室町-5 山名氏と赤松氏

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山名氏と赤松氏

目 次
  1. 山名持豊(山名宗全)
  2. 赤松氏と万人恐怖
  3. 嘉吉の乱(かきつのらん)
  4. 乱の経過
  5. 黒田城と長谷部休範

1.山名持豊(山名宗全)

山名持豊(山名宗全)は、応永11年5月29日(1404年7月6日)~文明5年3月18日(1473年4月15日)は、山名時熙の三男で、母は山名師義の娘。子に山名教豊、山名是豊、山名勝豊、山名政豊、山名時豊、細川勝元室、斯波義廉室、六角高頼室。諱(いみな)は持豊で、宗全は出家名。通称は小次郎(こじろう)。山名氏の祖、山名三郎義範から10代目にあたります。

文明四年(1432)に家督を相続。1435年には父の時熙が死去し、1437年には兄弟の山名持熙が持豊の家督相続に不満を持ち備後で挙兵し、これを鎮圧します。但馬・安芸・備後・伊賀の守護職を与えられました。時熙には嫡男持熙(もちひろ)があり、はじめ後継者に立てられいましたが、将軍義教の勘気にふれて、持豊が家督に立てられたのです。永享七年(1435)、時熙が死去すると、持豊が山名一族の惣領となったのですが、備後において兄持熙が反乱の兵をあげました。ただちに軍を起した持豊は備後に進攻すると、たちまち持熙を国府城に討ち取りました。

将軍権力の強化と幕府政治の引き締めを狙う足利義教は、恐怖政治を行っていました。多くの守護、公家、武家が粛正の波にさらされ没落、つぎは自分の番と思いつめた満祐が義教を殺害するという暴挙を行ったのです。この前代未聞の事変に際して幕府は動揺をきたしましたが、赤松討伐軍を編成すると播磨に向けて進攻させました。その主力となったのは侍所頭人の地位にあり、赤松氏の本国播磨の隣国にあたる但馬守護職でもある山名持豊でした。

一族の反乱を平定した持豊は領国支配を固め、幕府の侍所頭人に任じられ、時熙につづいて幕府内で重きなしました。そして、持豊が侍所頭人在任中の嘉吉元年(1441)、播磨守護赤松満祐が自邸に招いた将軍足利義教を暗殺するという一大事件が起こりました。

2.赤松氏と万人恐怖

赤松氏は播磨国の地頭でしが、鎌倉時代末の赤松則村(円心)は後醍醐天皇の檄(げき)に応じて挙兵し、鎌倉幕府打倒に大きく尽力した功績により守護に任じられました。南北朝の争乱では足利尊氏に与して室町幕府創業の功臣となり、播磨国の他に備前国、美作国を領し、幕府の四職のひとつとなっていた家柄です。

義持は応永35年(1428年)に後継者を定めないまま死去しました。宿老による合議の結果、出家していた義持の4人の弟たちの中から「籤引き(くじびき)」で後継者が選ばれることになりました。籤引きの結果、天台座主の義円が還俗して義宣と称し(後に義教と改名)、6代将軍に就任しました。この経緯から義教は世に「籤引き将軍」と呼ばれています。義教は、当初は「三管四職」の有力守護大名による衆議によって政治を行っていましたが、長老格の三宝院満済、山名時煕(ときひろ)の死後から次第に指導力を発揮するようになりました。

義教は、将軍の権力強化をねらって、斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏の家督相続に強引に介入し、意中の者をそれぞれの家督に据えさせました。永享11年(1439年)の永享の乱では、長年対立していた関東公方足利持氏を滅ぼしました。比叡山延暦寺とも対立し、最終的にこれを屈服させたものの、僧侶たちが根本中堂を焼き払って自殺する騒ぎとなってしましました。

足利将軍の中では三代義満に比肩する権力を振るった義教でしたが、猜疑心にかられて過度に独裁的になり、粛清の刃は武家だけでなく公家にも容赦なく向けられました。当時の公家の日記には、些細なことで罰せられ所領を没収された多くの者たちの名が書き連ねられてあります。中には遠島にされたり、殺された者もいました。伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』は義教の政治を「万人恐怖」と書き記しています。

3.嘉吉の乱(かきつのらん)

このころ幕府の最長老格となっていた赤松満祐は、足利義教に疎まれる様になっており、永享9年(1437年)には播磨国、美作国の所領を没収されるとの噂が流れています。義教は赤松氏の庶流の赤松貞村を寵愛し、永享12年(1440年)3月に摂津国の赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまいました。

永享九年(1437)五月、大和国出陣中の一色義貫と土岐持頼が義教の命により誅殺されました。「次は義教と不仲の満祐が粛清される」との風説が流れはじめ、満祐は「狂乱」したと称して隠居してしましました。
嘉吉元年(1441年)4月、足利持氏の遺児を擁して関東で挙兵し、1年以上にわたって籠城していた結城氏朝の結城城が陥落(結城合戦)しました。捕えられた春王、安王は、護送途中の美濃国垂井宿で斬首されます。これより先の3月、出奔して大和国で挙兵し、敗れて遠く日向国へ逃れていた弟の大覚寺義昭も島津氏に殺害されており、足利義教の当面の敵はみな消えたことになっってしましました。

嘉吉元年(1441年)、将軍・足利義教が赤松満祐によって暗殺(嘉吉の乱)されると、同年、赤松氏討伐の総大将として山名持豊ら山名一族が但馬国、伯耆国から播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定し挙兵し大功を挙げました。

同年6月24日、満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ義教を招きました。『嘉吉記』などによると、「鴨の子が沢山できたので、泳ぐさまを御覧下さい」と招いたといいます。この宴に相伴した大名は細川持之、畠山持永、山名持豊、一色持親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熈貴、細川持春、赤松貞村で、義教の介入によって家督を相続した者たちでした。他に公家の三条実雅(義教の正室三条尹子の兄)らも随行しています。

一同が猿楽を観賞していた時、にわかに馬が放たれ、屋敷の門がいっせいに閉じられる大きな物音がたちました。臆病な義教は「何事であるか」と叫びますが、傍らに座していた三条実雅は「雷鳴でありましょう」と呑気に答えました。その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者安積行秀が播磨国の千種鉄で鍛えた業物を抜くや義教の首をはねてしまったのでした。
酒宴の席は血の海となり、居並ぶ守護大名たちの多くは将軍の仇を討とうとするどころか、狼狽して逃げ惑います。山名熈貴は抵抗しましたがその場で斬り殺されました。細川持春は片腕を斬り落とされ、京極高数と大内持世も瀕死の重傷を負ってしましました。公家の三条実雅は、果敢にも赤松氏から将軍に献上された金覆輪の太刀をつかみ刃向いましたが、切られて卒倒します。庭先に控えていた将軍警護の走衆と赤松氏の武者とが斬り合いになり、塀によじ登って逃げようとする諸大名たちで屋敷は修羅場と化しました。

赤松氏の家臣が、将軍を討つことが本願であり、他の者に危害を加える意思はない旨を告げる事で騒ぎは収まり、負傷者を運び出し諸大名たちは退出しました。

貞成親王の『看聞日記』は「赤松を討とうとして、露見して逆に討たれてしまったそうだ。自業自得である。このような将軍の犬死は、古来例を聞いたことがない」と書き残しています。

嘉吉元年(1441年)に播磨国、備前国、美作国守護の赤松満祐が、六代将軍足利義教を暗殺し、領国播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱です。嘉吉の変(かきつのへん)とも呼ばれています。

管領・細川持之を始め諸大名たちは、邸へ逃げ帰ると門を閉じて引きこもってしまいました。彼らは赤松氏がこれほどの一大事を引き起こした以上は、必ず同調する大名がいるに違いないと考え、形勢を見極めていたのです。満祐ら赤松一族はすぐに幕府軍の追手が来ると予想して屋敷で潔く自害するつもりでいました。ところが、夜になっても幕府軍が押し寄せる様子はなかったため、領国に帰って抵抗することに決め、邸に火を放つと、将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と京を退去しました。これを妨害する大名は誰もいなかったのでした。翌25日、ようやく管領・細川持之は評定を開き、義教の嫡子千也茶丸(足利義勝)を次期将軍とすることを決定しました。しかし幕府の対応は混乱し、赤松討伐軍は容易に編成されませんでした。本拠地の播磨国坂本城に帰った満祐は、足利直冬(足利尊氏の庶子、直義の養子)の孫の義尊を探し出して擁立し、大義名分を立てて領国の守りを固め、幕府に対抗しようとしました。

その後、細川持常、赤松貞村、赤松満政の大手軍が摂津国から、山名持豊ら山名一族が但馬国、伯耆国から播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定しました。大手軍は7月11日に発向しましたが、事実上の総大将であった侍所頭人・山名持豊はなかなか京を動きませんでした。その間に持豊配下の兵士が「陣立」と称して洛中の土倉・質屋を襲撃して財物を強奪しました。これには管領・細川持之も怒り、数日たってようやく持豊が陳謝するという事件がを起こっています。

8月中旬、山名持豊はようやく4500騎をもって但馬・播磨国境の真弓峠に攻め込み、この方面を守る赤松義雅と数日にわたり攻防がありました。28日、持豊は真弓峠を突破し、退却する義雅を追撃しつつ坂本城に向かって進軍しました。30日、両軍は田原口で決戦を行い、義雅は善戦しますが力尽き敗走しました。

赤松一族は城山城へ籠城するが、山名一族の大軍に包囲された。9日、義雅が逃亡して幕府軍に降服し、播磨国の国人の多くも赤松氏を見放して逃げてしまいましりました。10日、幕府軍が総攻撃を行い、覚悟を決めた満祐は教康や弟の則繁を城から脱出させ、切腹しました。

この功績によって山名氏は、赤松氏の領国を加えて、備後・安芸・石見・備前・美作・播磨など8ヶ国の守護職を与えられ、再び全盛期を築き上げました。京都室町に屋敷を構え在京しました。

山名持豊(宗全)は、満祐を討ち果たしたことによって播磨国の守護職を与えられ、備前国は山名教之、美作国は山名教清に与えられました。足利義満時代の明徳の乱で敗れて勢力を低下させた山名家は大きく回復し、管領細川家と力を競うようになります。
1443年には山名熙貴の娘を猶子に迎え、大内教弘に嫁がせ、1447年には同じく熙貴の娘を幕府管領の細川勝元に嫁がせて、大内氏や細川氏と縁戚関係を結びます。

赤松氏はこの乱によって全ての守護職を奪われ没落しました。しかし、長禄元年(1457年)に赤松氏の遺臣が禁闕の変で後南朝に奪われた三種の神器のうちの神璽を奪還した事で、足利義政時代の赤松政則(義雅の孫)のときに再興を果たしています(長禄の変)。

播磨に兵を進めた持豊は赤松勢が拠る城山城を猛攻、観念した満祐は自害、赤松氏宗家は没落した。乱後、山名氏の功に対して幕府は、播磨・美作・備前の守護職を与えました。持豊はただちに垣屋越前守熙続を守護代に任じて播磨に派遣すると、赤松氏残党を掃討するとともに、領国支配を推進しました。しかし、播磨は赤松氏発祥の地であり、東三郡は幕府に味方した赤松満政が分郡守護に任じられるなど、領国支配の前途は多難でした。
播磨一国の守護職を望む持豊は幕府に働きかけ、ついに東三郡の守護職にも任じられました。この処置に怒った満政が挙兵すると、ただちにこれを討ち、満政を播磨から追い払いました。その後も赤松氏一族の挙兵が繰り返されましたが、そのことごとくが持豊によって征圧されました。

1450年(宝徳2)に出家し、家督を子の教豊に譲ります。1454年には赤松氏の出仕を巡り8代将軍足利義政と対立し、政務を引退して但馬へ下国しました。赤松則尚が播磨で宗全の孫に当たる山名政豊を攻めると、但馬から出兵してこれを駆逐します。1458年には赦免されて再び上洛。幕政を巡り、娘婿である細川勝元と対立するようになりました。三管領の畠山氏の家督争いでは、勝元は畠山政長を支持するのに対して畠山義就を支持、斯波氏の家督争いでは、斯波義敏を支持する勝元に対し斯波義廉を支持しました。

その後まもなく、持豊(宗全)が守護を兼ねていた播磨国で赤松氏再興の問題が起こり、将軍がこれを許したので怒った、持豊(宗全)は二万の大軍を率いて但馬から播磨に出陣し、康正元年(1455)六月には、赤松教祐(のりすけ)・則尚(のりなお)を討って自殺させ、将軍の命にそむいて八月には京都に侵入しました。このように、持豊(宗全)の勢力は将軍をしのぎ天下に並ぶ者のない勢いでした。
山名持豊の傲慢と勢力拡大を嫌った幕府の謀略で、享禄三年(1454)、持豊は討伐を受けて隠居、家督を嫡男教豊に譲りました。このとき、持豊は出家して宗全と号し、備後守護職には是豊が補任されました。長禄元年(1458)、赦免された宗全はふたたび幕府内で権力を振るうようになります。

黒田城と長谷部休範

和田山町東河(とが)の黒田城は、上道秀重(かんだちひでしげ)という武将が築いたものだといわれています。

上道秀重は小さいときから文武に優れ、嘉吉元年(1441)、竹田城を築いた名将山名持豊(宗全)の家来として播州の赤松満祐と戦い、たちまちこれをうち破り、さらに敵を追って進み、備前国上道郡(岡山県)に追いつめてこれを討ち滅ぼしました。その手柄によって、山名宗全からその地名をとり、上道(かんだち)の姓を与えられました。

その後、応仁二年(1468)三月二十日、夜久野ヶ原の合戦が起こりました。これは山名宗全と勢力争いをしていた細川勝元の家来で丹波国八上城(篠山町)の内藤孫四郎が、家来の長谷部四郎休範らとともに但馬国へ攻め込んで起こった合戦です。この戦いに、山名宗全の家来である竹田城主二代目・太田垣土佐守景近の三男、新兵衛尉宗朝(のちの三代城主)が多くの兵を引き連れて夜久野ヶ原に迎え撃ったわけですが、この時、黒田城の城主上道秀重は、長谷部四郎休範と戦いこの首を討ち取りました。大将を失った長谷部勢は総崩れとなり、夜久野ヶ原の合戦も山名軍の大勝となりました。山名宗全は大変喜び、御賀丸の太刀一振りと着替えの具足一揃いを新兵衛尉に贈ったと伝えられています。

しかし、その後東河村には悪い病気が流行し、村人たちは大へんな苦しみを受けました。それはきっと長谷部四郎休範のたたりであると噂が広まり、村人たちは相談して村の氏神さんに、休範の霊を祭ってその冥福を祈りました。それからは悪病も流行せず、村の平和は続いたということです。
その後、黒田城の城主も何代か続き、とくに秀重から四代あとの上道左京之進は、武芸に優れた人だったといわれ、天正八年(1580)九月、中国征伐中の羽柴秀吉に召し抱えられて鳥取城攻めなどに加わって手柄を立て、さらに山崎の合戦や賤ヶ岳の合戦にも参加したということですが、天正十二年(1584)の春、病に倒れ三月十八日に死んだといわれています。どうやら黒田城もそのころから、廃城となり子孫も絶えて、現在では跡形もなくなり、ただ伝説として物語が伝えられているだけとなりました。

出典: 「日本の近世」放送大学準教授 杉森 哲也
「ヨーロッパの歴史」-放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温
「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝
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たじまる 室町-4 但馬の日下部氏族

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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日下部氏族

概要

但馬の古代豪族、日下部(くさかべ)氏から出た氏族。起源にはいくつかの説がある。

  1. 開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。(『古事記』、『大日本史』)
  2. 孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』)

出石神社と並ぶ但馬国の一宮、粟鹿神社の社家は、古代に神部氏が務め、その後日下部系図に見える日下部宿禰であった
八木氏は山名家臣。
越前国を拠点とした朝倉氏はこの出自。応仁の乱では山名持豊(宗全)率いる西軍に、越前朝倉氏は西軍から細川勝元率いる東軍に属した。

朝倉氏の起源

朝倉氏は、但馬の古族、日下部(くさかべ)氏から出ました。平安時代末期に朝倉宗高?
が但馬国養父郡朝倉に居住し、はじめて朝倉氏を称したといいます。朝倉氏が築いた3つの城(但馬朝倉城跡・但馬朝倉比丘尼城跡・但馬朝倉向山城跡)があります。

越前朝倉氏

数代下って、南北朝時代に広景が、足利方の斯波(シバ)高経の被官となり、越前で戦功を挙げ、越前国坂井郡黒丸城に拠り斯波氏の目代となって活躍しています。朝倉氏は広景以後家景の代まで黒丸城を本拠とし、守護代甲斐氏などと争いながら、坂井郡・足羽郡に勢力を伸ばしていきました。甲斐氏、織田氏に次ぐ斯波三守護代の第三席。のちに守護代三家で斯波氏領国三国を分けることになります。

朝倉孝景(英林孝景)が守護代甲斐常治とともに主である斯波義敏と対立し、足利将軍家の家督争いなどから発展した応仁の乱では山名持豊(宗全)率いる西軍から細川勝元率いる東軍に属し、越前から甲斐氏を追う。孝景は越前国守護に取り立てられ、一乗谷城に城を構えて戦国大名化に成功しました。孝景は分国法である『朝倉敏景十七ヶ条』を制定しました。

義景は京風の文化を一乗谷に移し、足利義昭も一時その庇護受けたほどで、一乗谷文化あるいは朝倉文化の名で山口の大内文化などとともに著名です。

元亀元年、織田信長は朝倉義景を攻めるため兵を越前に進めました。ところが信長の妹お市の方を嫁がせ同盟関係を結んでいたはずの北近江浅井長政が信長に反旗を翻しました。ここにおいて浅井・朝倉は、信長の前に共同の敵として立ち現われることにななりました。この年六月、近江の姉川を挟んでいわゆる姉川の戦いが行われ、義景は一族の景健に兵一万をつけて遣わしましたが敗北してしまいました。

天正元年、信長は、古谷に来ていた義景の浅井援兵を追って越前に侵入し、ついに義景は自害しました。越前に勢力を誇った朝倉氏も、こうして織田信長によって滅ぼされてしまいました。
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太田垣(おおたがき)氏

家紋:木 瓜

(但馬国造日下部氏後裔) *家紋を九枚笹とする説もある。
武家家伝
太田垣氏も、八木氏同様、但馬国造の日下部連の後裔を称する古来からの但馬の名族です。『日下部系図』によると、第37代孝徳天皇-有馬皇子-日下部表米王---建屋太郎光村─石和田光忠─太田垣光保とあって、建屋(たきのや)・石和田・太田垣を同族としています。

『但馬国太田文』には尊勝寺領養父郡建屋荘の下司建屋五郎大夫女子も、同新荘の地頭石和田又太郎光時も、ともに御家人(鎌倉幕府家臣)として見えるから、大田垣氏もこの辺りを本拠とした建屋氏の庶流といえます。

日下部氏の一族である八木・朝倉・奈佐など皆、粟鹿神社を祖神として崇敬し、朝倉氏などはのちに越前に移ってその居城中に越前に粟鹿神社を勧請しています。

山名氏の但馬制圧に協力したことから、朝倉宗家を凌いで強大となり、ついには垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名氏の四天王と呼ばれる隠然たる勢力にまで成長し、丹波・播磨への通路を扼する要衝、朝来郡竹田城を本拠とするに至りました。

延文三年(1358)、祐徳寺に建屋新荘のうち田一段を寄進した太田垣光善、正平十八年(1363)に建屋下司職内の田一段を寄進した実阿(光善の法号かも知れない)などの名がみえ、嘉吉三年(1443)以後竹田城を預かったという太田垣光景、応仁元年(1467)の竹田城主太田垣土佐守、その嫡子新左衛門宗朝、二男新兵衛尉、備前守護代として山名俊豊を擁した太田垣美作入道、その舎弟三河守、同新右衛門大尉、同左京亮らの名が諸書に散見されます。

太田垣氏の台頭

明徳の乱で、但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦いました。有力国衆の多くは氏清方に味方し、土屋氏、長氏、奈佐氏らが勢力を失いました。なかでも土屋氏は一族五十三人が討死するという惨澹な有様で、山名氏は多大な人的損害を被りました。時熈は山名氏を掌握したものの、国衆の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていきました。いきおい、優秀な人材に対する時熈の期待は高くなりました。

このような状況にあって、急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏でした。とくに、「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけました。

明徳の乱・応永の乱に活躍して、太田垣氏興隆のもとを築いたのは通泰でした。通泰は太田垣光善の子で、光成の弟と推定される人物です。太田垣氏は明徳の乱に、一族を挙げて山名時熈方に味方して戦りました。乱の過程で通泰が一族を率い活躍したことで、応永七年(1400)、但馬守護代に任ぜられたのでした。このとき、土屋(垣屋)遠江入道も但馬守護代に任ぜられ、二人は管轄地域を分けてその任を遂行したようです。ちなみに、土屋(垣屋)氏は気多郡(今の日高町と旧豊岡市と竹野町の南部分)を管轄し、太田垣通泰は朝来郡と養父郡の南半分を管轄していました。さらに、通泰は翌八年三月、備後守護代にも任ぜられています。

嘉吉元年(1441)、「嘉吉の乱」で赤松氏討伐に功のあった山名氏は播磨守護に補せられ、太田垣誠朝が播磨守護代に任ぜられました。そして備後守護代には一族の者を据え置いたようです。それは美作守宗応でした。宗応は光成系太田垣氏の人物と思われ、いわば太田垣氏の本家筋にあたり、宗応の家は、惣領家となった通泰の子孫が備後へ赴いている間、但馬における太田垣一族の中心となって、その留守を守っていたのでしょう。宗応のあとの備後守護代は、美作守宗収がなっています。

美作守宗収は美作入道と同一人物と考えられ、『翠竹真如集』にみえる法諱を宗収、徳叟と号した人物のようです。若年には山名時熙に可愛がられ、中年には持豊に仕え、晩年には政豊に重用されました。そして、政豊は嫡子俊豊を備後守護に任じたとき、山名俊豊が若年であったため、宗収を守護代に任じて俊豊を補佐させました。宗収はこれに応え、よく山名俊豊を補佐しました。宗収の死後、備後守護代は惣領家から派遣された宗朝の子俊朝が受け継いでいます。

宗収には子宗幸、そして甥に光久がいたと伝えています。また、『日光院文書』にも光朝・時久・氏定・隆定・三河入道浄□・紹悦らの名が見えるが、一般に知られている『太田垣系図』には光朝を除いてその名を欠き、太田垣氏には不明な点が多いようです。
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八木氏

 

三つ盛木瓜/九曜(日下部氏朝倉氏族 右:見聞諸家紋にみえる八木氏の横木瓜紋)
武家家伝 八木氏は、開化天皇の子孫とされる但馬の表米王から数代のち、古族日下部氏から出て養父郡朝倉庄に城を築いた朝倉高清の次男安高(一説に孫)が、但馬国養父郡八木を領して八木氏を称したのが始まりとされています。すなわち、朝倉信高の弟である八木新大夫安高、小佐(養父市八鹿町)次郎太郎、、三郎大夫らが養父郡宿南荘に、それぞれ新補地頭や公文に任じられ、それぞれ地名を名字として但馬各地に割拠したのです。
日下部氏の嫡流は朝倉氏であったようですが、承久の乱において朝倉信高は京方に味方して勢力を失い、朝倉氏の庶流が越前に住み、一乗谷にて守護代に成長しました。但馬では朝倉氏に代わって鎌倉方に味方した八木氏が勢力を拡大しました。以後、同地の豪族として成長し、南北朝期には但馬守護山名氏の配下となり国老四家(山名四天王)のひとつと呼ばれました。 見聞諸家紋をみると「横木瓜紋」が日下氏の注記をもって八木氏、太田垣氏の家紋として収録されています。
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八木庄は朝倉庄から数キロ西に位置します。八木城は平安時代末期の康平六年(1063)頃、閉井四郎頼国が源義家から但馬国を与えられ、この地に築城したのが始まりとされています。その後、鎌倉時代初頭の建久五年(1194)に朝倉高清が源頼朝から但馬国を与えられ、八木から東へ約 4.7キロメートル離れた朝倉に城を築きました。やがて、閉井氏と朝倉氏が対立し、朝倉氏が閉井氏を滅ぼします。その後、朝倉高清は第二子の重清を八木城に入れ、八木氏を名乗らせました。以後、八木氏は十五代三百余年にわたって同地に勢力を振るいました。 家系図の壬生本系図によると、宗高の孫、高景の弟、安高が八木に移り、八木氏を名乗りました。安高の弟、信高が浅倉氏を継いでいますが定かではありません。庶家に但馬国では太田垣、養父、小和田、軽部、宿南、奈佐、田公、阿波賀等があり但馬国最大一門となります(壬生本系図)。

信高の三男八木三郎高吉の子に、宿南氏の祖、宿南三郎左衛門能直、寺木七郎高茂、田公八郎右衛門尉高時です。

八木氏は幕府との関係強化につとめ、四代高家は執権北条貞時に、つぎの泰家は北条高時、「元弘の争乱」で幕府が滅亡してのちは将軍足利尊氏に従いました。そして、泰家の子重家は、但馬国守護の山名時氏および時義の重臣として活躍したといいます。しかし、南北朝期から室町時代における八木氏の消息は皆目といっていいほど分からない、というのが実状です。

たとえば、南北朝期、八木荘の隣郷の小佐荘にいた但馬伊達氏の文書のなかにも八木氏は出てきません。ただし、系図だけはしっかりしたものを残しています。同系図は『寛政重修諸家譜』が編集されたとき、八木勘十郎宗直が提出したもので、これには『但馬太田文』に記載されている八木姓の地頭・公文たちの名がすべて載っていて、系譜上の位置も矛盾がないそうです。

八木氏に関する系図以外の史料では、わずかに宗頼・遠秀に関する事蹟がしたためられている「八木遠秀絶筆歌後序」ぐらいです。とはいえ、八木氏は養父郡八木庄に本貫を置き、南北朝初期、山名氏が但馬守護に補せられたのち、その被官となったようです。
●風流の武士 八木宗頼


八木城趾

八木氏の名が史上に現れるのは八木宗頼の代で、室町時代の宝徳(1449)のころから、文明十六年(1484)までの三十五年間です。宗頼は文学も親しむ武人で、毎年正月には漢詩をつくるのを例にしていたといわされています。寛正六年(1465)三月、将軍足利義政臨席の洛北大原野の花見盛会に、主君山名宗全とともに招かれたことが知らされています。また、応仁の乱後に、いわゆる五山僧との間でやりとりされた漢詩に関する史料も残っています。文明十二年(1480)ごろ、主君山名政豊が京都から但馬へ下国したのに従い、同十三年には一時的に但馬守護代となっており、一方、大徳寺の春浦宗熈との交流があったことから、春浦について参禅していたらしい。但馬在国中の宗頼は春浦に詩を寄せ、その詩によると居所に高楼二宇を築造して、宋代の隠者林通にちなむと思われる「月色」「暗香」の字を選んで扁額にしていたことがうかがわされています。このように八木宗頼は、和歌・連歌、そして漢詩のいわゆる和漢に造詣をもった風流の士だったのです。

文明十五年(1483)十二月、山名政豊の軍勢が播磨と但馬の国境真弓峠で、赤松政則の軍を破り南下しました。翌年二月、播磨野口の合戦において、宗頼は北野神像すなわち菅原道真の像を見つけだしました。像を得た宗頼は大いに喜び、相国寺の横川景三に賛辞を求め、子孫に伝えて敬神の範にしようとしたと伝えています。

宗頼の卒去については不明ですが、文明十六年以降、その存在を記す史料が見当たらないこと、のち山名と赤松の争いが激化し、延徳から明応のころ(1489~1500)になると子の豊賀が史料に現れてくる。おそらく、その間の数年のうちに宗頼は亡くなったものと思わされています。

八木氏歴代のなかで、とくに宗頼に史料が多く見られるのは、かれの教養が高く和漢に対する造詣も深く、交流をもつ人々に風流な公家や僧侶がいたからであろう。しかし、かれの作った作品が多かったにもかかわらず、その筆跡が伝わっていないのは残念なことです。

宿南(しゅくなみ)氏

三つ盛木瓜(日下部姓八木氏族)
武家列伝

 

宿南氏の祖という三郎左衛門能直は、八木新大夫安高の孫にあたり、養父郡宿南庄(養父市八鹿町宿南)に宿南三郎左衛門能直(初代?)の長男重直を宿南庄に置いていましたが、康永年間頃(1342-45)、宿南太郎佐衛門信直によって築城し、地頭館を山に移したといわれ、田中神社附近に居館址が残る。宿南城に拠って中世の但馬を生きた。

宿南氏は朝倉氏、八木氏、太田垣氏らと同じく、古代豪族日下部氏の一族です。日下部氏は孝徳天皇の皇子表米親王を祖として朝倉・宿南氏をはじめ八木、太田垣、奈佐、三方、田公の諸氏が分出、一族は但馬地方に繁衍しました。

嫡流は朝倉氏でしたが、承久の乱(1221)において朝倉信高は京方に味方して勢力を失い、代わって鎌倉方に味方した八木氏が勢力を拡大しました。すなわち、信高の兄弟である八木新大夫安高、小佐(おざ)次郎太郎、土田(はんだ)三郎大夫らが新補地頭や公文に任じられ、それぞれ地名を名字として但馬各地に割拠したのです。宿南氏の祖という三郎左衛門能直は、新大夫安高の孫にあたり、養父郡宿南庄に館を構えたといいます。いまも宿南野の一角に「土居の内」と呼ばれる字があり、周辺にはかつて地頭館があったことをうかがわせる地名が残っています。
宿南氏は八木一族のなかにあって、ただひとり関東御家人でした。
宿南氏の軌跡

重直の孫知直の代に元弘の変(1321)に遭遇、知直は小佐郷の伊達氏とともに千種忠顕に属して転戦したことが知られます。やがて、鎌倉幕府が滅び建武の新政が成りましたが、足利尊氏の謀叛によって南北朝の動乱時代となりました。知直は宮方に属して、建武二年(1335)新田義貞を大将とする尊氏討伐軍に加わって東下しました。そして、箱根山における足利勢との戦いで、あえなく討死しました。

その後、南北朝の内乱は半世紀にわたって続き、但馬でも両軍の戦いが展開されました。宿南氏は南朝方として行動し、北朝方の討伐戦によって北朝方の手に落ちた宿南庄は、矢野右京亮が地頭に任じられました。所領を失った宿南氏は知直に代わって父の信直が一族を指揮し、やがて北朝方に転じて活躍、失った宿南庄の地頭職を回復しました。

尊氏と弟直義が争った観応の擾乱に際しては尊氏方として行動、観応の擾乱が終熄したあとは、但馬守護となった山名時氏に従ったようです。時氏ははじめ尊氏方でっしたが、その後、直義の子直冬に味方して南朝方に転じました。宿南氏もこれに従ったため、延文元年(1356)、尊氏方の伊達氏の攻撃を受けました。ときの宿南氏の当主は、知直の子実直であったようで、よく伊達勢の攻撃を防戦しています。

その後の南北朝の動乱のなかで、宿南氏がどのように行動したかは、必ずしも明確ではありません。宿南氏系図を見ると、氏実─朝栄─忠実と続き、宿南城に拠ってよく時代を生き抜いたようです。宿南氏の名がふたたび記録にあらわれるのは、応仁の乱において、山名宗全の催促に応じて上洛した山名家臣団のなかにみえる宿南左京です。左京は忠実の嫡男左京亮続弘と思われ、続弘は八木氏から入って宿南氏を継いだ人物とされています。忠実には実子持実がいましたが、一族で山名氏の重臣である八木氏から養子を迎えることで宿南氏の安泰を図ったものでしょう。

ちなみに、宿南氏は八木氏とは代々密接な関係をもっていたことが「八木氏系図」からも伺われます。八木氏の系図のなかに宿南氏の系図が併記されており、しかも、兄弟の少ない八木氏とは対照的に、それぞれの代ごとの兄弟も書き込まれているのです。おそらく、一族の少ない八木氏を支えるかたちで宿南氏が存在し、それゆえに八木氏の系図に同族的扱いとして記されたものと思われます。
但馬征伐と宿南城

田公氏(たきみし)

家紋:木 瓜(日下部氏流)

*日下部氏の代表紋として掲載。
田公氏の紋は不詳。 武家列伝
七美(美方郡東部)村岡・城主。田公氏は但馬国の日下部氏族八木氏から別れた中世豪族で、その出自は、孝徳天皇の皇子表米親王の末裔が田公郷に土着して田公氏を名乗ったものといい、『和名抄』の二方郡田公郷、『但馬太田文』の二方郡田公御厨を本拠とし、田公を称するようになりました。すなわち、太田垣・八木・朝倉の諸氏と同じく日下部一族ということになります。八木系図によると、朝倉高清の長男・安高の三男・高吉の四男に田公氏を名乗った田公八郎右衛門尉高時がいます。美方町氏所収系図によると、朝倉宗高━高清の子に田公四郎高経(たかつね)が現れてきます。山名氏が山陰諸国を制圧した南北朝期にその被官となり、戦国時代、山名誠通のころには因幡守護代となった田公遠江守高時(時高とも)、同次郎左衛門尉清高がみえ、代々、因幡国八上郡日下部城を居城にしたといい、いまも因幡に田公姓があります。

田公氏の系図については異同が多いですが、孝徳天皇の皇子表米親王の子孫で、朝倉高清から出ていることは、諸系図一致しています。とはいえ、田公氏の系図ならびに居住地については疑問が非常に多いといわざるをえないのです。

田公氏は、田公氏の小代における城跡も明確ではないようですし、墓所もそれらしいものが見当たらないようです。ただ、居城である城山城(香美町小代区忠宮)は天正五年(1578)に落城したため、田公氏の歴史が分からなくなったのでしょう。また、七釜(しちかま)城主であった田公氏嫡流も元亀年中頃(1570~72)まで活躍していましたが、その後の動向は不明です。

田公氏の軌跡田公氏の祖といわれる朝倉高清は、承久三年(1221)に没したといい、高清から数えて八代目が綱典とされていますが、居城が落城した天正五年(1577)までの間は、三百五十余年となり、系図に記される世代は二から三人の名前が脱落したものと思われます。
応仁の乱における西軍の総帥山名持豊の命令に従って、京都に集結した山名軍のなかに田公美作守・同能登守らの名が見えています。文明十五年(1483)からの山名政豊の播磨侵攻に田公肥後守豊職が従軍し、垣屋越前守らと播磨蔭木城を守っていましたが、同十七年三月、赤松政則に急襲され垣屋一族多数が討死して城は落城しました。田公肥後守はかろうじて城を脱出して、政豊の拠る坂本城に急を報じましたが、戦いはすでに終わっていて救援することができませんでしました。長享二年(1488)八月、六年間にわたる播磨遠征に疲れた山名政豊は、兵を収めて但馬に撤退しようとしました。田公肥後守父子と政豊の馬廻衆がこれに同調しましたが、垣屋氏以下の諸将は戦闘継続を主張し、政豊は孤立して田公父子と馬廻衆に守られて播磨を脱出しました。政豊の敗戦を問責し、嫡子俊豊擁立を望む諸将の動きに対して、田公父子は政豊を奉じて木崎城(のちの豊岡城)に拠って、最後まで山名政豊を支持しました。
やがて、守護権力は弱体化し、守護職も有名無実化していきました。それでも、政豊は幕府内である程度の力を保持していたようですが、明応八年(1499)に没し、次男致豊、三男誠豊が家督を継承しました。そして、田公氏は勢力を失っていきました。

 

久須部村から流れる川と、秋岡村から流れる湯舟川にはさまれた小高い岡の上にあったのが大谷城です。小代(おろ)城とも呼ばれました。建久年間に朝倉景雲が城を築きました。正応年間に田公清高が親方になり、九代続きましたが天正五年十月、綱豊入道秋庭のときに落城しました。この城主が現在の村岡町内に出城をつくっています。大谷城は、七美(ひつみ)の古城の中心であるといえます。
支城として、村岡区総合庁舎の裏山、観音山に大谷城主田公氏の一族の高堂城がありました。
祖岡村(けびおかむら)に鎌倉時代温泉庄の奈良宗光の弟の正員(まさかず)が築城したと伝えられる祖岡城があります。建久のころ(1190~1198)には養父郡八木氏の一族高茂の城となり、八木氏のあと康永年間(1342~1344)以後は中村氏の城となって、大谷城主田公氏の支城となりました。天正八年(1580)六月十八日、秀吉(実勢部隊は秀長)が因幡(鳥取県)に攻め込んだ時に、この城に休憩し、道案内までしたのですが、天正十年八月十五日夜、入浴しているところを刺され、その後絶えたといわれています。

祖岡城から川に沿って東に三キロほど行ったところ(国道9号線春来峠付近)、長板村に祖岡城の支城、長板城があり、これも田公氏の城です。天正五年(1577)十月、羽柴秀吉の家臣、藤堂孝虎が大谷城を攻めたとき、長板城を捨て大谷城とともに秀吉方に戦いをいどみましたが力つきて敗れ、それ以後廃城となりました。

戦国時代後期、入道して秋庭と称した田公綱典は、天正五年(1577)羽柴秀吉(指揮者は秀長)の第一回但馬侵攻にあたって、本城である城山城、および支城である村岡の城を捨てて、因幡国気多郡宮吉城の同族田公新介高家を頼って逃走しました。その後、山名豊国に従って羽柴軍と戦い、豊国が羽柴軍に降って鳥取城攻囲軍に加わると、それに従軍し、のちに豊国が七美郡を領するようになると、村岡に戻り、豊国に仕えました。以後執事となり、長男の澄典も山名氏に仕えて用人を勤めました。
禅のお坊さんとして有名な沢庵和尚は、綱豊の次男宗彰ですから美方町出身となります。
ところが、出石方面では山名の家老秋庭能登守綱典という者がいました。これは三浦大介義昭の弟義行が相模国高座郡秋庭に住み、地名をとって秋庭を号したといいいます。あわただしい戦国末期の世相のなかで秋庭能登守は出石郡の小坂村大谷に引隠して帰農しています。

いずれにしろ、沢庵宗彭は但馬に生まれたことは間違いないようですが、田公氏の生まれか、平姓秋庭氏の生まれかは異論が多いところです。しかし、沢庵宗彭は平姓秋庭氏の生まれとするのが通説のようです。

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室町-3 垣屋(かきや)氏

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

垣屋(かきや)氏

概要

垣屋氏(かきやうじ)は、桓武平氏の分家であり、のちに山名氏、脇坂氏の家老の家系です。以下では但馬垣屋氏について書きます。

垣屋氏の起源


七 曜 (桓武平氏土屋氏流?)
武家家伝さん
鎌倉時代から室町時代になり、但馬でも守護が大名として国を治める武家社会に移行します。但馬国では山名氏が山名四天王と呼ばれる重鎮たちと治めることとなりました。出石に本拠を構える山名氏と豊岡を治める田結庄(たいのしょう)氏、朝来郡を治める太田垣氏、養父郡を治める八木氏、そして気多・美含郡を治めたのが垣屋氏です。垣屋氏は山名四天王の中で唯一の山名家直参です。

垣屋氏は山名氏同様、但馬生え抜きの武士ではありません。垣屋氏は山名氏の支流ともいわれ、山名時氏(ときうじ)に従って関東から移り住んだ山名氏譜代の家臣といわれてきました。しかし、山名時氏時代に垣屋氏の名前は表われていません。それは、もともと垣屋氏は土屋姓だったからです。「土屋越中前司豊春寿像賛」は、天隠龍沢がしたためたものですが、そのなかで豊春について「人は垣屋と称するが、自らは土屋を号しています。また源氏の山名氏に仕えていますが、本姓は平氏なのだといっている」と記しています。

土屋氏は、相模国大住郡土屋邑を本貫地とする関東の武門の名門の一つ土屋党です。垣屋氏は土屋氏分流のひとつで、時氏の時代は土屋姓を称していたのでしょう。ちなみに関東から山名時氏に従って、但馬に移り住んだ土屋党は垣屋氏だけではありません。『明徳記』によれば、山名満幸の手に属して内野で討死した土屋党が五十三人もいたと記しています。

山名時氏は自らを「初め元弘より以往は、ただ、民百姓の如くにして、上野の山名という所より出侍しかば、渡世の悲しさも、身の程も知りにき」と言っています。つまり足利と縁が生じ五ヶ国の守護に栄進しますが、それ以前は関東の地にあって農作業に明け暮れている身分だったのです。素直に自分の前歴を告白していますが、因幡の垣屋氏に伝来している『垣屋系図』には、垣屋は自分の出自を誇示しようとして、千葉の本流だと称し、系図の上で名族と関係あるらしく見せようとして、つじつまの合わない粉飾をしているといいます。
しかし山名時氏に見えるように小百姓だったかといえば、そうとは言い切れない面もあります。『垣屋系図』によると垣屋家は、典型的な桓武平氏の分家で、千葉氏の分流だということになっています。高望王の7代後にあたる平継遠が上総に移り住んで、「土屋」から「垣屋」と名乗ったことが始まりとされています。山名氏、脇坂氏の家老の家系です。「垣屋」は時代によって「柿屋」とも「垣谷」とも書きますが、約180年の間に世代は十六代を数えます。180年間に十六世代ということは、一世代の平均はわずか十二年ということになるので、系図は無理なこじつけをしているといわれても仕方がありません。

『垣屋系図』以外に、紀伊の垣屋家のものは、先祖を平氏となし、伯耆の人と記しているし、龍野の垣屋氏のものは、本姓は源氏で、山名が但馬守護となって但馬に居着いてから、分流したものだといい、異本が多いようです。
さて、観応の乱と呼ばれる足利一門の内紛が、一応のけりがついたのが1352(観応三)年です。この紛糾の間に、今川頼貞は、但馬から足利直義党を完全に追い落としました。守護となった頼貞は、三方楽々前(ササノクマ)を拠点としていたらしいです。楽々前は既に鎌倉時代には、但馬守護太田氏の守護領として記録に現れ、足利尊氏によって補任された今川頼貞が、安田修理氏義に楽々前南荘の一部を与え地頭職としました。

しかし、やがて但馬は完全に山名時氏のものとなっていきます。安田氏が尊氏党に属していち早く但馬入りをなし、足がかりを得ていたのに対して、おそらく同郷であったと思われる垣屋は、山名時氏に付して但馬にやって来ています。『垣屋系図』によると、その人は垣屋重教で、ます城崎郡奈佐荘亀ヶ崎城主となりました。奈佐岩井荘に養寿院を開基しました。

ところで亀ヶ崎という地名は、現在豊岡市五荘地区の南の山鼻に残っていて、本来は大浜荘の中と考えた方がよい場所です。垣屋重教が山名時氏に従って但馬入りをした時、最初の基地となったのは、この円山川と奈佐川の合流点付近の土地でした。
後になって垣屋続成が安田千松丸に大浜荘半分を与えています。
時氏が死んで、山名時義が家督を継ぎ、出石の此盗山(こぬすみやま)に居城します(山名師義(もろよし)とも)。この代に至って初めて山名氏が但馬を完全掌握します。山名の勢威は急速に伸び、一族の有する所領は山陰をはじめ十一ヶ国を数え、世に六分一殿と称せられほどになります。
垣屋氏は、但馬八木氏と縁戚関係にありました。戦国末期、垣屋信貞は八木豊信の婿養子となり、八木氏の家督を継いでいます。

室町時代前期


楽々前城跡
城主:垣屋弾正~遠江入道(熙忠)・越前守熙知

写真左側斜面。後方は蘇武岳。ここから当方の宵田城まで尾根づたいにつながる。戦後まで楽々前城から宵田城までに隧道で結ばれていたが、関電の道場ダム・岩中発電所建設工事の際に消滅してしまった。康応元年(1389)、山名時義が死に、23歳で子の時熙(ときひろ)が宗家を継ぎました。山名の強大を嫌った足利義満は、一族の時熙、氏幸と満幸との内紛を利用して、山名氏清らを挑発したので、氏清らが明徳二年(1391)の年末、挙兵します(明徳の乱)。義満は直ちに細川、畠山、大内氏らに命じて討伐させました。時熙は、敵方となった同族の山名と区別するために、篠の葉を旗竿の上に付けて戦いました。垣屋弾正(頼忠)は、山名時熙に従って参戦し、ついに討ち死にします。

垣屋弾正は、「合戦の勝敗はともかく、明日の軍に、一番に討ち死にを仕えるべし。後の事は、幸福丸という九歳の子供を引き立てて欲しい」と述べ、弥陀の名号と阿字本来の曼陀羅を錦の袋に入れて死出の装束をなしていました。翌日の晦日の合戦に、時熙主従八騎が取り囲まれて危なく見えたところに、垣屋は、滑良兵庫と共に突入し、身代わりとなって戦死しました。この戦いで敗れ、十一ヶ国を有した山名の所領は分解し、山名は但馬・因幡・伯耆の三ヵ国を残すのみとなりました。この乱を機に、山名宗家は時熙の系に固定し、笹葉の下に「○二」を配した家紋を、宗家を誇示する標識としました。
時熙の分国が但馬一国となったということは、かえって従来以上に緊密に但馬を掌握することになりました。

室町時代後期


鶴ヶ峰 神鍋方面へ車で向かうと目前に目立つ山が別名三方富士
鶴ヶ峰城(亀城)があった。

明徳の乱以来、山名時熈(ときひろ)は垣屋弾正時忠の忠節に感銘し、その子幸福丸(のちの垣屋隆国)を気多郡代に任じました。

宵田城はそれより前に築城されていましたが、郡のほぼ中央にあり最適の地であったと思われます。
日高(高生・たこう)平野の南に突き出た佐田連山の東端にある山城で、北に祢布城(にょうじょう)・国分寺城、北北西に水生(みずのお)城、北西に伊福(ゆう)城、日高・高生田が一面に見渡せ、岩山の急斜面があり、ふもとを流れる円山川の支流稲葉川が自然の堀となって、最高の条件に恵まれていました。稲葉川が東向きから急に南方に向きを変えるところにつくられており、気多郡の要として重要な位置にあります。楽々前城からのなだらかな稜線が続く形から南龍城とも呼ばれました。

幸福丸は播磨守隆国と名を改め、応永年間(1394~1427)に佐田知見連山の高峰に楽々前(ささのくま)城を築き、自らはここに移り住み、宵田城には隆国の次男垣屋隠岐守国重を城主にしました。
本丸の跡は300mの頂上にありましたが、今は荒れ果てていて雑木が生い茂っています。ここから本拠の楽々前(ささのくま)城まで尾根づたいにつながっていたといわれています。

佐田から宵田までに道場の風穴といわれるところがあり、道場の人々は、夏ここを冷蔵庫の代用に使ったといわれています。ところが、昭和30年12月、宵田城近くに岩中発電所工事が進められ、昭和31年12月に完成、道場から水を取り、山の中を水道トンネルにしました。この工事中、城の抜け穴と思われる穴を埋めたところ、この風穴は冷たい風がぴたりと止まったそうです。城の抜け穴を通ってきた冷風だったのではないでしょうか。考古的な価値がさけばれなかった頃ですので、今となっては悔やまれます。

着々と力を蓄えていた垣屋氏は山名家の筆頭家老の座につき、以後山名氏を陰で支えることとなります。このころから垣屋氏は 垣屋弾正(重教)・時忠・隆国の三代百年に渡る間に、発展の基礎を打ち立てました。
隆国の子である越前守熙続(長男満成)は三方地区楽々前に、 越中守熙知(次男国重)は平野部に近い宵田城に、駿河守豊茂(三男国時)は気多郡と背中合わせの美含郡竹野轟城を本拠とするようになります。三兄弟のうち、長子熙続、二子熙知はともに主君山名時熙の偏諱(へんき)*1を受けたもので、垣屋氏に対する時熙の信頼がいかに篤かったかを示すものです。

嘉吉の乱の恩賞で山名宗全が播磨守護職を賜ったとき、その代官として播磨守護代に任命されたのは垣屋越前守熙続であった。熙続の名は『但馬大岡寺文書』にもみえる。しかし『校補但馬考』がもっとも整然としているとする『因幡垣屋系図』には越中守豊春も越前守熙続もその名を欠いており、おそらく、この頃の垣屋氏は多くの庶子家を抱える巨大な武士団を構成していたようです。何はともあれ、垣屋が山名の守護代を勤める地位にのし上がっていることは注目しなければなりません。

*1偏諱(へんき)…上位者が下位者に諱(いみな)(本名)を一字与える事を偏諱の下賜と言い、中世以降、公家、武家社会において広く行われた。

隆国寺

垣屋家菩提寺 布金山隆国寺

隆国寺

宗派 曹洞宗本尊 釈迦牟尼仏隆国寺は、室町時代の開基で、山名の四天王筆頭といわれた垣屋播磨守隆国公の菩提寺と伝わっています。実質開基ともいわれる光成公は、策彦周良和尚から、天正4年(1576)に「悦岩」道号記を授かっています。策彦和尚は遣明使節団の団長もつとめており、中国から持ち帰った牡丹を和尚から道号記とともに贈られたのが、 隆国寺と牡丹の縁の始まりといわれています。元和9年(1623)に金山より現在に移された。

何時、誰の手によって造られたかはっきりしありません。『但馬考』は、楽々前城主播磨守隆国の開基で、初め楽々前の城門にあり、泰孝山隆国寺と号していましたが、楽々前落城の後、寺を阿瀬谷金山に遷し、布金山隆国寺と号したと記しています。『三方村誌稿』も、隆国開基説を採用して、むかし、楽々前城主播磨守隆国、一寺を創立し、安養山西方寺と称していたが、楽々前落城の後、その支族なる、知見村垣谷氏の祖、之を羽尻村の支郷、金山字寺谷に移した。時に鉱山盛時に当り、砂金を産出したので布金山長者峯と号し、開基の名をとって隆国寺と改めたという。これに対して『垣屋系図』は、隆国の子、満成が、宝徳元年(1449)、金山村に隆国寺を建立し、また別に安養山西方寺も開基したとしています。

『日高町史』ではさらにこう記しています。「隆国寺は、垣屋満成が父母のために建てた寺ではないようだし、
それかといって隆国が建てた寺だとも言い切れない面もあります。それと言うのも、垣屋隆国その人の名前が出てくるのは、『垣屋系図』だけであって、隆国の存世を裏付ける資料が、何一つとして見いだせないからだ。とはいえ、実在説も一方でささやかれています。それは『但馬考』の説で、隆国の幼名を幸福丸だと考えていることがそれだ。即ち、死出への戦いに当たって、ただ一つ気にしたのは、九歳になるわが子の幸福丸の将来であったと、『明徳記』は記しています。嘉吉元年(1441)五十八歳で死したとも記載しているから、逆算すれば、父、時忠が死んだ明徳二年(1391)は、丁度九歳ということになるので、但馬考では明徳記に記載する九歳の幸福丸は、この隆国の幼名だと考えるのです。」

阿瀬金銀山

垣屋家が山名四天王の中でも最も栄えたのは、前出の明徳2年(1391年)明徳の乱にあたって、大部分は山名氏清・山名満幸に属したのに対し、山名時熙方に属したのは垣屋氏だけだったことが発端とされています。その結果、垣屋氏は躍進を遂げることになります。このとき、垣屋家は10万石以上を手にしたとされており、これを垣屋氏の最盛期であると判定されます。垣屋は弾正の子、隆国になって、山名の所領、三方荘の楽々前城主となりますが、恐らく明徳の乱の垣屋弾正の忠死に報いるため、隆国に楽々前の地をあてがったとしたら頷けます。

さて、所領の三方荘阿瀬谷から金や銀が発見されました。その時期については、異説があって一定しませんが、永禄五年(1562)、阿瀬谷のクワザコから銀が産出したといい、金の発見は文禄四年(1595)、川底に光る砂金の輝きを見つけたのが機となったとも伝えています。しかし、それより約二百年前の応永五年(1398)に既に発見されていたとも言われています。この応永五年説が本当だとすると、これは垣屋にとって重大で幸運な事件でした。この地域を領有することになり、幸運にも金銀山を支配下に治めたということで、計り知れない財源を提供することとなりました。

のちに、但馬守護の山名氏や、家臣太田垣氏が、生野銀山の経営に手を染めるのは、記録では、天文十一年(1542)といいますから、それに先立つ130年前に、垣屋は銀山経営に乗り出していたことになります。何はともあれこの鉱山資源を背景にして、垣屋は山名の最高家臣の地位を得るし、金山の地に、布金山隆国寺を移建することができました。生野鉱山が発見されたのは807年(大同2年)と伝えられていますが、詳しい文献資料がなく、正確な時期は不明です。 天文11年(1542)、「銀山旧記」によると、山名祐豊が銀山を支配し生野城を築き盛んに操業したとされています。

駿河守豊茂(三男国時)は気多郡と背中合わせの美含郡椒荘(はじかみのしょう)に竹野轟(とどろき)城を本拠とするようになりました。これは神鍋山を背に北部但馬に対する防衛拠点であると同時に、椒に段金山鉱山、金原鉱山が見つかったことにも関係あるのではないでしょうか。

伊福(ゆう=鶴岡)の大庄屋の書記をしていた赤木一郎右衛門光明が書いた「御代官様歴代記」のなかに、永禄五年(1562)に足利十三代将軍義輝に金を献上したことが記されています。さらに、天文十一年(1542)に生野銀山が、天正元年(1573)に中瀬金山のことが記録されています。したがって、金山の発展に目をつけたのが垣屋弾正満成(みつしげ)だと記録の通りに考えると、百年余りの差がありますが、金がぼつぼつ出ていたので、ここに寺を建立したことも考えられます。この時代には、将軍をはじめ大名、小名がそれぞれ寺院を建てていますが、時代の風潮であったと考えられます。

垣屋氏と山名氏の対立

●嘉吉の乱と山名氏の衰退

山名氏は嘉吉の乱で守護領国となっていた播磨や備前では、応仁の乱を期に回復した赤松政則が占拠している状況にあいました。山名氏と赤松氏はいわば犬猿の仲です。山名政豊は、旧領回復のため、文明15年(1483年)に赤松家の内紛に乗じて播磨に出兵します。当初は真弓峠の戦いで大勝したものの、文明17年(1485年)以降は劣勢となり、長享2年(1488年)には政則に敗れて(坂本の戦い)、播磨における影響力を失うに至りました。

赤松は六千、山名は三万の軍隊を投入していました。圧倒的な大軍にかかわらず、山名が負けたのは、布陣を誤り、垣屋の陣所、森岡城が攻撃を受けている時に、山名政豊は遠く離れた書写坂本城(姫路市)にいて、援軍を出すすべも及ばなかったためです。その後も播磨で山名と赤松との間に一進一退の戦いを展開するが、文明十八年(1486)、英賀の戦いには、山名勢は敗北、垣屋越中守、惣右衛門など数十人が討ち死にしてしまいました。

つまり、前年の戦いに次いで良国のみが一人残されました。先に文明8・9・12年にわたって、隆国の三子が相次いで他界しました。

さらに同年四月、書写坂本の戦いにも敗北した山名政豊は、書写坂本城を保持するばかりに追い詰められました。長享二年(1488)、坂本城下で激戦が行われ、敗れた山名方は結束を失っていきました。

窮地に陥った政豊は但馬への帰還を願いましたが、垣屋氏をはじめ但馬の国衆らはあくまで播磨での戦い継続を求めました。さらに嫡男の俊豊も撤収に反対したため、追い詰められた政豊は、ついに坂本城を脱出して但馬に奔りました。かくして山名勢は総退却となり、赤松勢の追尾によって散々な敗走となりました。但馬国衆まもとより俊豊を擁する備後国衆らは背を向けました。なかでも一連の敗北で、多くの犠牲を払った山名氏の有力被官で播磨守護代の垣屋氏と政豊の間には深刻な対立が生じていました。備後守護代であった大田垣氏や備後衆は俊豊を擁する動きをみせ、俊豊が政豊に代わって家督として振舞っていたようです。ところが、明応の政変によって将軍足利義材が失脚、義材に従って河内に出陣していた俊豊は窮地に陥りました。ただちに但馬に帰った俊豊でしたが、与党であったはずの垣屋・太田垣氏らが政豊方に転じたため、但馬は俊豊の意のままにはならない所となっていました。
垣屋続成は明応二年(1493)、山名俊豊と対立、政豊・致豊の重臣として実質的に山名領国の経営を担うようになります。

永正九年(1512)居城を楽々前城から鶴ケ峰城(日高町観音寺)に移し、ここを垣屋本流の拠点としました。楽々前城よりも標高が高く、山名氏の本城をはじめ四方が見渡せるからでしょう。こうした中、轟城主系の垣屋には戦死者が出なかったのが、せめてもの救いでした。
天正になると、山名氏の衰退とともに、西に毛利氏、東に織田氏が台頭すると、四天王たちは独立色を強め、二派に分かれ抗争を繰り広げ、山名氏の衰退をさらに加速させました。
垣屋続成の子が播磨守光成で、光成は八木・田公・田結庄ら但馬の有力国人衆と謀って主君である山名致豊に離叛し、山名誠豊を擁立して但馬の領国経営の実権を握ります。以後、垣屋光成・太田垣輝延・八木豊信・田結庄是義等四頭が割拠し但馬を四分割しました。
この後、「野田合戦」が起きます。

参考略系図
				 
	   7代後  |垣屋
平 高望・・平 継遠・・重 教━━━時 忠━━━┓
	       |豊岡市史所蔵『垣屋系図』┃
	    			    ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃	  楽々前城主
┃播磨守  垣屋弾正 筑後守  越前守  越前守
┗隆 国━┳満 成━┳政 忠━┳続 成━┳光 成━┳恒 総
(幸福丸)┃    ┃宗 忠 ┃鶴ヶ峰城主    ┃
	 ┃    ┃    ┗氏 続 ┣信 貞 ┣政 氏
	 ┃    ┃         ┃    ┃
     ┃    ┗豊 成━━豊 知 ┗峰 定 ┗忠 次
     ┃
     ┃宵田城主     ┏某    後楽々前城主
     ┃越中守      ┃     筑後守 隠岐守
     ┣国 重━┳遠 忠━┻良 国━━忠 顕━国 宣━忠 平
     ┃    ┃              峯 信
     ┃    ┗孝 知
     ┃
	 ┃竹野轟城主
	 ┣国 時━┳豊小解━━豊 続━━宗 時━┳豊 実
	 ┃    ┃			     ┃
	 ┗永 喜 ┗豊 経		     ┗兵衛左衛門
	  知見村分


垣屋氏の系図は、『校補但馬考』に「因幡垣屋系図」「紀伊垣屋系図」が収められている。前者は、浦冨の桐山城主垣屋恒総の孫重政が関ヶ原合戦後因幡に帰農し、その子孫が作成したもので、桓武平氏を称している。後者は、同じ垣屋恒総の孫吉綱(光重)が紀州藩に仕え、その子孫が作成したものである。また、轟城主垣屋駿河守家の子孫は、江戸時代に至って龍野藩脇坂家に仕え、駿河守系の系図は「龍野垣屋系図」といわれ、本姓源氏で山名氏の支流としている。

これらのなかで、従来もっとも信頼がおかれ、但馬内の多くの史書に採用されているのが『因幡垣屋系図』である。ところが、この系図も含めて垣屋氏系図全部に共通していることは、第一級古文書史料上にみえる垣屋姓の人物の名前がほとんど見られないことである。これに対し、『校補但馬考』にも採用されていないもうひとつの「紀州垣屋系図」がある。こちらの系図に記されている人名は、文書史料上の名前とよく合致している。この系図は日高町の井垣寿一郎が、和歌山県に照会して入手したもので『但馬志料』に収められた。しかし、古代までさかのぼる系譜でなかったことから『校補但馬考』には採用されなかったといわれる。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

室町-2 守護大名 山名(やまな)氏

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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守護大名 山名(やまな)氏

守護 山名氏垣屋氏太田垣氏八木氏田公氏宿南氏
田結庄氏塩冶氏篠部氏丹生氏長氏下津屋氏磯部氏ほか家臣但馬の鉱山但馬征伐大航海時代と世界経済

概 要

国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する守護大名の時代に入ります。荘園・公領に在住する民衆は、村落を形成し、自立を指向していきました。このような村落を惣村といいます。畿内では惣村の形成が著しく、民衆の団結・自立の傾向が強かったのでう。東北・関東・九州ではより広い荘園・公領単位でのゆるやかな村落が形成され、これを郷村と呼ぶこともあります。これら惣村・郷村は高い自治能力を醸成していき、荘園領主から直接、年貢納入を請け負う地下請(じげうけ)が行われることもありました。守護大名の権限強化と惣村・郷村の自立とによって、荘園は次第に解体への道を進んでいくこととなりました。
目次

  1. 山名氏の起源
  2. 南北朝時代と四職
  3. 六分一殿
  4. 此隅山城
  5. 明徳の乱と山名氏の再起
  6. 応永の乱
  7. 生野城

但馬山名勢力図 クリック拡大

山名氏の起源

二つ引両/桐に笹(清和源氏新田氏流)
■山名氏系図
 山名氏は清和源氏の名門・新田氏の一族とされ、新田氏の祖である新田義重の長男、三郎義範(または太郎とも)が本宗を継承せずに上野国多胡郡(八幡荘)山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)に住して山名三郎と名乗ったことから、山名氏を称して山名氏の祖(山名氏初代)となったとされます。
義範は『平家物語』にみえる山名次郎範義、『源平盛衰記』に山名太郎義範と記されている人物と同一人であろうとされています。さらに『東鑑』にも山名冠者義範の名が見えます。義範は源平の争乱期にあって源氏方として活躍、「平氏追討源氏受領六人」の一人として伊豆守に任じられました。
源姓山名氏の場合、鎌倉幕府草創期に初代義範が活躍したものの、以後、歴史の表面にはほとんどあらわれてこない。おそらく、里見・大井田・大島氏らの新田一族諸氏とともに新田氏を惣領として仰ぎ、多胡郡の領地経営に汗を流していたのであろう。鎌倉時代には、早くから源頼朝に従いて御家人となります(異説では岩松氏と共に足利一門ともいわれるが、それが間違いとも誤りともされるが、真偽の程は謎のままである)。源氏将軍家が三代で断絶してのちの幕府政治は、執権北条氏が次第に実権を掌握していきました。鎌倉時代中期を過ぎるころになると、北条得宗家の専制政治が行われるようになり、幕府創業に活躍した御家人の多くが滅亡あるいは没落していきました。源氏一門では足利氏が勢力を保つばかりで、山名氏の惣領新田氏は衰退を余儀なくされていきました。山名時氏は「初め元弘より以往は、ただ、民百姓の如くにして、上野の山名という所より出侍しかば、渡世の悲しさも、身の程も知りにき」と言っています。つまり足利と縁が生じ五ヶ国の守護に栄進したが、それ以前は関東の地にあって農作業に明け暮れている身分だったのである。素直に自分の前歴を告白しています。しかし、今川貞世(了俊)の著した『難太平記』によれば、民百姓の暮らしをしていたとされていますが、山名氏は鎌倉幕府成立時からの御家人であり、かつ上杉氏と姻戚関係を結んでいることから低い身分とは考えがたく、この記述は、今川貞世がライバルである山名氏を貶めたものと考えられます。山名氏が大きく飛躍するきっかけとなったのは、元弘・建武の争乱でありました。ときの当主山名政氏と嫡男時氏は惣領新田義貞に従って行動したようです。
元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅亡、翌建武元年に後醍醐天皇の親政による建武の新政が発足しました。倒幕の功労者である新田義貞が勇躍して上洛すると、時氏ら山名一族もそれに従ったようです。ところが、新政の施策は武士らの反発をかい、一方の倒幕の功労者である足利尊氏に武士の期待が寄せられました。やがて、北条氏残党による中先代の乱が起ると、尊氏は天皇の許しを得ないまま東国に下向、乱を鎮圧すると鎌倉に居坐ってしまいました。天皇は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍を発向、尊氏は箱根竹の下において官軍を迎え撃ちました。この戦いにおいて、山名政氏・時氏父子は義貞を離れて尊氏に味方して奮戦、尊氏方の勝利に大きく貢献しました。かくして、山名氏は新政に叛旗を翻した尊氏に従って上洛、尊氏が北畠顕家軍に敗れて九州に奔ると、それに従って尊氏の信頼をかちとりました。九州で再起をはたした尊氏が上洛の軍を起こすと、時氏は一方の将として従軍、湊川の合戦、新田義貞軍との戦いに活躍しました。尊氏が京都を制圧すると後醍醐天皇は吉野に奔って南朝をひらかれ、尊氏は北朝を立てて足利幕府を開きました。(南北朝の対立)。建武四年(1337)、時氏の一連の軍功に対して、尊氏は伯耆守護に補任することで報いました。かくして、時氏は山名氏発展の端緒を掴んだのです。二代将軍足利義詮の時代に切り取った領国の安堵を条件に室町幕府に帰順。時氏は因幡国・伯耆国・丹波国・丹後国・美作国の五カ国の守護となりました。

南北朝時代と四職

 暦応四年(1341)、幕府の重臣で出雲・隠岐両国の守護職塩冶(えんや)高貞が尊氏に謀反を起こし、領国に走るという事件が起りました。時氏は嫡男の師義とともに高貞を追撃すると出雲において高貞を誅しました。その功績によって、時氏は出雲・隠岐、さらに丹後の守護職に補任されました。高貞の謀反は、幕府執事高師直(こうのうじなお)が高貞の妻に想いを寄せたことが原因といわれますが、真相は不明です。その後、出雲・隠岐守護職は高貞と同族である佐々木高氏(道誉)が任じられ、時氏は丹波守護に補任されました。そして、貞和二年(1345)には侍所の頭人(所司)に任じられ、山名氏は赤松・一色・京極氏と並んで四職の一に数えられる幕府重臣へと成り上がりました。

やがて尊氏の弟直義と執事師直の対立から、幕府は直義派と師直=尊氏派とに二分され、観応元年(1350)、観応の擾乱が勃発しました。擾乱は師直の敗北、さらに直義の死によって終息したが、幕府内部の抗争により時代はさらに混乱の度を深めていきました。はじめ時氏は尊氏に味方していましたが、のちに直義派に転じ、直義が謀殺されたときは任国の伯耆に戻っていました。時氏は義詮方の重鎮である出雲守護職佐々木道誉をたのんで尊氏方への復帰を画策しましたが、道誉の態度はすげなく、腹をくくった時氏・師義らは出雲に侵攻すると出雲と隠岐を制圧しました。

山陰地方に大勢力を築いた時氏らは、南朝方と呼応して文和二年(1353)には京に攻め入り、京を支配下におきました。そして、直義の養子である直冬に通じて義詮方と対抗しました。以後、直冬党として幕府と対立を続けましたが、貞治二年(1363)、安芸・備後で直冬が敗れて勢力を失うと、大内氏につづいて幕府に帰順しました。帰順の条件は、因幡・伯耆・丹波・丹後・美作五ケ国の守護職を安堵するというもので、「多くの所領を持たんと思はば、只御敵にこそ成べかれけれ」と不満の声が高かったと伝えられています。いずれにしろ、幕府の内訌、南北朝の動乱という難しい時代を、山名時氏はよく泳ぎきったのです。
時氏には嫡男の師義を頭に多くの男子があり、子供らの代になると山名氏の守護領国はさらに拡大されることになりました。

山名時氏(六分一殿、但馬山名初代)

応安三年(1370)、山名時氏(ときうじ)は師義(もろよし)に家督を譲ると翌年に死去、山名氏の惣領となった師義は、但馬と丹後の守護職を継承、あとは弟氏清らに分け与えました。永和二年(1376)、弟時義も若年より父時氏に従って兄師義らとともに行動、いちはやく上洛を果たして幕府の要職の地位にありました。師義死去のときは伯耆守護でしたが、家督を継いだ時義は但馬守護職にも任じ、さらに、備後・隠岐の守護職も兼帯しました。
山名時氏が没すると山名一族は大きく躍進、

  • 惣領を継いだ長男の師義は丹後国・伯耆国、
  • 次男の義理は紀伊国、
  • 三男の氏冬は因幡国、
  • 四男の氏清は丹波国・山城国・和泉国、
  • 五男の時義は美作国・但馬国・備後国
    の守護となりました。
    師義の子の満幸は新たに播磨国の守護職も得ています。このころの但馬は、古くからの守護太田氏が亡び、幕府から新しい守護も任命されましたが、南北朝の争乱で実権はなく有名無実のありさまでした。古くからの豪族で出石氏や太田氏の支族もありましたが、南北朝に分かれての戦いが但馬でも繰り返され、土地の武士たちも、その時々に応じて実力のある側について左右するありさまでした。
    そのうちにとなりの因幡・伯耆をもつ新しい勢力の山名氏の力が次第に伸び、大きな合戦もないまま、但馬の豪族はこれに従い、完全に山名の支配下に置かれたようです。但馬を手に入れて守護となった時義は、本拠を宮内(豊岡市出石町)において此隅城(このすみじょう)を築きました。但馬の本拠をここに定めたのは、天日槍(あめのひぼこ)の昔から但馬の中心地で、但馬一の宮の出石神社があり、歴史的な中心地だったからだと考えられます。
    時義は父時氏が亡くなったあと、惣領職を継いで山名の宗本家となり、山名一族の勢力も強大になりました。「明徳記」という本には「山名伊予守時義但馬に在国して京都の御成敗にも応ぜず雅意(自分の心)に任せて振る舞い…」とあるほどでした。時義は多く京都に住んでいたようで、守護代を但馬に送っていた記録もあります。時義は風流な戦国の武将だったらしく、此隅城の北の神美村長谷の荒原に咲くカキツバタの美しい眺めが好きで、有名な三河の八橋になぞらえて楽しんだと伝えられますが、病気にかかって若くして亡くなりました。
    そのあとを継いだ時熈(ときひろ)のころには、山名一族の勢力はさらに大きく伸びて、全国六十余州のうち、十一ヶ国の守護をかね世に「六分一殿」と呼ばれました。

応永の乱

 応永の乱(おうえいのらん)は、室町時代の応永6年(1399年)に、周防国・長門国・石見国の守護大名の大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こして堺に篭城して滅ぼされた事件です。
室町幕府の将軍は有力守護大名の連合に擁立されており、その権力は弱体なものでした。三代将軍足利義満はその強化を図りました。花の御所を造営して権勢を示し、直轄軍である奉公衆を増強して将軍権力を強化しました。また、義満は有力守護大名の弱体化を図り、康暦元年(1379年)、細川氏と斯波氏の対立を利用して管領細川頼之を失脚させ(康暦の政変)、康応元年(1389年)には土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、これを下します(土岐康行の乱)。そして、明徳2年(1391年)、11カ国の守護となり『六分の一殿』と呼ばれた大勢力の山名氏の分裂をけしかけ、山名時熙と氏幸の兄弟を一族の氏清と満幸に討たせて没落させました。さらに、氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込み滅ぼしました。これによって、山名氏は3カ国を残すのみとなってしまいました(明徳の乱)。
山名氏が大きく勢力を後退させたのち、にわかに勢力を伸張したのは大内義弘でした。明徳の乱で義弘は九州探題今川了俊に従軍して九州の南朝方と多年にわたり戦い、豊前守護職を加えられました。また南北朝合一を斡旋して功績があり、足利氏一門の待遇を受けるまでになりました。義弘は明徳の乱に氏清勢を撃退する抜群の功を挙げ、和泉・紀伊両国の守護職に任じられ、一躍六ヶ国の守護職を兼帯しました。さらに領内の博多と堺の両港による貿易で富を築くと、その勢力を背景として南北朝統一の根回しを行い、その実現によって得意絶頂を迎えました。義弘は本拠が大陸と近い地理を活かして朝鮮との貿易を営み巨万の富を蓄えていきました。義弘は朝鮮の要請に従って倭寇の禁圧に努力して朝鮮国王から称賛されており、義弘は使者を朝鮮に送って祖先が百済皇子であることから、朝鮮国内の土地を賜ることを願うなど朝鮮との強いつながりを持っていました。
周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6カ国の守護を兼ね貿易により財力を有する強大な大内氏の存在は将軍専制権力の確立を目指す義満の警戒を誘いました。有力守護大名の弱体化を策する義満は、大内義弘の存在を目障りに思うようになり、両者の間には次第に緊張がみなぎるようになりました。ついに義満打倒を決した義弘は、鎌倉公方足利満兼、美濃の土岐氏、近江の京極氏らと結び、これに旧南朝方諸将も加担しました。さらに、山名氏清の子宮田時清が丹波で呼応しました。かくして、応永六年(1399)、堺に拠った義弘は義満打倒の兵を挙げたのです。乱は幕府軍の勝利に帰し、これにより義満を頂点に戴く幕府体制が確立されました。応永の乱に際して、但馬兵を率いた時熙は丹波に出兵して宮田時清を撃退。さらに堺の合戦において被官の大田垣式部入道が目覚ましい活躍をみせ、時熙は備後守護を与えられました。
垣屋氏は山名氏の上洛に従って西上した土屋一族で、時熙に味方した垣屋弾正は、乱戦のなかであやうく命を落としかけた時熙を助けて壮烈な討死を遂げました。弾正は明徳の乱を引き起こした張本人は時熙であり、世間の目も時熙に辛辣でした。ここは誰かが勇戦して討死、山名氏の名誉回復を図るべしとして、死装束をして合戦に臨んだと伝えられています。果たして、弾正の壮烈な討死によって、時熙はおおいに名誉を回復することができたのでした。この弾正の功によって垣屋氏は、没落した土屋氏に代わって一躍山名氏家中に重きをなすようになりました。一方、応永の乱で活躍した太田垣氏は、乱後、但馬守護代に抜擢されました。その後、時熙が備後守護に補任されると大田垣氏が備後守護代に任じられ、但馬守護代には垣屋氏が任じられました。こうして、垣屋氏・大田垣氏は山名氏の双璧に台頭、のちに八木氏、田結庄氏を加えて山名四天王と称されることになります。その後、時熙は幕府内における地位を確立するとともに、但馬・因幡・伯耆に加えて、備前・石見・安芸守護職を山名氏一族で有するに至りました。時熙は将軍義満、義持に仕え、山名氏の勢力を回復していったのです。正長元年(1428)、義持が病死したとき、すでに嫡男の義量は亡くなっていたため、つぎの将軍を籤引きで選ぶことになりました。この件にもっとも深く関与したのは三宝院満済と管領畠山満家、そして山名時熙でした。このころになって、山名氏は、その国をもとに伯耆山名・因幡山名・但馬山名の三国に分かれた形をとりますが、その主流はやはり但馬山名でした。この時熈のころ、その帰依を受けた大機禅師により、此隅城下に多くの寺院が創建されました。
神美村長谷の大安寺、倉見の宝勝寺、森尾の盛重寺がそれです。また宮内に宗鏡寺や願成寺が建てられたのもこの頃だと考えられます。そのほか宮内の惣持寺にも篤い信仰を寄せており、時熈の一面がうかがわれます。これらの寺院はその後山名氏の保護の元に栄えますが、山名が亡ぶとともに衰え、現在ではなくなったものもあります。
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此隅山城(このすみやまじょう)

 此隅山城は、兵庫県豊岡市の出石坪井にある山城。のちに別名「子盗城(こぬすみじょう)」と呼ばれましたが、これは不吉な呼び方としてのちに築城した城には有子(こあり)山城と名づけています。国指定史跡。文中年間(1372)ころ、但馬一の宮・出石神社に近い、北西にある独立した丘陵、標高140mの此隅山に山名時義が築城しました。南は気多郡・播磨方面、西方は豊岡・因幡方面、東方は丹後・丹波の三方が見渡せる山頂にあり、主郭は東西10-15m×南北50mで北西側に高さ2mの段差で区画された西郭があり、また南側には高さ3mの切岸で区画された郭が3-4段配置され、この部分が城の中枢と考えられます。大手は南麓から主郭南側に繋がるコースが想定されます。

此隅山城は但馬守護職に補任された時熙が、この頃に築いたと考えられます。以後山名氏の居城となりました。応仁元年(1467年)、応仁の乱が始まると、此隅山城には各国から2万6000騎の西軍の軍勢が集まり、山名宗全は当城から京都へ出陣しました。永禄12年(1569年)、山名祐豊の時、羽柴秀吉に攻められ落城。祐豊は、より高所にある有子山城に居城を移し、城は廃城となりました。
そして時義の築いた此隅城は、規模こそ大きなものではありませんが、その占める意味は山名王国の首都ともいえる地位にあり、応仁の乱などで京都に出陣する時には、その大根拠地となり、宮内を中心にいちど兵力を結集してから隊をつくって出陣したといわれます。
持豊(宗全)が家督を継いで間のない永享八年(1436)、出石神社に奉納した願いの文が神床家に伝わっており「自分が父祖重代の後を継ぎ、親族の首領に立ったが、神明の助けがなければつとまりません。なにぶんお加護をお願いします。」とあり、これは山名宗本家の首領となった持豊(宗全)が但馬の一の宮に祈願したものです。
持豊(宗全)はほとんど京都におりましたが、享徳三年(1454)ごろには但馬に在国しております。これは最大の勢力となった持豊(宗全)に将軍義政が脅威を感じて討伐しようとしたのですが、のちに応仁の乱で対立する細川勝元の計らいで中止されます。そのため将軍から「但馬に在国して上洛すべからず。」と命じられ、本国の但馬に帰って、かわりにこの教豊(のりとよ)を京都に出仕させました。

明徳の乱と山名氏の再起

しかし、「満つれば欠くる」のたとえもある如く、一族が分立したことは内訌の要因になるのでした。さらに、三代将軍足利義満は強大化した山名氏の存在を危惧するようになり、ついにはその勢力削減を考えるようになりました。そのような状況下の康応元年(1389)、惣領の時義が四十四歳の壮年で死去しました。その子の義幸、氏之、義熈、満幸は若年であったため、中継ぎとして弟の時義が惣領となりました。これに対して、長男の氏清とその婿の満幸が不満を示します。こうして、さしもの隆盛を誇った山名氏も、将軍義満の巧みな謀略にのせられて大きく勢力を後退させたのでした。とはいえ、但馬・伯耆・因幡は山名氏の勢力が浸透していた地域であったことは、山名氏にとっては不幸中の幸いでした。 氏清の弟・山名時義が後を継いで山名氏の総領となり、氏清は丹波、和泉を領する守護に命じられましたが、総領になれなかったことに不満を持ち、時義と常に対立していたといいます。
明徳元年(1390年)三月、山名一族で時熈に対立する満幸と叔父の氏清が、時熈を将軍義満にざん訴しました。義満は待っていたとばかりに、時義が生前将軍に対して不遜であり、後を継いだ時熙とその弟の氏幸も不遜な態度が目立つとして、討ち手の大軍を但馬に送り、時熈と氏幸の討伐を命じました。義満が山名氏の勢力削減を狙った策謀であることは明白でしたが、氏清は「一家の者を退治することは当家滅亡の基であるが、上意故随わざるを得ぬ。しかしいずれ二人が嘆願しても許されることはないか?」と確認したうえで出陣しました。
時熙と氏幸は挙兵して戦いますが、氏清が時熙の本拠但馬、満幸が氏幸の本拠伯耆を攻め、翌明徳2年(1391年)に時熙は但馬を逃れ、剃髪して備後に引きこもりました。戦功として氏清には但馬国と山城国、満幸には伯耆国と隠岐国の守護職が新たに与えられました。
ここで勢力を占めた満幸は、勢いに乗って出雲にある京都の仙洞御所領(上皇の領地)を占領しました。なおも山名氏の分裂を策する将軍義満は、許しを乞うた時熙・氏之らを赦免、代わりに今度は氏清・満幸らを挑発しました。義満の不義に怒った氏清は満幸・義理らを誘い、南朝方に通じて大義名分を得ると、明徳二年の暮に京へと進撃しました。これが明徳の乱です。そして元中8年・明徳2年(1391年)、氏清は足利義満の挑発に乗って一族の山名満幸・山名義理とともに挙兵(明徳の乱)、同年12月には京都へ攻め入るも、幕府軍の反攻にあって氏清は戦死、満幸は敗走、義理は出家という結果になりました。この満幸を討つために、備後に引きこもっていた時熈らを許し、幕府軍と協力して討伐に当たらせました。
この乱によって、但馬国衆は山名氏清方と山名時熙方に分かれて相分かれて戦ったことで、国衆の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていました。したがって、優秀な人材に対する時熈の期待は大きかったのでした。時熈は奮戦めざましく、満幸軍を破って敗走させました。この戦いで時熈の家来垣屋弾正は、弥陀(みだ)の名号や曼陀羅を袋に入れて首にかけて戦い、時熈が強敵八騎に取り囲まれて危ないところを救い出し、自分は戦死するなどめざましい働きをしました。戦後の山名氏は存続こそ許されたものの、山名時熙の但馬守護職、同じく時義の子・氏幸の因幡守護職のみとなり、因幡山名家と但馬山名氏が対立していたことが窺え、一族は大幅にその勢力を減ずるに至ったのです。この明徳の乱で、氏清は斬られ満幸は敗れ、時熙に但馬国守護として山名の惣領に返り咲きました。氏幸に伯耆国、氏冬に因幡国の守護職がそれぞれ安堵されました。但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦いました。有力国衆の多くは氏清方に味方し、土屋氏、長氏、奈佐氏らが勢力を失いました。なかでも土屋氏は一族五十三人が討死するという惨澹な有様で、山名氏は多大な人的損害を被りました。時熈は山名氏を掌握したものの、家臣団の人材不足は深刻でした。そのようななかで、頭角をあらわしたのが垣屋氏と太田垣氏で、垣屋氏は土屋氏の庶流、太田垣氏は日下部一族の末流で、山名氏家臣団には大きな逆転現象が起こったのです。この状況にあって急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏でした。とくに「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけたのです。
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生野城(古城山=いくのじょう)

足利三代将軍義満の時代、幕府には、最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいました。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(トップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていました。応永三十四年(1427)十月、四職のひとりである赤松満祐(みつすけ)が、父義則の三十五回忌の法要仏事を赤松家の菩提寺である東山龍徳寺で行っておりました。その時、将軍義持の使者として、南禅寺の長老が来て一通の書状を手渡しました。その文面は赤松満祐の領地播磨国を足利将軍の直轄地として、そこの代官職を分家筋にあたる赤松持貞に代えるという思いがけないものであったのです。これにはいろいろ原因があるのですが、つまりは満祐は将軍義持に嫌われており、その間に立って持貞がうまく将軍に取り入っていたことのよるものと伝えられています。

この意外な書状を読んだ満祐は、たとえ父が死んだといっても播磨国は祖父円心以来立派に治めてきた土地であるから、領地を取り上げられることは許してもらいたいと、たびたび願ったのですが、ついに聞き入れてもらえなかったのです。そこで満祐も仕方なくこれに従うことを伝え、その日の仏事を住ませたのち自分の屋敷に帰り、決心して多くの財宝を召使いの者に分けた与え、屋敷には火をかけ焼き払い、夜にまぎれて本国の播磨へ引き上げてしまいました。
これを知った将軍義持はたいそう怒って、「播磨一国を取り上げてもまだ備前・美作の二国があるにもかかわらず、このような反抗は許し難い。残る一国も他の赤松家に与え、満祐を討伐せよ。」
ということになって、その命令が山名時熈(ときひろ)と一色義貫(よしつら)に下ったのです。しかし、一色は様子を見るために出発しなかったようです。

山名時熈は将軍義持の命に従い、すぐに京都から本国の但馬に帰り、赤松満祐討伐のため、播但の要衝である生野を選び、その北にそびえる標高六百mの山上に城を築きました。「銀山旧記」という古文書によりますと、「ここ二十間(約36m)四方の居所を構え、尾崎尾崎に物見をつけ、厳重の要害なり。」と書かれています。これから考えてみますと山上に“館(たて)”といわれるような建物を造り、その尾根続きの要所には見張所も構えていたものと思われます。こうした陣をしいて敵方の様子をうかがっていたわけで、時に応永三十四年(1427)の十一月も末頃のことといわれています。
一方播磨国に引き上げた赤松満佑は、一族を集めて本拠の白旗城に立てこもり、戦いの体制を整えながらも、今一度将軍義持にあてて、「自分の所領地は播磨一国でいいから、先祖から受け継いだ土地として相続させてもらいたい。そしてこの度の軽率な行動は深くお詫びするから許してほしい。」という書状を送ったのですが、将軍義持は承知しませんでした。
ところが、そのころになって、今まで将軍義持のお気に入りであった分家筋の赤松持貞がおごりにふけって良よからぬことをしていたことがわかり、将軍義持は大へん怒って持貞に切腹を命じ、それまで憎んでいた満祐に対して心機一転その謀反の罪を許すことになりました。また、管領畠山氏のすすめで、満祐もとりあえず家臣を名代として京都へ送り幕府にあやまり、自分も十二月中ごろに上洛して、謀反の罪を詫びましたので、ことは無事に治まり、満祐は父の後を継ぎ播磨国を治めることができ、とにかく落ち着いたのです。

こうしたことで、生野城砦にいた山名時熈は、かねがね尊敬していた黒川村大明寺の月庵和尚の墓に参って、新しく香華を供えたと伝えられています。山城跡は“御主殿”とも“古城山”とも呼ばれ、その雄大な姿は生野小学校校歌にも取り入れて歌われ、生野銀山発祥の地として郷土史に輝いているのです。
「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝

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室町薄群青(うすぐんじょう)#5383c3最初のページ戻る次へ
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たじまる 室町-1

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

室町時代は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。足利氏が将軍だったことから足利時代とも呼ばれる。
足利尊氏が1336年(建武3年、北朝延元元年)に建武式目を制定し、1338年に征夷大将軍に補任されてから、15代将軍義昭が1573年(元亀4年)に織田信長によって追放されるまでの237年間を指す。
しかし、建武新政期を含む最初の約60年間を南北朝時代、最後の約80年間を戦国時代と区分して、南北朝合一(1392年)から明応の政変(1493年)までの約100年間を狭義の室町時代とする場合も多い。

守護大名

室町幕府が成立すると、国内統治を一層安定させるため、1346年(貞和2)幕府は刈田狼藉の検断権と使節遵行権を新たに守護の職権へ加えた。刈田狼藉とは土地の所有を主張するために田の稲を刈り取る実力行使であり、武士間の所領紛争に伴って発生した。使節遵行とは幕府の判決内容を現地で強制執行することである。これらの検断権を獲得したことにより、守護は、国内の武士間の紛争へ介入する権利と、司法執行の権利の2 つを獲得することとなった。また、当初は現地の有力武士が任じられる事が多かった守護の人選も次第に足利将軍家の一族や譜代、功臣の世襲へと変更されていきます。

室町中期までに、幕府における守護大名の権能は肥大化し、幕府はいわば守護大名の連合政権の様相を呈するようになる。当時の有力な守護大名には、足利将軍家の一族である斯波氏・畠山氏・細川氏をはじめ、外様勢力である山名氏・大内氏・赤松氏など数ヶ国を支配する者が出現しました。これら有力守護は、幕府に出仕するため継続して在京することが多く、領国を離れる場合や多くの分国を抱える場合などに、守護の代官として国人や直属家臣の中から守護代を置き、さらに守護代も小守護代を置いて、二重三重の支配構造を形成していきました。

■守護大名 室町時代

領国室町前期中期後期
畿内山城国 やましろ畠山氏京極氏細川氏
大和国 やまと興福寺
河内国 かわち畠山氏
和泉国 いずみ畠山氏細川氏
摂津国 せっつ細川氏赤松氏
山陰道丹波国 たんば仁木氏山名氏細川氏
丹後国 たんご山名氏一色氏武田氏
但馬国 たじま今川氏山名氏
因幡国 いなば山名氏
伯耆国 ほうき山名氏
出雲国 いずも山名氏京極氏
石見国 いわみ山名氏大内氏
隠岐国 おき山名氏京極氏
山陽道播磨国 はりま赤松氏山名氏赤松氏
美作国 みまさか赤松氏山名氏赤松氏
備前国 びぜん赤松氏山名氏赤松氏
備中国 びっちゅう渋川氏細川氏
備後国 びんご細川氏山名氏
安芸国 あき武田氏山名氏
周防国 すおう大内氏
長門国 ながと厚東氏大内氏
南海道紀伊国 きい畠山氏細川氏畠山氏
淡路国 あわじ細川氏
阿波国 あわ細川氏
讃岐国 さぬき細川氏
伊予国 いよ河野氏細川氏河野氏
土佐国 とさ細川氏
西海道豊前国 ぶぜん少弐氏大友氏大内氏
豊後国 ぶんご大友氏
筑前国 ちくぜん少弐氏大内氏
筑後国 ちくご大友氏菊池氏大友氏
肥前国 ひぜん少弐氏渋川氏
肥後国 ひご大友氏阿蘇氏菊池氏
日向国 ひゅうが島津氏
大隅国 おおすみ島津氏
薩摩国 さつま島津氏
壱岐国 いき京極氏
対馬国 つしま宗氏
領国室町前期中期後期
東海道伊賀国 いが仁木氏
伊勢国 いせ土岐氏一色氏北畠氏
志摩国 しま土岐氏一色氏北畠氏
尾張国 おわり土岐氏斯波氏
三河国 みかわ高氏一色氏細川氏
遠江国 とおとうみ今川氏斯波氏今川氏
駿河国 するが今川氏
伊豆国 いず上杉氏
甲斐国 かい武田氏
相模国 さがみ三浦氏上杉氏
武蔵国 むさし高氏上杉氏
安房国 あわ上杉氏
上総国 かずさ上杉氏
下総国 しもうさ千葉氏
常陸国 ひたち佐竹氏
東山道近江国(北) おうみ京極氏
近江国(南)おうみ六角氏
美濃国 みの土岐氏
飛騨国 ひだ京極氏
信濃国 しなの斯波氏小笠原氏
上野国 こうずけ上杉氏
下野国 しもつけ宇都宮氏小山氏
出羽国 でわ
陸奥国 むつ北条氏伊達氏
北陸道若狭国 わかさ斯波氏一色氏武田氏
越前国 えちぜん斯波氏朝倉氏
加賀国 かが斯波氏富樫氏
能登国 のと吉見氏畠山氏
越中国 えっちゅう斯波氏畠山氏
越後国 えちご上杉氏
佐渡国 さど上野氏高氏

※比較的短期間の大名は省略しています。

南北朝時代

内乱の中で、足利尊氏ら武士勢力にとっても、「天皇制は必要」でした。幕府の重職の中には、天皇をないがしろにする行動が見られました。たとえば、美濃国の守護、土岐頼遠は京都で光厳上皇の行列に行き会って、「院のお車であるぞ、下馬せよ」と注意を受けると、「なに、院というか、犬というか、犬ならば射ておけ」と、上皇の牛車を取り囲み、なんと犬追物をするがごとくに矢を放ちました。牛車は転倒したといいますから、まかり間違えば上皇の命に関わる所行でした。

近江国を掌握する京極導誉は、光厳上皇の兄弟で、天台座主を務めた妙法院宮亮性法親王の邸宅に焼き討ちをかけ、重宝を奪い取りました。激怒した比叡山が導誉の処刑を申し入れると、出羽国への流罪が決定しました。しかし、三百騎を率いて京都を出発した導誉は諸処で宴会を催し、適当なところから帰京してきました。あたかも物見遊山です。

将軍の執事、高師直(こうのもろなお)に至っては、「京都には王という一がいらっしゃって、多くの所領を持っている。内裏とか院の御所とかがあって、いちいち馬を下りねばならぬ面倒くささよ。もし王がどうしても必要だという道理があるのなら、木で造るか、金で鋳るかして、生きている院や国王(天皇)はみな流し捨て奉れ」。また配下の武士たちに、「土地が欲しければ貴族様の庄園だろうと、由緒ある寺院の所領だろうと、構うものか。好きなだけ奪い取れ。あとは私が、庄園領主のみなさまに適当にいい繕っておいてやるから」とも指示していました。

しかし、こうした風潮の中で、それでも天皇制は生き延びました。必要とされたのです。それはいうまでもなく、京に居住する天皇・貴族・大寺社を名目的にせよ上位者と仰ぐ、平安時代以来の土地所有の方法であったからです。幕府は「職の体系」を越える理論を用意することができなかったのです。
足利尊氏と直義の兄弟は、一致協力して室町幕府の発展に努めていました。尊氏は将軍として全国の武士を束ね、所領の安堵を行うとともに、軍事活動の指揮を執っていました。直義は鎌倉時代に進展した統治行為を継承し、さらに展開して、行政・司法を司っていました。二人は互いの活動と権限を重ね合わせ、新たな将軍権力を創出したのです。南北朝時代、以後六十年にわたって天皇家が分裂します。争乱といっても両者がまともに戦えたのはわずか一、二年でした。1338(暦応元)年五月、北畠顕家が率いる奥州勢が、和泉国堺で壊滅しました。壊滅は「中央集権はもはや機能しない。地方を重視し、委譲せよ」等、建武新政を痛烈に批判した後に戦死を遂げました。閏七年には越前で新田義貞が敗死しました。これをもって南朝の組織的な抵抗は頓挫します。あとは各地で小規模な局地戦が継続していきます。

新田義貞を中心に南朝に参加した新田一族と異なり、山名時氏は縁戚の足利尊氏に従いましました。尊氏の世がくると時氏も運気を掴み、守護大名として山陰地方に大勢力を張り、足利三代将軍義満の時代、幕府には、最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいました。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(トップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていました。その後の観応の擾乱では、南朝側に与して足利直冬に従いましたが、足利義詮時代には幕府側に帰参しました。

足利氏の姻族である上杉氏との縁戚関係などから、新田一族の惣領である新田義貞には従わずに、足利尊氏の後醍醐天皇からの離反、湊川の戦いなどに参加。南朝(吉野朝廷)との戦いで名和氏掃討を行い、伯耆の守護となります。

その後は山陰において、幕政の混乱にも乗じて影響力を拡大して播磨の赤松氏とも戦います。幕府では1367年に細川頼之が管領に任じられ、南朝との戦いも小康状態になると、大内氏や山名氏に対して帰順工作が行われ、時氏は領国の安堵を条件に直冬から離反、1363年(貞和2)8月には上洛し、大内氏に続いて室町幕府に帰順します。幕府では、義詮正室の渋川幸子や、同じく幕府に帰順した斯波義将、大内弘世らとともに反頼之派の武将でした。73歳で死去。
山名氏の築城に功績のあった人として山名師義がいます。師義は、氏清の弟、兄弟に義理、氏冬、氏清、時義。観応の擾乱では直義方・南朝方に属した父の時氏に従い、兄弟たちと共に尊氏方・北朝方の赤松氏と争い、中国地方における勢力拡大に務めます。

貞和8年(1363年)に山名一族が北朝に帰順すると、丹後国(京都府)・伯耆国(鳥取県)の守護職を引き継ぎました。幕政においては三管領の細川頼之らと派閥抗争を繰り広げました。1371年に時氏が死去すると惣領となります。
伯耆国に打吹山城(鳥取県倉吉市・伯耆国の守護所)を築き、時氏統治時代の居城田内城(たうちじょう)から移転しています。文中年間(1372~74)出石神社の西側の此隅山(このすみやま)に、此隅山城を築きました。此隅山城は長らく山名氏の本拠でした。
まもなく師義も49歳で死去し、山名一族内紛の一因となります。

大岡山と進美寺

東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、大岡山は、対照的に気多郡の西になだらかな稜線をした山です。『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっています事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。
古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。

日高町の南東に位置する須留岐山は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもありました。山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)で、進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。

山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されている私寺だったのであります。

『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多いのも、但馬国府・国分寺が置かれていたためでしょう。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。

大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でしました。
進美寺も同じく天台宗です。山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのでしょう。

大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の流れで、朝来郡で優勢な郷士で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に備後に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。
旧大岡寺庭園は、兵庫県豊岡市にある日本庭園。国指定名勝。発掘調査の結果、室町時代末期に作庭され、江戸時代初期に改修されたことが判明しました。
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進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中しているからであります。
しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙に国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代(もくだい)と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。
大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。

城にまつわる話し

城史にまつわる話は、あくまでも伝承であって、客観的な資料に裏付けされた史実ばかりではありませんが、意味もなく伝わったわけではなく面白いものです。三開山城(みひらきさんじょう)


三開山 豊岡市駄坂

豊岡盆地中央部東縁の三開山(標高201.6m)にあります。豊岡市街から見ると、六方田んぼの東側に、202mの低いけれど富士山に似たきれいな山が見えます。三開山は、見開山とも書かれたように、眺望の良い立地で、豊岡盆地を制する戦略的位置を占めます。山頂部に二曲輪(くるわ)、尾根にも数曲輪を残ります。

室町時代の初め-南北朝時代(1333~1392)に、後醍醐天皇を中心とする天皇親政派(南軍)と、足利尊氏を中心とする武家政治派(北軍)とが、激しく争って、日本の各地で戦争が絶えなかった時代です。

延元元年(1336)、南軍の楠木正成が湊川の合戦で敗れて、南軍の勢力が弱まる前後から、但馬の武士の多くは北軍に味方しましたが、それでもまだ南軍に味方するものもあって、津居山城や、気比の高城(いずれも豊岡市)には、北軍の今川頼貞が攻めてきて、これを落としています。

その翌年の延元二年に、南軍の総大将、新田義貞は、越前(福井県)に潜んでいましたが、とくに弟の秋田義宗を但馬の三開山に派遣して、但馬の南軍の全体の指揮に当たらせ、山陰地方の南軍と連絡を取るようにさせて、越前と但馬の両方から、京都に攻め入る作戦を立てていました。ところが、足利尊氏は、そうさせては一大事と、弟の直義にこれを討つように命じました。直義は家来の小俣来金を但馬に攻め入らせました。

秋田義宗は、進美(しんめいじ)山城(豊岡市日高町)や妙見山城(養父市八鹿町)と連絡を取りながら戦いましたが、あてにしていた因幡や伯耆(いずれも鳥取県)の南軍の応援もなく、小俣来金の激しい攻撃の前にあえなく落城し、義宗は越前に逃れました。

このあと、一時、山名時氏、師義の父子がこの城に入り、自分で但馬の守護だと称していたといわれていますが、その山名が足利方に追われる身となって、因幡に逃げている間の延文三年(1358)に再び、三開山城の麓の篠岡で、南北両軍が戦っています。

この時の城主はよく分かりませんが、攻めたのは北軍の伊達三郎という武将です。四月から七月にかけて篠岡の里をはじめ、六方田んぼで血みどろの戦いが行われています。七月のある時には、大洪水の六方田んぼに、南軍の数百そうの船が攻め寄せ、追いつめられた北軍は山の中へ逃げ込み、大将の伊達三郎も矢傷を受けるほどの大激戦でした。

しかし、結局、南軍が敗れ、三開山城は落城してしまいました。
一部に野面積みの石垣があり、南北両斜面に18本の堅堀を刻むなど、戦国時代の特徴を表すことから、時代的には1580年(天正8年)、羽柴勢の但馬攻めの時に落城したという地元の伝承を史実として肯定的に見直すこととなった。1337年(建武4年)、新田義貞の子・義宗を迎えて、但馬南朝勢力の拠点化を図ったと伝えるが、史実ではない。頂上には落城時の焦米(こげまい)が出るという。

■気多郡内の城跡

城 主所在地年代備 考
稲葉城大森飛騨守豊岡市日高町稲葉
太田の城山?豊岡市日高町太田
万場の城山豊岡市日高町万場
東河内の城山?豊岡市日高町東河内
来山城豊岡市日高町鶴岡
八代城藤井左京の居城豊岡市日高町八代・谷室町期
奥八代砦豊岡市日高町奥八代字宝城
進美寺山城(掻上城)豊岡市日高町赤崎・日置南北朝期(1333-)但馬南朝方の重要拠点城跡というより大寺院が軍事目的に利用され、戦国末期にも利用された
水生(みずのお)城南北朝:長左衛門尉、戦国期:榊原式部大輔政忠、次いで西村丹後守豊岡市日高町上石・上佐野但馬南朝の拠点 天正8年 秀吉但馬により攻略長楽寺の裏から山頂に至る間に数カ所の平坦地と、長城に伸びる尾根に掘割が数カ所在る。
上郷(かみのごう)城源満仲・源頼光・赤木丹後守豊岡市日高町上郷平安期:天徳年間(957-961)二段の土塁を持ち、ごく一部に石垣が残る。源満仲が但馬国司として赴任してきた時、築城。赤木丹後守は水生城合戦に参加した武士だという。
祢布城高田次郎貞長豊岡市日高町祢布南北朝期山名時氏に滅ぼされ廃城
森山城安田左近将監・紀伊守豊岡市日高町森山応安(1368-)~享禄(-1532)森山と知見境にある低い山(「あかんじゃ」「あかんじょ」とも呼ばれた)に二段の土塁と三カ所の掘割
篠森城足立忠経・足立肥前守豊岡市日高町久田谷1500~元亀三年(1572)久田谷入口の低い山、通称稲葉山
伊福(ゆう)城下津屋伯耆守日高町鶴岡室町時代(康正年間:1455-1457)
楽々前城(佐田城)[*10]山名氏守護代垣屋播磨守隆国日高町佐田室町時代(応永年間:1394-1428)
鶴ヶ峰城(三方富士)垣屋越前守続成の築城:垣屋御三家本城日高町観音寺室町時代(永正9年:1512)
宵田城(南龍城)隠岐守国重・筑後守忠顕:垣屋御三家・分家の城日高町宵田・岩中室町時代(永享2年:1430)

但馬にはこの他多数の城があります。くわしくは但馬の城をどうぞ。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
「日本の中世」放送大学教授 五味文彦、放送大学客員准教授・東京大学大学院準教授 本郷和人、放送大学客員准教授教・慶應義塾大学準教授 中島圭一『日高町史』、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

但馬の火山 神鍋山

神鍋山 万場から神鍋山を望む

わが日高町の神鍋(かんなべ)地区は、関西のスキー場として古くから知られるが、旧火山の神鍋山を中心に高原が広がり古来から人が早くから住み始めた。

兵庫県豊岡市日高町にある神鍋山は、大正時代に開かれた関西初のスキー場として知られています。約2万年前の火山活動でできたスコリア丘で、標高469m、周囲約750mの噴火口は深さ約40mの擂鉢状の草原になっています。北西隣の大机山、南東の太田山、ブリ山、清滝山といった単成火山とともに神鍋単成火山群を構成しています。周辺には同時代に生成された風穴・溶岩流・滝などがあり、同じくスキー場として知られる鉢伏高原(養父市)とともに早くから人が住み着いた遺跡や古墳が多数あります。

噴火した火山の火口跡が鍋のような形状から「神様のお鍋」という意味で神鍋山とついたのでしょう。これは上記のようにもともと「神奈備(かむなび)山」が訛って「かんなべ」となり、「神鍋」という字を当てたのではないかと思います。ゲレンデ名になっている岩倉という字名があり神奈備の磐座(いわくら)のことではないでしょうか。

気多人(けたじん)のルーツと思われる縄文人は、中国山地を尾根づたいに獲物を追ってやってきたとも考えられます。また、海水面が今よりも低かった頃、海岸づたいに転々と移り住みながら移動してきたと考えられます。

兵庫県内で古い遺跡が発見されたのは、温泉町畑ヶ平遺跡、養父町・但東町の尖頭器発見、 大屋町の上山高原で採集された一片の土器破片と、日高町神鍋ミダレオ遺跡(神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡)で見つかった爪型文土器、訓原古墳群、家野遺跡(旧石器/縄文集落跡)養父市別宮字家野(海抜6~700m、縄文早期までの複合遺跡)の2カ所です。2カ所は同じ山岳地帯で尾根でつながっています。人類は最初、山岳地帯から住み着いていました。

噴火した火山の火口跡を見つけた縄文人は、鍋のような形状から、「カネ・ナペ」、「神奈備(かむなび)」が訛って「かんなべ」となり、「神様のお鍋」、「神鍋」という字を当てたのではないでしょうか?!

このマオリ語のカネ・ナペとしても意味が通じるのです。これは神鍋山(かんなべやま)を神奈備と想定して、山神社、椒(ほそき)神社、雷神社の三つの名神大社を結ぶと正三角形に鳴ることに気が付きました。このトライアングルは、「三柱信仰」ではないか!と思うのです。

万場(マンバ)区は神鍋山から東に位置し、山田の奥神鍋スキー場と繋がるスキー場で、村落の氏神様が天神社です。てっきり名前から雷神社、山神社などとつながる古社のひとつだではないかと考えていたのですが、行く機会がなく初めて訪れました。境内の鳥居に天満宮と書かれてあり、したがって祭神はもちろん学問の神様菅原道真公です。

神鍋地区は古くは太多郷=旧西気村)で、鉢伏地区同様に意味不明の難解な地名の宝庫で、それだけ古くからの人が住み着いた歴史を感じさせます。神鍋(かんなべ)=カネ・ナペが訛った?、太田(ただ)、稲葉(いなんば)=イナパ?、山田(やまた)イヤマタ?、万却(まんごう)、名色(なしき)、万場(まんば)マパ?とポリネシア言語に近い発音です。この「まんば」は、マオリ語の「マノ・ポウ」、MANO-POU(mano=interior,heart,overflow;pou=pour out)、「水が流れ出す地中(のトンネル)」の転訛(「マノ」の語尾のO音が脱落して「マン」と、「ポウ」の語尾のU音が脱落して「ポ」から「ボ」となった)と解します。 →さらにまんばになったのでは?

くわしくは
http://sakezo.web.fc2.com/jomon6.html

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大薮(おおやぶ)古墳群 (養父市大薮)


画像:養父市

兵庫県養父市大薮

兵庫県養父市養父地域の円山川右岸道路に隣接した南斜面の丘陵地に大薮古墳群があります。兵庫県を代表する、古墳時代後期のに造られた古墳群です。地形は大薮集落を中心として両側に弓形に広がっています。北に山を背負い、南前方には円山川が流れています。そして川の向こうには養父神社をみることができます。兵庫県を代表する、古墳時代後期に造られた古墳群です。

大薮古墳群の大型古墳は、東からコウモリ塚古墳・塚山古墳・禁裡塚古墳・西の岡古墳など4基の古墳が作られています。また横穴式石室をもつ中・小規模の古墳群として、東から小山支群・野塚支群・穴ヶ谷古墳群などがあります。道林古墳群は石棺や木棺を埋葬施設とする5世紀後半から6世紀前半の古墳群。これらの古墳をすべてあわせたものが大薮古墳群で、約150基の古墳群が造営されています。北近畿でも最大規模の石室墳として注目されており、考古学や歴史ファンの間では「但馬の飛鳥が大薮だ」とも言われています。

大薮古墳群では6世紀から7世紀にかけて禁裡塚古墳を契機として、塚山古墳・西の岡古墳・コウモリ塚古墳といった順番で但馬最大の大型古墳が次々と作られました。しかし5世紀に朝来市和田山町で但馬最大の古墳である池田古墳や茶スリ山古墳を作った地域には、大薮古墳群クラスの横穴式石室を持つ古墳はありません。こうした事から、6世紀になって朝来市和田山町から養父市養父地域に但馬最大の政治権力の中心地が移ったと主張する学説があります。

大薮古墳群は、はたしてだれが作ったのか。簡単には説明ができません。禁裡塚古墳などの大型石室は、奈良県の飛鳥地域にあっても並々ならぬ規模を誇る大型の石室です。但馬らしい田園空間に今も良好な状態で残る大薮古墳群は、名実ともに兵庫県を代表する古墳群だ大薮古墳群クラスの古墳はなく、こうした事から6世紀になって朝来市和田山町から養父市養父地域に但馬最大の政治権力の中心地が移ったと主張する学説があります。

養父市ページより

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古代山陰道と但馬・丹波

古代山陰道と但馬・丹波


図:国土交通省近畿地方整備局 近畿幹線道路調査事務所

律令制の時代、わが国は五畿七道(ごきしちどう)という地域区分をもち、現在の近畿地方を中心とした国づくりが行われていました。

ここでいう「道」とは、中国で用いられていた行政区分「道」に倣った物であり、朝廷の支配が及ぶ全国を、都(平城京・平安京)周辺を畿内、それ以外の地域をそれぞれ七道に区分していました。

五畿七道には、律令で定められた国(令制国)があり、それぞれの国府は、七道と同じ名前の幹線道路で結ばれていました。幹線道路は大路、中路、小路に区分され、大路は都と大宰府を結ぶ路線、中路は東海道・東山道の本線、小路はそれ以外の道路とされています。

この時代の記録を残す物の一つとして知られているのが、平安時代中期に編纂されほぼ完全な形で伝わっている「延喜式」(えんぎしき:律令の施行細則的位置づけ)で、細かな事柄まで規定され、古代史の研究で重要な文献となっています。そして「延喜式」は、幹線道路の沿道に置かれ、使者に馬や食事、宿泊などを提供した「駅家(うまや)」の一覧が載っている最古の記録なのです。

■古代山陰道の国と駅

延喜式によれば、山陰道のルートは畿内の山城国(現在の京都府南?部)から丹波国、但馬国、丹後国、伯耆国、因幡国、出雲国、石見国、隠岐国を通るとされます。現代の道との比較をしてみると、古代の山陰道は、おおよそ国道372号線、国道176号線、国道483号線、国道9号線などのルートを通ったものと考えられています。 古代山陰道の駅は、当然のことながら実在したものではありますが、それが実際にどこにあったのかということについては、地名などをもとに、比定地について研究が進められており、駅によって、諸説がほぼ一致しているものもあれば、説が分かれている場合もありますが、おおよその地域については研究の結果明らかになってきています。

【延喜式による古代山陰道の国と駅】

駅名
丹波国大枝野口小野長柄星角佐治日出花浪
丹後国勾金但馬国粟鹿郡部養耆山前面治射添春野因幡国山崎佐尉敷見柏尾伯耆国笏賀松原清水奈和相見出雲国野城黒田宍道狭結多杖千酌石見国波弥託農樟道江東江西伊甘

吉川弘文書刊「完全踏査 古代の道」(木下良監修/武部健一著)を参考に作成

これらのことからもわかるように、古代の道は江戸時代の道とは違い、未だ解明されていない部分も多いとされますが、一方でその研究結果から、古代の道は直線的道路が多く、かつ道幅も広くとられていたと考えられており、非常に計画的に整備された交通路であったといわれています。

■古代の山陰道と近畿豊岡自動車道との関係

古代の山陰道は平成18年7月に供用を開始した近畿豊岡自動車道の一部である春日和田山道路のルートと一致する部分も多く、この道路のパーキングエリアとなっている、山東、青垣などは古代山陰道の駅の比定地などとほぼ一致しているなど、高規格道路と古代道路との連関性は、全国的にも事例が多いとされています。

古代の遺物という観点では、古墳や遺跡などわかりやすい形でみることのできるものがある一方で、実は今私たちの目の前に当たり前のように存在する「みち」は他の古代の遺物と同じように歴史や文化の宝庫でありながら、今もなお長い歴史の現在進行形の中で私たちが利用しその恩恵を受けている地域社会の生きた古代遺産ということを実感します。

 

「みち」がまちをつくり、そして「みち」や「まち」の出来事の蓄積が地域の歴史や文化をつくってきました。現代においても、北近畿豊岡自動車道が春日・和田山間に供用されたことで京阪神からの丹波・但馬地域への観光客も増加しており、新たな「みち」による北近畿文化圏の新たな1ページが開かれるのかも知れません。
古代山陰道の時代の丹波国とは、現在の京都府の亀岡市・園部町、兵庫県篠山市・丹波市にわたるエリアということができます。古代山陰道は京都の羅城門から始まり、この丹波を入り口に本路は但馬へ、支路は丹後を通り再び但馬で本路に合流し、日本海岸にむけて道がつづきます。延喜式による山陰道本路における丹波国の駅は「大枝」「野口」「小野」「長柄」「星角」「佐治」の6つが示されており、その比定地等について見ていきます。

■古代山陰道:丹波国の駅家

畿内の山城国から老の坂峠を越えて丹波国に入り、出発点の羅城門から約13.4キロの距離に最初の駅「大枝駅」(おおえ)があります。現在の京都府亀岡市篠町王子あたりと考えられています。同名の地名が京都府西京区にも残っていることから、もともとは(奈良時代には)山城国にあった駅家が平安時代に丹波国に移されたものと考えられています。

山陰道本路は、亀岡市の東西道路から先は、大筋では近世の篠山街道あるいはそれを踏襲する国道372号のルートに乗るものになりますが、より直線的な篠山街道のルートが近いと考えられています。また、丹波国府を経由するルートが本来の山陰道であるという考え方もあります。

そのルートの先にあるその次の駅家が「野口駅」(のぐち)です。現在の京都府園部町南大谷あたりに存在したと考えられています。十世紀に成立した百科事典「和名抄」に船井郡野口郷の記述があり、現在の薗部町南大谷に旧字名の野口があることから、比定地として有力視されているのです。ここには、地元の郷土史家の方々が立てられた「野口駅跡」の石碑が存在しています。

ここから「天引峠」といわれる峠を越えると同じ丹波でありながら、京都府から兵庫県に入ります。現在の篠山街道(デカンショ街道ともいわれています)に沿って、丹波第3番目の駅「小野駅」(おの)があります。これは現在の兵庫県篠山市小野奥谷あたりと考えられています。近隣には、「史跡延喜式小野駅跡」と記された碑と祠、その横に篠山市による板が立てられています。

「小野駅」から篠山街道を進み、次の駅「長柄駅」(ながら)に向かいます。「長柄駅」の比定地については諸説ありますが、西濱谷遺跡などの発掘などから、篠山市西濱谷にあった可能性が高いとされています。小野駅から篠山市街地の北側の山麓沿いを通ってきたと考えられ、小野駅からは12キロ程度となります。「長柄駅」から先の古代山陰道は本路と支路に分かれます。本路は現在の丹波市を通って但馬地方へ抜ける道であり、支路は篠山から丹後地方に向かい、但馬の出石地方を通って香美町村岡区で本路と合流します。

延喜式山陰道の本路は、「長柄駅」から国道176号線を北に向かいます。直線的な道路が多くなり、古代の道の面影を感じさせる風景がつづきます。

「長柄駅」の比定地から約16.4キロ、丹波市氷上町石生のあたりが「星角駅」(ほしずみ)の比定地とされています。このあたりは旧道の国道 175号線と国道176号線が合流する地点で、標高100メートル未満の太平洋と日本海の分水嶺としても有名で、「水分れ」と呼ばれる地区です。このあたりから延喜式山陰道は、昨年供用が開始された国道483号線(北近畿豊岡自動車道)と平行して走るようになり、駅家もインターチェンジの場所とほぼ同じ配置となってきます。ちなみに星角駅は北近畿豊岡道氷上ICの近くになります。

丹波地区最後の駅は「佐治駅」(さじ)です。北近畿豊岡道の青垣ICの近くであり、丹波市青垣町佐治という地名から比定地には問題がないとされています。北近畿豊岡道の「遠阪トンネル」を抜けると、もうそこは兵庫県朝来市にはいり、「丹波国」から「但馬国」に入ることとなります。

■古代山陰道における丹後・但馬路の分岐について

山陰道丹後支路最初の駅は「日出駅」(ひづ)駅です。その比定地は兵庫県丹波市市島町上竹田段宿とされ、由良川支流の竹田川右岸を北上し、市島町に入ってからは左岸に移って比定地に達します。現在は国道175号線が近くを通っています。

その次は福知山市にあると考えられる「花浪駅」(はななみ)です。日出駅から由良川筋を避け、西回りでいくルートと考えられます。福知山市中心部から西の西明寺・今安付近を通過して府道109号線を北上し、福知山市野花から府道528号線を沿って北上すると「花浪駅」にいたります。具体的な比定地としては京都府福知山市瘤ノ木周辺とされています。

この周辺には「花浪駅跡」とされた地元が建立した石碑もあり、和泉式部の歌にも「はななみ」の言葉が用いられたものがあります。ここから小さな峠を越え、国道426号を通り、丹後支路は丹後国に入ります。 国道426号を加悦町を経て、野田川町に達すると、ここが丹後国唯一の駅家「勾金駅」(まがりかね)の比定地となります。支路と丹後国府への道がクロスするポイントに置かれたと考えられています。この駅家から丹後国府へは10キロ程度で、国府は宮津市中野府中あたりとされ、宮津湾が天の橋立にふさがれた風光明媚な阿蘇海に面しています。 再び「勾金駅」に戻り、支路を進むことにしましょう。府道2号線宮津八鹿線を西に進み、岩屋峠を越えるとそこは但馬国です。ここに山前駅を置く説もありますが、山前駅については諸説あって分からないことが多いので、今回の特集ではふれないこととします。

さらに西に進み、豊岡市出石町中心部まで支路は峠を越えながら直線的に進むと考えられています。出石市街からは、国道482号線を通り、豊岡市日高町に向かいます。豊岡市日高町には但馬国府があったとされ、この周辺の弥布ヶ森遺跡がそれではないかと有力視されています。正倉院文書の中に「高田」駅家という記述があり、延喜式以前、このあたりに「高田」という駅家があったと考えられています。延喜式の時代には、但馬国府がその代替施設として役割を果たした可能性があります。)

丹後・但馬路の最後の駅家は「春野駅」(かすがの)1です。この駅の比定地については諸説あり、特定は難しいとされています。ある説では、国道 482号線の蘇部トンネルを抜けて、香美町村岡に通じるルートにその駅家があったのではないかと考えられています。古代道路のルートを新しい自動車道やバイパスが通る例がよく見られることなどを考えると、可能性のある説とはいえ、近くの道の駅「神鍋高原」があるあたりが好適地とも思われます。 ここをまっすぐ進み、古代山陰道の支路である丹後・但馬路は香美町村岡区で本路と再び合流すると考えられます。

(丹後と但馬を結ぶ支路で山前はどこなのか。射添と春野間は蘇武岳越えという難所ではありますが直線距離が近すぎるので、山前は勾金と春野の間であれば高田あたりであれば勾と春野の中間、出石神社あたりではないか。)

この支路は丹後国府へ行くだけでなく、それから但馬国府を経て山陰道本路へ戻ります。分岐点の考え方にはいくつかあり、比較される路線は、「佐仲峠越え」「瓶割り峠越え」「水分れ街道」の3つが考えられています。 「佐仲峠越え」は「長柄駅」より本路を進み、現在の舞鶴若狭自動車道とクロスするポイントから分かれるルートで、佐仲峠を越えて、丹波市春日町国領に出る道です。

「瓶割り峠越え」のルートは、鐘ヶ坂峠の手前で分岐し、北上して瓶割峠を越え、「佐仲峠越え」と同じく丹波市春日町国領に出ます。福知山市史などはこのルートを採用しています。

「水分れ街道」のルートは丹波国の駅家「星角」から、現在の国道175号線やJR福知山線に沿って進む黒井川沿いのルートです。 それぞれのルートの違いは「佐仲峠越え」がもっとも標高が高いところを通り丹後・但馬路の最初の駅に最も近く、「水分れ街道」は峠を越えない平坦な道路であるが最初の駅までは最も遠くなっています。古代道路は最短のルートをとる場合が多いこと、江戸時代の道しるべも「佐仲峠越え」のルートを丹後への道としていること、高速道路に沿ったみちであることなどを考えると「瓶割り峠越え」のルートの蓋然性が高いと考えられます。

丹波市春日町国領から北上すると舞鶴若狭自動車道の春日ICに到達しますが、この付近に位置する七日市遺跡で南北方向に走る幅約11mの道路遺構が見つかり、位置や方位、幅員などから山陰道丹後支路の可能性が高いとされています。この遺跡では、多数の建物や、木製品・硯・石帯、および「春マ郷長」「大家」「門殿」などと記された墨書土器が出土し、木簡・墨書土器が多数出土した付近の山垣遺跡とともに、この地域を治めた役所の跡と考えられています。

■古代山陰道:但馬国の駅家

但馬国は現在の兵庫県但馬地方とほぼ同じ地域をさします。第2回の中で、とりあげた丹波市青垣町から北近畿豊岡道にある全長4キロ近くある遠坂トンネルを抜けると兵庫県朝来市、但馬地域の入り口となります。

延喜式による山陰道本路における但馬国の駅は「粟鹿」「郡部」「養耆」「射添」「面治」とつづき、その後但馬国から因幡国に入ります。

但馬国の一番最初の駅は、「粟鹿駅」(あわが)です。北近畿豊岡道に沿って進み、次のIC(山東)の近くと考えられています。遺跡地名の粟鹿がありますが、近くの朝来市山東町柴で「駅子」と書かれた木簡が出土し、このあたりが駅家の場所ではなかったかと考えられています。(柴遺跡として知られています。)この近くにある粟鹿神社は延喜式時代のものといわれ、古代の情緒を残した神社として知られています。

ここからのルートは学説がいくつかに分れます。一つは近世山陰道や国道9号の道筋である円山川沿いを進むルート、今ひとつは朝来市和田山町牧田から峠越しに同市同町岡、岡から養父市畑を経て広谷あたりに出たと考えるルートです。古代道路の多くはその経路として、氾濫などの多い河谷沿いを避ける傾向があり、円山川がたびたび氾濫を繰り返したことから後者の川沿いを避けたルートという考え方に基づいて話をすすめていきます。

次の「郡部駅」(こうりべ)は円山川沿いを避けたルートとすると、養父市広谷または岡田辺りがその比定地と考えられます。ただし、このあたりには明確な遺跡等が確認されていません。現在北近畿豊岡自動車の和田山八鹿間の工事が行われ、養父ICの設置が予定されている近くであり、古代山陰道と北近畿豊岡自動車道との関係性をここでも見ることができます。また、丹波の星角駅よりつかずはなれずつづいてきた古代山陰道と北近畿豊岡道の関係はここでおわり、ここから駅路は国道9号に沿って進むことになります。

次の駅は「養耆駅」(やぎ)です。この駅についてはいくつかの説がありますが、養父市八鹿町八木に遺称地名があり、この近くにある中世八木城遺跡の発掘調査で、奈良時代の須恵器や役人の存在を物語る石帯が出土しており、この地を有力な比定地とする考え方が主流といえます。なお、延喜式では「養耆駅」の次に「山前」(やまさき)とよばれる駅が記されていますが、この山前駅は丹後-但馬間の支路に位置する駅である可能性が高いので、今回は本路の駅としてとりあげることは避けることとします。

さて、国道9号をさらに北上すると、途中の香美町村岡区村岡で、丹後・但馬を通った支路と合流し、さらに進むと次の駅「射添駅」(いそう)にいたります。遺跡などは見受けられませんが、香美町村岡区和田のあたりと比定され、湯船川と矢田川の合流地点付近とされています。

但馬最後の駅家は「面治駅」(めじ)です。新温泉町出合付近に比定されており、近くに「面沼神社」があり、「米持」(めじ)の小字名もあることから、この付近を比定地することに大きな異論はないところです。この周辺は湯村温泉の温泉街のすぐ近くです。

三丹地域の古代山陰道の特徴の一つとして、丹波・丹後・但馬をトライアングル状につなぐ支路の存在があります。この支路が本路のどのあたりから出たかということについては、いくつかの説があります。いずれにしても丹波のある地点から分岐し、丹後をとおり、その後但馬国府を通って、但馬の美香町村岡区付近で本路に合流する経路です。 延喜式によれば、この経路における駅は、「日出」「花浪」「勾金」「山前」「春野」とつづき、本路に合流します。

参考:国土交通省近畿地方整備局 近畿幹線道路調査事務所 「みちまち歴史・文化探訪」

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楽々前(ささのくま)城と宵田城の落城

楽々前(ささのくま)城と宵田城の落城

天正八年(1580)、羽柴秀吉の但馬侵攻に際して、ときの城主垣屋峰信は織田勢に抗戦、敗れて討死したという。その後、秀吉政権下の有子山城主の支配化におかれ、 現在みられる縄張りはそのおりに改修されたものと考えられている。

宵田村には市が開かれ、気多郡の集積地として栄えました。「宵田表の戦い」で羽柴軍により降参し、豊臣方へつきます。

「郷土の城ものがたり-但馬編」では、このような話が書かれてあります。

宵田城主垣屋隠岐守峯信は、天正八年(1580)、羽柴秀吉が但馬征伐に向かってきてからは恐れおののき、心安らぐ日はありませんでした。

ある日、魚売りが江原村を行商していました。そのころは商人が津居山港から歩いたのではなく、円山川を上下して船で行き来しました。商人は売り声を張り上げて歩いていました。その日は、カキ・どこう・このしろの三種類であったので「かきや・このしろ・どこう」とふれました。

秀吉が今日攻めてくるか、明日攻めてくるかと、びくびくしている時ですから、この売り声が「垣屋この城どこう(退陣せい)」と聞こえてしまいました。そこで、これは秀吉の征伐の前触れと、てっきり思いこんでしまい、一族を引き連れて楽々前城へ逃げました。

佐田から宵田までに道場の風穴といわれるところがあり、道場の人々は、夏ここを冷蔵庫の代用に使ったといわれています。ところが、昭和30年12月、宵田城近くに岩中発電所工事が進められ、昭和31年12月に完成、道場から水を取り、山の中を水道トンネルにしました。この工事中、城の抜け穴と思われる穴を埋めたところ、この風穴は冷たい風がぴたりと止まったそうです。城の抜け穴を通ってきた冷風だったのではないでしょうか。考古的な価値がさけばれなかった頃ですので、今となっては悔やまれます。


宵田城 南方向から 下は国道312号城山トンネル

その年の五月、征伐に来た秀吉軍のうち、斉藤石見守近幸、小田垣土佐守らが大軍を率いて宵田城を攻めた時には、城中は音なしの構えどころか、一人残らず楽々前城へ退き、もぬけの殻であったといわれています。そこで秀吉の命により、宮部善祥房の家来の伊藤与左右衛門父子を城代として守らせました。
楽々前城では、父子家臣ともども籠城しましたが、ついに二百二十年続いた垣屋氏は城とともに滅んでしまいました。

しかし、天正八年(1580)、第二次但馬征伐で秀吉の弟秀長と宮部善祥房が但馬に軍を進めたとき、はじめて秀吉軍と敵対しましたが、宵田表の戦いなどのあと秀吉軍に従いました。そして、「但州・因州境目」の重要拠点岩経城主に起用され、因幡鳥取城攻撃には主力部隊として活躍しています。

垣屋氏と関ヶ原の戦い

垣屋光成の子が恒総で、父と同じく秀吉に仕えました。恒総は天正十五年(1587)の九州征伐、同十八年の小田原征伐、さらに文禄の役(朝鮮出兵)にも出陣し、一万石を与えられ、因幡桐山城の城主となりました。関ヶ原の合戦で垣屋隠岐守恒総は、因幡国若桜の木下備中守と一緒に大阪に着陣し、西軍に属します。諸将と共に伏見城、大津城を攻め、やがて関ヶ原へ向かわんとしていましたが、既に戦が始まり、どうやら西軍の旗色が好くないとの情報が伝わります。垣屋としては為すすべもなく、高野山に逃れて日頃師檀の関係を結んでいた僧侶の許に身を寄せました。
やがて天下の赦免があろうかと心待ちにしていたのですが、徳川軍の検使が来て自害すべしとの命を伝えたので自刃しました。こうして垣屋は、関東から但馬にやってきて、二百年の年月を積み重ね、但馬を追われて因幡に新住の地を得たものの、それは二十年しか保てませんでした。留守の桐山城では城主を失い、鳥取城同様にこの城も攻められるのかと勘違いして、家中の者が隠岐守恒総の内室や子供を引き連れて、但馬の故地気多郡西気谷を目指したといいます。

また幸いにも垣屋駿河守家系統である垣屋豊実が東軍についていたため、江戸時代に至って竹野轟(とどろき)城主垣屋家(駿河守)の家系は、徳川重臣 脇坂氏の家老になります。駿河守系の系図は「龍野垣屋系図」といわれ、本姓源氏で山名氏の支流としています。このように垣屋は生き残っているのであり、滅亡したと記述している諸所の文献は間違いであるといわざるを得ないのです。現実に子孫の方は多く但馬におられます。

関ヶ原の戦いの頃、日本の人口は、500万人の状態が続いていました。農耕の開始に次ぐ人口革命の時期であり、戦国大名の規模の大きな領内開発、小農民の自立に伴う「皆婚社会」化による出生率の上昇などが主たる要因と考えられ、約3倍に膨れあがり1200万人を超えます。

「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会