たじまる あめのひぼこ 3 気多に落ちた黒葛

塗り替えられた気多の歴史

旧気多郡 「日高町史」

拙者が生まれた旧日高町は、古くはほぼ気多(ケタ)郡全域だった。その後周辺の城崎郡と美含郡との合併で城崎郡となる。平成に豊岡市と周辺の香住町を除く城崎郡・出石郡が合併し豊岡市となる。もうすでに市町村合併によって気多郡も城崎郡も消滅したが、ところで、気多ってどういう意味なんだろう?というのがそもそも郷土の歴史を知りたいきっかけだった。

播磨風土記でも天日槍と伊和大神との争いに気多郡が登場する。

1.気多という地名

日本に初めて伝わった文字が漢字であり、気多という地名は、漢字にはない訓読みを表すために、万葉仮名という漢字をヨミガナに充てたものが、もちにカタカナやひらがなに発展する。つまり、漢字が伝わる以前から“ケタ”という地名はおそらく口頭ではあったのであって、気多という漢字にあまりこだわる意味はないかも知れない。

万葉仮名として日本語の訓読みに使用された漢字は一種類ではなく数種類ある。「ケ」では発音で“e”(エ段甲類)と“ae”(エ段乙類)の発音があった。「気」はそのエ段乙類に分類されるので当時のケタの発音は、カとケの中間の“k-ae ta”だったようだ。カタカナの「ケ」は「気」を崩したカナ、「タ」は「多」を崩してできたカタカナなので、万葉仮名の漢字としてそれぞれ最もポピュラーな漢字である。

奈良時代初期の和銅6年(713年)に、「畿内七道諸国郡郷着好字」(国・郡・郷の名称をよい漢字で表記せよ)という勅令が発せられている。(「好字令」という)これには2字とは記されていないが、この頃から一斉に地名が2字化したことがわかっている。により、ケタにも漢字が充てられた。地名のほとんどやその住む土地の名から派生した苗字が漢字2文字なのはこの名残りである。

したがって、漢字が伝わる弥生時代以前からケタという地名はあっただろうし、「和妙抄」の中でも例えばタヂマは多遅麻など、地名や人名を表すのに様々な漢字が使用されていることからも、漢字の意味にばかりこだわるというのは、そもそも漢字以前に「ケタ」はあり、漢字はあとからなので狭い解釈だと思えるが、カタカナのもとになったことでも分かる通り、最も一般的な気と多が用いられたことになる。好字を当てたという意味で掘り下げてみると、本来の漢字の意味は、気多の「気」とは、正字は「氣」で、中国思想および中医学(漢方医学)の用語でもある。目に見えないが作用をおこし、気は凝固して可視的な物質となり、万物を構成する要素ともなるものをさす。本来は、中国哲学の意味だが、日本では「元気」などの生命力、勢いの意味と、気分・意思の用法と、場の状況・雰囲気の意味の用法など、総じて精神面に関する用法が主であり、「病は気から」の「気」は、日本ではよく、「元気」「気分」などの意味に誤解されているそうである。

『国司文書 但馬故事記』第一巻・気多郡故事記には、第1代神武天皇の頃はケタは佐々前県で、人皇8代孝元天皇32年、櫛磐竜命をもって佐々前県主と為す。
当県の西北に気吹戸主命の釜あり。常に物の気を噴く。故にその地を名づけて、気立原という。その釜は神鍋山という。
よって、佐々前県を改めて気立県という。

これは、「ケタツ・ケダツ」と読みのではなく、最初から「ケタ、またはケタッ」だと思う。

縄文人と同じルーツを持つとされる南方系で、ニュージーランドの先住民族マオリ族のマオリ語の 「ケ・タ」、KE-TA(ke=different,strange;ta=dash,lay)、「変わった(地形の)場所がある(地域)」 の転訛と解しておられる。
あながち、ハワイなどの地名をみても、日本語に近い発音であるし、なるほどと思った。
旧石器から縄文にここへやってきた先住民が、噴火口のぽっかり開いた神鍋山(かんなべやま)などの火山群を見つけ、びっくりし「ケ・タ」と呼んだのではないか、と冗談ともいえない想像もできる。

但馬で最も古く人が住み着いた形跡が残る新温泉町畑ヶ平遺跡、鉢伏山家野遺跡(養父市別宮字家野)、そして神鍋遺跡、この中国山地でつながる標高の高いエリアは、無理やり漢字を充てはめたかのような難解な地名が多い。神鍋周辺でも、名色ナシキ万場マンバ万却マンゴウ稲葉イナンバなど、まず一発で読めない。

「気多」という地名があるのは、意外に多く、遠江国(静岡県西部)山香郡気多郷、丹後国(京都府北部)加佐郡に気多保、因幡国(鳥取県東部)にもかつて気多郡があった。

明治29年(1896)、鳥取県の旧気多郡は高草郡と合併して、気高郡となった(現在は鳥取市)。伝説で有名な因幡の白兎は、この高草郡に関係がある説話で、「この島より気多の崎という所まで、鰐(ワニ=サメのこと)を集めよ」といい、兎が隠岐から戻る話です。気多の島という名は、『出雲風土記』の出雲郡の条にも出てきます。奇しくもわが兵庫県気多郡も城崎郡と合併し明治23年(1890)に消滅しています(現在は豊岡市)。気多神社にある「鰐口(わにぐち)」も因幡白兎に関係あるのでしょうか。

気多神社は、石川県羽咋市に能登国一宮、旧国幣大社で、同じ「大己貴命(オオナムチノニコト)」を祭神とする気多大社など北陸にたくさんあります。気多大社の社伝によれば、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされます。崇神天皇のときに社殿が造営されました。奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持が参詣したときの歌が載っています。グーグル検索してみると、字名で、岐阜県飛騨市古川町上気多(飛騨国)、福島県河沼郡会津坂下町気多宮字宮ノ内(上野国)がありました。それぞれ気多若宮神社、坂下町は地名の通り気多神社(宮)で神社があります。

大己貴命と大国主(オオクニヌシ)は同一神で、全国の出雲神社で祀られています。

また、三重県に多気郡多気町丹生があります。関係が全くないとも思えないのが、丹生(にゅう)です。日高町には祢布(にょう)があり、日高町で最初に発掘調査が行われた場所で、古く縄文期から人が住んでいたところです。また、第二次但馬国府が置かれた場所だと確定されています。

人名では、奈良時代末期から平安時代初期にかけて、気多君の名が出ています。

「気多の名前が分布しているのは、出雲、因幡、但馬、能登と太平洋側の遠江の五ヶ所に限られる。但馬の気多神社も、祭神は出雲国と濃い関係にある大己貴命(おおなむちのみこと)だというから、気多という名を負う気多氏は、出雲の国から起こって、その一族の播居地に、気多という名前を残していたとも考えられはしないだろうか。」

と日高町史は記しています。

さて、前出の『播磨風土記』では「アメノヒボコ(天日槍)とアシハラシコオ(葦原志許乎命・大己貴神の別称)との争いで、葦原志許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に付けて投げた。葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡、1本は夜夫郡(養父郡)、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)」と称されるという。一方、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のものとしたという。また別伝として、大神が形見に御杖を村に立てたので「御形(みかた)」と称されるともいう。

ヒボコは出石を選び、アシハラシコオは気多を選んだ。それは鉄の産地争いではないかともいわれている。

たじまる あめのひぼこ 2

天日槍と伊和大神の国争い

概 要

『播磨国風土記』[*1]には伊和大神(いわのおおかみ)とヒボコとの争いが語られています。結果としては住み分けをしたことになり、ヒボコは但馬の伊都志(出石)の地に落ち着いたことが語られています。 ヒボコは海水を攪きて宿ったとある宇頭の川底とは、「宇須伎津の西の方に紋水の淵あり。」とされ、姫路市網干の魚吹八幡神社(うすき)が遺称地です。

ヒボコと伊和大神の国争い


写真左から銅剣・銅鐸・銅矛複製 荒神谷博物館

ヒボコは宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て、国の主の葦原志挙乎命(アシハラシノミコト)に土地を求めたが、海上しか許されなかった。
ヒボコは剣でこれをかき回して宿った。
葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべく粒丘(いいぼのおか)に上がった。
葦原志挙乎命(アシハラシノミコト)とヒボコが志爾蒿(シニダケ=藤無山)[*6]に到り、各々が三条の黒葛を足に着けて投げた。

その時葦原志挙乎命の黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条(ミカタ)と云う。

ヒボコの黒葛は全て但馬の国に落ちた。それで但馬の伊都志(出石)の地を占領した。
神前郡多駝里粳岡は伊和大神とヒボコ命の二柱の神が各々軍を組織して、たがいに戦った。その時大神の軍は集まって稲をついた。その粳が集まって丘とな った。

アメノヒボコは、とおいとおい昔、新羅(しらぎ)という国からわたって来ました。

日本に着いたアメノヒボコは、難波(なにわ=現在の大阪)に入ろうとしましたが、そこにいた神々が、どうしても許してくれません。
そこでアメノヒボコは、住むところをさがして播磨国(はりまのくに)にやって来たのです。
播磨国へやって来たアメノヒボコは、住む場所をさがしましたが、そのころ播磨国にいた伊和大神(いわのおおかみ)という神様は、とつぜん異国の人がやって来たものですから、
「ここはわたしの国ですから、よそへいってください」
と断りました。

ところがアメノヒボコは、剣で海の水をかき回して大きなうずをつくり、そこへ船をならべて一夜を過ごし、立ち去る気配がありません。その勢いに、伊和大神はおどろきました。

「これはぐずぐずしていたら、国を取られてしまう。はやく土地をおさえてしまおう。」

大神は、大急ぎで川をさかのぼって行きました。そのとちゅう、ある丘の上で食事をしたのですが、あわてていたので、ごはん粒をたくさんこぼしてしまいました。そこで、その丘を粒丘(いいぼのおか)と呼ぶようになったのが、現在の揖保(いぼ)という地名のはじまりです。

一方のアメノヒボコも、大神と同じように川をさかのぼって行きました。
二人は、現在の宍粟市(しそうし)あたりで山や谷を取り合ったので、このあたりの谷は、ずいぶん曲がってしまったそうです。さらに二人は神前郡多駝里粳岡(福崎町)のあたりでも、軍勢を出して戦ったといいます。
二人の争いは、なかなか勝負がつきませんでした。
「このままではまわりの者が困るだけだ。」
そこで二人は、こんなふうに話し合いました。
「高い山の上から三本ずつ黒葛(くろかずら)を投げて、落ちた場所をそれぞれがおさめる国にしようじゃないか。」

二人はさっそく、但馬国(たじまのくに)と播磨国の境にある藤無山(ふじなしやま)[*6]という山のてっぺんにのぼりました。そこでおたがいに、三本ずつ黒葛を取りました。それを足に乗せて飛ばすのです。
二人は、黒葛を足の上に乗せると、えいっとばかりに足をふりました。
「さて、黒葛はどこまで飛んだか。」と確かめてみると、
「おう、私のは三本とも出石(いずし)に落ちている。」とアメノヒボコがさけびました。
「わしの黒葛は、ひとつは気多郡(けたぐん)、ひとつは夜夫郡(やぶぐん)に落ちているが、あとのひとつは宍粟郡に落ちた。」
伊和大神がさがしていると、「やあ、あんな所に落ちている。」とアメノヒボコが指さしました。
黒葛は反対側、播磨国の宍粟郡(しそうぐん)に落ちていたのです。
アメノヒボコの黒葛がたくさん但馬に落ちていたので、アメノヒボコは但馬国を、伊和大神は播磨国をおさめることにして、二人は別れてゆきました。
ある本では、二人とも本当は藤のつるがほしかったのですが、一本も見つからなかったので、この山が藤無山と呼ばれるようになったと伝えられています。

その後アメノヒボコは但馬国で、伊和大神は播磨国で、それぞれに国造りをしました。アメノヒボコは、亡くなると神様として祭られました。それが現在の出石神社のはじまりだということです。


  • *6志爾蒿(シニダケ=藤無山・ふじなしやま)宍粟市と養父市の播・但国境にあるある山。標高は1139.2m。若杉峠の東にある、大屋スキー場から尾根筋に登るルートが比較的平易だが、ルートによっては難路も多い、熟達者向きの山であります。尾根筋付近は植林地となっています。[*6]扶余…紀元前三世紀から現在の中国吉林市付近にあった最も早くからあった国家。五世紀末に高句麗に降伏して滅亡。[*7]『三国史記』…高麗の編纂した高句麗・百済・新羅の史書。1145年に成立。朝鮮における現存最古の体系的な史書。
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たじまる あめのひぼこ 1

天日槍(あめのひぼこ)

縄文時代の豊岡盆地 Mutsu Nakanishi さんよりお借りしました
縄文時代の豊岡盆地 Mutsu Nakanishi さんより

天日槍(あめのひぼこ、以下ヒボコ)は、但馬国一の宮・出石神社のご祭神です。
「出石神社」(いずしじんじゃ)のご祭神で、『播磨国風土記』、日本の正史『古事記』『日本書紀』(記紀)の日本神話に登場する古代史上の人物です。『天之日矛』とも書きます。 朝鮮半島から日本に渡来した新羅の人々が信仰した神様だと伝えられています。

ヒボコは、出石神社由緒略記には、その当時「黄沼前海(きぬさきうみ)」という入江湖だった円山川河口の瀬戸の岩戸を切り開いて干拓し、耕地にしたと記されています。列島は海面が今より3~5メートル高かったとされ、縄文時代前期の約6,000年前にピークを迎えたとされています。豊岡盆地中央部は、入江湖や湿地帯であったとされています。矛(ほこ)とは、槍(やり)や薙刀(なぎなた)の前身となった長柄武器で、やや幅広で両刃の剣状の穂先をもちます。日本と中国において矛と槍の区別が見られ、他の地域では槍の一形態として扱われています。日本では鉾や桙の字も使用されます。

この場合の矛は、武器というよりも、銅鐸と同じく太陽神を奉祀する呪具としての性格が強いようです。

『日本書紀』では、以下のように記しています。

日本書紀垂仁天皇三年の条

《垂仁天皇三年(甲午前二七)三月》三年春三月。新羅王子日槍来帰焉。将来物。羽太玉一箇。足高玉一箇。鵜鹿鹿赤石玉一箇。出石小刀一口。出石桙一枝。日鏡一面。熊神籬一具。并七物。則蔵于但馬国。常為神物也。

〈 一云。初日槍。乗艇泊于播磨国。在於完粟邑。時天皇遣三輪君祖大友主与倭直祖長尾市於播磨。而問日槍曰。汝也誰人。且何国人也。日槍対曰。僕新羅国主之子也。然聞日本国有聖皇。則以己国授弟知古而化帰之。仍貢献物葉細珠。足高珠。鵜鹿鹿赤石珠。出石刀子。出石槍。日鏡。熊神籬。胆狭浅大刀。并八物。仍詔日槍曰。播磨国宍粟邑。淡路嶋出浅邑。是二邑。汝任意居之。時ヒボコ啓之曰。臣将住処。若垂天恩。聴臣情願地者。臣親歴視諸国。則合于臣心欲被給。乃聴之。於是。日槍自菟道河泝之。北入近江国吾名邑、而暫住。復更自近江。経若狭国、西到但馬国、則定住処也。是以近江国鏡谷陶人。則日槍之従人也。故ヒボコ娶但馬国出嶋人。太耳女。麻多烏。生但馬諸助也。諸助生但馬日楢杵。日楢杵生清彦。清彦生田道間守也。 〉

垂仁天皇3年(紀元前31年)春3月、新羅の王の子であるヒボコが謁見してきた。
持参してきた物は羽太(はふと)の玉を一つ、足高(あしたか)の玉を一つ、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉を一つ、出石(いずし)の小刀を一つ、出石の桙(ほこ)を一つ、日鏡(ひかがみ)を一つ、熊の神籬(ひもろぎ)を一揃えの合わせて七点だった。それを但馬の国に納めて神宝とした。

一説によると、ヒボコの噂を聞いた天皇は、初めは、播磨国宍粟邑と淡路の出浅邑を与えようとしたが、三輪君の祖先にあたる大友主と、倭直(やまとのあたい)の祖先にあたる長尾市(ながおち)を遣わした。大友主が「お前は誰か。何処から来たのか。」と訪ねると、ヒボコは「私は新羅の王の子で天日槍と申します。「この国に聖王がおられると聞いて自分の国を弟の知古(ちこ)に譲ってやって来ました。」

そして持参した物は葉細(はほそ)の玉、足高の玉、鵜鹿鹿の赤石の玉、出石の刀子(かたな)、出石の槍、日の鏡、熊の神籬(ひもろぎ)胆狭浅(いささ)の太刀合わせて八種類[*2]だった。

天皇はこれを受けて言った。「播磨国穴栗村(しそうむら)[*3]か淡路島の出浅邑 (いでさのむら)[*4]に気の向くままにおっても良い」とされた。「おそれながら、私の住むところはお許し願えるなら、自ら諸国を巡り歩いて私の心に適した所を選ばせて下さい。」と願い、天皇はこれを許した。ヒボコは宇治川を遡り、北に入り、近江国の吾名邑、若狭国を経て但馬国に住処を定めた。近江国の鏡邑(かがみむら)の谷の陶人(すえひと)は、ヒボコに従った。

但馬国の出嶋(イズシ・出石)[*5]の人、太耳の娘で麻多烏(あたお)を娶り、但馬諸助(もろすく)をもうけた。諸助は但馬日楢杵(ひならき)を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。また清彦は田道間守(たじまもり)を生んだという。

2.阿加流比売神(アカルヒメノカミ)

阿加流比売神は、『古事記』では、以下のように記しています。

古事記
「昔、新羅の阿具奴摩、阿具沼(アグヌマ:大韓民国慶州市)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。

ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、ヒボコと出会った。天日槍は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。」ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国である倭国(日本)に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾(ヒメコソ)神社[*6]に逃げた。ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見(マエツミ)と結婚した。

『摂津国風土記』逸文にも阿加流比売神と思われる神についての記述があります。

応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比の比売島」に住んでいた。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島(ヒメジマ)」と名附けた。

『日本書紀』では、アメノヒボコの渡来前に意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が渡来し、この説話の前半部分、阿加流比売神が日本に渡りそれを追いかける部分の主人公。都怒我阿羅斯等は3年後に帰国したとされています。


[註]
  • http://kojiyama.net/history/history/?p=119111 神籬(ひもろぎ)とはもともと神が天から降るために設けた神聖な場所のことを指し、古くは神霊が宿るとされる山、森、樹木、岩などの周囲に常磐木(トキワギ)を植えてその中を神聖な空間としたものです。周囲に樹木を植えてその中に神が鎮座する神社も一種の神籬です。そのミニチュア版ともいえるのが神宝の神籬で、こういった神が宿る場所を輿とか台座とかそういったものとして持ち歩いたのではないでしょうか。
  • *2 八種類 『古事記』によれば珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種。これらは現在、兵庫県豊岡市出石町の出石神社にヒボコとともに祀られています。いずれも海上の波風を鎮める呪具であり、海人族が信仰していた海の神の信仰とヒボコの信仰が結びついたものと考えられます。
    「比礼」というのは薄い肩掛け布のことで、現在でいうショールのことです。古代ではこれを振ると呪力を発し災いを除くと信じられていた。もう一度これら宝物の名前をよく見ていただけるとわかりやすいが、四種の比礼は総じて風を鎮め、波を鎮めるといった役割をもったものであり、海と関わりの深いものです。波風を支配し、航海や漁業の安全を司る神霊を祀る呪具といえるだろう。こういった点から、ヒボコ神は海とも関係が深いといわれています。
  • *3 穴栗邑…兵庫県宍粟市
  • *4 出浅邑 (いでさのむら) 「ヒボコは宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て…剣でこれをかき回して宿った。」とあるので、淡路島南部 鳴門の渦潮付近か?
  • *5 出嶋(イズシマ)…兵庫県豊岡市出石。イズシマから訛ってイズシになったのかも知れない。
    [*6]…比売碁曾(ヒメコソ)神社(祭神:下照比賣命(シタテルヒメ)=(阿加流比売神(アカルヒメ)、大阪市東成区

    3.但馬の地元に伝わる民話

    少し長いですが、但馬の地元に伝わる民話をご覧ください。

    兵庫県の民話 天日槍(あめのひぼこ)

    むかしむかし、新羅の国(しらぎのくに→朝鮮)に、天日槍(あめのひぼこ)という王子がいました。
    王子には美しい妻がいましたが、日槍(ひぼこ)はちょっとした事から、妻をののしるようになったのです。

    これに耐えられなくなった妻は、
    「私はあなたの妻としては、ふさわしくありません。私は国へ帰ります」
    と、言い残して、一人こっそり船に乗り、日本の灘波(なにわ→大阪)に帰ったのです。
    これを知った日槍(ひぼこ)は、自分も妻を追って日本へと渡ったのですが、灘波に近づくとその土地の神々が邪魔をして、どうしても上陸できません。

    そこで仕方なく、日槍は但馬の国(たじまのくに→兵庫県)に船をつけると、そこに落ち着くことになったのです。

    やがて時は流れて、日槍は土地の娘と結婚して、子孫も栄えていました。
    ところがその当時の豊岡や出石盆地のあたりは、一面が泥の海だったので、とても生活しにくい土地でした。

    そこで日槍は五社大明神(ごしゃだいみょうじん)の神々と力を合わせて、この地を開拓しようと考えたのです。

    まずは、来日岳(くるひだけ)の下流を切り開くことになりました。
    そこには固くて大きな岩がさえぎっているため、水がせき止まって瀬戸(せと)になっているのです。
    みんなで力を合わせて横たわっている大岩をとりのぞくと、泥水がすさまじい音をたてて日本海へと流れ出しました。

    やがて水の引いたあとには、肥えた広々とした平野が少しずつ広がっていきます。
    日槍も神々も大喜びで、その様子をながめていました。

    そのとき、残った水の中ほどがざわざわと大きく揺れ動いたかと思うと、渦巻きとともに水煙をあげて頭を突き出したものがありました。
    見ると体の周りが二メートルはありそうな、恐ろしい大蛇ではありませんか。

    みんなが息をのんで見ていると、大蛇は下流に向かって泳ぎ出して、せっかく切り開いた瀬戸の口に体を横たえて、水の流れをせき止めてしまったのです。
    みんなは大いに怒って、この大蛇を岸に引きづり上げると、胴体を真っ二つに引きちぎってしまいました。
    こうして開拓は成功し、泥海のようだった土地は人の住めるりっぱな土地になったのです。
    その後、日槍は出石神社に祭られて、開発の神として今でも多くの人々の信仰を集めているのです。

    おしまい

    4.丹後のヒボコ伝説

    京丹後市網野町(旧網野町)に次の記事があります。

    浜詰区の志布比神社(宗教編第一章神社参照)の「社伝」に、大意が次のような記事がある。(『竹野郡誌』所載)

    『(本社の)創立年代は不詳であるが、第十一代垂仁天皇の御代、新羅王の王子ヒボコが九種の宝物を日本に伝え、垂仁天皇に献上した。九種の宝物というのは、「日の鏡」・「熊の神籬(ひもろぎ)」・「出石の太刀」・「羽太玉」・「足高玉」・「金の鉾」「高馬鵜」・「赤石玉」・「橘」で、これらを御船に積んで来朝されたのである。

    この御船を案内された大神は「塩土翁(しおづちのおきな)の神」である。その船の着いた所は竹野郡の北浜で筥石(はこいし)の傍である、日本に初めて橘を持って来て下さったので、この辺を「橘の荘」と名付け、後世文字を替えて「木津」と書くようになった。

    ヒボコ命が日本で初めて鎮座された清い「塩化の浜」のあたりを、「宮故(くご)」と名付け、案内された塩土翁の神の祠も同所にお祀りしたという。

    その後、ヒボコ命は但馬国へ行きたいと思われ、熊野部川上荘馬次(まじ)の里の須郎(すら)に暫らく休まれ、それから川上の奥布袋野(ほたいの)の西の峠を越えて立馬(たじま)(ママ)の国に越えられた。この時九種の宝物は馬に付けて峠を越えられた。後、この峠を「駒越(こまご)し峠」と呼ぶ。(ヒボコは)但馬国出石郡宮内村に鎮座し、宝物を垂仁天皇に奉献されたのである。」(後略)

    ところで、同じ『竹野郡誌』の「浜詰村誌稿」―唐櫃越(からとこごえ)―の箇所には、

    「垂仁天皇がヒボコの孫の田道間守に対して、常世(とこよ)の国から橘の実を求めてくるよう命令された」と書かれている。十年余を経て、田道間守がようやく橘の実を求めて帰国したとき、着船した所を「橘(キツ)の庄」といったというのである。
    このように、先の「志布比神社社伝」と「浜詰村誌稿」とは、内容が少々異なる。しかも、木津の「売布(めふ)神社」は、田道間守がまず「ひもろぎ」[http://kojiyama.net/history/history/?p=119111]を設けた記念の地として奉祀されたともいう。(『木津村誌』)

    さらに、このほかにも「意富加羅国(おおからこく)の王子・都努我阿羅斯等(つぬがあらしと)」が木津の浜に上陸したという伝説もあるようで、全国的に名高い「函石遺跡」の存在も唐櫃越付近一帯、浜詰・木津・函石などの地域が、古代、大陸とさかんな往来のあった良港であったことを証明する伝承群であろう。そして、新しい文化文明が大陸から次々に渡来してきた事実が、「ヒボコ」という名に象徴されるのであろう。
    ヒボコ伝承は西日本一帯にさかんだが、丹後ではこの一例だけである。

北近畿鉄道物語-山陰本線全通

北近畿鉄道物語

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山陰本線全通

 
特急「こうのとり」(新大阪~福知山・豊岡・城崎温泉、287系:旧「北近畿」)・特急「きのさき」(京都~福知山・豊岡・城崎温泉)(写真:JR西日本)


特急「はまかぜ」(大阪~(播但線経由)香住・浜坂・鳥取、キハ189系)

JR山陰本線が全通したのは意外にも昭和に入ってからである。1933年(昭和8年)2月24日、ついに須佐駅(山口県萩市) – 宇田郷駅(山口県阿武郡阿武町)間 (8.8km) が延伸開業し、京都駅から幡生駅(山口県下関市)間(673.8km)が全通した。
しかし、在来線としての営業キロは日本最長の路線であるが、起点(京都駅)から終点(下関市の幡生駅)までの列車はなく、京都から居組駅(兵庫県美方郡新温泉町)間までを通して走る列車は全通以来一度もない本線の一つである。山陽本線や山陽新幹線開業以来、山陰本線沿いの各都市(福知山市・豊岡市・鳥取市・倉吉市・米子市・松江市・出雲市・益田市・長門市など)から直接山陽新幹線に至る路線を強化してきた結果である。1961(昭和36)年10月、山陰本線に初の特急「まつかぜ」(キハ80系気動車6連)が京都~松江間(福知山線経由)まで。1964(昭和39)年には一気に博多まで延長となったが最長列車だった。(その後、2003(平成15)年、「スーパーまつかぜ」(鳥取駅 – 米子駅・益田駅間)として、この名が復活する)

また、東京駅-浜田駅間を東海道本線、京都から山陰本線を通る寝台特急「出雲(いずも)」(1998年7月からは、1往復に285系を投入して電車化を行い「サンライズ出雲」として伯備線経由で運転開始。2006年3月に山陰本線経由は、車両の老朽化や利用客の減少などの理由により廃止)や、城崎温泉までの特急「きのさき」のみで、鳥取へは、智頭急行開通後、播但線経由の特急「はまかぜ」のみとなった。

山陰本線はそれぞれの区間で性格が多様だが、京都駅から園部駅間は近畿統括本部、園部駅から居組駅(兵庫県内)間(園部駅構内のぞく)は福知山支社、居組駅から益田駅間は米子支社*1、益田駅から 幡生駅間は広島支社下関地域鉄道部の管轄となっている。

*1 居組駅 – 赤碕駅間(居組駅構内のぞく) 米子支社鳥取鉄道部
赤碕駅 – 田儀駅間(赤碕駅構内のぞく) 米子支社
田儀駅 – 益田駅間(田儀駅構内のぞく) 米子支社浜田鉄道部

弥生5 古代出雲(いずも)

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

概 要

出雲は神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出方墳や出雲神話への影響が認められます。

また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(カヤ((任那(みまな))とも関係が深いという指摘もあります。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られています。それは早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことは決してはずせない史実が伺えます。 弥生前期末から中期にかけて、日本列島西部には多くの変化が起こった形跡がうかがえます。北九州地方では、細型の銅剣や銅矛が出土するようになり、甕棺墓が出現します。大阪湾沿岸地方では、方形周溝墓が見られず、時期的には、紀元前二世紀末頃と推定されています。

中期以降は、甕棺墓や銅剣にしても、朝鮮半島と関係が深いものですから、朝鮮半島から身分の高い人々がやってきたものと考えられています。

紀元前108年、朝鮮半島では、漢の武帝が半島最初の国家とされる衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初めとする四郡、つまり植民地を朝鮮に置いた時代と合致しますから、この難を逃れた人々が日本列島にやってきたものとされます。

縄文時代から弥生時代早期にかけて、秦が統一によって多くの人々が避難してきたように、やはり緊急避難であったと考えられます。緊急避難で日本列島に上陸した人々は命からがらであったと推定されます。

中国史書を見ると、この後あたりから、倭人が中国へ朝貢を始めたようです。博多湾岸を中心に九州北部でクニが誕生し、中国から手に入れた漢鏡や銅剣銅矛が、宝器として使われはじめました。そして、これらの品は伝世されることなく、副葬品として墳墓に治められています。それは特別な王というべき位の高い身分であり、神として崇めたものです。

出土する遺物から、九州北部に渡ってきた一団は朝鮮半島南部(伽耶)から、近畿地方に渡ってきた一団は中国東北地方または朝鮮半島北部(楽浪郡)から来たと思われます。

出雲とは、稜威母(イズモ)という、日本国母神「イザナミ」の尊厳への敬意を表す言葉からきた語、あるいは稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説があります。ただし歴史的仮名遣いでは「いづも」であることから、出鉄(いづもの)からきたという説もあります。

1.古代出雲(いずも)

大きな地図で見る

古代出雲は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ、日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられています。特に東部出雲は律令下でいう伯耆(ほうき・現鳥取県西部)国まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆を古代出雲とする見方が濃厚です。 姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと推定出来ます。また、四隅突出型墳丘墓に代表される独自の文化を生み出しました。

考古学的見地からは、古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もあります。これらの環日本海への版図拡大の逸話は国引き神話として『出雲国風土記』に記されているとの見方も有力であります。

また出雲地方でこのことから考えても、同じ日本海側で出雲と越国(福井から新潟)が交流があったと記されているので、中間地点にある因幡・但馬・丹波も出雲からの物部氏?の一族が、海岸線から定住し始めた人々もいたのではないかと考えても何の不思議はありません。

先年、朝鮮半島北部で相当数の方形周溝墓が発見されました。日本から朝鮮半島に出かけていって、墓を造ったとは考えられないから、この時期、方形周溝墓を持った一団が日本列島にやってきたことを意味しています。北九州と近畿地方では出土遺物がかなり異なることから判断して、彼らは北九州に先にやってきていた一団(スサノオ一族)とは別の集団で、彼らを避けて、瀬戸内海を東進し、大阪湾岸にやってきたようです。これらの人々(ニギハヤヒ一族)によって、大阪湾岸の大規模な建物や近畿地方の鉄器や古式銅鐸がもたらされたものとも判断できます。

近年になって、出雲西部の「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」で、全国のこれまでの出土総数に匹敵するほどのおびただしい銅鐸や銅剣が一度に見つかってきましたが、大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語るてがかりとして、また豊富な神話、特有四隅突出型墳丘墓から、この地域に古くから栄えた大きな勢力があったことは確実であるとされている。その謎を解明するかに見られた「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」からのこの大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説が無い。

その後、出雲西部地方は衰えを見せますが、出雲東部では妻木晩田遺跡や竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し、弥生後期には広く日本海側に展開をしたと考えられています。

1.朝鮮半島と日本海

日本の文化はすべて朝鮮半島から伝搬されたと主張する学者がいます。どうも朝鮮半島からの渡来、文化の起源説などが強調されすぎているようにも見えますが、日本列島はまだ統一されておらず、楽浪郡(紀元前108年 – 313年)との交流があったと考えられています。古代朝鮮半島は中国王朝の郡県、つまり直接支配の地域でした。後の朝鮮半島全域に出没した倭寇も含めて考えると、朝鮮半島や中国の東海岸は、実際には日中朝の人間が混在していた場所であり、また日本は文化に関しては中国に文化の起源を求めていた、と考えるのがよさそうにみえます。たしかに鉄器、焼き物をはじめ仏教や寺院建築、漢字(文字)などは朝鮮半島経由から伝来したようですが、朝鮮半島も三国時代に中国から伝搬したのであり、鉄器、稲作、焼き物、古墳などが百済や高句麗から発祥して伝わったとみるのはどうでしょうか。

DNA鑑定によれば日本のお米であるジャポニカ種は長江以南が原産であって、青森三内丸山遺跡からみつかった米も縄文時代からジャポニカ米が栽培されており、水稲栽培技術は中国江南で行われたものとする説が有力です。陸路で入って来るには朝鮮北部では米が育たないことからも、中国→朝鮮半島→日本ルートは考えにくく、中国から発祥した先端技術が、朝鮮半島を含めた中国東海岸から経由して日本列島に伝搬していったと考えれています。魏書には倭国の倭女王卑弥呼も帯方郡(たいほうぐん)[*1]を通じて中国王朝と通交しています。帯方郡は楽浪郡(らくろうぐん)の一部で、紀元前108年から西暦313年まで朝鮮半島北部に存在した中国王朝の郡県、つまり直接支配地域にありました。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や倭国の中国文明受容に大きな役割を果たしました。次の時代になって百済・伽耶・新羅という新しい国々が南方に生まれ、倭国同様に魏との冊封関係にあったわけです。したがって、朝鮮半島文化が日本の文化のルーツそのものであるとするには無理があります。銅鏡も中国から贈られたとされていますが、中国や朝鮮半島からは見つかっていないことから、日本で独自に製作されたという意見が有力視されています。

日本の長崎県壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡と壱岐、出雲の間の交流を示しています。したがって、姫原西遺跡や西谷墳墓群がある出雲平野には、強大な国があったと思われ、出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性があるとされています。

[*1] 帯方郡(たいほうぐん)とは、204~313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点。楽浪郡の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある。

古代出雲(いずも)

出雲は神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出方墳や出雲神話への影響が認められます。

また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(カヤ((任那(みまな))とも関係が深いという指摘もあります。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られています。それは早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことは決してはずせない史実が伺えます。 弥生前期末から中期にかけて、日本列島西部には多くの変化が起こった形跡がうかがえます。北九州地方では、細型の銅剣や銅矛が出土するようになり、甕棺墓が出現します。大阪湾沿岸地方では、方形周溝墓が見られず、時期的には、紀元前二世紀末頃と推定されています。

中期以降は、甕棺墓や銅剣にしても、朝鮮半島と関係が深いものですから、朝鮮半島から身分の高い人々がやってきたものと考えられています。

紀元前108年、朝鮮半島では、漢の武帝が半島最初の国家とされる衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初めとする四郡、つまり植民地を朝鮮に置いた時代と合致しますから、この難を逃れた人々が日本列島にやってきたものとされます。

縄文時代から弥生時代早期にかけて、秦が統一によって多くの人々が避難してきたように、やはり緊急避難であったと考えられます。緊急避難で日本列島に上陸した人々は命からがらであったと推定されます。

中国史書を見ると、この後あたりから、倭人が中国へ朝貢を始めたようです。博多湾岸を中心に九州北部でクニが誕生し、中国から手に入れた漢鏡や銅剣銅矛が、宝器として使われはじめました。そして、これらの品は伝世されることなく、副葬品として墳墓に治められています。それは特別な王というべき位の高い身分であり、神として崇めたものです。

出土する遺物から、九州北部に渡ってきた一団は朝鮮半島南部(伽耶)から、近畿地方に渡ってきた一団は中国東北地方または朝鮮半島北部(楽浪郡)から来たと思われます。

出雲とは、稜威母(イズモ)という、日本国母神「イザナミ」の尊厳への敬意を表す言葉からきた語、あるいは稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説があります。ただし歴史的仮名遣いでは「いづも」であることから、出鉄(いづもの)からきたという説もあります。

大きな地図で見る

 古代出雲は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ、日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられています。特に東部出雲は律令下でいう伯耆(ほうき・現鳥取県西部)国まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆を古代出雲とする見方が濃厚です。 姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと推定出来ます。また、四隅突出型墳丘墓に代表される独自の文化を生み出しました。

考古学的見地からは、古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もあります。これらの環日本海への版図拡大の逸話は国引き神話として『出雲国風土記』に記されているとの見方も有力であります。

また出雲地方でこのことから考えても、同じ日本海側で出雲と越国(福井から新潟)が交流があったと記されているので、中間地点にある因幡・但馬・丹波も出雲からの物部氏?の一族が、海岸線から定住し始めた人々もいたのではないかと考えても何の不思議はありません。

先年、朝鮮半島北部で相当数の方形周溝墓が発見されました。日本から朝鮮半島に出かけていって、墓を造ったとは考えられないから、この時期、方形周溝墓を持った一団が日本列島にやってきたことを意味しています。北九州と近畿地方では出土遺物がかなり異なることから判断して、彼らは北九州に先にやってきていた一団(スサノオ一族)とは別の集団で、彼らを避けて、瀬戸内海を東進し、大阪湾岸にやってきたようです。これらの人々(ニギハヤヒ一族)によって、大阪湾岸の大規模な建物や近畿地方の鉄器や古式銅鐸がもたらされたものとも判断できます。

近年になって、出雲西部の「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」で、全国のこれまでの出土総数に匹敵するほどのおびただしい銅鐸や銅剣が一度に見つかってきましたが、大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語るてがかりとして、また豊富な神話、特有四隅突出型墳丘墓から、この地域に古くから栄えた大きな勢力があったことは確実であるとされている。その謎を解明するかに見られた「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」からのこの大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説が無い。

その後、出雲西部地方は衰えを見せますが、出雲東部では妻木晩田遺跡や竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し、弥生後期には広く日本海側に展開をしたと考えられています。

1.朝鮮半島と日本海

 日本の文化はすべて朝鮮半島から伝搬されたと主張する学者がいます。どうも朝鮮半島からの渡来、文化の起源説などが強調されすぎているようにも見えますが、日本列島はまだ統一されておらず、楽浪郡(紀元前108年 – 313年)との交流があったと考えられています。古代朝鮮半島は中国王朝の郡県、つまり直接支配の地域でした。後の朝鮮半島全域に出没した倭寇も含めて考えると、朝鮮半島や中国の東海岸は、実際には日中朝の人間が混在していた場所であり、また日本は文化に関しては中国に文化の起源を求めていた、と考えるのがよさそうにみえます。たしかに鉄器、焼き物をはじめ仏教や寺院建築、漢字(文字)などは朝鮮半島経由から伝来したようですが、朝鮮半島も三国時代に中国から伝搬したのであり、鉄器、稲作、焼き物、古墳などが百済や高句麗から発祥して伝わったとみるのはどうでしょうか。

DNA鑑定によれば日本のお米であるジャポニカ種は長江以南が原産であって、青森三内丸山遺跡からみつかった米も縄文時代からジャポニカ米が栽培されており、水稲栽培技術は中国江南で行われたものとする説が有力です。陸路で入って来るには朝鮮北部では米が育たないことからも、中国→朝鮮半島→日本ルートは考えにくく、中国から発祥した先端技術が、朝鮮半島を含めた中国東海岸から経由して日本列島に伝搬していったと考えれています。魏書には倭国の倭女王卑弥呼も帯方郡(たいほうぐん)[*1]を通じて中国王朝と通交しています。帯方郡は楽浪郡(らくろうぐん)の一部で、紀元前108年から西暦313年まで朝鮮半島北部に存在した中国王朝の郡県、つまり直接支配地域にありました。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や倭国の中国文明受容に大きな役割を果たしました。次の時代になって百済・伽耶・新羅という新しい国々が南方に生まれ、倭国同様に魏との冊封関係にあったわけです。したがって、朝鮮半島文化が日本の文化のルーツそのものであるとするには無理があります。銅鏡も中国から贈られたとされていますが、中国や朝鮮半島からは見つかっていないことから、日本で独自に製作されたという意見が有力視されています。

日本の長崎県壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡と壱岐、出雲の間の交流を示しています。したがって、姫原西遺跡や西谷墳墓群がある出雲平野には、強大な国があったと思われ、出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性があるとされています。

[*1] 帯方郡(たいほうぐん)とは、204~313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点。楽浪郡の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある。

北近畿鉄道ものがたりー今

北近畿鉄道物語

現在の主な交通機関

コウノトリ但馬空港

概 略
空港種別その他飛行場
設置管理者兵庫県
開港日1994年5月18日
運用時間8:30 – 18:30 (JST)
所在地兵庫県豊岡市
岩井字河谷1598-34
海抜 AMSL
584ft (178m)
位置北緯35度30分46秒
東経134度47分13秒


saab340b

但馬飛行場(たじまひこうじょう Tajima Airport)は、兵庫県豊岡市にある飛行場。通称は但馬空港。コウノトリ但馬空港の愛称がある。

新幹線や高速道路などがない高速交通空白地帯であった兵庫県北部(但馬地域)の交通インフラの整備を目的として、兵庫県を事業者として1987年6月に基本建設計画が発表され、1994年5月に開港した。

日本エアコミューター(JAC) がサーブ 340Bを伊丹まで1日2往復運行している。

それまでには神戸ヘリポート~湯村温泉にへりが運行されていた。

また現在、東京羽田直通便実現を目指して、地元での機運が盛り上がって来ている。市民からは東京便実現ももちろんだが、伊丹空港で乗り継ぎを行う事で、東京、松山、出雲、山形、長崎、福岡等日本各地へ短時間でアクセスが出来、疲労も少ない移動が出来る事を行政はもっとPRしてはとの声が出ている。なお、但馬空港から東京便が実現した場合の利用が想定される周辺人口は、舞鶴市など北近畿全域からの利用者が見込まれるため、現在の伊丹便よりも遥かに多い30万人~40万人とされ、これは隣の鳥取空港の周辺人口にも相当し、決していい加減な話ではないと、2007年11月1日に開催された地域航空フォーラムにおいて有識者から意見が出た。

空港を運営する兵庫県は、大阪国際空港線のみでは空港のメリットが十分には活かせず、東京国際空港線の開設が必要との見地から、滑走路延長事業を計画しており2006年から基礎調査が進められている。この計画では現在の1200メートルから1500メートルに延長し、ジェット機材による東京国際空港線が就航できるようにする。

神戸空港の開港に伴い路線就航も検討されたが、運行経費の財政負担を求められた豊岡市、養父市などで構成する但馬広域行政事務組合が2006年6月に「東京国際空港線の開設に具体的に寄与しないのなら神戸空港線は不要」と兵庫県に申し入れ、計画は棚上げされている。

山間を切り開いて開設されたため、早朝の霧や荒天による欠航や出発空港への引き返しが比較的多かったが、2001年10月より兵庫県が計器着陸装置(空港には導入されているが、定期路線があるとはいえ、一般飛行場に導入されるのは異例)を導入したため、運航率は向上している。航空管制については、定期便は大阪国際空港航空管制官による遠隔指示(伝達は大阪レディオ航空管制運航情報官による。
兵庫県は広域な県域のアクセスとして神戸と但馬・播磨を1時間以内で結ぶ構想で、但馬空港が完成した。しかし、播磨学研都市に空港を建設する計画は棚上げとなっている。
地元日高町商工会青年部では、かつて創部35年特別事業「鹿児島へサーブ!!」としてチャーター利用を企画・実施した。同時間帯にサーブ2機がターミナルに並んだ。これは定期便以外の空港利用で活性化促進を目指したものであったが、当時運輸省(国交省)の航空運輸法では定期路線以外にチャーターを運行することは前例がなく、運輸省・県・日本エアコミュータ等の協力により実現した画期的なもので当時注目を浴びた。

但馬~伊丹線は離島との路線を除けば国内線最短の空路であり、しばしば搭乗実績目的の俗にマイル修行僧と呼ばれる人々が利用することでも知られ、年々増加の傾向にある。伊丹から但馬まで搭乗し、すぐ折り返しの便で伊丹に戻る行為は俗に「但馬修行」と呼ばれることがある。

ターミナル右側にはYS-11(11A-500R型/YS-11の103号機)およびエアロコマンダー式680FL型の退役機が展示されており、2006年9月現在、主翼の真下まで近づいて見学できる。

但馬空港のホームページがリニューアルされたことに伴い、空港ライブカメラが設置された。

>但馬空港ライブカメラ 但馬空港の現在の様子(携帯電話向け)

空港から最も近い市街地にあるJR西日本豊岡駅と新大阪駅・大阪駅間には特急「北近畿」が所要時間約2時間40分、片道5130円(乗車券・特急料金込)で運行しており競合関係にある。他の交通機関との競合

また高速バスは全但バスが豊岡市街と大阪梅田間を所要時間約2時間50分、片道運賃3350円で運行しており競合関係にある。

2006年7月には北近畿豊岡自動車道が和田山インターチェンジまで開通し、豊岡市街から大阪梅田まで自動車での移動時間が約20分から30分程度短縮された。また、引き続き和田山インターチェンジから養父市八鹿町の間に和田山八鹿道路の建設が進んでおり2011年頃開通の予定となっている。これらの道路整備に伴い全但バスも豊岡市街・大阪梅田間が従来3時間超であったものが時間短縮されており、高速バスの競争力強化にともない行政当局も但馬空港の利用者減が懸念されている。

このため、伊丹で乗り継ぎをする事で東京や福岡、出雲、仙台、松山、山形など全国から短時間で訪れることができるようになるという利用価値を見出そうと必死の努力が続けられている。

また、「鳥取豊岡宮津自動車道」は、鳥取市から豊岡市を経て宮津市に至る延長120kmの地域高規格道路で、平成6年に計画路線として指定を受けた。このうち、兵庫県内は約46kmで、香住道路(L=6.2km)は平成17年3月に開通し、余部道路(L=5.3km)及び東浜居組道路(L=3.5kmうち兵庫県1.9km)の2路線が整備中である。

国道178号の兵庫県と鳥取県の県境部は、通称「七坂八峠」と呼ばれ、急なカーブが連続し、特に冬季には交通の難所となっていた。そのため、この峠の改良は地元住民の悲願となっていた。

鳥取豊岡宮津自動車道の整備により、鳥取東部、但馬、京都北部の3地方生活圏の交流、連携が強まるとともに、鳥取空港、但馬空港や重要港湾である舞鶴港、鳥取港など交通拠点へアクセスしやすくなり、地域の生活が支えられる。

さらに、北近畿豊岡自動車道、中国横断自動車道姫路鳥取線、京都縦貫自動車道、山陰自動車道と連結することにより全国的な広域ネットワークを形成する。

北近畿鉄道物語-宮津線

北近畿鉄道物語

宮津線

舞鶴は、京都府で京都市に次ぐ第二の都市であるとともに、日本海側屈指の貴重な軍港で、日露戦争を控え、舞鶴市までの鉄道敷設が緊急の課題となっていた。 明治25年ごろ、宮津・福知山間鉄道敷設の運動が起こる。1923年(大正12年)9月、北丹鉄道が福知山~河守間営業開始する。1924年(大正13年)4月12日、峰山線、舞鶴・宮津間営業開始。1933年(昭和7年)8月10日、丹後木津・久美浜間が開通し、峰豊線全線完成。これにより峰豊線と連接、舞鶴・豊岡間全通し、「宮津線」と線名を変更。現在は、北近畿タンゴ鉄道宮津線として運行されています。

また、丹後由良駅、丹後神崎駅、丹後大宮駅、丹後神野駅、但馬三江駅など丹後○○駅という駅名が多いのは、旧国鉄に同じ駅名が多いためで特徴的だ。野田川駅(丹後山田駅)、木津温泉駅(丹後木津駅)もかつて
は丹後○○駅だった。

宮福線

宮福線は、福知山と宮津を結ぶ鉄道計画は古くからあり、1887年(明治20年)には関西鉄道が由良を経る経路で測量するが実現しなかった。1892年(明治25年)には宮津側で敷設運動が起るが、実現しなかった。他方、北丹鉄道が福知山 – 河守間を1923年(大正12年)に開業させていた。しかし河守駅以北の建設は資金難から断念され、日本鉄道建設公団が宮守線として計画を引き継いだ。北丹鉄道は経営悪化により1971年(昭和46年)に休止、1974年に廃止となったため、福知山 – 河守(大江)間も鉄道建設公団が建設することになり宮福線として工事が続けられたが、1980年(昭和55年)の国鉄再建法施行により工事は中断されました。その後、第三セクターの宮福鉄道(現在の北近畿タンゴ鉄道)が1982年(昭和57年)に設立され、1983年(昭和58年)に工事再開、1988年(昭和63年)7月に宮福線として開業し悲願が達成されました。これにより、京都・大阪から宮津・天橋立へ向かう直通ルートができたことで北近畿の鉄道事情が大きく改善された(従来は、たとえば京都→天橋立の移動は、綾部駅と西舞鶴駅で二度のスイッチバックを伴うこととなり、時間的・心理的な遠さが存在した)。現在は、北近畿タンゴ鉄道宮福線として運行されています。

KTR北近畿タンゴ鉄道

タンゴエクスプローラー(KTR) 北近畿タンゴ鉄道は、京都府で旧日本鉄道建設公団が建設した宮福線と、旧国鉄特定地方交通線の鉄道路線宮津線を運営している京都府などが出資する第三セクター会社である。京都府舞鶴市の西舞鶴駅から宮津市の宮津駅を経由して兵庫県豊岡市の豊岡駅に至る宮津線と宮福線(宮津~福知山)がある。北近畿タンゴ鉄道路線(北近畿タンゴ鉄道)

普通ワンマン1両。丹後半島の付け根を通り、日本三景の天橋立などへの観光の足となっています。のどかな風景は見どころがいっぱいだ。
特急には宮福線経由の以下の列車が運行されています。

  • 特急「はしだて」(京都~天橋立)183系電車
  • 特急「文殊」(新大阪から天橋立)183系電車
  • 特急「タンゴエクスプローラー」(新大阪~宮津・豊岡、宮津 – 西舞鶴間快速・普通列車扱いあり)KTR001形気動車
  • 特急「タンゴディスカバリー」(京都~福知山~豊岡、久美浜 – 豊岡間快速列車扱いあり)KTR8000形気動車
    宮福線経由

沿 革
明治25年ごろ宮津・福知山間鉄道敷設の運動おこる。
1923年(大正12年)9月北丹鉄道福知山~河守間営業開始
1924年(大正13年)4月12日峰山線、舞鶴・宮津間営業開始
1925年(大正14年)7月31日峰山線、宮津・丹後山田間開通
同 11月3日丹後山田・峰山間開通し、峰山線全線完成
1926年(昭和元年)12月25日峰豊線、峰山・網野間開通
1930年(昭和4年)12月15日峰豊線、久美浜・豊岡間開通
1932年(昭和6年)5月25日峰豊線、網野・丹後木津間開通
1933年(昭和7年)8月10日丹後木津・久美浜間開通し、峰豊線全線完成、これにより峰山線と連接、舞鶴・豊岡間全通し、「宮津線」と線名を変更
1953年(昭和28年)8月宮津・河守間(宮守線)鉄道敷設法別表予定路線に追加
1964年(昭和39年)4月宮守線基本計画の決定
1966年(昭和41年)3月宮守線工事実施計画の認可
同年10月宮守線工事着手
1971年(昭和46年)2月北丹鉄道、福知山・河守間営業休止
1975年(昭和50年)7月河守・福知山間(宮福線)鉄道敷設法別表予定路線に追加
1978年(昭和53年)12月宮津・福知山間(宮福線)基本計画の変更
1980年(昭和55年)12月27日「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」(国鉄再建法)公布、施行
1982年(昭和57年)9月20日宮福鉄道(株)創立総会
同年9月22日会社設立(登記)
同年10月4日宮福鉄道(株)、運輸大臣に宮福線地方鉄道事業免許申請
同年12月24日運輸大臣、同上免許
1983年(昭和58年)1月20日工事施行認可、公団工事の申出
同年2月28日工事着手
1986年(昭和61年)4月7日国鉄、宮津線など第3次特定地方交通線12線の選定承認申請
1987年(昭和62年)1月19日京都府知事、運輸大臣に意見書を提出
同年2月 3日運輸大臣、宮津線など第3次特定地方交通線8線の選定承認
同年9月22日宮津線特定地方交通線対策協議会 第1回会議開催
同年12月21日宮津線特定地方交通線対策協議会 第2回会議開催
1988年(昭和63年)3月26日宮津線問題対策協議会臨時総会開催、宮津線は第三セクター方式による鉄道として存続との決議
同年3月31日京都府公共交通網整備研究会鉄道部会から、「宮津線の代替輸送は、第三セクターによる鉄道として選択することが地域の活性化に貢献する」旨の「提言」
同年4月4日宮津線問題対策協議会会長から京都府・兵庫県知事あて第三セクター鉄道による存続実現要請
同年4月7日宮津線特定地方交通線対策協議会第3回会議開催、鉄道(第三セクター)として存続を全会一致で合意決定
同年4月28日宮福鉄道(株)第14回取締役会開催、宮津線の運営引き受け決議
同年6月4日地元3市10町の首長会議開催、宮津線の運営主体について、宮福鉄道(株)が一体運営を行うことで基本合意
同年6月22日宮福鉄道(株)第6回定時株主総会開催、「転換計画」合意決定時には宮津線の運営を引き受け決議
同上宮津線特定地方交通線対策協議会第4回会議開催、宮津線の代替輸送事業者として、宮福鉄道(株)が運営を引き継ぐこと等を内容とする「転換計画」を全会一致で合意決定
同年7月16日開 業
同年12月24日宮福鉄道(株)宮津線引き受けに伴う増資
1989年(平成元年)8月1日宮福鉄道(株)が北近畿タンゴ鉄道(株)に商号変更
同年9月5日北近畿タンゴ鉄道(株)、運輸大臣に宮津線第一種鉄道事業免許申請
同年9月29日運輸大臣、同上免許
1990年(平成2年)4月1日転換開業
1992年(平成4年)1月10日列車無線運用開始
同年6月30日鉄道施設資産取得
1993年(平成5年)4月16日宮津・天橋立間電化の事業基本計画及び鉄道施設変更認可申請
同年5月13日同 事業基本計画変更認可
同年5月14日同 鉄道施設変更認可
同年6月10日同 工事実地計画の指示、鉄道整備基金事業認定
同年7月21日同 起工式
1994年(平成6年)4月15日福知山駅付近連続立体交差事業 都市計画決定
1996年(平成8年)3月16日宮津・福知山間電化・高速化開業

沿線の見どころ


如意寺・日切不動尊(京丹後市久美浜町)


豪商稲葉家(京丹後市久美浜町)

日本三景天橋立(宮津市)


内部には美しい古いステンドグラス。


丹後一の宮籠神社(宮津市)


カトリック宮津教会 日本で2番目に古い天主堂(宮津市)

加悦鉄道

会社概要・沿革
1926年(大正15年)12月5日丹後山田(現在の野田川)~加悦間が開業。路線距離(営業キロ):5.7km、# 軌間:1067mm、駅数:6駅(起終点駅含む。専用線除く)
1930年(昭和5年)12月5日三河内口駅開業。
1970年(昭和45年)4月8日加悦谷高校前駅開業。
1984年(昭和59年)2月1日貨物営業廃止。
1985年(昭和60年)5月1日丹後山田~加悦間廃止。


京都府与謝郡野田川町(現・与謝野町)の丹後山田駅(現在の北近畿タンゴ鉄道宮津線野田川駅)

丹後山田駅から、同郡加悦(かや)町(現・与謝野町)の加悦駅までを結んでいた私鉄である。1985年(昭和60年)5月1日に全線が廃止された。

当初は沿線の特産品である丹後ちりめんを京阪神地区に輸送することを主目的として開業し、旅客営業も行いた。その後、加悦駅の南西にある大江山でニッケルの採掘が開始されたため、1940年(昭和15年)に大江山ニッケル鉱山への貨物専用線が開業し、1942年(昭和17年)には丹後山田駅から北東の岩滝町にある精錬所(日本冶金大江工場)への専用線も開通した。

戦後、大江山でのニッケル採掘が中止されたため加悦~大江山間の専用線は撤去されたが、大江工場への専用線は同工場で精錬する輸入ニッケル鉱を輸送するため存続した。

モータリゼーションの進行により旅客輸送量が減少する一方であったが、明治・大正時代に製造された古典蒸気機関車をはじめ、「マッチ箱」と呼ばれる木造2軸客車、国鉄から購入した客車改造のキハ08形気動車など希少車・珍車の宝庫として知られ、多くのファンを集めた。会社側もやがて観光鉄道を目指すようになり、グッズ類の販売等にも力を入れるようになりました。しかし、1985年(昭和60年)3月14日の国鉄ダイヤ改正で宮津線の貨物輸送が廃止され、同線でのニッケル鉱輸送が不可能となったため、丹後山田~大江工場間の専用線も廃止を余儀なくされました。これにより、鉄道収入の6割を占めていた専用線の輸送業務委託料が失われ、赤字額の大幅な増大が見込まれたため、同年5月1日に全線が廃止された。

なお、運営会社の加悦鉄道株式会社は鉄道路線廃止後、カヤ興産株式会社と社名を変更し、代替となる路線バスの運行や鉄道保存展示施設「加悦SL広場」の運営などを行っていたが、1999年にバス部門を加悦フェローラインに分社し、会社設立時のニッケル鉱輸送の関連から日本冶金工業のグループ会社となっています。

北近畿鉄道年表

北丹鉄道

京都府北部、福知山市の福知山駅から加佐郡大江町(現在は福知山市の一部)の河守駅(現在の北近畿タンゴ鉄道宮福線大江駅近傍)までを結ぶ鉄道を運営していた。1923年(大正12年)9月22日開業、設立当時は、北丹軽便鉄道株式会社という名称だったが開業前に改称しています。本来は国鉄福知山駅から宮津線を短絡する目的であったが、宮津線の由良川架橋点が当初の予定より河口近くに変更されたため、河守(こうもり)駅から先の建設は断念した。その後、日本鉄道建設公団が河守駅から宮津駅までを結ぶ路線を宮守線として建設することになり、1966年(昭和41年)に着工されました。ルートは由良川沿いから山中をほぼ直線に抜けるものに変更されています。

しかし、1969年(昭和44年)に沿線の河守鉱山が閉山したことによって北丹鉄道の貨物輸送は激減したため経営が成り立たなくなり、宮守線完成を待つことなく、1971年(昭和46年)3月2日に由良川治水事業を名目に運行休止、程なくバス事業も営業休止に追い込まれた。

1974年(昭和49年)に鉄道路線が正式に廃止されるとともに会社は解散、バス事業については京都交通株式会社に譲渡しています。

宮守線の建設工事は国鉄再建法施行により中断するものの、第三セクターに引き継がれることとなり、1988年(昭和63年)に宮福鉄道(現在の北近畿タンゴ鉄道)宮福線として開業した。

会社概要
社名北丹鉄道株式会社
本社所在地京都府福知山市(福知山西駅構内)
設立1920年(大正9年)2月1日 設立時は「北丹軽便鉄道株式会社」
事業内容地方鉄道事業 道路運送事業他
資本金1,500千円
従業員数43名(鉄道部門24名)
大株主不明
沿 革
1919年(大正8年)路線免許交付。
1921年(大正10年)当初の北丹軽便鉄道から北丹鉄道に社名変更。
1923年(大正12年)9月22日路線距離(営業キロ):12.4km、# 軌間:1067mm、駅数:8駅(起終点駅含む)で福知山~河守(こうもり)間が開業。
1971年(昭和46年)3月2日福知山~河守間休止。
1974年(昭和49年)2月28日福知山~河守間廃止許可。

ウィキペディアなどを参考にさせていただきました。

北近畿鉄道物語-氷ノ山(ひょうのせん)越えと山陰本線計画

北近畿鉄道物語

北近畿鉄道物語-氷ノ山(ひょうのせん)越えと山陰本線計画

氷ノ山(ひょうのせん)越えと山陰本線計画

明治後期に鉄道敷設がさかんになると、舞鶴の軍港と大阪を結ぶ計画の阪鶴鉄道(現JR福知山線)が福知山まで完成。また、山陽鉄道(現JR山陽本線)、さらに姫路から和田山までを結ぶ播但鉄道(現JR播但線)が完成した。さらに京都鉄道が京都から福知山、そして阪鶴鉄道がさらに福知山から舞鶴まで鉄道がつながると、舞鶴の軍港と鳥取の陸軍師団を結ぶ山陰鉄道敷設計画が持ち上がってきた。ことは、山陰線を舞鶴から鳥取までどう通すかということを決める辺りから始まっている。

当初、山陰線は軍港舞鶴と豊岡を鉄道でつなぐという構想でスタートした(鉄道敷設法)。丹後地区が敏感に反応し、期成同盟などの取組みがあったが、どうやら海岸線は艦砲射撃にやられるというような発想があったらしく福知山経由となったようだ。しかし、平坦部が少ない山陰海岸は難工事ではあったが、氷ノ山を貫く大トンネル工事は、当時のトンネル技術では困難なことから、明治42年頃には和田山から城崎まで北進していた播但鉄道から、鳥取まで延伸する計画となった。当初は、豊岡駅から舞鶴までは峰豊線(現:北近畿タンゴ鉄道宮津線)、鳥取までは、内陸部の八鹿駅から若桜へ抜けるルート構想もあった。鳥取県郡家町郡家(こおげ)駅を起点として若桜町までは敷設できており(旧国鉄若桜線、現若桜鉄道)、海岸線は敵国艦隊から砲撃を受ける危険性があるため内陸を通す計画であった。
ここで注意すべきは、この時点では出石は沈黙していることだ。というより、当時の全国の鉄道新設で見られたように、鉄道を拒否していたのではないだろうか。それで結局、(思惑通り)出石に鉄道延伸はなかった。山陰線が開通し始めると、やっぱり鉄道が欲しいということになり、出石・日高で個別に鉄道敷設の行動が起る。

また別に、大正初期に宮津から若桜までの当初の山陰本線最短ルートを実現させようと考えた、とんでもない人物が、「大正の大風呂敷」と言われた日高町長(当時日高村)だった故藤本俊郎村長である。
彼はすでに営業されていた出石軽便鉄道の株主の一人であり、さらに江原駅から村岡へ抜ける鉄道敷設を計画して、江原駅を東西南北を走る交通の要所にしたいという構想を抱いていた。彼はこの事業以外にも銀行設立や阿瀬電力など事業家であった。実際に豊岡町や近隣町村の猛反対にも遭いながら、国会議員の支援も取り付けた。

但馬鉄道敷設工事跡(日高町久斗・現在は市道になっている)

軽便鉄道敷設工事(但馬鉄道)は三方鉱山(日高町十戸)から十戸あたりまで完成していく。また丹後山田から加悦まで鉄道は延びており、出石鉄道まで延長するという計画で、藤本村長は旗振り役となり自らも事業家として私財を投げ売り夢見た計画だった。

餘部(あまるべ)橋梁

ところが不運なことに大正の世界的な大恐慌が始まってしまう。藤本は鉄道敷設を町民の出資でまかなおうとしたが、藤本自らの政治失脚などもあり、結局は頓挫している。海岸ルートに決まったころ、鳥取まで開通した山陰西線と竹野まで開通していた山陰東線は、最大の難所である山陰海岸(浜坂・香住間)を残すのみとなった。そして餘部(あまるべ)鉄橋(日本一の高さ)と桃観トンネル(山陰本線最長)などの難工事の末、開通したのが現在のJR山陰本線である。


桃観トンネル

出石軽便鉄道

そしてその大ロマン但馬鉄道計画の面影を今に伝えているのが、京都府野田川町の丹後山田駅を起点として、加悦町加悦までを走る加悦鉄道(廃線)と、鳥取県郡家町こおげ駅を起点として若桜町わかさ駅を終点とする若桜鉄道(旧JR若桜線)、出石鉄道跡、但馬鉄道跡である。

出石軽便鉄道廃線跡(日高町上郷・現在は市道になっている)

出石鉄道(いずしてつどう)は、かつて兵庫県に存在した軽便鉄道路線およびその運営会社。路線距離(営業キロ):11.2km、軌間:1067mm、駅数:7駅(起終点駅含む)。但馬の小京都と呼ばれた出石町(現在の豊岡市出石町)と山陰本線の江原(JR江原)を結ぶべく1918(大正7)年7月20日 出石軽便鉄道敷設免許申請。発起人は、日高村長藤本俊郎、出石桜井勉以下78名連名。

1920年(大正9年)に会社が設立され、紆余曲折の末に昭和4年(1929年)、地元住民の出資により軽便鉄道(貨物には蒸気機関車・旅客車はガソリンカー)として開通したが、経済不況や自然災害などにより営業不振が続きた。

1938(昭和13)年、江原自動車を買収し、自動車運輸営業権を得る。

そして太平洋戦争下の昭和19年(1944年)に国により不要不急線として営業休止に追い込まれる。

終戦後、路線復活の動きもあったものの、結局昭和45年(1970年)に正式に廃線となった。事業会社としての出石鉄道では、バスの運行や、営業休止の賠償としてトラックを入手し、運輸事業等も行っていたが、全線運休後に全ての事業を停止した。