろうか。

大和朝廷国家統一-丹後籠神社が元伊勢へ 伊勢神宮遷宮

丹波國から但馬國が分立。それは、朝鮮半島との玄関口が、都に近い但馬に移り、また出雲神政国家連合勢力への抑えから大和の都に近い但馬・丹後に必然的に要衝として重要視されていたからではないか。
但馬国造に日下部氏、社家に長尾市、丹後国造と社家に海部氏 ?
大宝律令発せられる。
丹波國から丹後國分立。
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1. 渡来人は日本を征服したのか?

天孫降臨の謎: 『日本書紀』が封印した真実の歴史 著者: 関裕二

めざましい科学の進歩によって、現代の日本列島の住民の遺伝子のなかに、想像以上に渡来系の血が混じっていることが徐々に明らかにされている。その比率は、縄文人を1とすると、弥生時代以降に渡来した人たちは2~3に上っていたと考えれている。この数字を見れば、渡来人が先住民を圧倒したと考えるのは当然である。

そして第二に、『古事記』や『日本書紀』に記された天孫降臨神話が、大きな意味を持っているように思われる。天孫降臨からカムヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦=神武天皇)の東征というヤマト建国に至る神話は、まさに、「海外からの侵略」を想像させるからである。

ところで、小山修三氏は遺跡の数などから先史時代の人口を試算し、縄文後期の日本列島全体の縄文人が16万3百であり、晩期に75,800に激減したこと、しかも弥生時代になると59万4900と爆発的に増加したことを指摘している。このこともあって、渡来人が土着の縄文人を駆逐したと信じられてきたわけである。
たしかに、単純にこの数字を追っていけば、縄文人は弥生時代の到来とともに、「滅亡」に近いほどの打撃を受けたかのように思えてくる。それを征服と呼ぶのも間違っていないかのようだ。しかし、ここには落とし穴があると思われる。

はたして渡来人は日本を征服したのか?

縄文晩期から弥生時代にかけて、縄文人と渡来人の接点では、しばしば縄文人による呪術的な土器が生産されている。魔よけのまじないをしていたようだ。では、彼らは何を恐れていたのだろう。

渡来人が恐ろしかったことが一つ考えられる。それは、渡来人の武力に対する恐怖だったのだろうか。しかし、武力には目に見える恐ろしさである。それには矢じりなどを作れば良かったはずである。縄文人が恐れたのは、目に見えない「なにか」であり、その正体は「病魔」ではなかろうか。

島国のなかで無菌状態のなかにあった縄文社会に、突如新たな病原菌やウイルスが持ち込まれ、抵抗力のない人々が次々に倒れていった……それが縄文晩期から弥生初期の日本列島の姿ではなかったか。
古代人は悪霊が病気を運んでくると信じていた。渡来人の到来とともに、病魔が襲ってきたのである。縄文人たちは必至に悪霊を退散させようと呪術を施したに違いないのである。ただ、病原菌やウイルスは宿主を全滅させることはない。病魔に屈しなかった人々は、ここから活発に動き出し、人口はふたたび回復基調に戻るのである。また、縄文後期の日本列島は寒冷化の時期に当たり、食糧不足も手伝っていたであろう。これに対し、弥生時代の日本列島は温暖な気候に恵まれていたのである。

崎山理氏は、縄文人といっても単一の民族ではなく、北方系のツングース語に、南方系のオーストロネシア語が日本列島のなかで重なって「縄文語」が成立し、これが日本語になった、というのである。縄文期と弥生期の遺伝子の比率を見れば、渡来人の圧倒的な優位を想像しがちだが、渡来人たちは徐々に同化していったのであり、だからこそ、縄文人のつくり上げた「日本語」は、今日に継承されていったと考えられるわけである。
『日本書紀』のなかで「神武東征」と華々しく描かれたヤマト建国も、実際には征服劇ではなかったことは、考古学的にほぼ立証されている。ヤマトは、ひとりの独裁者の征服劇によって成立したのではなく、いくつもの首長層の緩やかな連合体であった可能性は高くなる一方なのだ。

三世紀のヤマトには、前代未聞の政治と宗教の都市・纏向(まきむく)も前方後円墳も、どちらも吉備、出雲、北部九州、ヤマトという当時の巨大化した勢力圏のそれぞれの文化を持ち寄った代物だった可能性が高く、そのなかで吉備が優位性を保っていたようだが、唯一突出した存在というものがなかった。したがって、三世紀のヤマトの「大王」は、征服者でも独裁王でもなかったと考えられるようになったのである。
今だに指示されている王朝交替説は、五世紀頃、ヤマトから河内(大阪府)方面に王朝が移ったことが根拠のひとつにあげられている。三世紀の時点でヤマトが都に選ばれたのは、ヤマトが大阪方面を望む盆地で、天然の要害だったからである。河内の利点は、古代の交通の要衝・瀬戸内海に接し、流通と情報収集の拠点として最適だった、ということになろう。だからこそ、ヤマトから河内の都を遷すことに大きな意味があった。
もし仮に、多くの人が信じるように、五世紀に「河内王朝」が武力をもって「ヤマト王朝」を倒したのだとすれば、新たな政権は、都を河内に移すようなことはしなかっただろう。旧政権の遺民がヤマトで反旗ののろしを上げれば、河内王朝は太刀打ちできなかったはずである。それほど、ヤマトは西からの攻撃に強いのである。河内への王朝の移動は、「新王朝樹立の証」ではなく、ヤマト王朝の安定と発展の証に過ぎないのである。
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